扇ガ谷
扇ガ谷 | |
---|---|
町丁 | |
亀ヶ谷坂切通し | |
北緯35度19分32秒 東経139度32分58秒 / 北緯35.32565度 東経139.549481度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川 |
市町村 | 鎌倉市 |
地域 | 鎌倉地域 |
人口情報(2023年(令和5年)9月1日現在[1]) | |
人口 | 1,648 人 |
世帯数 | 775 世帯 |
面積([2]) | |
0.74 km² | |
人口密度 | 2227.03 人/km² |
郵便番号 | 248-0011[3] |
市外局番 | 0467(藤沢MA)[4] |
ナンバープレート | 横浜 |
ウィキポータル 日本の町・字 ウィキポータル 神奈川県 ウィキプロジェクト 日本の町・字 |
扇ガ谷(おうぎがやつ)は、神奈川県鎌倉市鎌倉地域にある町丁。現行行政地名は扇ガ谷一丁目から扇ガ谷四丁目。郵便番号は248-0011[3]。扇ヶ谷・扇ケ谷・扇が谷・扇谷とも書く。
かつては相模国(廃藩置県後は神奈川県)鎌倉郡に所属し、扇ヶ谷村と呼ばれていたが、明治22年(1889年)に鎌倉郡7番組9ヶ村が合併するに伴って東鎌倉村の大字となった。その後、周辺市町村との合併統合を経て鎌倉市の大字となり今に至る。
地誌
[編集]扇ガ谷はJR横須賀線の鎌倉駅から北鎌倉駅間の線路沿いの山際一帯の地名である。東を雪ノ下、西を佐助、南を御成町・小町、北を山ノ内と接し、飯盛山、源氏山(初名は武庫山、このほか亀谷山とも呼ぶ)などの丘陵が周辺を囲み、中心部谷戸にある亀ヶ谷坂を経て北鎌倉方面とつながる。地域内を扇川と呼ばれる小さな小川が横須賀線に沿って流れる。地名の由来は、鎌倉十井の一つ「扇の井」[5](現在の扇ガ谷3丁目)に因んだもので、扇ヶ谷は上杉定正の旧邸で英勝寺の地で、亀ヶ谷(かめがやつ)の地内の一地名とある(新編相模国風土記、新編鎌倉志[6])。もともとこの地は亀谷と呼ばれ、鎌倉幕府の記録書である『吾妻鏡』には亀谷(亀ヶ谷)の地名のみ登場(初見は治承4年(1180年)10月7日)し扇ヶ谷は出てこない。亀ヶ谷は鶴ヶ岡に対する対語、もしくは谷戸の中心部にある亀ヶ谷坂(『亀がひっくり返るほど急な坂』の『亀返り坂』の転訛という説)に由来すると云われ、この地は源家父祖伝来の地であった。源頼朝は鎌倉に入るとまず父・義朝を偲んで義朝邸があった亀ヶ谷を訪れ、後にここに北条政子が亀谷山寿福寺を建立した。扇ヶ谷の地名は室町時代にこの地に住んだ上杉定正が『扇谷殿』と称されてから扇ガ谷の地名が一般的になり、亀ヶ谷の呼び名は廃れた。
扇ヶ谷自体で谷戸となっているが、扇ヶ谷を取り巻く山々は入り組んだ地形を持ち、地域全体には支谷が多い。泉ヶ谷、清水ヶ谷、清涼寺ヶ谷、藤ヶ谷、多宝寺ヶ谷など多数の谷戸の総称として亀ヶ谷や扇ヶ谷は呼ばれている。現在は横須賀線によって地域は東西に分断されている。
地価
[編集]住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、扇ガ谷1-1-5の地点で45万7000円/m2となっている[7]。
世帯数と人口
[編集]2023年(令和5年)9月1日現在(鎌倉市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
扇ガ谷一丁目 | 210世帯 | 384人 |
扇ガ谷二丁目 | 159世帯 | 371人 |
扇ガ谷三丁目 | 127世帯 | 297人 |
扇ガ谷四丁目 | 279世帯 | 596人 |
計 | 775世帯 | 1,648人 |
人口の変遷
[編集]国勢調査による人口の推移。
年 | 人口 |
---|---|
1995年(平成7年)[8] | 1,810
|
2000年(平成12年)[9] | 1,779
|
2005年(平成17年)[10] | 1,788
|
2010年(平成22年)[11] | 1,746
|
2015年(平成27年)[12] | 1,708
|
2020年(令和2年)[13] | 1,685
|
世帯数の変遷
[編集]国勢調査による世帯数の推移。
年 | 世帯数 |
