「小田急3000形電車 (初代)」の版間の差分
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{{出典の明記|date=2007年11月}} |
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{{鉄道車両 |
{{鉄道車両 |
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|車両名=小田急3000形 |
| 車両名 = 小田急3000形(初代)<br/><small>Super Express</small> |
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| 背景色 = #A14023 <!--バーミリオンオレンジ 鉄道ピクトリアル通巻829号(2010年1月号臨時増刊)「特集・小田急電鉄」p191の表から色を抽出--> |
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| 文字色 = #FFFFFF |
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|style-table-add= |
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| 画像 = Model 3000 SE of Odakyu Electric Railway.JPG |
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|画像=ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg |
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| 画像幅 = 280px |
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|pxl=300px |
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|画像説明=3000形 |
| 画像説明 = 3000形 “'''SE'''” |
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| 運用者 = [[小田急電鉄]] |
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|unit= |
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| 製造所 = [[日本車輌製造]]東京支店蕨工場<ref name="NIPPON SHARYO80th-252">日本車輌製造『驀進 - 日本車輌80年のあゆみ - 』pp.252 - 253。</ref><ref group="注">蕨製作所、[[埼玉県]][[川口市]]。当時の住所は[[北足立郡]][[芝村 (埼玉県)|芝村]]。1971年(昭和46年)4月生産終了。</ref>・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]]<ref name="rp491-17"/> |
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|編成=8両(連接)→5両(連接) |
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| 製造年 = [[1957年]] - [[1959年]] |
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|起動加速度=1.5km/h/s→1.7 |
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| 製造数 = 32両 |
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|営業最高速度=110 |
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| 運用開始 = [[1957年]][[7月6日]] |
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|設計最高速度 |
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| 引退 = |
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|最高速度= |
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| 廃車 = |
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|定格速度=SE車時代:75 |
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| 編成 = 8両連接車(登場当初)<br/>5両連接車(1968年以降) |
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|減速度(常用最大)=4.15 |
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| 軌間 = 1,067 mm([[狭軌]]) |
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|減速度(非常)= |
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| 電気方式 = [[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]<br/>([[架空電車線方式]]) |
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|編成定員= |
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| 最高運転速度 = 110 km/h |
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|車両定員=(1・8号車)52人、(2号車)49人<br/>(3・6号車)38人、(4・5号車)44人<br/>(7号車)40人<br/>→(1・5号車)52人、(2号車)44人<br/>(3号車)36人、(4号車)38人 |
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| 設計最高速度 = 147.5 km/h<ref name="rp546-85"/> |
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|編成長= |
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| 最高速度 = 125 km/h<ref name="arc1-113"/> |
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|全長=(1・8号車)15,950mm<br/>(2 - 7号車)12,700mm<br/>→(1・5号車)16,150mm<br/>(2 - 4号車)12,700 |
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| 起動加速度 = 1.6 [[メートル毎秒毎秒|km/h/s]]<ref name="arc1-113"/> |
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|全幅=2,800 |
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| 常用減速度 = |
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|全高=3,450 |
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| 非常減速度 = |
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|最大寸法= |
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| 減速度 = 4.15 km/h/s<ref name="arc1-113"/> |
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|編成重量= |
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| 編成定員 = 348名(登場当初)<ref name="rp491-17"/><br/>316名(1962年以降)<ref name="rp491-17"/><br/>222名(1968年以降)<ref name="rp491-19"/> |
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|車両重量=(1号車)24.87t、(2・7号車)17.19t<br/>(3号車)16.00t、(4号車)16.28t<br/>(5号車)15.13t、(6号車)15.75t<br/>(8号車)24.34t<br/>→(1号車)28.32t、(2号車)19.08t<br/>(3号車)18.60t、(4号車)19.09t<br/>(5号車)28.38t |
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| 車両定員 = |
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|軸配置= |
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| 自重 = [[#編成表|編成表]]を参照 |
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|軌間=1,067 |
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| 編成重量 = 146.75[[トン|t]](登場当初)<ref name="2005-u-167"/><br/>159t(1962年以降)<ref name="arc1-80"/><br/>113.47t(1968年以降)<ref name="rp491-19"/> |
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|電気方式=[[直流電化|直流]]1,500V([[架空電車線方式]]) |
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| 最大寸法 = |
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|出力= |
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| 全長 = 15,950 [[ミリメートル|mm]]<ref name="rp491-17"/>(先頭車・登場当初)<br/>16,150 mm<ref name="rp491-19"/>(先頭車・1968年以降)<br/>12,700 mm<ref name="rp491-17"/>(中間車) |
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|モーター出力=100kW |
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| 全幅 = 2,864mm<ref name="rp491-17"/><ref name="rp491-19"/>(先頭車・集電装置付中間車)<br/>2,800mm<ref name="rp491-17"/>(集電装置無し中間車) |
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|主電動機=[[東洋電機製造]]製TDK-806/1-A |
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| 全高 = 3,450mm<ref name="rp491-17"/><ref name="rp491-19"/>(先頭車・集電装置無し中間車)<br/>4,015 mm<ref name="rp491-17"/>(集電装置付中間車) |
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|編成出力= |
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| 車体長 = |
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|定格出力= |
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| 車体幅 = |
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|端子電圧= |
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| 車体高 = |
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|歯車比=3.71→4.21 |
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| 床面高さ = |
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|定格引張力= |
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| 編成長 = 108.1 m(登場当初)<ref name="rp491-17"/><br/>70.4 m(1968年以降)<ref name="rp491-19"/> |
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|駆動装置=[[中空軸平行カルダン駆動方式|中空軸平行カルダン撓み板継手]] |
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| 車体材質 = |
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|台車=(電動台車)[[鉄道車両の台車|シュリーレン式]][[近畿車輛]]製KD-17<br/>(付随台車)シュリーレン式近畿車輛製KD-18 |
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| 台車 = [[近畿車輛]] KD17<ref name="arc1-113"/>(電動台車)<br/>近畿車輛 KD18<ref name="arc1-113"/>(付随台車) |
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|制御装置=[[電気車の速度制御#抵抗制御|電動カム軸式直並列指定制御]]方式[[東芝]]製MCM |
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| 車輪径 = |
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|電動機= |
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| 主電動機 = [[東洋電機製造]] TDK806/1-A<ref name="arc1-113"/> |
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|ブレーキ方式=電空併用[[電磁直通ブレーキ]]方式[[三菱重工業|新三菱重工業]]製HSC-D |
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| 主電動機出力 = 100[[ワット|kW]]<ref name="arc1-113"/>([[直巻整流子電動機]]・[[公称電圧|端子電圧]]375V・定格回転数1,800[[rpm (単位)|rpm]]) |
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|保安装置=[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|OM-ATS]] |
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| 駆動方式 = [[中空軸平行カルダン駆動方式]]<br/>(撓み板継手方式)<br />東洋電機製造 DND143-SH9921<ref name="arc1-113"/> |
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|製造メーカー=[[日本車輌製造]]東京支店・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛]] |
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| 歯車比 = 78:21=3.71(登場当初)<ref name="arc1-113"/><br/>80:19=4.21(1968年以降)<ref name="rp491-19"/> |
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|追加項目= |
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| 編成出力 = |
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|備考={{ブルーリボン賞 (鉄道)|1|1958}} |
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| 定格速度 = |
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}} |
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| 制御方式 = 電動カム軸式[[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]] |
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'''小田急3000形電車'''(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、[[小田急電鉄]]に在籍していた[[特急形車両]]([[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]])。同社が制定した正式な[[愛称]]は「'''SE'''(Super Express)」であるが、5両編成化後は短編成化にちなんで「'''SSE'''(Short Super Express)」と呼ばれ親しまれた<ref>同社内における正式な愛称は、短編成後もなおSEのままであり、SSEは俗称である。[http://shop.plaza.rakuten.co.jp/odakyu-trains/diary/detail/200908130002/ 「小田急グッズショップTRAINSのつぶやき」]2009/08/14 09:55:44のコメント参照。</ref>。[[1957年]]([[昭和]]32年)に8両[[編成 (鉄道)|編成]]3本(24両)、[[1959年]](昭和34年)に8両編成1本(8両)の計32両が製造され、[[1991年]]([[平成]]3年)まで在籍。[[1958年]]度(昭和33年度)[[鉄道友の会]]第1回[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]受賞。 |
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| 制御装置 = [[東芝|東京芝浦電気]] MM-50A<ref name="rp491-17"/><br/>力行…17段<br/>制動…14段 |
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| 制動装置 = [[発電ブレーキ|発電制動]]併用[[電磁直通ブレーキ|電磁直通制動]](HSC-D)<ref name="arc1-113"/> |
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| 保安装置 = [[自動列車停止装置#多変周式信号ATS|OM-ATS]]・[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S]]<ref name="rp491-18"/> |
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| 備考 = 設計最高速度は平坦線均衡速度を記述 |
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| 備考全幅 = {{ブルーリボン賞 (鉄道)|1|1958}} |
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|運用終了=[[1992年]][[3月8日]]}} |
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'''小田急3000形電車'''(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、[[1957年]](昭和32年)から<ref name="1981-u-17"/>[[1992年]](平成4年)まで<ref name="rp386-67"/>[[小田急電鉄]]が運用していた[[特急形車両|特急用車両]]<ref name="rp386-67"/>([[小田急ロマンスカー|ロマンスカー]])である。本項では[[大井川鐵道|大井川鉄道]](当時)に譲渡された車両についても記述する。 |
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小田急では、編成表記の際に「[[新宿駅|新宿]]寄り先頭車両の[[鉄道の車両番号|車両番号]](新宿方の車号)×両数」という表記を使用している<ref name="dj145-15"/> 為本項でもそれに倣い、特定の編成を表記する際には「3001×8」「3051×5」のように表記する。また、本項において本形式3000形は「'''SE車'''」、[[小田急3100形電車|3100形]]は「NSE車」、[[小田急7000形電車|7000形]]は「LSE車」、[[小田急10000形電車|10000形]]は「HiSE車」、[[小田急20000形電車|20000形]]は「RSE車」、[[小田急50000形電車|50000形]]は「VSE車」、[[小田急60000形電車|60000形]]は「MSE車」、[[鉄道省]]・[[運輸通信省 (日本)|運輸通信省]]・[[運輸省]]および[[日本国有鉄道]]が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、[[鉄道技術研究所]]は「研究所」、[[小田急箱根鉄道線|箱根登山鉄道鉄道線]](当時)[[箱根湯本駅]]へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。 |
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本稿では大井川鉄道(現・[[大井川鐵道]])の3000系電車(初代)についても記述する。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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[[ |
[[東急電鉄|東京急行電鉄]]([[大東急]])から分離発足した小田急では、[[新宿駅|新宿]]と[[小田原駅|小田原]]との間を60分で結ぶことを将来目標<ref name="rp491-16"/>に設定した「画期的な軽量高性能新特急車」を計画していた<ref name="1981-u-114115" />。 |
||
折りしも国鉄の研究所では航空技術を鉄道に応用した<ref name="rp546-82" />超高速車両の研究が行われていた<ref name="2009-a-68" /> が、この構想に小田急が着目し、開発に際して[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[鉄道技術研究所]]より技術協力が得られた<ref name="1981-u-115" /> ことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた<ref name="1981-u-20" /> 車両であり、それらの中には国鉄の[[新幹線]]に発展的に引き継がれた技術も存在する<ref name="1987-y-88" />。このため、「新幹線のルーツ」<ref name="rf375-96" /> や「[[高速鉄道|超高速鉄道]]のパイオニア」<ref name="rf375-97" /> とも言われている。 |
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当初、小田急は、軌道や変電所の強化による「60分運転」を計画したが、地上設備の改良は時間と費用を要することから、[[1954年]](昭和29年)に、超軽量車体と[[カルダン駆動方式]]の採用を基本方針とする、新型特急車の製造を決定した。 |
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"Super Express"(略して「'''SE'''」)という[[鉄道の車両愛称|愛称]]が設定された<ref name="rp546-86" /> が、「SE」という略称には "Super Electric car" という意味も含ませている<ref name="1987-y-88" />。その後、小田急ロマンスカーの車両には[[小田急30000形電車|30000形「EXE(Excellent Express)」]]を除いて「'''○SE'''」という愛称が設定されるようになる。 |
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その基本設計にあたっては、[[日本国有鉄道]](国鉄)鉄道技術研究所(現・[[鉄道総合技術研究所]])の技術協力を得ると共に、[[日本車輌製造]]や川崎車輛(現・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]])などの車両製造メーカーおよび東京芝浦電気(現・[[東芝]])や[[東洋電機製造]]といった電気機器の大手企業が、共同開発を行うという形式がとられ、当時の最新技術を惜しみなく投入した革新的な特急形電車として完成した。<!--[[鉄道の歴史 (日本)#1955年(昭和30年)~1964年(昭和39年)|鉄道車両史]]にその名を残す名車である。--> |
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登場した1957年に行われた[[東海道本線]]での高速試験において、当時の[[狭軌]]鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立<ref name="1985-k-24"/>、その後の国鉄の電車特急開発にデータを提供した<ref name="BL88-97"/>。また、本形式の登場がきっかけとなって<ref name="1981-u-116"/>[[鉄道友の会]]では[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]の制度が創設され<ref name="1981-u-116"/>、[[1958年]]には第1回ブルーリボン賞を授与された<ref name="1981-u-116"/>。 |
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当初は8両[[連接台車|連接車]]として登場した<ref name="1985-k-24"/> が、[[1968年]]以降は[[御殿場線]]乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し<ref name="1985-k-28"/>、"Short Super Express"(略して「'''SSE'''」)とも称されるようになった<ref name="1981-u-21"/>。[[1991年]]に[[小田急20000形電車|20000形(RSE車)]]が登場するまで運用され<ref name="rp546-191"/>、[[1992年]]に全車両が廃車となった<ref name="rp386-67"/>。 |
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なお、流線形や[[連接台車|連接構造]]等、その後の小田急ロマンスカーの雛形となった車両という事で、近年の文献などで「初代ロマンスカー」と記述されることが多いが、小田急電鉄は、「ロマンスカー」という語を箱根湯本駅まで乗り入れを開始した[[1950年]](昭和25年)[[8月1日]]より使用しており、その当時の特急専用車両は、[[小田急1900形電車#1910形・2000形|1910形]]であった。また、「ロマンスカー」とは、「[[ロマンスシート]]」を腰掛として使用した車両のことを指し、かつて、小田急以外にも、[[京阪電気鉄道]]や[[東武鉄道]]などでも愛称として使われ、[[名古屋鉄道]]では社内の車両種別呼称として存在する。 |
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== 登場の経緯 == |
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連接構造等、[[インターアーバン]]として[[シカゴ]] - [[ミルウォーキー]]間で運転された「[[エレクトロライナー]]」の影響を受けたと言われる。また日本国内における高速鉄道用連接車として、唯一の前例であった[[西日本鉄道]][[西鉄500形電車 (鉄道)|500形電車]]([[1942年]]製造)についても、計画に先立ち、関係者による視察が行われている。 |
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=== 小田急の目標 === |
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[[1948年]][[6月1日]]に小田急が[[大東急]]から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した<ref name="rp386-68"/>[[山本利三郎]]は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き<ref name="2009-a-137"/>、[[スペイン]]で開発された連接車である[[タルゴ]]の存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという<ref name="2009-a-137"/>。国鉄東京[[鉄道管理局|鉄道局]]に在籍していた[[1935年]]には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した<ref name="jden-167"/>。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を[[流線形車両|流線形]]にし、駆動方式も[[吊り掛け駆動方式]]から改良して騒音を低減した高速電車を[[東京駅|東京]]と沼津の間で走らせる」という内容であった<ref name="jden-167-168"/>。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが<ref name="jden-168"/>、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ<ref name="rp386-68"/>、1948年冬には当時まだ新入社員であった[[生方良雄]]とともに<ref name="rp386-69"/>、当時既に連接車として運用されていた[[西日本鉄道]][[西鉄500形電車 (鉄道)|500形]]<ref name="rp386-67"/> の構造や保守について視察した<ref name="rp386-69"/>。 |
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一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として<ref name="rp491-16"/> 設置された輸送改善委員会が<ref name="rp491-16"/>、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定した<ref name="rp491-16"/>。この目標値は、戦前に[[阪和電気鉄道]]<ref group="注">現在の[[西日本旅客鉄道|JR西日本]][[阪和線]]・[[羽衣支線]]。</ref> が[[天王寺駅|阪和天王寺]]と[[和歌山駅|東和歌山]]の間61.2[[キロメートル|km]]を45分で結び<ref name="2009-a-20"/>{{refnest|group="注"|1933年11月運行開始の、[[紀勢線]]に直通する鉄道省制式客車を阪和電気鉄道の電動客車で牽引する南紀直通列車「[[黒潮号]]」と、同年12月運行開始の「超特急」での記録。いずれも阪和天王寺 - 東和歌山間ノンストップ運転であった。「黒潮号」は1937年12月1日のダイヤ改正で廃止、「超特急」は1940年12月1日に阪和電気鉄道が南海鉄道へ合併された際にも存続したが、1941年7月1日か同年12月1日のいずれかに実施されたダイヤ改正で廃止となり、この時点で阪和電気鉄道以来の阪和間45分運転は終了したと推定されている<ref name="488-41-43"/><ref name="108-54-59"/>。}}、表定速度は81.6{{nbsp}}[[キロメートル毎時|km/h]]に達していたことを意識したもの<ref name="2009-a-20"/> で、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8{{nbsp}}km(当時)は60分で走破できると考えたのである<ref name="2009-a-21"/>。大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという<ref name="2009-a-20"/>。この目標は、単に阪和電気鉄道の記録を破ることを目的にしていたわけではなく<ref name="2009-a-20"/>、速度向上によって車両の回転率を高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた<ref name="2009-a-23"/>{{refnest|group="注"|具体的には、「新宿から小田原までを60分で走ることによって、1編成が新宿と箱根湯本の間を往復するのに折り返し時間を含めたとしても180分で済み、箱根特急を60分間隔で運行する場合に必要な車両が3編成で済む。新宿から小田原まで60分以上かかると4編成が必要」というものであった<ref name="2009-a-22"/>。}}。 |
