新垣諭
基本情報 | |
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本名 | 新垣 諭(しんがき さとし) |
階級 | バンタム級 |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1964年2月21日(60歳) |
出身地 | 沖縄県糸満市 |
スタイル | サウスポー |
プロボクシング戦績 | |
総試合数 | 16 |
勝ち | 12 |
KO勝ち | 9 |
敗け | 3 |
引き分け | 1 |
新垣 諭(しんがき さとし、1964年2月21日 - )は、日本の元プロボクサー。沖縄県糸満市出身。元IBF世界バンタム級王者(当時はJBC非公認団体)。奈良池田ジム所属。
来歴
[編集]アマチュア時代
[編集]沖縄県立沖縄水産高等学校に入学後、1981年のインターハイのライトフライ級決勝戦で、青森商業の玉熊幸人(後のレパード玉熊)に判定勝ちを収め優勝。高校卒業後に船員になる予定をキャンセルし、1982年にプロへ転向。その際、奈良池田ジムが1,000万円で契約したことが話題になった[1]。
IBF世界バンタム級王座獲得
[編集]渡嘉敷勝男とルペ・マデラがWBAの世界王者だった当時、新垣は同級王座に挑戦する機会を待っていた。しかし、渡嘉敷とマデラは微妙な判定の試合を繰り返し、結果4度の対戦をすることとなり、挑戦の機会が与えられなかった。前世界王者の渡嘉敷のマッチメイクを優先するJBCに対し、ジム・新垣とも我慢の限界であり、所属する奈良池田ジムがIBF日本に加盟したため、それにあわせてIBF世界ライトフライ級王座決定戦に出場。ドディ・ボーイ・ペニャロサと王座を争った結果、減量の影響もあり、病院送りにされる程の敗北を喫した。その後一気に3階級上げ、1984年4月15日に再び世界王座に挑戦。IBF世界バンタム級王座決定戦でエルマー・マガラーノを8RTKOで下し、IBF世界バンタム級王座を獲得[2][3]。
王座陥落、怪我そして引退へ
[編集]同年8月4日にはホーベス・デラブースを15R判定で下し、同王座の初防衛に成功する。しかし、翌年の1985年4月26日、ジェフ・フェネックに9RKOで敗れ同王座から陥落した。同年10月27日にIBF日本の認定するスーパーフライ級王座の決定戦に出場。川島志伸を5RKOで下し日本王者になる(川島志伸は元WBC世界スーパーフライ級王者である川島郭志の兄)。
しかし1986年、大腿骨が壊死する難病を発症し、当該部分の切除をする手術を受ける。1989年にプロボクシング界に復帰。1990年1月30日、IBFインターコンチネンタル スーパーフライ級王座決定戦に出場。ロメオ・オプリサナに12R判定勝ちして地域王者になったが、同年引退した。
引退後は、沖縄テレビプロボクシング解説者を務めたこともあった。
2013年4月1日にJBCがIBFに加盟を果たしたのに伴い、JBCは新垣側からの要請があれば、資格審査委員会で協議した上で、世界王者として認める方向であると表明した[4][5]。
戦績
[編集]- アマチュアボクシング: 28戦 25勝 17KO 3敗
- プロボクシング: 16戦 12勝 9KO 3敗 1分(世界戦績: 2勝1KO3敗)
戦 | 日付 | 勝敗 | 時間 | 内容 | 対戦相手 | 国籍 | 備考 |
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1 | 1982年10月4日 | 勝利 | 2R | KO | 相方浩之 | 日本 | プロデビュー戦 |
2 | 1983年1月12日 | 勝利 | 6R | 判定 | 島田淳示 | 日本 | - |
3 | 1983年3月9日 | 勝利 | 3R | KO | リト・エスティマダ | フィリピン | - |
4 | 1983年4月18日 | 勝利 | 4R | TKO | オスカー・ゴンザレス | フィリピン | - |
5 | 1983年5月25日 | 引分 | 10R | 判定 | 金龍鉉 | 韓国 | - |
6 | 1983年12月10日 | 敗北 | 12R | TKO | ドディ・ボーイ・ペニャロサ | フィリピン | IBF世界ライトフライ級王座決定戦 (敗退) |
7 | 1983年2月21日 | 勝利 | 3R | TKO | ロリー・ナバロ | フィリピン | - |
8 | 1984年4月15日 | 勝利 | 8R | TKO | エルマー・マガラーノ | フィリピン | IBF世界バンタム級王座決定戦・獲得 |
9 | 1984年6月20日 | 勝利 | 7R | KO | フェル・アポート | フィリピン | - |
10 | 1984年8月4日 | 勝利 | 15R | 判定 | ホーベス・デラブース | フィリピン | IBF世界バンタム級・防衛1 |
11 | 1984年9月4日 | 勝利 | 11R | KO | フラッシュ・エマニエル | フィリピン | - |
12 | 1985年4月26日 | 敗北 | 9R | KO | ジェフ・フェネック | オーストラリア | IBF防衛失敗・陥落 |
13 | 1985年8月23日 | 敗北 | 3R | TKO | ジェフ・フェネック | オーストラリア | IBF世界バンタム級タイトルマッチ(敗退) |
14 | 1985年10月27日 | 勝利 | 5R | KO | 川島志伸 | 日本 | 日本IBFスーパーフライ級王座決定戦・獲得 |
15 | 1989年7月10日 | 勝利 | 2R | KO | ダニエル・キリアン | フィリピン | - |
16 | 1990年1月30日 | 勝利 | 12R | 判定 | ロメオ・オプリサナ | フィリピン | IBFインターナショナル・スーパーフライ級王座決定戦・獲得 |
テンプレート |
獲得タイトル
[編集]- アマチュアボクシング
- プロボクシング
脚注
[編集]- ^ 訃報・池田久元IBF日本代表 Boxing News 2011年6月9日
- ^ “高山快挙!3団体王者に輝く/ボクシング”. 日刊スポーツ. (2013年4月1日) 2015年2月1日閲覧。
- ^ “大毅 IBF王座挑戦!3兄弟で主要4団体のベルト獲得だ”. スポーツニッポン. (2013年7月17日) 2015年2月1日閲覧。
- ^ “JBCがIBF加盟”. 中日スポーツ. (2013年3月22日)
- ^ “JBCがIBF正式加入を発表”. デイリースポーツ. (2013年3月22日)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]空位 創設 |
IBF世界バンタム級王者 1984年4月15日 - 1985年4月25日 |
次王者 ジェフ・フェネック |
空位 創設 |
初代日本IBFスーパーフライ級王者 1985年10月27日 - 不明 |
空位 次タイトル獲得者 不明 |
空位 創設 |
IBFインターコンチネンタルスーパーフライ級王者 1990年1月3日 - 不明 |
空位 次タイトル獲得者 メタナチャイ・ソー・ボラピン |