利用者:仙人です/sandbox3

本項ではハルビン市の歴史について示す。

古代[編集]

ハルビン市人民政府によると、最低でも約22000年前、旧石器時代後期には人間の活動が見られている[1]。ハルビンの最古の遺跡として、ハルビン西部の郊外で発見された閻家崗遺跡が挙げられる。閻家崗遺跡では1982年から1985年にかけて発掘作業が行われ、人間の頭蓋骨の化石を発見された。この人間の頭蓋骨の化石は「ハルビン人」とされ、「ハルビン人」の他にも同遺跡では31種類の脊椎動物の化石、9つの石器、いくつかの骨器、焼けた骨と破片が発見された[2]

その後約5000年前になると、新石器時代にハルビン市も突入する。そして、約3000年前、王朝末期にはハルビン市は青銅器を使用するようになる[1]

そして、殷末期から西周中期にかけて、黒竜江省に属する地域としては最古となる文明、白金宝文化中国語版に属した[1][3]。西周の資料によるとハルビンの民は、独自の矢や石器を朝貢し西周に服従を示したとされている[2]

漢代には夫余の一部に、代は靺鞨の一部に属した[2]

中世[編集]

契丹)代はハルビンは東京道完顔部として属していたが滅亡すると[2]1115年女真による国家上京会寧府の名でハルビンに首都を置く[1][4]

になると遼阳行省开元路に改名され、明代は奴儿干都司と命名された[2]

近代[編集]

清末期~第二次世界大戦終結まで[編集]

大清帝国統治下では複数回ハルビンは名を変える。清朝初期は「宁古塔将軍轄区」、後に「阿勒楚喀副都統統轄」に、末期になると「民官」となった[2]

19世紀末にはハルビンには僅か数十の村でできており、僅か100の世帯、3万人ほどが在住していた[1]。そのほとんどが漁と狩猟で生計を立てていた旗人であったという。しかし、1881年に黒龍江省牡丹江市穆棱市で金鉱が発見され、ハルビンにも移住者が増加した。そして、これ以降、東清鉄道が起点となり、大きく人口を増やしていくのである[5]

日清戦争後、清は日本と下関条約に調印し、台湾澎湖諸島遼東半島を日本に割譲した。 しかし、これに対し日本に警戒心を抱いたロシア帝国フランス第三共和政ドイツ帝国と共同でこれに介入し、日本に遼東半島を中国に返還するよう強く要求した。 所謂「三国干渉」である。しかし、これは決してロシア帝国が遼東における中国の主権を守るためのものではなかった。帝政ロシアは1891年にチェリャビンスクからウラジオストクまでのシベリア鉄道の建設に着手し、そのルートを短縮するために、満州を支配しようと考えていた。1896年6月3日モスクワロシア帝国の間で「露清密約」が締結される。これによりロシア帝国は中国東北部に鉄道を建設する権利を掌握した。1898年5月、帝政ロシアはハルビンを東慶鉄道のハブおよび管理センターに指定した[2]。それに加え1896年から1903年にかけて、東清鉄道の建設に伴い、ハルビンの人口は増加し、工業・商業は大幅に発展、近代都市となった[1][2]。帝政ロシアの人々が「東洋のモスクワ」と呼ぶほどであった[5]。一方でハルビン内で帝政ロシアは大きな影響力を持つようになる[2]。また、ユダヤ人も2万人以上が移住し、多くの店を開いた[5]

当時、東清鉄道の東側、道外は漢民族が殆どなのに対し、西側の道裏にはロシア人など多くの外国人が居住していた。しかし、少し時間が経つと道外にも多くの外国文化が見られるようになる。1900年、ロシアの実業家チュリンがハルビンの道外区にやってきて、「チュリン外国銀行」という多国籍企業を設立し、デパートを運営し、赤いソーセージやレバ(パン)などのロシア食品をハルビンに持ち込んだ。同じ頃、ロシアの実業家ウルブレフスキーも道外にウルブレフスキー醸造所を設立した。これは中国初のビール醸造所であり、今日のハルビンビールの前身でもある[5]

コレラの当時の施設で最も有名なのは、ユダヤ人であるシモン・カスぺ英語版によって運営されていたモダンホテルであろう。 ダイニング、エンターテイメント、宿泊施設を統合したモダンなホテルで、極東で最も豪華なホテルの1つであった。 ホテルで販売されていた冷たい飲み物「马迭尔冰棍」は100年を経て今ではハルビンの特産品となった[5]

ホテルに加えて、銀行、宝石店、衣料品店、その他の店も道外・道裏の両方に集まっており、中央大街は当時中国で最もファッショナブルな街道であるだけでなく、中国で最も初期の商業歩行者天国をつくりだした[5]