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== 製造までの流れ == |
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小田急は、製造に際し、次のような構想を立てていた。 |
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* 5両固定編成。 |
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* 終始、[[定員]]乗車を前提とする「特急専用車両」(一般車への格下げを行わない)として使用する。 |
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* [[鉄道車両の台車|台車]]の重さを可能な限り削減し、超軽量車体とする。 |
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* 台車間の床下を可能な限り低くし、低[[重心]]化を行う。 |
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* [[線形 (路線)|曲線]]をスムーズに走行するため、[[連接台車|連接構造]]とする。 |
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* 編成の前後に、[[展望車|展望席]]を設置する。 |
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このうち、終始「特急専用車両」であることと、超軽量車体、低重心化、連接車とするプランが採用され、設計が行われた<ref>開発の段階では3100形のように上に運転室を設置するプランや、二階建て車両とするプランも検討されたが、これらは低重心・超軽量車体による高速運転という基本コンセプトとの両立が困難であり、また前面展望席は衝突時の安全性確保の問題もあったため、本形式では採用が断念された。ただし、展望席は本形式の直接の後継車である[[小田急3100形電車|3100形]]において採用され、以後[[小田急7000形電車|7000]]・[[小田急10000形電車|10000]]・[[小田急50000形電車|50000]]と続く小田急ロマンスカーの本流である連接車シリーズに継承され、二階建て構造も後に[[小田急20000形電車|20000形]]に採用されて日の目を見ている<!--(前面展望席や二階建て構造については雑誌『鉄道ファン』に図面が掲載されたことがある。)--><!--何年何月号か明示して下さい。-->。</ref>。 |
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当時は「高速走行のためには大出力の[[主電動機]]を使用して、[[粘着式鉄道#粘着現象|粘着性能]]を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた<ref name="pjx-20"/>{{refnest|group="注"|例えば、輸送改善委員会が目標として想定した阪和電気鉄道は、輸入品の100ポンドレール(50 kg/mレール相当)を敷設し、十分な容量の変電所施設や架線設備を用意した上で、1時間定格出力200[[英馬力|馬力]]級 ({{cvt|200|hp|kW|disp=out|1}}) 電動機を4基ずつ装架する自重53{{nbsp}}[[トン|t]](基幹形式となる3扉ロングシート車であるモタ300形のメーカー実測値<ref name="日車カタログS3-S5"/>。公称自重は47{{nbsp}}t - 48.56{{nbsp}}t)の超重量級車両を走らせて前述の記録を達成していた。また、阪和電気鉄道のモデルとなった[[新京阪鉄道]]も、軌間こそ異なるものの同様の[[新京阪鉄道P-6形電車|車両]]・施設で、[[天神橋筋六丁目駅|天神橋]] - [[大宮駅 (京都府)|京阪京都]]間42.4{{nbsp}}kmを34分で走破する(表定速度74.8{{nbsp}}km/h)超特急を同時期に運行していた。なお、同時代における小田急の車両とこれら関西私鉄で用いられていた重量級電車の重量差は公称値でも10{{nbsp}}t以上、電動車の出力差は約300馬力に達した<ref name="日車カタログS3-S5"/>。}}。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で<ref name="rp491-16"/>、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった<ref name="rp491-16"/>。また、当時導入された国鉄[[国鉄63系電車|モハ63形]]の改造車である[[小田急1800形電車|1800形]]の乗り心地が悪く、[[保線]]部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった<ref name="arc1-13"/>{{refnest|group="注"|1800形で速度を上げて飛ばしたら、線路の犬釘が抜けてしまったこともあったという<ref name="arc1-13"/>。}}。このため、[[軌道 (鉄道)|軌道]]や[[変電所]]などの投資を極力抑える一方で<ref name="rp491-16"/>、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた<ref name="rp491-16"/>。この方針に従い<ref name="rp491-16"/>、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり<ref name="rp491-16"/>、研究や試験などを繰り返していた<ref name="rp546-82"/>。 |
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車体構造を研究するため、3回もモックアップが製作されたが、斬新な設計構想に対して小田急社内では反対意見が続出し<ref>特に連接車であることに対して保守陣から強硬な反対意見が出されたとされる。</ref>、一時は開発がストップするという事態に陥った。しかしながら、国鉄が新宿 - 小田原 - [[伊豆半島|伊豆]]方面に対し、直通優等列車の運行を開始するという情報が入ったことから、[[1956年]](昭和31年)[[6月]]、当初のプランを拡大して8車体連接車として新造することが急遽決定された。<!--この連接構造についてはスペインのタルゴ列車の優秀性が認められ、なんとか同等の物を日本にという関係者の強い思いから実現されたということを聞く。--> |
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[[1954年]]に登場した[[小田急2100形電車|2100形]]<ref name="2009-a-130"/> では車体の軽量化が実現<ref name="2009-a-130131"/>、駆動方式についても同年に登場した[[小田急2200形電車|2200形]]<ref name="rp546-82"/> では[[カルダン駆動方式]]が実用化された<ref name="rp546-82"/>。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した<ref name="arc1-65"/>。 |
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本形式の製造に際しては、1編成あたり1億5千万円とその調達費用が巨額となることから、[[住友信託銀行]]と車両メーカー2社による[[信託|車両信託制度]]という新しい制度が創出され、初期投資に伴う資金調達を最小限に抑制することに成功した。この車両信託制度は[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[フィラデルフィア]]プランに倣ったもので、以後日本の鉄道事業者が車両新造に利用することとなった。 |
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=== 小田急と国鉄の共同開発へ === |
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製造は日本車輌製造東京支店・川崎車輛の2社が担当した。 |
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この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた<ref name="rp546-82"/>。[[1946年]]には山本の友人である[[島秀雄]]が、[[大日本帝国海軍|日本海軍]][[海軍航空技術廠|航空技術廠]]にいた[[三木忠直]]や[[松平精]]などを研究所に招き<ref name="2000-t-91"/>、「[[鉄道車両の台車史#高速台車振動研究会|高速台車振動研究会]]」を設立して研究を行った<ref name="2000-t-91"/>。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは[[航空機]]の技術を導入した鉄道の高速化を研究し<ref name="rp546-82"/>、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった<ref name="2000-t-159"/>{{refnest|group="注"|しかし、当初は研究所生え抜きの研究者からことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった<ref name="pjxc-17"/><ref name="pjxc-36"/>。}}。 |
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それまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが<ref name="rf375-92"/>、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると<ref name="2009-a-67"/>、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した<ref name="rf375-92"/>。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした<ref name="2009-a-67"/>。 |
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== 車体 == |
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[[ファイル:Front of OER 3000.jpg|thumb|220px|right|流線型である3000形SEの先端部(2007年10月撮影)]] |
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[[空気力学|空気]][[抗力|抵抗]]軽減と軽量化、それに低[[重心]]化のため、車体断面を着席[[旅客|乗客]]と通路歩行に影響を及ぼさない範囲で極力縮小し、設計の工夫と軽[[合金]]の多用<ref>側窓部は上部が4°内傾し、台車部および連結面付近の台枠側梁がある部分のみ床面が125mm持ち上げられる(持ち上げ部から第1座席までの間をスロープでつないで円滑な歩行を可能としている)など、車体断面形状には工夫が凝らされ、各部を4.5mm以下の薄鋼板で構成すべく、[[プレス加工]]によりビードを形成して強度を確保した外板や、プレス加工で丸穴をあけて軽量化を徹底した[[桁]]材、内装への[[アルミニウム合金|アルミ]]材の多用など、その軽量化には[[航空機]][[設計]]の[[手続き的知識|ノウハウ]]がフルに活かされていた。</ref>で、普通[[鋼]]を用いながら極めて軽量かつ低重心<ref>定員乗車時の重心位置は[[軌条]]上面から1mとなるよう計画されていた。</ref>な[[モノコック|張殻構造]]車体として完成された。 |
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この方針を受けて、[[1953年]]9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、[[東京]]と[[大阪]]を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった<ref name="2000-t-158"/>。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用<ref name="2009-a-66"/> する一方で、電車方式([[動力分散方式]])ではなく1,200[[馬力]]の[[電気機関車]]牽引による7両編成の[[客車]]列車([[動力集中方式]])とする構想であった<ref name="2000-t-158159"/>。 |
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窓配置は両端の[[操縦席|運転台]]付き車体がd1x13、中間車体がD1x11(d:乗務員扉、D:客用扉)で、中間車体は2,5,6号車が1号車寄り車端部に客用扉を設置し、3,4,7号車は8号車寄り車端部に客用扉を設置していた。客用扉は開閉頻度の低い特急車であることから、軽量化のため[[ドアエンジン]]の搭載が省略され、内開き式の手動扉となっていた。なお、各車間の貫通路は開放感を演出するため、そして運転台付き車体の場合客用扉が無く、乗降時には必ず[[貫通扉|貫通路]]を通行する必要があったことなどから広幅とされ、車両間の仕切扉は一切設置されなかった。 |
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この構想は、国鉄本社から「これは本社が考えるべきことである」と批判を受けた<ref name="rf375-92"/> が、運輸省は逆に「研究補助金を出すので申請するように」と通告した<ref name="2009-a-68"/>。そこで、日本鉄道車両工業協会で研究を受託するために「超高速車両委員会」が発足した<ref name="2009-a-68"/>。研究を重ねた後の1954年9月には「全長100.9[[メートル|m]]の7両連接車、自重113.3[[トン|t]]、電動機出力は110[[ワット|kW]]が8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された<ref name="2009-a-68"/>。 |
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本形式は画期的な軽量設計をもって8両分全長約108mの車体で147t<ref>在来車の中でも軽量化が図られたカルダン駆動のデハ2300形特急車でさえ、4両編成(全長70m)の自重が135tであったから、劇的な軽量化であった。</ref>という驚くべき軽量化を実現したが、その代償として[[エア・コンディショナー|冷房装置]]の搭載が断念<ref>当初は設置が検討されたが、床下のスペースが限られることが問題となり、屋根上搭載や一時は[[冷媒]]に[[ドライアイス]]や氷を用いることも真剣に検討されたものの、ドライアイス・氷の使用は折り返し駅となる[[箱根湯本駅]]での冷媒確保・補充が至難であるとの理由で却下され、冷房装置の屋根上搭載も重量の増加と低重心が損なわれるという理由で見送られた。このため、換気装置としてファンデリアが採用されている。</ref>され、換気は屋根上に設置された風洞を介して各車天井に6基ずつ設置された16インチ径[[換気扇|ファンデリア]]を用い、側窓は1段上昇式のスチールサッシそして座席はリクライニングを諦めて軽量構造でシートピッチ1,000mmの回転式クロスシートを設置するなど、接客設備面では様々な妥協が行われており、特に[[冷房]]設備の不備は、翌年に竣工した[[近鉄10000系電車|近畿日本鉄道10000系“VISTA CAR”]]が二階建て構造に加えて大きな2層構造の固定窓による眺望の良さと完全空調を謳い文句としてデビューを飾り、続いて[[国鉄181系電車|国鉄20系(→151系)特急形電車]]も同様の設備で竣工したことから、ひときわ目立つ結果となった<ref>近鉄は前代の特急車である[[近鉄2250系電車|2250系]](大阪・山田線用)と[[近鉄6421系電車|6421系]](名古屋線用)で既に川崎重工業KM-7[[集中式冷房装置]]を導入しており、特急車への冷房設置が当然という状況にあった。これに対し、小田急は既存特急車に対する冷房設置を実施しておらず、その接客サービスに対する姿勢の差が表面化したものであった。なお、本系列においても[[1962年]]([[昭和]]37年)に床置式の冷房装置が追加設置されたが、これに伴い自重が編成全体で14t増え、座席定員が32名減となった。</ref>。ただし、それでも小田急ロマンスカーの象徴の1つである「[[走る喫茶室]]」のための売店設備については、3号車と6号車の2箇所に2人掛け座席3脚分のスペースを確保して設置してあった。 |
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山本はこの研究発表に着目し<ref name="2009-a-68"/>、1954年10月19日に<ref name="1994-u-140"/> 研究所に対して「特急車両として世界的水準を抜くものにしたい」<ref name="rf375-92"/> と、新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼した<ref name="2000-t-159"/>。 |
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本形式をもっとも強く印象付けた流線形の前頭部形状は、当時の国鉄鉄道技術研究所の協力により、[[風洞]]実験を繰り返して空気抵抗を可能な限り減少させることを目的としてデザインされており、これも当時鉄道技術研究所に在籍した[[大日本帝国海軍|旧海軍]][[海軍航空技術廠|空技廠]]出身の航空技術者たちのノウハウが盛り込まれたものであった。正面下にスカートがあるが、これは軽量な故、空気が床下に流入すると[[揚力]]により浮き上がり脱線転覆することを警戒して取り付けられたもので、やはり航空技術の応用である。 |
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小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあり<ref name="2000-t-154"/>、現実に[[国鉄80系電車]]運行に対して小田急が反対していた経緯もあるので<ref name="2009-a-73"/>、この依頼は非常識にさえ見えた<ref name="2000-t-159"/>。しかし、この当時、島は[[桜木町事故]]の後に国鉄を退職していたものの<ref name="2000-t-159"/>、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった<ref name="2000-t-159"/>。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが<ref name="2000-t-159"/>、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった<ref name="2000-t-159"/>。島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた<ref name="2000-t-159"/>。また、研究所側でも「小田急の構想に乗ることで研究成果の確認が可能になる」と考えた<ref name="rp546-82"/>{{refnest|group="注"|島の部下だった[[星晃]]は「言葉は悪いが、島は山本の構想を利用したのではないか」と述べている<ref name="2009-a-135"/> が、一方の山本は、1957年6月に行われた展示会での談話の中で、研究所の支援を受けられたことについて「将来国鉄でも役立つとの考えからであったと思う」と述べている<ref name="arc1-118"/>。}}。研究所では小田急の要請に全面的に応じることとし<ref name="rf375-92"/>、1954年10月25日から<ref name="1994-u-140"/> 研究所が小田急の研究を受託するという形式で<ref name="rp546-82"/> 新型特急車両の共同開発が開始された<ref name="rp546-82"/>。 |
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この流線形の採用で運転台部分の奥行きは2.5mと大きく取られたが、絞り込まれてもいるため、運転台はそれほど広くはなく、各種機器が密集して搭載されていた。なお、高速走行時の[[バードストライク#鉄道|バードストライク問題]]を危惧してか、新造時は前面計器板上に防弾ガラスを設置してあった。[[前照灯]]は、鉄道車両として初採用となる[[シールドビーム]]2灯とし、高速運転時に十分な照度の確保を図っている。<!--この正面窓下に2灯の前灯を配置するデザインは、オランダの国鉄電車のデザインを模範としている。--><!--具体的な形式名は何になりますでしょうか? 出典の明示をお願いいたします--> |
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=== 基本構想 === |
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また、設計当初は在来と同じ配色の外部色が検討されたが、前例のない高速運転を実施する車両であることから、警戒色としてオレンジ系統を基調とする新たな塗装の採用が決定され、そのデザインを当時[[秦野市|秦野]]在住の[[画家]]、[[宮永岳彦]]に依頼し、彼の提案によるオレンジバーミリオンにシルバーグレーのツートンを基調とし、白帯を配したものが採用された。以後、この塗装は、小田急ロマンスカーのシンボルカラーとなり、[[小田急3100形電車|3100形NSE]]、[[小田急7000形電車|7000形LSE]]まで3代に渡って継承された<ref>この塗色はロマンスカーに接続する箱根登山鉄道の車両の標準色や、傘下のタクシー会社の小田急交通のボディカラーとなった。また7000形LSEについては、後日更新工事を施工した際に全編成が[[小田急10000形電車|10000形HiSE]]に準じた塗装に変更されている。なお、2008年現在7000形は1編成(7004F)が登場時のオレンジバーミリオンの塗装となって運行されている。</ref>。 |
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基本構想の策定を行う研究会は、1954年11月から1955年1月までに合計8回行われた<ref name="2009-a-136"/>{{refnest|group="注"|研究会が行われた時間帯は、就業時間が終了した午後5時から午後8時までで、小田急の担当者はこの研究会を「夜学」と呼んでいた。研究会の一部に参加した生方良雄は「我々が考えてもいない発想をしていると思った。海軍出身の技術者から授業を受けているような雰囲気で、ずいぶん勉強になった」と述べている<ref name="2009-a-136"/>。}}。[[1955年]]1月25日には基本構想が策定された<ref name="rp546-82"/> が、この時点では小田急の最長編成は17m車4両編成であったことから<ref name="rp789-53"/>、全長70mの5両連接車という内容であった<ref name="1994-u-140"/>。1955年1月16日には<ref name="1994-u-140"/> 共同設計者として[[日本車輌製造]]・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎車輛(当時)]]・[[近畿車輛]]・[[東洋電機製造]]・[[東芝|東京芝浦電気(当時)]]・[[三菱電機]]が参画し<ref name="rp546-83"/>、研究所の指導の下に具体的な設計に入った<ref name="rp546-83"/>。小田急では創業当時から電装品は三菱電機<ref name="2009-a-165"/>、台車は[[住友金属工業]]の製品を採用しており<ref name="2009-a-165"/>、特に三菱グループとは[[メインバンク制|主力取引銀行]]としての関係もあった<ref name="2009-a-166"/> が、新型特急車両の設計参画メーカーの決定に際しては純粋に技術的見地から決定され<ref name="1994-u-75"/>、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って<ref name="1994-u-75"/>、過去の小田急との取引を考慮して決定した<ref name="1994-u-75"/>。 |
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山本は「1gでも軽い部品を採用する」と公言し<ref name="rp789-52"/>、1mあたりの重量を1tとすることを目標として<ref name="rp546-83"/>、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及された<ref name="1981-u-115"/> ほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた<ref name="1981-u-115"/>。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから[[鉄道車両]]の進歩が遅れる」という山本の考え<ref name="rp386-67"/> により、[[耐用年数]]は10年と考えることになった<ref name="rp386-67"/>。 |
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このほか、日本初の試みとして、音響心理学研究所の意見と高速走行時の近接警報として[[日本放送協会]]の[[テレビ番組]]、[[NHKのど自慢]]の合格の鐘の音をヒントにし、エンドレステープに録音した[[ヴィブラフォン|ビブラフォン]]調メロディを、屋根上に装備した指向性の高い[[スピーカー]]から流す「[[警笛#ミュージックホーン|補助警報機]]」を初めて採用した。ただし、当時はテープの質があまり良くない上に使用頻度が多いため劣化が激しく、のちに発振装置による音源に変更された。なお、本形式が一部で「[[オルゴール]]電車」と呼ばれるのは、このミュージックホーンに由来している。 |
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ファイル:OER-SE3000-inside-cab.jpg|3000形電車の運転台 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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ファイル:OER-SE3000-inside.jpg|3000形電車の車内 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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ファイル:Seat of Odakyu RomanceCar SE.JPG|3000形電車の座席 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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ファイル:Occasional Chair of Odakyu RomanceCar SE.JPG|3000形電車の補助席 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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ファイル:OER-SE3000-inside-buffet.jpg|3000形電車の車内・売店設備 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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ファイル:Coupling of Odakyu RomanceCar SE.JPG|3000形電車の車内連結部 (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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ファイル:OER-SE3000-inside-slope.jpg|3000形電車の車内・車端部のスロープ (2007年10月21日 海老名検車区「ファミリー鉄道展」) |
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前頭部の形状の決定に際して、[[東京大学]][[航空研究所]]の[[風洞]]を使用して<ref name="2000-t-160"/>、日本の鉄道車両設計の歴史上初めて<ref name="2000-t-160"/> となる本格的な風洞実験が行われた<ref name="2000-t-160"/> ほか、[[ディスクブレーキ]]の試験も行われた<ref name="arc1-63"/>。また、高速運転に伴って[[踏切障害事故|踏切事故]]などを防止するために補助警報器(特殊[[警笛]])の現車試験なども行われた<ref name="arc1-63"/>。 |
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== 主要機器 == |
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=== 電装品 === |
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主電動機は[[東洋電機製造]]TDK-806/1-A<ref>端子電圧375V時定格出力100kW/1,800rpm 300A、[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|最弱め界磁率]]50%、最高回転数4,320rpm。最弱め界磁率以外は国鉄MT46に近似したスペックであり、外形寸法もほぼ同一であるが、自己通風式のMT46と異なり、こちらは自己通風とファンブロワーによる強制通風を直列で使用する設計となっており、自重も60kg重い。定格速度は75km/h、最高回転数時の理論最高速度は180km/hとなる(車輪径を820mmとして計算した場合)。</ref>、駆動方式は[[カルダン駆動方式|中空軸平行カルダン]]<ref>駆動装置は東洋電機DND143-SH9921、歯数比は3.71。</ref>、そして制御器は[[東芝]]MCM<ref>東芝と[[ゼネラル・エレクトリック]](GE)社との技術提携によって導入された、MA→PC→PCMと続いたGE社系自動加速制御器の掉尾を飾る電動カム軸式自動加速制御器。力行17段(永久直列14段、弱め界磁段3段)、電制17段(界磁3段、抵抗14段)で、いずれも並列段を持たないが、これは特急車ゆえに起動加速の回数が少ないことを考慮して、制御器1基が担当する2台車分4基の主電動機を永久直列接続として主回路を単純化したためである。</ref>を3基搭載し、電動[[鉄道車両の台車|台車]]は9台車中6台車、[[付随車|付随]]台車は両先頭部と4・5号車間となっていた。 |
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また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた<ref name="rp386-68"/> 山本の主張によって、新型特急車両には連接構造が採用されることになった<ref name="2000-t-160"/>。三木は連接車に賛成していた<ref name="rp386-69"/> が、研究所では保守上の不便を心配していたという<ref name="rp546-83"/>。しかし、山本は「保守・整備は小田急が考えればいい話」と主張し<ref name="2009-a-138"/>、連接車導入と決まった。この時期の[[小田急電鉄経堂工場|経堂工場]]は、17.5[[メートル|m]]車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかった<ref name="arc2-12"/>{{refnest|group="注"|name="経堂工場"|当時、経堂工場の建物の奥行きは67.5mしかなかった<ref name="arc1-101"/>。}}ので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという<ref name="1994-u-75"/>{{refnest|group="注"|name="狭い経堂工場"|後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている<ref name="arc2-12"/>。}}。 |
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主回路構成は、第1次車については当初計画の影響で5車体連接での使用が可能な設計で、実際にも5車体で運用されたことがあったが、第2次車(3031F)では回路簡略化のため、8車体固定編成仕様に変更された。 |
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=== 開発の停滞と再開 === |
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台車数で見た場合の[[MT比]]は6:3(SSE化後4:2)であり、起動加速度は1.5km/h/s(SSE化後1.7km/h/s)とされた。 |
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構想の練り上げと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため<ref name="rp546-84"/>、社内に車両委員会が設置された<ref name="rp546-84"/>。 |
