富士山興法寺
富士山興法寺(ふじさんこうぼうじ)は、富士山の村山修験における中心地である[1]。村山興法寺とも呼ばれる。
起源と概要
[編集]創建は末代とされ[1]、鎌倉時代に頼尊によって開かれたと伝わる。末代の流れを汲む頼尊が村山に興法寺を開き、寺号を「興法寺」としたという。例えば文明10年(1478年)の、村山修験と富士氏の協力により造立された仏像には「富士山興法寺衆徒」という刻がある[2][3]。このため、少なくとも15世紀には富士山興法寺は存在していた。頼尊は「富士行」を行うなど、12世紀には既に村山周辺において修験道などの富士信仰に基づく宗教活動が行われていたと考えられている[4]。
興法寺は大日堂や現在の村山浅間神社などにより構成され、村山三坊によって管理された。単独の寺としてではなく、堂社や村山三坊を含めた総称と考えられるものである[5][6]。 主な建築物として大日堂、村山浅間神社、大棟梁権現社などがあり、これらは村山三坊により管理された。
歴史
[編集]今川氏の庇護を受け、隆盛を誇った。今川氏衰退時には永禄12年(1569年)12月29日に後北条氏が富士山興法寺に禁制を出すなど、影響勢力の移り変わりが生じている。その後今川氏の滅亡により庇護が受けられなくなったもののなお威厳を保ち、登山道や大日堂などを支配していた[4]。しかし、幕藩体制確立以降は朱印状その他判物も抑えられ、勢力が拡大は難しくなった[7]。1707年に起こった宝永大噴火により、大宮・村山口登山道含め興法寺の建築物が全壊した。後にこれらは再建されたものの、復興には時間を要した。特に1868年の神仏分離令により村山浅間神社と大日堂は分離、山伏は還俗するという処置が取られ、大きく衰退することとなった。大棟梁権現社も廃されることとなり、場所を移して「富士大神社」として祀られることとなった[4]。これにより、富士山興法寺としての機能は事実上消滅してしまっていた。
大日堂
[編集]富士山の本尊である大日如来を主尊とし、現在の村山浅間神社社殿に隣接して建っている。現存する唯一の堂であり、現在のものは江戸時代末期のものと考えられている[4]。堂内には大日如来像、役行者像があり、周辺には水垢離場や護摩壇が残っている[8]。
- 天正8年(1580年)9月 武田勝頼が大日堂を再建
- 天正11年(1583年) 徳川家康が大日堂を造営(他村山浅間社含む)
- 寛永10年(1633年)大風により大破
- 元禄10年(1697年)徳川綱吉が駿河国田中城城主太田資直を奉行とし、大日堂を造営(他村山浅間社含む)
村山浅間神社と大棟梁権現社
[編集]元は神号を浅間大菩薩、社号は富士根本宮の他に「七社浅間」といった呼称があった[9]。明治7年頃から「根本宮浅間神社」とし[9]、神仏分離令により富士山本宮浅間大社の摂社となる。「七社浅間」の七社とは以下の七社であり、主祭神の浅間大菩薩の他、相殿を含める[10]。
- 浅間大菩薩
- 三嶋大明神
- 箱根大権現
- 伊豆大権現
- 伊勢大神宮
- 熊野三所大権現
- 白山妙理大権現
- 大棟梁権現社
元は村山浅間神社の摂社である。高根総鎮守と称し、祭神は大己貴命である(元は末代上人を祭神とする)。明治4年に富士大神社と改称した。
- 末社
- 八幡宮
- 天満宮
- 竈神社
- 高八明神社
- 別雷神社
脚注
[編集]- ^ a b 「国指定文化財等データベース」の富士山の詳細解説より
- ^ 大高康正,「中世後期富士登山信仰の一拠点-表口村山修験を中心に-」,『帝塚山大学大学院人文科学研究科紀要4』,2003-01
- ^ 村山修験は複数の坊や衆徒などによるもので、一方富士氏は富士忠時と富士親時親子による
- ^ a b c d [1] (PDF) 第8回 富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議
- ^ 『人はなぜ富士山頂を目指すのか』2011年、96頁頁。
- ^ 富士市立博物館
- ^ 久保田淳『富士山 信仰と芸術の源』小学館、2009年、41頁頁。ISBN 978-4-09682-027-8。
- ^ “村山浅間神社”. 富士宮市公式サイト. 2012年10月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月13日閲覧。
- ^ a b 『浅間神社の歴史』、824
- ^ 『浅間神社の歴史』、821-824