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「小田急3000形電車 (初代)」の版間の差分

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{{出典の明記|date=2007年11月}}
{{鉄道車両
{{鉄道車両
|車両名=小田急3000形電車<br/><small>Super Express</small>
|車両名=小田急3000形電車<br/><small>Super Express</small>
|社色=#A14023 <!--バーミリオンオレンジ 鉄道ピクトリアル通巻829号(2010年1月号臨時増刊)「特集・小田急電鉄」p191の表から色を抽出-->
|社色=#A14023 <!--バーミリオンオレンジ 鉄道ピクトリアル通巻829号(2010年1月号臨時増刊)「特集・小田急電鉄」p191の表から色を抽出-->
|画像=Model 3000 SE of Odakyu Electric Railway.JPG
|style-table-add=
|pxl = 300px
|画像=ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg
|画像説明=3000形SE車
|pxl=300px
|unit = self
|画像説明=3000形SSE車(1991年、御殿場線松田駅)
|編成 =8両連接車→5両連接車
|unit=
|起動加速度 =1.6[[メートル毎秒毎秒|km/h/s]]<ref name="arc1-113"/>
|編成=8両(連接)→5両(連接)
|起動加速度=1.5km/h/s→1.7
|営業最高速度 =110km/h
|設計最高速度 =147.5km/h<ref name="546-85">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.85]]</ref>
|営業最高速度=110
|最高速度 =125km/h<ref name="arc1-113">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.113]]</ref>
|設計最高速度
|最高速度=
|定格速度 =
|減速度(常用最大)=
|定格速度=SE車時代:75
|減速度(常用最大)=4.15
|減速度(常) =4.15km/h/s<ref name="arc1-113"/>
|編成定員 =348名<ref name="491-17">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.17]]</ref>→316名<ref name="491-17"/>→222名<ref name="491-19">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.19]]</ref>
|減速度(非常)=
|編成定員=
|車両定員 =
|編成長 =108.1m<ref name="491-17"/>→70.4m<ref name="491-19"/>
|車両定員=(1・8号車)52人、(2号車)49人<br/>(3・6号車)38人、(4・5号車)44人<br/>(7号車)40人<br/>→(1・5号車)52人、(2号車)44人<br/>(3号車)36人、(4号車)38人
|最大寸法 =15,950[[ミリメートル|mm]]×2,864mm×3,450mm<ref name="491-17"/>(先頭車・登場当初)<br/>16,150mm×2,864mm×3,450mm<ref name="491-19"/>(先頭車・1968年以降)<br/>12,700mm×2,864mm×4,015mm<ref name="491-17"/>(集電装置付中間車)<br/>12,700mm×2,800mm×3,450mm<ref name="491-17"/>(集電装置無し中間車)
|編成長=
|全長 =
|全長=(1・8号車)15,950mm<br/>(2 - 7号車)12,700mm<br/>→(1・5号車)16,150mm<br/>(2 - 4号車)12,700
|全幅=2,800
|全幅 =
|全高=3,450
|全高 =
|車体長 =
|最大寸法=
|車体幅 =
|編成重量=
|車体高 =
|車両重量=(1号車)24.87t、(2・7号車)17.19t<br/>(3号車)16.00t、(4号車)16.28t<br/>(5号車)15.13t、(6号車)15.75t<br/>(8号車)24.34t<br/>→(1号車)28.32t、(2号車)19.08t<br/>(3号車)18.60t、(4号車)19.09t<br/>(5号車)28.38t
|編成質量 =146.75[[トン|t]]<ref name="2005-167">[[#生方2005|生方 (2005) p.167]]</ref>→113.47t<ref name="491-19"/>
|軸配置=
|車両質量 =
|軌間=1,067
|軸配置 =
|電気方式=[[直流電化|直流]]1,500V([[架空電車線方式]])
|軌間 =1,067mm
|出力=
|電気方式 =[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]<br/>([[架空電車線方式]])
|モーター出力=100kW
|出力 =
|主電動機=[[東洋電機製造]]製TDK-806/1-A
|主電動機 =[[東洋電機製造]] TDK806/1-A<ref name="arc1-113"/>
|編成出力=
|モーター出力 =100[[ワット|kW]]<ref name="arc1-113"/>([[直巻整流子電動機]]・[[公称電圧|端子電圧]]375[[ボルト (単位)|V]]・定格回転数1,800rpm)
|定格出力=
|機関出力 =
|端子電圧=
|編成出力 =
|歯車比=3.71→4.21
|定格引張力=
|定格 =
|定格引張力 =
|駆動装置=[[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸平行カルダン撓み板継手]]
|駆動装置 =東洋電機製造 DND143-SH9921<ref name="arc1-113"/><br/>[[中空軸平行カルダン駆動方式]]<br/>(撓み板継手方式)
|台車=(電動台車)[[鉄道車両の台車|シュリーレン式]][[近畿車輛]]製KD-17<br/>(付随台車)シュリーレン式近畿車輛製KD-18
|歯車比 =78:21=3.71<ref name="arc1-113"/>→80:19=4.21<ref name="491-19"/>
|制御装置=[[電気車の速度制御#抵抗制御|電動カム軸式直並列指定制御]]方式[[東芝]]製MCM
|変速段 =
|電動機=
|台車 =[[近畿車輛]] KD17<ref name="arc1-113"/>(電動台車)<br/>近畿車輛 KD18<ref name="arc1-113"/>(付随台車)
|ブレーキ方式=電空併用[[電磁直通ブレーキ]]方式[[三菱重工業|新三菱重工業]]製HSC-D
|制御装置 =[[東芝|東京芝浦電気]] MM-50A<ref name="491-17"/><br/>電動カム軸式[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]<br/>力行…17段<br/>制動…14段
|保安装置=[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|OM-ATS]]
|ブレーキ方式 =[[発電ブレーキ|発電制動]]併用[[電磁直通ブレーキ|電磁直通制動]] (HSC-D)<ref name="arc1-113"/>
|製造メーカー=[[日本車輌製造]]東京支店・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]]
|保安装置 =[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|OM-ATS]]・ATS-S<!--最後までATS-STにはなっていなかったはず--><ref name="491-18">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.18]]</ref>
|追加項目=
|製造メーカー =[[日本車輌製造]]<ref name="491-17"/>・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輌]]<ref name="491-17"/>
|備考={{ブルーリボン賞 (鉄道)|1|1958}}
|備考 =設計最高速度は平坦線均衡速度を記述
|備考全幅 ={{ブルーリボン賞 (鉄道)|1|1958}}
}}
}}
'''小田急3000形電車'''(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、[[小田急電鉄]]に在籍していた[[特急形車両]]([[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]])。同社が制定した正式な[[愛称]]は「'''SE'''(Super Express)」であるが、5両編成化後は短編成化にちなんで「'''SSE'''(Short Super Express)」と呼ばれ親しまれた<ref>同社内における正式な愛称は、短編成後もなおSEのままであり、SSEは俗称である。[http://shop.plaza.rakuten.co.jp/odakyu-trains/diary/detail/200908130002/ 「小田急グッズショップTRAINSのつぶやき」]2009/08/14 09:55:44のコメント参照。</ref>。[[1957年]]([[昭和]]32年)に8両[[編成 (鉄道)|編成]]3本(24両)、[[1959年]](昭和34年)に8両編成1本(8両)の計32両が製造され、[[1991年]]([[平成]]3年)まで在籍。[[1958年]]度(昭和33年度)[[鉄道友の会]]第1回[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞。


'''小田急3000形電車'''(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、[[1957年]]から[[1992年]]まで[[小田急電鉄]]において運用されていた[[特急形車両]]([[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]])である。
本稿では大井川鉄道(現・[[大井川鐵道]])の3000系電車(初代)についても記述する。


「画期的な軽量高性能新特急車」として計画され<ref name="1981-114115">[[#生方1981|生方 (1981) pp.114-115]]</ref>、[[日本国有鉄道]]の[[鉄道技術研究所]]より協力も得られた<ref name="1981-115">[[#生方1981|生方 (1981) p.115]]</ref>ことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた<ref name="1981-20">[[#生方1981|生方 (1981) p.20]]</ref>車両であり、それらの中には国鉄の[[新幹線]]に発展的に引き継がれた技術も存在する<ref name="1987-88">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.88]]</ref>。当初は8両連接車として登場し<ref name="2-24">[[#小山1985|小山 (1985) p.24]]</ref>、 "Super Express" (略して「SE」)という愛称が設定された<ref name="546-86">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.86]]</ref>が、「SE」という略称には "Super Electric car" という意味も含ませている<ref name="1987-88"/>。登場した1957年に行なわれた[[東海道本線]]での高速試験において、当時の[[狭軌]]鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立した<ref name="2-24"/>。また、本形式の登場がきっかけとなって[[鉄道友の会]]では[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]の制度が創設され<ref name="1981-116">[[#生方1981|生方 (1981) p.116]]</ref>、[[1958年]]には第1回ブルーリボン賞を授与された<ref name="1981-116"/>。[[1968年]]以降は[[御殿場線]]乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し<ref name="2-28">[[#小山1985|小山 (1985) p.28]]</ref>、 "Short Super Express" (略して「SSE」)とも称されるようになり<ref name="1981-21">[[#生方1981|生方 (1981) p.21]]</ref>、[[1991年]]に[[小田急20000形電車|20000形(RSE車)]]が登場するまで運用され<ref name="546-191">[[#大幡546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.191]]</ref>、[[1992年]]に全車両が廃車となった<ref name="386-67">[[#生方386|『鉄道ファン』通巻386号 p.67]]</ref>。
== 概要 ==
[[1948年]]([[昭和]]23年)に[[東京急行電鉄]]([[大東急]])から独立した小田急電鉄は、「[[新宿駅|新宿]] - [[小田原駅|小田原]]間60分運転」という目標をたて、小田原線の完全復興を目指した。


本項では以下必要に応じて、特定の編成を表記する際には[[新宿駅|新宿]]寄り先頭車両の[[鉄道の車両番号|車両番号]]と両数を組み合わせて「3011×8」「3021×5」のように表記し、本形式3000形は「SE車」、[[小田急3100形電車|3100形]]は「NSE車」、[[小田急7000形電車|7000形]]は「LSE車」、[[小田急10000形電車|10000形]]は「HiSE車」、[[小田急20000形電車|20000形]]は「RSE車」、[[小田急50000形電車|50000形]]は「VSE車」、[[鉄道省]]・[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]・[[運輸省]]および[[日本国有鉄道]]が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、[[鉄道技術研究所]]は「研究所」、[[箱根登山鉄道]][[箱根湯本駅]]へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。また、[[大井川鐵道|大井川鉄道(当時)]]に譲渡された車両についても本項目で記述する。
当初、小田急は、軌道や変電所の強化による「60分運転」を計画したが、地上設備の改良は時間と費用を要することから、[[1954年]](昭和29年)に、超軽量車体と[[カルダン駆動方式]]の採用を基本方針とする、新型特急車の製造を決定した。


== 登場の経緯 ==
その基本設計にあたっては、[[日本国有鉄道]](国鉄)鉄道技術研究所(現・[[鉄道総合技術研究所]])の技術協力を得ると共に、[[日本車輌製造]]や川崎車輛(現・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]])などの車両製造メーカーおよび東京芝浦電気(現・[[東芝]])や[[東洋電機製造]]といった電気機器の大手企業が、共同開発を行うという形式がとられ、当時の最新技術を惜しみなく投入した革新的な特急形電車として完成した。<!--[[鉄道の歴史 (日本)#1955年(昭和30年)~1964年(昭和39年)|鉄道車両史]]にその名を残す名車である。-->
=== 小田急の目標 ===
[[1948年]][[6月1日]]に小田急が[[東京急行電鉄]]から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した[[山本利三郎]]は、学生時代から[[連接台車|連接車]]に関心を抱いており<ref name="2009-137">[[#青田2009|青田 (2009) p.137]]</ref>、[[スペイン]]で開発された連接車である[[タルゴ]]について「あれを電車でやれないか」と考えていたという<ref name="2009-137"/>。国鉄東京[[鉄道管理局]]に在籍していた[[1935年]]には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出していた<ref name="jden-167">[[#福原2008|福原 (2008) p.167]]</ref>。これは、関節車(連節車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を[[流線形車両|流線形]]にし、駆動方式も[[吊り掛け駆動方式]]から改良して騒音を低減した高速電車を[[東京駅|東京]]と沼津の間で走らせる、という内容であった<ref name="jden-167-168">[[#福原2008|福原 (2008) p.167-168]]</ref>。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかった<ref name="jden-168">[[#福原2008|福原 (2008) p.168]]</ref>が、山本はその後も連接車の導入に関心を持っており<ref name="386-68">[[#生方386|『鉄道ファン』通巻386号 p.68]]</ref>。1948年冬には当時まだ新入社員であった[[生方良雄]]とともに、当時既に連接車として運用されていた[[西日本鉄道]][[西鉄500形電車 (鉄道)|500形]]の構造や保守について視察を行っている<ref name="386-69">[[#生方386|『鉄道ファン』通巻386号 p.69]]</ref>。


一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的とした輸送改善委員会が設置された<ref name="491-16">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.16]]</ref>が、この委員会では「[[新宿駅|新宿]]と[[小田原駅|小田原]]を60分で結ぶ」という将来目標が設定されていた<ref name="491-16"/>。この目標値は、戦前に[[阪和電気鉄道]]が[[天王寺駅|天王寺]]と[[和歌山駅|東和歌山]]の間61.2[[キロメートル|km]]を45分で結び、表定速度は81.6[[キロメートル毎時|km/h]]に達していたことを意識したもので<ref name="2009-20">[[#青田2009|青田 (2009) p.20]]</ref>、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである<ref name="2009-21">[[#青田2009|青田 (2009) p.21]]</ref>。山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという<ref name="2009-20"/>。
本形式は新製直後の[[1957年]](昭和32年)[[9月]]には、第2編成(3011F)が当時の国鉄に貸し出され、同月27日に[[東海道本線]]の[[函南駅]] - [[熱海駅]]間で、当時の[[狭軌]]鉄道における速度の世界記録(145km/h)を樹立し、その後の[[国鉄181系電車|国鉄151系]]や[[新幹線0系電車|新幹線0系]]の開発にも大きな影響を与えた。


当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた<ref name="pjx-20">[[#X2|『プロジェクトX』p.20]]</ref>。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行なうことはできなかった<ref name="491-16"/>。このため、[[軌道 (鉄道)|軌道]]や[[変電所]]などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた<ref name="491-16"/>。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた<ref name="546-82">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.82]]</ref>。
なお、流線形や[[連接台車|連接構造]]等、その後の小田急ロマンスカーの雛形となった車両という事で、近年の文献などで「初代ロマンスカー」と記述されることが多いが、小田急電鉄は、「ロマンスカー」という語を箱根湯本駅まで乗り入れを開始した[[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]より使用しており、その当時の特急専用車両は、[[小田急1900形電車#1910形・2000形|1910形]]であった。また、「ロマンスカー」とは、「[[ロマンスシート]]」を腰掛として使用した車両のことを指し、かつて、小田急以外にも、[[京阪電気鉄道]]や[[東武鉄道]]などでも愛称として使われ、[[名古屋鉄道]]では社内の車両種別呼称として存在する。


車体の軽量化については[[1954年]]に登場した[[小田急2100形電車|2100形]]で、駆動方式についても[[カルダン駆動方式]]が同年に登場した[[小田急2200形電車|2200形]]で実用化された<ref name="546-82"/>。また、この年の9月11日には、新特急車の開発が正式に決定した<ref name="arc1-65">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.65]]</ref>。
連接構造等、[[インターアーバン]]として[[シカゴ]] - [[ミルウォーキー]]間で運転された「[[エレクトロライナー]]」の影響を受けたと言われる。また日本国内における高速鉄道用連接車として、唯一の前例であった[[西日本鉄道]][[西鉄500形電車 (鉄道)|500形電車]]([[1942年]]製造)についても、計画に先立ち、関係者による視察が行われている。


== 製造まで流れ ==
=== 小田急と国鉄共同開発へ ===
この頃、国鉄でも高速車両の研究が進められていた。[[1946年]]には山本の友人である[[島秀雄]]が、[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[海軍航空技術廠|航空技術廠]]にいた[[三木忠直]]や[[松平精]]などを研究所に招き、「[[鉄道車両の台車史#高速台車振動研究会|高速台車振動研究会]]」を設立して研究を行なっていた<ref name="shima91">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.91]]</ref>。台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった<ref name="shima159">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.159]]</ref><ref group="注釈">しかし、研究所生え抜きの研究者からはことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった([[#X2c|コミック版『プロジェクトX』p.17、p36]])。</ref>。
小田急は、製造に際し、次のような構想を立てていた。
* 5両固定編成。
* 終始、[[定員]]乗車を前提とする「特急専用車両」(一般車への格下げを行わない)として使用する。
* [[鉄道車両の台車|台車]]の重さを可能な限り削減し、超軽量車体とする。
* 台車間の床下を可能な限り低くし、低[[重心]]化を行う。
* [[線形 (路線)|曲線]]をスムーズに走行するため、[[連接台車|連接構造]]とする。
* 編成の前後に、[[展望車|展望席]]を設置する。
このうち、終始「特急専用車両」であることと、超軽量車体、低重心化、連接車とするプランが採用され、設計が行われた<ref>開発の段階では3100形のように上に運転室を設置するプランや、二階建て車両とするプランも検討されたが、これらは低重心・超軽量車体による高速運転という基本コンセプトとの両立が困難であり、また前面展望席は衝突時の安全性確保の問題もあったため、本形式では採用が断念された。ただし、展望席は本形式の直接の後継車である[[小田急3100形電車|3100形]]において採用され、以後[[小田急7000形電車|7000]]・[[小田急10000形電車|10000]]・[[小田急50000形電車|50000]]と続く小田急ロマンスカーの本流である連接車シリーズに継承され、二階建て構造も後に[[小田急20000形電車|20000形]]に採用されて日の目を見ている<!--(前面展望席や二階建て構造については雑誌『鉄道ファン』に図面が掲載されたことがある。)--><!--何年何月号か明示して下さい。-->。</ref>。