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しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから<ref name="rp546-84"/>、社内の意見をまとめるのに難航した<ref name="rp546-85"/>。[[操縦席|運転席]]を低くしたために<ref name="rp546-85"/> 運転部門からは「踏切事故の際に[[運転士]]の危険度が高い」<ref name="rp546-85"/>「運転台からの見通しが悪すぎる」<ref name="2009-a-167"/> という意見が、また客室床面が低いために<ref name="rp546-85"/> 営業部門からは「座席の乗客が[[プラットホーム|ホーム]]から見下ろされるためサービス上問題」<ref name="rp546-85"/> という意見があったという。必死に説得を続けたものの<ref name="2009-a-167"/>、「そんな突拍子もない車両は使えない」という運転部門からの反発は大きく<ref name="2009-a-167"/>、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった<ref name="rp546-85"/>。 |
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=== 台車 === |
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[[ファイル:Jacobs bogie of OER 3000.jpg|thumb|right|220px|3000形の連接部(2007年10月)]] |
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[[ファイル:Truck-KD17.jpg|thumb|right|220px|3000形の連接台車・KD-17(2007年10月)]] |
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台車は軽量設計であることを重視して[[近畿車輛]]KD-17(電動台車)・18(付随台車)[[鉄道車両の台車|シュリーレン式台車]]が採用され、前述の通り各車体間は連接台車とされた。これらは電動台車と付随台車で軽量化のために軸距が違えてあり、前者は2,200mm、後者は2,000mmで、車輪径も縮小されて840mmとされた。こうした様々な努力により、台車の自重は前者が3.8t、後者は3.6tとなっていた。これらはいずれも揺れ枕吊りが線路方向にスイングする、短リンク式と呼ばれる近畿車輛製シュリーレン式台車の第1世代に属する製品<ref>この時点では小田急がその後長期間にわたり採用することになる[[住友金属工業]]製[[アルストム]]・リンク式台車は未完成で、曲線通過特性が良好でかつ高速走行に対応可能な新型軽量台車の選択肢が他になかったことから、シュリーレン式台車が採用された。</ref>であり、揺れ枕吊りのスイング方向の関係からか枕木方向の揺動特性が思わしくなく、枕バネがコイルバネであったためもあって、走行特性はともかくその乗り心地は今一つと評価された。なお、付随台車のブレーキには、高速域から安定した制動力が得られることから、川崎車輌の提案により、日本の鉄道車両としては初の[[ディスクブレーキ]]を採用した。 |
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ところが、半年後の1956年3月<ref name="rp546-85"/>、新宿から[[品鶴線|貨物線]]経由で小田原や[[伊豆半島|伊豆]]方面に向かう[[準急列車]]「[[踊り子 (列車)#電車の台頭と列車の増発・名称多様化|天城]]」の運行が国鉄から発表された<ref name="rp546-85"/>。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想されたため<ref name="rp546-85"/>、社内は「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべし」との意見に統一され<ref name="rp546-85"/>、開発は再開された<ref name="2009-a-169"/>。 |
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=== ブレーキ === |
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デハ2200形で初採用され、既に実績を積んでいた、新三菱重工業HSC-D電空併用[[電磁直通ブレーキ]]を採用した。電動台車は両抱き式、付随台車はディスクブレーキで、電動台車は[[発電ブレーキ]]を優先使用することで[[フラット防止装置|フラット]]発生の原因となる踏面ブレーキの使用を最小限に抑制する仕様となっており、これにより減速度4.15km/h/sを確保した。 |
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[[1956年]]5月には仕様が決定し<ref name="rp546-84"/>、同年6月末から製作が開始されることになった<ref name="rp546-84"/>。当初は前述の通り全長70mの5両連接車で計画されていたが<ref name="arc1-65"/>、1957年5月から小田急で全長105mの6両編成による運転が開始されることになっていたため<ref name="rp789-53"/>、1956年5月7日に全長108mの8両連接車に計画が変更された<ref name="1994-u-140"/>。経験・実績に乏しい方式だった{{refnest|group="注"|この時点で日本に存在した高速電気鉄道向け連接車は、1934年に登場した[[京阪60型電車|京阪60型]]、1942年に登場した[[西鉄500形電車 (鉄道)|西鉄500形]]、1952年に改造によって登場した[[美濃電気軌道セミシ64形電車|名鉄2代目400形]]の3形式しかなく、いずれも2車体か3車体であった<ref name="rp789-2021"/>。}}にもかかわらず8両連接車を採用したのは<ref name="1985-k-24"/>、当時としては大英断であったと評されている<ref name="1985-k-24"/>。運転台を2階に上げて[[展望車|展望席]]を設置する案<ref name="2009-a-164"/> や、[[二等車]]等の優等車両を設ける案もあったが<ref name="arc1-65"/>、最終的にはこれらの案は採用されなかった<ref name="arc1-65"/>。 |
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== 編成 == |
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車両番号は新宿方から3001-3002-3003…3008のように付番され、第2編成以降は順に3011…、3021…、3031…となった。 |
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車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車輛・[[住友信託銀行]]の4社で[[信託|車両信託制度]]という新しい制度が設けられた<ref name="arc1-113"/>。これは[[アメリカ合衆国]]のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので<ref name="arc1-113"/>、新型特急車両は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった<ref name="arc1-113"/>。 |
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各車両の自重、最大長および定員は次の通りである。 |
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* 1号車:24.87t・15,950mm・52名 |
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* 2号車:17.19t・12,700mm・49名 |
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* 3号車:16.00t・12,700mm・38名 |
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* 4号車:16.28t・12,700mm・44名 |
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* 5号車:15.13t・12,700mm・44名 |
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* 6号車:15.75t・12,700mm・38名 |
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* 7号車:17.19t・12,700mm・40名 |
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* 8号車:24.34t・15,950mm・52名 |
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* 合 計:146.75t・108,100mm・354名 |
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こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。 |
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== デビュー・狭軌世界最高速度達成へ == |
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[[ファイル:Blue Ribbon Prize 1957 of Japan Railfan Club.JPG|thumb|right|220px|車内に掲げられているブルーリボン賞受賞記念プレート(2007年10月)]] |
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3000形は[[1957年]]([[昭和]]32年)[[7月6日]]より営業運転を開始し、従来とは全く異なる車両として社会の目を釘付けにした。事実、本形式が充当される特急の特別急行券は即日完売し、利用者からは「乗りたくても(特別急行)券が取れない」という苦情が、小田急にも寄せられた程であった。 |
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== 車両概説 == |
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また、第2編成(3011F)は、小田急が「曲線の多い小田急線よりも、線路条件の良い[[東海道本線]]を使い、高速走行試験をしたい」という意向を国鉄に示したところ運転局が快諾し、国鉄に貸し出されて<ref>形式上は国鉄側が小田急電鉄に対し貸し出しを要請した形にして、私鉄電車を試験に使用することに対する国鉄部内での反対論が封じられた。</ref>高速走行試験が行われ、[[9月27日]]に、当時の狭軌世界最高速度である145km/hを達成した。 |
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本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。 |
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<!--なお、2007年現在でも、公式に145km/hを超える速度で走った民鉄車両はなく、この車両が日本の民鉄車両最高速度記録を保有していることとなる。--><!--民鉄の定義にもよるのでコメントアウト。広義の民鉄である第3セクターを含めると[[北越急行]]所有の[[JR西日本681系電車|681系2000番台]]・[[JR西日本683系電車|683系8000番台]]が現在同社線で最高160km/hでの営業運転を実施していますので。--> |
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[[1958年]](昭和33年)[[1月29日]]には、鉄道友の会より、1958年第1回ブルーリボン賞を授与された。なお、ブルーリボン賞は、本形式の優秀さに対し、同会が、鉄道趣味の見地から何らかの形で表彰をしようとしたことに由来しており、本形式こそが「鉄道友の会ブルーリボン賞」創設のきっかけを作ったといえる。また、現在の同賞は鉄道友の会会員による投票で選定されているが、第1回の選定車両たる本形式は同賞の創設意義から無投票で選定されている。 |
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SE車は8両連接の固定編成で<ref name="rp546-190"/>、先頭車が[[制御車|制御電動車]]、中間車は全て[[動力車|電動車]]で、形式はいずれもデハ3000形である<ref name="arc1-81"/>。編成については、[[#編成表|巻末の編成表]]を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能<ref name="rp491-16"/> で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か<ref name="rp491-16"/>、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなる<ref name="rp491-16"/> が、5両連接車とした場合は3両目が両側とも電動機を装着しない[[付随車|付随]][[鉄道車両の台車|台車]]となる<ref name="rp491-16"/>。ただし、ほとんど編成短縮の機会がない<ref name="arc1-66"/> ことから、回路の簡略化を図るため<ref name="arc1-66"/>、1959年3月に製造された編成(3031×8)では永久8両連接の回路設定とした<ref name="arc1-66"/>。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であった<ref name="arc1-65"/> が、SE車では車体ごとに車両番号を附番している<ref name="arc1-66"/>。 |
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=== 車体 === |
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車体については、日本車輌(東京支店)・川崎車輛が担当することになり<ref name="rp546-83"/>、研究所側は三木が主任担当者となった<ref name="2000-t-158"/>。 |
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先頭車は車体長15,750[[ミリメートル|mm]]<ref name="rp546-82"/>・全長15,950mm<ref name="2005-u-84"/>、中間車は車体長12,300mm<ref name="rp546-82"/><ref name="2012-u-110"/>・全長12,700mm<ref name="2005-u-84"/>で、車体幅は2,800mm<ref name="rp546-83"/>である。 |
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==== 構体 ==== |
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それまでの特急車両では、格下げを考慮して<ref name="2009-a-163"/> 車体の強度を定員の250[[パーセント|%]]の荷重として計算していた<ref name="rp491-16"/>が、SE車では将来の格下げは考えず<ref name="2009-a-163"/>、定員の130%として荷重を計算した<ref name="arc1-66"/>上で航空機の技術を取り入れ<ref name="rp546-83"/>、各部にわたって徹底的な軽量化を図った<ref name="rp491-16"/>。 |
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車体構造は強度部材の軽量化のために[[モノコック|張殻構造]]とし<ref name="2009-a-149"/>、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mm<ref name="rp546-83"/> の耐蝕[[鋼板]]を採用し<ref name="rp546-83"/>、バックリング防止のため<ref name="1985-k-25"/> 125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした<ref name="rp491-16"/>。この耐蝕鋼板は[[日本鋼管]]に開発を依頼した<ref name="rf375-93"/> もので、銅とリンを加えたものである<ref name="rf375-93"/>。当初計画では車体に軽[[合金]]を使用する予定であった<ref name="rf375-92"/> が、車両メーカー側で軽合金車両の製造経験がなかったこと<ref name="rf375-92"/><ref group="注">当時の日本で、外板にステンレス板を使用した車両は[[関門トンネル (山陽本線)|関門トンネル]]区間用の[[国鉄EF10形電気機関車]]しかなく、日本で初めて電車でステンレス外板を使用した[[東急5200系電車]]の登場も小田急SE車登場の翌年であった。日本において、鋼体全てがステンレス鋼というオールステンレス車両や、アルミ軽合金製車両の登場に至っては1960年代に入ってからであった。</ref> と、価格が高いという理由により<ref name="rf375-92"/> 鋼板を使用している。 |
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車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み<ref name="rp546-83"/>、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで<ref name="rp546-83"/>、横風に対する安定度を確保し<ref name="rp546-83"/>、風圧の影響を減少させることを図った<ref name="rp546-83"/>。低重心化のため台車間の床面を低くし<ref name="rp546-83"/>、[[軌条]]上面から床面までの寸法は、台車の上では1,000mm<ref name="2005-u-164"/> で車体中央部では875mmとなった<ref name="2005-u-164"/><ref name="2012-u-111"/>。[[台枠]]部は航空機の主翼構造を応用し<ref name="rf375-93"/>、それまでの鉄道車両には存在した中梁を廃した<ref name="rf375-93"/> 上で、波板が縦方向の圧縮強度も担うようにした<ref name="rf375-93"/> ほか、横方向の梁には航空機と同様に重量軽減孔を開けることで軽量化を図った<ref name="rf375-93"/>。床板にも航空機の技術を応用し<ref name="2009-a-151"/>、[[ハニカム構造]]が採用された<ref name="rp546-83"/>。 |
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こうした工夫の結果、[[構体 (鉄道車両)|構体]]重量は従来車が1mあたり500[[キログラム|kg]]だった<ref name="rp491-16"/> ものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され<ref name="rp491-16"/>、[[小田急2300形電車|2300形]]が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であった<ref name="rp491-13"/> のに対して、SE車では全長108mの8両連接車でありながら147t(1mあたり1.36t)<ref name="rp491-13"/> と、大幅な軽量化を実現した<ref name="rp491-13"/>。 |
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なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行われていなかった<ref name="2009-a-182"/> 荷重試験が行われ<ref name="2009-a-182"/>、構体の175箇所に対して<ref name="2009-a-182"/> ねじれや圧縮などの力を加えた測定が行われた<ref name="2009-a-182"/>。荷重試験については、島も「国鉄車両の車体構造の設計に役立った」と評価しており<ref name="2009-a-182"/>、これ以後は国鉄・私鉄を問わず、新設計の車両では必ず荷重試験が行われるようになった<ref name="2009-a-182"/>。 |
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==== 先頭部 ==== |
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{{Double image aside|right|Front of OER 3000.jpg|180|OER 3021 Signboard Headlight.jpg|180|先頭部|日本の鉄道車両で初めて採用されたシールドビーム前照灯(復元されたものであり登場当時とは異なる)}} |
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先頭部の形状は流線形で<ref name="rp491-16"/>、[[模型]]を作成した上で風洞実験を繰り返し<ref name="rp491-16"/>、さらにその結果を基にして[[木型|モックアップ]](実物大模型)を作成した<ref name="rp491-16"/> 上で細部に検討を加えて決定された<ref name="rp491-16"/>。これにより、形状抵抗係数は[[国鉄80系電車]]の0.64に対して<ref name="rf375-94"/>、SE車では0.25にまで減少した<ref name="rf375-94"/>{{refnest|group="注"|[[新幹線0系電車]]先頭部の形状抵抗係数は0.21である<ref name="rf375-94"/>。}}。本来はもう少し上部を絞り込めば[[抗力|空気抵抗]]が減少するところだった<ref name="1994-u-82"/> が、当時の日本の[[ガラス]]製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず<ref name="1994-u-82"/>、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった<ref name="1994-u-82"/>。 |
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[[前照灯]]は日本の鉄道車両では初めて[[シールドビーム]]が採用された<ref name="1985-k-25"/> が、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかった<ref name="1987-y-88"/> ため、自動車用の24[[ボルト (単位)|V]]仕様のものを使用した<ref name="1987-y-88"/>。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたこと<ref name="1994-u-81"/> と、左右に分けた場合には「1灯が故障した時に列車の位置が分からなくなる」という理由によって<ref name="1994-u-81"/>、2灯を前面中央部に並べた<ref name="1994-u-81"/>。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから<ref name="1994-u-81"/>、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている<ref name="1994-u-81"/>。先頭部には異常時に使用する格納式[[連結器|簡易連結器]]が収納された<ref name="rp491-16"/>。 |
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また、先頭下部には車両が空力的に浮き上がらないように<ref name="2009-a-154"/>、[[排障器]]も兼ねたスカートが設置された<ref name="2009-a-154155"/>。3031×8では正面のスカートの開口部が楕円形から真円形に変更されたのが外観上の識別点である<ref name="rf422-34"/>。 |
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==== その他車体構造 ==== |
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[[ファイル:OER SE3000 Door.jpg|thumb|出入台付近(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)]] |
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側面客用扉は車体断面に合わせた<ref name="rp491-16"/> 高さ1,770mm・幅800mmの手動式{{refnest|group="注"|1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった<ref name="arc1-37"/>。}}内開き戸<ref name="2005-u-84"/> を中間車に1箇所ずつ配置した。扉を内開き戸にしたのは車体を極力平滑にするためで<ref name="12-49"/>、当時まだ[[プラグドア]]という発想はなく<ref name="1994-u-76"/>、航空機と同様の扉を採用すると却って重量が嵩む<ref name="1994-u-76"/> ことから、この構造が採用された。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した<ref name="2005-u-84"/>。乗務員室の扉は高さ1,400mm・幅600mmである<ref name="2005-u-84"/>。車両間の[[貫通扉|貫通路]]は車内の見通しを良くする目的で広幅とし<ref name="rp491-16"/>、仕切り扉は一切設けていない<ref name="rp491-16"/>。 |
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屋根は[[換気扇|ファンデリア]]の外気取り入れ口を設けた二重構造とし<ref name="rp491-16"/>、先頭車の最前部には補助警報器の[[スピーカー]]を内蔵させた<ref name="arc1-66"/>。 |
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塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあった<ref name="2009-a-179"/> が、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべきだ」と決まり<ref name="2009-a-179180"/>、小田急の宣伝[[ポスター]]作成を手がけたこともある縁で<ref name="1994-u-82"/>、[[二紀会]]の[[宮永岳彦]]が色彩設計を担当<ref name="rp546-86"/>、[[朱色#銀朱|バーミリオンオレンジ]]{{Color|#f70803|■}}を基調に[[白|ホワイト]] □・[[灰色|グレー]]{{Color|#979797|■}}の帯が入る<ref name="rp546-86"/>、[[警告色|警戒色]]となるような明るい色とした<ref name="rp491-17"/>。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され<ref name="2009-a-181"/>、バーミリオンオレンジについてはVSE車・MSE車・EXEα車・GSE車にも継承された<ref name="2009-a-181"/>。 |
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=== 内装 === |
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{{Triple image|right|OER-SE3000-inside.jpg|150|OER-SE3000-inside-slope.jpg|150|OER-SE3000-inside-buffet.jpg|150|客室内(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)|客室端部のスロープ|喫茶カウンター(1984年以降の更新後のため登場当時とは異なる)}} |
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車体の節で記述したように車体中央部を低床化しているが、台車上と車両中央部の床の高さの差は客室両端部の通路に傾斜をつけて解決した<ref name="2009-a-156"/>。[[鉄道車両の座席|座席]]については、[[鉄道車両の座席#回転式クロスシート(回転腰掛)|回転式クロスシート]]を採用し<ref name="rp491-16"/>、[[座席#シートピッチ|シートピッチ]]1,000mmで配置した<ref name="2005-u-84"/>。この座席は、当時[[日本航空]]で運航されていた[[ダグラス DC-4|DC-4型旅客機]]の座席を参考にし<ref name="rf375-94"/>、ねじの頭を削るなど細かいところまで重量軽減にこだわった<ref name="2009-a-170"/>。軽量化を優先したため[[リクライニングシート|リクライニング]]機構の導入は見送られた<ref name="2009-a-171"/> ものの、それまでの同種の座席の重量が60kgだったところを33kgにまで軽量化した<ref name="rf375-94"/>。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である<ref name="rp491-20"/>。ただし、車端部の座席はスペースに余裕がないことから回転しない<ref name="12-47"/>。床に段差があることから、段差の上段になる座席では床面から座面の上面までを340mmに<ref name="2000-u-62"/>、それ以外の座席では床面から座面の上面までを400mmとして<ref name="2000-u-62"/>、着座位置を極力揃えるようにしている<ref name="12-47"/>。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した<ref name="arc1-116"/>。 |
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室内の配色は、天井を白<ref name="1994-u-83"/>、壁面は明るい色の[[デコラ]]張りとして<ref name="1994-u-83"/>、窓上[[カーテン]]キセ上部に赤い帯を入れた<ref name="1994-u-83"/>。座席は濃い青色の表地を採用した<ref name="1994-u-83"/>。 |
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3号車の新宿寄り海側出入台脇と6号車の[[小田原駅|小田原]]寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した<ref name="rp491-16"/>。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用[[便器#和式大便器(和風大便器)|和式]][[列車便所|トイレ]]・[[洗面器#取付用洗面器|化粧室]]を配置した<ref name="rp491-16"/>。喫茶カウンター・トイレとも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。 |
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客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で<ref name="1994-u-77"/>、左右どちら側にでも開けるようにした<ref name="1994-u-77"/>。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったため<ref name="1994-u-77"/> で、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ<ref name="1994-u-77"/>、[[車掌]]が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした<ref name="1994-u-77"/>。 |
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=== 主要機器 === |
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床下機器配置は、重心の低下を図ったため<ref name="2009-a-155"/>、それまでの車両での機器配置とは大きく異なるものになった<ref name="2009-a-155"/>。 |
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==== 速度制御機器 ==== |
