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[[ファイル:Cicero - Musei Capitolini.JPG|サムネイル|[[キケロ]](前1世紀)<hr>「ローマ最大の哲学者」と評される{{Sfnp|角田|2006|p=3}}。[[プラトン]]や[[アリストテレス]]、[[ストア派]]、[[アカデメイア派]]を[[折衷主義|折衷]]する立場をとった{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}。哲学用語の[[ラテン語]]訳を多く考案した{{Sfnp|ロング|2009|p= |
[[ファイル:Cicero - Musei Capitolini.JPG|サムネイル|[[キケロ]](前1世紀)<hr>「ローマ最大の哲学者」と評される{{Sfnp|角田|2006|p=3}}。[[プラトン]]や[[アリストテレス]]、[[ストア派]]、[[アカデメイア派]]を[[折衷主義|折衷]]する立場をとった{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}。哲学用語の[[ラテン語]]訳を多く考案した{{Sfnp|ロング|2009|p=270}}。]] |
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[[ファイル:Marcus-Aurelius.jpg|サムネイル|[[マルクス・アウレリウス]](2世紀)<hr>『[[自省録]]』を著した哲人皇帝。[[セネカ]]、[[エピクテトス]]と並ぶ代表的なストア派哲学者{{Sfnp|國方|2019}}{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}。]] |
[[ファイル:Marcus-Aurelius.jpg|サムネイル|[[マルクス・アウレリウス]](2世紀)<hr>『[[自省録]]』を著した哲人皇帝。[[セネカ]]、[[エピクテトス]]と並ぶ代表的なストア派哲学者{{Sfnp|國方|2019}}{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}。]] |
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[[ファイル:Saint Augustine Portrait.jpg|サムネイル|[[アウグスティヌス]](4-5世紀)<hr>代表的な[[キリスト教哲学]]者。キケロや[[新プラトン主義]]を受容し<ref name=":4">{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|last=松崎|first=一平|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|chapter=アウグスティヌス 新プラトン主義との出会いをめぐって|isbn=9784790716242}}</ref>、『アカデメイア派論駁』などを著した<ref name=":8" />。]] |
[[ファイル:Saint Augustine Portrait.jpg|サムネイル|[[アウグスティヌス]](4-5世紀)<hr>代表的な[[キリスト教哲学]]者。キケロや[[新プラトン主義]]を受容し<ref name=":4">{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|last=松崎|first=一平|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|chapter=アウグスティヌス 新プラトン主義との出会いをめぐって|isbn=9784790716242}}</ref>、『アカデメイア派論駁』などを著した<ref name=":8" />。]] |
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'''ローマ哲学''' (ローマてつがく、{{Lang-en-short|Roman philosophy}}){{Sfnp|ロング|2009|loc=章題}} すなわち[[古代ローマ]]における[[哲学]]は、[[ギリシア哲学]]・[[ヘレニズム哲学]]の諸派を継承または[[折衷主義|折衷]]する形でおこなわれた。 |
'''ローマ哲学''' (ローマてつがく、{{Lang-en-short|Roman philosophy}}){{Sfnp|ロング|2009|loc=章題}} すなわち[[古代ローマ]]における[[哲学]]は、[[ギリシア哲学]]・[[ヘレニズム哲学]]の諸派を継承または[[折衷主義|折衷]]する形でおこなわれた。 |
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言い換えれば、ローマ哲学はギリシアからの「輸入学問」に過ぎず{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}、「ローマ自家製の哲学」は無きに等しかった{{Sfnp|ロング|2009|p= |
言い換えれば、ローマ哲学はギリシアからの「輸入学問」に過ぎず{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}、「ローマ自家製の哲学」は無きに等しかった{{Sfnp|ロング|2009|p=269}}。また内容についても「独創性を欠いた[[折衷主義]]」などの低評価が与えられてきた{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。 |
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しかし[[20世紀]]末から、ローマ哲学は徐々に再評価されている{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。例えば[[キケロ]]、[[ルクレティウス]]、[[セネカ]]、[[セクストス・エンペイリコス]]、[[プロティノス]]らの著作は、[[ルネサンス]]期に再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。[[ディオゲネス・ラエルティオス]]『[[ギリシア哲学者列伝]]』などの主要な[[ドクソグラフィー|学説誌]]や{{Sfnp|内山|2007|p=23}}、最初の[[プラトン全集]]と[[アリストテレス全集]]{{Sfnp|内山|2007|p=38}}、[[キリスト教哲学]]が生まれたのも、ローマ哲学においてだった。哲学用語の[[ラテン語]]への[[翻訳]]は、元来ギリシアのローカルな学問に過ぎなかった哲学が、世界的な学問となる一つの契機になった{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。 |
しかし[[20世紀]]末から、ローマ哲学は徐々に再評価されている{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。例えば[[キケロ]]、[[ルクレティウス]]、[[セネカ]]、[[セクストス・エンペイリコス]]、[[プロティノス]]らの著作は、[[ルネサンス]]期に再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。[[ディオゲネス・ラエルティオス]]『[[ギリシア哲学者列伝]]』などの主要な[[ドクソグラフィー|学説誌]]や{{Sfnp|近藤|2020|p=46}}{{Sfnp|内山|2007|p=23}}、最初の[[プラトン全集]]と[[アリストテレス全集]]{{Sfnp|内山|2007|p=38}}、[[キリスト教哲学]]<ref name=":18">[[長倉久子]]「[http://hdl.handle.net/10112/0002000907 渡部菊郎先生追悼の会講演 中世哲学に<真理>を求めて: 渡部菊郎先生と中世哲学]」『関西大学哲学』21号、関西大学哲学会、2002年。{{CRID|1050299306989516288}}。13f頁。</ref>が生まれたのも、ローマ哲学においてだった。哲学用語の[[ラテン語]]への[[翻訳]]は、元来ギリシアのローカルな学問に過ぎなかった哲学が、世界的な学問となる一つの契機になった{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。 |
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== 特徴 == |
== 特徴 == |
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=== 低評価と再評価 === |
=== 低評価と再評価 === |
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旧来の[[哲学史]]において、ローマ哲学は「独創性を欠いた[[折衷主義]]{{Efn|例えば、後述の[[キケロ]]や[[新プラトン主義]]が折衷主義的とされる。「新プラトン主義」という呼称を定着させた19世紀ドイツの哲学史家たちは、「正統な[[プラトン主義]]」ではなく「諸説・諸宗教を体系なく混合する悪しき折衷主義」であるとして、この呼称を与えた{{Sfnp|近藤|2020|p=160}}。}}」「[[実践]]の偏重と[[理論]]の欠如{{Efn|例えば、初期ストア派の[[クリュシッポス]]らは[[論理学]]の理論を扱ったが、ローマ期のストア派(後期ストア派)はあまり扱わない(全く扱わないわけではない{{Sfnp|近藤|2020|p=46}})。}}」「内面に引きこもることによる[[内なる平和|心の平静]]の希求{{Efn|[[ストア派]]の「{{仮リンク|アパテイア|en|Apatheia}}」、[[エピクロス派]]の「[[アタラクシア]]」、[[ピュロン主義]]の「[[エポケー]]」などを指す。}}」などのイメージによる低評価が与えられてきた{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。これらはみな根拠がないわけではないが、実態はより複雑とされる{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。 |
旧来の[[哲学史]]において、ローマ哲学は「独創性を欠いた[[折衷主義]]{{Efn|例えば、後述の[[キケロ]]や[[新プラトン主義]]が折衷主義的とされる。「新プラトン主義」という呼称を定着させた19世紀ドイツの哲学史家たちは、「正統な[[プラトン主義]]」ではなく「諸説・諸宗教を体系なく混合する悪しき折衷主義」であるとして、この呼称を与えた{{Sfnp|近藤|2020|p=160}}。}}」「[[実践]]の偏重と[[理論]]の欠如{{Efn|例えば、初期ストア派の[[クリュシッポス]]らは[[論理学]]の理論を扱ったが、ローマ期のストア派(後期ストア派)はあまり扱わない(全く扱わないわけではない{{Sfnp|近藤|2020|p=46}})。}}」「内面に引きこもることによる[[内なる平和|心の平静]]の希求{{Efn|[[ストア派]]の「{{仮リンク|アパテイア|en|Apatheia}}」、[[エピクロス派]]の「[[アタラクシア]]」、[[ピュロン主義]]の「[[エポケー]]」などを指す{{Sfnp|近藤|2020|p=47}}。}}」などのイメージによる低評価が与えられてきた{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。これらはみな根拠がないわけではないが、実態はより複雑とされる{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。 |
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ローマ哲学に対する低評価は、[[19世紀]][[ドイツ]]の[[ヘーゲル学派]]の[[哲学史家]][[エドゥアルト・ツェラー|ツェラー]]や[[フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー|シュベーグラー]]により醸成され、[[ニーチェ]]や[[ハイデガー]]にも受け継がれた{{Sfnp|角田|2014|p=1-3}}。 |
ローマ哲学に対する低評価は、[[19世紀]][[ドイツ]]の[[ヘーゲル学派]]の[[哲学史家]][[エドゥアルト・ツェラー|ツェラー]]や[[フリードリヒ・カール・アルベルト・シュヴェーグラー|シュベーグラー]]により醸成され、[[ニーチェ]]や[[ハイデガー]]にも受け継がれた{{Sfnp|角田|2014|p=1-3}}。 |
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一方、ローマ哲学再評価の例として、[[20世紀]]末に[[オックスフォード大学出版局]]から刊行された |
一方、ローマ哲学再評価の例として、[[20世紀]]末に[[オックスフォード大学出版局]]から刊行された論文集 ''Philosophia togata''(『[[トガ]]を着た哲学』{{仮リンク|ミリアム・グリフィン|en|Miriam T. Griffin}}と[[ジョナサン・バーンズ]]編著、[[1989年]]-[[1997年]])がある{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。同書は、哲学と政治、理論と実践との接続を意識しつつ、ギリシア由来の学問を我が物にしようとした古代ローマ人の苦心の跡を描いている{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。 |
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[[ケンブリッジ大学出版局]]刊行の |
[[ケンブリッジ大学出版局]]刊行の論文集『{{仮リンク|ケンブリッジ・コンパニオン|en|Cambridge Companions}} 古代ギリシア・ローマ哲学』([[2003年]])では、[[ヘレニズム哲学]]再評価の旗手として知られる{{仮リンク|A・A・ロング|en|A. A. Long}}{{Sfnp|ロング|2003|loc=訳者あとがき}}が、ローマ哲学の章を担当し、再評価している{{Sfnp|ロング|2009}}<ref>{{Citation|和書|title=古代ギリシア・ローマの哲学 ケンブリッジ・コンパニオン|last=セドレー|year=2009|translator=[[内山勝利]]|author-mask={{仮リンク|デイヴィッド・セドレー|en|David Sedley}}|publisher=京都大学学術出版会|editor=デイヴィッド・セドレー|chapter=序章|isbn=9784876987863}}(原著: 2003年)</ref>。 |
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[[スティーヴン・グリーンブラット]]『{{仮リンク|一四一七年、その一冊がすべてを変えた|en|The Swerve}}』([[2011年]]) |
[[スティーヴン・グリーンブラット]]『{{仮リンク|一四一七年、その一冊がすべてを変えた|en|The Swerve}}』([[2011年]]){{Sfnp|グリーンブラット|2012}}{{Sfnp|近藤|2020|p=52}}は、近世の[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]による[[ルクレティウス]]再発見の重要性を論じ、[[全米図書賞]]・[[ピューリッツァー賞]]を受賞した<ref>{{Cite web |url=https://www.kashiwashobo.co.jp/book/9784760141760 |title=一四一七年、その一冊がすべてを変えた {{!}} 柏書房株式会社 |access-date=2024-10-25}}</ref>。 |
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[[リチャード・ポプキン]]『懐疑 近世哲学の源流』([[1960年]])<ref>[[リチャード・ポプキン|リチャード・H. ポプキン]] 著、[[野田又夫]];岩坪紹夫 訳『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215225 懐疑 近世哲学の源流]』紀伊國屋書店、1981年、ISBN 978-4314003438、{{NDLJP|12215225}}</ref>は、[[セクストス・エンペイリコス]]の近世への影響を論じ、上記の[[ジョナサン・バーンズ|バーンズ]]らによるセクストス研究を促した<ref>宮武昭「解説「懐疑主義」について」、『知の分光学 叢書ヒストリー・オヴ・アイディアズ』平凡社、1987年。{{ISBN|4582733697}}。254-255頁。</ref>。 |
