本遠寺
本遠寺 | |
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所在地 | 山梨県南巨摩郡身延町大野839 |
位置 | 北緯35度21分43.8秒 東経138度26分44.7秒 / 北緯35.362167度 東経138.445750度座標: 北緯35度21分43.8秒 東経138度26分44.7秒 / 北緯35.362167度 東経138.445750度 |
山号 | 大野山 |
宗派 | 日蓮宗 |
寺格 | 本山(由緒寺院) |
本尊 | 三宝尊 |
創建年 | 慶長14年(1609年) |
開山 | 日遠 |
開基 | 養珠院 |
正式名 | 大野山 本遠寺 |
札所等 | 甲斐百八霊場104番 |
文化財 | 本堂(重要文化財)など |
法人番号 | 2090005005777 |
本遠寺(ほんのんじ)は山梨県南巨摩郡身延町にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は大野山。開山は総本山・身延山久遠寺を隠退した心性院日遠、慶長14年(1609年)に徳川家康の側室・養珠院お万の方の帰依を受けて創建した[1]。「お万さまの寺」とも呼ばれる[2]。小西法縁。貫首は66世・髙佐日瑞[3]。本堂と鐘楼堂が国の重要文化財に指定されている[1]。境内に塔頭[注 1]・良圓寺がある[注 2]。
概要
[編集]『甲斐国志』によれば、慶長14年(1609年)徳川家康の側室・養珠院(お万の方)の帰依を受けた久遠寺22世・日遠が開山となり創建した。承応2年(1653年)養珠院が亡くなり、遺言により本遠寺に埋葬された。本遠寺の扁額は銘によれば日蓮宗を信仰していた本阿弥光悦が、寛永3年(1626年)に父母の供養のため揮毫し奉納されたものであるという。
本遠寺開山までの経緯
[編集]晩年の徳川家康が最も寵愛した養珠院お万の方は[注 3]天正5年(1577年)に生まれ、17歳で[注 4]家康(51歳)の側室となる。22歳の時に日蓮宗信徒の養父母を[注 5]亡くし仏教への帰依を深めた。慶長9年(1604年)行学に優れた心性院日遠が33歳で身延山久遠寺に晋山すると、お万の方はその高名を知り日遠に師事した。
慶長13年(1608年)徳川家の菩提寺である浄土宗増上寺の学僧・廓山と[注 6]、当時は日蓮宗不受布施派[注 7]だった京の妙満寺[注 8]27世・日経が[注 9]江戸城で宗論(慶長宗論[注 10])を交わし、日経が敗れた。すると徳川家康は日蓮宗の各山寺院に、日蓮が他宗を折伏する[注 11]ために唱えた「四箇格言」の一つ「念仏無間」は経典にない空論だという誓状を提出するよう迫った。総本山身延の22世であった日遠は[注 12]、誓状の提出を拒み再宗論を求めて抗議したため、謀反者にされ安倍川の河原で磔刑に処される事となった。これを知ったお万の方は、師事した日遠と共に自らも処刑されると徳川家康に願い出た。家康はお万の方の信仰心と覚悟を知り日遠を赦したという。
その後、日遠は刑余の身をはばかり身延山を出て大野の庵で隠棲。お万の方は二人の子供、紀州の徳川頼宣と[注 13]水戸の徳川頼房に[注 14]命じて大野に大伽藍を寄進させた。これが今の本遠寺となる[5][18]。
平成30年 加歴晋山式
[編集]2018年(平成30年)本遠寺63世・近貫龍が貫首を退任[注 15]。加歴晋山式が執り行われ[注 16]、宗務総長も務めた千葉県市川市・法蓮寺の渡邊照敏が64世に[注 17]、東京都江戸川区・感應寺の新井貫厚が65世に加えられた。そして東京都世田谷区・幸龍寺の髙佐日瑞(英長)が66世貫首に就任した[3]。
開山・心性院日遠
[編集]身延22世へ・西谷檀林創設
[編集]日遠は元亀3年(1572年)に出生。父は京の連歌師の宗匠・石井了玄。6歳の時、京の本満寺・日重 のもとで出家し南都(奈良)や東山で修学。慶長4年(1599年)に下総(千葉県)の学問所・飯高檀林の化主に推挙され、慶長9年(1604年)には身延山久遠寺22世貫主となって西谷檀林を創設した。しかし4年後、慶長法難に関連して身延から大野へ退隠、養珠院の外護を受け大野山本遠寺を開いた。
晩年、宗門を代表する高僧へ