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主電動機と駆動装置は既に[[中空軸平行カルダン駆動方式]]で実績のある東洋電機製造が<ref name="rp546-83"/>、制御装置は電機メーカー各社の設計入札を行った結果<ref name="rp546-83"/> 超多段制御方式では最軽量となった[[東芝|東京芝浦電気(東芝)]]が<ref name="rp546-83"/>、[[鉄道のブレーキ|制動装置(ブレーキ)]]は小田急において採用実績のある三菱電機が<ref name="rp546-83"/>、それぞれ担当した。 |
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== いわゆる「SSE」化 == |
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{{Sound|Odakyu SSE 3055 sagami No.5 matsuda.ogg|3000形電車3055の走行音(さがみ5号)|(本厚木-新松田間、1988年1月2日)}} |
{{Sound|Odakyu SSE 3055 sagami No.5 matsuda.ogg|3000形電車3055の走行音(さがみ5号)|(本厚木-新松田間、1988年1月2日)}} |
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主電動機は出力100[[ワット|kW]]([[定格#電気機器における定格|端子電圧]]375V・定格回転数1,800[[rpm (単位)|rpm]]・最[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|弱界磁]]率50%)の[[直巻整流子電動機|直流直巻補極付電動機]]である<ref name="rp491-17"/> 東洋電機製造のTDK806/1-A形で<ref name="rp491-17"/>、定格速度が高く<ref name="arc1-114"/>、高速域からの[[発電ブレーキ|発電制動]]を十分に作用させることが可能な特徴を有する<ref name="arc1-114"/>。箱根登山鉄道(現・[[小田急箱根]])[[小田急箱根鉄道線|鉄道線]]での上り勾配低速運転に対応するため<ref name="rp491-17"/>、冷却方式は強制通風式となっている<ref name="rp491-17"/>。駆動装置は[[中空軸平行カルダン駆動方式]]の東洋電機製造製DND143-SH9921形である<ref name="arc1-113"/>。[[歯車比|歯数比]]は78:21=3.71とした<ref name="rp491-17"/>。主電動機の最大回転数は4,320rpmで<ref name="arc1-115"/>、東洋電機製造では「理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である」と述べている<ref name="arc1-115"/>。 |
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[[1968年]](昭和43年)、[[御殿場線|国鉄御殿場線]][[鉄道の電化|電化]]に伴い、[[1955年]](昭和30年)から[[気動車]]([[小田急キハ5000形気動車|キハ5000・5100形]])で運転されていた[[準急列車|直通<small>特別</small>準急]]を電車に置き換えるため、小田急は、SE車を5両編成とする改造を実施した。この改造により、SE車はSSE(Short Super Express)車という俗称を持つに至った<ref>注釈1のとおり「SSE」車は俗称であるが、「SSE」車という俗称は短編成後のSE車を表現する上で便宜的であるため、以後、短編成化後のSE車をもって「SSE」車と、短編成化前の8両編成時をもってSE車と表現する。</ref><ref>当初、小田急は短編成の専用車を新造する計画を立てていたが、国鉄の意向から、本形式を改造の上で充当することとなった。</ref>。 |
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[[主制御器]]は、[[発電ブレーキ|発電制動]]付[[主制御器#電動カム軸接触器式|電動カム軸式]][[電気車の速度制御#抵抗制御|抵抗制御]]装置であるMM-50A形で<ref name="rp491-17"/>、2・5・7号車に搭載された<ref name="rp491-24"/>。特急車両であることから起動回数が少なく<ref name="arc1-114"/>、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れる<ref name="rp491-17"/> ことから、直並列制御は行わずに抵抗制御及び[[電気車の速度制御#弱め界磁制御|界磁制御]]を行う仕様で<ref name="rp491-17"/>、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)<ref name="rp491-17"/>、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である<ref name="arc1-114"/>。また、全ての主制御器を直列に接続することにより、これを1台の制御器とみなした上で、その「みなし制御器」により12個の主電動機の制御をおこなうことも可能である<ref name="rp491-17"/>。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段<ref name="rp491-17"/>、制動は全界磁抵抗制御による14段である<ref name="rp491-17"/> が、起動時のショックを防ぐために「捨てノッチ」と呼ばれる低速段が5段設定された<ref name="arc1-114"/>。軌条面との空間を確保するため<ref name="rp789-55"/>、通常はレールと並行に機器を配置するところを枕木と並行に配置し<ref name="rp789-55"/>、台枠横梁の間に機器箱を押し上げた状態で搭載している<ref name="rp789-55"/>。 |
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従来の8両4編成(32両)は、以下のように5両6編成(30両)に組み替えられた。なお、数字は短編成(SSE車)化後の新番号、(''この書体の数字'')は8両編成時代の旧番号である。 |
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* SSE第1編成:3001(''3001'')-3002(''3002'')-3003(''3006'')-3004(''3007'')-3005(''3008'') |
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* SSE第2編成:3011(''3011'')-3012(''3012'')-3013(''3016'')-3014(''3017'')-3015(''3018'') |
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* SSE第3編成:3021(''3021'')-3022(''3022'')-3023(''3026'')-3024(''3027'')-3025(''3028'') |
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* SSE第4編成:3031(''3031'')-3032(''3032'')-3033(''3036'')-3034(''3037'')-3035(''3038'') |
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* SSE第5編成:3041*(''3015'')-3042(''3005'')-3043(''3013'')-3044(''3004'')-3045*(''3014'') |
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* SSE第6編成:3051*(''3035'')-3052(''3025'')-3053(''3033'')-3054(''3024'')-3055*(''3034'') |
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なお、SSE車の車両番号の『*』は、中間車を先頭車に改造した車両を示す。また、この5両編成化に伴い、余剰となった''3003''と''3023''は、[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった。 |
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[[ファイル:OER 3023 diskbrake 2.jpg|thumb|right|日本の鉄道車両で初採用されたディスクブレーキ(黄矢印の円盤・ツインディスク式に改造後)]] |
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SSE車では6台車中4台車が電動台車とされ、付随台車は2 - 3号車間及び3 - 4号車間となり、3号車は付随車となった。 |
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ブレーキは、[[発電ブレーキ|電]][[空気ブレーキ|空]]併用<ref group="注">発'''電'''制動・'''空'''気制動を併用するという表記。</ref> のHSC-D形<ref group="注">「ハイスピードコントロール ('''H'''igh '''S'''peed '''C'''ontrol) ・ダイナミックブレーキ ('''D'''ynamic Break) 付」の略である。</ref>[[電磁直通ブレーキ]]で<ref name="rp491-17"/>、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である<ref name="rp491-17"/>。ブレーキ装置についても軽量化が図られ<ref name="arc1-114"/>、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ<ref name="arc1-114"/>、SE車では500kgに抑えている<ref name="arc1-114"/>。基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ<ref name="1985-k-147"/>、付随台車ではシングルディスク式[[ディスクブレーキ]]である<ref name="1985-k-147"/>。ディスクブレーキについては研究所から「最高運転速度を上げるためにはディスクブレーキを使うべし」と強い主張があった<ref name="2009-a-156"/> ために採用された<ref name="2009-a-156"/> が、これも航空機で採用されていた技術からのもので<ref name="rf375-94"/>、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である<ref name="1987-y-88"/>。なお、設計段階では[[空力ブレーキ]]も検討されていた<ref name="rf375-94"/> が、150km/h以下では効果が少ないため採用には至っていない<ref name="rf375-94"/>。 |
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[[ファイル:Coloring of OER 3000.jpg|thumb|right|220px|SEカラーリング(左)とSSEカラーリング]] |
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また、[[重連運転]]の対応のための[[連結器]]や、3100形に準じた大形の[[方向幕#ヘッドマーク|電照愛称表示器]]の装備により、先頭形状は大幅に変更され、従来の流麗な印象から、ややいかつい印象となった。この改造にあたっては[[フランス国鉄]] (SNCF) の[[TEE]]車両「x2700形」のデザインを参考にしたともいわれている。また、SE車時代の面影を残しつつ、側面は[[操縦席|乗務員室]]の後から始まって側面窓下部から裾までのオレンジが灰色に変更され、3100形の側面に準じた配色としている。ただし、本形式の車体側板にはビードがあるため、白の3本線は入っていない。正面は愛称表示器の下からV字形の白いラインで強調されている。 |
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[[抵抗器|主抵抗器]]は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした<ref name="rp491-17"/>。{{-}} |
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同時に、冷房装置を、床置タイプから天井に取付ける[[分散式冷房装置|屋根上分散式]]に変更した。 |
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==== 台車 ==== |
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この他、御殿場線乗り入れの関係で、[[自動列車停止装置#ATS-S|ATS-S]]や[[信号炎管]]などの新設、歯車比の変更(3.71→4.21)、車輪径の変更(840mm→860mm)が行われ、車内では[[車内販売|喫茶カウンター]]の客席からの分離および男性用小便所が新設された。 |
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曲線の多い[[小田急小田原線|小田急線]]の軌道条件から<ref name="rp546-83"/>、「曲線通過を容易にできる」<ref name="rp546-83"/>「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」<ref name="rp546-83"/>「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」<ref name="rp546-83"/>「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」<ref name="rp546-83"/> という利点を考慮し、各車体の連結部直下に台車の回転を支える心皿を置く、連接構造が採用された<ref name="rp546-83"/>。このため台車数は1編成8車体で9台、5車体で6台となっている。 |
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通常のボギー車では台車と車体を結ぶ配線の接続の端子として「つなぎ箱」と呼ばれる機器を車体側に設けている<ref name="rp789-55"/> が、SE車では「つなぎ箱」を台車側に設置し<ref name="rp789-55"/>、台車と車体を結ぶ配線の接続だけではなく<ref name="rp789-55"/>、車両間の引き通し線もこの「つなぎ箱」を経由することとした<ref name="rp789-55"/>。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用され<ref name="2009-a-145146"/>、小田急の特急車両の大きな特徴となった<ref name="1985-k-24"/>。 |
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なお、改造後の各車両の自重、最大長および定員は次の通りである。 |
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* 1号車:28.32t・16,150mm・52名 |
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* 2号車:19.08t・12,700mm・44名 |
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* 3号車:18.60t・12,700mm・36名 |
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* 4号車:19.09t・12,700mm・38名 |
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* 5号車:28.38t・16,150mm・52名 |
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* 合 計:113.47t・70,400mm・222名 |
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[[ファイル:Truck-KD17.jpg|thumb|right|電動台車 KD17]] |
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== 廃車・保存 == |
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台車そのものは、振動特性の研究結果から[[鉄道車両の台車史#スイス|円筒案内式(シュリーレン)台車]]が松平より推奨された<ref name="1994-u-76"/><ref name="2012-u-111"/>。このため、軽量化を目的としてこの方式を採用することになり<ref name="2009-a-154"/>、開発元の[[スイス車両エレベーター製造]](SWS)社と技術提携しシュリーレン台車の設計製造を行っていた[[近畿車輛]]が設計製造を担当することとなった<ref name="rp546-83"/>。 |
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[[File:Ticket Romancecar Sagami2 B-Car.jpg|thumb|220px|2編成を連結した運転の際には、券面に編成を区別するための記号が記された(「B」は『B編成』の意味)]] |
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[[ファイル:Model 3000 SE of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|220px|海老名電車基地にて保存されている3000形(新宿方・SEデザイン復元)]] |
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[[ファイル:Model 3000 SSE of Odakyu Electric Railway.JPG|thumb|220px|海老名電車基地に保存されている3000形(小田原方・SSEデザイン)]] |
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SSEとなった後は、連絡急行「[[あさぎり (列車)|あさぎり]]」の他、小田急線内特急にも充当されていた。小田急線内では、多客時に2編成を連結した運転も行われ、その際には編成を区別するため『A編成』と『B編成』と呼称し、乗客が乗り間違えないように工夫された。また、最終期に「あさぎり」でも[[修学旅行]]を中心とした[[団体専用列車|団体客]]があったことから2編成を連結した運転も実施された(冒頭の画像)。 |
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近畿車輛のシュリーレン台車は、本形式の設計時点では[[1954年]]に[[近畿日本鉄道]](近鉄)[[近鉄大阪線|大阪線]]向け[[WN駆動方式|WNドライブ]]試作車の[[近鉄モ1450形電車|モ1450形モ1451]]用KD6・モ1452用KD7、それに同[[近鉄名古屋線|名古屋線]]向け[[直角カルダン駆動方式|直角カルダン]]試作車の[[伊勢電気鉄道ハ451形電車#デハニ201形・デハニ211形|モニ6211]]用KD8の3種が試作された<ref name="rp569-228229"/> 後、同じ1954年に製作された[[西日本鉄道]]のカルダン駆動試験車である[[九州鉄道100形電車|100形]]モ103・モ106用KD9<ref name="dynamics-248"/> および[[奈良電気鉄道]]の特急車である[[奈良電気鉄道デハボ1200形電車|デハボ1200形]]用KD10<ref name="dynamics-248"/> を皮切りに、親会社の近鉄をはじめ近畿車輛が車両を納品していた私鉄各社への納入が開始されたばかりであった。 |
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[[1980年]](昭和55年)に[[小田急7000形電車|7000形LSE]]が就役開始し、[[1983年]](昭和58年)に4編成が揃うと、小田急は余剰となる本形式を経年の順に淘汰し、その後御殿場線乗り入れ専用車を新造して残り全車を置き換える計画を立てた。 |
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本形式に採用された台車は、KD17(電動台車。[[ホイールベース|軸距]]2,200mm)<ref name="1985-k-147"/> とKD18(付随台車。軸距2,000mm)<ref name="1985-k-147"/> の2種で、いずれも車輪径840mm、枕ばねをコイルばねとする金属[[ばね]]台車である<ref name="1985-k-147"/>。これらは各台車の重量を3[[トン|t]]台に収めることを目標として設計された<ref name="arc1-115"/>。保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし<ref name="arc1-115"/>、6つに分けられた[[溶接]]鋼板の組み立てによる箱型とする<ref name="arc1-115"/> などの設計の工夫によりKD17は3.8t、KD18は3.6tに重量を抑えた<ref name="arc1-115"/>。また、SE車では定員の130%として荷重を計算した<ref name="arc1-66"/> ことからばね定数を低く設定し、各ばねを柔らかくすることが可能になった<ref name="arc1-66"/>。なお、各台車の荷重は心皿と左右の側受でそれぞれ50パーセントずつ負担する<ref name="arc1-115"/> 3点支持方式<ref group="注">従来の鉄道車両では側受に数ミリの隙間を設け、荷重の全てを原則的に心皿が負担する方式が用いられていた。しかし軽量化の観点からは、左右の枕ばねに近い側受で荷重を常時負担する方が揺れ枕など心皿周辺の各部材断面の縮小が図れて有利であった。</ref><ref name="handbook-106"/> が採用されている。また、付随台車であるKD18は編成の連接部3箇所<ref name="2009-a-158"/><ref group="注">2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。</ref> に装着されている。 |
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その計画に従い、第1編成(3001F)は廃車となり、そのまま大井川鉄道に譲渡され([[#大井川鉄道での動態保存|大井川鉄道での動態保存]]参照)、狭軌最高速度のレコードホルダーであった第2編成(3011F)も廃車解体されたが、その頃には乗り入れ先の国鉄において、長年の慢性赤字による[[国鉄分割民営化|国鉄改革]]の議論が台頭しつつあったことから、本系列を1対1で代替する御殿場線乗り入れ専用車の新造は困難な状況となっていた。 |
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しかし、このKD17・KD18は揺れ枕を吊り下げるスイングハンガー(吊りリンク)が短いため左右剛性が硬く<ref name="rp679-135"/>、また揺動周期も短くなるため高速域での左右振動性能に難があったという<ref name="rp679-135"/>。この時期の近畿車輛製シュリーレン台車は短リンク式と称する、揺れ枕の横動を許容するためにスイングハンガーをリンク長の短いユニバーサルリンク(自在吊りリンク)<ref name="rp569-229"/> とした機構を1956年設計の近鉄[[近鉄800系電車|800系]]用KD12で採用しており<ref name="KANSAI31-84"/>、本形式の装着するKD17・KD18もこれに準じる。もっとも、この設計は翌1958年に設計された近鉄名古屋線用[[近鉄特急|特急]]車の[[近鉄6431系電車|6431系]]が装着したKD28・KD28Aで横動を重視して吊りリンク長を長くした長リンク式が実用化され、さらに枕ばねにベローズ式空気ばねの採用が開始されたことで飛躍的な揺動特性の改善が実現した<ref name="rf580-129"/> ため、極めて短期間で著しく陳腐化する結果となった。 |
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このため、社内でも反対論が根強く存在していたが、車齢25年を越えた本形式を更新修繕して、当面の間引き続き連絡急行運用に充当することとなった。 |
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==== 空調装置 ==== |
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これに伴い、残された4編成<ref>3021F・3031F・3041F・3051F。</ref>は、冷房時の外気遮断効果の向上のために側窓の固定化・冷房装置カバーの[[繊維強化プラスチック|FRP]]化・座席モケットの変更<ref>7000形に準じた色調に変更。</ref>・天井や内張りなどの張り替え・乗降扉の電磁ロック装置設置・[[幌]]を7000形と同様のものへの交換などといった近代化工事が行われた。 |
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[[エア・コンディショナー|空調装置]]は、実車完成までに解決できなかった問題である<ref name="rp546-83"/>。 |
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当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、鉄道車両向けで小型軽量のユニット式冷房装置はまだ開発されておらず、[[冷凍機]]を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された<ref name="rp546-83"/>。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであった<ref name="rp546-83"/> が、業者に確認してみると小田原で大量の氷を確保することは困難であった<ref name="rp789-52"/> ことから、設計に至らなかった<ref name="rp789-52"/>。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討された<ref name="rp546-83"/> が、車体表面近くでは相対的な速度が小さく<ref name="rp546-83"/>、パイプを伸ばせば[[車両限界]]に抵触する<ref name="rp546-83"/> ため、これも実現しなかった<ref name="2009-a-162"/>。 |
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その後、国鉄が分割民営化され、JRとなると、小田急は、御殿場線を管理する[[東海旅客鉄道]](JR東海)との協議により、「あさぎり」の[[沼津駅]]までの乗り入れ延長と相互乗り入れ化、および両者で共通性を持たせた特急車両([[小田急20000形電車|20000形RSE]]・JR東海[[JR東海371系電車|371系]])を新造することが決定し、この20000形RSEの就役開始により、本形式は全車廃車されることとなった。 |
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開発に携わった山村秀幸(元小田急電鉄副社長)は最後まで冷房搭載にこだわっていた<ref name="2009-a-162"/> が、結局、重量面の問題もあり<ref name="arc1-118"/>、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され<ref name="rf422-49"/>、運転時間が短いこともあって<ref name="arc1-118"/>、当面は直径16インチのファンデリア<ref name="arc1-116"/> を先頭車に6台・中間車に5台設置することになった<ref name="1994-u-127"/>。 |
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こうして[[1991年]]([[平成]]3年)[[3月15日]]、「あさぎり8号」(御殿場駅→小田急線新宿駅)をもって本形式による定期運用が終了し、さらに翌年[[1992年]](平成4年)[[3月8日]]の検査期限切れ直前に、新宿駅 - [[唐木田駅]]間にて「さようなら3000形走行会」が実施され、本形式は全車廃車となった。 |
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==== 補助警報装置 ==== |
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その後、3031F・3041F・3051Fの3編成は解体されたが、残存各編成中で最若番であった3021Fについては<!--、重要文化財に匹敵する--><!--極めて主観的な表現のためコメントアウト。技術的な重要度に関しては論者により見解が分かれるところであり、「重要文化財に匹敵」というのは余りに勇み足が過ぎます-->歴史的・技術資料的価値が認められ、保存の処置が取られた。 |
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補助警報音については、「アメリカや[[南満洲鉄道|満鉄]]の機関車が鐘を鳴らして走るのは、驚かすためではなく、遠くから列車の進来を知らせる、いわば"良い"汽笛である」ということから<ref name="2012-u-114"/>、これをさらに音楽的にしようではないかと研究されたものであり<ref name="2012-u-114"/>、「警報装置としての条件を満足させる」という[[運輸省]]の要求<ref name="rp546-84"/> と、「[[騒音]][[公害]]にならないように」と要求する[[警視庁]]の要望<ref name="rp546-84"/> を両立させるため、小田急沿線在住の[[音楽家]]である[[黛敏郎]]にも相談<ref name="2009-a-173"/>、音響心理学研究所の指導を得た上で<ref name="2009-a-173"/>[[ビブラフォン]]の音色とし<ref name="2009-a-173"/>、2km付近まで達する音量とした<ref name="arc1-117"/>。補助警報音を発する装置は、乗務員室内に設けられた再生装置<ref name="arc1-66"/> によってエンドレス[[磁気テープ|テープ]]を再生し<ref name="arc1-66"/>、屋根上に設置した指向性の強いスピーカー<ref name="arc1-66"/> から放送する仕組みである<ref name="arc1-66"/><ref name="2012-u-114"/>。しかし、営業運行後にエンドレステープが伸びたり切れてしまうことが多かった<ref name="rp789-57"/> ため、NSE車以降は[[トランジスタ]]発振器に変更された<ref name="rp491-21"/>。 |
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この補助警報音は、SE車が「[[オルゴール]]電車」と呼ばれる由来となった<ref name="2005-u-87"/>。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された<ref name="rp829-190"/>。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している<ref name="rp829-190"/>。 |
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[[ファイル:OER Romancecar SE Conservation.jpg|thumb|right|220px|海老名電車基地にある保存庫と3000形「SE」]] |
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こうして3021Fは5両編成のうち新宿方2両は、登場時(SE)の形態および塗装に復元、残る3両も整備を実施し、[[1993年]](平成5年)[[3月20日]]より[[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|海老名電車基地]]にて、[[静態保存]]となった。保存庫は屋根付きで、空気流通用[[換気扇]]まで設けられており、15年以上経た現在も保存車両は内外ともに非常に良い状態が保たれている。 |
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==== その他機器 ==== |
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なお、同編成は毎年10月に実施される[[ファミリー鉄道展]]で、保存庫の一般公開が行われ、車内見学も可能である。また、2007年度(平成19年度)のファミリー鉄道展では、保存後初めて屋外に出されて展示された。 |
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{{Double image aside|right|OER-SE3000-inside-cab.jpg|180|OER SE3000 Pantograph PT42-K.jpg|180|乗務員室(1968年の改造後のため登場当時とは異なる)|集電装置 PT42-K}} |
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乗務員室は前後方向に2,450mmとなっており<ref name="2005-u-84"/>、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである<ref name="2005-u-84"/>。前面計器板上には、万一の事故で正面ガラスが割れた際に運転士を守るために<ref name="rp789-61"/> [[防弾ガラス]]を設置した<ref name="rp789-61"/>。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした<ref name="arc1-116"/>。 |
