加藤精三 (政治家)
表示
加藤 精三 かとう せいぞう | |
---|---|
生年月日 | 1900年11月20日 |
出生地 | 山形県西田川郡鶴岡町 |
没年月日 | 1965年5月3日(64歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
前職 | 国家公務員(内務省) |
所属政党 |
(自由党→) 自由民主党(藤山派) |
称号 | 正四位・勲二等瑞宝章 |
親族 |
加藤紘一(五男) 加藤鮎子(孫) |
選挙区 | 旧山形2区 |
当選回数 | 5回 |
在任期間 |
1952年10月1日 - 1960年10月24日 1963年11月21日 - 1965年5月3日 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1946年 - 1952年 |
加藤 精三(かとう せいぞう、1900年(明治33年)11月20日 - 1965年(昭和40年)5月3日)は、日本の政治家、旧鶴岡市第6代市長、衆議院議員(5期)、致道博物館顧問。山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)出身。防衛庁長官・内閣官房長官・自民党幹事長を歴任した加藤紘一の父。
略歴
[編集]- 1900年(明治33年)11月20日 - 弁護士の加藤幹雄の子として、山形県西田川郡鶴岡町(現・鶴岡市)に生れる。
- 1918年(大正7年) - 荘内中学校(山形県立鶴岡南高等学校)卒業
- 1921年(大正10年) - 旧制第一高等学校卒業
- 1924年(大正13年) - 東京帝国大学法学部を卒業し、内務省に勤務。長野県警察部配属[1]
- 1929年(昭和4年) - 文部事務官
- 1942年(昭和17年) - 鹿児島県学務部長
- 1946年(昭和21年) - 第6代鶴岡市長当選
- 1950年(昭和25年)6月 - 以文会(現・致道博物館)が設立され顧問となる。
- 1952年(昭和27年)
- 7月 - 鶴岡市長退任
- 10月1日 - 第25回衆議院議員総選挙(山形2区・自由党公認・得票数50078票)初当選
- 1953年(昭和28年)4月19日 - 第26回衆議院議員総選挙(山形2区・自由党公認・得票数47374票)2期目当選
- 1955年(昭和30年)2月27日 - 第27回衆議院議員総選挙(山形2区・自由党公認・得票数53123票)3期目当選
- 1958年(昭和33年)5月22日 - 第28回衆議院議員総選挙(山形2区・自由民主党公認・得票数53783票)4期目当選
- 1960年(昭和35年)11月20日 - 第29回衆議院議員総選挙(山形2区・自由民主党公認・得票数44475票)落選
- 1963年(昭和38年)11月21日 - 第30回衆議院議員総選挙(山形2区・自由民主党公認・得票数59709票)5期目当選
- 1965年(昭和40年)5月3日 - 死去する。享年64。鶴岡の正覚寺に墓がある。
叙位・叙勲
[編集]- 1965年(昭和40年)5月3日 - 正四位・勲二等瑞宝章
家族・親族
[編集]- 加藤幹雄(実父) - 帝国大学(現・東京大学)法科首席、西田川郡会議員、弁護士
- 加藤五郎(二男) - 宇部興産専務取締役、宇部マテリアルズ副会長、企業経営者
- 加藤紘一(五男) - 内閣官房長官、防衛庁長官、衆議院議員、外交官
- 加藤鮎子(孫) - 衆議院議員
- 石原莞爾(又従兄[2]) - 陸軍中将、関東軍主任参謀、参謀本部第一部長、立命館大学教授
脚注
[編集]- ^ 『日本官僚制総合事典』東京大学出版会、2001年11月発行、240頁
- ^ 対中政策の現状と課題をめぐって、議員外交の視点から 加藤紘一、2007年12月15日。
出典・参考文献
[編集]議会 | ||
---|---|---|
先代 濱野清吾 |
衆議院法務委員長 1964年 - 1965年 |
次代 濱田幸雄 |
公職 | ||
先代 小林鉄太郎 |
旧鶴岡市長 第6代:1946年 - 1952年 |
次代 国井重典 |