三木は[[航空機]]の理論を応用した鉄道高速化の研究を行なっており、[[1953年]]9月にに三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160[[キロメートル毎時|km/h]]・平均125km/hで走行が可能で、[[東京]]と[[大阪]]を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった<ref name="shima158">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.158]]</ref><ref group="注釈">ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計ではあったものの、電車方式([[動力分散方式]])ではなく1,200[[馬力]]の[[電気機関車]]による7両編成の[[客車]]列車([[動力集中方式]])であった([[#高橋2000|高橋 (2000) pp.158-159]])。</ref>。その後、日本鉄道車両工業協会で「超高速車両委員会」が発足した<ref name="2009-68">[[#青田2009|青田 (2009) p.68]]</ref>が、そこで研究を重ねた結果、1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された<ref name="2009-68"/>。
車体構造を研究するため、3回もモックアップが製作されたが、斬新な設計構想に対して小田急社内では反対意見が続出し<ref>特に連接車であることに対して保守陣から強硬な反対意見が出されたとされる。</ref>、一時は開発がストップするという事態に陥った。しかしながら、国鉄が新宿 - 小田原 - [[伊豆半島|伊豆]]方面に対し、直通優等列車の運行を開始するという情報が入ったことから、[[1956年]](昭和31年)[[6月]]、当初のプランを拡大して8車体連接車として新造することが急遽決定された。<!--この連接構造についてはスペインのタルゴ列車の優秀性が認められ、なんとか同等の物を日本にという関係者の強い思いから実現されたということを聞く。-->


山本はこの研究発表に着目し、1954年10月19日に<ref name="1994-140">[[#生方1994|生方 (1994) p.140]]</ref>国鉄に対して新形特急車両の技術指導を依頼した<ref name="shima159"/>。小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあった<ref name="shima154">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.154]]</ref>ので、この依頼は一見非常識にさえ見えた<ref name="shima159"/>。しかしこの当時、島は桜木町事件の後に国鉄を退職していたが、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった<ref name="shima159"/>。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった<ref name="shima159"/>ため、島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた<ref name="shima159"/>。また、研究所側でも、研究成果を実現するために小田急の構想に乗ることで、研究成果の確認が可能になると考えた<ref name="546-82"/>。
本形式の製造に際しては、1編成あたり1億5千万円とその調達費用が巨額となることから、[[住友信託銀行]]と車両メーカー2社による[[信託|車両信託制度]]という新しい制度が創出され、初期投資に伴う資金調達を最小限に抑制することに成功した。この車両信託制度は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フィラデルフィア]]プランに倣ったもので、以後日本の鉄道事業者が車両新造に利用することとなった。


このような経緯で、1954年10月25日から<ref name="1994-140"/>小田急の研究を研究所が受託するという形式で新特急車の共同開発が開始された<ref name="546-82"/>。
製造は日本車輌製造東京支店・川崎車輛の2社が担当した。


== 車体 ==
=== 基本構想 ===
[[1955年]]1月25日には基本構想が策定された<ref name="546-82"/>が、この時点では5両連接車という内容であった<ref name="1994-140"/>。1955年1月16日には<ref name="1994-140"/>共同設計者として[[日本車輌製造]]・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輌(当時)]]・[[近畿車輛]]・[[東洋電機製造]]・[[東芝|東京芝浦電気(当時)]]・[[三菱電機]]が参画し、研究所の指導の下に具体的な設計に入った<ref name="546-83">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.83]]</ref>。メーカーの決定に際しては、純粋に技術的見地から決定され<ref name="1994-75">[[#生方1994|生方 (1994) p.75]]</ref>、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って、過去の小田急との取引を考慮して決定した<ref name="1994-75"/>。
[[ファイル:Front of OER 3000.jpg|thumb|220px|right|流線型である3000形SEの先端部(2007年10月撮影)]]
[[空気力学|空気]][[抗力|抵抗]]軽減と軽量化、それに低[[重心]]化のため、車体断面を着席[[旅客|乗客]]と通路歩行に影響を及ぼさない範囲で極力縮小し、設計の工夫と軽[[合金]]の多用<ref>側窓部は上部が4°内傾し、台車部および連結面付近の台枠側梁がある部分のみ床面が125mm持ち上げられる(持ち上げ部から第1座席までの間をスロープでつないで円滑な歩行を可能としている)など、車体断面形状には工夫が凝らされ、各部を4.5mm以下の薄鋼板で構成すべく、[[プレス加工]]によりビードを形成して強度を確保した外板や、プレス加工で丸穴をあけて軽量化を徹底した[[桁]]材、内装への[[アルミニウム合金|アルミ]]材の多用など、その軽量化には[[航空機]][[設計]]の[[手続き的知識|ノウハウ]]がフルに活かされていた。</ref>で、普通[[鋼]]を用いながら極めて軽量かつ低重心<ref>定員乗車時の重心位置は[[軌条]]上面から1mとなるよう計画されていた。</ref>な[[モノコック|張殻構造]]車体として完成された。


軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及された<ref name="1981-115"/>ほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた<ref name="1981-115"/>。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから[[鉄道車両]]の進歩が遅れる」という山本の考え<ref name="386-67"/>により、[[耐用年数]]は10年と考えることになった<ref name="386-67"/>。
窓配置は両端の[[操縦席|運転台]]付き車体がd1x13、中間車体がD1x11(d:乗務員扉、D:客用扉)で、中間車体は2,5,6号車が1号車寄り車端部に客用扉を設置し、3,4,7号車は8号車寄り車端部に客用扉を設置していた。客用扉は開閉頻度の低い特急車であることから、軽量化のため[[ドアエンジン]]の搭載が省略され、内開き式の手動扉となっていた。なお、各車間の貫通路は開放感を演出するため、そして運転台付き車体の場合客用扉が無く、乗降時には必ず[[貫通扉|貫通路]]を通行する必要があったことなどから広幅とされ、車両間の仕切扉は一切設置されなかった。


前頭部の形状の決定に際しては、[[東京大学]]航空研究所の[[風洞]]を使用して<ref name="shima160">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.160]]</ref>、日本の鉄道車両設計の歴史上初めてとなる本格的な風洞実験が行われた<ref name="shima160"/>ほか、[[ディスクブレーキ]]の試験も行なわれた<ref name="arc1-63">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.63]]</ref>。また、高速運転に伴って[[踏切障害事故|踏切事故]]などを防止するために補助警報器<!--どうも補助警報音とミュージックホーンを一緒にするのは抵抗が…-->(特殊[[警笛]])の現車試験なども行なわれた<ref name="arc1-63"/>。
本形式は画期的な軽量設計をもって8両分全長約108mの車体で147t<ref>在来車の中でも軽量化が図られたカルダン駆動のデハ2300形特急車でさえ、4両編成(全長70m)の自重が135tであったから、劇的な軽量化であった。</ref>という驚くべき軽量化を実現したが、その代償として[[エア・コンディショナー|冷房装置]]の搭載が断念<ref>当初は設置が検討されたが、床下のスペースが限られることが問題となり、屋根上搭載や一時は[[冷媒]]に[[ドライアイス]]や氷を用いることも真剣に検討されたものの、ドライアイス・氷の使用は折り返し駅となる[[箱根湯本駅]]での冷媒確保・補充が至難であるとの理由で却下され、冷房装置の屋根上搭載も重量の増加と低重心が損なわれるという理由で見送られた。このため、換気装置としてファンデリアが採用されている。</ref>され、換気は屋根上に設置された風洞を介して各車天井に6基ずつ設置された16インチ径[[換気扇|ファンデリア]]を用い、側窓は1段上昇式のスチールサッシそして座席はリクライニングを諦めて軽量構造でシートピッチ1,000mmの回転式クロスシートを設置するなど、接客設備面では様々な妥協が行われており、特に[[冷房]]設備の不備は、翌年に竣工した[[近鉄10000系電車|近畿日本鉄道10000系“VISTA CAR”]]が二階建て構造に加えて大きな2層構造の固定窓による眺望の良さと完全空調を謳い文句としてデビューを飾り、続いて[[国鉄181系電車|国鉄20系(→151系)特急形電車]]も同様の設備で竣工したことから、ひときわ目立つ結果となった<ref>近鉄は前代の特急車である[[近鉄2250系電車|2250系]](大阪・山田線用)と[[近鉄6421系電車|6421系]](名古屋線用)で既に川崎重工業KM-7[[集中式冷房装置]]を導入しており、特急車への冷房設置が当然という状況にあった。これに対し、小田急は既存特急車に対する冷房設置を実施しておらず、その接客サービスに対する姿勢の差が表面化したものであった。なお、本系列においても[[1962年]]([[昭和]]37年)に床置式の冷房装置が追加設置されたが、これに伴い自重が編成全体で14t増え、座席定員が32名減となった。</ref>。ただし、それでも小田急ロマンスカーの象徴の1つである「[[走る喫茶室]]」のための売店設備については、3号車と6号車の2箇所に2人掛け座席3脚分のスペースを確保して設置してあった。


また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた山本の提案によって、連接構造が採用されることになった<ref name="shima160"/>。三木は連接車に賛成していた<ref name="386-69"/>が、研究所では保守上の不便を心配していたという<ref name="546-83"/>。また、この時期の[[小田急電鉄の車両検修施設|経堂工場]]は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかった<ref name="arc2-12">[[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.12]]</ref>ので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという<ref name="1994-75"/><ref group="注釈">後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている([[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.12]])。</ref>。
本形式をもっとも強く印象付けた流線形の前頭部形状は、当時の国鉄鉄道技術研究所の協力により、[[風洞]]実験を繰り返して空気抵抗を可能な限り減少させることを目的としてデザインされており、これも当時鉄道技術研究所に在籍した[[大日本帝国海軍|旧海軍]][[海軍航空技術廠|空技廠]]出身の航空技術者たちのノウハウが盛り込まれたものであった。正面下にスカートがあるが、これは軽量な故、空気が床下に流入すると[[揚力]]により浮き上がり脱線転覆することを警戒して取り付けられたもので、やはり航空技術の応用である。


=== 開発の停滞と再開 ===
この流線形の採用で運転台部分の奥行きは2.5mと大きく取られたが、絞り込まれてもいるため、運転台はそれほど広くはなく、各種機器が密集して搭載されていた。なお、高速走行時の[[バードストライク#鉄道|バードストライク問題]]を危惧してか、新造時は前面計器板上に防弾ガラスを設置してあった。[[前照灯]]は、鉄道車両として初採用となる[[シールドビーム]]2灯とし、高速運転時に十分な照度の確保を図っている。<!--この正面窓下に2灯の前灯を配置するデザインは、オランダの国鉄電車のデザインを模範としている。--><!--具体的な形式名は何になりますでしょうか? 出典の明示をお願いいたします-->
これと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため、社内に車両委員会が設置された<ref name="546-84">[[#山村546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.84]]</ref>。しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから<ref name="546-84"/>、社内の意見をまとめるのに難航した<ref name="546-85"/>。


運転席を低くしたため、運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」<ref name="546-85"/>「運転台からの見通しが悪すぎる」<ref name="2009-167">[[#青田2009|青田 (2009) p.167]]</ref>という意見が、また客室床面が低いために営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」<ref name="546-85"/>という意見があったという。必死に説得を続けたものの<ref name="2009-167"/>、運輸部門からの反発は大きく、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった<ref name="546-85"/>。
また、設計当初は在来と同じ配色の外部色が検討されたが、前例のない高速運転を実施する車両であることから、警戒色としてオレンジ系統を基調とする新たな塗装の採用が決定され、そのデザインを当時[[秦野市|秦野]]在住の[[画家]]、[[宮永岳彦]]に依頼し、彼の提案によるオレンジバーミリオンにシルバーグレーのツートンを基調とし、白帯を配したものが採用された。以後、この塗装は、小田急ロマンスカーのシンボルカラーとなり、[[小田急3100形電車|3100形NSE]]、[[小田急7000形電車|7000形LSE]]まで3代に渡って継承された<ref>この塗色はロマンスカーに接続する箱根登山鉄道の車両の標準色や、傘下のタクシー会社の小田急交通のボディカラーとなった。また7000形LSEについては、後日更新工事を施工した際に全編成が[[小田急10000形電車|10000形HiSE]]に準じた塗装に変更されている。なお、2008年現在7000形は1編成(7004F)が登場時のオレンジバーミリオンの塗装となって運行されている。</ref>。


ところが、半年後の1956年3月に、[[新宿駅|新宿]]から[[貨物線]]経由で[[小田原駅|小田原]]や[[伊豆半島|伊豆]]方面に向かう[[準急列車]][[踊り子 (列車)#電車の台頭と列車の増発・名称多様化|「天城」]]の運行が国鉄から発表された<ref name="546-85"/>。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想された<ref name="546-85"/>ため、社内の意見も「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべき」と一致をみた<ref name="546-85"/>ことから、開発は再開されることになった。
このほか、日本初の試みとして、音響心理学研究所の意見と高速走行時の近接警報として[[日本放送協会]]の[[テレビ番組]]、[[NHKのど自慢]]の合格の鐘の音をヒントにし、エンドレステープに録音した[[ヴィブラフォン|ビブラフォン]]調メロディを、屋根上に装備した指向性の高い[[スピーカー]]から流す「[[警笛#ミュージックホーン|補助警報機]]」を初めて採用した。ただし、当時はテープの質があまり良くない上に使用頻度が多いため劣化が激しく、のちに発振装置による音源に変更された。なお、本形式が一部で「[[オルゴール]]電車」と呼ばれるのは、このミュージックホーンに由来している。
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ファイル:OER-SE3000-inside-cab.jpg|3000形電車の運転台 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
ファイル:OER-SE3000-inside.jpg|3000形電車の車内 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
ファイル:Seat of Odakyu RomanceCar SE.JPG|3000形電車の座席 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
ファイル:Occasional Chair of Odakyu RomanceCar SE.JPG|3000形電車の補助席 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
ファイル:OER-SE3000-inside-buffet.jpg|3000形電車の車内・売店設備 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
ファイル:Coupling of Odakyu RomanceCar SE.JPG|3000形電車の車内連結部 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
ファイル:OER-SE3000-inside-slope.jpg|3000形電車の車内・車端部のスロープ (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」)
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[[1956年]]5月には仕様が決定し<ref name="546-84"/>、同年6月末から製作が開始されることになった<ref name="546-84"/>。当初は全長70[[メートル|m]]の5両連接車で計画されていた<ref name="arc1-65"/>ものが、同年5月7日に全長108mの8両連接車に変更された<ref name="1994-140"/>。経験・実績に乏しい方式だったにもかかわらず8両連接車を採用したのは、当時としては大英断であったと評されている<ref name="2-24"/>。また、[[操縦席|運転台]]を2階に上げて[[展望車|展望席]]を設置する案や、[[二等車]]を設ける案もあった<ref name="arc1-65"/>が、最終的にはこれらの案は不採用となった<ref name="arc1-65"/>。
== 主要機器 ==
=== 電装品 ===
主電動機は[[東洋電機製造]]TDK-806/1-A<ref>端子電圧375V時定格出力100kW/1,800rpm 300A、[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|最弱め界磁率]]50%、最高回転数4,320rpm。最弱め界磁率以外は国鉄MT46に近似したスペックであり、外形寸法もほぼ同一であるが、自己通風式のMT46と異なり、こちらは自己通風とファンブロワーによる強制通風を直列で使用する設計となっており、自重も60kg重い。定格速度は75km/h、最高回転数時の理論最高速度は180km/hとなる(車輪径を820mmとして計算した場合)。</ref>、駆動方式は[[カルダン駆動方式|中空軸平行カルダン]]<ref>駆動装置は東洋電機DND143-SH9921、歯数比は3.71。</ref>、そして制御器は[[東芝]]MCM<ref>東芝と[[ゼネラル・エレクトリック]](GE)社との技術提携によって導入された、MA→PC→PCMと続いたGE社系自動加速制御器の掉尾を飾る電動カム軸式自動加速制御器。力行17段(永久直列14段、弱め界磁段3段)、電制17段(界磁3段、抵抗14段)で、いずれも並列段を持たないが、これは特急車ゆえに起動加速の回数が少ないことを考慮して、制御器1基が担当する2台車分4基の主電動機を永久直列接続として主回路を単純化したためである。</ref>を3基搭載し、電動[[鉄道車両の台車|台車]]は9台車中6台車、[[付随車|付随]]台車は両先頭部と4・5号車間となっていた。


