コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

寧海 (巡洋艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
五百島から転送)
寧海
艦歴
発注:
起工: 1931年2月20日
進水: 1931年10月10日
就役: 1932年7月31日
その後: 1944年9月19日戦没
除籍: 1944年11月10日(日本海軍)
性能諸元
排水量: 基準:2,526t
全長: 106.7m
全幅: 11.95m
吃水: 4.0m
機関: 9,500hp
三軸三段膨張式レシプロ機関3基
艦本式4罐
最大速: 22.0kt
航続距離: 12ktで5,000浬
燃料:
乗員数: 361名
兵装: 50口径14cm連装砲3基
40口径7.62cm単装高角砲6基
ヴィッカーズ式40mm機銃8丁
マキシム8mm機銃10丁
53.3cm水上魚雷発射管連装2基
航空機×1

寧海(ニンハイ、NING HAI)は[1]中華民国海軍寧海級巡洋艦の1番艦[2]日本播磨造船で建造された[3]。1937年(昭和12年)9月下旬、日中戦争で日本海軍航空隊の空襲を受け、揚子江で擱坐(江陰海戦[4]。後に日本海軍に捕獲される[5]。日本に曳航されて修理され、海防艦五百島(いほしま/いおしま)となった[6]軍艦二等巡洋艦)に類別変更される直前、アメリカ潜水艦の雷撃で沈没した[7]

艦歴

[編集]

寧海

[編集]

第一次世界大戦後の海軍休日時代中華民国海軍が保有していた軍艦は旧式艦ばかりだった[8]蒋介石総統は海軍の近代化を企図し、大日本帝国に小型巡洋艦(寧海級巡洋艦)を発注する[8]。寧海は神戸播磨造船所相生工場で1931年(昭和6年)2月20日、起工[3]満州事変が勃発して日中関係が悪化する中、同年10月10日に進水[3]。1932年(昭和7年)1月から3月にかけて第一次上海事変が生起したが、建造は続行された。7月31日、竣工[3]中華民国への引き渡しが危ぶまれたが同年9月1日に中国軍に編入され、第一艦隊を編成した。

進水式の「寧海」。

1934年(昭和9年)6月5日に練習艦隊(司令・王壽廷少将)に編入された。前月30日に日本海軍の東郷平八郎元帥が死去し[9]6月5日国葬がおこなわれる[10]。列強各国はアジア方面に配置していた巡洋艦と、艦隊司令官(司令長官)を日本に派遣することにした[11]イギリスは重巡サフォーク (HMS Suffolk, 55) 、アメリカ合衆国は重巡オーガスタ (USS Augusta, CA-31) 、フランスは軽巡プリモゲ (Primauguet) 、イタリア王国は巡洋艦クアルト (Esploratore Quarto) 、オランダは軽巡ジャワ (Hr. Ms. Java) を派遣する[12]。中華民国が派遣したのが寧海だった[13]。だが5日東京湾で実施予定の式典に間に合わないことが判明し、6月3日夜に下関寄港、儀仗隊から列車で東京に向かわせて弔意を示した[3]。寧海の横浜港到着は6月6日となった[11]

日中戦争中の1937年(昭和12年)9月20日支那方面艦隊司令長官長谷川清中将は、揚子江に停泊し南京攻略戦において脅威となっていた中国海軍巡洋艦2隻(寧海、平海)および所在艦艇に対する航空攻撃を下令する(江陰海戦[14]。9月21日の攻撃予定は悪天候のため取止め[15]9月22日(第一次攻撃、第二次攻撃、第三次攻撃)と9月23日(第四次攻撃、第五次攻撃、第六次攻撃)、空母加賀第二航空戦隊)航空隊および基地航空隊の九二式艦上攻撃機九五式艦上戦闘機九四式艦上爆撃機九六式艦上爆撃機による波状攻撃を実施する[16]鎮江上流の揚子江沿岸所在の艦艇群(平海、寧海、應瑞逸仙など)は戦闘能力を喪失[17]。「寧海」は60kg爆弾4発、水中有効弾5発を受け炎上、擱座した[18]

同年12月4日、第24駆逐隊(海風山風江風涼風)等と共に南京を目指して揚子江を遡上中の砲艦保津(艦長上田光治中佐)は、内火艇を派遣して擱座した「寧海」を調査、捕獲を宣言した[5]。この時、付近の中華民国軍は陸上陣地から機銃射撃を行い、保津乗組員に負傷者が出た[19]。「保津」は封鎖線を突破して「寧海」に接近、保津乗組員を収容して錨地に戻った[19]