[編集]日遠は受不施派の中心的な僧で、寛永7年(1630年)江戸城内で行われた不受不施派との対論(身池対論)に勝利し、幕命により池上本門寺16世貫主となった。しかし翌年には弟子・日東に池上を託し、自らは鎌倉経ケ谷に不二庵を構え隠棲、養珠院をはじめ多くの信徒が参詣したという。晩年は宗門を代表する高僧と仰がれ、師・日重(本満寺12世・久遠寺20世)、日乾(本満寺13世・久遠寺21世)と共に「宗門中興の三師」と評された。寛永19年(1642年)池上で遷化。墓所は身延の大野本遠寺。著作に「玄義聞書」「法華経大意」「法華文句随聞記」「千代見草」などがある[12]。
養珠院お万の方と日蓮宗
[編集]七面山の女人禁制を解く
[編集]日蓮宗の守護神・七面大明神を[注 18]まつる身延の七面山はかつて女人禁制であった。しかし寛永17年(1640年)養珠院お万の方が「女人成仏を説く法華経を守護する七面天女の御山に、法華経を信じる女人が登れぬはずはない」として、登拝口付近の羽衣白糸の滝(山梨県早川町)で[注 19]水ごりを[注 20]7日間行って身を清め、女性として初めて登頂を果した。以来、女人禁制は解かれ男女の登詣が盛んになったという。お万の方は七面山女人踏み分けの祖とも称され、その法勲を讃え滝の傍らには銅像が建立されている[5][23][20]。
女人成仏とは古来より低い地位にあった女性も仏に成れると説いた法華経の教えである。仏教語の「五障[注 21]」は女性に五種のさわりがあり成仏できないとするが、法華経の提婆達多品では女性が成仏できる証として八歳の竜女の即身成仏を説く。日蓮は法華経の勝れる点として女人成仏を強調した[23]。
日蓮宗発展の礎・各地に墓所
[編集]日蓮宗の熱心な信徒であった養珠院お万の方は丹誠厚い外護で新寺建立に励んだ。本遠寺創建時の大伽藍寄進の他にも、六老僧・日持の遺蹟である松野の蓮永寺を駿府城の東北に再興。また身延山久遠寺・池上本門寺・和歌山感応寺を始め、主な寺に堂塔伽藍を寄進して寺観を整備するなど日蓮宗の霊跡復興に尽力した。お万の方が江戸時代の日蓮宗発展の礎を作ったともされ、その功績から墓所の数は多く各地で祀られている。
養珠院お万の方は承応2年(1653年)江戸紀州邸で没したが、遺骨は遺言により大野山本遠寺に葬られ、墓所は師・心性院日遠の墓の傍らに建立された。息子の紀州・徳川頼宣は和歌山に養珠寺を、水戸・徳川頼房は太田に蓮華寺(明治に久昌寺と合併)を建立し母の菩提を弔った。伊豆加殿の日昭門流・妙国寺の信徒だった養父・伊豆河津城主の蔭山氏広が葬られた玉沢妙法華寺にもお万の方の墓所がある[5]。また、お万の方が堂塔伽藍を寄進した池上本門寺にも紀州徳川家墓所(大田区史跡)があり、その中に養珠院お万の方の墓がある[25]。
歴史
[編集]- 慶長14年(1609年)日遠は養珠院の帰依を受け本遠寺を建立する。
- 正保3年(1646年)徳川家光は朱印地260石を与える。
- 慶安3年(1650年)徳川頼宣・徳川頼房の寄進により伽藍を整備する。
- 承応3年(1653年)養珠院の葬儀を行い墓所を整備する。
- 慶応3年(1867年)火災により本堂・鐘楼堂以外を焼失する。
- 1932年(昭和8年)本遠寺41世・日我の発願により宝蔵を建立する。
- 1986年(昭和61年)本堂・鐘楼堂が国の重要文化財に指定される[1]。
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]山梨県指定文化財
[編集]- 木造伝釈迦如来立像(付 黒漆塗厨子) - 1980年(昭和55年)9月18日指定
- 木造漆箔・玉眼。像高は97.8センチメートル。宝蔵に安置されている釈迦如来像で、黒漆塗の厨子に収められる。胸部には文字と思われる陽刻が確認されるが、詳細は不明。頭部内側の墨書から、文永3年(1266年)に法橋円覚の子法橋覚慶による作と判明する。本遠寺への伝来経緯は不明であるが、寛永18年(1641年)に本像を描いた絵画が伝来していることから、承応2年(1653年)の養珠院没前から伝来していたと考えられている[28]。山梨県指定有形文化財 [29]
- 紙本著色日蓮上人図 - 山梨県指定有形文化財[30]