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[[集電装置]](パンタグラフ)についても、「重くて丈夫なもので、ばねをたくさんつけて架線に圧着させる」という考えがそれまでの常識であった<ref name="2009-a-152"/> が、研究所の「パンタグラフは軽くなくてはいけない。追従性を増すにはばねを柔らかくすることで解決可能」という意見により軽量化が図られた<ref name="2009-a-152"/>。パンタグラフは付加抵抗が20%増にもなる<ref name="rf375-94"/> ため、[[境界層]]の厚くなる列車の中央部に近づけた<ref name="rf375-94"/> 結果、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に<ref name="rp491-24"/>、高速運転時の追従性を向上させた東洋電機製造PT42-K[[集電装置#菱形|菱枠パンタグラフ]]を各1基ずつ設置した<ref name="rp546-190"/>。 |
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== 大井川鉄道での動態保存 == |
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1980年代に廃車された2編成のうち、第1編成の3001Fは、[[1983年]]([[昭和]]58年)[[4月]]に大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ動態保存のために譲渡された。 |
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[[File:Oigawa3000 19841104.jpg|thumb|left|220px|大井川鉄道・新金谷駅にて、1984年撮影]] |
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譲渡にあたっては、3両編成への短縮も検討されたが、技術的な問題で断念<ref>3両編成に短縮すると編成で客用扉が片側で一カ所となるため、客扱い上支障になると判断された。</ref>し、5両編成のままで譲渡された。譲渡後、小田急時代は騒音問題から使用が中止されていた[[警笛#ミュージックホーン|メロディホーン]]を復活させたほか、[[車内販売|喫茶カウンター]]はそのまま残され、[[緑茶]]の販売が行われた。<ref>『[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]』No.267 交友社 1983年7月号 46 - 47頁 大井川鉄道に小田急電鉄のSE車登場 を参考。</ref>また電動車の記号は「デハ」から「モハ」に改められた。 |
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補助電源装置については、二相交流6kVA・[[直流]]35kWの複流式[[電動発電機]](MG)であるCLG-314形<ref name="rp491-17"/> と、[[三相交流]]18kVAのMGであるCLG-315形<ref name="rp491-17"/> をそれぞれ2台ずつ採用<ref name="rp491-17"/>、両先頭車に各1台ずつ搭載した<ref name="rp491-24"/>。 |
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大井川鉄道では[[大井川鐵道大井川本線|大井川本線]]にて[[急行列車|電車急行]]運用(列車名は「おおいがわ」・「あゆの里」)に就いていたが、当初危惧されたように5両編成では輸送力が過剰であったことや、固定編成のしかも連接車であったため、定期検査時に通常の車両とは比較にならないほどの手間を要したこと、経年劣化で冷房装置が不調気味であったことが重なり、さらには[[1984年]](昭和59年)から大井川本線で開始された[[ワンマン運転]]化に構造上対応が困難であったため、年数が経つにつれて運用の機会が減少してゆき、譲渡から僅か5年後の[[1988年]](昭和63年)には運用から外された<ref> 千頭駅のSL資料館の説明文より </ref>。その後は[[千頭駅]]に留置されていたが、長らく放置されたため車体が大幅に腐食してしまい、[[1993年]](平成5年)[[3月31日]]に解体処分された<ref>元来歴史的車両の動態保存のモデルケースとして譲受したものであったため、小田急電鉄にて第3編成(3021F)の保存が決定されるまで解体に踏み切れなかったとされる。(参考文献4・5)</ref>。 |
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[[圧縮機|電動空気圧縮機]](CP)は、低床化に対応したM-20-D形を採用<ref name="rp491-17"/>、1・3・6・8号車に搭載した<ref name="rp491-24"/>。{{-}} |
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現在では車体こそ現存しないものの、内外装の一部が千頭駅のSL資料館に保存・展示されている。 |
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== 沿革 == |
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=== 運用開始 === |
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[[1957年]]5月20日に日本車輌製造(東京支店)製の3001×8が入線<ref name="arc1-65"/>、同年6月上旬には日本車輌製造(東京支店)製の3021×8が入線した<ref name="arc1-65"/>。同年6月から小田急線内での試運転を開始し<ref name="arc1-65"/>、小田急線内では127km/hという速度を記録した<ref name="rp546-86"/> が、曲線の多い小田急線の軌道条件ではこれが限界であった<ref name="2009-a-188"/>。このため、小田急と研究所は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた<ref name="rp546-86"/>。なお、ディスクブレーキの容量不足によってディスクに熱亀裂の発生が認められた<ref name="rp789-56"/> ことから、ディスクブレーキの最大圧力を制限する措置がとられている<ref name="rp789-56"/>。 |
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また、SE車の完成後にスペインから日本へタルゴの売り込みがあり<ref name="2009-a-140"/>、小田急にも訪れた<ref name="2009-a-140"/>。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した<ref name="2009-a-140"/>{{refnest|group="注"|山本利三郎は「経堂工場でSE車を見せたら、なかなか離れなかった」と回想している<ref name="2009-a-140"/>。}}。商談は成立しなかった<ref name="2009-a-140"/> が、6月26日・27日に行われた展示会の席上では、当時研究所長だった[[篠原武司]]が「タルゴの開発に携わったホセ・ルイス・オリオールが『実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ』という感想を述べた」と発言している<ref name="arc1-113"/>。また、この時の雑誌ではSE車に対して「日本製タルゴ」という表現も使用された<ref name="arc1-112"/>。 |
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「[[電車]]といえば四角い箱」であった時代において、SE車は[[鉄道ファン]]だけではなく一般利用者からも注目を集めた<ref name="korotan290"/>。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始された<ref name="2012-u-37"/><ref name="arc1-65"/>が、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり<ref name="1981-u-17"/>、前評判を聞いた利用者が殺到し<ref name="1981-u-17"/><ref name="2012-u-37"/>、連日満席となる好成績となった<ref name="1981-u-17"/>。箱根湯本駅前には「祝 超特急車運転開始」という歓迎アーチが立てられた<ref name="2009-a-189"/>。 |
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ただ、狭い経堂工場には8両連接車のSE車が全て同時に入場することはできなかった<ref name="arc2-11"/><ref group="注" name="経堂工場"/>。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離しできない<ref name="2009-a-205"/> ため、経堂工場の構内留置線にリフティング[[ジャッキ]]が設置された<ref name="2009-a-204"/>。さらに、通常のボギー車であれば車内床に設置された点検蓋を開くことで台車と車体を結ぶ配線の接続や分離を行うことが可能である<ref name="rp789-55"/> が、SE車では配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた<ref name="2009-a-205"/>。低床構造のため床下が狭く<ref name="rp789-55"/>、床下作業は困難で<ref name="rp789-55"/>、主電動機の送風ダクトに至っては手探りでボルトを脱着する有様であった<ref name="rp789-55"/>。ようやく分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという<ref name="2009-a-205"/><ref group="注" name="狭い経堂工場"/>。隣接する経堂検車区でも、SE車の検査のためにピット線を延長することとなった<ref name="rp789-53"/> が、延長された部分は庫外である上に曲線にかかっていた<ref name="rp789-53"/>。また、制御装置の点検も車両側面から行うことは出来ず<ref name="rp789-56"/>、床下に潜り込まなければ目視点検さえ出来なかった<ref name="rp789-56"/>。 |
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=== 狭軌世界最高速度記録 === |
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==== 国鉄線上での試験 ==== |
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折りしも研究所では1957年5月30日に研究所創立50周年を記念して[[銀座]][[ヤマハホール|山葉ホール]]にて「[[東京 - 大阪間3時間への可能性]]」という講演会を開いていた<ref name="2012-u-37"/><ref name="2009-a-93"/>が、この講演は大きな反響を呼び<ref name="2012-u-37"/><ref name="2000-t-162"/>、[[朝日新聞社]]が後援していた関係から国電の中吊り広告にも掲載され<ref name="2009-a-97"/>、新聞・雑誌などでも取り上げられていた<ref name="2000-t-162"/>。既に、国鉄では後に[[新幹線]]となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである<ref name="2000-t-161"/>。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった<ref name="2000-t-162"/>。 |
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山本はこの年の7月2日に<ref name="2000-t-160"/>、国鉄に技師長として復職していた島に対して<ref name="2000-t-160"/>、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として<ref name="2009-a-188"/>、「東海道本線を貸してもらえないだろうか」と<ref name="2009-a-188"/> SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた<ref name="2000-t-160"/>。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と<ref name="2000-t-161"/>、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した<ref name="2000-t-160-161"/>{{refnest|group="注"|山本からの提案に対する島の答えは「やろうじゃないか」だったという<ref name="2009-a-188"/>。}}。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである<ref name="2000-t-161"/>。島は国鉄側の責任者として副技師長の石原米彦を指名<ref name="2009-a-188"/>、石原は「絶対に145km/h以上出さないこと」を条件に受諾した<ref name="2009-a-188"/>。 |
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この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」<ref name="2009-a-189"/>「ライバル路線の私鉄電車を国鉄線で試験するなど論外」<ref name="RRR-29"/> といった反対意見が出た。当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式(動力集中方式)に対する「信仰」が根強く残っていた<ref name="2000-t-161"/> が、分散動力方式の支持者からも「国鉄の面子が立たない」という反対意見が多かった<ref name="2009-a-189"/>。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという<ref name="2009-a-190"/>。 |
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一方、SE車は「車両として」日本で初めての[[鉄道車両#導入方法|信託車両]]であり<ref name="SUMITOMO50th">住友信託銀行『住友信託銀行五十年史』p.1014。</ref><ref name="arc1-113"/>、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった<ref name="1994-u-79"/> ため、「[[国鉄80系電車|80系電車]]のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった<ref name="2009-a-190"/>。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった<ref name="1994-u-79"/>。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急[[社長]]の[[安藤楢六]]と[[日本国有鉄道#歴代の国鉄総裁|国鉄総裁]]の[[十河信二]]との間で、SE車の貸借について契約が行われ<ref name="1994-u-79"/>、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した<ref name="2009-a-191"/>。 |
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こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行うという、日本の鉄道史上で初めてとなる<ref name="rp546-86"/> 国鉄・私鉄合同の試験が行われることになった<ref name="rp546-86"/>{{#tag:ref|国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行ったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でLSE車を使用した走行試験の事例があるのみである<ref name="1985-u-123"/>。|group="注"}}。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった<ref name="jden-38"/>。 |
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前記に「車両として」と記載したのは、日本国内で初めての信託車両は、[[帝都高速度交通営団]](営団地下鉄)[[営団1700形電車#1700形|1700形]]である<ref name="SUMITOMO50th"/>。同形式の三菱電機製の主電動機、制御装置、空気ブレーキ装置などの主要電機品(約1億2,300万円相当)は、営団地下鉄の購入品ではなく三井信託銀行からの信託車両とした<ref name="Marunouchi-Const1-33">帝都高速度交通営団「東京地下鉄道丸ノ内線建設史(上巻)」pp.174 - 175。</ref>。同時期に小田急もSE車を住友信託銀行との車両信託に付しているが、営団地下鉄1700形はSE車よりも4日早く契約しており、日本国内の鉄道車両では初めての信託車両である<ref name="SUMITOMO50th"/>。ただし、機器を含めた「鉄道車両」の車両信託は、SE車が日本国内で初めてである<ref name="SUMITOMO50th"/>。 |
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==== 記録達成 ==== |
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試験では[[粘着式鉄道#粘着現象|輪重]]・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の[[離線]]・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定が行われることとなり<ref name="rp491-24"/>、測定機器は国鉄で使用している最新の機器が使用された<ref name="2009-a-193"/>。風圧分布測定を行うためにSE車の正面10数箇所に1mm径の穴を開け<ref name="rf375-94"/>、そこからゴム管で[[真空計|マノメータ]]に接続した<ref name="rf375-94"/>。また、車体表面の風圧については屋根に節型[[ピトー管]]を設置した<ref name="rf375-94"/>。また、架線の状態監視には国鉄の走行試験では初めて工業用テレビが使用された<ref name="2009-a-193"/>。試験区間は、この当時に保線関係の新技術をテストする「モデル線」として整備されていた<ref name="rj319-112"/>[[藤沢駅|藤沢]]から[[平塚駅|平塚]]までの下り線を使用することになった<ref name="1999-s-90"/>。[[辻堂駅]]構内には渡り線の[[分岐器]]が存在した<ref name="1999-s-90"/> が、輪重抜けの危険を考慮して試験前に撤去された<ref name="1999-s-90"/>。 |
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川崎車輛製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず<ref name="1981-u-17"/>、1957年9月19日に小田原から自力走行で[[東海道本線]]に入線し<ref name="1987-y-99"/>、翌日の9月20日から試験が開始された<ref name="2009-a-193"/>。初日は藤沢と平塚の間で日中に試験が行われ<ref name="arc1-65"/>、9月21日からは[[大船駅|大船]]と平塚の間で深夜に速度試験が行われた<ref name="arc1-65"/>。試験では、最初は95km/hで走行し、その後5km/hずつ速度を高くしていった<ref name="rj319-112"/>。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録<ref name="rp546-86"/>{{#tag:ref|それまでの国鉄線上での最高速度記録は、1954年12月に[[国鉄C62形蒸気機関車|C62形蒸気機関車17号機]]が東海道本線[[木曽川橋梁 (東海道本線)|木曽川橋梁]]上で記録した129km/hで<ref name="1984-e-12"/>、この時のSE車の記録はC62形17号機の記録をも上回る。|group="注"}}、さらに9月26日午前3時34分30秒には、当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した<ref name="rp546-86"/><ref name="2012-u-154"/>。この時には報道関係者も同乗しており<ref name="2009-a-193"/>、[[朝日新聞]]や[[毎日新聞]]では9月26日の夕刊で「東京と大阪を結ぶ特急電車計画の見通しがついた」と報道している<ref name="2009-a-193194"/>。 |
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しかし、SE車の設計最高速度は145km/hであり、試験の関係者は「一度は最高速度を出したい」と考えた<ref name="2009-a-14"/>。このため、翌日の[[9月27日]]からは、試験の区間をさらに長い直線区間があり<ref name="rj319-112"/>、緩い下り勾配となっている[[函南駅|函南]]と[[沼津駅|沼津]]の間に移し<ref name="2009-a-14"/>、日中に試験が行われた<ref name="rp546-86"/>。この日は午前11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された<ref name="1987-y-87"/>。函南を午後1時50分に発車したSE車は[[三島駅|三島]]を100km/hで通過した後も加速を続け<ref name="1994-u-79"/>、午後1時57分に145km/hに達した<ref name="2009-a-15"/>。この瞬間に、9月26日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録が達成された<ref name="1987-y-87"/>{{#tag:ref|国鉄側の責任者だった石原は、沼津到着後に車両を点検する山本と三木の姿を「子供が入学試験に通った時のような顔をしていた」と回想している<ref name="2009-a-198"/>。|group="注"}}。この時、沼津で停止できなかった場合に備えて次の[[原駅 (静岡県)|原]]<ref group="注">当時は[[片浜駅]]は未開業。</ref> まで線路を空けており<ref name="2009-a-16"/>、沼津では停止時に車両の横揺れがあってもプラットホームに接触しないように縁石を一部撤去していた<ref name="2009-a-16"/> が、いずれも杞憂に終わっている<ref name="2009-a-16"/>。 |
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なお、9月26日までの走行試験のデータを検討した結果「150km/h程度までは問題ない」という結論に達していた<ref name="rf375-95"/> ことから、150km/hまで速度を上げようという意見もあった<ref name="rf375-95"/> が、石原の「日本の動力分散化の成否に関わっている問題であり、何か故障が起きたら困る。ここまで行けば十分成功」という考えにより<ref name="2009-a-198"/>、150km/hでの走行試験は実施されずに終わっている<ref name="2009-a-198"/>。 |
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==== 新幹線開発へ ==== |
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この高速試験で得られたデータは、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった<ref name="rp546-86"/>。車輪横圧はそれまでの車両では4[[トン|t]]だったのに対して最大でも2.5tという結果となり<ref name="1994-u-79"/>、[[脱線係数]]も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された<ref name="1994-u-79"/>。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていた<ref name="1994-u-79"/> ものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された<ref name="1994-u-79"/>。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた<ref name="1994-u-79"/>。これらのデータは、その後の車両・軌道・架線などの設計や保守に役立った<ref name="1999-s-90"/>。 |
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SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証され<ref name="rp546-86"/>、「東海道本線を広軌や標準軌の別線にすれば最高速度250km/hも可能」との裏付けが作られた<ref name="rf375-96"/>。島は後年、この試験については「国鉄内部に対する[[プロパガンダ]]であった」と述べており<ref name="2000-t-161"/>、国鉄側の責任者だった石原も、この試験について「将来は新幹線のようなものを電車でできると思い、これの成否のもとになると考えていた」と述べ<ref name="2009-a-198"/>、この高速試験が新幹線計画への布石だったことを認めている<ref name="2009-a-198"/>。また、車体設計に携わった三木も、後年「飛行機の設計をいかに鉄道に応用するかを研究し、まずSE車を設計、それから新幹線の設計に取り組んだ」と述べ<ref name="2009-a-69"/>、SE車が新幹線の先駆けとなった存在であることを認めている<ref name="2009-a-69"/>。 |
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国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行われた[[国鉄101系電車|90系電車(後の101系電車)]]<!--称号規程改正は1959年-->による速度試験の結果を踏まえ<ref name="2009-a-83"/>、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた<ref name="2009-a-84"/>。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した<ref name="2009-a-84"/>。この電車特急のために[[国鉄151系・161系・181系電車|20系電車(後の151系→181系電車)]]の設計が開始され<ref name="2000-t-161"/>、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行われることになり<ref name="2000-t-182"/>、その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた<ref name="2000-t-182"/>。 |
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その後、新幹線の開発は本格化し、1963年には新幹線の[[モデル線]]区間で256km/hの速度記録が樹立された<ref name="rf375-97"/>。三木は、そのモデル線区間での記録について「SE車の試験を元にした計算の通り」としている<ref name="rf375-97"/>。 |
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こうした経緯もあり、SE車は「新幹線のルーツ」<ref name="rf375-96"/> や「超高速鉄道のパイオニア」<ref name="rf375-97"/> とも言われるようになった。 |
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==== 波及効果 ==== |
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[[ファイル:Blue Ribbon Prize 1957 of Japan Railfan Club.JPG|thumb|right|ブルーリボン賞受賞記念プレート]] |
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小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり<ref name="1994-u-79"/>、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった<ref name="1994-u-79"/>。 |
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また、[[鉄道友の会]]ではSE車の世界最高速度記録を契機として<ref name="2009-a-176"/>、1958年より優秀な車両を表彰する制度として[[ブルーリボン賞 (鉄道)|ブルーリボン賞]]を創設した<ref name="BL88-9899"/> が、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため<ref name="BL88-100"/>、SE車に対しては会員投票によることなく<ref name="BL88-100"/>、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された<ref name="BL88-100"/>。{{-}} |
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=== NSE車登場前後 === |
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速度試験は9月28日で終了し<ref name="arc1-65"/>、3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された<ref name="arc1-65"/>。これによって、[[小田急1700形電車|1700形]]は一般車に改造されることになった<ref name="arc1-59"/>。 |
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[[1958年]]7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生<ref name="1994-u-141"/>、この後8月7日までは編成を短縮した3021×5として運行した<ref name="1994-u-141"/>。同年8月には全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し<ref name="rp491-17"/>、あわせて台車のばねも交換された<ref name="rp491-17"/>。 |
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[[1959年]]2月12日には増備車として3031×8が入線し<ref name="2005-u-168"/>、同年2月28日から運行を開始した<ref name="2005-u-168"/>{{refnest|group="注"|竣功届は営業運行開始後の1959年3月2日提出であった<ref name="2005-u-168"/>。}}。3031×8の導入によって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり<ref name="1994-u-83"/>、箱根特急のスピードアップが行われた<ref name="1994-u-83"/>。このため、2300形は[[小田急小田原線#準特急(サービス特急)|準特急]]車に格下げされることになった<ref name="arc1-64"/>。また、SE車はこの年から夏季に運行される[[小田急江ノ島線|江ノ島線]]の特急にも運用されるようになった<ref name="arc1-46"/> ほか、特殊急行「納涼ビール電車」にもSE車が使用された<ref name="arc1-47"/>。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していた<ref name="arc1-80"/> が、[[1962年]]に他車と同様の青色系の表地に戻した<ref name="arc1-80"/>。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行われた<ref name="arc1-80"/>。 |