1938年、播磨造船所により浮揚される[20]。4月下旬に作業が開始されたが、艦内に堆積していた泥のため浮揚に失敗したので、それを除去して5月下旬に浮揚に成功[20]。機関整備の後、相生へ回航され、6月10日に相生湾に到着した[20]7月11日に御蔵と仮称した。寧海は相生で待機する[3]

五百島

[編集]

太平洋戦争突入後、1943年(昭和18年)より対空護衛艦兼航空基地移動設営艦(輸送艦)に改造されることになり、寧海は播磨造船所で、平海は呉海軍工廠で工事を実施した[21]1944年(昭和19年)同年6月1日[6]、「寧海」は「五百島(いほしま)」と改名される[注釈 1]日本海軍に編入され、海防艦に類別された[22]。「五百島」は呉鎮守府[23]。 小笠原諸島方面への輸送任務(海上護衛任務)に従事していたが、9月19日御前崎南方でアメリカの潜水艦シャード (USS Shad, SS-235) の雷撃により沈没した。9月25日には二等巡洋艦に種別、類別変更の予定であった[注釈 2]

同年11月10日、「五百島」は役務を解かれ[注釈 3]、除籍された[注釈 4][注釈 5]

歴代艦長

[編集]
  • 艤装員長
    • 福地秋二 少佐:1944年6月1日[28][29] - 1944年6月28日[30]
  • 海防艦長
    • 福地秋二 少佐:1944年6月28日[30] - 1944年9月19日 戦死認定、同日付 任海軍中佐[31]

同型艦

[編集]

出典

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 佐世保で保管されていた姉妹艦「平海」は[3]海防艦「八十島(やそしま)」と改名された[6]
  2. ^ 八十島(平海)のみ軍艦籍となり、巡洋艦に類別変更された[24]
  3. ^ (昭和19年11月10日)[25]〔 内令第一二五三號 横須賀鎮守府練習兼豫備艦 軍艦 迅鯨
  4. ^ (昭和19年11月10日)[26]〔 内令第一二四七號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス|昭和十九年十一月十日 海軍大臣|軍艦、航空母艦大鷹型ノ項中「雲鷹、」ヲ、同水上機母艦ノ項中「、秋津洲」ヲ、同潜水母艦ノ項中「迅鯨、」ヲ、敷設艦ノ項中「、八重山」「、蒼鷹」ヲ削ル 驅逐艦、一等卯月型ノ項中「、皐月」ヲ削ル 海防艦、占守型ノ項中「、平戸」ヲ、同第二號型ノ項中「、第十號」ヲ、同「五百島」ヲ削ル 輸送艦、一等第一號型ノ項中「第三號、第四號、第五號、」ヲ、同二等第百一號型ノ項中「、第百二十七號」「、第百三十四號」ヲ削ル 驅潜艇、第一號型ノ項中「、第十號」ヲ、同第十四號型ノ項中「、第三十二號」「、第五十五號」ヲ削ル 〕
  5. ^ (昭和19年11月10日)[27]〔 内令第一二五四號 横須賀鎭守府在籍 軍艦 秋津洲 軍艦迅鯨/呉鎭守府在籍 軍艦 雲鷹/佐世保鎭守府在籍 軍艦 八重山/舞鶴鎭守府在籍 軍艦 蒼鷹 右帝國軍艦籍ヨリ除カル/佐世保鎭守府在籍 驅逐艦 皐月 右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル/横須賀鎭守府在籍 海防艦 平戸 呉鎭守府在籍 海防艦 五百島 佐世保鎭守府在籍 第十號海防艦 右帝國海防艦籍ヨリ除カル/呉鎭守府在籍 第三號輸送艦 第四號輸送艦 第五號輸送艦/佐世保鎭守府在籍 第百二十七號輸送艦 第百三十四號輸送艦 右帝國輸送艦籍ヨリ除カル/横須賀鎭守府在籍 第三十二號驅潜艇 呉鎭守府在籍 第五十五號驅潜艇 舞鶴鎭守府在籍 第十號驅潜艇 右帝國驅潜艇籍ヨリ除カル/呉鎭守府在籍 特務艦 勝力 右帝國特務艦籍ヨリ除カル 昭和十九年十一月十日 海軍大臣 〕