- 室町時代から作例が見られる七面天女示現伝承を描いた説法図。江戸時代初期の作。寸法は縦127.0センチメートル、横91.5センチメートル。「秀信」の朱文壺型印を持ち、作者は本遠寺所蔵の日重像や日乾像など日蓮宗画像を数多く手がけた狩野元俊であると比定される。『甲斐国志』によれば、本図は養珠院の寄進であると言われ、養珠院の没年である承応2年(1653年)修理銘がある。
身延町指定文化財
[編集]その他
[編集]- 釈迦如来坐像 - 寛永20年(1643年)日護作
- 日蓮聖人坐像 - 等身大
旧末寺
[編集]日蓮宗は1941年(昭和16年)に本末を解体したため、現在では旧本山・旧末寺と呼びならわしている。
- 大野山良圓寺(山梨県南巨摩郡身延町大野)- 塔頭
- 広潤山法運寺(宮城県仙台市若林区連坊)
- 妙光山興善寺(東京都文京区西片)
- 法雲山仙寿院(東京都渋谷区千駄ケ谷)
- 本行山昌善寺(山梨県韮崎市旭町上條南割)
- 正福山慶音寺(静岡県田方郡函南町仁田)
- 東光山法善寺(静岡県駿東郡長泉町竹原)
- 高現山真立寺(静岡県三島市川原ケ谷)
- 徳栄山実成寺(静岡県伊豆の国市原木)
- 観富山龍華寺(静岡県静岡市清水区村松)
- 三光山道善寺(愛知県一宮市牛野通)
- 智光山誠証寺(和歌山県岩出市根来)
交通
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 塔頭とは大寺院の中にある小寺院や別坊の事で子院や脇寺ともいう。[4]。
- ^ 良圓寺は境内にあるが現在は独立した寺院。日蓮宗は昭和初期に本山と末寺の関係を解消している。
- ^ 養珠院と号すのは元和2年(1616年)40歳の時、徳川家康の没後[5]。
- ^ 数え年[6]。
- ^ 生父は上総勝浦の城主・正木忠頼。養父は伊豆河津の城主・蔭山長門守氏広で伊豆加殿・妙国寺の信徒。お万の方は蔭山殿とも称す[5]。
- ^ 甲斐国(山梨県)出身の廓山は江戸の浄土宗増上寺・存応のもとで修学。日蓮宗・日経との慶長宗論に勝利し名声をはせ、徳川家康の生母である水野氏の菩提寺・伝通院に招かれ中興開山となる。存応の没後には幕命により増上寺13世となった。元亀3年(1572年)生、寛永2年(1625年)没[7]。
- ^ 不受布施派とは京都妙覚寺の日奥を派祖とする日蓮宗の一派。江戸幕府に禁教とされ「禁教不受不施」の名でも知られる。不受とは寺や僧侶が他宗からの布施供養を受けないことで、不施とは信者が他宗の寺社や僧侶に布施供養をしないことをいう[8]。
- ^ 妙塔山妙満寺(京都市左京区)は現在、顕本法華宗の総本山。永徳3年(1383年)開創。開山は日什。日蓮宗の勝劣派に属していた[9]。
- ^ 常楽院日経は日什門流・京の妙満寺27世。折伏の布教を行い、優れた学識で諸宗と論争したが、徳川家康の命による浄土宗・廓山との慶長宗論では敗れた。日蓮宗では、幕府が日経を襲撃し重傷のまま宗論の場に運んだ為、日経は一言も発せず敗北。翌年、弟子5人と耳鼻をそぎ落とされ、迫害が続く中、生涯放浪したとも伝わる。永禄3年(1560年)生、元和6年(1620年)没[10]。
- ^ 慶長宗論は日蓮宗では、日経らが徳川家康の日蓮宗弾圧策により敗れ刑を受けたと伝わる事から慶長法難とも称す[10]。
- ^ 折伏とは悪人や悪法を打ち砕いて迷いを覚まさせることをさす仏教語。相手の悪や間違いを打ち破り真の教えに帰依させる教化法[11]。
- ^ 日遠は他宗からの布施供養を受け入れる受不施派の中心的な僧。寛永7年(1630年)には不受不施派との身池対論で勝利した[12]。
- ^ 徳川頼宣は家康の10男で紀州徳川家の祖、初代紀州藩主[13]。時代劇『暴れん坊将軍』でも知られる8代将軍・徳川吉宗の祖父でもある[14][15]。
- ^ 徳川頼房は家康の11男で水戸徳川家の祖、初代水戸藩主[16]。『水戸黄門』こと徳川光圀の父でもある[17]。
- ^ 近貫龍は山梨県身延町妙泉寺の前住職で2009年(平成21年)に本遠寺の貫首に就任[2]。
- ^ 加歴とは特別な功績がある僧侶を本山の貫首の歴代に加えることをいう。
- ^ 渡邊照敏は2009年(平成21年)12月から4年間、日蓮宗の宗務総長を務めた[19]。
- ^ 七面大明神は身延の七面山にすみ、身延山を守護して鬼門を封じるという。本地は吉祥天、法華経の提婆達多品に登場する竜女ともされ七面天女とも称される。左手に宝珠、右手には鍵をもつ[20]。
