塩田賀四郎
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塩田 賀四郎(しおた[1][2] がしろう、1904年〈明治37年〉6月31日[1][注 1] - 1989年〈平成元年〉9月7日[1][2])は、昭和期の実業家、ジャーナリスト、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]兵庫県出身[1][2]。1923年(大正12年)大阪府立市岡中学校(現大阪府立市岡高等学校)を卒業[2]。早稲田大学法律科で学んだ[2][注 2]。
津自動車学院校長、同校主、交通日日新聞記者、三共製作所取締役、生球精工代表取締役、政治新聞社取締役社長、大東建設社長、サン通信社長などを務めた[2]。
日本自由党の創立委員となり同党幹事に就任し[2]、1946年(昭和21年)4月の第22回衆議院議員総選挙で兵庫県第1区に日本自由党公認で出馬して落選[3]。1947年(昭和22年)4月の第23回総選挙で兵庫県第2区に出馬して落選[4]。1949年(昭和24年)1月の第24回総選挙に民主自由党公認で出馬して当選し[1][5]、衆議院議員に1期在任した[1][2]。その後、第28回総選挙まで連続4回立候補したがいずれも落選した[6]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第22回』衆議院事務局、1950年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。