[[リチャード・ポプキン]]『懐疑 近世哲学の源流』([[1960年]])<ref>[[リチャード・ポプキン|リチャード・H. ポプキン]] 著、[[野田又夫]];岩坪紹夫 訳『[https://dl.ndl.go.jp/pid/12215225 懐疑 近世哲学の源流]』紀伊國屋書店、1981年、ISBN 978-4314003438、{{NDLJP|12215225}}</ref>は、[[セクストス・エンペイリコス]]の近世への影響を論じ、上記の[[ジョナサン・バーンズ|バーンズ]]らによるセクストス研究を促した<ref>宮武昭「解説「懐疑主義」について」、『知の分光学 叢書ヒストリー・オヴ・アイディアズ』平凡社、1987年。{{ISBN|4582733697}}。254-255頁。</ref>。 |
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=== ラテン語 === |
=== ラテン語 === |
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使用言語は[[ |
使用言語は[[ラテン語]]と[[ギリシア語]]が併存していた{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。例えば、[[ルクレティウス]]や[[キケロ]]はラテン語で{{Sfnp|ロング|2009|p=270;274}}、[[マルクス・アウレリウス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}や[[プロティノス]]<ref>{{Kotobank |word=エンネアデス |encyclopedia=柴田有 平凡社 改訂新版 世界大百科事典}}</ref>はギリシア語で哲学書を著した。 |
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しかし、主流はあくまでギリシア語でありラテン語は傍流に過ぎなかった{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している{{Sfnp|ロング|2009|p= |
しかし、主流はあくまでギリシア語でありラテン語は傍流に過ぎなかった{{Sfnp|近藤|2020|p=31f}}。ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している{{Sfnp|ロング|2009|p=270}}<ref>ルクレティウス『事物の本性について』1.136</ref>。キケロは、ラテン語は哲学に不向きであるとする当時の通説に反論し{{Sfnp|瀬口|2007|p=378}}、「哲学にラテン語を教え、哲学に[[ローマ市民権]]を贈る」ことを理想に掲げた{{Sfnp|角田|2001|p=168}}<ref>キケロ『{{仮リンク|善と悪の究極について|en|De finibus bonorum et malorum}}』1.1-10 ; 3.40</ref>。 |
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キケロはあたかも日本の[[西周 (啓蒙家)|西周]]のように、自作の[[造語]]を訳語とすることもあった<ref name=":3">{{Cite web |title=2014/06/05 |url=https://clsoc.jp/QA/2014/20140605.html |website=clsoc.jp |access-date=2022-07-16 |publisher=[[日本西洋古典学会]]}}</ref>。キケロの訳語のいくつかは、後世の[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]の諸言語に継承された{{Sfnp|荻野|2022|p=58}}。例: ギリシア語の「ポイオテース」({{Lang|grc|[[wikt:en:ποιότης|ποιότης]]}})→ キケロのラテン語訳「クアリタス」({{Lang|la|[[wikt:en:qualitas|qualitas]]}})→ 英語の「クオリティ」({{Lang|en|[[wikt:en:quality|quality]]}}){{Sfnp|ロング|2009|p= |
キケロはあたかも日本の[[西周 (啓蒙家)|西周]]のように、自作の[[造語]]を訳語とすることもあった<ref name=":3">{{Cite web |title=2014/06/05 |url=https://clsoc.jp/QA/2014/20140605.html |website=clsoc.jp |access-date=2022-07-16 |publisher=[[日本西洋古典学会]]}}</ref>。キケロの訳語のいくつかは、後世の[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]の諸言語に継承された{{Sfnp|荻野|2022|p=58}}。例: ギリシア語の「ポイオテース」({{Lang|grc|[[wikt:en:ποιότης|ποιότης]]}})→ キケロのラテン語訳「クアリタス」({{Lang|la|[[wikt:en:qualitas|qualitas]]}})→ 英語の「クオリティ」({{Lang|en|[[wikt:en:quality|quality]]}}){{Sfnp|ロング|2009|p=270}}{{Sfnp|近藤|2020|p=42}}。なかでも、ギリシア語の「[[フィランソロピー|ピラントローピアー]]」({{Lang|el|φιλανθρωπία}}、人間愛)や「{{仮リンク|パイデイア|en|Paideia|label=パイデイアー}}」({{Lang|el|παιδεία}}、教育)からキケロが作り出した「{{仮リンク|フマニタス|en|Humanitas}}」({{Lang|la|humanitas}})は、彼の思想の核に位置付けられる{{Sfnp|高畑|2004|pp=83-84}}。これは[[プブリウス・テレンティウス・アフェル|テレンティウス]]の格言「ホモー・スム」({{Lang|la|Homo sum. Humani nil a me alienum puto.}} 私は人間だ。人間的なもので、私と無関係なものなどないと思う。)の影響を受けたと思われ{{Sfnp|角田|2001|p=251}}、後世の「[[ヒューマニズム]]」{{Sfnp|角田|2001|p=251}}「[[人文主義]]」{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}「[[人文学]]」<ref>{{Kotobank |word=人文学 |encyclopedia=[[西山雄二]] 平凡社 大学事典}}</ref>の元になったとされる。 |
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[[プラトン]]や[[アリストテレス]]のラテン語訳が、キケロ、[[アプレイウス]]、{{仮リンク|ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス|en|Gaius Marius Victorinus|label=マリウス・ウィクトリヌス}}、[[ボエティウス]]らにより作られたが<ref name=":3" />、その大半は現存しない。わずかな現存例として、[[カルキディウス]]が訳注した『[[ティマイオス]]』<ref name=":11">土屋睦廣「解説」『プラトン『ティマイオス』註解』カルキディウス 著、土屋睦廣 訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2019年。ISBN 9784814002245。442頁。</ref>、[[ボエティウス]]が訳注した『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]』などの[[オルガノン]]{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}がある。 |
[[プラトン]]や[[アリストテレス]]のラテン語訳が、キケロ、[[アプレイウス]]、{{仮リンク|ガイウス・マリウス・ウィクトリヌス|en|Gaius Marius Victorinus|label=マリウス・ウィクトリヌス}}、[[ボエティウス]]らにより作られたが<ref name=":3" />、その大半は現存しない。わずかな現存例として、[[カルキディウス]]が訳注した『[[ティマイオス]]』<ref name=":11">土屋睦廣「解説」『プラトン『ティマイオス』註解』カルキディウス 著、土屋睦廣 訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2019年。ISBN 9784814002245。442頁。</ref>、[[ボエティウス]]が訳注した『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]』などの[[オルガノン]]{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}がある。 |
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=== 自殺 === |
=== 自殺 === |
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[[ファイル:Jacques-Louis David - La Mort de Sénèque - PDUT1154 - Musée des Beaux-Arts de la ville de Paris.jpg|サムネイル|『[[セネカの死 (ダヴィッド)|セネカの死]]』[[ジャック=ルイ・ダヴィッド|ダヴィッド]]画]] |
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[[ファイル:Pseudo-Seneca MAN Napoli Inv5616 n01.jpg|サムネイル|213x213ピクセル|[[セネカ]](1世紀)<hr>[[自殺]]したストア派哲学者{{Sfnp|ヘクト|2022|p=42f}}。]] |
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ローマ哲学では{{仮リンク|自殺の哲学|en|Philosophy of suicide|label=自殺論}}が度々扱われた。もともと古代ローマは[[ルクレティア]]を筆頭に著名な[[自殺]]者が多く{{Efn|他の著名な自殺者に、[[クレオパトラ]]、[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]とその妻{{仮リンク|ポルキア・カトニス|en|Porcia (wife of Brutus)}}、{{仮リンク|アッリア|en|Arria the Younger}}、[[マサダ]]で[[集団自決]]した[[ユダヤ人]]、後述の小カトーやセネカがいる{{Sfnp|ヘクト|2022|p=37-45}}。[[ウェルギリウス]]は『[[アエネイス]]』で、[[ディードー|ディド]]の自殺を歌っている{{Sfnp|ヘクト|2022|p=37-45}}。}}、その中には哲学者も含まれた。傾向としては、[[祖国]]や[[名誉]]のための自殺、死を恐れない自殺が賛美された |
ローマ哲学では{{仮リンク|自殺の哲学|en|Philosophy of suicide|label=自殺論}}が度々扱われた{{Efn|上記の{{仮リンク|ミリアム・グリフィン|en|Miriam T. Griffin}}の主要論文に、ローマにおける哲学と自殺を扱った "Philosophy, Cato, and Roman Suicide"(1986年、全2篇、{{JSTOR|643026}}、{{JSTOR|643257}})がある<ref>{{Cite web |url=https://cucd.blogs.sas.ac.uk/files/2020/12/LEIGH-Miriam-Griffin-1935-2018-1.pdf |title=Miriam Griffin (1935-2018) |access-date=2024-10-29 |publisher=[[:en:Council of University Classical Departments|Council of University Classical Departments]] |last=Leigh |first=Matthew}}</ref>。}}<ref>{{Cite web |title=Why Suicide Was a Sin in Medieval Europe |url=https://daily.jstor.org/why-suicide-was-a-sin-in-medieval-europe/ |website=JSTOR Daily |date=2021-03-22 |access-date=2024-10-28 |language=en-US |first=Livia |last=Gershon |quote=Some ancient Roman philosophers and statesmen had preached (and sometimes practiced) suicide as a noble course of action under certain impossible circumstances.}}</ref>。もともと古代ローマは[[ルクレティア]]を筆頭に著名な[[自殺]]者が多く{{Efn|他の著名な自殺者に、[[クレオパトラ]]、[[マルクス・アントニウス|アントニウス]]、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]とその妻{{仮リンク|ポルキア・カトニス|en|Porcia (wife of Brutus)}}、{{仮リンク|アッリア|en|Arria the Younger}}、[[マサダ]]で[[集団自決]]した[[ユダヤ人]]、後述の小カトーやセネカがいる{{Sfnp|ヘクト|2022|p=37-45}}。[[ウェルギリウス]]は『[[アエネイス]]』で、[[ディードー|ディド]]の自殺を歌っている{{Sfnp|ヘクト|2022|p=37-45}}。}}{{Sfnp|ヘクト|2022|p=1;37-45}}、その中には哲学者も含まれた。傾向としては、[[祖国]]や[[名誉]]のための自殺、死を恐れない自殺が賛美された一方{{Sfnp|ヘクト|2022|p=32f;47}}、逃避のための自殺は賛美されなかった{{Sfnp|ヘクト|2022|p=142}}。 |
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[[小カトー]]は、[[カエサル]]に敗れて[[自刃]]する際、『[[パイドン]]』を繰り返し読んでいたとされ、[[ソクラテス]]の最期([[服毒]]自殺)を自身に重ねていたと考えられる{{Sfnp|國方|1997|p=12}}。 |
[[ストア派]]の[[小カトー]]{{Sfnp|ロング|2009|p=280}}は、[[カエサル]]に敗れて[[自刃]]する際、『[[パイドン]]』を繰り返し読んでいたとされ、[[ソクラテス]]の最期([[服毒]]自殺)を自身に重ねていたと考えられる{{Sfnp|國方|1997|p=12}}。 |
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ローマ期のストア派は、ソクラテスや小カトーの死を賛美した{{Efn|初期ストア派の[[ゼノン (ストア派)|ゼノン]]、[[クレアンテス]]、[[タルススのアンティパトロス|アンティパトロス]]の死因も自殺とされるが、彼らの自殺への賛美は見られない{{Sfnp|國方|1997|p=11}}。}}{{Sfnp|國方|1997|p=12}}。ストア派は、[[死恐怖症|死の恐怖]]の克服を説き、祖国や名誉のための自殺、病人や老人の[[安楽死]]に限って、自殺を肯定した{{Sfnp|國方|1997|p=14f}}{{Sfnp|國方|2019|p=183f}}。一方、後世の[[アルトゥル・ショーペンハウアー|ショーペンハウアー]]は『自殺について』で、ストア派が自殺そのものを肯定していると解釈した{{Sfnp|國方|2019|p=183f}}。 |
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⚫ | [[キケロ]]は『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』で、 |
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ロ |
