本町 (弘前市)
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本町 | |
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北緯40度36分4.07秒 東経140度27分51.45秒 / 北緯40.6011306度 東経140.4642917度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 青森県 |
市町村 | 弘前市 |
人口 | |
• 合計 | 291人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
036-8203 |
市外局番 | 0172[2] |
ナンバープレート | 弘前 |
本町(ほんちょう)は、江戸時代から現在にかけての青森県弘前市の地名。郵便番号は036-8203。2017年(平成29年)6月1日現在の人口は291人、世帯数は184世帯[1]。
地理
[編集]東部を青森県道28号岩崎西目屋弘前線が縦断し、町域の北部は元大工町・元長町・親方町、東部は鍛冶町、南部は相良町、南西部は在府町、西部は覚仙町・森町に接する。
歴史
[編集]- 正保3年(1646年) - すでに町屋として町割りがされている(津軽弘前城之絵図)。
- 慶安2年(1649年) - 鍛冶町とあり、70軒あまりの屋敷があり、そのうち53軒は鍛冶とあり、5丁目の南部(現在の桶屋町寄り)が銅屋町とされ、銅屋19軒(弘前古御絵図)。
- 万治2年(1659年) - 5丁目が全部銅屋町とされる(津軽弘前古絵図)。
- 寛文13年(1673年) - 銅屋町の記載が見られず、代わりに1丁目の在府町寄りが鍛冶町横町と見える(弘前中惣屋敷絵図)。
- 延宝5年(1677年) - 1丁目は横鍛冶町、2~4丁目は長鍛冶町と変化し、五丁目は変わらず銅屋町(弘前惣御絵図)。
- 宝永2年(1705年) - 城下町割りによって本町1~5丁目になる。現在の元大工町・塩分町から在府町に南進する町並みが1丁目、現在の本町を東西に横断する町並みが2~4丁目、現在の本町の東側、青森県道28号岩崎西目屋弘前線沿いが5丁目と呼ばれ、現在まで「エ」の字型の町並みを形成。以降、鍛冶・銅屋が現在の鍛冶町・銅屋町に移転し、本町1~5丁目となり(平山日記)、本町は職人町から商家街になる。
- 宝暦4年(1754年) - 宝永5年(1708年)から延享元年(1744年)にかけての大火事で多くの商家が焼失。なんとか復興するが、多くは経営困難に。そこで弘前藩は当町以外での商売・販売を禁止。この政策により町内で出店する商人が増え、活気を取り戻す(平山日記)。隣接する元長町からも商人が移転。
- 宝暦6年(1756年) - 家数100のほかに、相場会場が置かれる(本町支配町屋鋪改大帳)。
- 明治初年 - 戸数172で、弘前の代表的な商家街であった(国誌)。
- 1907年(明治40年) - 交通事情の変化(奥羽本線青森 ~ 弘前間開通)、陸軍第8師団の設置による人口増加、購買力の変化等の影響で、中心商店街的地位を土手町に譲り、次第に衰退。
沿 革
[編集]地名の由来
[編集]施設
[編集]教育
[編集]- 弘前大学医学部
- コミュニケーションセンター
医療
[編集]- 弘前大学医学部附属病院
- 平山歯科
- 一戸歯科医院
消防
[編集]商業
[編集]- 明治屋グランドビル
- ニュー明治屋センター
- 北星交通
- エルク弘前
- 東北電力弘前営業所
宿泊
[編集]通信
[編集]行政
[編集]小・中学校の学区
[編集]大字 | 番・番地 | 小学校 | 中学校 |
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本町 | 全域 | 弘前市立朝陽小学校 | 弘前市立第四中学校 |
交通
[編集]- 弘南バス
- 本町、大学病院前(土手町循環100円バス、他)停留所。
- 本町(弘前駅 - 金属団地・桜ヶ丘線、他)停留所。
脚注
[編集]- ^ a b “オープンデータひろさき 弘前市 町名別人口・世帯数_平成29年”. ひろさき未来戦略研究センター (2017年6月1日). 2017年6月18日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2017年5月29日閲覧。
参考文献
[編集]関連項目
[編集]
塩分町 | 元大工町・元長町 | 親方町 | ||
覚仙町・森町 | 鍛冶町 | |||
本町 | ||||
在府町 | 相良町 | 桶屋町 |