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木下元二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

木下 元二(きのした もとに、1929年昭和4年)11月3日[1] - 2004年平成16年)12月3日)は、日本弁護士政治家衆議院議員日本共産党公認、通算2期)。兵庫県の戦後初の自由法曹団員でもある[2]

木下 元二
きのした もとに
生年月日 (1929-11-03) 1929年11月3日
出生地 日本の旗 兵庫県神戸市
没年月日 (2004-12-03) 2004年12月3日(75歳没)
死没地 日本の旗 兵庫県神戸市
出身校 立命館大学専門部法学科卒業
所属政党 日本共産党

選挙区 旧兵庫2区
当選回数 2回
在任期間 1972年12月10日 - 1976年12月9日
1979年10月7日 - 1980年5月19日
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来歴

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兵庫県[1]神戸市出身。旧制六甲中学校を経て、1949年(昭和24年)立命館大学専門部[1]法政科を卒業[2][3]。神戸市内で中学校教諭を2年間務める[2][3]。その後司法試験に合格し1956年(昭和31年)4月に神戸弁護士会へ入会[2]1969年(昭和44年)には同会副会長を務める[2][3]。この間総評系の法律事務所を自由法曹団所属の弁護士らと設立する[2]

1971年(昭和46年)第9回参議院議員通常選挙兵庫県地方区、共産党)で落選[4]。1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙旧兵庫二区から出馬。同選挙区は後に社会党委員長となる土井たか子の地盤で、公明党の強い地域でもあったが、激戦を制し初当選となる[5]。以後1976年(昭和51年)第34回総選挙での落選を挟み[5]、1979年(昭和54年)第35回総選挙で再選を果たすも[6]、1980年(昭和55年)第36回総選挙で次点で落選[5]したのを機に引退を表明。地盤を藤木洋子に譲る。

政界引退後も法律事務所にて弁護士業を営んでいたが、2004年12月3日、くも膜下出血のため神戸市中央区の病院で死去。75歳[7]

人物

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著作

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  • 『サラ金悲劇解決の手引』〈新日本新書〉新日本出版社、1979年。

脚注

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  1. ^ a b c 『現代政治家人名事典』153頁。
  2. ^ a b c d e f 木下元二団員を追悼する 兵庫県支部 山内康雄自由法曹団通信1154号
  3. ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』205頁。
  4. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』489頁。
  5. ^ a b c 『国政選挙総覧:1947-2016』273頁。
  6. ^ 『国政選挙総覧:1947-2016』274頁。
  7. ^ 木下元二氏死去 元共産党衆院議員2004年12月16日付「共同通信」
  8. ^ 秘書として、市議団事務局長として辻おさむのウェブサイトより

参考文献

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  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『現代政治家人名事典』日外アソシエーツ、1999年。ISBN 4-8169-1529-X
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。

関連項目

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