ストア派の[[セネカ]]は、[[ネロ]]の[[賜死|命令により自殺]]したことで知られる{{Efn|ネロに自殺させられたストア派には{{仮リンク|プブリウス・クロディウス・トラセア・パエトゥス|en|Publius Clodius Thrasea Paetus|label=トラセア・パエトゥス}}もいた{{Sfnp|近藤|2020|p=50}}。}}{{Sfnp|近藤|2020|p=50}}{{Sfnp|ヘクト|2022|p=42f}}。セネカは著作中で、自殺を「[[自由]]の行使」として肯定しているが{{Sfnp|近藤|2020|p=50}}、自殺の誘惑に抗う心の強さを美徳としてもいる{{Sfnp|ヘクト|2022|p=42f}}。 |
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⚫ | [[キケロ]]は『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』で、ストア派の影響のもと、小カトーの自殺を肯定しつつ、正当な理由なき自殺を禁止した{{Sfnp|國方|1997|p=12}}。同書では、「自殺の推奨者」[[キュレネのヘゲシアス|ヘゲシアス]]や、『パイドン』に感化されて自殺した[[アンブラキアのクレオンブロトス|クレオンブロトス]]の逸話も記している<ref>{{Citation|和書|title=キケロー選集12 哲学V トゥスクルム荘対談集|year=1999|translator=木村健治;岩谷智|publisher=岩波書店|isbn=4-00-092262-9}}68頁(1巻83-84節)。</ref>。また同書以外にも『[[大カトー・老年について|老年について]]』<ref name=":17">朴一功「[http://hdl.handle.net/2433/70955 プラトンの「自殺禁止説」]」『古代哲学研究室紀要』3、京都大学西洋古代哲学史研究室、1993年。{{CRID|1050564285529917184}}。10頁。</ref>『[[国家について]]』<ref>{{Citation|和書|title=「スキピオの夢」研究|last=池田|first=英三|year=1963|url=https://hdl.handle.net/2115/34270|journal=北海道大学人文科学論集|publisher=北海道大学教養部人文科学論集編集委員会|number=2|naid=120000946993}}7f;21頁。</ref>などで自殺を論じている。 |
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キケロはプラトンの自殺禁止論の影響も受けていた<ref name=":17" />。[[新プラトン主義]]者たちもプラトンの影響のもと自殺禁止論を説いた<ref>[[小島和男]]「[http://hdl.handle.net/10959/886 ソクラテスの死についての小論 : プラトン 『パイドン』 における自殺禁止論をめぐって]」『哲学会誌』26号、学習院大学哲学会、2002年。{{CRID|1050845762941839744}}。12-17頁。</ref>。 |
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[[エウセビオス]]は『[[教会史]]』で、自殺した[[殉教]]者を賛美した{{Sfnp|ヘクト|2022|p=48}}。一方、[[アウグスティヌス]]はエウセビオスを否定して自殺禁止を説き{{Sfnp|ヘクト|2022|p=51}}、[[ルクレティア]]の自殺でさえも批判した{{Efn|ただしアウグスティヌスは、[[キリスト]]の死を自殺と解釈とする[[神学]]上の立場を支持し、例外的に自殺を肯定した{{Sfnp|ヘクト|2022|p=51}}。}}{{Sfnp|ヘクト|2022|p=51}}<ref>高梨光正「[https://nmwa.repo.nii.ac.jp/records/353 新収作品 : グイド・レーニ《ルクレティア》]」『国立西洋美術館年報』36、国立西洋美術館、2003年。10頁。</ref>。[[452年]]の[[アルル]][[宗教会議]]以降、[[教会法]]に自殺禁止が加えられた{{Sfnp|ヘクト|2022|p=54}}。 |
[[エウセビオス]]は『[[教会史]]』で、自殺した[[殉教]]者を賛美した{{Sfnp|ヘクト|2022|p=48}}。一方、[[アウグスティヌス]]はエウセビオスを否定して自殺禁止を説き{{Sfnp|ヘクト|2022|p=51}}、[[ルクレティア]]の自殺でさえも批判した{{Efn|ただしアウグスティヌスは、[[キリスト]]の死を自殺と解釈とする[[神学]]上の立場を支持し、例外的に自殺を肯定した{{Sfnp|ヘクト|2022|p=51}}。}}{{Sfnp|ヘクト|2022|p=51}}<ref>高梨光正「[https://nmwa.repo.nii.ac.jp/records/353 新収作品 : グイド・レーニ《ルクレティア》]」『国立西洋美術館年報』36、国立西洋美術館、2003年。10頁。</ref>。[[452年]]の[[アルル]][[宗教会議]]以降、[[教会法]]に自殺禁止が加えられた{{Sfnp|ヘクト|2022|p=54}}。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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=== 前2世紀: 哲学伝来 === |
=== 前2世紀: 哲学伝来 === |
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[[ファイル:Head Karneades Glyptothek Munich.jpg|サムネイル|214x214ピクセル|[[カルネアデス]](前2世紀)<hr>ローマに哲学をもたらした[[アカデメイア派]]哲学者。]] |
[[ファイル:Head Karneades Glyptothek Munich.jpg|サムネイル|214x214ピクセル|[[カルネアデス]](前2世紀)<hr>ローマに哲学をもたらした[[アカデメイア派]]哲学者{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=356f}}。]] |
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伝説では、[[紀元前8世紀|前8世紀]]の[[王政ローマ]]第2代王[[ヌマ・ポンピリウス|ヌマ]]が、[[ピタゴラス]]の哲学を学んだとされる{{Efn|ピタゴラスは[[南イタリア]]の[[古代の植民都市|ギリシア植民市]][[クロトーネ|クロトン]]を拠点とした。[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』第4巻では、他にも様々なローマ文化にピタゴラス派の影響を見出している{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=216}}。}}{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=222}}<ref name=":1">[[リウィウス]]『[[ローマ建国史|ローマ建国以来の歴史]]』1.18、[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』4.2、キケロ『{{仮リンク|弁論家について|en|De oratore}}』2.37.154、[[プルタルコス]]『[[対比列伝|英雄伝]]』ヌマ伝.1</ref>。しかし年代的に矛盾するため(ピタゴラスは[[紀元前6世紀|前6世紀]]の人物)、この伝説は古代から疑問視されていた<ref name=":1" />。 |
伝説では、[[紀元前8世紀|前8世紀]]の[[王政ローマ]]第2代王[[ヌマ・ポンピリウス|ヌマ]]が、[[ピタゴラス]]の哲学を学んだとされる{{Efn|ピタゴラスは[[南イタリア]]の[[古代の植民都市|ギリシア植民市]][[クロトーネ|クロトン]]を拠点とした。[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』第4巻では、他にも様々なローマ文化にピタゴラス派の影響を見出している{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=216}}{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}。}}{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=222}}<ref name=":1">[[リウィウス]]『[[ローマ建国史|ローマ建国以来の歴史]]』1.18、[[キケロ]]『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』4.2、キケロ『{{仮リンク|弁論家について|en|De oratore}}』2.37.154、[[プルタルコス]]『[[対比列伝|英雄伝]]』ヌマ伝.1</ref>。しかし年代的に矛盾するため(ピタゴラスは[[紀元前6世紀|前6世紀]]の人物)、この伝説は古代から疑問視されていた<ref name=":1" />。 |
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哲学が明確に伝来したのは、[[共和政ローマ]]後期・[[ヘレニズム期]]後期の[[紀元前155年|前155年]]、[[アテナイ]]から外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである{{Efn|この使節来訪については、[[キケロ]]、[[プルタルコス]]、[[ポリュビオス]]など多くの資料がある<ref name=":0" />。使節の目的は、アテナイと{{仮リンク|オロポス|en|Oropos}}の紛争をめぐってローマがアテナイに課した罰金を、減免させることにあった<ref name=":0" />。}}{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=356f}}。その3人とは、[[アカデメイア派]]の[[カルネアデス]]、[[ペリパトス派]]の{{仮リンク|クリトラオス|en|Critolaus}}、[[ストア派]]の{{仮リンク|バビロニアのディオゲネス|en|Diogenes of Babylon|label=}}であり、3人とも当代きっての哲学者だった{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}。とくに |
哲学が明確に伝来したのは、[[共和政ローマ]]後期・[[ヘレニズム期]]後期の[[紀元前155年|前155年]]、[[アテナイ]]から外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである{{Efn|この使節来訪については、[[キケロ]]、[[プルタルコス]]、[[ポリュビオス]]など多くの資料がある<ref name=":0" />。使節の目的は、アテナイと{{仮リンク|オロポス|en|Oropos}}の紛争をめぐってローマがアテナイに課した罰金を、減免させることにあった<ref name=":0" />。}}{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=356f}}。その3人とは、[[アカデメイア派]]の[[カルネアデス]]、[[ペリパトス派]]の{{仮リンク|クリトラオス|en|Critolaus}}、[[ストア派]]の{{仮リンク|バビロニアのディオゲネス|en|Diogenes of Babylon|label=}}であり、3人とも当代きっての哲学者だった{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}。とくにカルネアデスは[[懐疑主義]]の立場から、[[正義論]]を演説した翌日に反正義論を演説する、というパフォーマンスをしてローマ人に衝撃を与えた{{Efn|このときの演説に「[[カルネアデスの板]]」が含まれていた{{Sfnp|近藤|2020|p=34}}。}}<ref name=":0">近藤智彦「[http://greek-philosophy.org/ja/files/2011/08/2011_3.pdf カルネアデスの反正義論の射程]」『ギリシャ哲学セミナー論集』8巻、ギリシャ哲学セミナー、2011年。24頁。</ref>。これを受けた[[大カトー]]は、哲学がローマの若者を堕落させるとして{{Sfnp|ロング|2009|p=272}}、哲学者の追放を企てた{{Efn|当の大カトー自身は、アテナイへの留学経験があり{{Sfnp|角田|2006|p=316}}、ギリシア文化全般の教養があった{{Sfnp|角田|2006|p=316}}。大カトーが戒めていたのは、ローマ文化を捨ててギリシア文化に盲従してしまうことだった{{Sfnp|角田|2001|p=165}}。}}{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。しかし結局哲学はローマに浸透した{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。 |
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哲学の浸透を促したのは、[[紀元前150年代|前150年代]]から[[紀元前130年代|前130年代]]頃の[[小スキピオ]]を中心とする知識人サークル「{{仮リンク|スキピオ・サークル|en|Scipionic Circle}}」だった{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。このサークルにはストア派の[[パナイティオス]]も属した{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。 |
哲学の浸透を促したのは、[[紀元前150年代|前150年代]]から[[紀元前130年代|前130年代]]頃の[[小スキピオ]]を中心とする知識人サークル「{{仮リンク|スキピオ・サークル|en|Scipionic Circle}}」だった{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。このサークルにはストア派の[[パナイティオス]]も属した{{Sfnp|近藤|2020|p=35}}。 |
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=== 前1世紀: 共和政末期 === |
=== 前1世紀: 共和政末期 === |
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[[紀元前88年|前88年]]から東方でおこなわれた[[ミトリダテス戦争]]の戦火を避けて、[[ストア派]]の[[ポセイドニオス]](パナイティオスの弟子)、[[アカデメイア派]]の[[ラリッサのフィロン|ラリッサのピロン]]、[[エピクロス派]]の[[ピロデモス]]らがローマに移った{{Sfnp|荻野|2022|p=57}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=363f}}。同じ頃、[[キケロ]]とその友人の[[小カトー]]、[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]、[[マルクス・テレンティウス・ウァッロ|ウァロ]]らが{{Efn|小カトーはストア派を信奉{{Sfnp|ロング|2009|p= |
[[紀元前88年|前88年]]から東方でおこなわれた[[ミトリダテス戦争]]の戦火を避けて、[[ストア派]]の[[ポセイドニオス]](パナイティオスの弟子)、[[アカデメイア派]]の[[ラリッサのフィロン|ラリッサのピロン]]、[[エピクロス派]]の[[ピロデモス]]らがローマに移った{{Sfnp|荻野|2022|p=57}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=363f}}。同じ頃、[[キケロ]]とその友人の[[小カトー]]、[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]、[[マルクス・テレンティウス・ウァッロ|ウァロ]]らが{{Efn|小カトーはストア派を信奉{{Sfnp|ロング|2009|p=280}}、アッティクスはエピクロス派を信奉{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}、ウァロはアンティオコスを信奉した{{Sfnp|ロング|2009|p=278}}。またウァロの[[文法学]]書『ラテン語について』には、ストア派の音声論の影響も見られる{{Sfnp|ロング|2009|p=278}}。}}、ローマや留学先の[[アテナイ]]で、[[中期プラトン主義]]者の[[アスカロンのアンティオコス|アンティオコス]](ラリッサのピロンの弟子)、ストア派の{{仮リンク|ストア派のディオドトス|en|Diodotus the Stoic|label=ディオドトス}}、[[ペリパトス学派|ペリパトス派]]の{{仮リンク|クラティッポス|en|Cratippus of Pergamon}}らと交流した{{Sfnp|内山|2007|p=37}}。キケロの友人[[ニギディウス・フィグルス]]は[[新ピタゴラス主義]]を興した{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=222}}。 |
