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ウイニングチケット

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ウイニングチケット
東京競馬場での展示
(2007年4月22日)
欧字表記 Winning Ticket[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1990年3月21日[1]
抹消日 1995年2月5日[2]
トニービン[1]
パワフルレディ[1]
母の父 マルゼンスキー[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 藤原牧場[1]
馬主 太田美實[1]
調教師 伊藤雄二栗東[1]
調教助手 笹田和秀[3]
厩務員 島明広[4][注釈 1][5]
競走成績
生涯成績 14戦6勝[1]
獲得賞金 4億2412万5000円[6]
勝ち鞍
GI 東京優駿 1993年
GII 弥生賞 1993年
GII 京都新聞杯 1993年
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ウイニングチケット(欧字名:Winning Ticket1990年3月21日 - )は、日本競走馬種牡馬[1]

1993年の東京優駿(日本ダービー)優勝馬である。クラシック三冠タイトルを分け合ったビワハヤヒデ菊花賞)、ナリタタイシン皐月賞)とともに「BNW」と呼称された。その他の勝ち鞍に、1993年の弥生賞GII)、京都新聞杯GII)。44歳の騎手柴田政人をダービージョッキーにさせた馬として知られる。

デビューまで

誕生に至る経緯

藤原祥三亡きあとの藤原牧場

1957年に北海道静内町の藤原牧場で生産された牝馬のスターロッチは、1926年に輸入されたクレイグダーロッチから派生した牝系に属する。1960年の優駿牝馬(オークス)、有馬記念を勝利[7]。引退後は繁殖牝馬として産駒を残し、藤原牧場や静内の牧場で子孫が繁栄した。特に藤原牧場では、1977年皐月賞優勝馬ハードバージ1981年優駿賞スプリンター賞サクラシンゲキなどが誕生[8]。これらは牧場当主の藤原祥三によるものであった[8]

祥三には男子がおらず、廃業の危機にあったが、それを憂いた同静内町武岡牧場の武岡敏夫が、静内の臨床獣医である平野悟郎に祥三の娘との縁談を紹介[8]。1986年7月に結ばれ、平野は、藤原悟郎として、牧場の跡取りとなった[9]。直後の悟郎は、静内になじむために一旦九州に身を置いていたが、結婚から半年後の1987年3月15日に、祥三が脳梗塞のために急死[9]。祥三の生産したサクラスターオー皐月賞を制する最中、祥三からのノウハウ伝授がなされぬままに、28歳の悟郎が当主に就任した[9]。悟郎は就任直後の同じ年、初めて交配相手を選んでいる[10][注釈 2]

パワフルレディ

パワフルレディは、1981年に藤原牧場で生産された、父マルゼンスキーの牝馬である。3代母はスターロッチであった[12]。競走馬としてデビューすることなく、牧場に戻って繁殖牝馬となった[13]。初年度、当主が祥三だった頃の1984年は、カジュン英語版と交配[14]。2年目、3年目はカツラギエースと交配[14]。3年で3頭を得たが、初仔、2番仔は脚が曲がっていて、3番仔は尻尾がないなど「奇形[15]」(藤原悟郎)だったという[15]。その後、当主となった悟郎は4年目にプルラリズム、5年目にターゴワイス英語版を選択した[14]。悟郎は「パワフルレディというのは、ものすごく体の柔らかい馬でね、同様に柔らかい馬体の種を付けると、もうぐにゃぐにゃなんですよ[16]。」と振り返っており、その「ぐにゃぐにゃ」で、それまで4回失敗していたという[16]

パワフルレディの繁殖生活6年目、悟郎が交配相手を選んで3年目となる1989年、悟郎はパワフルレディの交配相手に、1985年の凱旋門賞優勝馬で、種牡馬供用初年度のトニービンを選択する[14]。悟郎によれば「ジャパンカップでトニービンの体型を見たときに、行けるなって思ったんですよ。あの馬、余計な肉が付きにくい体形でしょ。そういう馬の子供は走るんです。僕が配合を決める時のポイントは、まず体形(中略)簡単に言っちゃうと、牡と牝の体形を2で割ったような仔ができるものなんです。トニービンはウチの繁殖牝馬に合うタイプだと直感したわけです[17]。」加えて「ぐにゃぐにゃ」のパワフルレディに合わせて「堅めで体形の薄いタイプを探していたんです。トニービンが理想的(中略)トニービンという馬は、ベン・ジョンソンみたいな短距離体形の馬[注釈 3]を付けたら、ステイヤーの血を程よく中和しますよ、きっと[16]」と述べている。

