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拾ヶ堰

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十ヶ堰から転送)
拾ヶ堰
拾ヶ堰
延長 15km
灌漑面積 1000ha
取水 奈良井川松本市島内)
合流 烏川安曇野市穂高
流域 長野県松本市安曇野市
備考 分類:横堰
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拾ヶ堰(じっかせぎ)は、安曇野を流れる灌漑用に作られた用水路)である。正式名称は、拾ヶ村組合堰。この堰は、奈良井川松本市島内)から取水し、梓川を横断し、更に大屈曲しながら、烏川安曇野市穂高)に至る約15kmの用水路で、安曇野における最も大規模な用水路である。疏水百選にも選ばれている。

安曇野は、扇状地であるため地下に水がしみ込んでしまう乏水地域である。そのため古くから農業用水に恵まれず、柏原村、吉野村の庄屋などが拾ヶ堰の開削を計画したものである。

2016年平成28年)、国際かんがい排水委員会かんがい施設遺産に登録された。

由来

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江戸時代信濃国安曇郡成相組成相町村・成相新田町村、長尾組上堀金村・下堀金村、保高組吉野村・柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村の10ヶ村を灌漑する組合堰である。後に、長尾組中堀新田村も加入し、11ヶ村となる。

歴史

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  • 1790年寛政2年)頃 - 等々力孫一郎烏川扇状地への灌漑用水の開削の計画を始める。
  • 1799年(寛政11年) - 中島輪兵衛が同様の計画を始める。
  • 1806年文化3年) - 2月、讃岐金刀比羅宮(航海安全の神であり水の神)を参詣し祈願する。
  • 1812年(文化9年) - 金比羅大権現を輪兵衛宅隣に勧請し社を建立。12月に岡村勘兵衛、白沢民右衛門などが計画に加わる。
  • 1814年(文化11年) - 5月に工事の絵図面その他見積願書を松本藩に差し出す(堰幅約5間、深さ約4尺、潰れ地の田畑の補償約60石)。同年末に堰筋に杭打ちがされる。
  • 1816年(文化13年) - 2月11日工事着手。5月11日に竣工。7月3日に完全に通水をみる。
  • 1817年(文化14年) - 拾ヶ堰が開削される。
  • 1849年嘉永2年) - 拾ヶ堰通船が開通。

開削功労者

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計画・測量・設計
中島輪兵衛(1752年-1831年、柏原村元庄屋)
平倉六郎右衛門 (1759年-1841年、下堀金村作世話役兼堰廻役)
実務担当・協力
等々力孫一郎(1761年-1831年、保高組大庄屋(孫右衛門の養子)) - 総務として全体の指揮を担当。
岡村勘兵衛(1778年-1868年、吉野村庄屋) - 人夫出役担当。
白澤民右衛門(1749年-1832年、等々力町村庄屋) - 会計担当。
関与一右衛門(柏原村庄屋)

大町組を除く安曇郡全域から工事人足が動員された[1]

  • 保高組:1万6689人
  • 長尾組:2万788人
  • 成相組:1万5675人
  • 上野組:4602人
  • 松川組:3801人
  • 池田組:5597人

主な灌漑地域

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穂高本郷・柏原全域・上堀・下堀

拾ヶ堰通船

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1849年(嘉永2年)に松本から柏原村まで拾ヶ堰の通船が開通。船主は、柏原村の利兵衛・等々力孫右衛門の2人であった。米穀や酒を松本まで運び、帰りには日用品などを船積にした[2]

特徴

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  • 拾ヶ堰は標高570mの等高線に沿って流れる横堰(よこせぎ)である。奈良井川の取水口から終点の烏川までの傾斜は約0.3パーミルで標高差はわずか約5m。水がゆっくりと流れるのが横堰の特徴で、押水(おしみず)という。
  • 灌漑面積、約1000ha。
  • 同じ標高を通すため、水準器(開発当時は、木製の素朴なものであった)による測量で開削された。
  • 過去には拾ヶ堰に架かる橋の欄干にある銘板を見ると「十ヶ堰」と書かれているところや「拾箇堰」、「十箇堰」などと表記する場合もあったが、いずれも橋の改修により名板が「拾ヶ堰橋」に書き換えられており、結果的に同じ用水路に同じ名前の橋が複数生じることとなった。

改修された際に全て拾ヶ堰橋に書き換えられている。

  • 18世紀から19世紀初めの信濃では概ね人口が停滞したが、拾ヶ堰などの諸堰の開削が奏功した安曇野では人口増加が続いた。
  • サイフォンにより、ラーラ松本付近で梓川の下を潜っている。昔は梓川を横堀で横断していたが、悪天候などで度々流されることもあった。大正時代、サイフォンが梓川に埋められ、現在のサイフォンが整備されたのは平成のことである。

記念碑

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拾ヶ堰に関する記念碑は2つある。1つは、国道147号と交差する地点。もう1つは松本市島内犬飼新田の地である。

川沿の自治体

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参考文献

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  • 北野進『安曇野と拾ヶ堰』出版・安曇野、1993年
  • 南安曇郡誌 第2編下巻」
  • 長野県拾ヶ堰土地改良区編「安曇野の拾ヶ堰ガイドブック」2007年

脚注

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  1. ^ 南安曇郡誌
  2. ^ 『穂高町誌 歴史編上・民俗編』穂高町誌刊行会、1991年、P320-P321

関連項目

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外部リンク

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