脚注

[編集]
  1. ^ 世界海軍大写真帖 1935, p. 61支那/巡洋艦ニン・ハイ(一九三一年進水)排水量二五〇〇噸、速力二二節四分一。
  2. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 184a-187中華民国巡洋艦"寧海級"
  3. ^ a b c d e f g 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 186.
  4. ^ 戦史叢書72 1974, p. 408a(爆撃を受け擱坐した中國巡洋艦寧海)
  5. ^ a b 戦史叢書72 1974, p. 459a「寧海」の捕獲
  6. ^ a b c #S19達6月 p.1〔 昭和十九年六月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 海防艦 五百島(イホシマ)(舊艦名寧海) 海防艦 八十島(ヤソシマ)(舊艦名平海) 〕
  7. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 179–181多種類におよぶ巡洋艦
  8. ^ a b 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 184b.
  9. ^ 東郷元帥読本 1938, p. 162附録、東郷元帥年表
  10. ^ 東郷元帥読本 1938, pp. 147–152(原本273-275頁)荘嚴なる國葬儀
  11. ^ a b 第2576号 9.6.2 外国海軍指揮官接待に関する件」 アジア歴史資料センター Ref.C05023436600 
  12. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 185.
  13. ^ #弔意一覧表 p.18、#東郷元帥薨去弔意 p.13〔 七、各國弔意表明振 (イ)軍艦特使 〕
  14. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 407–408長谷川長官、江陰方面中國艦艇攻撃下令
  15. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 408b-409攻撃経過
  16. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 408c-409.
  17. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 409a-410攻撃成果並に所見
  18. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 409b-410.
  19. ^ a b 戦史叢書72 1974, p. 459b.
  20. ^ a b c 『播磨50年史』132ページ
  21. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, p. 187.
  22. ^ #内令昭和19年5月(3) p.2〔 内令第七百二十號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年六月一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 海防艦、第二號型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ| |五百島、八十島| 〕
  23. ^ #内令昭和19年6月 p.41〔 内令七九六號 海防艦 五百島 右本籍ヲ呉鎮守府ト定メラル|呉鎮守府在籍 海防艦 五百島 右警備海防艦ト定メラル 昭和十九年六月二十八日 海軍大臣 〕
  24. ^ 昭和19年9月29日(金)海軍公報第4812号 p.9」 アジア歴史資料センター Ref.C12070496900 〔 内令第一一〇九號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十九年九月二十五日 海軍大臣 軍艦、巡洋艦二等大淀型ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ| |八十島| 海防艦ノ部中「、八十島」ヲ削ル 〕
  25. ^ #内令(秘)昭和19年11月(2) p.27
  26. ^ #内令(秘)昭和19年11月(2) pp.21-22
  27. ^ #内令(秘)昭和19年11月(2) pp.27-28
  28. ^ 昭和19年6月1日付 海軍辞令公報(部内限)第1499号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099400 
  29. ^ 昭和19年6月8日付 海軍辞令公報(部内限)第1509号「訂正記事」」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099500 
  30. ^ a b 昭和19年7月5日付 海軍辞令公報 甲(部内限)第1526号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072099900 
  31. ^ 昭和20年11月12日付 海軍辞令公報 甲 第1979号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072108200 

参考文献

[編集]
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 播磨造船所50年史編纂室(編)『播磨50年史』播磨造船所、1960年
  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想 第八巻 世界巡洋艦物語』光人社、1994年6月。ISBN 4-7698-0656-6 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(1) 昭和十三年三月まで戦史叢書第72巻、朝雲新聞社、1974年3月。 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『中華民国政府並海軍代表者参列○在京米国大使大統領ノ名代トシテ参列○満洲国吉林省官憲ノ表弔振○北平ニ於ケル表弔振』。Ref.A10110768400。 
    • 『故元帥海軍大将東郷平八郎葬儀書類 二止・昭和九年』。Ref.A10110768800。 
    • 『昭和19年1月〜6月達/6月』。Ref.C12070125000。 
    • 『昭和19年1月〜7月内令/昭和19年5月(3)』。Ref.C12070197600。 
    • 『昭和19年6月内令』。Ref.C12070195400。 
    • 『昭和19年9〜12月秘海軍公報号外/11月(2)』。Ref.C12070497800。 
    • 『公文備考 昭和9年 C 儀制 巻9(防衛省防衛研究所)東郷元帥薨去に対する各国弔意表明一覧表』。Ref.C05023442900。 
    • 『公文備考 昭和9年 C 儀制 巻7(防衛省防衛研究所)東郷元帥薨去に対する各国弔意表明一覧の件』。Ref.C05023437800。 

関連項目

[編集]