幼駒時代

1990年3月21日、藤原牧場にてパワフルレディの6番仔である黒鹿毛牡馬(後のウイニングチケット)が誕生する[13]。6番仔の姿は、胴長の体形や骨格が父トニービンに「そっくり[13]」(阿部珠樹)、さらに顔つきは母母父テスコボーイに「そっくり[13]」(阿部珠樹)、それに母父マルゼンスキーの「いいところも出ている[18]」(藤原悟郎)といった大物3頭の良い点を兼ね備えていた[18]。阿部珠樹によれば「期待が大きくなるのは当然の成り行き[13]」だったという。生まれて3日目[注釈 4]、牧場を訪れた栗東トレーニングセンター所属の調教師伊藤雄二[注釈 5]に見出されて、即日入厩先が決定した[23]。伊藤は「その場で話を決めたぐらい。どこがどう、というのではなく、第一印象がよかった[23]」と述懐している。伊藤は、15年以上関係を継続していた京都府東山区の開業医(内科)太田美實に6番仔を紹介した[24][25]。伊藤は、かねてより凱旋門賞優勝馬を高く評価する傾向にあり[25]、その産駒を狙ったのではと汲み取った太田は「トニービンの仔なら買おう[25]」と考えて所有に至った。太田は6番仔に「ウイニングチケット」という競走馬を与えた。由来について、杉本清との対談の場でこのように述べている。

杉本清 そうそう。名前の由来をお聞きしないと。誰がお付けになりました。
太田美實 ぼくが付けました。「当たり馬券」は英語でなんていうのか思ったら「ウイニングチケット」なんですね。それでそのまま(笑)
太田珠子夫人 「勝利への切符」って訳してください(笑)。「当たり馬券」なんてねえ。
優駿』1993年8月号「杉本清の競馬談義」より[26]

当歳秋には種子骨炎を患い、1か月半厩舎から出ることができなかったが、治癒した後は、怪我や病気をすることなく過ごした[23]。牧場時代は悟郎によれば「鹿のような馬だった[23]」「細手の、決して見栄えはしない馬だった。でもセンスのよさが感じられる馬体をしていましたね[23]」と述懐している。ただ2歳春頃から成長、悟郎は「グーンと成長(中略)それがまた、ものすごい成長力なんです。送り出すときにはかなり自信[18]」があったという。3歳春、伊藤厩舎に入厩[13]。馬主歴25年以上で重賞出走経験なしの太田は、栗東で初めて所有馬ウイニングチケットと対面、「その頃からあの馬は全然違いました。素晴らしかったですね[注釈 6]。」と述懐している。

競走馬時代

弥生賞優勝 - 皐月賞4着(3歳9月 - 4歳4月)

1992年9月6日、函館競馬場新馬戦(芝1200メートル)に柴田政人[注釈 7]が騎乗し、7番人気でデビューし5着[27]。9月13日、連闘で臨んだ2戦目の新馬戦は、柴田から指摘から芝1700メートルに距離延長[28]横山典弘が騎乗して1番人気で出走し、2番手から抜け出し初勝利を挙げた[13]。その後はソエのために約3か月休養[27]。栗東に戻って関東に遠征し、12月6日の葉牡丹賞(500万円以下、芝2000メートル)に田中勝春が騎乗[29]。スローペースの中、9頭立て最後方を追走、第3コーナーからまくり、最終コーナーを先頭で通過、直線では止まらず差を広げた[28]。4馬身差で2勝目を挙げる[29]。それから12月27日、ホープフルステークス(OP)では柴田政人が舞い戻り1番人気の支持。好位から直線で先頭に立ち、差を広げて先頭で入線。3馬身差をつけて3連勝とした[27][29]