車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車両・[[住友信託銀行]]の4社で[[信託|車両信託制度]]という新しい制度が設けられた<ref name="arc1-113"/>。これは[[アメリカ合衆国]]のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので<ref name="arc1-113"/>、SE車は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった<ref name="arc1-113"/>。
主回路構成は、第1次車については当初計画の影響で5車体連接での使用が可能な設計で、実際にも5車体で運用されたことがあったが、第2次車(3031F)では回路簡略化のため、8車体固定編成仕様に変更された。


こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。
台車数で見た場合の[[MT比]]は6:3(SSE化後4:2)であり、起動加速度は1.5km/h/s(SSE化後1.7km/h/s)とされた。


=== ===
== 車両概説 ==
本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。
[[ファイル:Jacobs bogie of OER 3000.jpg|thumb|right|220px|3000形の連接部(2007年10月)]]
[[ファイル:Truck-KD17.jpg|thumb|right|220px|3000形の連接台車・KD-17(2007年10月)]]
台車は軽量設計であることを重視して[[近畿車輛]]KD-17(電動台車)・18(付随台車)[[鉄道車両の台車|シュリーレン式台車]]が採用され、前述の通り各車体間は連接台車とされた。これらは電動台車と付随台車で軽量化のために軸距が違えてあり、前者は2,200mm、後者は2,000mmで、車輪径も縮小されて840mmとされた。こうした様々な努力により、台車の自重は前者が3.8t、後者は3.6tとなっていた。これらはいずれも揺れ枕吊りが線路方向にスイングする、短リンク式と呼ばれる近畿車輛製シュリーレン式台車の第1世代に属する製品<ref>この時点では小田急がその後長期間にわたり採用することになる[[住友金属工業]]製[[アルストム]]・リンク式台車は未完成で、曲線通過特性が良好でかつ高速走行に対応可能な新型軽量台車の選択肢が他になかったことから、シュリーレン式台車が採用された。</ref>であり、揺れ枕吊りのスイング方向の関係からか枕木方向の揺動特性が思わしくなく、枕バネがコイルバネであったためもあって、走行特性はともかくその乗り心地は今一つと評価された。なお、付随台車のブレーキには、高速域から安定した制動力が得られることから、川崎車輌の提案により、日本の鉄道車両としては初の[[ディスクブレーキ]]を採用した。


SE車は8両連接の固定編成で、形式は先頭車が[[制御車|制御電動車]]のデハ3000形で、中間車は[[動力車|電動車]]のデハ3000形である。編成については、[[#編成表|巻末の編成表]]を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能<ref name="491-16"/>で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなる<ref name="491-16"/>が、この場合は3両目が両側とも付随台車となる<ref name="491-16"/>。ただし、1959年3月に製造された編成(3031×8)では、ほとんど編成短縮の機会がないことから、永久8両連節の回路設定とすることで、さらに回路の簡略化を図った<ref name="arc1-66">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.66]]</ref>。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であった<ref name="arc1-65"/>が、SE車では車体ごとに車両番号を附番している<ref name="arc1-66"/>。
=== ブレーキ ===
デハ2200形で初採用され、既に実績を積んでいた、新三菱重工業HSC-D電空併用[[電磁直通ブレーキ]]を採用した。電動台車は両抱き式、付随台車はディスクブレーキで、電動台車は[[発電ブレーキ]]を優先使用することで[[フラット防止装置|フラット]]発生の原因となる踏面ブレーキの使用を最小限に抑制する仕様となっており、これにより減速度4.15km/h/sを確保した。


== 編成 ==
=== 車体 ===
車体については、日本車輌・川崎車輌が担当することになり、研究所側は三木が主任担当者となった<ref name="shima158"/>。
車両番号は新宿方から3001-3002-3003…3008のように付番され、第2編成以降は順に3011…、3021…、3031…となった。


先頭車は車体長15,750[[ミリメートル|mm]]<ref name="546-82"/>・全長15,950mm<ref name="2005-84">[[#生方2005|生方 (2005) p.84]]</ref>、中間車は車体長12,300mm<ref name="546-82"/>・全長12,700mm<ref name="2005-84"/>で、車体幅は2,800mm<ref name="546-83"/>の全金属製車体である。
各車両の自重、最大長および定員は次の通りである。
* 1号車:24.87t・15,950mm・52名
* 2号車:17.19t・12,700mm・49名
* 3号車:16.00t・12,700mm・38名
* 4号車:16.28t・12,700mm・44名
* 5号車:15.13t・12,700mm・44名
* 6号車:15.75t・12,700mm・38名
* 7号車:17.19t・12,700mm・40名
* 8号車:24.34t・15,950mm・52名
* 合 計:146.75t・108,100mm・354名


それまでの特急車両では、格下げを考慮して車体の強度を定員の250[[パーセント|%]]の荷重として計算していた<ref name="491-16">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.16]]</ref>が、SE車では将来の格下げは考えず、定員の130%として荷重を計算した<ref name="arc1-66"/>上で航空機の技術を取り入れ<ref name="546-83"/>、各部にわたって徹底的な軽量化を図った<ref name="491-16"/>。車体構造は強度部材の軽量化のために[[モノコック|張殻構造]]とし、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mmの厚さの耐蝕[[鋼板]]を採用し<ref name="546-83"/>、バックリング防止のため<ref name="2-25">[[#小山1985|小山 (1985) p.25]]</ref>125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした<ref name="491-16"/>。車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み<ref name="546-83"/>、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで<ref name="546-83"/>、横風に対する安定度を確保し、風圧の影響を減少させることを図った<ref name="546-83"/>。低重心化のため台車間の床面を低くし<ref name="546-83"/>、[[軌条]]上面から床面までの寸法は、[[鉄道車両の台車|台車]]の上では1,000mmで車体中央部では875mmとなった<ref name="2005-164">[[#生方2005|生方 (2005) p.164]]</ref>。床板には[[ハニカム構造]]を採用した<ref name="546-83"/>。こうした工夫の結果、構体重量は従来車の1mあたり500kgだったものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され<ref name="491-16"/>、[[小田急2300形電車|2300形]]が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であったのに対して、SE車では全長108mの8両連節車でありながら147t(1mあたり1.36t)と、大幅な軽量化を実現した<ref name="491-13">[[#生方491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.13]]</ref>。なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行なわれていなかった荷重試験が行なわれ<ref name="2009-182">[[#青田2009|青田 (2009) p.182]]</ref>、構体の175箇所に対してねじれや圧縮などの力を加えた測定が行なわれた<ref name="2009-182"/>。
== デビュー・狭軌世界最高速度達成へ ==
[[ファイル:Blue Ribbon Prize 1957 of Japan Railfan Club.JPG|thumb|right|220px|車内に掲げられているブルーリボン賞受賞記念プレート(2007年10月)]]
3000形は[[1957年]]([[昭和]]32年)[[7月6日]]より営業運転を開始し、従来とは全く異なる車両として社会の目を釘付けにした。事実、本形式が充当される特急の特別急行券は即日完売し、利用者からは「乗りたくても(特別急行)券が取れない」という苦情が、小田急にも寄せられた程であった。


{{Double image aside|right|Front of OER 3000.jpg|180|OER SE3000 Door.jpg|180|先頭部|出入台付近(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)}}
また、第2編成(3011F)は、小田急が「曲線の多い小田急線よりも、線路条件の良い[[東海道本線]]を使い、高速走行試験をしたい」という意向を国鉄に示したところ運転局が快諾し、国鉄に貸し出されて<ref>形式上は国鉄側が小田急電鉄に対し貸し出しを要請した形にして、私鉄電車を試験に使用することに対する国鉄部内での反対論が封じられた。</ref>高速走行試験が行われ、[[9月27日]]に、当時の狭軌世界最高速度である145km/hを達成した。
先頭部の形状は流線形で、[[模型]]を作成した上で風洞実験を繰り返し<ref name="491-16"/>、さらにその結果を基にして[[木型|モックアップ]](実物大模型)を作成した上で細部に検討を加えて決定された<ref name="491-16"/>。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだった<ref name="1994-82">[[#生方1994|生方 (1994) p.82]]</ref>が、当時の日本の[[ガラス]]製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず<ref name="1994-82"/>、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった<ref name="1994-82"/>。[[前照灯]]は正面窓下部中央に2灯を並べ、日本の鉄道車両では初めて[[シールドビーム]]が採用された<ref name="2-25"/>が、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかったため、自動車用の24V仕様のものを使用した<ref name="1987-88"/>。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたこと<ref name="1994-81">[[#生方1994|生方 (1994) p.81]]</ref>と、左右に分けた場合に1灯が故障した場合に列車の位置が分からなくなるという理由によって<ref name="1994-81"/>、2灯を前面中央部に並べた<ref name="1994-81"/>。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから<ref name="1994-81"/>、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている<ref name="1994-81"/>。[[尾灯]]兼用の[[通過標識灯|標識灯]]は運転席窓上に設けられた。先頭部には異常時に使用する格納式[[連結器|簡易連結器]]が収納された<ref name="491-16"/>。
<!--なお、2007年現在でも、公式に145km/hを超える速度で走った民鉄車両はなく、この車両が日本の民鉄車両最高速度記録を保有していることとなる。--><!--民鉄の定義にもよるのでコメントアウト。広義の民鉄である第3セクターを含めると[[北越急行]]所有の[[JR西日本681系電車|681系2000番台]]・[[JR西日本683系電車|683系8000番台]]が現在同社線で最高160km/hでの営業運転を実施していますので。-->
[[1958年]](昭和33年)[[1月29日]]には、鉄道友の会より、1958年第1回ブルーリボン賞を授与された。なお、ブルーリボン賞は、本形式の優秀さに対し、同会が、鉄道趣味の見地から何らかの形で表彰をしようとしたことに由来しており、本形式こそが「鉄道友の会ブルーリボン賞」創設のきっかけを作ったといえる。また、現在の同賞は鉄道友の会会員による投票で選定されているが、第1回の選定車両たる本形式は同賞の創設意義から無投票で選定されている。


側面客用扉は車体断面に合わせた<ref name="491-16"/>高さ1,770mm・幅800mmの手動式<ref group="注釈">1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.37)。</ref>内開き戸<ref name="2005-84"/>を中間車に1箇所ずつ配置した。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した<ref name="2005-84"/>。[[操縦席|乗務員室]]の扉は高さ1,400mm・幅600mmである<ref name="2005-84"/>。車両間の[[貫通扉|貫通路]]は車内の見通しを良くする目的で広幅とし<ref name="491-16"/>、仕切り扉は一切設けていない<ref name="491-16"/>。
== いわゆる「SSE」化 ==

屋根は[[換気扇|ファンデリア]]の外気取り入れ口を設けた二重構造とし<ref name="491-16"/>、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた<ref name="arc1-66"/>。

塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあった<ref name="2009-179">[[#青田2009|青田 (2009) p.179]]</ref>が、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべき」と決まり<ref name="2009-179180">[[#青田2009|青田 (2009) pp.179-180]]</ref>、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で<ref name="1994-82"/>、[[二紀会]]の[[宮永岳彦]]が色彩設計を担当<ref name="546-86"/>、バーミリオンオレンジを基調にホワイト・グレーの帯が入る<ref name="546-86"/>、[[警告色|警戒色]]となるような明るい色とした<ref name="491-17"/>。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され<ref name="2009-181">[[#青田2009|青田 (2009) p.181]]</ref>、バーミリオンオレンジについてはVSE車とMSE車にも継承された<ref name="2009-181"/>。

=== 内装 ===
{{Triple image|right|OER-SE3000-inside.jpg|150|OER-SE3000-inside-slope.jpg|150|OER-SE3000-inside-buffet.jpg|150|客室内(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)|客室端部のスロープ|喫茶カウンター(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)}}
それまでの同種の[[鉄道車両の座席|座席]]の重量が60kgだったところを30kgにまで軽量化した[[鉄道車両の座席#回転式クロスシート(回転腰掛)|回転式クロスシート]]を採用し<ref name="491-16"/>、[[座席#シートピッチ|シートピッチ]]1,000mmで配置した<ref name="2005-84"/>。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である<ref name="491-20">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.20]]</ref>。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した<ref name="arc1-116">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.116]]</ref>。車体の節で記述したように、車体中央部を低床化しており、台車上と車両中央部の床の高さに125mmの差があるため、客室両端部の通路には傾斜をつけている<ref name="arc1-114">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.114]]</ref>。

室内の配色は、天井を白、壁面は明るい色の[[デコラ]]張りとして<ref name="1994-83">[[#生方1994|生方 (1994) p.83]]</ref>、窓上[[カーテン]]キセ上部に赤い帯を入れた<ref name="1994-83"/>。座席は濃い青色の表地を採用した<ref name="1994-83"/>。

3号車の新宿寄り海側出入台脇と9号車の[[小田原駅|小田原]]寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した<ref name="491-16"/>。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用[[便器#和式大便器(和風大便器)|和式]][[列車便所|便所]]・[[洗面器#洗面台・洗面所|化粧室]]を配置した<ref name="491-16"/>。喫茶カウンター・便所とも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。

客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で、左右どちら側にでも開けるようにした<ref name="1994-77">[[#生方1994|生方 (1994) p.77]]</ref>。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったため<ref name="1994-77"/>で、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした<ref name="1994-77"/>。

=== 主要機器 ===
==== 主電動機・駆動装置 ====
{{Sound|Odakyu SSE 3055 sagami No.5 matsuda.ogg|3000形電車3055の走行音(さがみ5号)|(本厚木-新松田間、1988年1月2日)}}
{{Sound|Odakyu SSE 3055 sagami No.5 matsuda.ogg|3000形電車3055の走行音(さがみ5号)|(本厚木-新松田間、1988年1月2日)}}
既に[[中空軸平行カルダン駆動方式]]で実績のある[[東洋電機製造]]が担当した<ref name="546-83"/>。
[[1968年]](昭和43年)、[[御殿場線|国鉄御殿場線]][[鉄道の電化|電化]]に伴い、[[1955年]](昭和30年)から[[気動車]]([[小田急キハ5000形気動車|キハ5000・5100形]])で運転されていた[[準急列車|直通<small>特別</small>準急]]を電車に置き換えるため、小田急は、SE車を5両編成とする改造を実施した。この改造により、SE車はSSE(Short Super Express)車という俗称を持つに至った<ref>注釈1のとおり「SSE」車は俗称であるが、「SSE」車という俗称は短編成後のSE車を表現する上で便宜的であるため、以後、短編成化後のSE車をもって「SSE」車と、短編成化前の8両編成時をもってSE車と表現する。</ref><ref>当初、小田急は短編成の専用車を新造する計画を立てていたが、国鉄の意向から、本形式を改造の上で充当することとなった。</ref>。


採用された[[主電動機]]は出力100[[ワット (単位)|kW]]([[公称電圧|端子電圧]]375[[ボルト (単位)|V]]・定格回転数1,800[[rpm (単位)|rpm]]・最[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱界磁]]率50[[パーセント|%]])の[[直巻整流子電動機|直流直巻補極付電動機]]である東洋電機製造のTDK806/1-A形で<ref name="491-17"/>、定格速度が高く、高速域からの発電ブレーキを十分に作用させることが可能な特徴を有する<ref name="arc1-114"/>。また、最大回転数は4,320rpmで<ref name="arc1-115"/>、理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である<ref name="arc1-115"/>。箱根登山線での上り勾配低速運転に対応するため、強制通風式となっている<ref name="491-17"/>。
従来の8両4編成(32両)は、以下のように5両6編成(30両)に組み替えられた。なお、数字は短編成(SSE車)化後の新番号、(''この書体の数字'')は8両編成時代の旧番号である。
* SSE第1編成:3001(''3001'')-3002(''3002'')-3003(''3006'')-3004(''3007'')-3005(''3008'')
* SSE第2編成:3011(''3011'')-3012(''3012'')-3013(''3016'')-3014(''3017'')-3015(''3018'')
* SSE第3編成:3021(''3021'')-3022(''3022'')-3023(''3026'')-3024(''3027'')-3025(''3028'')
* SSE第4編成:3031(''3031'')-3032(''3032'')-3033(''3036'')-3034(''3037'')-3035(''3038'')
* SSE第5編成:3041*(''3015'')-3042(''3005'')-3043(''3013'')-3044(''3004'')-3045*(''3014'')
* SSE第6編成:3051*(''3035'')-3052(''3025'')-3053(''3033'')-3054(''3024'')-3055*(''3034'')
なお、SSE車の車両番号の『*』は、中間車を先頭車に改造した車両を示す。また、この5両編成化に伴い、余剰となった''3003''と''3023''は、[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった。