- ^ 羽衣白糸の滝では現在も近くの旅館に事前連絡すると滝行ができる[21]。
- ^ 水垢離とは水行で禊ぎをすること。神仏への祈願前に水を浴びて身を清める。心身を清浄にするため穢れを取り除くこと[22]。
- ^ 五障は古来、女性に5種類の妨げがあり梵天王・帝釈天・魔王・転輪王・仏になれないとされていた事をいう仏教語。 5つの善根(信・精進・念・定・慧)の障害となる欺・怠・瞋・恨・怨や 修行を妨げる煩悩障・業障・生障・法障・所知障をさす[24]。
出典
[編集]- ^ a b c “本遠寺本堂 鐘楼堂”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ a b “本山本遠寺貫首に近貫龍師”. 日蓮宗新聞社サイト. 日蓮宗新聞社. 2019年4月28日閲覧。
- ^ a b “山梨1本山本遠寺晋山式”. 日蓮宗新聞社サイト. 日蓮宗新聞社. 2019年4月18日閲覧。
- ^ 『塔頭』 - コトバンク
- ^ a b c d e 日蓮宗事典 (1981), p. 463
- ^ 『数え年』 - コトバンク
- ^ 『廓山』 - コトバンク
- ^ 『不受布施派』 - コトバンク
- ^ 『妙満寺』 - コトバンク
- ^ a b 『日経』 - コトバンク
- ^ 『折伏』 - コトバンク
- ^ a b 『日遠』 - コトバンク
- ^ 『徳川頼宣』 - コトバンク
- ^ 『徳川光貞』 - コトバンク
- ^ 『徳川吉宗』 - コトバンク
- ^ 『徳川頼房』 - コトバンク
- ^ 『徳川光圀』 - コトバンク
- ^ 日蓮宗事典 (1981), p. 583
- ^ “渡邊新内局がスタート”. 日蓮宗新聞社サイト. 日蓮宗新聞社. 2018年9月15日閲覧。
- ^ a b 『七面山』 - コトバンク
- ^ “羽衣白糸の滝”. か奥山梨はやかわ. 早川町観光協会. 2019年5月5日閲覧。
- ^ 『水垢離』 - コトバンク
- ^ a b “七面山登詣案内”. 身延山久遠寺サイト. 久遠寺. 2019年5月5日閲覧。
- ^ 『五障』 - コトバンク
- ^ “御霊宝 紀州徳川家墓所”. 池上本門寺サイト. 本門寺. 2019年5月5日閲覧。
- ^ “本遠寺 本堂”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “本遠寺 鐘楼堂”. 文化遺産オンライン. 文化庁. 2019年4月28日閲覧。
- ^ 本遠寺釈迦如来立像については、鈴木麻里子「十三世紀半ばから後半の造仏」『山梨県史』通史編2中世、『県史』文化財偏、井澤英理子解説『甲斐の国のたからもの』山梨県立博物館、2009など。頭部内側銘文は『県資』6中世3(考古資料)所載。
- ^ “木造伝釈迦如来立像付黒漆塗厨子”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “紙本著色日蓮上人図”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “紙本墨書十如是御書”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “銅鐘”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “徳川家康側室養珠院墓所”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “本遠寺の大クスノキ”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
- ^ “大野山本遠寺のしだれ桜”. 山梨県身延町サイト. 身延町. 2019年4月28日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]- 女人成仏 - 女性として初めて七面山に登った養珠院を開基とする所から、本遠寺は古来、女人成仏に縁のある寺とされてきた。
- 徳川家 - 本遠寺を代々にわたり外護した。
- 山梨県道813号光子沢大野線
- 梅平 (身延町) - 明治初期まで当寺院の寺社領であった。
- 甲斐百八霊場