休養している間に4歳となった1993年、3月7日の皐月賞トライアル競走である弥生賞GII)に3.3倍の1番人気に支持される[30]。以下、ラジオたんぱ杯3歳ステークス優勝のナリタタイシンが3.5倍、ジュニアカップ優勝などデビュー2連勝のドージマムテキが4.9倍で続いていた[30]。伊藤によれば「85点の状態[18]」での出走だったという。スタートから最後方を追走し、第3コーナーで外から進出した[29]。最終コーナーを大外6番手で通過、末脚を見せてすべて差し切った[31]。以降は、差を広げる一方となって先頭で入線、2番手ナリタタイシンに2馬身差をつけて重賞初勝利、皐月賞の優先出走権を獲得した[32]。走破タイム2分0秒1は、アサカリジェントが前年に樹立した弥生賞レコードを1.4秒更新[18]。さらに1984年にシンボリルドルフが樹立した、同距離同条件の皐月賞レコードを1秒上回った[33]。タイムでのシンボリルドルフ越えは、軍土門隼夫によれば「衝撃[33]」だったと語られる。中山競馬場芝2000メートルでの3連勝となり、クラシックの主役、本命馬として臨むこととなった[23][33]

4月18日、皐月賞(GI)に参戦、単勝オッズ2.0倍の1番人気に支持される[34]若葉ステークス優勝から臨む6戦4勝2着2回、朝日杯3歳ステークス2着馬ビワハヤヒデが3.5倍の2番人気となり「二強」を形成[35]。以下、ナリタタイシン、シクレノンシェリフ、ツジユートピアンと続いていた[34]。2枠4番からスタートし、スローペースの流れでナリタタイシンとともに後方を追走[35]。向こう正面でナリタタイシンと別れて位置を上げ、第3コーナーからは中団のビワハヤヒデと合流しともに進出。2番手集団に加わり最終コーナーを通過した[31]。直線ではしばらく二強で横並びだったが、以後ウイニングチケットは失速[36]。二強の争いを制したビワハヤヒデは抜け出したが、後方外から追い込んだナリタタイシンにクビ差差し切られている[36]。ウイニングチケットは、その争いに1馬身半以上後れを取る5位で入線した[37]。3位入線ガレオンの直線コースでの斜行が、ステージチャンプの進路を妨害したと認定されて8着降着[37]。繰り上がりが発生し、ウイニングチケットは4着[27][38]。東京優駿(日本ダービー)の優先出走権を獲得した[37]。 柴田は「道中はジワジワと上昇して早めに好位に取り付いたが、結果的にはこういった競馬は向かなかった。弥生賞のように、直前だけの競馬に徹した方が良かったかな[39]。」と回顧している。

東京優駿(4歳5月30日)

5月30日、東京優駿(日本ダービー)(GI)に参戦。出走する18頭のうち、重賞2勝馬がナリタタイシンのみ、若草ステークス(OP)と条件戦を勝利した3勝馬や、2勝と重賞2着だった馬が除外されるなど出走ボーダーが例年よりも高い、選り抜かれたメンバーであった[注釈 8][40]。人気の面では、「二強」に皐月賞優勝馬を加えた「三強」を形成。オッズ3.6倍から4.0倍の間に3頭がひしめき合い、ウイニングチケット、ビワハヤヒデ、ナリタタイシンの人気順、以下9倍台にNHK杯優勝馬のマイシンザン、皐月賞3着のシクレノンシェリフが続いていた[41]

皐月賞の後、柴田が弥生賞と同じ騎乗をしなかったとして「騎乗ミス」だったとの批判が集まっていた[42]。弥生賞のようにすれば、ダービーを勝てると指南する評論家もいたという[42]。しかし柴田は、皐月賞が持ち味を発揮する「完璧な乗り方[42]」であり、ウイニングチケットの方が「きちっと走れる状態じゃなかった[42]」と信じていたという。常に積極的に取材に対応する柴田は、それが最も活発になるダービー直前であっても丁寧に対応してきていた[42]。しかしこの年、その自信を揺るぎないものにするために、このダービー直前の1週間に限り、記者に取材の自粛を要請[42][43]。それでも自宅にかかってくる電話も断り続け、戦法を公にしないまま参戦することになる[42]。一方、取材を受け入れた厩舎は、弥生賞のように後方待機策をとると宣言していた[44]。伊藤は参戦にあたって「弥生賞当時が85点の仕上げ、皐月賞は93点ぐらいかな。あくまで最大の目標はダービー(中略)競馬というのは、相手があってのものですが、この馬の場合は相手云々ではなく、とにかく自分の競馬に徹することが、持ち味を生かすことにつながる。前半は遊んで、残り半分で競馬をする、自分の競馬に徹して、初めて持ち味が生かせる[45]。」と述べていた。

映像外部リンク
1993年 東京優駿(日本ダービー)(GI
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画
1993年 東京優駿(日本ダービー)(GI
レース映像と解説 netkeibaTV公式YouTubeチャンネルによる動画