1907年に建てられた聖ソフィア大聖堂は、もともとロシア帝国軍の礼拝堂であったが、ロシアの実業家I.F.チスガコフの招きで、ロシアの建築家コヤシコフによって再設計・改修され、9年の歳月をかけて完成し、1932年に極東最大の正教会として完成した[5]

1911年7月には、東清鉄道局の調査統計によると、当時のハルビンにはロシア人、イギリス人、ドイツ人、日本人、朝鮮人など6万人の外国人がいた[5]

日露戦争が勃発するとロシア帝国は敗戦しポーツマス条約を締結。東清鉄道南満洲支線やその支線が日本に割譲され、南満州鉄道となった。これによりハルビン駅に繋がる支線の大多数は南満州鉄道のものとなった[2]

1907年1月14日(光緒32年)、清政府は「ハルビンを商業用港」として開放することを決定した。1月23日には、吉林省省長は、ハルビン関道の管轄下で浜江庁を組織した。4月18日、初代浜江庁・江防同知傅家店で関防に当たった。その後、1909年から1911年までの間にハルビン市内の双城区阿城区が浜江庁の担当地域に編入された。しかし、中華民国成立後の1913年3月、浜江庁は「浜江県」に改名され、浜江庁の機能は消滅した[2]

1914年4月30日、在ハルビン英国領事スライ、在ハルビン露帝総領事トラウショリット、東清鉄道社臨時代理は、「東清鉄道境界の自治と課税の規約を境界内の英国人に委任することに関する協定」(「英露協定」と呼ばれる)に調印した 。この協定は、ハルビンの東清鉄道租界におけるロシア帝国人の自治権を認め、東清鉄道境界内の英国人駐在員が租界内のロシア人と同じ自治権と免税権を享受することを定めたものであった。一方この内容に対し中華民国政府とその国民は反対した[2]

その後2年間で、アメリカ、フランス、日本、デンマーク、オランダ、イタリアなど10カ国がこの協定に参加し、同じ待遇を享受した。 それ以来、ヨーロッパのほぼすべての国を含む30カ国から10万人以上の駐在員がハルビンに集まった。 また、20カ国がハルビンに領事館を設置し、ハルビンは国際都市の中でも特にツァーリズム主義者の影響が強い都市となった。 前記のような国家はハルビンに数万社の工業、商業、金融などに関する企業を設立し、輸出入貿易に特化した商業会議所を設立した。これらの企業の支店は世界中に広がったため、東京、大阪、ロンドン、パリ、ベルリン、ニューヨークなどの世界の主要都市と直接接触して、国際複合一貫輸送の切符を買うことができる利点ができた。これにより、ハルビンは中国東北部の最大の商品市場と材料の流通場所になった[2]

1917年10月、ロシア帝国でボリシェヴィキ主導のもと十月革命が勃発。これにより不満を募らせた政治家、落ちぶれた貴族、家を失った人々はハルビンに逃亡した。統計によると、1922年には15万5000人のロシア人駐在員がハルビンに入国し、ハルビンの人口は約35万人に急増したという[5]

1919年3月、イギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの国々が中国政府による東清鉄道の経営権を剥奪し、東清鉄道にいわゆる「国際監督」を課した(連合国鉄道管理委員会)。 1920年以降、中国政府は徐々に東清鉄道の経営権を取り戻し、1924年には中国とソ連が正式に契約を結び、「共同経営」することを決定し(北京協定)、以後、この鉄道は「中華民国東省鉄道」、略して「中東鉄道」と命名された[2]

この間、中華民国北洋政府は相次いで「東省特別区市政管理局和行政長官公署」を設置し、1926年3月30日、白軍の残党が占拠していた市議会と理事会、別の市自治委員会グループの解散を命じ、ハルビン特別市を設立した。 この時点で、28年間続いた帝政ロシアとツァーリズム主義者が大きな影響力を持っていた時代は終了し、中華民国にハルビンの行政権が戻って来たのであった[2]

1921年の中国共産党創立直後、初期の革命活動家であった馬俊はハルビンに派遣され、革命思想を宣伝し、党支部設立の準備をさせた。1923年、中国共産党中央委員会陳為仁をハルビンに派遣し、陳を主任とする東北部初の党組織、中国共産党ハルビン独立組を設立させ、1924年6月、陳を主任とする中国共産党ハルビン支部が設立され、1925年、中国共産党北方局は呉麗石を書記に派遣し、1927年10月、ハルビンで東北部初の党大会が開催され、満州共産党が設立された。1927年10月、ハルビンで東北部第一回党大会が開催され、陳為仁を書記とする中国共産党満州委員会臨時委員会が設立され、その直後、陳為仁は奉天(現在の瀋陽)に赴いた。1929年、6月に「中東路事件」が発生すると、中国共産党満州委員会書記の劉少奇陳潭秋が相次いでハルビンに来て、労働者運動の指導を強化した。 1930年の国際労働節には、中共満州委員会執行委員の林仲丹(張浩)がハルビンに来て、大規模な集会と行進を組織し、1931年までに、ハルビンの人口は33万人以上に増加した[2]