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[[キケロ]]は「ローマ最大の哲学者」と評される{{Sfnp|角田|2006|p=3}}。キケロは特定の学派に属さず、穏健な[[懐疑主義]]、あるいはアカデメイア派・ペリパトス派・ストア派などを取捨選択する[[折衷主義]]の立場をとったが{{Sfnp|近藤|2020|p=42}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}、[[プラトン]]への讃美とエピクロス派への批判は一貫していた{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}。キケロは哲学を[[弁論術]]や[[政治]]実践と統合させることを目指していた{{Sfnp|角田|2006|p=3}}{{Sfnp|近藤|2020|p=43}}。また、暗殺される恐怖や愛娘の早逝に対する、心の救済も哲学に求めていた<ref name=":15">{{Citation|和書|title=キケロ『ホルテンシウス』断片訳と構成案|last=廣川|first=洋一|author-link=廣川洋一|year=2016|publisher=岩波書店|isbn=9784000611046}}まえがき。</ref>。キケロの哲学著作に『[[国家について]]』『{{仮リンク|ストア派のパラドックス|en|Paradoxa Stoicorum}}』『{{仮リンク|アカデミカ|en|Academica (Cicero)}} |
[[キケロ]]は「ローマ最大の哲学者」と評される{{Sfnp|角田|2006|p=3}}。キケロは特定の学派に属さず、穏健な[[懐疑主義]]、あるいはアカデメイア派・ペリパトス派・ストア派などを取捨選択する[[折衷主義]]の立場をとったが{{Sfnp|近藤|2020|p=42}}{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}、[[プラトン]]への讃美とエピクロス派への批判は一貫していた{{Sfnp|瀬口|2007|p=369-376}}。キケロは哲学を[[弁論術]]や[[政治]]実践と統合させることを目指していた{{Sfnp|角田|2006|p=3}}{{Sfnp|近藤|2020|p=43}}。また、暗殺される恐怖や愛娘の早逝に対する、心の救済も哲学に求めていた<ref name=":15">{{Citation|和書|title=キケロ『ホルテンシウス』断片訳と構成案|last=廣川|first=洋一|author-link=廣川洋一|year=2016|publisher=岩波書店|isbn=9784000611046}}まえがき。</ref>。キケロの哲学著作に『[[ホルテンシウス (キケロ)|ホルテンシウス]]』<ref name=":15" />『[[国家について]]』『{{仮リンク|法律について|en|De Legibus}}』『{{仮リンク|ストア派のパラドックス|en|Paradoxa Stoicorum}}』『{{仮リンク|アカデミカ|en|Academica (Cicero)}}』『{{仮リンク|善と悪の究極について|en|De finibus bonorum et malorum}}』『{{仮リンク|トゥスクルム荘対談集|en|Tusculanae Disputationes}}』『{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}』『{{仮リンク|運命について|en|De fato}}』『{{仮リンク|占いについて|en|De Divinatione|label=卜占について}}』『[[大カトー・老年について|老年について]]』『{{仮リンク|ラエリウス・友情について|en|Laelius de Amicitia|label=友情について}}』『{{仮リンク|義務について|en|De Officiis}}』などがある{{Sfnp|ロング|2009|p=274}}。 |
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共和政末期は、ローマにおける[[エピクロス派]]の最盛期でもあった{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}。[[ルクレティウス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、[[ピロデモス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、{{仮リンク|アマフィニウス|en|Amafinius}}{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、{{仮リンク|エピクロス派のシロン|en|Siro the Epicurean|label=シロン}}<ref name=":04" />らがエピクロス派の教説を伝え、キケロの友人[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}や、「[[パピルス荘]]」の主人と推定される[[カエサル]]の義父[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス|ピソ]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}らに信奉された。[[ファイル:Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2).jpg|サムネイル|230x230ピクセル|[[ユリウス・カエサルの暗殺|カエサル暗殺]](前44年)<hr>暗殺者のうち[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]は[[ストア派]]を信奉、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]は[[エピクロス派]]を信奉していた<ref name=":10" /><ref name=":16">{{Kotobank |word=ブルトゥス |encyclopedia=[[長谷川博隆]] 平凡社 改訂新版 世界大百科事典}}</ref><ref name=":04" />。]][[紀元前44年|前44年]]の[[ユリウス・カエサルの暗殺|カエサル暗殺]]の首謀者たちのなかでも、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]がストア派を信奉したのに対し<ref name=":10">{{Cite journal|last=Sedley|first=David|date=1997-11|title=The Ethics of Brutus and Cassius|url=https://www.cambridge.org/core/product/identifier/S0075435800058068/type/journal_article|journal=Journal of Roman Studies|volume=87|pages=41–53|language=en|doi=10.2307/301367|issn=0075-4358|JSTOR=301367}}</ref><ref name=":16" />、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]はエピクロス派を信奉していた<ref name=":10" /><ref name=":04">{{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=小池|first=澄夫|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=[[内山勝利]]|pages=103-106|chapter=エピクロス学派の書物 羊皮紙綴本・パピルス・碑文|isbn=9784124035193}}</ref>。カエサル自身もおそらくエピクロス派の教説に通じていた{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}。 |
共和政末期は、ローマにおける[[エピクロス派]]の最盛期でもあった{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}。[[ルクレティウス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、[[ピロデモス]]{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、{{仮リンク|アマフィニウス|en|Amafinius}}{{Sfnp|近藤|2020|p=39}}、{{仮リンク|エピクロス派のシロン|en|Siro the Epicurean|label=シロン}}<ref name=":04" />らがエピクロス派の教説を伝え、キケロの友人[[ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス|アッティクス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}や、「[[パピルス荘]]」の主人と推定される[[カエサル]]の義父[[ルキウス・カルプルニウス・ピソ・カエソニヌス|ピソ]]{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}らに信奉された。[[ファイル:Vincenzo Camuccini - La morte di Cesare (cropped 3-2).jpg|サムネイル|230x230ピクセル|[[ユリウス・カエサルの暗殺|カエサル暗殺]](前44年)<hr>暗殺者のうち[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]は[[ストア派]]を信奉、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]は[[エピクロス派]]を信奉していた<ref name=":10" /><ref name=":16">{{Kotobank |word=ブルトゥス |encyclopedia=[[長谷川博隆]] 平凡社 改訂新版 世界大百科事典}}</ref><ref name=":04" />。]][[紀元前44年|前44年]]の[[ユリウス・カエサルの暗殺|カエサル暗殺]]の首謀者たちのなかでも、[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|ブルトゥス]]がストア派を信奉したのに対し<ref name=":10">{{Cite journal|last=Sedley|first=David|date=1997-11|title=The Ethics of Brutus and Cassius|url=https://www.cambridge.org/core/product/identifier/S0075435800058068/type/journal_article|journal=Journal of Roman Studies|volume=87|pages=41–53|language=en|doi=10.2307/301367|issn=0075-4358|JSTOR=301367}}</ref><ref name=":16" />、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|カッシウス]]はエピクロス派を信奉していた<ref name=":10" /><ref name=":04">{{Citation|和書|title=哲学の歴史 第2巻 帝国と賢者 古代2|last=小池|first=澄夫|year=2007|publisher=中央公論新社|editor=[[内山勝利]]|pages=103-106|chapter=エピクロス学派の書物 羊皮紙綴本・パピルス・碑文|isbn=9784124035193}}</ref>。カエサル自身もおそらくエピクロス派の教説に通じていた{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}。 |
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[[1世紀]]から[[2世紀]]には、「ローマ哲学の代名詞{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}」とも言える3人のストア派哲学者、[[セネカ]]、[[エピクテトス]]、[[マルクス・アウレリウス]]が活動した{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}{{Sfnp|國方|2019}}。セネカやマルクス・アウレリウスは、エピクロス派との折衷の面もあった{{Sfnp|近藤|2020|p=48}}。 |
[[1世紀]]から[[2世紀]]には、「ローマ哲学の代名詞{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}」とも言える3人のストア派哲学者、[[セネカ]]、[[エピクテトス]]、[[マルクス・アウレリウス]]が活動した{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}{{Sfnp|國方|2019}}。セネカやマルクス・アウレリウスは、エピクロス派との折衷の面もあった{{Sfnp|近藤|2020|p=48}}。 |
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1世紀には、[[ネロ]]や[[ドミティアヌス]]の専政に反対した政治家{{仮リンク|プブリウス・クロディウス・トラセア・パエトゥス|en|Publius Clodius Thrasea Paetus|label=トラセア・パエトゥス}}や{{仮リンク|ヘルウィディウス・プリスクス|en|Helvidius Priscus}} |
1世紀には、[[ネロ]]や[[ドミティアヌス]]の専政に反対した政治家{{仮リンク|プブリウス・クロディウス・トラセア・パエトゥス|en|Publius Clodius Thrasea Paetus|label=トラセア・パエトゥス}}や{{仮リンク|ヘルウィディウス・プリスクス|en|Helvidius Priscus}}{{Sfnp|ロング|2003|p=318}}{{Sfnp|近藤|2020|p=49}}、[[博物学]]者の[[大プリニウス]]<ref>{{Kotobank|プリニウス大|encyclopedia= [[大槻真一郎]] 平凡社 改訂新版 世界大百科事典}}</ref>もストア派を信奉した。ネロはセネカを自殺に追いやり、ドミティアヌスはエピクテトス含む哲学者たちに追放令を発したことでも知られる{{Sfnp|國方|2022|p=52}}。 |
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マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、[[176年]]にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した{{Sfnp|近藤|2020|p=45}}。 |
マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、[[176年]]にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した{{Sfnp|近藤|2020|p=45}}。 |