5枠10番からスタートして、中団または後方、馬場の最も内側を追走、ビワハヤヒデを前に置く形となった[46]。ミドルペースで進む中、向こう正面で逃げ馬がペースアップ[47]。それ以外17頭は、第3コーナーに差し掛かってから追い上げを開始した[47]。ナリタタイシン、ビワハヤヒデなどほとんどは、芝の状態の良い外に進路を求めていたが、ウイニングチケットは内から離れなかった。早めに仕掛けられながら、空いた内を突いて抜け出し、先頭となった[47]。ビワハヤヒデはコーナーでは外を回ったものの、コーナーワークを利したのを見て、ウイニングチケットの内に転進して追い上げた[46]。直線の坂を上り、内からビワハヤヒデ、外からナリタタイシンが迫る中、柴田は「口をガーッと開いて、顎を前へ突き出して、馬より前へ飛び出しそうなフォーム(中略)馬の脚色が一杯になったときの彼独特のフォーム[48]」(野平祐二)で追って先頭を守った[48]。内のビワハヤヒデには半馬身、外のナリタタイシンには1馬身半以上の差をつけて入線、ダービー優勝を果たした[49]。1番人気から3番人気までの3頭が3着までを占めたのは、ロングエースランドプリンスタイテエム[注釈 9]の順で決着した1972年以来21年ぶりであった[50]。走破タイム2分25秒5は、1990年にアイネスフウジンが樹立したダービーレコード2分25秒3に次ぐ、2番目に速い決着であった[49][50]。場内では「マサトコール」が発生したという[51][52][注釈 10]

世界のホースマンに、60回のダービーを勝った柴田ですと伝えたい。 — 柴田政人[53][54]

この発言は、レース直後の勝利騎手インタビューにて「誰にこの勝利を伝えたいか」という問いに対する柴田の返答である[53]。この時柴田は、騎手生活27年目、44歳であった。これまでダービーは18戦に騎乗し、最高はコクサイトリプルやイイデセゾンでの3着[54]。他にもアローエクスプレスの乗り替わり[注釈 11]、皐月賞優勝馬ファンタストの体調不良[注釈 12][57]、同ミホシンザンの骨折回避[注釈 13][57]、シンボリルドルフ幻の函館デビュー[注釈 14][57]など(詳細は柴田政人#柴田政人と日本ダービー)、さらにダービージョッキーではないにもかかわらず、ダービージョッキーズステークスに騎乗する[注釈 15][57]といったなど辛酸を嘗めながら、19度目の騎乗でダービージョッキーに到達した[59]。伝えたい相手が「世界のホースマン」なのは、外国で騎乗した際に現地のマスコミに「ダービーは勝っているのか?」と聞かれるという恥ずかしい思いをしており、インタビュー中にその経験を思い出したという[53]。この発言は、ダービージョッキーという栄誉を象徴的に示した名言とされている[54]

他にも藤原牧場は、皐月賞優勝馬サクラスターオーの故障回避、伊藤は同じく皐月賞優勝馬ハードバージで一度勝利を確信したもののクビ差2着[60]、を乗り越えたダービー初勝利[61][62]。ウイニングチケットを所有するまで重賞出走経験のなかった太田も当然ダービー初勝利となった[63]。伊藤は「最大の勝因はマサ(柴田政人)が最高の騎乗をしてくれたこと[15]」だとしている。柴田は「弥生賞の直線一気の競馬が印象に残っていたようですが、本当は皐月賞のように、中団から差すのが、この馬には一番合っているんですよ。(中略)4コーナーでも手応えは十分で、直線に入って楽に抜け出せました[15]。」と述べている。柴田がウイニングチケットでダービーを意識し始めたのは、ホープフルステークスを勝利した時だったという[53]

東京優駿以降(4歳6月 - 5歳)

その後は、社台ファームに移動して夏休み[64]、7月7日に栗東に帰厩した[65]。秋は10月17日、菊花賞のトライアル競走である京都新聞杯GII)で始動。後方内側を進み、最終コーナーでは進路を失って最後方となるも、内を突いて進出[65]。残り200メートルから、外に持ち出して追い上げ、末脚を発揮[65]。ゴール手前でマイヨジョンヌをクビ差差し切り勝利、重賞3勝目を挙げた[66]。それから菊花賞GI)は、ビワハヤヒデに5馬身半差の3着、ジャパンカップGI)も3着[28]有馬記念GI)は、折り合いを欠いて11着に敗れた[66]