駆動装置は東洋電機製造の[[中空軸平行カルダン駆動方式]](撓み板継手方式)のDND143-SH9921形である<ref name="arc1-113"/>。[[歯車比|歯数比]]は78:21=3.71とした<ref name="491-17"/>。
SSE車では6台車中4台車が電動台車とされ、付随台車は2 - 3号車間及び3 - 4号車間となり、3号車は付随車となった。
[[ファイル:Coloring of OER 3000.jpg|thumb|right|220px|SEカラーリング(左)とSSEカラーリング]]
また、[[重連運転]]の対応のための[[連結器]]や、3100形に準じた大形の[[方向幕#ヘッドマーク|電照愛称表示器]]の装備により、先頭形状は大幅に変更され、従来の流麗な印象から、ややいかつい印象となった。この改造にあたっては[[フランス国鉄]] (SNCF) の[[TEE]]車両「x2700形」のデザインを参考にしたともいわれている。また、SE車時代の面影を残しつつ、側面は[[操縦席|乗務員室]]の後から始まって側面窓下部から裾までのオレンジが灰色に変更され、3100形の側面に準じた配色としている。ただし、本形式の車体側板にはビードがあるため、白の3本線は入っていない。正面は愛称表示器の下からV字形の白いラインで強調されている。


==== 制御装置 ====
同時に、冷房装置を、床置タイプから天井に取付ける[[分散式冷房装置|屋根上分散式]]に変更した。
電機メーカー各社の設計入札を行った結果、超多段制御方式では最軽量となった[[東芝|東京芝浦電気(東芝)]]が担当した<ref name="546-83"/>。


採用された[[主制御器|制御装置]]は、[[発電ブレーキ|発電制動]]付[[主制御器#電動カム軸接触器式|電動カム軸式]][[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]装置であるMM-50A形で<ref name="491-17"/>、2・5・7号車に搭載された<ref name="491-24">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.24]]</ref>。特急車両であることから起動回数が少なく<ref name="arc1-114"/>、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れる<ref name="491-17"/>ことから、直並列制御は行なわずに抵抗制御及び界磁制御を行なう仕様で<ref name="491-17"/>、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)<ref name="491-17"/>、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である<ref name="arc1-114"/>。また、全ての制御回路を直列にして、1台の制御器で12つの主電動機の制御を行うこと (1C12M) も可能である<ref name="491-17"/>。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段<ref name="491-17"/>、制動は全界磁抵抗制御による14段である<ref name="491-17"/>が、起動時のショックを防ぐために捨てノッチが5段設定された<ref name="arc1-114"/>。
この他、御殿場線乗り入れの関係で、[[自動列車停止装置#ATS-S|ATS-S]]や[[信号炎管]]などの新設、歯車比の変更(3.71→4.21)、車輪径の変更(840mm→860mm)が行われ、車内では[[車内販売|喫茶カウンター]]の客席からの分離および男性用小便所が新設された。


==== 制動装置(ブレーキ) ====
なお、改造後の各車両の自重、最大長および定員は次の通りである。
小田急において採用実績のある[[三菱電機]]が担当した<ref name="546-83"/>。
* 1号車:28.32t・16,150mm・52名
* 2号車:19.08t・12,700mm・44名
* 3号車:18.60t・12,700mm・36名
* 4号車:19.09t・12,700mm・38名
* 5号車:28.38t・16,150mm・52名
* 合 計:113.47t・70,400mm・222名


採用された[[鉄道のブレーキ|制動装置(ブレーキ)]]は、[[発電ブレーキ|電]][[空気ブレーキ|空]]併用<ref group="注釈">発'''電'''制動・'''空'''気制動を併用するという表記。</ref>のHSC-D形<ref group="注釈">「ハイスピードコントロール ('''H'''igh '''S'''peed '''C'''ontrol) ・ダイナミックブレーキ ('''D'''ynamic Break) 付」の略である。</ref>[[電磁直通ブレーキ]]で<ref name="491-17"/>、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である<ref name="491-17"/>。ブレーキ装置についても軽量化が図られ、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ、SE車では500kgに抑えている<ref name="arc1-114"/>。主抵抗器は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした<ref name="491-17"/>。
== 廃車・保存 ==
[[File:Ticket Romancecar Sagami2 B-Car.jpg|thumb|220px|2編成を連結した運転の際には、券面に編成を区別するための記号が記された(「B」は『B編成』の意味)]]
[[ファイル:Model 3000 SE of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|220px|海老名電車基地にて保存されている3000形(新宿方・SEデザイン復元)]]
[[ファイル:Model 3000 SSE of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|220px|海老名電車基地に保存されている3000形(小田原方・SSEデザイン)]]
SSEとなった後は、連絡急行「[[あさぎり (列車)|あさぎり]]」の他、小田急線内特急にも充当されていた。小田急線内では、多客時に2編成を連結した運転も行われ、その際には編成を区別するため『A編成』と『B編成』と呼称し、乗客が乗り間違えないように工夫された。また、最終期に「あさぎり」でも[[修学旅行]]を中心とした[[団体専用列車|団体客]]があったことから2編成を連結した運転も実施された(冒頭の画像)。


基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ<ref name="2-147"/>、付随台車ではシングルディスク式[[ディスクブレーキ]]である<ref name="2-147"/>が、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である<ref name="1987-88"/>。
[[1980年]](昭和55年)に[[小田急7000形電車|7000形LSE]]が就役開始し、[[1983年]](昭和58年)に4編成が揃うと、小田急は余剰となる本形式を経年の順に淘汰し、その後御殿場線乗り入れ専用車を新造して残り全車を置き換える計画を立てた。


==== 台車 ====
その計画に従い、第1編成(3001F)は廃車となり、そのまま大井川鉄道に譲渡され([[#大井川鉄道での動態保存|大井川鉄道での動態保存]]参照)、狭軌最高速度のレコードホルダーであった第2編成(3011F)も廃車解体されたが、その頃には乗り入れ先の国鉄において、長年の慢性赤字による[[国鉄分割民営化|国鉄改革]]の議論が台頭しつつあったことから、本系列を1対1で代替する御殿場線乗り入れ専用車の新造は困難な状況となっていた。
[[ファイル:Truck-KD17.jpg|thumb|right|電動台車 KD17]]
[[鉄道車両の台車|台車]]の振動特製の研究結果から、安定した軽量台車の[[鉄道車両の台車史#スイス|円筒案内式(シュリーレン)台車]]が松平より推奨された<ref name="1994-76">[[#生方1994|生方 (1994) p.76]]</ref>ため、これを採用することになり、[[近畿車輛]]が担当した<ref name="546-83"/>。


採用された台車は、電動台車が軸距2,200mmのKD17<ref name="2-147">[[#小山1985|小山 (1985) p.147]]</ref>、付随台車が軸距2,000mmのKD18<ref name="2-147"/>で、いずれの台車も車輪径は840mmの金属[[ばね]]台車である<ref name="2-147"/>。台車の重量を3t台とすることを目標として設計され<ref name="arc1-115">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.115]]</ref>、保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし、6つに分けられた[[溶接]]鋼板の組み立てによる箱型とすることで、電動台車は3.8t、付随台車は3.6tに重量を抑えた<ref name="arc1-115"/>。また、SE車では定員の130%として荷重を計算したことから、ばねを柔らかくすることが可能になった<ref name="arc1-66"/>。連接付随台車は編成中3箇所に設けられた<ref group="注釈">2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。</ref>。しかし、スイングハンガーが短いことから左右剛性が硬く<ref name="679-135">[[#山岸679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.135]]</ref>、高速域での左右振動性能に難があったという<ref name="679-135"/>。
このため、社内でも反対論が根強く存在していたが、車齢25年を越えた本形式を更新修繕して、当面の間引き続き連絡急行運用に充当することとなった。


また、曲線の多い小田急線の軌道条件から、「曲線通過を容易にできる」「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」という利点から、連接構造が採用された<ref name="546-83"/>。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用されることになり、小田急の特急車両の大きな特徴となった<ref name="2-24"/>。
これに伴い、残された4編成<ref>3021F・3031F・3041F・3051F。</ref>は、冷房時の外気遮断効果の向上のために側窓の固定化・冷房装置カバーの[[繊維強化プラスチック|FRP]]化・座席モケットの変更<ref>7000形に準じた色調に変更。</ref>・天井や内張りなどの張り替え・乗降扉の電磁ロック装置設置・[[幌]]を7000形と同様のものへの交換などといった近代化工事が行われた。


==== 空調装置 ====
その後、国鉄が分割民営化され、JRとなると、小田急は、御殿場線を管理する[[東海旅客鉄道]](JR東海)との協議により、「あさぎり」の[[沼津駅]]までの乗り入れ延長と相互乗り入れ化、および両者で共通性を持たせた特急車両([[小田急20000形電車|20000形RSE]]・JR東海[[JR東海371系電車|371系]])を新造することが決定し、この20000形RSEの就役開始により、本形式は全車廃車されることとなった。
[[エア・コンディショナー|空調装置]]は、実車完成までに解決できなかった問題である<ref name="546-83"/>。


当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、[[冷凍機]]を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された<ref name="546-83"/>。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであった<ref name="546-83"/>が、小田原で大量の氷を確保することは困難であった<ref name="546-83"/>。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討された<ref name="546-83"/>が、車体表面近くでは相対的な速度が小さく<ref name="546-83"/>、パイプを伸ばせば[[車両限界]]に抵触する<ref name="546-83"/>ため、これも実現しなかった。
こうして[[1991年]]([[平成]]3年)[[3月15日]]、「あさぎり8号」(御殿場駅→小田急線新宿駅)をもって本形式による定期運用が終了し、さらに翌年[[1992年]](平成4年)[[3月8日]]の検査期限切れ直前に、新宿駅 - [[唐木田駅]]間にて「さようなら3000形走行会」が実施され、本形式は全車廃車となった。


結局、重量面の問題もあり<ref name="arc1-118">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.118]]</ref>、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され<ref name="422-49">[[#生方422|『鉄道ファン』通巻422号 p.49]]</ref>、運転時間が短いこともあって<ref name="arc1-118"/>軽量化と引き換えに冷房搭載は見送られることになり、直径16インチのファンデリア<ref name="arc1-116">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.116]]</ref>を先頭車に6台・中間車に5台設置することになった。
その後、3031F・3041F・3051Fの3編成は解体されたが、残存各編成中で最若番であった3021Fについては<!--、重要文化財に匹敵する--><!--極めて主観的な表現のためコメントアウト。技術的な重要度に関しては論者により見解が分かれるところであり、「重要文化財に匹敵」というのは余りに勇み足が過ぎます-->歴史的・技術資料的価値が認められ、保存の処置が取られた。


==== 補助警報装置 ====
[[ファイル:OER Romancecar SE Conservation.jpg|thumb|right|220px|海老名電車基地にある保存庫と3000形「SE」]]
補助警報音については、警報装置としての条件を満足させるという[[運輸省]]の要求<ref name="546-84"/>と、[[騒音]][[公害]]にならないように要求する[[警視庁]]の要望<ref name="546-84"/>を満足させるため、小田急沿線在住の[[音楽家]]である[[黛敏郎]]や音響心理学研究所の指導を得た上で[[ビブラフォン]]の音色とし<ref name="2009-173">[[#青田2009|青田 (2009) p.173]]</ref>、2km付近まで達する音量とした<ref name="arc1-117">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.117]]</ref>。補助警報音を発する装置は、エンドレス[[磁気テープ|テープ]]を乗務員室内に設けられた再生装置によって屋根上に設置した指向性の強い[[スピーカー]]から放送する仕組みである<ref name="arc1-66"/>。
こうして3021Fは5両編成のうち新宿方2両は、登場時(SE)の形態および塗装に復元、残る3両も整備を実施し、[[1993年]](平成5年)[[3月20日]]より[[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|海老名電車基地]]にて、[[静態保存]]となった。保存庫は屋根付きで、空気流通用[[換気扇]]まで設けられており、15年以上経た現在も保存車両は内外ともに非常に良い状態が保たれている。


この補助警報音は、SE車が「[[オルゴール]]電車」と呼ばれる由来となった<ref name="2005-87">[[#生方2005|生方 (2005) p.87]]</ref>。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された<ref name="829-190">[[#中山829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.190]]</ref>。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している<ref name="829-190"/>。
なお、同編成は毎年10月に実施される[[ファミリー鉄道展]]で、保存庫の一般公開が行われ、車内見学も可能である。また、2007年度(平成19年度)のファミリー鉄道展では、保存後初めて屋外に出されて展示された。


== 大井川鉄道で動態保存 ==
==== 他機器 ====
{{Double image aside|right|OER-SE3000-inside-cab.jpg|180|OER SE3000 Pantograph PT42-K.jpg|180|乗務員室(1968年の改造後のため登場当時とは異なる)|集電装置 PT42-K}}
1980年代に廃車された2編成のうち、第1編成の3001Fは、[[1983年]]([[昭和]]58年)[[4月]]に大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ動態保存のために譲渡された。
[[操縦席|乗務員室]]は前後方向に2,450mmとなっており<ref name="2005-84"/>、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである<ref name="2005-84"/>。前面計器板上には防弾ガラスを設置した<ref name="arc1-116"/>。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした<ref name="arc1-116"/>。
[[File:Oigawa3000 19841104.jpg|thumb|left|220px|大井川鉄道・新金谷駅にて、1984年撮影]]
譲渡にあたっては、3両編成への短縮も検討されたが、技術的な問題で断念<ref>3両編成に短縮すると編成で客用扉が片側で一カ所となるため、客扱い上支障になると判断された。</ref>し、5両編成のままで譲渡された。譲渡後、小田急時代は騒音問題から使用が中止されていた[[警笛#ミュージックホーン|メロディホーン]]を復活させたほか、[[車内販売|喫茶カウンター]]はそのまま残され、[[緑茶]]の販売が行われた。<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』No.267 交友社 1983年7月号 46 - 47頁 大井川鉄道に小田急電鉄のSE車登場 を参考。</ref>また電動車の記号は「デハ」から「モハ」に改められた。


[[集電装置]](パンタグラフ)は、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に、高速運転時の追従性を向上させたPT42-K形集電装置を設置した<ref name="491-24"/>。
大井川鉄道では[[大井川鐵道大井川本線|大井川本線]]にて[[急行列車|電車急行]]運用(列車名は「おおいがわ」・「あゆの里」)に就いていたが、当初危惧されたように5両編成では輸送力が過剰であったことや、固定編成のしかも連接車であったため、定期検査時に通常の車両とは比較にならないほどの手間を要したこと、経年劣化で冷房装置が不調気味であったことが重なり、さらには[[1984年]](昭和59年)から大井川本線で開始された[[ワンマン運転]]化に構造上対応が困難であったため、年数が経つにつれて運用の機会が減少してゆき、譲渡から僅か5年後の[[1988年]](昭和63年)には運用から外された<ref> 千頭駅のSL資料館の説明文より </ref>。その後は[[千頭駅]]に留置されていたが、長らく放置されたため車体が大幅に腐食してしまい、[[1993年]](平成5年)[[3月31日]]に解体処分された<ref>元来歴史的車両の動態保存のモデルケースとして譲受したものであったため、小田急電鉄にて第3編成(3021F)の保存が決定されるまで解体に踏み切れなかったとされる。(参考文献4・5)</ref>。


補助電源装置については、2相交流6kVA・直流35kWの複流式[[電動発電機]] (MG) であるCLG-314形と、3相交流18kVAのMGであるCLG-315形をそれぞれ2台ずつ採用<ref name="491-17"/>、両先頭車に各1台ずつ搭載した<ref name="491-24"/>。
現在では車体こそ現存しないものの、内外装の一部が千頭駅のSL資料館に保存・展示されている。


[[圧縮機|電動空気圧縮機]] (CP) は、低床化に対応したM-20-D形を採用<ref name="491-17"/>、1・3・6・8号車に搭載した<ref name="491-24"/>。
== 歴史 ==

* [[1957年]][[5月30日]] 第1 - 3編成(3001F・3011F・3021F)車両設計認可。
== 沿革 ==
* 1957年[[6月22日]] 第1・3編成(3001F・3021F)竣工。
=== 運用開始 ===
* 1957年[[6月27日]] 「3000形SE展示会」を実施。
1957年5月20日に日本車輌製の3001×8が入線<ref name="arc1-65"/>、6月上旬には日本車輌製の3021×8が入線した<ref name="arc1-65"/>。6月から小田急線内での試運転を開始し<ref name="arc1-65"/>、小田急線内では127km/hという速度を記録した<ref name="546-86"/>が、小田急線の軌道条件ではこれが限界であった。このため、小田急と研究所の意見は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた<ref name="546-86"/>。
* 1957年[[7月6日]] 第1・3編成(3001F・3021F)就役。

* 1957年[[8月9日]] 第2編成(3011F)竣工。
6月26日・27日に展示会が行なわれた。この時の雑誌では「日本製タルゴ」という表現も使用された<ref name="arc1-112">[[#otenamia1-SE|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.112]]</ref>。また、SE車の完成後に[[スペイン]]から日本へタルゴの売込みがあり、小田急を訪れた<ref name="2009-140">[[#青田2009|青田 (2009) p.140]]</ref>。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した<ref name="2009-140"/>。商談は成立しなかった<ref name="2009-140"/>が、開発に携わった[[ホセ・ルイス・オリオール]]は「実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ」という感想を述べたと伝えられている<ref name="arc1-113"/>。
* 1957年[[9月20日]] - [[9月28日|28日]] 第2編成(3011F)が[[日本国有鉄道]]へ貸し出される。(9月20日は[[藤沢駅]] - [[平塚駅]]間、[[9月21日]] - [[9月26日|26日]]は[[大船駅]] - 平塚駅間、[[9月27日|27日]] - 28日は[[函南駅]] - [[沼津駅]]間にて運行)