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この時代は[[キュニコス派]]の再燃期でもあり<ref>{{Kotobank|きゆにこす派|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |title=キュニコス派}}</ref>{{Sfnp|内田|2023|p=346}}{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、{{仮リンク|ペレグリヌス・プロテウス|en|Peregrinus Proteus|label=ペレグリノス}}{{Sfnp|内田|2023|p=324f}}、{{仮リンク|デモナクス|en|Demonax}}<ref>[[内田次信]] 訳「デモナクスの生涯」『ルキアノス選集』国文社〈叢書アレクサンドリア図書館〉、1994年。ISBN 4772004025。</ref>{{Sfnp|内田|2023|p=336;352}}、{{仮リンク|キュヌルコス|wikidata|Q20006629}}<ref>[[柳沼重剛]]「解説」、[[アテナイオス]] 著、柳沼重剛 訳『[[食卓の賢人たち]] 1』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1997年。ISBN 9784876981038。438頁。</ref>らが活動した。またキュニコス派とストア派が互いに接近した時期でもあり{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、セネカに称賛されたキュニコス派の{{仮リンク|デメトリオス・キュニコス|en|Demetrius the Cynic|label=デメトリオス}}{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、エピクテトスの師[[ムソニウス・ルフス]]{{Sfnp|國方|2019|p=153-156}}、[[第二次ソフィスト]]の[[ディオン・クリュソストモス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}にその傾向が見られる。 |
この時代は[[キュニコス派]]の再燃期でもあり<ref>{{Kotobank|きゆにこす派|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 |title=キュニコス派}}</ref>{{Sfnp|内田|2023|p=346}}{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、{{仮リンク|ペレグリヌス・プロテウス|en|Peregrinus Proteus|label=ペレグリノス}}{{Sfnp|内田|2023|p=324f}}、{{仮リンク|デモナクス|en|Demonax}}<ref>[[内田次信]] 訳「デモナクスの生涯」『ルキアノス選集』国文社〈叢書アレクサンドリア図書館〉、1994年。ISBN 4772004025。</ref>{{Sfnp|内田|2023|p=336;352}}、{{仮リンク|キュヌルコス|wikidata|Q20006629}}<ref>[[柳沼重剛]]「解説」、[[アテナイオス]] 著、柳沼重剛 訳『[[食卓の賢人たち]] 1』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1997年。ISBN 9784876981038。438頁。</ref>らが活動した。またキュニコス派とストア派が互いに接近した時期でもあり{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、セネカに称賛されたキュニコス派の{{仮リンク|デメトリオス・キュニコス|en|Demetrius the Cynic|label=デメトリオス}}{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}、エピクテトスの師[[ムソニウス・ルフス]]{{Sfnp|國方|2019|p=153-156}}、[[第二次ソフィスト]]の[[ディオン・クリュソストモス]]{{Sfnp|ロング|2003|p=352}}にその傾向が見られる。 |
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セネカ『{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}』などに言及のある{{仮リンク|クイントゥス・セクスティウス|en|Quintus Sextius|label=}}や{{仮リンク|ソティオン|en|Sotion (Pythagorean)}}は、ストア派の倫理学と[[新ピタゴラス主義|新ピタゴラス派]]の[[菜食主義]]を折衷したような「{{仮リンク|セクスティウス派|en|School of the Sextii}}」を形成した{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=222}}{{Sfnp|ロング|2009|p=269 |
セネカ『{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}』などに言及のある{{仮リンク|クイントゥス・セクスティウス|en|Quintus Sextius|label=}}や{{仮リンク|ソティオン|en|Sotion (Pythagorean)}}は、ストア派の倫理学と[[新ピタゴラス主義|新ピタゴラス派]]の[[菜食主義]]を折衷したような「{{仮リンク|セクスティウス派|en|School of the Sextii}}」を形成した{{Sfnp|チェントローネ|2000|p=222}}{{Sfnp|ロング|2009|p=269}}。この学派は唯一「ローマ自家製の学派」と言い得るが、活動期間が短く、注意を惹くような学派でもない{{Sfnp|ロング|2009|p=269}}。 |
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その他、[[中期プラトン主義]]者でもある[[プルタルコス]]の『{{仮リンク|モラリア|en|Moralia |
その他、[[中期プラトン主義]]者でもある[[プルタルコス]]の『{{仮リンク|モラリア|en|Moralia}}』や<ref>[[戸塚七郎]] 訳『モラリア 13』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、1997年。ISBN 9784876981069。(「プラトン哲学に関する諸問題」「『ティマイオス』における魂の生成について」ほか)</ref>、[[アテナイオス]]『[[食卓の賢人たち]]』<ref>[[柳沼重剛]]「解説」、[[アテナイオス]] 著、柳沼重剛 訳『[[食卓の賢人たち]] 5』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2004年。ISBN 9784876981502。454頁。</ref>、[[アウルス・ゲッリウス|ゲッリウス]]『アッティカの夜』{{Sfnp|ロング|2009|p=271}}、[[クインティリアヌス]]『{{仮リンク|弁論家の教育|en|Institutio Oratoria}}』<ref>[[クインティリアヌス]] 著、森谷宇一;戸高和弘;伊達立晶;吉田俊一郎 訳『弁論家の教育 4』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2016年。ISBN 9784814000340。194頁(10巻35-36節「読むべき書物のジャンル 哲学」)。</ref>、[[ペトロニウス]]『[[サテュリコン]]』{{Sfnp|ロング|2009|p=272}}、[[ルキアノス]]の諸著作<ref>[[丹下和彦]] 訳「哲学諸派の競売」『ルキアノス全集3 食客』京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2014年。ISBN 9784876984879。</ref>{{Sfnp|ロング|2003|p=26f}}、[[ガレノス]]の諸著作{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}も、哲学に言及している。 |
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=== 3-6世紀: 古代末期・中世初期 === |
=== 3-6世紀: 古代末期・中世初期 === |
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=== 後世の影響 === |
=== 後世の影響 === |
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[[ファイル:Houghton Typ 520.97.225 - Icones quinquaginta virorum illustrium - Poggio Bracciolini.jpg|サムネイル|[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]](15世紀)<hr>[[ルネサンス]]期の[[人文主義者]]。[[ルクレティウス]]『事物の本性について』を再発見し |
[[ファイル:Houghton Typ 520.97.225 - Icones quinquaginta virorum illustrium - Poggio Bracciolini.jpg|サムネイル|[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]](15世紀)<hr>[[ルネサンス]]期の[[人文主義者]]。[[ルクレティウス]]『事物の本性について』を再発見し、[[モンテーニュ]]や[[ガッサンディ]]に影響を与えた{{Sfnp|グリーンブラット|2012|p=302}}<ref name=":14">[[中金聡]]「[http://id.nii.ac.jp/1410/00006263/ エピクロスの帰還――ガッサンディにおける哲学的著述の技法について――]」『国士舘大学政治研究』2、国士舘大学政経学部附属政治研究所、2011年。{{CRID|1050845762644720640}}。74;91頁。</ref>。]] |
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[[キケロ]]の著作は、古代から近代まで[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]に影響を与え続けた{{Sfnp|角田|2001|p=249-265}}。とくに『{{仮リンク|義務について|en|De Officiis}}』は、[[倫理学]]の古典としてのみならず、ラテン散文の模範としても受容された{{Sfnp|瀬口|2007|p=382}}。[[カント]]の[[義務論]]を代表する著作の一つ『[[道徳形而上学原論]]』は、カントと『義務について』との対話により生まれた著作とも言える{{Sfnp|角田|2001|p=259}}。 |
[[キケロ]]の著作は、古代から近代まで[[東方ギリシア世界と西方ラテン世界|ラテン世界]]に影響を与え続けた{{Sfnp|角田|2001|p=249-265}}。とくに『{{仮リンク|義務について|en|De Officiis}}』は、[[倫理学]]の古典としてのみならず、ラテン散文の模範としても受容された{{Sfnp|瀬口|2007|p=382}}。[[カント]]の[[義務論]]を代表する著作の一つ『[[道徳形而上学原論]]』は、カントと『義務について』との対話により生まれた著作とも言える{{Sfnp|角田|2001|p=259}}。 |
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[[中世]]ラテン世界では、[[ボエティウス]]『[[哲学の慰め]]』<ref name=":12">松崎一平「解説」『哲学のなぐさめ』ボエティウス 著、松崎一平 訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2019年。ISBN 9784814004249。300頁。</ref>、[[マクロビウス]]『[[スキピオの夢]]注解』{{Sfnp|高田|1999|p=138}}といった古代末期のラテン語文献が、古代哲学の貴重な情報源となった。プラトンの著作は[[カルキディウス]]が訳注した『[[ティマイオス]]』のみ<ref name=":11" />、アリストテレスの著作はボエティウスが訳注した『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]』などの[[オルガノン]]のみが{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}、長らく読まれた{{Efn|[[12世紀ルネサンス]]以降、プラトン・アリストテレスの他の著作もラテン語に訳された<ref name=":11" /><ref name="kakusei">{{Citation|和書|title=中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ|last=ルーベンスタイン|year=2018|translator=小沢千重子|author-mask={{仮リンク|リチャード・E.ルーベンスタイン|en|Richard E. Rubenstein}}|origyear=2003|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫|isbn=9784480098849}}50頁。</ref>。12世紀以降のアリストテレス論理学が「{{仮リンク|新論理学|en|Logica nova}}」と呼ばれるのに対し、ボエティウス訳の『オルガノン』『エイサゴーゲー』は「旧論理学」と呼ばれる<ref name="kakusei" />{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}。}}。ボエティウスが訳注した[[ポルピュリオス]]『[[エイサゴーゲー]]』は、[[普遍論争]]の発端となった{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}。その他、[[プロクロス]]に由来する『[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|偽ディオニュシオス文書]]』や『[[原因論]]』が中世に受容された<ref>{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|last=堀江|first=聡|last2=西村|first2=洋平|year=2014|publisher=世界思想社|editor=水地宗明; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|chapter=プロクロス|isbn=9784790716242}}212-214頁。</ref>。 |
[[中世]]ラテン世界では、[[ボエティウス]]『[[哲学の慰め]]』<ref name=":12">松崎一平「解説」『哲学のなぐさめ』ボエティウス 著、松崎一平 訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2019年。ISBN 9784814004249。300頁。</ref>、[[マクロビウス]]『[[スキピオの夢]]注解』{{Sfnp|高田|1999|p=138}}といった古代末期のラテン語文献が、古代哲学の貴重な情報源となった。プラトンの著作は[[カルキディウス]]が訳注した『[[ティマイオス]]』のみ<ref name=":11" />、アリストテレスの著作はボエティウスが訳注した『[[命題論 (アリストテレス)|命題論]]』などの[[オルガノン]]のみが{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}、長らく読まれた{{Efn|[[12世紀ルネサンス]]以降、プラトン・アリストテレスの他の著作もラテン語に訳された<ref name=":11" /><ref name="kakusei">{{Citation|和書|title=中世の覚醒 アリストテレス再発見から知の革命へ|last=ルーベンスタイン|year=2018|translator=小沢千重子|author-mask={{仮リンク|リチャード・E.ルーベンスタイン|en|Richard E. Rubenstein}}|origyear=2003|publisher=筑摩書房|series=ちくま学芸文庫|isbn=9784480098849}}50頁。</ref>。12世紀以降のアリストテレス論理学が「{{仮リンク|新論理学|en|Logica nova}}」と呼ばれるのに対し、ボエティウス訳の『オルガノン』『エイサゴーゲー』は「旧論理学」と呼ばれる<ref name="kakusei" />{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}。}}。ボエティウスが訳注した[[ポルピュリオス]]『[[エイサゴーゲー]]』は、[[普遍論争]]の発端となった{{Sfnp|秋山|2007|p=573}}。その他、[[プロクロス]]に由来する『[[偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース|偽ディオニュシオス文書]]』や『[[原因論]]』が中世に受容された<ref>{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|last=堀江|first=聡|last2=西村|first2=洋平|year=2014|publisher=世界思想社|editor=水地宗明; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|chapter=プロクロス|isbn=9784790716242}}212-214頁。</ref>。 |