古馬となった1994年は、笹針を打って休養[2]。7月の高松宮杯GII)で始動した。柴田政人が落馬負傷[注釈 16]したため、柴田善臣に乗り替わって1番人気で出走。ナイスネイチャに5馬身以上離された5着[68]。秋は武豊に乗り替わり、オールカマーGIII)で始動しビワハヤヒデに1馬身4分の3差の2着[28]。武と続戦した10月30日の天皇賞(秋)GI)は8着、レース中に屈腱炎を発症していたことが判明した[69]。1995年2月5日付でJRAの競走馬登録を抹消し、引退[2]。同月、柴田政人も騎手を引退している[70]

引退後

種牡馬時代

引退後の1995年から、北海道静内町の静内スタリオンステーションで種牡馬として供用された[6]。初年度から70頭以上、4年目の1998年にはピークとなる117頭の繁殖牝馬を集めた[71]。2003年に種牡馬シンジケートを解散[72]。2004年には、同スタリオンの閉鎖に伴い同静内町のアロースタッドに移動[72]。翌2005年、5頭の相手をした後の秋に種牡馬を引退した[72][71]。1997年産のベルグチケットは1999年のフェアリーステークスGIII)を優勝[73]。これが唯一の産駒JRA重賞タイトルとなった。ブルードメアサイアーとしての産駒には、2014年オーシャンステークスGIII)、2015年中京記念GIII)優勝のスマートオリオン(牡→、父:グラスワンダー)がいる[74]

オイスターチケット

ウイニングチケットとフロリースカップ牝系を組み合わせたオイスターチケット(牝、母父:トウショウボーイ、1998年産[75])は、2000年のすずらん賞優勝、ファンタジーステークスGIII)3着など11戦2勝[76]。オイスターチケットの産駒(ウイニングチケットのブルードメアサイアーとしての産駒)には、オープンで活躍したダブルティンパニー(牡、父:サンデーサイレンス[77]、2006年のチューリップ賞GIII)2着、ローズステークスGII)2着のシェルズレイ(牝、父:クロフネ[78]、2008年のNHKマイルカップJpnI)2着、東京優駿JpnI)3着、他JpnII2着2回のブラックシェル(牡、父:クロフネ)[79]、2018年のフィリーズレビューGII)2着のアンコールプリュ(牝、父:ディープインパクト[80]がいる。

さらに、シェルズレイの産駒(オイスターチケットの母母としての産駒、ウイニングチケットの母母父としての産駒)には、2014年ホープフルステークスGII)、2017年CBC賞GIII)優勝のシャイニングレイ(牡、父:ディープインパクト)[81]、2020年チャレンジカップGIII)、2021年大阪杯GI)優勝のレイパパレ(牝、父:ディープインパクト)がいる[82]

功労馬時代

種牡馬引退後は、北海道浦河町うらかわ優駿ビレッジAERUにて功労馬となる[72]。2007年4月21日、グランドオープン初日の東京競馬場のパドックにて、レガシーワールドとともに、東京優駿優勝時の馬服を着用してお披露目、翌22日には、場内ホースリンクにて放牧の様子を公開していた[83][84]。2010年7月25日、函館競馬場のパドックにて、同じく馬服を着用してお披露目[85]。ビワハヤヒデもお披露目されており、2頭は16年ぶりの再会となった[85]。AERUでは、ニッポーテイオーダイユウサクヒシマサルとともに繋養され、4頭が同じ放牧地で過ごす時期もあった[86]。特にヒシマサルと仲が良かったと伝わる[87]。ダイユウサクとニッポーテイオーの死を見送り[88]、ヒシマサルが衰弱して以降は、高齢と怪我防止を理由に一人で放牧されている[89][90]。31歳となった2021年8月18日には、レガシーワールドの死に伴い、生存する最年長のJRA-GI競走優勝馬となった[90]

1996年には、生まれ故郷の静内町(2006年より新ひだか町)の商店街にブロンズ像が建立された[91]。2000年に破壊されて一時失うも、2004年に復元されている[91]

競走成績

以下の内容は、JBISサーチ[92]およびnetkeiba.com[93]、『優駿』2004年6月号61頁[6]に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場) 頭数 枠番 馬番 オッズ

(人気)

着順 タイム

(上り3F)