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一方、1958年以降には他の鉄道事業者で冷房装備の特急形電車の製造が行われていた<ref name="rp491-13"/> ことから、[[1961年]]にはSE車の冷房設置が計画された<ref name="rp491-17"/>。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は車体や車軸の補強工事を伴うなど大改造となるため<ref name="rp491-17"/>、床置き式の冷房装置を搭載することになり<ref name="rp546-190"/>、1962年2月から設置工事が行われた<ref name="rp491-17"/>。搭載する冷房装置は冷凍能力9,000[[カロリー|kcal]]/hのCBU-381形が採用され<ref name="rp546-191"/>、1両に2台ずつ搭載し<ref name="rp546-190"/>、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた<ref name="rp546-191"/>。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去された<ref name="rp546-190"/> が、この時に撤去する座席はトイレ前や売店前・出入り口脇など<ref name="rp491-17"/>、乗客に好まれない座席を優先した<ref name="rp546-190"/>。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し<ref name="rp491-17"/>、編成定員は316名となった<ref name="rp491-17"/>。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG-326形電動発電機(MG)が増設された<ref name="rp546-191"/>。 |
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なお、1961年にはシュリーレン台車を[[小田急2400形電車|2400形(HE車)]]に振り替え<ref name="rp679-135"/>、SE車には[[住友金属工業]]で新しく新造した空気バネ台車を装着するという案もあり<ref name="rp679-135"/>、実際に試験も行われている<ref name="rp679-135"/> が、実現には至っていない<ref name="rp679-135"/>。 |
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[[1963年]]には集電装置の摺り板が[[炭素繊維強化炭素複合材料|カーボン]]からブロイメット{{refnest|group="注"|銅粉末やグラファイトなどを混和焼結して形成される焼結銅合金の一種。日本粉末合金によって1949年に実用化された。カーボンと比較してトロリー線との接触抵抗が小さく熱伝導率も高いため、過大電流の通流時のトロリー線溶断事故抑止に有利という特徴がある<ref name="Broimet"/><ref name="handbook-204"/>。}}に変更された<ref name="rp546-191"/>。また、1966年には[[列車無線]]が新設された<ref name="rp546-191"/>。 |
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1963年には、時代に合わせて室内のデラックス化と冷房化を図る、全面展望を一層進化させるため[[フェッロヴィーエ・デッロ・スタート|イタリア国鉄]]の特急「[[イタリア国鉄ETR300電車|セッテベッロ]]」のような構造にするという構想によって<ref name="2012-u-38"/>[[小田急3100形電車|NSE車]]が登場し<ref name="1981-u-20"/>、その後[[1967年]]に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになる<ref name="1981-u-21"/> と、SE車は江ノ島線の特急「[[えのしま (列車)|えのしま]]」や、[[1966年]]6月に新設された途中駅停車の特急「[[はこね (列車)#沿革|さがみ]]」に運用されるようになった<ref name="rp491-14"/>。 |
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=== 編成短縮 === |
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[[1968年]]に御殿場線が[[鉄道の電化|電化]]されることにともなって<ref name="1985-k-28"/>、[[1955年]]から[[小田急キハ5000形気動車|キハ5000形気動車]]により運行していた<ref name="rp491-14"/> 御殿場線直通の[[ふじさん#御殿場線の電化|特別準急]]を電車に置き換えることになった<ref name="rp491-14"/>。新型電車を製造する案もあったが<ref name="2005-u-92"/>、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することにした<ref name="1985-k-28"/>。SE車は耐用年数を10年として製造された車両で<ref name="rp386-67"/>、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声があがったものの<ref name="2005-u-92"/>、当時は国鉄の[[労働争議|組合闘争]]の激しかった時期で<ref name="arc2-16"/>「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂も聞こえ<ref name="arc2-16"/>、国鉄側も過敏になっていた<ref name="arc2-16"/> ことから、在来車の改造で対応することにした<ref name="2005-u-92"/>。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足する<ref name="rp491-14"/> ため、輸送力の適正化も考えて5両連接車×6編成に組み換えることとした<ref name="rp491-18"/>。 |
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[[ファイル:OER-SE8to5.png|thumb|240px|組成変更の概略図]] |
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改造内容は、まず8両連接車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し<ref name="rp491-18"/>、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した<ref name="rp491-18"/>。不足する先頭車4両は中間車に同一形態の運転台を新設した<ref name="2005-u-92"/>。台車の全数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていない<ref name="rf422-36"/> が、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため<ref name="rp491-18"/>、新形式のサハ3000形となった<ref name="rp491-18"/>。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため<ref name="1985-k-28"/>、歯数比を80:19=4.21に変更し<ref name="1985-k-28"/>、これによって低下する高速性能を補うために<ref name="rp491-18"/> 弱め界磁を3段から4段に変更<ref name="rp491-18"/>、最弱界磁率を50%から40%に変更した<ref name="rp491-18"/>。また、全ての台車について車輪径を840mmから860mmに変更した<ref name="rp546-191"/>。先頭形状は、[[方向幕#ヘッドマーク|愛称表示器]]をNSE車と同様の形態に変更し<ref name="rp491-18"/>、前照灯は愛称表示器の両側に移設した<ref name="rp491-18"/>。また、連結器設置がSE車の国鉄線へ乗り入れの条件とされた<ref name="rp789-61"/> ため、前面の連結器を[[連結器#電気連結器|電気連結器]]付[[連結器#密着連結器|密着連結器]]に変更し<ref name="rp546-191"/>、着脱式の連結器覆いを設置した<ref name="rp491-18"/>。トイレ・化粧室は2号車に<ref name="rp491-18"/>、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた<ref name="rp491-18"/> 上、喫茶カウンターの面積を拡大した<ref name="rp546-191"/>。保安装置については、国鉄の[[自動列車停止装置#B形(軌道電流形)・S形(地上子形)|ATS-S形]]を設置し<ref name="1985-k-28"/>、先頭部に[[信号炎管]]を新設した<ref name="1985-k-28"/>。冷房装置については屋根上設置に変更<ref name="1985-k-28"/>、冷凍能力4,000kcal/hのCU-11形[[集約分散式冷房装置]]を先頭車に6台・中間車に5台設置した<ref name="rp546-191"/>。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された<ref name="rp491-18"/>。 |
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これらの改造は日本車輌製造蕨工場で行われた<ref name="rp491-18"/> が、この組成変更で32両中22両が改番され<ref name="1985-k-28"/>、余剰となった2両は[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった<ref name="1985-k-28"/><ref group="注">台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。</ref>。 |
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こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「[[ふじさん|あさぎり]]」としても運用されるようになり<ref name="rp546-162"/>、編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった<ref name="1981-u-21"/>。この年には[[自動列車停止装置#多変周式信号ATS(多変周式(点制御、連続照査型))|OM-ATS装置]]が設置された<ref name="rp491-18"/>。また、1972年には[[保安ブレーキ]]装置の設置が<ref name="rp546-191"/>、1973年には列車無線装置の更新が行われた<ref name="rp546-191"/>。 |
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{{Triple image|right|Oer300hakone.JPG|165|OER SE3000 Sign-B.jpg|150|Ticket Romancecar Sagami2 B-Car.jpg|150|「重連」で箱根特急に運用されたSE車|2編成を連結した運転の際には、車両側に「B号車」と表示された|2編成を連結した運転の際には、特急券の券面にも編成を区別するための記号として「B」と記された}} |
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その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用された<ref name="rf422-37"/>。NSE車の[[日本の鉄道車両検査|検査]]時にはSE車が箱根特急の運用に入り<ref name="arc2-77"/>、また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行われることもあった<ref name="arc2-77"/>。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまう<ref name="arc2-77"/> ため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別した<ref name="arc2-77"/>。1977年から1980年にかけて内装が更新された<ref name="rp546-191"/>。 |
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しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造された<ref name="rp405-81"/> SE車は老朽化が進んできたことから<ref name="rp405-81"/>、[[1976年]]からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され<ref name="rp405-81"/>、[[1980年]]にはLSE車が登場した<ref name="1987-y-90"/>。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することによる輸送力不足は解消された<ref name="1981-u-123"/>。 |
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{{-}} |
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=== 大井川鉄道への譲渡 === |
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{{Double image aside|right|Oigawa3000 19841104.jpg|180|Oigawa3000-2.jpg|170|新金谷駅に留置されているSE車|大井川を渡るSE車}} |
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その後、LSE車の増備が進んだことから[[1983年]]3月に3001×5が廃車された<ref name="1985-k-28"/>。廃車された3001×5は[[動態保存]]車両として[[大井川鐵道|大井川鉄道(現・大井川鐵道)]]に譲渡されることになった<ref name="1985-k-28"/>。 |
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1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工<ref name="2002-s-160"/>、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で<ref name="2002-s-36"/><ref group="注">これは、小田急側が譲渡条件として提示したもの。大井川鉄道は当初3両連接に改造しての使用を考えていたが、先頭車両に乗客用扉の設置(改造)は小田急側が承服せず、3両連接では中間車の扉片側1箇所のみで営業列車に使用できないため、結局、5両連接のまま導入された。</ref>、1983年8月よりロマンス急行「おおいがわ」として運行を開始した<ref name="2002-s-36"/>。車内では緑茶のサービスも行われた<ref name="2002-s-37"/> が、[[蒸気機関車]]牽引列車の「[[かわね路号]]」ほどの集客ができず<ref name="rp679-195"/>、[[1987年]]7月の[[ダイヤ改正]]以降は運用から外れて[[休車]]となった<ref name="rp546-173"/>。その後まったく利用されないまま<ref name="rp546-173"/>、[[1992年]]3月に廃車となり<ref name="rp679-195"/>、[[1993年]]4月に解体された<ref name="rp679-195"/>。 |
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=== 運用終了まで === |
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一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており<ref name="2005-u-95"/>、継続使用に反対する社内意見もあり<ref name="2005-u-95"/>、[[小田急7000形電車|LSE車]]によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった<ref name="rp546-163"/>。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して<ref name="rp546-163"/>、仕方なく継続使用することになった<ref name="2005-u-95"/>。 |
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[[ファイル:ODAKYU-ROMANCECAR-SSE-3000.jpg|thumb|right|車体修理後、「重連」で「あさぎり」に使用されたSE車]] |
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このため、[[1984年]]から3011×5を除く4編成に対して車体修理が行われた<ref name="2005-u-95"/>。外観上の変化は、側面窓を高さ650mm×幅680mmの固定窓に変更し<ref name="rp546-191"/>、連接部の外幌をLSE車と同様の[[ポリウレタン|ウレタン]]芯形とした点である<ref name="rp546-191"/>。また、屋根上のクーラーキセを[[繊維強化プラスチック|強化プラスチック(FRP)]]製に変更した<ref name="rp546-191"/>。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとした<ref name="rp491-18"/> ほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に<ref name="rp491-18"/>、天井板は白系のクロス模様に変更された<ref name="rp491-18"/>。また、客用扉に電動ロック装置が設置された<ref name="rp546-162"/>。 |
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この時に車体修理対象から外れた3011×5については、他の4編成の更新が終了した後は後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後<ref name="rp546-163"/>、1987年3月27日付で廃車された<ref name="rp491-19"/>。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったこと<ref name="rp491-19"/> から、廃車後もしばらくは[[小田急電鉄の車両検修施設#海老名検車区|海老名検車区]]で保管されていた<ref name="rp491-19"/> が、車両増備に伴う留置線不足などの理由により<ref name="rp515-112"/>[[1989年]]5月に大野工場で解体され<ref name="2005-u-165"/>、保存には至らなかった<ref name="rp515-112"/>。 |
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残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に使用されていたが、1987年に導入された[[小田急10000形電車|HiSE車]]が増備されたため<ref name="rp546-154"/>、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった<ref name="rp546-154"/>。 |
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これより少し遡る[[1988年]]7月、小田急から[[東海旅客鉄道]](JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えを申し入れた<ref name="rj297-35"/>。これをきっかけとして両社の間で[[相互直通運転]]に関する協議が進められることになった<ref name="rj297-35"/>。この中で、2社がそれぞれ新型車両<ref group="注">[[JR東海371系電車]]と[[小田急20000形電車|RSE車]]。</ref> を導入した上で相互直通運転に変更することとなり<ref name="2005-u-50"/>、ようやくSE車の置き換えの方向性が見いだされた。 |
|||
[[1990年]]年末にRSE車が入線し<ref name="rp829-183"/>、[[1991年]]に入ってからは通常の愛称板ではなく「[[さよなら運転]]」のタイトルが入った愛称板も用意された<ref name="rp829-183"/>。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例であり<ref name="rp829-183"/>、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られた<ref name="rp829-183"/>。定期運用最終日である[[1991年]][[3月15日]]の「あさぎり8号」は重連運用となり<ref name="rp829-183"/>、SE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるため<ref name="rp829-183"/>、新宿駅には多くの鉄道ファンが集まった<ref name="rp829-183"/>。 |
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定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていたが<ref name="rp829-183"/>、[[1992年]]3月にさよなら運転が行われた後に全車両が廃車となった<ref name="rp829-183"/>。さよなら運転がおこなわれた[[3月8日]]は、くしくも同日に新幹線初の大幅モデルチェンジである[[新幹線300系電車|300系]]の試乗会もあり、新旧の節目と報じられた<ref name="cho9"/>。 |
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耐用年数を10年として設計された車両であったが、山本の意志に反して35年弱もの長期間にわたって運用されたのである<ref name="rp386-67"/>。 |
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== 保存車両 == |
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{{Double image aside|right|OER 3021 Ebina.jpg|180|OER Romancecar SE Conservation.jpg|180|海老名検車区構内で保存されている3021×5|2007年の「ファミリー鉄道展」での屋外展示のため保存用車庫から引き出されているところ}} |
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当初は保存の計画はなかった<ref name="2009-a-210"/> が、日本の電車の発達史における一大エポックメーカーとして<ref name="rf422-44"/><ref name="2012-u-104"/>、また産業考古学上も重要なものと認められ<ref name="rf422-44"/>、保存の価値が十分にあると認識された<ref name="rf422-44"/> ことから、役員会により1編成を永久保存することが決定した<ref name="1994-u-86"/>。 |
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保存されることになったのは3021×5の編成で<ref name="1994-u-86"/>、新宿側の先頭部分を原型に復元し<ref name="1994-u-86"/>、デハ3021・デハ3022は塗装も変更された<ref name="rp829-8"/>。[[1993年]]3月に復元が完了し<ref name="1994-u-86"/>、同年3月16日に海老名検車区へ輸送され<ref name="1994-u-141"/>、同年3月20日に保存用の車庫に収容された<ref name="2005-u-137"/>。この保存用の車庫は、構内の配置上から軌道敷設が出来ない遊休地があったことから<ref name="2009-a-210"/> これを活用することになり、1億円の予算で新設された<ref name="2009-a-210"/>。収容時には一時的に待避線から仮設線路を接続し<ref name="2009-a-210"/>、関係者が人力でSE車を押して収容した<ref name="2005-u-137"/>。 |
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この5両は「[[小田急ファミリー鉄道展|ファミリー鉄道展]]」等のイベントで展示された<ref name="rp829-8"/>。[[2007年]]10月のファミリー鉄道展では、保存以来初めて屋外展示が行われた<ref name="rp829-235"/>。このほか、1992年11月10日には大野工場の構内にSE車のモニュメントが設置された<ref name="1994-u-141"/>。{{-}} |
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2018年に小田急電鉄から車両基地のスペース確保の観点から中間車両2両の解体が正式に発表され<ref>[https://web.archive.org/web/20180525062618/https://www.odakyu.jp/notice/o5oaa100000194zr-att/o5oaa100000194zy.pdf 一部車両の解体と今後の保存・展示について] - 小田急電鉄 2018年4月27日([[インターネットアーカイブ]])</ref>、サハ3023とデハ3024が2019年8月をもって解体された。残るデハ3021・デハ3022・デハ3025の3両は、[[2021年]][[4月19日]]に開館した[[ロマンスカーミュージアム]]にて展示されている。 |
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また、KD18台車1台がメーカーである近畿車輛へ譲渡され、同社敷地内で[[2022年]]10月より展示。一般公開ではないが隣接する[[片町線|JR学研都市線]]の車窓から見える場所に設置されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.kinkisharyo.co.jp/news/detail.php?seq=262 |title=KD18台車を展示しました。|publisher=近畿車輛 |date=2022-10-06| accessdate=2022-11-17}}</ref>。 |
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== 編成表 == |
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; 凡例 : Mc …[[制御車|制御電動車]]、M …[[動力車|電動車]]、T…[[付随車]]、CON…[[主制御器|制御装置]]、MG…[[電動発電機]]、CP…[[圧縮機|電動空気圧縮機]]、PT…[[集電装置]]<br/>乗 …乗務員室、喫…喫茶コーナー、WC…[[列車便所|トイレ]]・[[洗面器#取付用洗面器|化粧室]] |
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=== 8両連接車時代 === |
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{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |
|||
|- |
|||
|style="border-bottom:solid 3px #A14023; background-color:#ccc;"| |
|||
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;" colspan="24"|{{TrainDirection|[[小田原駅|小田原]]|[[新宿駅|新宿]]}} |
|||
|- |
|||
!号車 |
|||
|colspan="3"| 1 ||colspan="3"| 2 ||colspan="3"| 3 ||colspan="3"| 4 ||colspan="3"| 5 ||colspan="3"| 6 ||colspan="3"| 7 ||colspan="3"| 8 |
|||
|- |
|||
!形式 |
|||
|colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' |
|||
|- |
|||
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|区分 |
|||
|colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M8c ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M7 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M6 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M5 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M4 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M3 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M2 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M1c |
|||
|- |
|||
! rowspan="4"|[[鉄道の車両番号|車両番号]] |
|||
|colspan="3"|'''3008'''||colspan="3"|'''3007'''||colspan="3"|'''3006'''||colspan="3"|'''3005'''||colspan="3"|'''3004'''||colspan="3"|'''3003'''||colspan="3"|'''3002'''||colspan="3"|'''3001''' |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3018'''||colspan="3"|'''3017'''||colspan="3"|'''3016'''||colspan="3"|'''3015'''||colspan="3"|'''3014'''||colspan="3"|'''3013'''||colspan="3"|'''3012'''||colspan="3"|'''3011''' |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3028'''||colspan="3"|'''3027'''||colspan="3"|'''3026'''||colspan="3"|'''3025'''||colspan="3"|'''3024'''||colspan="3"|'''3023'''||colspan="3"|'''3022'''||colspan="3"|'''3021''' |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3038'''||colspan="3"|'''3037'''||colspan="3"|'''3036'''||colspan="3"|'''3035'''||colspan="3"|'''3034'''||colspan="3"|'''3033'''||colspan="3"|'''3032'''||colspan="3"|'''3031''' |
|||
|- |
|||
!搭載機器 |
|||
|colspan="3"| MG,CP ||colspan="3"| CON,PT ||colspan="3"| CP ||colspan="3"| ||colspan="3"| CON ||colspan="3"| CP ||colspan="3"| CON,PT ||colspan="3"| MG,CP |
|||
|- |
|||
!台車形式 |
|||
| KD17 || ||colspan="2"| KD17 || ||colspan="2"| KD18 || ||colspan="2"| KD17 || ||colspan="2"| KD18 || ||colspan="2"| KD17 || ||colspan="2"|KD18|| ||colspan="2"| KD17 || ||colspan="2"| KD17 |
|||
|- |
|||
!style="border-bottom:solid 3px #A14023;"|自重 |
|||
|colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 24.34t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 17.19t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 15.75t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 15.13t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 16.28t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 16.00t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 17.19t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #A14023;"| 24.87t |