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[[ルネサンス]]期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。[[ルクレティウス]]『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』は、[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]に再発見され、[[ガッサンディ]] |
[[ルネサンス]]期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、[[近世哲学]]の発展を促した。[[ルクレティウス]]『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』は、[[ポッジョ・ブラッチョリーニ]]によって再発見され、[[モンテーニュ]]{{Sfnp|グリーンブラット|2012|p=302}}や[[ガッサンディ]]<ref name=":14" />に受容された。[[セネカ]]の著作は[[ユストゥス・リプシウス|リプシウス]]や[[カルヴァン]]{{Sfnp|ロング|2003|p=359f}}、[[デカルト]]{{Sfnp|近藤|2020|p=47}}、モンテーニュ{{Sfnp|荻野|2022|p=58}}に受容された。[[セクストス・エンペイリコス]]の著作は[[デイヴィッド・ヒューム|ヒューム]]やモンテーニュに受容された{{Sfnp|アナス;バーンズ|2015|p=25-28}}。[[プロティノス]]の著作は[[プラトン・アカデミー]]<ref>{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|last=加藤|first=守通|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|chapter=ルネサンス|isbn=9784790716242}}345頁。</ref>や[[ケンブリッジ・プラトン学派]]<ref>三上章「[https://toyoeiwa.repo.nii.ac.jp/records/220 ケンブリッジ・プラトン学派の祖、ベンジャミン・ウイッチコット : そのプラトニズムとキリスト理解]」『人文・社会科学論集』28、2011年。{{CRID|1050845763408213376}}。1f頁。</ref>に受容された。[[ペトラルカ]]は、著作『{{仮リンク|わが秘密|en|Secretum (book)}}』でローマ哲学・文学を引用するなどし<ref>[[林和宏]]「[[doi:10.15026/23436|ペトラルカの Secretum について]]」『東京外国語大学論集』35、東京外国語大学、1985年。{{CRID|1390861173500569728}}。337頁。</ref><ref>ネオ高等遊民『一度読んだら絶対に忘れない哲学の教科書』SBクリエイティブ、2024年。ISBN 978-4815619220。第2章「ペトラルカ」節。</ref>、キケロの「{{仮リンク|フマニタス|en|Humanitas}}」の復興を目指した{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}。 |
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近現代では、新プラトン主義が[[ドイツ観念論]]<ref>伊藤功「フィヒテ、シェリング」;山口誠一「ヘーゲルから現代へ」、{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|isbn=9784790716242}}</ref><ref name=":13" />・[[フランス現代思想]]<ref>小手川正二郎「レヴィナス、デリダ」、{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|isbn=9784790716242}}</ref>・[[西田幾多郎]]{{Sfnp|土井|2020|p=105}}・[[波多野精一]]{{Sfnp|土井|2020|p=109}}、後期ストア派が[[清沢満之]] |
近現代では、新プラトン主義が[[ドイツ観念論]]<ref>伊藤功「フィヒテ、シェリング」;山口誠一「ヘーゲルから現代へ」、{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|isbn=9784790716242}}</ref><ref name=":13" />・[[フランス現代思想]]<ref>小手川正二郎「レヴィナス、デリダ」、{{Citation|和書|title=新プラトン主義を学ぶ人のために|year=2014|publisher=世界思想社|editor=[[水地宗明]]; 山口義久; 堀江聡|series=学ぶ人のために|isbn=9784790716242}}</ref>・[[西田幾多郎]]{{Sfnp|土井|2020|p=105}}・[[波多野精一]]{{Sfnp|土井|2020|p=109}}、後期ストア派が[[清沢満之]]{{Sfnp|近藤|2020|p=46}}・[[神谷美恵子]]{{Sfnp|近藤|2020|p=46}}<ref>本多奈美「神谷美恵子の生涯とその苦悩 : 求道者として,1人の女性として」『精神神経学雑誌』125 (1)、日本精神神経学会、2023年。{{CRID|1520013784276663808}}。4頁。</ref>・[[ジョン・スチュアート・ミル|ミル]]<ref>{{Cite web |title=名著86 「自省録」 |url=https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/86_jiseiroku/index.html |website=100分 de 名著 |access-date=2024-11-01 |language=ja}}</ref>・[[カール・ヒルティ|ヒルティ]]{{Sfnp|近藤|2020|p=46}}・現代アメリカの[[自己啓発]]<ref>{{Cite web |title=シリコンバレーで「ストア哲学」が大ブームを巻き起こしている「意外な理由」(橘 玲) @gendai_biz |url=https://gendai.media/articles/-/90618?imp=0 |website=現代ビジネス |date=2021-12-21 |access-date=2024-10-25 |language=ja}}</ref><ref>[[ライアン・ホリデイ]] 著、金井啓太 訳『ストア派哲学入門 成功者が魅了される思考術』パンローリング株式会社、2017年。ISBN 978-4775941782。</ref>などに受容されている。ローマ哲学史家の[[ピエール・アド]]は、後期ストア派の哲学観などをもとに「[[生き方]]としての哲学」を説き、[[ミシェル・フーコー|フーコー]]に影響を与えた{{Sfnp|近藤|2020|p=46}}。 |
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== 他分野との関わり == |
== 他分野との関わり == |
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=== 宗教 === |
=== 宗教 === |
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<!-- [[プラトン]]から続く哲学的[[神学]]({{仮リンク|自然神学|en|Natural theology}})の分野は、[[キケロ]]『{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}』や[[ピロデモス]]『神々について』、[[中期プラトン主義]]や[[新プラトン主義]]などで扱われた。 --> |
<!-- [[プラトン]]から続く哲学的[[神学]]({{仮リンク|自然神学|en|Natural theology}})の分野は、[[キケロ]]『{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}』や[[ピロデモス]]『神々について』、[[中期プラトン主義]]や[[新プラトン主義]]などで扱われた。 --> |
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ローマ哲学は全体的に「[[内なる平和|心の平静]]」「[[死]]」「[[一者]]」など、[[宗教]]的な主題を扱う傾向がある、とも言われる{{Sfnp|中西|2024|p=1;3}}。 |
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キケロは、『{{仮リンク|神々の本性について|en|De Natura Deorum}}』『{{仮リンク|占いについて|en|De Divinatione|label=卜占について}}』『{{仮リンク|法律について|en|De Legibus}}』などで、{{仮リンク|古代ローマの宗教|en|Religion in ancient Rome|label=ローマ人の宗教}}の[[アウグル|鳥卜]]や{{仮リンク|レリギオ|en|religio}}について分析している<ref>[[小堀馨子]]『[[doi:10.15083/00006178|共和政期ローマにおけるローマ人の宗教についての一考察 : religio概念を手がかりとして]]』東京大学 博士論文、2013年。{{CRID|1110845735180370304}}。要約5;7;10頁。</ref>。 |
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[[キリスト教哲学]]では、1世紀に[[パウロ|使徒パウロ]]が、アテナイの[[アレオパゴス会議|アレオパゴス]]でストア派やエピクロス派と討論して、信徒を増やしたとされる(『[[使徒言行録]]』17:16以下){{Sfnp|秋山|2007|p=607f}}{{Sfnp|中西|2024|p=2}}など、哲学を批判しつつも活用する態度をとった<ref name=":6" />。[[ギリシア教父]]や[[ラテン教父]]もパウロと同様の態度をとり、新プラトン主義を活用し、[[教父哲学]]を構築した<ref name=":6">{{Citation|和書|title=西洋哲学史 II 「知」の変貌・「信」の階梯|last=土橋|first=茂樹|author-link=土橋茂樹|year=2011|publisher=講談社〈講談社選書メチエ〉|editor=[[神崎繁]]・[[熊野純彦]]・[[鈴木泉]]|chapter=教父哲学|ISBN=978-4062585156}}99f頁。</ref>([[新プラトン主義とキリスト教]])。 |
[[キリスト教哲学]]では、1世紀に[[パウロ|使徒パウロ]]が、アテナイの[[アレオパゴス会議|アレオパゴス]]でストア派やエピクロス派と討論して、信徒を増やしたとされる(『[[使徒言行録]]』17:16以下){{Sfnp|秋山|2007|p=607f}}{{Sfnp|中西|2024|p=2}}など、哲学を批判しつつも活用する態度をとった<ref name=":6" />。[[ギリシア教父]]や[[ラテン教父]]もパウロと同様の態度をとり、新プラトン主義を活用し、[[教父哲学]]を構築した<ref name=":6">{{Citation|和書|title=西洋哲学史 II 「知」の変貌・「信」の階梯|last=土橋|first=茂樹|author-link=土橋茂樹|year=2011|publisher=講談社〈講談社選書メチエ〉|editor=[[神崎繁]]・[[熊野純彦]]・[[鈴木泉]]|chapter=教父哲学|ISBN=978-4062585156}}99f頁。</ref>([[新プラトン主義とキリスト教]])。 |
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[[ラテン文学]]は、哲学が伝来する前の[[紀元前3世紀|前3世紀]]から[[ギリシア文学]]の影響を受けていた{{Sfnp|瀬口|2007|p=356f}}。[[紀元前168年|前168年]]または[[紀元前159年|前159年]]には、哲学者で文法学者の[[マロスのクラテス]]が、ローマで文学や文法学を講義した{{Sfnp|國方|2022|p=45}}。 |
[[ラテン文学]]は、哲学が伝来する前の[[紀元前3世紀|前3世紀]]から[[ギリシア文学]]の影響を受けていた{{Sfnp|瀬口|2007|p=356f}}。[[紀元前168年|前168年]]または[[紀元前159年|前159年]]には、哲学者で文法学者の[[マロスのクラテス]]が、ローマで文学や文法学を講義した{{Sfnp|國方|2022|p=45}}。 |
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[[キケロ]]の著作は後世ラテン散文の模範とされ、[[セネカ]]の著作はラテン文学「白銀期」の典型とされた{{Sfnp|荻野|2022|p=57f}}。セネカ『{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}』は、ラテン文学において栄えたジャンル「[[書簡]]文学」に位置付けられる<ref>{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=書簡文学|isbn=9784623052530}}198頁。</ref>。[[ルクレティウス]]『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』は、ラテン文学における最初の「[[教訓主義|教訓叙事詩]]」に位置付けられ、[[ウェルギリウス]]『[[農耕詩]]』に影響を与えた<ref name=":5">{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[山下太郎]];[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=教訓文学|isbn=9784623052530}}173ff頁。</ref>。[[ボエティウス]]『[[哲学の慰め]]』の[[韻文]][[散文]]混淆文は「{{仮リンク|メニッポス風サトゥラ|en|Menippean satire}}」に位置付けられる<ref name=":12" />。 |
[[キケロ]]の著作は後世ラテン散文の模範とされ、[[セネカ]]の著作はラテン文学「白銀期」の典型とされた{{Sfnp|荻野|2022|p=57f}}。セネカ『{{仮リンク|倫理書簡集|en|Epistulae Morales ad Lucilium}}』は、ラテン文学において栄えたジャンル「[[書簡]]文学」に位置付けられる<ref>{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=書簡文学|isbn=9784623052530}}198頁。</ref>。[[ルクレティウス]]『{{仮リンク|事物の本性について|en|De rerum natura}}』は、ラテン文学における最初の「[[教訓主義|教訓叙事詩]]」に位置付けられ<ref name=":5" />、[[ウェルギリウス]]『[[農耕詩]]』に影響を与えた<ref name=":5">{{Citation|和書|title=はじめて学ぶラテン文学史|author=[[山下太郎]];[[高橋宏幸]]|year=2008|publisher=ミネルヴァ書房|editor=高橋宏幸|chapter=教訓文学|isbn=9784623052530}}173ff頁。</ref>{{Sfnp|グリーンブラット|2012|p=69}}。[[ボエティウス]]『[[哲学の慰め]]』の[[韻文]][[散文]]混淆文は「{{仮リンク|メニッポス風サトゥラ|en|Menippean satire}}」に位置付けられる<ref name=":12" />。 |
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ウェルギリウスと[[ホラティウス]]は、エピクロス派やストア派からの題材を詩に取り入れている{{Sfnp|ロング|2009|p=271}}。{{仮リンク|ペルシウス|en|Persius}}の『風刺詩』や、[[ルカヌス]]の叙事詩『{{仮リンク|内乱 (ルカヌス)|en|Pharsalia|label=内乱について}}』には、ストア派の影響が見られる{{Sfnp|ロング|2009|p=271}}。 |
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=== ローマ法 === |
=== ローマ法 === |