* 1957年9月27日 日本国有鉄道[[東海道本線]]函南駅 - 熱海駅間にて、当時の[[狭軌]]世界最高速度、時速145キロを樹立。
「[[電車]]といえば四角い箱」であった時代において、SE車は[[鉄道ファン]]だけではなく一般利用者からも注目を集めた<ref name="korotan290">[[#コロタン|『私鉄特急全百科』p.290]]</ref>。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始された<ref name="arc1-65"/>が、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり<ref name="1981-17">[[#生方1981|生方 (1981) p.17]]</ref>、前評判を聞いた利用者が殺到し、連日満席となる好成績となった<ref name="1981-17"/>。
* 1957年[[10月1日]] 第2編成(3011F)就役。

* [[1958年]][[1月29日]] 3000形SEが1958年第1回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。
ただ、経堂工場は狭いままで、8両連接車のSE車が全て入場することは出来なかった<ref name="arc2-11">[[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.11]]</ref>。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離し出来ない<ref name="2009-205">[[#青田2009|青田 (2009) p.205]]</ref>ため、経堂工場にはリフティングジャッキが設置された<ref name="2009-204">[[#青田2009|青田 (2009) p.204]]</ref>。車両を結ぶ配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた<ref name="2009-205"/>。分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという<ref name="2009-205"/>。
* [[1959年]][[2月18日]] 第4編成(3031F)車両設計認可。

* 1959年[[2月28日]] 第4編成(3031F)就役。
=== 狭軌世界最高速度記録 ===
* 1959年3月2日 第4編成(3031F)竣工。(関係各所への竣工届の提出が、就役よりも遅かった)
==== 国鉄線上での試験 ====
* [[1963年]][[3月3日]] 臨時[[スケート]]特急「白銀号」を運行。
折りしも研究所ではこの年の5月30日に研究所創立50周年を記念して「[[東京 - 大阪間3時間への可能性]]」という講演会を開いていたが、この講演は大きな反響を呼び<ref name="shima162">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.162]]</ref>、新聞・雑誌などでも取り上げられていた<ref name="shima162"/>。既に、国鉄では後に[[新幹線]]となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである<ref name="shima161">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.161]]</ref>。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった<ref name="shima162"/>。
* [[1967年]][[7月2日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第2編成(3011F)竣工および就役。

* 1967年[[12月2日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第5編成(3041F)竣工。
山本はこの年の7月2日に、国鉄に技師長として復職していた島に対して、SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた<ref name="shima160">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.160]]</ref>。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した<ref name="shima160-161">[[#高橋2000|高橋 (2000) pp.160-161]]</ref>。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである<ref name="shima161"/>。島は後年、この試験については「国鉄内部に対する[[プロパガンダ]]であった」と述べている<ref name="shima161"/>。
* 1967年[[12月6日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第1編成(3001F)竣工および就役。

* 1967年[[12月9日]] 3000形SSE、第5編成(3041F)就役。
この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」と反対意見が多く出た<ref name="2009-189">[[#青田2009|青田 (2009) p.189]]</ref>。また、当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式([[動力集中方式]])に対する「信仰」が根強く残っていた<ref name="shima161"/>。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという<ref name="2009-190">[[#青田2009|青田 (2009) p.190]]</ref>。
* [[1968年]][[3月7日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第4編成(3031F)竣工および就役。

* 1968年[[3月13日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第6編成(3051F)竣工。
一方、SE車は日本で初めての信託車両で、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった<ref name="1994-79">[[#生方1994|生方 (1994) p.79]]</ref>ため、「[[国鉄80系電車|80系電車]]のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった<ref name="2009-190"/>。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった<ref name="1994-79"/>。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急[[社長]]の[[安藤楢六]]と[[国鉄総裁]]の[[十河信二]]との間で、SE車の貸借について契約が行なわれ<ref name="1994-79"/>、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した<ref name="2009-191">[[#青田2009|青田 (2009) p.191]]</ref>。
* 1968年[[3月19日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第3編成(3021F)竣工および就役。

* 1968年[[3月29日]] 3000形SSE、第6編成(3051F)就役。
==== 記録達成 ====
* 1968年[[3月30日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事にて過剰となった、3003・3023号車が廃車。
こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行なうという、日本の鉄道史上で初めてとなる<ref name="546-86"/>国鉄・私鉄合同の試験が行なわれることになった<ref name="546-86"/><ref group="注釈">国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行なったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でのLSE車の事例があるのみである([[#生方1985|生方 (1985) p.123]])。</ref>。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった<ref name="jden-38">[[#福原2008|福原 (2008) p.38]]</ref>。
* 1968年[[7月1日]] 日本国有鉄道[[御殿場線]]への直通運転開始。

* [[1982年]][[7月25日]] [[向ヶ丘遊園]]でのイベントの関連企画として、[[新宿駅]] - [[向ヶ丘遊園駅]]間で、[[俳優|女優]]の[[伊藤つかさ]]が[[車掌]]となって乗車する団体列車「你好(ニイハオ)つかさ号」が運行される。
川崎車輌製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず<ref name="1981-17"/>、1957年9月19日に小田原から自力走行で[[東海道本線]]に入線し<ref name="1987-99">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.99]]</ref>、翌日の9月20日から試験が開始された。初日は[[藤沢駅|藤沢]]と[[平塚駅|平塚]]の間で日中に試験が行なわれ<ref name="arc1-65"/>、9月21日からは[[大船駅|大船]]と平塚の間で深夜に速度試験が行なわれた<ref name="arc1-65"/>。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録<ref name="546-86"/>、さらに9月25日深夜には当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した<ref name="546-86"/>。9月27日からは試験の区間を[[函南駅|函南]]と[[沼津駅|沼津]]の間に移し、日中に試験が行なわれた<ref name="546-86"/>。当日は11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された<ref name="1987-87">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.87]]</ref>。函南を13時50分に発車したSE車は[[三島駅|三島]]を100km/hで通過した後も加速を続け<ref name="1994-79"/>、沼津までの区間で9月25日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録の145km/hを樹立した<ref name="1987-87"/>。この時、沼津では停止時に車両の横揺れがあっても[[プラットホーム]]に接触しないように縁石を一部撤去していたが、杞憂に終わっている<ref name="2009-16">[[#青田2009|青田 (2009) p.16]]</ref>。
* [[1983年]][[3月30日]] 第1編成(3001F)廃車。大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡。

* 1983年4月 大井川鉄道3000形として第1編成(3001F)就役。ロマンス急行「おおいがわ」・「あゆの里」として、[[大井川本線]]にて運行開始。
この高速試験では、[[粘着式鉄道#粘着現象|輪重]]・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定も行われていた<ref name="491-24"/>が、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった<ref name="546-86"/>。車輪横圧はそれまでの車両では4[[トン|t]]だったのに対して最大でも2.5tという結果となり<ref name="1994-79"/>、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された<ref name="1994-79"/>。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていたものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された<ref name="1994-79"/>。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた<ref name="1994-79"/>。
* 1983年[[7月]] 新宿駅~[[片瀬江ノ島駅]]間で、団体列車「め組EXPRESS」が運行される。

* [[1984年]][[8月9日]] 第5編成(3041F)の車体修繕工事実施。
その翌日の9月28日まで試験が継続された<ref name="arc1-65"/>後に3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された<ref name="arc1-65"/>。これによって、[[小田急1700形電車|1700形]]は一般車に改造されることになった<ref name="arc1-59">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.59]]</ref>。
* 1984年[[10月14日]] 第6編成(3051F)の車体修繕工事実施。

* [[1985年]][[1月17日]] 第4編成(3031F)の車体修繕工事実施。
==== 波及効果 ====
* 1985年[[3月27日]] 第3編成(3021F)の車体修繕工事実施。
[[ファイル:Blue Ribbon Prize 1957 of Japan Railfan Club.JPG|thumb|right|ブルーリボン賞受賞記念プレート]]
* [[1987年]]3月27日 第2編成(3011F)廃車。
SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証された<ref name="546-86"/>。
* 1987年[[7月1日]] 1 - 3号車は禁煙車とされる。

* [[1991年]][[3月15日]] 定期列車から退くにあたり、新宿駅にて記念式典挙行。
国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行なわれた[[国鉄101系電車|101系電車]]による速度試験の結果を踏まえ<ref name="2009-83">[[#青田2009|青田 (2009) p.83]]</ref>、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた<ref name="2009-84">[[#青田2009|青田 (2009) p.84]]</ref>。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した<ref name="2009-84"/>。この電車特急のために[[国鉄181系電車|20系電車(後の151系→181系電車)]]の設計が開始され<ref name="shima161"/>、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行なわれることになった<ref name="shima182">[[#高橋2000|高橋 (2000) p.182]]</ref>。その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた<ref name="shima182"/>。
* [[1992年]][[3月8日]] 新宿駅→[[唐木田駅]]間で、「さようなら3000形走行会」実施。

* 1992年[[3月31日]] 第3 - 6編成(3021F・3031F・3041F・3051F)廃車。
小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり<ref name="1994-79"/>、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった<ref name="1994-79"/>。
* 1992年[[11月10日]] 大野工場に、3000形SSEの記念モニュメントを設置。

* [[1993年]][[3月9日]] 第3編成(3021F)を大野工場にて[[静態保存]]用工事を実施。うち、新宿方2両が、登場当時のSEの姿に戻される。
また、[[鉄道友の会]]ではSE車の世界最高速度記録を契機として<ref name="2009-176">[[#青田2009|青田 (2009) p.176]]</ref>、優秀な車両を表彰する制度として1958年より[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を創設した<ref name="BL88-9899">[[#BL88|『ブルーリボン賞'88』 pp.98-99]]</ref>が、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため、SE車に対しては会員投票によることなく、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された<ref name="BL88-100">[[#BL88|『ブルーリボン賞'88』 p.100]]</ref>。
* 1993年[[3月16日]] 静態保存用工事を実施した第3編成(3021F)を海老名車両基地に回送。

* 1993年[[3月20日]] 第3編成(3021F)を海老名車両基地内の保管庫へ搬送。静態保存へ。
=== NSE車登場前後 ===
* 1993年[[3月31日]] 大井川鉄道に譲渡された第1編成(3001F)が廃車される。
[[1958年]]7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生<ref name="1994-141">[[#生方1994|生方 (1994) p.141]]</ref>、この後8月7日までは3021×5として運行した。同年8月には、全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し<ref name="491-17"/>、あわせて台車のばねも交換された<ref name="491-17"/>。
* [[2007年]][[10月20日]]・[[10月21日|21日]] [[ファミリー鉄道展|ファミリー鉄道展2007]]の開催に際し、14年ぶりに保存庫より出され、一般公開。

[[1959年]]2月12日には増備車として3031×8が入線し<ref name="2005-168">[[#生方2005|生方 (2005) p.168]]</ref>、同年2月28日から運行を開始した<ref name="2005-168"/><ref group="注釈">竣工届けは1959年3月2日提出で、営業運行開始後であった([[#生方2005|生方 (2005) p.168]])。</ref>。これによって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり、箱根特急のスピードアップが行なわれた<ref name="1994-83"/>。また、2300形は準特急車に格下げされることになった<ref name="arc1-64">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.64]]</ref>。また、この年から夏季に運行される[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]の特急にも運用されるようになった<ref name="arc1-46">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.46]]</ref>ほか、特殊急行「納涼ビール電車」にも使用された<ref name="arc1-47">[[#生方a1-1959|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.47]]</ref>。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していた<ref name="arc1-80">[[#生方a1-1963|『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.80]]</ref>が、[[1962年]]に他車と同様の青色系の表地に戻した<ref name="arc1-80"/>。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行なわれた<ref name="arc1-80"/>。

一方、他の事業者では冷房装備の特急形電車の製造が行なわれていたことから、[[1961年]]にはSE車の冷房設置が計画された<ref name="491-17"/>。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は大改造となるため<ref name="491-17"/>、床置き式の冷房装置を搭載することになり<ref name="546-190">[[#大幡546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.190]]</ref>、1962年2月から設置工事が行なわれた<ref name="491-17"/>。搭載する冷房装置は冷房能力9,000kcal/hのCBU-381形が採用され<ref name="546-191"/>、1両に2台ずつ搭載し<ref name="546-190"/>、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた<ref name="546-191"/>。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去された<ref name="546-190"/>が、この時に撤去する座席は便所前や売店前・出入り口脇など、乗客に好まれない座席を優先した<ref name="546-190"/>。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し、編成定員は316名となった<ref name="491-17"/>。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG-326形電動発電機 (MG) が増設された<ref name="546-191"/>。

なお、1961年にはシュリーレン台車を[[小田急2400形電車|2400形(HE車)]]に振り替え、SE車には住友金属工業で新しく新造した台車を装着するという案もあり<ref name="679-135"/>、実際に試験も行なわれている<ref name="679-135"/>が、実現には至っていない<ref name="679-135"/>。

[[1963年]]には集電装置の摺り板がカーボンからブロイメットに変更された<ref name="546-191"/>。また、1966年には列車無線が新設された<ref name="546-191"/>。

1963年にNSE車が登場し、その後[[1967年]]に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになる<ref name="1981-21"/>と、SE車は江ノ島線の特急「えのしま」や、[[1966年]]6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった<ref name="491-14">[[#生方491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.14]]</ref>。

=== 編成短縮 ===
[[1968年]]には[[御殿場線]]が電化されることになり<ref name="2-28"/>、[[1955年]]から[[小田急キハ5000形気動車|キハ5000形気動車]]により運行していた御殿場線直通の[[あさぎり (列車)#小田急線御殿場線直通列車の沿革|特別準急]]を電車に置き換えることになった。新形電車を製造する案もあった<ref name="2005-92">[[#生方2005|生方 (2005) p.92]]</ref>が、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することになった<ref name="2-28"/>。SE車は[[耐用年数]]を10年として製造された車両で、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声もあった<ref name="2005-92"/>が、当時は国鉄の[[労働争議|組合闘争]]の激しかった時期で「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂もあり<ref name="arc2-16">[[#zadana2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.16]]</ref>、やむを得なかった<ref name="2005-92"/>。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足する<ref name="491-14"/>ため、輸送力の適正化も考えて5両連節車×6編成に組み換えることになった<ref name="491-18">[[#大幡491|『鉄道ピクトリアル』通巻491号 p.18]]</ref>。

改造内容は、まず8両連節車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し<ref name="491-18"/>、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した<ref name="491-18"/>。台車の数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていない<ref name="422-36">[[#山下422|『鉄道ファン』通巻422号 p.36]]</ref>が、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため、新形式のサハ3000形となった<ref name="491-18"/>。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため、歯数比を78:21=3.71に変更し<ref name="2-28"/>、これによって低下する高速性能を補うために弱め界磁を3段から4段に、最弱界磁率を50%から40%に変更した。また、全ての台車について車輪径840mmから860mmに変更した<ref name="546-191"/>。先頭形状は、愛称表示器をNSE車と同様の形態に変更し<ref name="491-18"/>、前照灯は愛称表示器の両側に移設した<ref name="491-18"/>。また、2編成の連結運転に対応できるように前面の[[連結器]]を電気連結器付密着連結器に変更し<ref name="546-191"/>、着脱式の連結器覆いを設置した<ref name="491-18"/>。便所・洗面所は2号車に<ref name="491-18"/>、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた<ref name="491-18"/>上、喫茶カウンターの面積を拡大した<ref name="546-191"/>。保安装置については、国鉄のATS-S形を設置し<ref name="2-28"/>、先頭部に[[信号炎管]]を新設した<ref name="2-28"/>。冷房装置については屋根上設置に変更<ref name="2-28"/>、冷房能力4,000kcal/hのCU-11形[[集約分散式冷房装置]]を先頭車に6台・中間車に5台設置した<ref name="546-191"/>。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された<ref name="491-18"/>。

これらの改造は日本車輌蕨工場で行なわれた<ref name="491-18"/>が、この組成変更で32両中22両が改番され<ref name="2-28"/>、余剰となった2両は[[廃車]]となった<ref name="2-28"/><ref group="注釈">台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。</ref>。

こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになった。編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった<ref name="1981-21"/>。この年にはOM-ATS装置が設置された<ref name="491-18"/>。また、1972年には保安ブレーキ装置の設置が<ref name="546-191"/>、1973年には列車無線装置の更新が行なわれた<ref name="546-191"/>。

{{Double image aside|right|OER SE3000 Sign-B.jpg|180|Ticket Romancecar Sagami2 B-Car.jpg|180|2編成を連結した運転の際には、車両側に「B号車」と表示され、券面に編成を区別するための記号として「B」と記された}}
その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用され、NSE車が検査時にはSE車が箱根特急の運用に入ることもあった<ref name="arc2-77">[[#山下a2|『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.77]]</ref>。また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行なわれることもあった<ref name="arc2-77"/>。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまうため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別していた<ref name="arc2-77"/>。1977年から1980年にかけて内装の更新が行なわれた<ref name="546-191"/>。

しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造されたSE車は老朽化が進んできた<ref name="405-81">[[#輿水405|『鉄道ピクトリアル』通巻405号 p.81]]</ref>ことから、[[1976年]]からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され<ref name="405-81"/>、[[1980年]]にはLSE車が登場した<ref name="60-90">[[#吉川1987|吉川 (1987) p.90]]</ref>。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することで輸送力が不足する状態になっていたことは解消された<ref name="5-123">[[#生方1981|生方 (1981) p.123]]</ref>。

=== 大井川鉄道へ譲渡 ===
[[File:Oigawa3000 19841104.jpg|thumb|right|大井川鉄道・新金谷駅にて、1984年撮影]]
その後、LSE車の増備が進んだことから、[[1983年]]3月に3001×5が廃車された<ref name="2-28"/>。廃車された3001×5は[[動態保存]]車両として[[大井川鐵道|大井川鉄道(当時)]]に譲渡されることになった<ref name="2-28"/>。

1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工<ref name="14-160">[[#白井2002|白井 (2002) p.160]]</ref>、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で<ref name="14-36">[[#白井2002|白井 (2002) p.36]]</ref>、1983年8月よりロマンス[[急行列車|急行]]「おおいがわ」として運行を開始した<ref name="14-36"/>。車内では緑茶のサービスも行なわれた<ref name="14-37">[[#白井2002|白井 (2002) p.37]]</ref>が、[[蒸気機関車]]ほどの集客が出来ず<ref name="679-195">[[#岸上679|『鉄道ピクトリアル』通巻679号 p.195]]</ref>、[[1987年]]7月の[[ダイヤ改正]]以降は運用から外れて休車となった<ref name="546-173">[[#岸上546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.173]]</ref>。その後まったく利用されないまま<ref name="546-173"/>、[[1992年]]3月に廃車となり<ref name="679-195"/>、[[1993年]]4月に解体された<ref name="679-195"/>。

=== 運用終了まで ===
一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており、LSE車によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった<ref name="546-163">[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.163]]</ref>。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して<ref name="546-163"/>、継続使用に反対する社内意見はあった<ref name="2005-95">[[#生方2005|生方 (2005) p.95]]</ref>ものの、仕方なく継続使用することになった。

[[ファイル:ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg|thumb|right|車体修理後、重連で「あさぎり」に使用されたSE車]]
このため、3011×5を除く4編成に対して、[[1984年]]から車体修理が行なわれた。外観上の変化は、側面窓を高さ680mm×幅650mmの固定窓に変更し<ref name="546-191"/>、連接部の外幌をLSE車と同様の[[ポリウレタン|ウレタン]]芯形とした点である<ref name="546-191"/>。また、屋根上のクーラーキセを[[繊維強化プラスチック|強化プラスチック]] (FRP) 製に変更した<ref name="546-191"/>。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとした<ref name="491-18"/>ほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に<ref name="491-18"/>、天井板は白系のクロス模様に変更された<ref name="491-18"/>。また、客用扉に電動ロック装置が設置された<ref name="546-162">[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.162]]</ref>。

この時に車体修理対象から外れた3011×5については、その後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後<ref name="546-163">[[#生方546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.163]]</ref>、1987年3月27日付で廃車された<ref name="491-19"/>。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったこと<ref name="491-19"/>から、廃車後もしばらくは海老名検車区で保管されていた<ref name="491-19"/>が、[[1989年]]5月に解体された<ref name="2005-165">[[#生方2005|生方 (2005) p.165]]</ref>。

残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に、小田急線内の特急にも使用されていたが、1987年に導入されたHiSE車が増備されたために、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった<ref name="546-154">[[#刈田546|『鉄道ピクトリアル』通巻546号 p.154]]</ref>。

これより少し遡る[[1988年]]7月、小田急から[[東海旅客鉄道]](JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えについて申し入れをしたことがきっかけとなり<ref name="297-35">[[#須田297|『鉄道ジャーナル』通巻297号 p.35]]</ref>、小田急とJRの間で相互[[直通運転]]に関する協議が進められることになった<ref name="297-35"/>。この中で、2社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更することとなり<ref name="2005-50">[[#生方2005|生方 (2005) p.50]]</ref>、ようやくSE車の置き換えという方向性となった。

[[1990年]]年末にRSE車が入線し<ref name="829-183">[[#anokoro829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.183]]</ref>、[[1991年]]に入ってからは通常の愛称板ではなく「さよなら運転」のタイトルが入った愛称板も用意された<ref name="829-183"/>。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例となり<ref name="829-183"/>、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られるようになった<ref name="829-183"/>。定期運用最終日の1991年3月15日は、全列車が重連運用となり、新宿駅には多くの鉄道ファンがSE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるために集まった<ref name="829-183"/>。

定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていた<ref name="829-183"/>が、[[1992年]]3月に[[さよなら運転]]が行なわれた後に全車両が廃車となった<ref name="829-183"/>。

== 保存車両 ==
[[ファイル:OER Romancecar SE Conservation.jpg|thumb|right|海老名検車区で保存される3021×5。2007年の「[[ファミリー鉄道展]]」での屋外展示のため保存用車庫から引き出されているところ]]
1992年3月に廃車となった車両のうち、1編成は役員会により永久保存することが決定した<ref name="1994-86">[[#生方1994|生方 (1994) p.86]]</ref>。保存されることになったのは3021×5の編成で、デハ3021の前頭部を原型に復元し、デハ3021・デハ3022は塗装も変更された<ref name="829-8">[[#保存829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.8]]</ref>。[[1993年]]3月に復元が完了し<ref name="1994-86"/>、同年3月20日に海老名検車区内に設置された保存用の車庫に収容された<ref name="2005-137">[[#生方2005|生方 (2005) p.137]]</ref>。

通常は非公開であるが、「[[ファミリー鉄道展]]」等のイベントで展示されることがある<ref name="829-8"/>。[[2007年]]10月のファミリー鉄道展では、保存以来初めて屋外展示が行なわれた<ref name="829-235">[[#L829|『鉄道ピクトリアル』通巻829号 p.235]]</ref>。

== 編成表 ==
; 凡例 : Mc …[[制御車|制御電動車]]、M …[[動力車|電動車]]、T…[[付随車]]、CON…[[主制御器|制御装置]]、MG…[[電動発電機]]、CP…[[圧縮機|電動空気圧縮機]]、PT…[[集電装置]]<br/>乗 …乗務員室、喫…喫茶コーナー、WC…[[列車便所|トイレ]]・[[洗面器#洗面台・洗面所|化粧室]]

=== 8両連接車時代 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="border-bottom:solid 3px #A14023; background-color:#ccc;"|&nbsp;
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;" colspan="8"|{{TrainDirection|[[小田原駅|小田原]]|[[新宿駅|新宿]]}}
|-
!号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5 || 6 || 7 || 8
|-
!形式
| '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000'''
|-
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|区分
|style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M8c ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M7 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M6 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M5 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M4 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M3 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M1c
|-
!車両番号
| '''3008'''<br/>'''3018'''<br/>'''3028'''<br/>'''3038''' || '''3007'''<br/>'''3017'''<br/>'''3027'''<br/>'''3037''' || '''3006'''<br/>'''3016'''<br/>'''3026'''<br/>'''3036''' || '''3005'''<br/>'''3015'''<br/>'''3025'''<br/>'''3035''' || '''3004'''<br/>'''3014'''<br/>'''3024'''<br/>'''3034''' || '''3003'''<br/>'''3013'''<br/>'''3023'''<br/>'''3033''' || '''3002'''<br/>'''3012'''<br/>'''3022'''<br/>'''3032''' || '''3001'''<br/>'''3011'''<br/>'''3021'''<br/>'''3031'''
|-
!搭載機器
| MG,CP || CON,PT || CP || &nbsp; || CON || CP || CON,PT || MG,CP
|-
!style="border-bottom:solid 3px #A14023;"|自重
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 24.34t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 17.19t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 15.75t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 15.13t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 16.28t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 16.00t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 17.19t ||style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 24.87t
|-
!車内設備
| 乗 || WC || 喫 || &nbsp; || &nbsp; || 喫 || WC || 乗
|-
!定員
| 52 || 40 || 38 || 44 || 44 || 38 || 40 || 52
|}

=== 5両連接車時代 ===
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;"
|-
|style="border-bottom:solid 3px #A14023; background-color:#ccc;"|&nbsp;
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;" colspan="5"|{{TrainDirection|[[小田原駅|小田原]]|[[新宿駅|新宿]]}}
|-
!号車
| 1 || 2 || 3 || 4 || 5
|-
!形式
| '''デハ3000''' || '''デハ3000''' || '''サハ3000''' || '''デハ3000''' || '''デハ3000'''
|-
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|区分
|style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M4c ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M3 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| T ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M2 ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M1c
|-
!車両番号<br/><small>()内は改番前の番号</small>
| '''3005'''<br/><small>(3008)</small><br/>'''3015'''<br/><small>(3018)</small><br/>'''3025'''<br/><small>(3028)</small><br/>'''3035'''<br/><small>(3038)</small><br/>'''3045'''<br/><small>(3014)</small><br/>'''3055'''<br/><small>(3034)</small> || '''3004'''<br/><small>(3007)</small><br/>'''3014'''<br/><small>(3017)</small><br/>'''3024'''<br/><small>(3027)</small><br/>'''3034'''<br/><small>(3037)</small><br/>'''3044'''<br/><small>(3004)</small><br/>'''3054'''<br/><small>(3024)</small> || '''3003'''<br/><small>(3006)</small><br/>'''3013'''<br/><small>(3016)</small><br/>'''3023'''<br/><small>(3026)</small><br/>'''3033'''<br/><small>(3036)</small><br/>'''3043'''<br/><small>(3013)</small><br/>'''3053'''<br/><small>(3033)</small> || '''3002'''<br/><small>(3002)</small><br/>'''3012'''<br/><small>(3012)</small><br/>'''3022'''<br/><small>(3022)</small><br/>'''3032'''<br/><small>(3032)</small><br/>'''3042'''<br/><small>(3005)</small><br/>'''3052'''<br/><small>(3025)</small> || '''3001'''<br/><small>(3001)</small><br/>'''3011'''<br/><small>(3011)</small><br/>'''3021'''<br/><small>(3021)</small><br/>'''3031'''<br/><small>(3031)</small><br/>'''3041'''<br/><small>(3015)</small><br/>'''3051'''<br/><small>(3035)</small>
|-
!搭載機器
| MG,CP || CON,PT || CP ||CON,PT || MG,CP
|-
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重
|style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.385t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 19.094t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 18.597t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 19.078t ||style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.316t
|-
!車内設備
| 乗 || WC || 喫 || &nbsp; || 乗
|-
!定員
| 52 || 38 || 36 || 44 || 52
|}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}

=== 出典 ===
{{Reflist|3}}
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
# 『[[鉄道ピクトリアル]]』 アーカイブスセレクション1 小田急電鉄 1950〜1960 2002年 鉄道図書刊行会
* {{Cite book|和書|author = [[鉄道友の会]]東京支部|authorlink = |coauthors = |year = 1979|title = コロタン文庫46 私鉄特急全百科|publisher = [[小学館]]|ref = コロタン|id = |isbn = }}
# 『鉄道ピクトリアル』 アーカイブスセレクション2 小田急電鉄 1960〜1970 2002年 鉄道図書刊行会
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* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1985|title = 日本の私鉄5 小田急|publisher = 保育社|ref = 生方1985|id = |isbn = 978-4586505302}}
# 『週刊鉄道データファイル』 第128巻 128-13頁 2006年 デアゴスティーニ・ジャパン
* {{Cite book|和書|author = 小山育男|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1985|title = 私鉄の車両2 小田急|publisher = 保育社||ref = 小山1985|id = |isbn = 978-4586532025}}
# 『鉄道ピクトリアル』 No.436 1984年9月号 <特集> 大井川鉄道 1984年 鉄道図書刊行会
* {{Cite book|和書|author = [[吉川文夫]]編|authorlink = |coauthors = |year = 1987|title = 小田急 車両と駅の60年|publisher = [[大正出版]]|ref = 吉川1987|id = 0025-301310-4487|isbn =}}
# 『私鉄車両編成表93年版』 1993年 ジェー・アール・アール
* {{Cite book|和書|author = [[鉄道友の会]]編|authorlink = |coauthors = |year = 1988|title = ブルーリボン賞の車両'88|publisher = 保育社|ref = BL1988|id = |isbn = 978-4586507566}}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1988|title = 日本の私鉄1 小田急|publisher = 保育社|ref = 生方1988|id = |isbn = 978-4586507689}}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = 諸河久|year = 1994|title = 小田急ロマンスカー物語|publisher = 保育社|ref = 生方1994|id = |isbn = 978-4586180295}}
* {{Cite book|和書|author = 高橋団吉|authorlink = |coauthors = |year = 2000|title = 新幹線をつくった男 島秀雄物語|publisher = 小学館|ref = 高橋2000|id = |isbn = 978-4093410311}}
* {{Cite book|和書|author = 白井良和|authorlink = |coauthors = |year = 2002|title = 私鉄の車両14 大井川鉄道|publisher = [[ネコ・パブリッシング]]|ref = 白井2002|id = |isbn = 978-4873662978}}
* {{Cite book|和書|author = [[日本放送協会|NHK]][[プロジェクトX〜挑戦者たち〜|プロジェクトX]]製作班|authorlink = |coauthors = |year = 2003|title = プロジェクトX〜挑戦者たち〜 (2)復活への舞台裏|publisher = [[NHK出版|日本放送出版協会]]|ref = X2|id = |isbn = 978-4140841709}}
* {{Cite book|和書|author = NHKプロジェクトX製作班|authorlink = |coauthors = |year = 2003|title = プロジェクトX〜挑戦者たち〜 コミック版 執念が生んだ新幹線 老友90歳・戦闘機が姿を変えた|publisher = [[宙出版]]|ref = X2c|id = |isbn = 978-4776711308}}
* {{Cite book|和書|author = 生方良雄|authorlink = |coauthors = |year = 2005|title = 小田急ロマンスカー総覧|publisher = 大正出版|ref = 生方2005|id = |isbn = 978-4811706559}}
* {{Cite book|和書|author = 福原俊一|authorlink = |coauthors = |year = 2008|title = 日本の電車物語 新性能電車編 SE車からVVVF電車まで |publisher = [[JTBパブリッシング]]|ref = 福原2008|id = |isbn = 978-4533069659}}
* {{Cite book|和書|author = 青田孝|authorlink = |coauthors = |year = 2009|title = ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話 |publisher = [[交通新聞社]]|ref = 青田2009|id = |isbn = 978-4330105093}}

=== 雑誌記事 ===
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ロマンスカー]]
* [[鉄道技術研究所]]
* [[新幹線]]
* [[エレクトロライナー]]
* [[箱根登山鉄道モハ2形電車]]


== 外部リンク ==
* [http://sme.fujitsu.com/tips/japanesespirits/20090901/02.html 新幹線の生みの親 島 秀雄]([[富士通]]公式サイト「[http://sme.fujitsu.com/tips/japanesespirits/ 日本人のオリジナリティ探訪]」内)
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2011年9月10日 (土) 12:47時点における版

小田急3000形電車
Super Express
3000形SE車
基本情報
製造所 日本車輌製造[1]川崎車輌[1]
主要諸元
編成 8両連接車→5両連接車
軌間 1,067mm
電気方式 直流1,500V
架空電車線方式
最高運転速度 110km/h
設計最高速度 147.5km/h[4]
最高速度 125km/h[3]
起動加速度 1.6km/h/s[3]
減速度(非常) 4.15km/h/s[3]
編成定員 348名[1]→316名[1]→222名[2]
編成重量 146.75t[6]→113.47t[2]
編成長 108.1m[1]→70.4m[2]
最大寸法
(長・幅・高)
15,950mm×2,864mm×3,450mm[1](先頭車・登場当初)
16,150mm×2,864mm×3,450mm[2](先頭車・1968年以降)
12,700mm×2,864mm×4,015mm[1](集電装置付中間車)
12,700mm×2,800mm×3,450mm[1](集電装置無し中間車)
台車 近畿車輛 KD17[3](電動台車)
近畿車輛 KD18[3](付随台車)
主電動機 東洋電機製造 TDK806/1-A[3]
主電動機出力 100kW[3]直巻整流子電動機端子電圧375V・定格回転数1,800rpm)
駆動方式 東洋電機製造 DND143-SH9921[3]
中空軸平行カルダン駆動方式
(撓み板継手方式)
歯車比 78:21=3.71[3]→80:19=4.21[2]
制御装置 東京芝浦電気 MM-50A[1]
電動カム軸式抵抗制御
力行…17段
制動…14段
制動装置 発電制動併用電磁直通制動 (HSC-D)[3]
保安装置 OM-ATS・ATS-S[5]
備考 設計最高速度は平坦線均衡速度を記述
第1回(1958年
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小田急3000形電車(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、1957年から1992年まで小田急電鉄において運用されていた特急形車両ロマンスカー)である。