|||
|- |
|||
!車内設備 |
|||
|colspan="3"| 乗 ||colspan="3"| WC ||colspan="3"| 喫 ||colspan="3"| ||colspan="3"| ||colspan="3"| 喫 ||colspan="3"| WC ||colspan="3"| 乗 |
|||
|- |
|||
!定員 |
|||
|colspan="3"| 52 ||colspan="3"| 40 ||colspan="3"| 38 ||colspan="3"| 44 ||colspan="3"| 44 ||colspan="3"| 38 ||colspan="3"| 40 ||colspan="3"| 52 |
|||
|} |
|||
=== 5両連接車時代 === |
|||
{| class="wikitable" style="text-align:center; font-size:80%; margin:1em 0em 2em 3em;" |
|||
|- |
|||
|style="border-bottom:solid 3px #A14023; background-color:#ccc;"| |
|||
|style="border-bottom:solid 3px #A14023;" colspan="15"|{{TrainDirection|[[小田原駅|小田原]]|[[新宿駅|新宿]]}} |
|||
|- |
|||
!号車 |
|||
|colspan="3"| 1 ||colspan="3"| 2 ||colspan="3"| 3 ||colspan="3"| 4 ||colspan="3"| 5 |
|||
|- |
|||
!形式 |
|||
|colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''サハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' ||colspan="3"| '''デハ3000''' |
|||
|- |
|||
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|区分 |
|||
|colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M4c ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M3 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| T ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M2 ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| M1c |
|||
|- |
|||
! rowspan="6"|[[鉄道の車両番号|車両番号]]<br/><small>()内は改番前の番号</small> |
|||
|colspan="3"|'''3005'''<br/><small>(3008)</small>||colspan="3"|'''3004'''<br/><small>(3007)</small>||colspan="3"|'''3003'''<br/><small>(3006)</small>||colspan="3"|'''3002'''<br/><small>(3002)</small>||colspan="3"|'''3001'''<br/><small>(3001)</small> |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3015'''<br/><small>(3018)</small>||colspan="3"|'''3014'''<br/><small>(3017)</small>||colspan="3"|'''3013'''<br/><small>(3016)</small>||colspan="3"|'''3012'''<br/><small>(3012)</small>||colspan="3"|'''3011'''<br/><small>(3011)</small> |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3025'''<br/><small>(3028)</small>||colspan="3"|'''3024'''<br/><small>(3027)</small>||colspan="3"|'''3023'''<br/><small>(3026)</small>||colspan="3"|'''3022'''<br/><small>(3022)</small>||colspan="3"|'''3021'''<br/><small>(3021)</small> |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3035'''<br/><small>(3038)</small>||colspan="3"|'''3034'''<br/><small>(3037)</small>||colspan="3"|'''3033'''<br/><small>(3036)</small>||colspan="3"|'''3032'''<br/><small>(3032)</small>||colspan="3"|'''3031'''<br/><small>(3031)</small> |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3045'''<br/><small>(3014)</small>||colspan="3"|'''3044'''<br/><small>(3004)</small>||colspan="3"|'''3043'''<br/><small>(3013)</small>||colspan="3"|'''3042'''<br/><small>(3005)</small>||colspan="3"|'''3041'''<br/><small>(3015)</small> |
|||
|- |
|||
|colspan="3"|'''3055'''<br/><small>(3034)</small>||colspan="3"|'''3054'''<br/><small>(3024)</small>||colspan="3"|'''3053'''<br/><small>(3033)</small>||colspan="3"|'''3052'''<br/><small>(3025)</small>||colspan="3"|'''3051'''<br/><small>(3035)</small> |
|||
|- |
|||
!搭載機器 |
|||
|colspan="3"| MG,CP ||colspan="3"| CON,PT ||colspan="3"| CP ||colspan="3"|CON,PT ||colspan="3"| MG,CP |
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|- |
|||
!台車形式 |
|||
| KD17 || ||colspan="2"| KD17 || ||colspan="2"| KD18 || ||colspan="2"|KD18|| ||colspan="2"| KD17 || ||colspan="2"| KD17 |
|||
|- |
|||
!style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"|自重 |
|||
|colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.385t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 19.094t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 18.597t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 19.078t ||colspan="3" style="border-bottom:solid 3px #7B766A;"| 28.316t |
|||
|- |
|||
!車内設備 |
|||
|colspan="3"| 乗 ||colspan="3"| WC ||colspan="3"| 喫 ||colspan="3"| ||colspan="3"| 乗 |
|||
|- |
|||
!定員 |
|||
|colspan="3"| 52 ||colspan="3"| 38 ||colspan="3"| 36 ||colspan="3"| 44 ||colspan="3"| 52 |
|||
|} |
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== 登場作品 == |
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=== アニメ、及び漫画作品 === |
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・[[終末トレインどこへいく?]] |
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アニメ第12話で登場、5両編成なのと連結器カバーが取り付けられているので車両自体はSSE車であることが確認できる。 |
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うっすらとミュージックホーンも鳴っているがこちらはSE車で使われていた音源だと思われる。 |
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== 歴史 == |
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* [[1957年]][[5月30日]] 第1 - 3編成(3001F・3011F・3021F)車両設計認可。 |
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* 1957年[[6月22日]] 第1・3編成(3001F・3021F)竣工。 |
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* 1957年[[6月27日]] 「3000形SE展示会」を実施。 |
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* 1957年[[7月6日]] 第1・3編成(3001F・3021F)就役。 |
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* 1957年[[8月9日]] 第2編成(3011F)竣工。 |
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* 1957年[[9月20日]] - [[9月28日|28日]] 第2編成(3011F)が[[日本国有鉄道]]へ貸し出される。(9月20日は[[藤沢駅]] - [[平塚駅]]間、[[9月21日]] - [[9月26日|26日]]は[[大船駅]] - 平塚駅間、[[9月27日|27日]] - 28日は[[函南駅]] - [[沼津駅]]間にて運行) |
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* 1957年9月27日 日本国有鉄道[[東海道本線]]函南駅 - 熱海駅間にて、当時の[[狭軌]]世界最高速度、時速145キロを樹立。 |
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* 1957年[[10月1日]] 第2編成(3011F)就役。 |
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* [[1958年]][[1月29日]] 3000形SEが1958年第1回鉄道友の会ブルーリボン賞受賞。 |
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* [[1959年]][[2月18日]] 第4編成(3031F)車両設計認可。 |
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* 1959年[[2月28日]] 第4編成(3031F)就役。 |
|||
* 1959年3月2日 第4編成(3031F)竣工。(関係各所への竣工届の提出が、就役よりも遅かった) |
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* [[1963年]][[3月3日]] 臨時[[スケート]]特急「白銀号」を運行。 |
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* [[1967年]][[7月2日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第2編成(3011F)竣工および就役。 |
|||
* 1967年[[12月2日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第5編成(3041F)竣工。 |
|||
* 1967年[[12月6日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第1編成(3001F)竣工および就役。 |
|||
* 1967年[[12月9日]] 3000形SSE、第5編成(3041F)就役。 |
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* [[1968年]][[3月7日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第4編成(3031F)竣工および就役。 |
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* 1968年[[3月13日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第6編成(3051F)竣工。 |
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* 1968年[[3月19日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事実施。3000形SSE、第3編成(3021F)竣工および就役。 |
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* 1968年[[3月29日]] 3000形SSE、第6編成(3051F)就役。 |
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* 1968年[[3月30日]] 御殿場線乗入用の5両編成化工事にて過剰となった、3003・3023号車が廃車。 |
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* 1968年[[7月1日]] 日本国有鉄道[[御殿場線]]への直通運転開始。 |
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* [[1982年]][[7月25日]] [[向ヶ丘遊園]]でのイベントの関連企画として、[[新宿駅]] - [[向ヶ丘遊園駅]]間で、[[俳優|女優]]の[[伊藤つかさ]]が[[車掌]]となって乗車する団体列車「你好(ニイハオ)つかさ号」が運行される。 |
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* [[1983年]][[3月30日]] 第1編成(3001F)廃車。大井川鉄道(現・大井川鐵道)へ譲渡。 |
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* 1983年4月 大井川鉄道3000形として第1編成(3001F)就役。ロマンス急行「おおいがわ」・「あゆの里」として、[[大井川本線]]にて運行開始。 |
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* 1983年[[7月]] 新宿駅~[[片瀬江ノ島駅]]間で、団体列車「め組EXPRESS」が運行される。 |
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* [[1984年]][[8月9日]] 第5編成(3041F)の車体修繕工事実施。 |
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* 1984年[[10月14日]] 第6編成(3051F)の車体修繕工事実施。 |
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* [[1985年]][[1月17日]] 第4編成(3031F)の車体修繕工事実施。 |
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* 1985年[[3月27日]] 第3編成(3021F)の車体修繕工事実施。 |
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* [[1987年]]3月27日 第2編成(3011F)廃車。 |
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* 1987年[[7月1日]] 1 - 3号車は禁煙車とされる。 |
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* [[1991年]][[3月15日]] 定期列車から退くにあたり、新宿駅にて記念式典挙行。 |
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* [[1992年]][[3月8日]] 新宿駅→[[唐木田駅]]間で、「さようなら3000形走行会」実施。 |
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* 1992年[[3月31日]] 第3 - 6編成(3021F・3031F・3041F・3051F)廃車。 |
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* 1992年[[11月10日]] 大野工場に、3000形SSEの記念モニュメントを設置。 |
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* [[1993年]][[3月9日]] 第3編成(3021F)を大野工場にて[[静態保存]]用工事を実施。うち、新宿方2両が、登場当時のSEの姿に戻される。 |
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* 1993年[[3月16日]] 静態保存用工事を実施した第3編成(3021F)を海老名車両基地に回送。 |
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* 1993年[[3月20日]] 第3編成(3021F)を海老名車両基地内の保管庫へ搬送。静態保存へ。 |
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* 1993年[[3月31日]] 大井川鉄道に譲渡された第1編成(3001F)が廃車される。 |
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* [[2007年]][[10月20日]]・[[10月21日|21日]] [[ファミリー鉄道展|ファミリー鉄道展2007]]の開催に際し、14年ぶりに保存庫より出され、一般公開。 |
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== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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<ref name="108-54-59">[[#竹田108|『鉄道史料』通巻108号 竹田辰男「特集:南海鉄道山手線史の考察」 (2003) pp.54-59]]</ref> |
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<ref name="12-47">[[#SE12|『鉄道のテクノロジー Vol.12―車両技術から鉄道を理解しよう』「歴代小田急ロマンスカーカタログ」 (2011) p.47]]</ref> |
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<ref name="12-49">[[#SE12|『鉄道のテクノロジー Vol.12―車両技術から鉄道を理解しよう』「歴代小田急ロマンスカーカタログ」 (2011) p.49]]</ref> |
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<ref name="2002-s-36">[[#白井2002|白井良和『私鉄の車両14 大井川鉄道』 (2002) p.36]]</ref> |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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=== 書籍 === |
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# 『[[鉄道ピクトリアル]]』 アーカイブスセレクション1 小田急電鉄 1950〜1960 2002年 鉄道図書刊行会 |
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* {{Cite book|和書|author=青田孝|authorlink=|coauthors=|year=2009|title=ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話|publisher=[[交通新聞社]]|series=[[交通新聞社新書]]008|ref=青田2009|id=|isbn=978-4330105093}} |
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# 『鉄道ピクトリアル』 アーカイブスセレクション2 小田急電鉄 1960〜1970 2002年 鉄道図書刊行会 |
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* {{Cite book|和書|author1=碇義朗|authorlink1=碇義朗|authorlink=|coauthors=|year=1993|title=超高速に挑む―新幹線開発に賭けた男たち。|publisher=[[文藝春秋]]|ref=碇1993|id=|isbn=978-4163471907}} |
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# 『[[週刊鉄道データファイル]]』 第100巻 10-14頁 2006年 デアゴスティーニ・ジャパン |
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* {{Cite book|和書|author1=生方良雄|authorlink1=生方良雄|authorlink=|coauthors=[[諸河久]]|year=1981|title=日本の私鉄5 小田急|publisher=[[保育社]]|ref=生方1981|id=0165-508530-7700|isbn=}} |
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# 『週刊鉄道データファイル』 第128巻 128-13頁 2006年 デアゴスティーニ・ジャパン |
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* {{Cite book|和書|author=生方良雄|authorlink=|coauthors=諸河久|year=1985|title=日本の私鉄5 小田急|publisher=保育社|ref=生方1985|id=|isbn=978-4586505302}} |
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# 『鉄道ピクトリアル』 No.436 1984年9月号 <特集> 大井川鉄道 1984年 鉄道図書刊行会 |
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* {{Cite book|和書|author=生方良雄|authorlink=|coauthors=諸河久|year=1988|title=日本の私鉄1 小田急|publisher=保育社|ref=生方1988|id=|isbn=978-4586507689}} |
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# 『私鉄車両編成表93年版』 1993年 ジェー・アール・アール |
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* {{Cite book|和書|author=生方良雄|authorlink=|coauthors=諸河久|year=1994|title=小田急ロマンスカー物語|publisher=保育社|ref=生方1994|id=|isbn=978-4586180295}} |
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* {{Cite book|和書|author=生方良雄|authorlink=|coauthors=諸河久|year=2012|title=小田急ロマンスカー|publisher=[[JTBパブリッシング]]|series=[[JTBキャンブックス]]|ref=生方2012|id=|isbn=978-4533086175}} |
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* {{Cite book|和書|author=生方良雄|authorlink=|coauthors=|year=2000|title=小田急物語|publisher=多摩川新聞社|ref=生方2000|id=|isbn=4924882372}} |
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* {{Cite book|和書|author=生方良雄|authorlink=|coauthors=|year=2005|title=小田急ロマンスカー総覧|publisher=[[大正出版]]|ref=生方2005|id=|isbn=978-4811706559}} |
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* {{Cite book|和書|author=NHKプロジェクトX製作班|authorlink=プロジェクトX〜挑戦者たち〜|coauthors=|year=2003|title=プロジェクトX〜挑戦者たち〜 (2)復活への舞台裏|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|series=NHKライブラリー|ref=X2|id=|isbn=978-4140841709}} |
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* {{Cite book|和書|author=NHKプロジェクトX製作班|authorlink=|coauthors=|year=2003|title=プロジェクトX〜挑戦者たち〜 コミック版 執念が生んだ新幹線 老友90歳・戦闘機が姿を変えた|publisher=[[宙出版]]|series=MISSY COMICS|ref=X2c|id=|isbn=978-4776711308}} |
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* {{Cite book|和書|author=海老原浩一|authorlink=|coauthors=|year=1984|title=新幹線 「夢の超特急」の20年|publisher=[[JTBパブリッシング|日本交通公社]]|ref=海老原1984|id=|isbn=4533004148}} |
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* {{Cite book|和書|author=小山育男|authorlink=|coauthors=諸河久|year=1985|title=私鉄の車両2 小田急|publisher=保育社|ref=小山1985|id=|isbn=978-4586532025}} |
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* {{Cite book|和書|author1=齋藤雅男|authorlink1=齋藤雅男|authorlink=|coauthors=|year=1999|title=驀進 鉄道とともに50年から|publisher=[[鉄道ジャーナル|鉄道ジャーナル社]]|ref=齋藤1999|id=|isbn=4924496014}} |
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* {{Cite book|和書|author=白井良和|authorlink=|coauthors=|year=2002|origyear=1986|title=私鉄の車両14 大井川鉄道|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|edition=復刻版|ref=白井2002|id=|isbn=978-4873662978}} |
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* {{Cite book|和書|author=高橋団吉|authorlink=|coauthors=|year=2000|title=新幹線をつくった男 島秀雄物語|publisher=[[小学館]]|series=Lapita Books|ref=高橋2000|id=|isbn=978-4093410311}} |
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* {{Cite book|和書|editor=鉄道友の会|editor-link=鉄道友の会|authorlink=|coauthors=|year=1988|title=ブルーリボン賞の車両'88|publisher=保育社|series=カラーブックス|ref=BL88|id=|isbn=978-4586507566}} |
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* {{Cite book|和書|author = 鉄道友の会東京支部|authorlink = |coauthors = |year = 1979|title = 私鉄特急全百科|publisher = [[小学館]]|series=コロタン文庫46|ref = コロタン|id = |isbn = 4092810466}} |
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* {{Cite book|和書|author=電気学会通信教育会|authorlink=|coauthors=|year=1962|title=電気学会大学講座 電気鉄道ハンドブック|publisher=[[電気学会]]|ref=handbook|id=|isbn=}} |
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* {{Cite book|和書|author=日本機械学会編|authorlink=|coauthors=|year=1994|title=鉄道車両のダイナミクス 最新の台車テクノロジー|publisher=電気車研究会|ref=dynamics|id=|isbn=978-4885480744}} |
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* {{Cite book|和書|author1=日本車輌製造|authorlink1=日本車輌製造|authorlink=|coauthors=|year=1928|title=日本車輛製品案内 昭和3年(鋼製車輛)|publisher=日本車輌製造|ref=catalog-s3|id=|isbn=}} |
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* {{Cite book|和書|author=日本車輌製造|authorlink=|coauthors=|year=1930|title=日本車輛製品案内 (鋼製車輛)昭和五年版追加補刷 第三輯|publisher=日本車輌製造|ref=catalog-s5|id=|isbn=}} |
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* {{Cite book|和書|author=福原俊一|authorlink=福原俊一 (電車発達史研究家)|coauthors=|year=2008|title=日本の電車物語 新性能電車編 SE車からVVVF電車まで|publisher=[[JTBパブリッシング]]|series=JTBキャンブックス|ref=福原2008|id=|isbn=978-4533069659}} |
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* {{Cite book|和書|editor=吉川文夫|editor-link=吉川文夫|authorlink=|coauthors=|year=1987|title=小田急 車両と駅の60年|publisher=大正出版|ref=吉川1987|id=0025-301310-4487|isbn=}} |
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* {{Cite book|和書|author=|year=2011|month=10|chapter=歴代小田急ロマンスカーカタログ|title=鉄道のテクノロジー Vol.12―車両技術から鉄道を理解しよう|pages=40-79|publisher=[[三栄 (出版社)|三栄書房]]|series=SAN-EI MOOK|ref=SE12|isbn=978-4779613494}} |