着差 騎手 斤量
[kg]
1着馬(2着馬) 馬体重
[kg]
1992.09.06 函館 3歳新馬 芝1200m(不) 14 5 7 013.8(7人) 05着 1.16.4 (40.1) -0.5 0柴田政人 53 マルチ 452
0000.09.13 函館 3歳新馬 芝1700m(重) 12 6 7 004.0(1人) 01着 1.48.8 (39.4) -0.2 0横山典弘 53 (ヒノデクロスオー) 446
0000.12.06 中山 葉牡丹賞 5下 芝2000m(良) 9 8 9 004.0(2人) 01着 2.02.1 (35.7) -0.8 0田中勝春 54 (メジャーウィナー) 456
0000.12.27 中山 ホープフルS OP 芝2000m(良) 7 4 4 001.3(1人) 01着 2.02.3 (34.7) -0.5 0柴田政人 55 マイヨジョンヌ 456
1993.03.07 中山 弥生賞 GII 芝2000m(良) 11 8 10 003.3(1人) 01着 2.00.1 (35.0) -0.3 0柴田政人 55 ナリタタイシン 466
0000.04.18 中山 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 2 4 002.0(1人) 04着 2.00.6 (35.4) -0.4 0柴田政人 57 ナリタタイシン 460
0000.05.30 東京 東京優駿 GI 芝2400m(良) 18 5 10 003.6(1人) 01着 2.25.5 (36.2) -0.1 0柴田政人 57 ビワハヤヒデ 458
0000.10.17 京都 京都新聞杯 GII 芝2200m(良) 10 4 4 001.2(1人) 01着 2.13.3 (34.4) -0.0 0柴田政人 57 (マイヨジョンヌ) 466
0000.11.07 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 5 9 002.8(2人) 03着 3.05.7 (35.3) -1.0 0柴田政人 57 ビワハヤヒデ 470
0000.11.28 東京 ジャパンカップ GI 芝2400m(良) 16 1 2 009.1(4人) 03着 2.24.6 (35.9) -0.2 0柴田政人 55 レガシーワールド 460
0000.12.26 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 14 7 11 005.4(3人) 11着 2.32.6 (36.7) -1.7 0柴田政人 55 トウカイテイオー 462
1994.07.10 中京 高松宮杯 GII 芝2000m(良) 13 4 5 002.1(1人) 05着 2.01.7 (36.8) 1.0 0柴田善臣 59 ナイスネイチャ 456
0000.09.18 中山 オールカマー GIII 芝2200m(重) 8 3 3 002.8(2人) 02着 2.14.8 (35.5) -0.3 0武豊 57 ビワハヤヒデ 462
0000.10.30 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(良) 13 6 9 005.0(2人) 08着 1.59.2 (35.0) -0.6 0武豊 58 ネーハイシーザー 462

種牡馬成績

以下の情報は、JBISサーチの情報に基づく[71]

種付年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI
1995 78 62 62 51 26 1 0.86
1996 74 59 58 54 40 2 0.84
1997 95 66 66 62 48 1 0.68
1998 117 88 88 82 65 2 0.69
1999 64 51 51 42 30 0 0.61
2000 61 48 40 36 22 2 0.47
2001 63 38 36 29 22 1 0.27
2002 94 67 61 50 31 0 0.23
2003 57 37 34 25 19 1 0.28
2004 30 14 9 7 6 0 0.16
2005 5 2 2 2 1 0.12
合計 507 440 310 10 0.60 0.78

主な産駒

血統表

ウイニングチケット血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ゼダーン系
[§ 2]

*トニービン
Tony Bin
1983 鹿毛
父の父
*カンパラ
Kampala
1976 黒鹿毛
Kalamoun *ゼダーン
Khairunissa
State Pension *オンリーフォアライフ
Lorelei
父の母
Severn Bridge
1965 栗毛
Hornbeam Hyperion
Thicket
Priddy Fair Preciptic
Campanette

パワフルレディ
1981 黒鹿毛
マルゼンスキー
1974 鹿毛
Nijinsky Northern Dancer
Flaming Page
*シル
Shill
Buckpasser
Quill
母の母
ロッチテスコ
1975 鹿毛
*テスコボーイ
Tesco Boy
Princely Gift
Suncourt
スターロツチ *ハロウェー
コロナ
母系(F-No.) クレイグダーロツチ(GB)系(スターロッチ系)(FN:11-c) [§ 3]
5代内の近親交配 Hyperion 4 × 5 = 9.38%、Nasrullah 5 × 5 = 6.25% [§ 4]
出典
  1. ^ [108][109]
  2. ^ [109]
  3. ^ [108][109][110]
  4. ^ [108][109]