「画期的な軽量高性能新特急車」として計画され[7]日本国有鉄道鉄道技術研究所より協力も得られた[8]ことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた[9]車両であり、それらの中には国鉄の新幹線に発展的に引き継がれた技術も存在する[10]。当初は8両連接車として登場し[11]、 "Super Express" (略して「SE」)という愛称が設定された[12]が、「SE」という略称には "Super Electric car" という意味も含ませている[10]。登場した1957年に行なわれた東海道本線での高速試験において、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立した[11]。また、本形式の登場がきっかけとなって鉄道友の会ではブルーリボン賞の制度が創設され[13]1958年には第1回ブルーリボン賞を授与された[13]1968年以降は御殿場線乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し[14]、 "Short Super Express" (略して「SSE」)とも称されるようになり[15]1991年20000形(RSE車)が登場するまで運用され[16]1992年に全車両が廃車となった[17]

本項では以下必要に応じて、特定の編成を表記する際には新宿寄り先頭車両の車両番号と両数を組み合わせて「3011×8」「3021×5」のように表記し、本形式3000形は「SE車」、3100形は「NSE車」、7000形は「LSE車」、10000形は「HiSE車」、20000形は「RSE車」、50000形は「VSE車」、鉄道省運輸通信省運輸省および日本国有鉄道が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、鉄道技術研究所は「研究所」、箱根登山鉄道箱根湯本駅へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。また、大井川鉄道(当時)に譲渡された車両についても本項目で記述する。

登場の経緯

小田急の目標

1948年6月1日に小田急が東京急行電鉄から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した山本利三郎は、学生時代から連接車に関心を抱いており[18]スペインで開発された連接車であるタルゴについて「あれを電車でやれないか」と考えていたという[18]。国鉄東京鉄道管理局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出していた[19]。これは、関節車(連節車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる、という内容であった[20]。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかった[21]が、山本はその後も連接車の導入に関心を持っており[22]。1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形の構造や保守について視察を行っている[23]

一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的とした輸送改善委員会が設置された[24]が、この委員会では「新宿小田原を60分で結ぶ」という将来目標が設定されていた[24]。この目標値は、戦前に阪和電気鉄道天王寺東和歌山の間61.2kmを45分で結び、表定速度は81.6km/hに達していたことを意識したもので[25]、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8km(当時)は60分で走破できると考えたのである[26]。山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという[25]

当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた[27]。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行なうことはできなかった[24]。このため、軌道変電所などの投資を極力抑える一方で、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた[24]。この方針に従い、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり、研究や試験などを繰り返していた[28]

車体の軽量化については1954年に登場した2100形で、駆動方式についてもカルダン駆動方式が同年に登場した2200形で実用化された[28]。また、この年の9月11日には、新特急車の開発が正式に決定した[29]

小田急と国鉄の共同開発へ

この頃、国鉄でも高速車両の研究が進められていた。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直松平精などを研究所に招き、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行なっていた[30]。台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった[31][注釈 1]

三木は航空機の理論を応用した鉄道高速化の研究を行なっており、1953年9月にに三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった[32][注釈 2]。その後、日本鉄道車両工業協会で「超高速車両委員会」が発足した[33]が、そこで研究を重ねた結果、1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された[33]

山本はこの研究発表に着目し、1954年10月19日に[34]国鉄に対して新形特急車両の技術指導を依頼した[31]。小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあった[35]ので、この依頼は一見非常識にさえ見えた[31]。しかしこの当時、島は桜木町事件の後に国鉄を退職していたが、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった[31]。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった[31]ため、島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた[31]。また、研究所側でも、研究成果を実現するために小田急の構想に乗ることで、研究成果の確認が可能になると考えた[28]

このような経緯で、1954年10月25日から[34]小田急の研究を研究所が受託するという形式で新特急車の共同開発が開始された[28]

基本構想

1955年1月25日には基本構想が策定された[28]が、この時点では5両連接車という内容であった[34]。1955年1月16日には[34]共同設計者として日本車輌製造川崎車輌(当時)近畿車輛東洋電機製造東京芝浦電気(当時)三菱電機が参画し、研究所の指導の下に具体的な設計に入った[36]。メーカーの決定に際しては、純粋に技術的見地から決定され[37]、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って、過去の小田急との取引を考慮して決定した[37]

軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及された[8]ほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた[8]。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから鉄道車両の進歩が遅れる」という山本の考え[17]により、耐用年数は10年と考えることになった[17]

前頭部の形状の決定に際しては、東京大学航空研究所の風洞を使用して[38]、日本の鉄道車両設計の歴史上初めてとなる本格的な風洞実験が行われた[38]ほか、ディスクブレーキの試験も行なわれた[39]。また、高速運転に伴って踏切事故などを防止するために補助警報器(特殊警笛)の現車試験なども行なわれた[39]

また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた山本の提案によって、連接構造が採用されることになった[38]。三木は連接車に賛成していた[23]が、研究所では保守上の不便を心配していたという[36]。また、この時期の経堂工場は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかった[40]ので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという[37][注釈 3]

開発の停滞と再開

これと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため、社内に車両委員会が設置された[41]。しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから[41]、社内の意見をまとめるのに難航した[4]

運転席を低くしたため、運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」[4]「運転台からの見通しが悪すぎる」[42]という意見が、また客室床面が低いために営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」[4]という意見があったという。必死に説得を続けたものの[42]、運輸部門からの反発は大きく、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった[4]

ところが、半年後の1956年3月に、新宿から貨物線経由で小田原伊豆方面に向かう準急列車「天城」の運行が国鉄から発表された[4]。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想された[4]ため、社内の意見も「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべき」と一致をみた[4]ことから、開発は再開されることになった。

1956年5月には仕様が決定し[41]、同年6月末から製作が開始されることになった[41]。当初は全長70mの5両連接車で計画されていた[29]ものが、同年5月7日に全長108mの8両連接車に変更された[34]。経験・実績に乏しい方式だったにもかかわらず8両連接車を採用したのは、当時としては大英断であったと評されている[11]。また、運転台を2階に上げて展望席を設置する案や、二等車を設ける案もあった[29]が、最終的にはこれらの案は不採用となった[29]

車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車両・住友信託銀行の4社で車両信託制度という新しい制度が設けられた[3]。これはアメリカ合衆国のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので[3]、SE車は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった[3]

こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。

車両概説

本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。

SE車は8両連接の固定編成で、形式は先頭車が制御電動車のデハ3000形で、中間車は電動車のデハ3000形である。編成については、巻末の編成表を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能[24]で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなる[24]が、この場合は3両目が両側とも付随台車となる[24]。ただし、1959年3月に製造された編成(3031×8)では、ほとんど編成短縮の機会がないことから、永久8両連節の回路設定とすることで、さらに回路の簡略化を図った[43]。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であった[29]が、SE車では車体ごとに車両番号を附番している[43]

車体

車体については、日本車輌・川崎車輌が担当することになり、研究所側は三木が主任担当者となった[32]

先頭車は車体長15,750mm[28]・全長15,950mm[44]、中間車は車体長12,300mm[28]・全長12,700mm[44]で、車体幅は2,800mm[36]の全金属製車体である。

それまでの特急車両では、格下げを考慮して車体の強度を定員の250%の荷重として計算していた[24]が、SE車では将来の格下げは考えず、定員の130%として荷重を計算した[43]上で航空機の技術を取り入れ[36]、各部にわたって徹底的な軽量化を図った[24]。車体構造は強度部材の軽量化のために張殻構造とし、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mmの厚さの耐蝕鋼板を採用し[36]、バックリング防止のため[45]125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした[24]。車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み[36]、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで[36]、横風に対する安定度を確保し、風圧の影響を減少させることを図った[36]。低重心化のため台車間の床面を低くし[36]軌条上面から床面までの寸法は、台車の上では1,000mmで車体中央部では875mmとなった[46]。床板にはハニカム構造を採用した[36]。こうした工夫の結果、構体重量は従来車の1mあたり500kgだったものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され[24]2300形が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であったのに対して、SE車では全長108mの8両連節車でありながら147t(1mあたり1.36t)と、大幅な軽量化を実現した[47]。なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行なわれていなかった荷重試験が行なわれ[48]、構体の175箇所に対してねじれや圧縮などの力を加えた測定が行なわれた[48]

先頭部 出入台付近(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)
先頭部
出入台付近(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)

先頭部の形状は流線形で、模型を作成した上で風洞実験を繰り返し[24]、さらにその結果を基にしてモックアップ(実物大模型)を作成した上で細部に検討を加えて決定された[24]。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだった[49]が、当時の日本のガラス製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず[49]、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった[49]前照灯は正面窓下部中央に2灯を並べ、日本の鉄道車両では初めてシールドビームが採用された[45]が、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかったため、自動車用の24V仕様のものを使用した[10]。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたこと[50]と、左右に分けた場合に1灯が故障した場合に列車の位置が分からなくなるという理由によって[50]、2灯を前面中央部に並べた[50]。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから[50]、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている[50]尾灯兼用の標識灯は運転席窓上に設けられた。先頭部には異常時に使用する格納式簡易連結器が収納された[24]

側面客用扉は車体断面に合わせた[24]高さ1,770mm・幅800mmの手動式[注釈 4]内開き戸[44]を中間車に1箇所ずつ配置した。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した[44]乗務員室の扉は高さ1,400mm・幅600mmである[44]。車両間の貫通路は車内の見通しを良くする目的で広幅とし[24]、仕切り扉は一切設けていない[24]

屋根はファンデリアの外気取り入れ口を設けた二重構造とし[24]、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた[43]

塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあった[51]が、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべき」と決まり[52]、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で[49]二紀会宮永岳彦が色彩設計を担当[12]、バーミリオンオレンジを基調にホワイト・グレーの帯が入る[12]警戒色となるような明るい色とした[1]。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され[53]、バーミリオンオレンジについてはVSE車とMSE車にも継承された[53]

内装

客室内(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる) 客室端部のスロープ 喫茶カウンター(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)
客室内(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)
客室端部のスロープ
喫茶カウンター(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)

それまでの同種の座席の重量が60kgだったところを30kgにまで軽量化した回転式クロスシートを採用し[24]シートピッチ1,000mmで配置した[44]。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である[54]。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した[55]。車体の節で記述したように、車体中央部を低床化しており、台車上と車両中央部の床の高さに125mmの差があるため、客室両端部の通路には傾斜をつけている[56]

室内の配色は、天井を白、壁面は明るい色のデコラ張りとして[57]、窓上カーテンキセ上部に赤い帯を入れた[57]。座席は濃い青色の表地を採用した[57]

3号車の新宿寄り海側出入台脇と9号車の小田原寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した[24]。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用和式便所化粧室を配置した[24]。喫茶カウンター・便所とも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。

客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で、左右どちら側にでも開けるようにした[58]。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったため[58]で、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした[58]

主要機器

主電動機・駆動装置

既に中空軸平行カルダン駆動方式で実績のある東洋電機製造が担当した[36]

採用された主電動機は出力100kW端子電圧375V・定格回転数1,800rpm・最弱界磁率50%)の直流直巻補極付電動機である東洋電機製造のTDK806/1-A形で[1]、定格速度が高く、高速域からの発電ブレーキを十分に作用させることが可能な特徴を有する[56]。また、最大回転数は4,320rpmで[59]、理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である[59]。箱根登山線での上り勾配低速運転に対応するため、強制通風式となっている[1]

駆動装置は東洋電機製造の中空軸平行カルダン駆動方式(撓み板継手方式)のDND143-SH9921形である[3]歯数比は78:21=3.71とした[1]

制御装置

電機メーカー各社の設計入札を行った結果、超多段制御方式では最軽量となった東京芝浦電気(東芝)が担当した[36]

採用された制御装置は、発電制動電動カム軸式抵抗制御装置であるMM-50A形で[1]、2・5・7号車に搭載された[60]。特急車両であることから起動回数が少なく[56]、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れる[1]ことから、直並列制御は行なわずに抵抗制御及び界磁制御を行なう仕様で[1]、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)[1]、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である[56]。また、全ての制御回路を直列にして、1台の制御器で12つの主電動機の制御を行うこと (1C12M) も可能である[1]。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段[1]、制動は全界磁抵抗制御による14段である[1]が、起動時のショックを防ぐために捨てノッチが5段設定された[56]

制動装置(ブレーキ)

小田急において採用実績のある三菱電機が担当した[36]

採用された制動装置(ブレーキ)は、併用[注釈 5]のHSC-D形[注釈 6]電磁直通ブレーキ[1]、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である[1]。ブレーキ装置についても軽量化が図られ、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ、SE車では500kgに抑えている[56]。主抵抗器は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした[1]

基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ[61]、付随台車ではシングルディスク式ディスクブレーキである[61]が、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である[10]

台車

電動台車 KD17

台車の振動特製の研究結果から、安定した軽量台車の円筒案内式(シュリーレン)台車が松平より推奨された[62]ため、これを採用することになり、近畿車輛が担当した[36]

採用された台車は、電動台車が軸距2,200mmのKD17[61]、付随台車が軸距2,000mmのKD18[61]で、いずれの台車も車輪径は840mmの金属ばね台車である[61]。台車の重量を3t台とすることを目標として設計され[59]、保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし、6つに分けられた溶接鋼板の組み立てによる箱型とすることで、電動台車は3.8t、付随台車は3.6tに重量を抑えた[59]。また、SE車では定員の130%として荷重を計算したことから、ばねを柔らかくすることが可能になった[43]。連接付随台車は編成中3箇所に設けられた[注釈 7]。しかし、スイングハンガーが短いことから左右剛性が硬く[63]、高速域での左右振動性能に難があったという[63]

また、曲線の多い小田急線の軌道条件から、「曲線通過を容易にできる」「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」という利点から、連接構造が採用された[36]。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用されることになり、小田急の特急車両の大きな特徴となった[11]

空調装置

空調装置は、実車完成までに解決できなかった問題である[36]

当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、冷凍機を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された[36]。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであった[36]が、小田原で大量の氷を確保することは困難であった[36]。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討された[36]が、車体表面近くでは相対的な速度が小さく[36]、パイプを伸ばせば車両限界に抵触する[36]ため、これも実現しなかった。

結局、重量面の問題もあり[64]、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され[65]、運転時間が短いこともあって[64]軽量化と引き換えに冷房搭載は見送られることになり、直径16インチのファンデリア[55]を先頭車に6台・中間車に5台設置することになった。

補助警報装置

補助警報音については、警報装置としての条件を満足させるという運輸省の要求[41]と、騒音公害にならないように要求する警視庁の要望[41]を満足させるため、小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎や音響心理学研究所の指導を得た上でビブラフォンの音色とし[66]、2km付近まで達する音量とした[67]。補助警報音を発する装置は、エンドレステープを乗務員室内に設けられた再生装置によって屋根上に設置した指向性の強いスピーカーから放送する仕組みである[43]

この補助警報音は、SE車が「オルゴール電車」と呼ばれる由来となった[68]。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された[69]。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している[69]

その他機器

乗務員室(1968年の改造後のため登場当時とは異なる) 集電装置 PT42-K
乗務員室(1968年の改造後のため登場当時とは異なる)
集電装置 PT42-K

乗務員室は前後方向に2,450mmとなっており[44]、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである[44]。前面計器板上には防弾ガラスを設置した[55]。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした[55]

集電装置(パンタグラフ)は、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に、高速運転時の追従性を向上させたPT42-K形集電装置を設置した[60]

補助電源装置については、2相交流6kVA・直流35kWの複流式電動発電機 (MG) であるCLG-314形と、3相交流18kVAのMGであるCLG-315形をそれぞれ2台ずつ採用[1]、両先頭車に各1台ずつ搭載した[60]

電動空気圧縮機 (CP) は、低床化に対応したM-20-D形を採用[1]、1・3・6・8号車に搭載した[60]

沿革

運用開始

1957年5月20日に日本車輌製の3001×8が入線[29]、6月上旬には日本車輌製の3021×8が入線した[29]。6月から小田急線内での試運転を開始し[29]、小田急線内では127km/hという速度を記録した[12]が、小田急線の軌道条件ではこれが限界であった。このため、小田急と研究所の意見は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた[12]

6月26日・27日に展示会が行なわれた。この時の雑誌では「日本製タルゴ」という表現も使用された[70]。また、SE車の完成後にスペインから日本へタルゴの売込みがあり、小田急を訪れた[71]。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した[71]。商談は成立しなかった[71]が、開発に携わったホセ・ルイス・オリオールは「実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ」という感想を述べたと伝えられている[3]

電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車は鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた[72]。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始された[29]が、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり[73]、前評判を聞いた利用者が殺到し、連日満席となる好成績となった[73]

ただ、経堂工場は狭いままで、8両連接車のSE車が全て入場することは出来なかった[74]。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離し出来ない[75]ため、経堂工場にはリフティングジャッキが設置された[76]。車両を結ぶ配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた[75]。分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという[75]

狭軌世界最高速度記録

国鉄線上での試験

折りしも研究所ではこの年の5月30日に研究所創立50周年を記念して「東京 - 大阪間3時間への可能性」という講演会を開いていたが、この講演は大きな反響を呼び[77]、新聞・雑誌などでも取り上げられていた[77]。既に、国鉄では後に新幹線となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである[78]。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった[77]

