林実利
林実利 | |
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天保14年(1843年) - 明治17年(1884年)4月21日 | |
諡号 | 大峯山二代行者実利師 |
生地 |
美濃国恵那郡坂下村高部 (現岐阜県中津川市坂下町) |
没地 | 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町那智滝 |
宗派 | 金峯山修験本宗 |
林 実利(はやし じつかが)とは、幕末から明治時代中期にかけて活躍し、多くの信者に信仰された修験道の行者。
生涯
[編集]天保14年(1843年) 苗木藩領であった 美濃国恵那郡坂下村の高部(現岐阜県中津川市坂下町)の百姓の子として生まれた。成長後、御嶽講(御嶽教)に入信し、木曽の御嶽山の黒沢口登山道の千本松で行なわれる御嶽教のお座立て(託宣儀礼)に参加するために登山した際に龍神より託宣を受けた。
慶応3年(1867年)25歳の時に妻と子供2人と分かれ出家。明治元年(1868年)に政府が神仏分離令を発布。当時修験道は密教と神道が混淆していたため大打撃を受けた。明治3年(1870年)の8月から11月にかけて、故郷の坂下村を含む苗木藩領では徹底した神仏分離(廃仏毀釈)が実施された。明治3~7年(1870~74)実利行者は大台ヶ原の牛石付近に小屋をつくりそこを拠点として修行に励んだ。
明治5年(1872年) に明治政府が修験道禁止令を発布したため、政府の追撃を逃れて活動を続行した。その後、中部・関東・東北各地の名山霊場神祠仏刹を巡拝の後、大峯山の笙の巌窟(しょうのいわや)や深仙(じんせん)で修行に入り千日行を2度行った。荒行を行い、岩穴に籠って座禅し、護摩行、水行や断食を頻繁に行い、五穀を断ち、木の芽・蕎麦粉・ワラビなどを口にするだけであった。また深仙宿、大台ヶ原、怒田宿、那智山での厳しい修行は通算16年間に及び、庶民のみならず宮家からも信仰されるようになり、有栖川宮より直々に役小角に次ぐ優れた山伏を意味する、『大峯山二代行者実利師』という名号を賜った。
- 明治13年(1880年)実利行者を崇敬する仏生講が組織された。
- 明治16年(1883年)冬より、和歌山県東牟婁郡の那智山で冬篭りを行った。
- 明治17年(1884年)4月21日に、那智滝の絶頂から座禅を組んだまま滝壺に捨身入定した。享年42。
- 入定して数日後に滝壺より引き上げられたが座禅姿のままであった。那智滝の近くに墓(宝篋印塔)が作られたが、あまねく信仰の対象となり各地より多くの信者が参拝に訪れた。
信仰
[編集]故郷の岐阜県中津川市坂下に、金峯山修験本宗実利教会があり、毎年4月19日に霊神祭を行っている。本来であれば実利の命日にあたる4月21日に祭礼を行うはずであるが、この日には必ず雨が降ると言い伝えられている。そのために21日を避けて、毎年4月19日に祭礼が営まれるようになったと伝わる。霊神祭は実利教会の最も重要な祭礼であり、参道脇には幟や吹き流しが立ち並び、導師と信者による勤行の後、餅撒き、直来が行われている。
脚注
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- アンヌ・マリ=ブッシィ著『捨身行者実利の修験道』
- 学研『修験道の本』