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=== 弁論術 === |
=== 弁論術 === |
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ローマ哲学は[[弁論術]]([[修辞学]])と関わる。プラトンが『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』などで哲学者と弁論家([[ソフィスト]])を峻別した{{Sfnp|戸塚|2001|p=394}}のと対照的に、キケロは哲学と弁論術の融合を目指した{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}。 |
ローマ哲学は[[弁論術]]([[修辞学]])と関わる{{Sfnp|ロング|2009|p=278}}。プラトンが『[[ゴルギアス (対話篇)|ゴルギアス]]』などで哲学者と弁論家([[ソフィスト]])を峻別した{{Sfnp|戸塚|2001|p=394}}のと対照的に、キケロは哲学と弁論術の融合を目指した{{Sfnp|瀬口|2007|p=358f}}{{Sfnp|ロング|2009|p=278}}。 |
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帝政期の[[第二次ソフィスト]]の中には、[[ディオン・クリュソストモス]]のように哲学者と弁論家を兼ねる人物もいた{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}。 |
帝政期の[[第二次ソフィスト]]の中には、[[ディオン・クリュソストモス]]のように哲学者と弁論家を兼ねる人物もいた{{Sfnp|近藤|2020|p=44}}。 |
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=== 天文学・数学 === |
=== 天文学・数学 === |
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{{仮リンク|ヘレニズム天文学|en|Hellenistic astrology|label=ローマ天文学}}においては、[[マルクス・マニリウス|マニリウス]]の天文学詩『{{ill2|アストロノミカ|en|Astronomica (Manilius)}}』に、ストア派の影響が見られる<ref name=":5" />{{Sfnp|ロング|2009|p=271}}。 |
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[[クラウディオス・プトレマイオス|プトレマイオス]]は、同時代の[[新ピタゴラス派]]に参加せず、[[ピタゴラス派]]を批判的に継承して自説を構築した<ref>{{Cite book|和書 |title=ピュタゴラスの音楽 |first=キティ |last=ファーガソン |author=キティ・ファーガソン |translator=[[柴田裕之 (翻訳家)|柴田裕之]] |publisher=[[白水社]] |ISBN=9784560081631 |ref=harv |year=2011}}262頁。</ref>。 |
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新プラトン主義者の[[プロクロス]]は、[[エウクレイデス]]『[[原論]]』の注解や、天文学書『天文学的諸理論の概要』を著した<ref>{{Citation|和書|title=[[世界の名著]] 続2|author=[[田中美知太郎]];[[水地宗明]]|year=1976|publisher=[[中央公論社]]|editor=田中美知太郎|chapter=新プラトン主義の成立と展開}}61頁。{{NDLJP|2932126}}</ref>。 |
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== 関連項目 == |
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* [[古代ギリシャ・ローマ世界]] |
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== 参考文献 == |
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* {{Citation|和書|title=古代懐疑主義入門|last=アナス;バーンズ|year=2015|author-mask=[[ジュリア・アナス]];[[ジョナサン・バーンズ]] 著、金山弥平 訳|publisher=岩波書店|series=岩波文庫|isbn=9784003369814}}(原著: 1985年) |
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* {{Citation|和書|title=一四一七年、その一冊がすべてを変えた|last=グリーンブラット|year=2012|translator=河野純治|author-mask=[[スティーヴン・グリーンブラット]]|publisher=柏書房|isbn=9784760141760}}(原著: 2011年) |
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* {{Cite book|和書 |title=ピュタゴラス派 その生と哲学 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784000019231 |ref={{sfnref|チェントローネ|2000}} |year=2000 |translator=[[斎藤憲]] |author=ブルーノ・チェントローネ}}(原著: 1996年) |
* {{Cite book|和書 |title=ピュタゴラス派 その生と哲学 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=9784000019231 |ref={{sfnref|チェントローネ|2000}} |year=2000 |translator=[[斎藤憲]] |author=ブルーノ・チェントローネ}}(原著: 1996年) |
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* {{Citation|和書|title=自殺の思想史 抗って生きるために|last=ヘクト|year=2022|translator=月沢李歌子|author-mask={{仮リンク|ジェニファー・マイケル・ヘクト|en|Jennifer Michael Hecht}}|publisher=みすず書房|isbn=9784622090694}}(原著: 2015年) |
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2024年11月2日 (土) 03:48時点における版
ローマ哲学 (ローマてつがく、英: Roman philosophy)[9] すなわち古代ローマにおける哲学は、ギリシア哲学・ヘレニズム哲学の諸派を継承または折衷する形でおこなわれた。
言い換えれば、ローマ哲学はギリシアからの「輸入学問」に過ぎず[10]、「ローマ自家製の哲学」は無きに等しかった[11]。また内容についても「独創性を欠いた折衷主義」などの低評価が与えられてきた[10]。
しかし20世紀末から、ローマ哲学は徐々に再評価されている[10]。例えばキケロ、ルクレティウス、セネカ、セクストス・エンペイリコス、プロティノスらの著作は、ルネサンス期に再発見され、近世哲学の発展を促した。ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』などの主要な学説誌や[12][13]、最初のプラトン全集とアリストテレス全集[14]、キリスト教哲学[15]が生まれたのも、ローマ哲学においてだった。哲学用語のラテン語への翻訳は、元来ギリシアのローカルな学問に過ぎなかった哲学が、世界的な学問となる一つの契機になった[10]。
特徴
低評価と再評価
旧来の哲学史において、ローマ哲学は「独創性を欠いた折衷主義[注釈 1]」「実践の偏重と理論の欠如[注釈 2]」「内面に引きこもることによる心の平静の希求[注釈 3]」などのイメージによる低評価が与えられてきた[10]。これらはみな根拠がないわけではないが、実態はより複雑とされる[10]。
ローマ哲学に対する低評価は、19世紀ドイツのヘーゲル学派の哲学史家ツェラーやシュベーグラーにより醸成され、ニーチェやハイデガーにも受け継がれた[18]。
一方、ローマ哲学再評価の例として、20世紀末にオックスフォード大学出版局から刊行された論文集 Philosophia togata(『トガを着た哲学』ミリアム・グリフィンとジョナサン・バーンズ編著、1989年-1997年)がある[10]。同書は、哲学と政治、理論と実践との接続を意識しつつ、ギリシア由来の学問を我が物にしようとした古代ローマ人の苦心の跡を描いている[10]。
ケンブリッジ大学出版局刊行の論文集『ケンブリッジ・コンパニオン 古代ギリシア・ローマ哲学』(2003年)では、ヘレニズム哲学再評価の旗手として知られるA・A・ロング[19]が、ローマ哲学の章を担当し、再評価している[20][21]。
スティーヴン・グリーンブラット『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』(2011年)[22][23]は、近世のポッジョ・ブラッチョリーニによるルクレティウス再発見の重要性を論じ、全米図書賞・ピューリッツァー賞を受賞した[24]。
リチャード・ポプキン『懐疑 近世哲学の源流』(1960年)[25]は、セクストス・エンペイリコスの近世への影響を論じ、上記のバーンズらによるセクストス研究を促した[26]。
新プラトン主義は、20世紀中期にピエール・アドやW・タイラー[27]、E・R・ドッズ[28]らに研究され、20世紀末から徐々に注目されるようになった[29]。
学説誌
ローマ哲学の文献の多くは学説誌の役割も担う[12]。つまり例えば、ヘレニズム期のゼノンら「初期ストア派」の学説は、ローマ期のディオゲネス・ラエルティオス、セクストス・エンペイリコス、ガレノス、プルタルコスらによる引用や言及のおかげで、現代にまで伝わっている[13]。キケロの著作の数々も、ストア派、アカデメイア派、エピクロス派などの資料になっている[30]。
アレクサンドリアのクレメンス『ストロマテイス』[31]、ヒッポリュトス『全異端反駁論』[31]、エウセビオス『福音の準備』[32][33]、ラクタンティウス『神的教理』[34]といった、初期キリスト教の文献も古代哲学の貴重な資料となっている。
アウグスティヌス『アカデメイア派論駁[7]』(『アカデミア派駁論[35]』とも)は、キケロ『アカデミカ』の影響のもと、アカデメイア派の学説を整理して論駁している[35]。
ラテン語
使用言語はラテン語とギリシア語が併存していた[10]。例えば、ルクレティウスやキケロはラテン語で[36]、マルクス・アウレリウス[10]やプロティノス[37]はギリシア語で哲学書を著した。
しかし、主流はあくまでギリシア語でありラテン語は傍流に過ぎなかった[10]。ルクレティウスは、ラテン語の哲学詩『事物の本性について』のなかで、ラテン語の哲学語彙の乏しさに言及している[3][38]。キケロは、ラテン語は哲学に不向きであるとする当時の通説に反論し[39]、「哲学にラテン語を教え、哲学にローマ市民権を贈る」ことを理想に掲げた[40][41]。
キケロはあたかも日本の西周のように、自作の造語を訳語とすることもあった[42]。キケロの訳語のいくつかは、後世のラテン世界の諸言語に継承された[43]。例: ギリシア語の「ポイオテース」(ποιότης)→ キケロのラテン語訳「クアリタス」(qualitas)→ 英語の「クオリティ」(quality)[3][44]。なかでも、ギリシア語の「ピラントローピアー」(φιλανθρωπία、人間愛)や「パイデイアー」(παιδεία、教育)からキケロが作り出した「フマニタス」(humanitas)は、彼の思想の核に位置付けられる[45]。これはテレンティウスの格言「ホモー・スム」(Homo sum. Humani nil a me alienum puto. 私は人間だ。人間的なもので、私と無関係なものなどないと思う。)の影響を受けたと思われ[46]、後世の「ヒューマニズム」[46]「人文主義」[30]「人文学」[47]の元になったとされる。
プラトンやアリストテレスのラテン語訳が、キケロ、アプレイウス、マリウス・ウィクトリヌス、ボエティウスらにより作られたが[42]、その大半は現存しない。わずかな現存例として、カルキディウスが訳注した『ティマイオス』[48]、ボエティウスが訳注した『命題論』などのオルガノン[49]がある。
文献学
ローマ期には、プラトンやアリストテレスの全集編纂・校訂・注解などの営み、すなわち文献学(当時は文法学に属する[50])も発達した[51]。その背景には、ヘレニズム期以来アレクサンドリアで栄えたアレクサンドリア文献学の存在もあった[52]。
前88年から東方でおこなわれたミトリダテス戦争の戦利品として、スラが持ち帰ったアテナイの富豪アペリコンの蔵書には、アリストテレスの『形而上学』をはじめとする当時未公開の講義草稿が含まれていた[注釈 4][30]。これを文法学者のテュラニオンが整理した後、ペリパトス派のロドスのアンドロニコスが、最初のアリストテレス全集として編纂した[30]。一方、1世紀初頭のティベリウスに仕えた文法学者アレクサンドリアのトラシュロスは、最初のプラトン全集を編纂した[14]。
3世紀以降の古代末期には、アフロディシアスのアレクサンドロスや上記のカルキディウスらにより、アリストテレス注解・プラトン注解の伝統が確立された[54][55]。
自殺
ローマ哲学では自殺論が度々扱われた[注釈 5][57]。もともと古代ローマはルクレティアを筆頭に著名な自殺者が多く[注釈 6][59]、その中には哲学者も含まれた。傾向としては、祖国や名誉のための自殺、死を恐れない自殺が賛美された一方[60]、逃避のための自殺は賛美されなかった[61]。
ストア派の小カトー[62]は、カエサルに敗れて自刃する際、『パイドン』を繰り返し読んでいたとされ、ソクラテスの最期(服毒自殺)を自身に重ねていたと考えられる[63]。
ローマ期のストア派は、ソクラテスや小カトーの死を賛美した[注釈 7][63]。ストア派は、死の恐怖の克服を説き、祖国や名誉のための自殺、病人や老人の安楽死に限って、自殺を肯定した[65][66]。一方、後世のショーペンハウアーは『自殺について』で、ストア派が自殺そのものを肯定していると解釈した[66]。
ストア派のセネカは、ネロの命令により自殺したことで知られる[注釈 8][67][68]。セネカは著作中で、自殺を「自由の行使」として肯定しているが[67]、自殺の誘惑に抗う心の強さを美徳としてもいる[68]。
キケロは『トゥスクルム荘対談集』で、ストア派の影響のもと、小カトーの自殺を肯定しつつ、正当な理由なき自殺を禁止した[63]。同書では、「自殺の推奨者」ヘゲシアスや、『パイドン』に感化されて自殺したクレオンブロトスの逸話も記している[69]。また同書以外にも『老年について』[70]『国家について』[71]などで自殺を論じている。
キケロはプラトンの自殺禁止論の影響も受けていた[70]。新プラトン主義者たちもプラトンの影響のもと自殺禁止論を説いた[72]。
エピクロス派は、ストア派と同様に死の恐怖の克服を説いたが、自殺そのものには否定的だった[73]。しかしながら、エピクロス派のルクレティウスの死因は、惚れ薬を飲んだことによる狂乱自殺だったとする説がある[73]。ただし、これはヒエロニムスがエピクロス派を批判するなかで伝えている説であり、真偽は定かでない[73][74]。
キュニコス派は、近親姦など様々なタブー行為を容認するなかで、自殺も容認した[75]。キュニコス派のペレグリノスは、死の軽視を説いて焼身自殺し、死後神になったとされる[76]。
エウセビオスは『教会史』で、自殺した殉教者を賛美した[77]。一方、アウグスティヌスはエウセビオスを否定して自殺禁止を説き[78]、ルクレティアの自殺でさえも批判した[注釈 9][78][79]。452年のアルル宗教会議以降、教会法に自殺禁止が加えられた[80]。
歴史
前2世紀: 哲学伝来
伝説では、前8世紀の王政ローマ第2代王ヌマが、ピタゴラスの哲学を学んだとされる[注釈 10][84][85]。しかし年代的に矛盾するため(ピタゴラスは前6世紀の人物)、この伝説は古代から疑問視されていた[85]。
哲学が明確に伝来したのは、共和政ローマ後期・ヘレニズム期後期の前155年、アテナイから外交使節として3人の哲学者がローマに来訪したときである[注釈 11][81][82]。その3人とは、アカデメイア派のカルネアデス、ペリパトス派のクリトラオス、ストア派のバビロニアのディオゲネスであり、3人とも当代きっての哲学者だった[81]。とくにカルネアデスは懐疑主義の立場から、正義論を演説した翌日に反正義論を演説する、というパフォーマンスをしてローマ人に衝撃を与えた[注釈 12][86]。これを受けた大カトーは、哲学がローマの若者を堕落させるとして[87]、哲学者の追放を企てた[注釈 13][90]。しかし結局哲学はローマに浸透した[90]。