山本はこの年の7月2日に、国鉄に技師長として復職していた島に対して、SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた[38]。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した[79]。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである[78]。島は後年、この試験については「国鉄内部に対するプロパガンダであった」と述べている[78]

この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」と反対意見が多く出た[80]。また、当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式(動力集中方式)に対する「信仰」が根強く残っていた[78]。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという[81]

一方、SE車は日本で初めての信託車両で、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった[82]ため、「80系電車のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった[81]。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった[82]。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急社長安藤楢六国鉄総裁十河信二との間で、SE車の貸借について契約が行なわれ[82]、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した[83]

記録達成

こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行なうという、日本の鉄道史上で初めてとなる[12]国鉄・私鉄合同の試験が行なわれることになった[12][注釈 8]。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった[84]

川崎車輌製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず[73]、1957年9月19日に小田原から自力走行で東海道本線に入線し[85]、翌日の9月20日から試験が開始された。初日は藤沢平塚の間で日中に試験が行なわれ[29]、9月21日からは大船と平塚の間で深夜に速度試験が行なわれた[29]。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録[12]、さらに9月25日深夜には当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した[12]。9月27日からは試験の区間を函南沼津の間に移し、日中に試験が行なわれた[12]。当日は11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された[86]。函南を13時50分に発車したSE車は三島を100km/hで通過した後も加速を続け[82]、沼津までの区間で9月25日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録の145km/hを樹立した[86]。この時、沼津では停止時に車両の横揺れがあってもプラットホームに接触しないように縁石を一部撤去していたが、杞憂に終わっている[87]

この高速試験では、輪重・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定も行われていた[60]が、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった[12]。車輪横圧はそれまでの車両では4tだったのに対して最大でも2.5tという結果となり[82]、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された[82]。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていたものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された[82]。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた[82]

その翌日の9月28日まで試験が継続された[29]後に3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された[29]。これによって、1700形は一般車に改造されることになった[88]

波及効果

ブルーリボン賞受賞記念プレート

SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証された[12]

国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行なわれた101系電車による速度試験の結果を踏まえ[89]、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた[90]。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した[90]。この電車特急のために20系電車(後の151系→181系電車)の設計が開始され[78]、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行なわれることになった[91]。その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた[91]

小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり[82]、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった[82]

また、鉄道友の会ではSE車の世界最高速度記録を契機として[92]、優秀な車両を表彰する制度として1958年よりブルーリボン賞を創設した[93]が、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため、SE車に対しては会員投票によることなく、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された[94]

NSE車登場前後

1958年7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生[95]、この後8月7日までは3021×5として運行した。同年8月には、全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し[1]、あわせて台車のばねも交換された[1]

1959年2月12日には増備車として3031×8が入線し[96]、同年2月28日から運行を開始した[96][注釈 9]。これによって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり、箱根特急のスピードアップが行なわれた[57]。また、2300形は準特急車に格下げされることになった[97]。また、この年から夏季に運行される江ノ島線の特急にも運用されるようになった[98]ほか、特殊急行「納涼ビール電車」にも使用された[99]。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していた[100]が、1962年に他車と同様の青色系の表地に戻した[100]。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行なわれた[100]

一方、他の事業者では冷房装備の特急形電車の製造が行なわれていたことから、1961年にはSE車の冷房設置が計画された[1]。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は大改造となるため[1]、床置き式の冷房装置を搭載することになり[101]、1962年2月から設置工事が行なわれた[1]。搭載する冷房装置は冷房能力9,000kcal/hのCBU-381形が採用され[16]、1両に2台ずつ搭載し[101]、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた[16]。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去された[101]が、この時に撤去する座席は便所前や売店前・出入り口脇など、乗客に好まれない座席を優先した[101]。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し、編成定員は316名となった[1]。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG-326形電動発電機 (MG) が増設された[16]

なお、1961年にはシュリーレン台車を2400形(HE車)に振り替え、SE車には住友金属工業で新しく新造した台車を装着するという案もあり[63]、実際に試験も行なわれている[63]が、実現には至っていない[63]

1963年には集電装置の摺り板がカーボンからブロイメットに変更された[16]。また、1966年には列車無線が新設された[16]

1963年にNSE車が登場し、その後1967年に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになる[15]と、SE車は江ノ島線の特急「えのしま」や、1966年6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった[102]

編成短縮

1968年には御殿場線が電化されることになり[14]1955年からキハ5000形気動車により運行していた御殿場線直通の特別準急を電車に置き換えることになった。新形電車を製造する案もあった[103]が、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することになった[14]。SE車は耐用年数を10年として製造された車両で、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声もあった[103]が、当時は国鉄の組合闘争の激しかった時期で「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂もあり[104]、やむを得なかった[103]。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足する[102]ため、輸送力の適正化も考えて5両連節車×6編成に組み換えることになった[5]

改造内容は、まず8両連節車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し[5]、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した[5]。台車の数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていない[105]が、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため、新形式のサハ3000形となった[5]。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため、歯数比を78:21=3.71に変更し[14]、これによって低下する高速性能を補うために弱め界磁を3段から4段に、最弱界磁率を50%から40%に変更した。また、全ての台車について車輪径840mmから860mmに変更した[16]。先頭形状は、愛称表示器をNSE車と同様の形態に変更し[5]、前照灯は愛称表示器の両側に移設した[5]。また、2編成の連結運転に対応できるように前面の連結器を電気連結器付密着連結器に変更し[16]、着脱式の連結器覆いを設置した[5]。便所・洗面所は2号車に[5]、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた[5]上、喫茶カウンターの面積を拡大した[16]。保安装置については、国鉄のATS-S形を設置し[14]、先頭部に信号炎管を新設した[14]。冷房装置については屋根上設置に変更[14]、冷房能力4,000kcal/hのCU-11形集約分散式冷房装置を先頭車に6台・中間車に5台設置した[16]。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された[5]

これらの改造は日本車輌蕨工場で行なわれた[5]が、この組成変更で32両中22両が改番され[14]、余剰となった2両は廃車となった[14][注釈 10]

こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになった。編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった[15]。この年にはOM-ATS装置が設置された[5]。また、1972年には保安ブレーキ装置の設置が[16]、1973年には列車無線装置の更新が行なわれた[16]

2編成を連結した運転の際には、車両側に「B号車」と表示され、券面に編成を区別するための記号として「B」と記された 2編成を連結した運転の際には、車両側に「B号車」と表示され、券面に編成を区別するための記号として「B」と記された
2編成を連結した運転の際には、車両側に「B号車」と表示され、券面に編成を区別するための記号として「B」と記された

その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用され、NSE車が検査時にはSE車が箱根特急の運用に入ることもあった[106]。また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行なわれることもあった[106]。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまうため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別していた[106]。1977年から1980年にかけて内装の更新が行なわれた[16]

しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造されたSE車は老朽化が進んできた[107]ことから、1976年からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され[107]1980年にはLSE車が登場した[108]。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することで輸送力が不足する状態になっていたことは解消された[109]

大井川鉄道へ譲渡

大井川鉄道・新金谷駅にて、1984年撮影

その後、LSE車の増備が進んだことから、1983年3月に3001×5が廃車された[14]。廃車された3001×5は動態保存車両として大井川鉄道(当時)に譲渡されることになった[14]

1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工[110]、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で[111]、1983年8月よりロマンス急行「おおいがわ」として運行を開始した[111]。車内では緑茶のサービスも行なわれた[112]が、蒸気機関車ほどの集客が出来ず[113]1987年7月のダイヤ改正以降は運用から外れて休車となった[114]。その後まったく利用されないまま[114]1992年3月に廃車となり[113]1993年4月に解体された[113]

運用終了まで

一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており、LSE車によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった[115]。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して[115]、継続使用に反対する社内意見はあった[116]ものの、仕方なく継続使用することになった。

車体修理後、重連で「あさぎり」に使用されたSE車

このため、3011×5を除く4編成に対して、1984年から車体修理が行なわれた。外観上の変化は、側面窓を高さ680mm×幅650mmの固定窓に変更し[16]、連接部の外幌をLSE車と同様のウレタン芯形とした点である[16]。また、屋根上のクーラーキセを強化プラスチック (FRP) 製に変更した[16]。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとした[5]ほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に[5]、天井板は白系のクロス模様に変更された[5]。また、客用扉に電動ロック装置が設置された[117]

この時に車体修理対象から外れた3011×5については、その後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後[115]、1987年3月27日付で廃車された[2]。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったこと[2]から、廃車後もしばらくは海老名検車区で保管されていた[2]が、1989年5月に解体された[118]

残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に、小田急線内の特急にも使用されていたが、1987年に導入されたHiSE車が増備されたために、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった[119]

これより少し遡る1988年7月、小田急から東海旅客鉄道(JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えについて申し入れをしたことがきっかけとなり[120]、小田急とJRの間で相互直通運転に関する協議が進められることになった[120]。この中で、2社がそれぞれ新形車両を導入した上で相互直通運転に変更することとなり[121]、ようやくSE車の置き換えという方向性となった。

1990年年末にRSE車が入線し[122]1991年に入ってからは通常の愛称板ではなく「さよなら運転」のタイトルが入った愛称板も用意された[122]。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例となり[122]、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られるようになった[122]。定期運用最終日の1991年3月15日は、全列車が重連運用となり、新宿駅には多くの鉄道ファンがSE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるために集まった[122]

定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていた[122]が、1992年3月にさよなら運転が行なわれた後に全車両が廃車となった[122]

保存車両

海老名検車区で保存される3021×5。2007年の「ファミリー鉄道展」での屋外展示のため保存用車庫から引き出されているところ

1992年3月に廃車となった車両のうち、1編成は役員会により永久保存することが決定した[123]。保存されることになったのは3021×5の編成で、デハ3021の前頭部を原型に復元し、デハ3021・デハ3022は塗装も変更された[124]1993年3月に復元が完了し[123]、同年3月20日に海老名検車区内に設置された保存用の車庫に収容された[125]

通常は非公開であるが、「ファミリー鉄道展」等のイベントで展示されることがある[124]2007年10月のファミリー鉄道展では、保存以来初めて屋外展示が行なわれた[126]

編成表

凡例
Mc …制御電動車、M …電動車、T…付随車、CON…制御装置、MG…電動発電機、CP…電動空気圧縮機、PT…集電装置
乗 …乗務員室、喫…喫茶コーナー、WC…トイレ化粧室

8両連接車時代

 
新宿
号車 1 2 3 4 5 6 7 8
形式 デハ3000 デハ3000 デハ3000 デハ3000 デハ3000 デハ3000 デハ3000 デハ3000
区分 M8c M7 M6 M5 M4 M3 M2 M1c
車両番号 3008
3018
3028
3038
3007
3017
3027
3037
3006
3016
3026
3036
3005
3015
3025
3035
3004
3014
3024
3034
3003
3013
3023
3033
3002
3012
3022
3032
3001
3011
3021
3031
搭載機器 MG,CP CON,PT CP   CON CP CON,PT MG,CP
自重 24.34t 17.19t 15.75t 15.13t 16.28t 16.00t 17.19t 24.87t
車内設備 WC     WC
定員 52 40 38 44 44 38 40 52

5両連接車時代

 
新宿
号車 1 2 3 4 5
形式 デハ3000 デハ3000 サハ3000 デハ3000 デハ3000
区分 M4c M3 T M2 M1c
車両番号
()内は改番前の番号
3005
(3008)
3015
(3018)
3025
(3028)
3035
(3038)
3045
(3014)
3055
(3034)
3004
(3007)
3014
(3017)
3024
(3027)
3034
(3037)
3044
(3004)
3054
(3024)
3003
(3006)
3013
(3016)
3023
(3026)
3033
(3036)
3043
(3013)
3053
(3033)
3002
(3002)
3012
(3012)
3022
(3022)
3032
(3032)
3042
(3005)
3052
(3025)
3001
(3001)
3011
(3011)
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搭載機器 MG,CP CON,PT CP CON,PT MG,CP
自重 28.385t 19.094t 18.597t 19.078t 28.316t
車内設備 WC  
定員 52 38 36 44 52

脚注

注釈

  1. ^ しかし、研究所生え抜きの研究者からはことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった(コミック版『プロジェクトX』p.17、p36)。
  2. ^ ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計ではあったものの、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力電気機関車による7両編成の客車列車(動力集中方式)であった(高橋 (2000) pp.158-159)。
  3. ^ 後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている(『鉄道ピクトリアル アーカイブス2』p.12)。
  4. ^ 1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった(『鉄道ピクトリアル アーカイブス1』p.37)。
  5. ^ 制動・気制動を併用するという表記。
  6. ^ 「ハイスピードコントロール (High Speed Control) ・ダイナミックブレーキ (Dynamic Break) 付」の略である。
  7. ^ 2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。
  8. ^ 国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行なったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でのLSE車の事例があるのみである(生方 (1985) p.123)。
  9. ^ 竣工届けは1959年3月2日提出で、営業運行開始後であった(生方 (2005) p.168)。
  10. ^ 台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。

出典

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参考文献

書籍

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  • 生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』保育社、1981年。0165-508530-7700。 
  • 生方良雄、諸河久『日本の私鉄5 小田急』保育社、1985年。ISBN 978-4586505302 
  • 小山育男、諸河久『私鉄の車両2 小田急』保育社、1985年。ISBN 978-4586532025 
  • 吉川文夫編『小田急 車両と駅の60年』大正出版、1987年。0025-301310-4487。 
  • 鉄道友の会編『ブルーリボン賞の車両'88』保育社、1988年。ISBN 978-4586507566 
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  • 生方良雄、諸河久『小田急ロマンスカー物語』保育社、1994年。ISBN 978-4586180295 
  • 高橋団吉『新幹線をつくった男 島秀雄物語』小学館、2000年。ISBN 978-4093410311 
  • 白井良和『私鉄の車両14 大井川鉄道』ネコ・パブリッシング、2002年。ISBN 978-4873662978 
  • NHKプロジェクトX製作班『プロジェクトX〜挑戦者たち〜 (2)復活への舞台裏』日本放送出版協会、2003年。ISBN 978-4140841709 
  • NHKプロジェクトX製作班『プロジェクトX〜挑戦者たち〜 コミック版 執念が生んだ新幹線 老友90歳・戦闘機が姿を変えた』宙出版、2003年。ISBN 978-4776711308 
  • 生方良雄『小田急ロマンスカー総覧』大正出版、2005年。ISBN 978-4811706559 
  • 福原俊一『日本の電車物語 新性能電車編 SE車からVVVF電車まで』JTBパブリッシング、2008年。ISBN 978-4533069659 
  • 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』交通新聞社、2009年。ISBN 978-4330105093 

雑誌記事

  • 鉄道ピクトリアル』通巻405号「特集・小田急電鉄」(1982年6月・電気車研究会
    • 輿水醇「LSEの企画から完成まで」。 
    • 山下和幸「私鉄車両めぐり122 小田急電鉄」。 
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻491号「特集・小田急ロマンスカー」(1988年2月・電気車研究会)
    • 生方良雄「小田急ロマンスカーの移り変わり」。 
    • 大幡哲海「小田急ロマンスカー3000,3100,7000系 車両のあゆみ」。 
  • 鉄道ジャーナル』通巻297号(1991年7月・鉄道ジャーナル社)
    • 須田寛「新特急あさぎり 経緯と期待」。 
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻546号「特集・小田急電鉄」(1991年7月・電気車研究会)
    • 山村秀幸「小田急の車両技術の回顧 SE車」。 
    • 生方良雄「御殿場線乗り入れ列車の思い出」。 
    • 刈田草一「小田急電鉄 列車運転の変遷」。 
    • 岸上明彦「他社へいった小田急の車両」。 
    • 大幡哲海「私鉄車両めぐり145 小田急電鉄」。 
  • 鉄道ファン』通巻386号(1993年6月・交友社
    • 生方良雄「小田急3000形SE車の復元に寄せて」。 
  • 『鉄道ファン』通巻422号(1996年6月・交友社)
    • 山下和幸「小田急ロマンスカーの足跡」。 
    • 生方良雄「小田急ロマンスカーの思い出」。 
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻679号「特集・小田急電鉄」(1999年12月・電気車研究会)
    • 山岸庸次郎「2400形、2600形の記録」。 
    • 岸上明彦「他社へ転出した小田急の車両1999年版」。 
  • 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション1』「小田急電鉄 1950-60」(2002年9月・電気車研究会)
    • 生方良雄「私鉄車両めぐり37 小田急電鉄」。 
    • 生方良雄「私鉄車両めぐり 小田急電鉄(補遺)」。 
    • T記者「お手並み拝見 見たり・聞いたり・乗ったりの記 小田急SE車」。 
  • 『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション2』「小田急電鉄 1960-70」(2002年12月・電気車研究会)
    • 「小田急座談 (Part2) 輸送・運転編」。 
    • 山下和幸「私鉄車両めぐり101 小田急電鉄」。 
  • 『鉄道ピクトリアル』通巻829号「特集・小田急電鉄」(2010年1月・電気車研究会)
    • 「小田急の保存車両」。 
    • 「あの日、あの頃 小田急の情景」。 
    • 中山嘉彦「小田急車両 -音と色-」。 
    • 「歴代ラインナップで見る小田急ロマンスカー」。 

関連項目

外部リンク