脚注

注釈

  1. ^ 愛称「チケゾー」の命名者。
  2. ^ 悟郎が、1987年に初めて交配し、1988年に生産したカリスタグローリ(父:ブレイヴエストローマン、母:ロッチテスコ、母父:テスコボーイ、母母:スターロッチ)は、1991年のクリスタルカップGIII[11]
  3. ^ パワフルレディの父は、マルゼンスキーである。マルゼンスキー産駒は「筋骨たくましい馬」(阿部珠樹)が多い傾向にあった。
  4. ^ 石田敏徳[19]によれば「生まれた次の日」と伝わる。しかし江面弘也[20]や、辻谷秋人[21]などでは「生まれて3日目」と伝わる。
  5. ^ 伊藤と藤原牧場は、婚姻関係にある。過去にハードバージなどを管理していた。[22]
  6. ^ この直後、珠子夫人が「今までの持ち馬と比べて(笑)」と吹っ掛けると、太田美實は「今までの持ち馬は走らな過ぎましたから(笑)」と応えている。
  7. ^ 栗東所属の伊藤は、美浦所属の柴田に騎乗を依頼した。スターロッチの牝系の多く騎乗していたこと、伊藤が柴田にダービーを勝たせたいと考えたための起用であった[20]
  8. ^ 石田敏徳によれば、「れっきとした"オープン馬"」が出走できないダービーは、史上初めてだったという。
  9. ^ 花の47年組でもクラシック戦線を賑やかしたこの3頭は「三強」と呼ばれていた。
  10. ^ 同姓の騎手、柴田善臣がいた。なお「マサト」には吉永正人がいるが、この時すでに騎手を引退している。
  11. ^ アローエクスプレスは、高松三太厩舎所属。高松と柴田という師弟コンビでデビュー6連勝。スプリングステークスでタニノムーティエに敗れた2着となった後、当時の関東ナンバーワンジョッキーである加賀武見に乗り替わった[55]。加賀とともにダービー5着。
  12. ^ 追い切り直後に軽い腹痛を起こし、当日は本来の出来になかった。10着敗退。[56]
  13. ^ 柴田が三冠を成し遂げられると信じていたミホシンザンは、皐月賞4日後に左前脚第3手根骨骨折が判明[58]してダービーを回避。後に菊花賞を勝利し二冠を果たしている。
  14. ^ シンボリルドルフは当初、函館競馬場でのデビューし、柴田が騎乗する予定であった。しかし新潟競馬場でのデビューに変更。岡部幸雄が騎乗することとなり、以後岡部とともにダービー優勝。三冠を成し遂げたうえに、GI7勝を挙げた。
  15. ^ 1988年5月29日の東京競馬場第9競走。サクラチヨノオーが勝利したダービーの前座として催された。通常、ダービー優勝経験のある騎手しか騎乗が許されない競走である。直前で岩元市三(1982年バンブーアトラス)が騎乗不能となり、急遽補欠一番手に指定されていた柴田の参戦が実現した。
  16. ^ 引退の引き金となった負傷である[67]

出典

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参考文献

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      • 典厩五郎「【エッセイ 私の見た第60回日本ダービー】文句のないダービー」
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      • 木村幸治「【ロングインタビュー】柴田政人騎手 ダービーを勝ったから騎手を辞める!? いや、来年も勝ちたくなったよ。」
      • 辻谷秋人「【'93春のGI競走勝ち馬の故郷】日本ダービー馬ウイニングチケットの故郷・藤原牧場 自分の馬で上がった表彰台」
      • 優駿編集部「【杉本清の競馬談義】第101回 太田美実さん」
    • 1993年10月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 89】父を超える夢 ミホシンザン」
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      • 小林あゆみ「【巻末特集 東京競馬場グランドオープン】初日リポート "新生"東京競馬場のグランドオープンを感じに行く!」
    • 2007年10月号
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      • 軍土門隼夫「【不滅のライバル物語 2】ウイニングチケットVSビワハヤヒデVSナリタタイシン 個性がぶつかり合った三強クラシック」
    • 2014年9月号
      • 江面弘也「【顕彰者たち~中央競馬の発展に寄与した6人のホースマン~】調教師 伊藤雄二」
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外部リンク