哲学の浸透を促したのは、前150年代から前130年代頃の小スキピオを中心とする知識人サークル「スキピオ・サークル」だった[90]。このサークルにはストア派のパナイティオスも属した[90]。
前1世紀: 共和政末期
前88年から東方でおこなわれたミトリダテス戦争の戦火を避けて、ストア派のポセイドニオス(パナイティオスの弟子)、アカデメイア派のラリッサのピロン、エピクロス派のピロデモスらがローマに移った[91][92]。同じ頃、キケロとその友人の小カトー、アッティクス、ウァロらが[注釈 14]、ローマや留学先のアテナイで、中期プラトン主義者のアンティオコス(ラリッサのピロンの弟子)、ストア派のディオドトス、ペリパトス派のクラティッポスらと交流した[95]。キケロの友人ニギディウス・フィグルスは新ピタゴラス主義を興した[84]。
キケロは「ローマ最大の哲学者」と評される[1]。キケロは特定の学派に属さず、穏健な懐疑主義、あるいはアカデメイア派・ペリパトス派・ストア派などを取捨選択する折衷主義の立場をとったが[44][2]、プラトンへの讃美とエピクロス派への批判は一貫していた[2]。キケロは哲学を弁論術や政治実践と統合させることを目指していた[1][96]。また、暗殺される恐怖や愛娘の早逝に対する、心の救済も哲学に求めていた[97]。キケロの哲学著作に『ホルテンシウス』[97]『国家について』『法律について』『ストア派のパラドックス』『アカデミカ』『善と悪の究極について』『トゥスクルム荘対談集』『神々の本性について』『運命について』『卜占について』『老年について』『友情について』『義務について』などがある[98]。
共和政末期は、ローマにおけるエピクロス派の最盛期でもあった[93]。ルクレティウス[99]、ピロデモス[99]、アマフィニウス[99]、シロン[100]らがエピクロス派の教説を伝え、キケロの友人アッティクス[93]や、「パピルス荘」の主人と推定されるカエサルの義父ピソ[93]らに信奉された。
前44年のカエサル暗殺の首謀者たちのなかでも、ブルトゥスがストア派を信奉したのに対し[101][102]、カッシウスはエピクロス派を信奉していた[101][100]。カエサル自身もおそらくエピクロス派の教説に通じていた[93]。
1-2世紀: 帝政前期
1世紀から2世紀には、「ローマ哲学の代名詞[5]」とも言える3人のストア派哲学者、セネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスが活動した[5][4]。セネカやマルクス・アウレリウスは、エピクロス派との折衷の面もあった[103]。
1世紀には、ネロやドミティアヌスの専政に反対した政治家トラセア・パエトゥスやヘルウィディウス・プリスクス[104][105]、博物学者の大プリニウス[106]もストア派を信奉した。ネロはセネカを自殺に追いやり、ドミティアヌスはエピクテトス含む哲学者たちに追放令を発したことでも知られる[107]。
マルクス・アウレリウスは皇帝として哲学を庇護し、176年にはプラトン派・ペリパトス派・ストア派・エピクロス派の4学派の教授職をアテナイに設置した[108]。
この時代はキュニコス派の再燃期でもあり[109][110][111]、ペレグリノス[76]、デモナクス[112][113]、キュヌルコス[114]らが活動した。またキュニコス派とストア派が互いに接近した時期でもあり[111]、セネカに称賛されたキュニコス派のデメトリオス[111]、エピクテトスの師ムソニウス・ルフス[115]、第二次ソフィストのディオン・クリュソストモス[111]にその傾向が見られる。
セネカ『倫理書簡集』などに言及のあるクイントゥス・セクスティウスやソティオンは、ストア派の倫理学と新ピタゴラス派の菜食主義を折衷したような「セクスティウス派」を形成した[84][11]。この学派は唯一「ローマ自家製の学派」と言い得るが、活動期間が短く、注意を惹くような学派でもない[11]。
その他、中期プラトン主義者でもあるプルタルコスの『モラリア』や[116]、アテナイオス『食卓の賢人たち』[117]、ゲッリウス『アッティカの夜』[118]、クインティリアヌス『弁論家の教育』[119]、ペトロニウス『サテュリコン』[87]、ルキアノスの諸著作[120][93]、ガレノスの諸著作[5]も、哲学に言及している。
3-6世紀: 古代末期・中世初期
3世紀前期、セウェルス朝の皇后ユリア・ドムナが、新ピタゴラス主義者の伝記『テュアナのアポロニオス伝』を、第二次ソフィストのピロストラトスに書かせた[122]。ユリア・ドムナは、一説には同時代のディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』の献呈相手とされる[123]。ディオゲネスの学派は不明だが、同書の内容からエピクロスを最も重視していたと考えられる[124]。
3世紀中期以降、ローマ哲学は新プラトン主義に収斂していく[125]。新プラトン主義では、プラトン・アリストテレス・ストア派が折衷された[126]。また、イアンブリコス『エジプト人の秘儀について』『カルデア神託注解』『ピタゴラス伝』に顕著なように、オリエントの思想風土や新ピタゴラス主義も折衷された[127][125][128]。ポルピュリオスの『キリスト教徒論駁』に顕著なように、新プラトン主義は「異教の哲学」として古代末期のキリスト教と対立したが、キリスト教と交わることもあった[127](新プラトン主義とキリスト教)。
新プラトン主義の開祖プロティノスは、若年期にゴルディアヌス3世のペルシア遠征に参加してオリエントの思想に接触し、晩年は軍人皇帝ガッリエヌスと皇后サロニナの尊敬を受けた[129]。新プラトン主義には、背教者ユリアヌスや[注釈 15][131]、代表的な女性哲学者ヒュパティアも属した[注釈 16][8]。
4世紀、キリスト教を保護したコンスタンティヌス1世やテオドシウス1世が「哲人王」と呼ばれる場合もあった[133]。
529年、ユスティニアヌス1世がアテナイの4学派の学園を「異教の哲学」として閉鎖した[134]。その一つアカデメイアの学頭だった新プラトン主義者ダマスキオスとその弟子シンプリキオスらは、ホスロー1世の庇護を求めてササン朝ペルシアに移ったが、やがてそこからも去り離散した[135]。
6世紀前期、ラテン語で新プラトン主義を伝えたボエティウスは、古来「最後のローマ人にして最初のスコラ哲学者」と呼ばれる[136]。
ローマ哲学の後は、中世哲学、あるいはビザンツ哲学、イスラム哲学に続く。
後世の影響
キケロの著作は、古代から近代までラテン世界に影響を与え続けた[139]。とくに『義務について』は、倫理学の古典としてのみならず、ラテン散文の模範としても受容された[140]。カントの義務論を代表する著作の一つ『道徳形而上学原論』は、カントと『義務について』との対話により生まれた著作とも言える[141]。
中世ラテン世界では、ボエティウス『哲学の慰め』[142]、マクロビウス『スキピオの夢注解』[143]といった古代末期のラテン語文献が、古代哲学の貴重な情報源となった。プラトンの著作はカルキディウスが訳注した『ティマイオス』のみ[48]、アリストテレスの著作はボエティウスが訳注した『命題論』などのオルガノンのみが[49]、長らく読まれた[注釈 17]。ボエティウスが訳注したポルピュリオス『エイサゴーゲー』は、普遍論争の発端となった[49]。その他、プロクロスに由来する『偽ディオニュシオス文書』や『原因論』が中世に受容された[145]。
ルネサンス期には、ギリシア語文献とラテン語文献の双方が多く再発見され、近世哲学の発展を促した。ルクレティウス『事物の本性について』は、ポッジョ・ブラッチョリーニによって再発見され、モンテーニュ[137]やガッサンディ[138]に受容された。セネカの著作はリプシウスやカルヴァン[146]、デカルト[17]、モンテーニュ[43]に受容された。セクストス・エンペイリコスの著作はヒュームやモンテーニュに受容された[147]。プロティノスの著作はプラトン・アカデミー[148]やケンブリッジ・プラトン学派[149]に受容された。ペトラルカは、著作『わが秘密』でローマ哲学・文学を引用するなどし[150][151]、キケロの「フマニタス」の復興を目指した[30]。
近現代では、新プラトン主義がドイツ観念論[152][29]・フランス現代思想[153]・西田幾多郎[154]・波多野精一[155]、後期ストア派が清沢満之[12]・神谷美恵子[12][156]・ミル[157]・ヒルティ[12]・現代アメリカの自己啓発[158][159]などに受容されている。ローマ哲学史家のピエール・アドは、後期ストア派の哲学観などをもとに「生き方としての哲学」を説き、フーコーに影響を与えた[12]。
他分野との関わり
宗教
ローマ哲学は全体的に「心の平静」「死」「一者」など、宗教的な主題を扱う傾向がある、とも言われる[160]。
キケロは、『神々の本性について』『卜占について』『法律について』などで、ローマ人の宗教の鳥卜やレリギオについて分析している[161]。
ユダヤ教哲学では、1世紀にアレクサンドリアのピロンが、アレクサンドリア文献学と中期プラトン主義により、ヘブライ語聖書を寓意的に解釈した[162][15]。
キリスト教哲学では、1世紀に使徒パウロが、アテナイのアレオパゴスでストア派やエピクロス派と討論して、信徒を増やしたとされる(『使徒言行録』17:16以下)[163][164]など、哲学を批判しつつも活用する態度をとった[165]。ギリシア教父やラテン教父もパウロと同様の態度をとり、新プラトン主義を活用し、教父哲学を構築した[165](新プラトン主義とキリスト教)。
キケロ[97]、セネカ[166]、エピクテトス[167]は、異教の哲学者でありながら、キリスト教徒にも好意的に受容された。とくにセネカは、使徒パウロとの往復書簡が偽作されるほどだった[166](セネカとパウロの往復書簡)。
アウグスティヌスは、若き日にキケロ『ホルテンシウス』を読んで哲学を志し、マリウス・ウィクトリヌスがラテン語に訳した新プラトン主義の哲学書を読んで回心への一歩を踏み出した[6][42]。回心後の著作『アカデメイア派論駁』では、キケロ『アカデミカ』の影響を受けつつ[35]、キケロやアカデメイア派の懐疑主義を否定した[168]。
グノーシス主義は、中期プラトン主義の影響のもとに形成された[162]。
ラテン文学
ラテン文学は、哲学が伝来する前の前3世紀からギリシア文学の影響を受けていた[82]。前168年または前159年には、哲学者で文法学者のマロスのクラテスが、ローマで文学や文法学を講義した[169]。
キケロの著作は後世ラテン散文の模範とされ、セネカの著作はラテン文学「白銀期」の典型とされた[170]。セネカ『倫理書簡集』は、ラテン文学において栄えたジャンル「書簡文学」に位置付けられる[171]。ルクレティウス『事物の本性について』は、ラテン文学における最初の「教訓叙事詩」に位置付けられ[172]、ウェルギリウス『農耕詩』に影響を与えた[172][173]。ボエティウス『哲学の慰め』の韻文散文混淆文は「メニッポス風サトゥラ」に位置付けられる[142]。
ウェルギリウスとホラティウスは、エピクロス派やストア派からの題材を詩に取り入れている[118]。ペルシウスの『風刺詩』や、ルカヌスの叙事詩『内乱について』には、ストア派の影響が見られる[118]。
ローマ法
ローマ法史において、共和政後期の法学は「ヘレニズム法学」と呼ばれ、正義の概念や演繹・分類の手法などでギリシア哲学から影響を受けたとされる[174]。例えば、鳥占官のスカエウォラ、神官のスカエウォラ、トゥベロらはストア派の影響、セルウィウス・スルピキウス・ルフス、ガイウス・アクィッリウス・ガッルスらはアカデメイア派の影響のもとに法学を扱った[174]。
キケロは『法律について』で、ストア派の影響を受けつつ、慣習法的な十二表法や不文法的な父祖の遺風を、自然法と一致させることを目指した[175]。
弁論術
ローマ哲学は弁論術(修辞学)と関わる[94]。プラトンが『ゴルギアス』などで哲学者と弁論家(ソフィスト)を峻別した[176]のと対照的に、キケロは哲学と弁論術の融合を目指した[30][94]。
帝政期の第二次ソフィストの中には、ディオン・クリュソストモスのように哲学者と弁論家を兼ねる人物もいた[5]。
上記のカルネアデスの演説は弁論術としても受容された[177][176]。
建築
ローマ建築においては、パピルス荘にエピクロスの庭園を模した空間、キケロのトゥスクルム荘やハドリアヌスのヴィッラ・アドリアーナにアカデメイアなどを模した空間が設けられていた[178]。
ウィトルウィウス『建築書』にも哲学への言及がある[179]。
医学
ローマ医学においては、アレクサンドリアからローマに移った医師アスクレピアデスが、エピクロス派の原子論を踏まえた医学を展開した[180]。ガレノスは中期プラトン主義の影響を受けつつ、そのアスクレピアデスやストア派を批判した[180]。ガレノスはマルクス・アウレリウスの侍医でもあった[162]。
ピュロン主義者のセクストス・エンペイリコスは、経験派(エンペイリコイ)の医師でもあった[181]。
天文学・数学
ローマ天文学においては、マニリウスの天文学詩『アストロノミカ』に、ストア派の影響が見られる[172][118]。
プトレマイオスは、同時代の新ピタゴラス派に参加せず、ピタゴラス派を批判的に継承して自説を構築した[182]。
新プラトン主義者のプロクロスは、エウクレイデス『原論』の注解や、天文学書『天文学的諸理論の概要』を著した[183]。
ヒュパティアは父テオンの学問を継ぎ、プトレマイオス『アルマゲスト』やディオファントス、アポロニオスの著作の注解を著した[184]。
関連項目
- Category:古代ローマの哲学者
- ラテン語の成句
- イタリア学派 (ギリシア哲学)
- リベラル・アーツ
- ウーシア
- ヘルメス主義
- 古代神学 [185]
- ローマ神話
- 古代ギリシャ・ローマ世界
- ローマ帝国支配下のギリシャ
脚注
注釈
- ^ 例えば、後述のキケロや新プラトン主義が折衷主義的とされる。「新プラトン主義」という呼称を定着させた19世紀ドイツの哲学史家たちは、「正統なプラトン主義」ではなく「諸説・諸宗教を体系なく混合する悪しき折衷主義」であるとして、この呼称を与えた[16]。
- ^ 例えば、初期ストア派のクリュシッポスらは論理学の理論を扱ったが、ローマ期のストア派(後期ストア派)はあまり扱わない(全く扱わないわけではない[12])。
- ^ ストア派の「アパテイア」、エピクロス派の「アタラクシア」、ピュロン主義の「エポケー」などを指す[17]。
- ^ それまでアリストテレスの著作は、『哲学のすすめ』などの「公開的著作」の方が読まれていた。キケロのアリストテレス受容もそのような状況でおこなわれた[53]。
- ^ 上記のミリアム・グリフィンの主要論文に、ローマにおける哲学と自殺を扱った "Philosophy, Cato, and Roman Suicide"(1986年、全2篇、JSTOR 643026、JSTOR 643257)がある[56]。
- ^ 他の著名な自殺者に、クレオパトラ、アントニウス、カッシウス、ブルトゥスとその妻ポルキア・カトニス、アッリア、マサダで集団自決したユダヤ人、後述の小カトーやセネカがいる[58]。ウェルギリウスは『アエネイス』で、ディドの自殺を歌っている[58]。
- ^ 初期ストア派のゼノン、クレアンテス、アンティパトロスの死因も自殺とされるが、彼らの自殺への賛美は見られない[64]。
- ^ ネロに自殺させられたストア派にはトラセア・パエトゥスもいた[67]。
- ^ ただしアウグスティヌスは、キリストの死を自殺と解釈とする神学上の立場を支持し、例外的に自殺を肯定した[78]。
- ^ ピタゴラスは南イタリアのギリシア植民市クロトンを拠点とした。キケロ『トゥスクルム荘対談集』第4巻では、他にも様々なローマ文化にピタゴラス派の影響を見出している[83][81]。
- ^ この使節来訪については、キケロ、プルタルコス、ポリュビオスなど多くの資料がある[86]。使節の目的は、アテナイとオロポスの紛争をめぐってローマがアテナイに課した罰金を、減免させることにあった[86]。
- ^ このときの演説に「カルネアデスの板」が含まれていた[81]。
- ^ 当の大カトー自身は、アテナイへの留学経験があり[88]、ギリシア文化全般の教養があった[88]。大カトーが戒めていたのは、ローマ文化を捨ててギリシア文化に盲従してしまうことだった[89]。
- ^ 小カトーはストア派を信奉[62]、アッティクスはエピクロス派を信奉[93]、ウァロはアンティオコスを信奉した[94]。またウァロの文法学書『ラテン語について』には、ストア派の音声論の影響も見られる[94]。
- ^ ユリアヌスはキュニコス派にも関心を抱いていた[130]。
- ^ 女性哲学者は他にもソシパトラらがいた[132]。
- ^ 12世紀ルネサンス以降、プラトン・アリストテレスの他の著作もラテン語に訳された[48][144]。12世紀以降のアリストテレス論理学が「新論理学」と呼ばれるのに対し、ボエティウス訳の『オルガノン』『エイサゴーゲー』は「旧論理学」と呼ばれる[144][49]。
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