1932年柳条湖事件により満洲事変が勃発。これにより満州地域には満洲国が建国され、ハルビンも満洲国の一都市となった。しかし、1945年、ソ連対日参戦により満洲国がソビエト連邦に攻められると、ハルビンは大日本帝国による実質的支配から解放された[1]

第二次世界大戦終結後[編集]

1946年4月28日、ハルビンは東北人民解放軍により占領、その後正式に第二次国共内戦下で漢民族による政治的主権を回復していった[1][5]

1950年2月27日、毛沢東はソ連訪問から帰国し、途中でハルビンを視察し、黒竜江省の産業発展の現状を知った後、ハルビン市党委員会に「生産発展」を指示し、ハルビンを消費都市から近代工業都市に変える計画を明らかにした[5]。そして、朝鮮戦争勃発と中国参戦に伴い軍需産業を発展させるため、ハルビンは第一次五カ年計画により国家重点建設都市に指定された[1][5]。これにより遼寧省の25の重工業企業が北のハルビンに進出した[5]。また、ソ連による中国内156施設への建設支援の内ハルビン内で3施設が建設された[1]。これは、ソ連がハルビンはシベリア鉄道によって交通の便が良く、農業資源や鉱物資源が豊富であったため、目を付けたからと思われている[5]

これらの政策により、1950年から1952年にかけてでいえば国家の都市に対する投資費用の5割以上を投資し、多くの人員を派遣したことにより、徐々にハルビンボイラー工場、東北軽合金加工工場、ハルビン電気機械工場などの設置が行われ、現在のハルビンにも通ずる機械電気産業の基礎が作られた[1][5]。同時に、ハルビン市は政策の奨励の下、ハルビン軍事工程学院、ハルビン工業大学、東北農業学院、東北林業学院、ハルビン医科大学、ハルビン師範大学、黒龍江ビジネススクールなど、十数校の高等教育機関を建設・拡張したことにより継続的にハルビン発展のための人材の育成体制も確立した[5]

これらの工業により、中国国内でもアルミニウムとマグネシウム加工や、電気の供給、航空機の生産などにおいて大きくシェアを伸ばし、外国製品技術の独占状態を打開し、国内産業の発展に関わった。ついに1957年にはハルビン市の社会総生産額は前年比22.84%増の17億2000万元に達し、そのうち工業総生産額は13億2400万元に達し、中国東北部の都市としてはトップレベルの生産率を誇るようになる。同時に、ハルビンの市街地面積は101.2平方キロメートルに増加し、人口は1952年の832,000人から1957年には1,427,000人に増加した。そして、これらの発展もあってか黒竜江省の省都はチチハルから打って変わりハルビンとなった[5]

しかし、1958年から1965年にかけて、ハルビンは大躍進政策とその他経済政策による紆余曲折した発展過程を経験した。 その後、文化大革命によりハルビンの国民経済は深刻な打撃を受け、経済・社会秩序も大きなダメージを受けた[1]

文革後に行われた改革開放後、ハルビンは新しい発展を遂げるようになる。 国の経済社会政策は世界の注目を集める成果を上げ、ハイテクノロジー開発区と経済技術産業開発区を次々と設立、国内初の内陸港を設立しました。 第27回中国・ハルビン経済貿易交易会を開催し、中露博覧会、第33回中国・ハルビン国際氷雪祭、第33回中国・ハルビン夏音楽祭も行われた[1]

現代[編集]

現在ハルビンの経済社会発展は飛躍的に進み、市の総合力は全国トップ10に入り、観光産業は中国の観光都市の競争力でトップ20にランクインし、「中国の幸福都市」で7位、世界の有名な夏のリゾート都市でトップ20にランクされている。 国連から「音楽都市」を授与され、「国家文明都市」、「国家公共交通都市建設模範都市」、「美湿地都市」、「国家二重支援モデル都市」、「トイレ革命優秀都市」、「中国で最も競争力のある地域金融センター都市」、「国家文化システム改革先進都市」などの名誉称号を授与されている[1]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 历史沿革 - 哈尔滨市人民政府”. www.harbin.gov.cn. 2024年5月28日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 关于哈尔滨的历史沿革大致介绍——刘正伟 – 大话哈尔滨”. www.imharbin.com. 2024年5月28日閲覧。
  3. ^ 白金宝遗址” (中国語). 中国华夏文化遗产网. 2016年8月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月19日閲覧。
  4. ^ 梅村坦「第2部 中央ユーラシアのエネルギー」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、pp.415-418
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 哈尔滨:“共和国长子”的冰与火|界面新闻 · JMedia”. www.jiemian.com. 2024年5月29日閲覧。