---|---|
1995年(平成7年)[8] | 693
|
2000年(平成12年)[9] | 729
|
2005年(平成17年)[10] | 788
|
2010年(平成22年)[11] | 752
|
2015年(平成27年)[12] | 745
|
2020年(令和2年)[13] | 782
|
学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2017年7月時点)[14][15]。
丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
扇ガ谷一丁目 | 全域 | 鎌倉市立御成小学校 | 鎌倉市立御成中学校 |
扇ガ谷二丁目 | 全域 | ||
扇ガ谷三丁目 | 全域 | ||
扇ガ谷四丁目 | 全域 |
事業所
[編集]2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[16]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
扇ガ谷一丁目 | 73事業所 | 275人 |
扇ガ谷二丁目 | 15事業所 | 33人 |
扇ガ谷三丁目 | 4事業所 | 34人 |
扇ガ谷四丁目 | 17事業所 | 99人 |
計 | 109事業所 | 441人 |
事業者数の変遷
[編集]経済センサスによる事業所数の推移。
年 | 事業者数 |
---|---|
2016年(平成28年)[17] | 87
|
2021年(令和3年)[16] | 109
|
従業員数の変遷
[編集]経済センサスによる従業員数の推移。
年 | 従業員数 |
---|---|
2016年(平成28年)[17] | 409
|
2021年(令和3年)[16] | 441
|
寺社・旧跡
[編集]もともと現在の寿福寺のある付近は源頼義以降、源家が鎌倉に持った屋敷の跡であり、源義朝や源義平もこの地に住んだという。また、こうしたことから記録によれば扇ヶ谷には鎌倉幕府の要人たちが多く住んだ。このため地域内には寺社や旧跡が多い。
- 泉の井 : 泉ヶ谷の奥にある。鎌倉十井の一つ[18]。この井戸のある谷戸は泉ヶ谷の名前があり、浄光明寺がある。谷戸の先より山中の古道は鶴岡八幡宮裏の青梅聖天堂の山道につながる。
- 岩船地蔵堂 : 源頼朝の長女大姫を弔う地蔵尊が祀られている。なお、頼朝の次女三幡姫も「亀谷」の地に葬られているという。亀ヶ谷坂から扇ヶ谷に下りてきて海蔵寺へ向かう道との合流点に位置し、近くの横須賀線のアンダーパスは「岩船ガード」の名前がある。
- 英勝寺 : 浄土宗。扇谷上杉家の家臣太田道灌の屋敷跡。現在では鎌倉唯一の尼寺。
- 海蔵寺 : 臨済宗。寺門前には鎌倉十井の一つ「底抜けの井」、山内に「十六の井」がある。
- 亀ヶ谷坂切通し : 扇ヶ谷と北鎌倉を結ぶ。鎌倉七切通しの一つ。中腹に六地蔵が祀られている。扇ヶ谷側に薬王寺、北鎌倉側には長寿寺がある。
- 寿福寺 : 臨済宗で、鎌倉五山の三位。岡崎義実という武士が主君である源義朝を弔うためにたてた亀谷堂の地に、北条政子が建立した。
- 浄光明寺 : 支谷の泉ヶ谷にある。寺の前には「藤谷黄門遺蹟」(冷泉為相の屋敷跡)の旧跡碑が建つ。冷泉為相の墓、網引き地蔵があり、本尊の阿弥陀三尊像は土紋を残す国の重要文化財。
- 妙傳寺 : 浄光明寺の東・多宝寺ヶ谷にあった真言律宗の扇谷山多宝寺(忍性菩薩開山)旧跡にある日蓮宗寺院。昭和49年(1974年)に東京都文京区白山から移転。
- 相馬師常の墓 : 相馬師常の墓と伝えられるやぐら。
- 多宝寺跡やぐら群 : 多宝寺ヶ谷の山頂付近に密集するやぐら群。覚賢塔と称する326cmの大五輪塔を中心に広がる。多宝寺はこの地にあった律宗の寺。
- 八坂神社 : 扇ヶ谷の鎮守。正式名称は「八坂大神」で、銭洗弁財天宇賀福神社は末社であった。明治の神仏分離令までは牛頭天王を祀り「相馬天王」と称していた。
- 薬王寺 : 釈迦牟尼仏を本尊とする日蓮宗の寺。
屋敷街
[編集]室町時代に上杉定正の屋敷があり、定正は「扇ヶ谷殿」と呼ばれていた。近代になって、政財界人の別荘地として人気になり、三菱の創業者・岩崎家などの屋敷が建った[19]。2004年には、旺文社創業者の赤尾好夫が設立したセンチュリー文化財団の館長宅を建設するに当たり、無量寺跡と思われる遺跡の調査が行なわれた[20]。2012年に同財団が15億円の助成金と土地約2500坪を市に寄付し、隣接する赤尾家の別の土地約2000坪を市が購入する形で、世界遺産関連施設の建設計画が進められた[21][22][23]。政府が世界文化遺産登録への推薦を取り下げたために計画が変更され、2017年に鎌倉歴史文化交流館として開館した。
著名な住民
[編集]- 源義朝[24]
- 太田道灌[25]
- 佐々木泰清[25]
- 英勝院
- 西田幾多郎 - 1932年から1年ほど[26]。
- 荻原井泉水 - 一時期
- 太田水穂 - 1939年から1955年に没するまで。
- 里見弴 - 1953年から94歳で亡くなるまで[27]。
- 小林秀雄 - 一時期
- 四賀光子
- 島木健作 - 一時期
- 竹山道雄 - 一時期
- 立原正秋 - 一時期
- 中原中也
- 柳美里
その他
[編集]日本郵便
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “町丁字別・地域別人口と世帯数(国勢調査基準・各月・平成13年~)” (XLSX). 鎌倉市 (2023年9月12日). 2023年9月17日閲覧。 “(ファイル元のページ)”(CC-BY-4.0)
- ^ “令和4年(2022年)版 鎌倉の統計” (PDF). 鎌倉市. 2023年8月14日閲覧。(CC-BY-4.0)
- ^ a b c “扇ガ谷の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 新編鎌倉志 1915a, p. 91.
- ^ 新編鎌倉志 1915, p. 82.
- ^ “国土交通省地価公示・都道府県地価調査”. 国土交通省. 2023年8月9日閲覧。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “鎌倉市の市立小学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ “鎌倉市の市立中学校通学区域”. 鎌倉市. 2017年7月6日閲覧。
- ^ a b c “経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
- ^ a b “経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ 新編鎌倉志 1915b, p. 88.
- ^ 指月庵跡地事業計画プレゼン資料ライフ・ドゥ不動産HP
- ^ 社宅建設で消えた遺跡鎌倉の世界遺産登録を考える
- ^ 世界遺産施設を検討タウンニュース、2012年7月 6日
- ^ 平成24年 6月28日議会全員協議会議事録 鎌倉市議会
- ^ 鎌倉市議会2月定例議案集鎌倉市、平成25年
- ^ 鎌倉の古道と仏像原田寛、Jtbパブリッシング
- ^ a b 鎌倉歴史散策永井路子他、保育社, 1976
- ^ 西田幾多郎の生涯上杉知行、燈影舎, 1988
- ^ 鎌倉文学散歩安宅夏夫、松尾順造、保育社, 1993
- ^ “郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。
参考文献
[編集]- 白井永二編『鎌倉事典』 東京堂出版、1992年。
- 奥富敬之 『鎌倉史跡事典』 新人物往来社、1999年。
- 河井恒久 等 編「巻之四 壽福寺」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、81-84頁。NDLJP:952770/55。
- 河井恒久 等 編「巻之四 泉谷附泉井」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、88頁。NDLJP:952770/59。
- 河井恒久 等 編「巻之四 扇谷附扇井」『新編鎌倉志』 第5冊、大日本地誌大系刊行会〈大日本地誌大系〉、1915年、91頁。NDLJP:952770/60。