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=== 雑誌記事 === |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=1988|month=2|title=小田急ロマンスカーの移り変わり|journal=[[鉄道ピクトリアル]]|issue=491|pages=10-15|publisher=[[電気車研究会]]|ref=生方491}} |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=1991|month=7|title=御殿場線乗り入れ列車の思い出|journal=鉄道ピクトリアル|issue=546|pages=157-163|publisher=電気車研究会|ref=生方546}} |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=1993|month=6|title=小田急3000形SE車の復元に寄せて|journal=[[鉄道ファン (雑誌)|鉄道ファン]]|issue=386|pages=67-69|publisher=[[交友社]]|ref=生方386}} |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=1996|month=6|title=小田急ロマンスカーの思い出|journal=鉄道ファン|issue=422|pages=47-50|publisher=交友社|ref=生方422}} |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=2002|month=9|title=私鉄車両めぐり37 小田急電鉄|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=1|pages=42-71|publisher=電気車研究会|ref=生方a1-1959}} |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=2002|month=9|title=私鉄車両めぐり 小田急電鉄(補遺)|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=1|pages=74-82|publisher=電気車研究会|ref=生方a1-1963}} |
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* {{Cite journal|和書|author=生方良雄|year=2007|month=5|title=SE車とその時代 -技術開発と名車誕生の周辺-|journal=鉄道ピクトリアル|issue=789|pages=49-52|publisher=電気車研究会|ref=生方789}} |
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* {{Cite journal|和書|author=大幡哲海|year=1988|month=2|title=小田急ロマンスカー3000,3100,7000系 車両のあゆみ|journal=鉄道ピクトリアル|issue=491|pages=16-24|publisher=電気車研究会|ref=大幡491}} |
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* {{Cite journal|和書|author=大幡哲海|year=1991|month=7|title=私鉄車両めぐり145 小田急電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|issue=546|pages=175-197|publisher=電気車研究会|ref=大幡546}} |
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* {{Cite journal|和書|author=沖中忠順|year=1995|month=4|title=大好き、近鉄800形を尋ねる|journal=関西の鉄道|issue=31|pages=82-85|publisher=関西鉄道研究会|ref=沖中31}} |
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* {{Cite journal|和書|author=小野田滋|year=1997|month=11|title=鉄道技術者列伝 その11 スピードへの執念 山本利三郎|journal=RRR|issue=54|pages=28-29|publisher=[[鉄道総合技術研究所]]|ref=小野田11}} |
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* {{Cite journal|和書|author=鹿島雅美|year=2009|month=8|title=近鉄特急ものがたり -あれから60年 その2-|journal=鉄道ファン|issue=580|pages=122-129|publisher=交友社|ref=鹿島580}} |
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* {{Cite journal|和書|author=刈田草一|year=1991|month=7|title=小田急電鉄 列車運転の変遷|journal=鉄道ピクトリアル|issue=546|pages=145-156|publisher=電気車研究会|ref=刈田546}} |
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* {{Cite journal|和書|author=川島常雄|year=2007|month=5|title=乗務員から見たSE車 -車掌,運転士として接したSE車の技術-|journal=鉄道ピクトリアル|issue=789|pages=58-62|publisher=電気車研究会|ref=川島789}} |
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* {{Cite journal|和書|author=岸上明彦|year=1991|month=7|title=他社へいった小田急の車両|journal=鉄道ピクトリアル|issue=546|pages=169-174|publisher=電気車研究会|ref=岸上546}} |
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* {{Cite journal|和書|author=岸上明彦|year=1999|month=12|title=他社へ転出した小田急の車両1999年版|journal=鉄道ピクトリアル|issue= 679|pages=194-200|publisher=電気車研究会|ref=岸上679}} |
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* {{Cite journal|和書|author=輿水醇|year=1982|month=6|title=LSEの企画から完成まで|journal=鉄道ピクトリアル|issue=405|pages=81-85|publisher=電気車研究会|ref=輿水405}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=斎藤雅男|year=1993|month=5|title=鉄道とともに50年 (8)|journal=[[鉄道ジャーナル]]|issue=319|pages=110-115|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=斎藤319}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=[[須田寬]]|year=1991|month=7|title=新特急あさぎり 経緯と期待|journal=鉄道ジャーナル|issue=297|pages=34-35|publisher=鉄道ジャーナル社|ref=須田297}} |
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* {{Cite journal|和書|author=竹田辰男|year=2003|month=8|title=特集:南海鉄道山手線史の考察|journal=鉄道史料|issue=108|pages=1-174|publisher=[[鉄道史資料保存会]]|ref=竹田108}} |
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* {{Cite journal|和書|author=中山嘉彦|year=2010|month=1|title=小田急車両 -音と色-|journal=鉄道ピクトリアル|issue=829|pages=189-191|publisher=電気車研究会|ref=中山829}} |
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* {{Cite journal|和書|author=真鍋裕司|year=2007|month=5|title=日本の連接者 -高速鉄道編-|journal=鉄道ピクトリアル|issue=789|pages=20-31|publisher=電気車研究会|ref=真鍋789}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[三木忠直]]|year=1992|month=7|title=小田急3000形SE車設計の追憶|journal=鉄道ファン|issue=375|pages=91-97|publisher=交友社|ref=三木375}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[三木理史]]|year=1992|month=12|title=私鉄車両めぐり148 近畿日本鉄道|journal=鉄道ピクトリアル|issue=569|pages=227-265|publisher=電気車研究会|ref=三木569}} |
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* {{Cite journal|和書|author=[[三宅俊彦]]|year=1987|month=12|title=阪和間所要時間の変遷|journal=鉄道ピクトリアル|issue=488|pages=41-44|publisher=電気車研究会|ref=三宅488}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山岸庸次郎|year=1999|month=12|title=2400形、2600形の記録|journal=鉄道ピクトリアル|issue=679|pages=131-139|publisher=電気車研究会|ref=山岸679}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山岸庸次郎|year=2007|month=5|title=SE車の保守現場 -苦労を重ねた誕生当時の検修作業-|journal=鉄道ピクトリアル|issue=789|pages=53-57|publisher=電気車研究会|ref=山岸789}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山下和幸|year=1982|month=6|title=私鉄車両めぐり122 小田急電鉄|journal=鉄道ピクトリアル|issue=405|pages=169-183|publisher=電気車研究会|ref=山下405}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山下和幸|year=1996|month=6|title=小田急ロマンスカーの足跡|journal=鉄道ファン|issue=422|pages=30-46|publisher=交友社|ref=山下422}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山下和幸|year=2002|month=12|title=私鉄車両めぐり101 小田急電鉄|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=2|pages=59-82|publisher=電気車研究会|ref=山下a2}} |
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* {{Cite journal|和書|author=山村秀幸|year=1991|month=7|title=小田急の車両技術の回顧 SE車|journal=鉄道ピクトリアル|issue=546|pages=82-86|publisher=電気車研究会|ref=山村546}} |
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* {{Cite journal|和書|author=T記者|year=2002|month=9|title=お手並み拝見 見たり・聞いたり・乗ったりの記 小田急SE車|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=1|pages=112-118|publisher=電気車研究会|ref=otenamia1-SE}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=1989|month=8|title=読者短信|journal=鉄道ピクトリアル|issue=515|pages=111-113|publisher=電気車研究会|ref=RP515}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author= |year=1996 |month=5 |title=EXE 115DAYS |journal=[[鉄道ダイヤ情報]] |issue=145 |pages= 14-32 |publisher=[[交通新聞社|弘済出版社]] |ref = DJ145}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=2002|month=9|title=小田急座談 (Part1) 車両編|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=1|pages=6-16|publisher=電気車研究会|ref=zadana1}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=2002|month=9|title=小田急車両アルバム 1950~60|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=1|pages=32-41|publisher=電気車研究会|ref=album1}} |
|||
* {{Cite journal|和書|author=|year=2002|month=9|title=小田急経営工場と1700系電車|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=1|pages=100-103|publisher=電気車研究会|ref=koujou1}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=2002|month=12|title=小田急座談 (Part2) 輸送・運転編|journal=鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション|issue=2|pages=6-20|publisher=電気車研究会|ref=zadana2}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=2010|month=1|title=小田急の保存車両|journal=鉄道ピクトリアル|issue=829|page=8|publisher=電気車研究会|ref=保存829}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=2010|month=1|title=あの日、あの頃 小田急の情景|journal=鉄道ピクトリアル|issue=829|pages=173-183|publisher=電気車研究会|ref=anokoro829}} |
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* {{Cite journal|和書|author=|year=2010|month=1|title=歴代ラインナップで見る小田急ロマンスカー|journal=鉄道ピクトリアル|issue=829|pages=234-235|publisher=電気車研究会|ref=L829}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{Commons|Category:Odakyu 3000 series SE}} |
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* [[ロマンスカー]] |
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* [[鉄道技術研究所]] |
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* [[エレクトロライナー]] |
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* [[新幹線]] |
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* [[箱根登山鉄道モハ2形電車]] |
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[[en:Odakyū 3000 series SE]] |
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[[Category:連接式の鉄道車両]] |
2024年12月9日 (月) 09:48時点における最新版
小田急3000形(初代) Super Express | |
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3000形 “SE” | |
基本情報 | |
運用者 | 小田急電鉄 |
製造所 | 日本車輌製造東京支店蕨工場[1][注 1]・川崎車輛[2] |
製造年 | 1957年 - 1959年 |
製造数 | 32両 |
運用開始 | 1957年7月6日 |
運用終了 | 1992年3月8日 |
主要諸元 | |
編成 |
8両連接車(登場当初) 5両連接車(1968年以降) |
軌間 | 1,067 mm(狭軌) |
電気方式 |
直流1,500V (架空電車線方式) |
最高運転速度 | 110 km/h |
設計最高速度 | 147.5 km/h[5] |
最高速度 | 125 km/h[4] |
起動加速度 | 1.6 km/h/s[4] |
減速度 | 4.15 km/h/s[4] |
編成定員 |
348名(登場当初)[2] 316名(1962年以降)[2] 222名(1968年以降)[3] |
自重 | 編成表を参照 |
編成重量 |
146.75t(登場当初)[7] 159t(1962年以降)[8] 113.47t(1968年以降)[3] |
編成長 |
108.1 m(登場当初)[2] 70.4 m(1968年以降)[3] |
全長 |
15,950 mm[2](先頭車・登場当初) 16,150 mm[3](先頭車・1968年以降) 12,700 mm[2](中間車) |
全幅 |
2,864mm[2][3](先頭車・集電装置付中間車) 2,800mm[2](集電装置無し中間車) |
全高 |
3,450mm[2][3](先頭車・集電装置無し中間車) 4,015 mm[2](集電装置付中間車) |
台車 |
近畿車輛 KD17[4](電動台車) 近畿車輛 KD18[4](付随台車) |
主電動機 | 東洋電機製造 TDK806/1-A[4] |
主電動機出力 | 100kW[4](直巻整流子電動機・端子電圧375V・定格回転数1,800rpm) |
駆動方式 |
中空軸平行カルダン駆動方式 (撓み板継手方式) 東洋電機製造 DND143-SH9921[4] |
歯車比 |
78:21=3.71(登場当初)[4] 80:19=4.21(1968年以降)[3] |
制御方式 | 電動カム軸式抵抗制御 |
制御装置 |
東京芝浦電気 MM-50A[2] 力行…17段 制動…14段 |
制動装置 | 発電制動併用電磁直通制動(HSC-D)[4] |
保安装置 | OM-ATS・ATS-S[6] |
備考 | 設計最高速度は平坦線均衡速度を記述 |
小田急3000形電車(おだきゅう3000がたでんしゃ)は、1957年(昭和32年)から[9]1992年(平成4年)まで[10]小田急電鉄が運用していた特急用車両[10](ロマンスカー)である。本項では大井川鉄道(当時)に譲渡された車両についても記述する。
小田急では、編成表記の際に「新宿寄り先頭車両の車両番号(新宿方の車号)×両数」という表記を使用している[11] 為本項でもそれに倣い、特定の編成を表記する際には「3001×8」「3051×5」のように表記する。また、本項において本形式3000形は「SE車」、3100形は「NSE車」、7000形は「LSE車」、10000形は「HiSE車」、20000形は「RSE車」、50000形は「VSE車」、60000形は「MSE車」、鉄道省・運輸通信省・運輸省および日本国有鉄道が運営していた国有鉄道事業は「国鉄」、鉄道技術研究所は「研究所」、箱根登山鉄道鉄道線(当時)箱根湯本駅へ乗り入れる特急列車については「箱根特急」と表記する。
概要
[編集]東京急行電鉄(大東急)から分離発足した小田急では、新宿と小田原との間を60分で結ぶことを将来目標[12]に設定した「画期的な軽量高性能新特急車」を計画していた[13]。
折りしも国鉄の研究所では航空技術を鉄道に応用した[14]超高速車両の研究が行われていた[15] が、この構想に小田急が着目し、開発に際して日本国有鉄道(国鉄)の鉄道技術研究所より技術協力が得られた[16] ことから、日本の鉄道車両において初の導入となる新技術がいくつか盛り込まれた[17] 車両であり、それらの中には国鉄の新幹線に発展的に引き継がれた技術も存在する[18]。このため、「新幹線のルーツ」[19] や「超高速鉄道のパイオニア」[20] とも言われている。
"Super Express"(略して「SE」)という愛称が設定された[21] が、「SE」という略称には "Super Electric car" という意味も含ませている[18]。その後、小田急ロマンスカーの車両には30000形「EXE(Excellent Express)」を除いて「○SE」という愛称が設定されるようになる。
登場した1957年に行われた東海道本線での高速試験において、当時の狭軌鉄道における世界最高速度記録となる145km/hを樹立[22]、その後の国鉄の電車特急開発にデータを提供した[23]。また、本形式の登場がきっかけとなって[24]鉄道友の会ではブルーリボン賞の制度が創設され[24]、1958年には第1回ブルーリボン賞を授与された[24]。
当初は8両連接車として登場した[22] が、1968年以降は御殿場線乗り入れのため編成を5両連接車に短縮し[25]、"Short Super Express"(略して「SSE」)とも称されるようになった[26]。1991年に20000形(RSE車)が登場するまで運用され[27]、1992年に全車両が廃車となった[10]。
登場の経緯
[編集]小田急の目標
[編集]1948年6月1日に小田急が大東急から分離発足した際に取締役兼運輸担当として就任した[28]山本利三郎は、学生時代にその存在を知って以来連接車に関心を抱き[29]、スペインで開発された連接車であるタルゴの存在を知ってからは「あれを電車でやれないか」と考えていたという[29]。国鉄東京鉄道局に在籍していた1935年には、業務研究資料で「関節式新電車ニ就イテ」と題する構想を出した[30]。これは、「関節車(連接車)を導入することで騒音・動揺・乗り心地を改善した上で、先頭部を流線形にし、駆動方式も吊り掛け駆動方式から改良して騒音を低減した高速電車を東京と沼津の間で走らせる」という内容であった[31]。この発想は当時の国鉄ではまったく受け入れられなかったが[32]、山本はその後も連接車の導入に関心を持ちつづけ[28]、1948年冬には当時まだ新入社員であった生方良雄とともに[33]、当時既に連接車として運用されていた西日本鉄道500形[10] の構造や保守について視察した[33]。
一方、分離発足後の小田急では、戦争で疲弊した輸送施設の復旧と改善を主目的として[12] 設置された輸送改善委員会が[12]、「新宿と小田原を60分で結ぶ」という将来目標を設定した[12]。この目標値は、戦前に阪和電気鉄道[注 2] が阪和天王寺と東和歌山の間61.2kmを45分で結び[34][注 3]、表定速度は81.6 km/hに達していたことを意識したもの[34] で、この表定速度であれば、新宿と小田原の間82.8 km(当時)は60分で走破できると考えたのである[37]。大阪出身である山本は、日ごろから阪和電気鉄道を引き合いに出していたという[34]。この目標は、単に阪和電気鉄道の記録を破ることを目的にしていたわけではなく[34]、速度向上によって車両の回転率を高めることによって経営効率の向上を図ることも目的としていた[38][注 4]。
当時は「高速走行のためには大出力の主電動機を使用して、粘着性能を稼ぐために車体も重く頑丈にする」ということが常識とされていた[40][注 5]。しかし、この時の小田急の経営基盤はまだ脆弱で[12]、スピードアップを目的として施設全般に多額の投資を行うことはできなかった[12]。また、当時導入された国鉄モハ63形の改造車である1800形の乗り心地が悪く、保線部門から「線路を壊す車両」として嫌われたという事実もあった[42][注 6]。このため、軌道や変電所などの投資を極力抑える一方で[12]、車両の高速性能を向上するという方針が立てられた[12]。この方針に従い[12]、軽量・高性能な車両の開発が進められることとなり[12]、研究や試験などを繰り返していた[14]。
1954年に登場した2100形[43] では車体の軽量化が実現[44]、駆動方式についても同年に登場した2200形[14] ではカルダン駆動方式が実用化された[14]。また、この年の9月11日には新型特急車両の開発が正式に決定した[45]。
小田急と国鉄の共同開発へ
[編集]この頃、国鉄でも高速車両の研究を進めていた[14]。1946年には山本の友人である島秀雄が、日本海軍航空技術廠にいた三木忠直や松平精などを研究所に招き[46]、「高速台車振動研究会」を設立して研究を行った[46]。航空技術廠から研究所に移った研究者たちは航空機の技術を導入した鉄道の高速化を研究し[14]、台車の振動問題については、松平の研究によって解決策が見出されつつあった[47][注 7]。
それまでの研究所は、開発よりは試験を行うことが多い研究機関であったが[50]、1949年9月に大塚誠之が所長として着任すると[51]、大塚は研究者に自由な研究を奨励し、研究成果の発表も積極的に行うように指導した[50]。また、外部からの研究受託や設計も積極的に受けるようにした[51]。
この方針を受けて、1953年9月に三木が発表した研究成果の内容は「軽量で低重心の流線形車両であれば、狭軌においても最高160km/h・平均125km/hで走行が可能で、東京と大阪を4時間45分で結ぶことも可能である」というものであった[52]。ただし、この時の想定では、突起物を全て車体内部に取り込むという徹底的な空力設計を採用[53] する一方で、電車方式(動力分散方式)ではなく1,200馬力の電気機関車牽引による7両編成の客車列車(動力集中方式)とする構想であった[54]。
この構想は、国鉄本社から「これは本社が考えるべきことである」と批判を受けた[50] が、運輸省は逆に「研究補助金を出すので申請するように」と通告した[15]。そこで、日本鉄道車両工業協会で研究を受託するために「超高速車両委員会」が発足した[15]。研究を重ねた後の1954年9月には「全長100.9mの7両連接車、自重113.3t、電動機出力は110kWが8台、定員224名、最高速度は150km/h」を目標にした車両構想が打ち出された[15]。
山本はこの研究発表に着目し[15]、1954年10月19日に[55] 研究所に対して「特急車両として世界的水準を抜くものにしたい」[50] と、新型特急車両の企画・設計全般について技術指導を依頼した[47]。
小田急と国鉄は東京と小田原の間で旅客数を争うライバル関係にあり[56]、現実に国鉄80系電車運行に対して小田急が反対していた経緯もあるので[57]、この依頼は非常識にさえ見えた[47]。しかし、この当時、島は桜木町事故の後に国鉄を退職していたものの[47]、腹心の部下だった者を通じた影響力を行使できる立場にあった[47]。国鉄内部でも当時既に高速電車の計画はあったが[47]、大組織の国鉄ではなかなか理解が得られなかった[47]。島は「私鉄が導入して成功すれば、国鉄も高速電車の導入に踏み切るだろう」と考えた[47]。また、研究所側でも「小田急の構想に乗ることで研究成果の確認が可能になる」と考えた[14][注 8]。研究所では小田急の要請に全面的に応じることとし[50]、1954年10月25日から[55] 研究所が小田急の研究を受託するという形式で[14] 新型特急車両の共同開発が開始された[14]。
基本構想
[編集]基本構想の策定を行う研究会は、1954年11月から1955年1月までに合計8回行われた[60][注 9]。1955年1月25日には基本構想が策定された[14] が、この時点では小田急の最長編成は17m車4両編成であったことから[61]、全長70mの5両連接車という内容であった[55]。1955年1月16日には[55] 共同設計者として日本車輌製造・川崎車輛(当時)・近畿車輛・東洋電機製造・東京芝浦電気(当時)・三菱電機が参画し[62]、研究所の指導の下に具体的な設計に入った[62]。小田急では創業当時から電装品は三菱電機[63]、台車は住友金属工業の製品を採用しており[63]、特に三菱グループとは主力取引銀行としての関係もあった[64] が、新型特急車両の設計参画メーカーの決定に際しては純粋に技術的見地から決定され[65]、どうしても優劣がつけがたく決定できない場合に限って[65]、過去の小田急との取引を考慮して決定した[65]。
山本は「1gでも軽い部品を採用する」と公言し[66]、1mあたりの重量を1tとすることを目標として[62]、軽量車両で安全に走行するための条件が徹底的に追及された[16] ほか、将来の格下げを考えずにあくまで特急専用として考えられた[16]。さらに、「特急車は10年もすれば陳腐化する」「丈夫に長く使える車両と考えるから鉄道車両の進歩が遅れる」という山本の考え[10] により、耐用年数は10年と考えることになった[10]。
前頭部の形状の決定に際して、東京大学航空研究所の風洞を使用して[67]、日本の鉄道車両設計の歴史上初めて[67] となる本格的な風洞実験が行われた[67] ほか、ディスクブレーキの試験も行われた[68]。また、高速運転に伴って踏切事故などを防止するために補助警報器(特殊警笛)の現車試験なども行われた[68]。
また、前述の通り、連接車に強い関心を抱いていた[28] 山本の主張によって、新型特急車両には連接構造が採用されることになった[67]。三木は連接車に賛成していた[33] が、研究所では保守上の不便を心配していたという[62]。しかし、山本は「保守・整備は小田急が考えればいい話」と主張し[69]、連接車導入と決まった。この時期の経堂工場は、17.5m車の4両編成すらもまとめて入庫できるような設備ではなかった[70][注 10]ので、小田急社内でも連接車の整備については「経堂工場で整備できるか自信が持てない」という意見があったという[65][注 11]。
開発の停滞と再開
[編集]構想の練り上げと並行して、小田急の社内での意見をまとめた上で設計に反映させるため[72]、社内に車両委員会が設置された[72]。
しかし、それまでの小田急の車両からは飛躍的に突出した構想であったことから[72]、社内の意見をまとめるのに難航した[5]。運転席を低くしたために[5] 運転部門からは「踏切事故の際に運転士の危険度が高い」[5]「運転台からの見通しが悪すぎる」[73] という意見が、また客室床面が低いために[5] 営業部門からは「座席の乗客がホームから見下ろされるためサービス上問題」[5] という意見があったという。必死に説得を続けたものの[73]、「そんな突拍子もない車両は使えない」という運転部門からの反発は大きく[73]、ついに1955年秋には検討を一時棚上げするという事態になった[5]。
ところが、半年後の1956年3月[5]、新宿から貨物線経由で小田原や伊豆方面に向かう準急列車「天城」の運行が国鉄から発表された[5]。この列車の運行によって、小田急の観光輸送への大きな影響が予想されたため[5]、社内は「これに対抗しうる画期的な新特急車の製作を急ぐべし」との意見に統一され[5]、開発は再開された[74]。
1956年5月には仕様が決定し[72]、同年6月末から製作が開始されることになった[72]。当初は前述の通り全長70mの5両連接車で計画されていたが[45]、1957年5月から小田急で全長105mの6両編成による運転が開始されることになっていたため[61]、1956年5月7日に全長108mの8両連接車に計画が変更された[55]。経験・実績に乏しい方式だった[注 12]にもかかわらず8両連接車を採用したのは[22]、当時としては大英断であったと評されている[22]。運転台を2階に上げて展望席を設置する案[76] や、二等車等の優等車両を設ける案もあったが[45]、最終的にはこれらの案は採用されなかった[45]。
車両の調達に際しては、小田急・日本車輌製造・川崎車輛・住友信託銀行の4社で車両信託制度という新しい制度が設けられた[4]。これはアメリカ合衆国のフィラデルフィアプランと呼ばれる制度に倣ったもので[4]、新型特急車両は日本で初めて車両信託制度が適用された車両となった[4]。
こうして、「画期的な軽量高性能新特急車」として登場したのがSE車である。
車両概説
[編集]本節では、登場当時の仕様を基本として、増備途上での変更点を個別に記述する。更新による変更については沿革で後述する。
SE車は8両連接の固定編成で[77]、先頭車が制御電動車、中間車は全て電動車で、形式はいずれもデハ3000形である[78]。編成については、巻末の編成表を参照のこと。なお、閑散期には5両連接車としての運用も可能[12] で、この場合は1・2・3・7・8号車の5両か[12]、1・2・6・7・8号車の5両のいずれかとなる[12] が、5両連接車とした場合は3両目が両側とも電動機を装着しない付随台車となる[12]。ただし、ほとんど編成短縮の機会がない[79] ことから、回路の簡略化を図るため[79]、1959年3月に製造された編成(3031×8)では永久8両連接の回路設定とした[79]。それまでの日本の連接車では車体数に関わらず1編成単位で1つの車両番号であった[45] が、SE車では車体ごとに車両番号を附番している[79]。
車体
[編集]車体については、日本車輌(東京支店)・川崎車輛が担当することになり[62]、研究所側は三木が主任担当者となった[52]。
先頭車は車体長15,750mm[14]・全長15,950mm[80]、中間車は車体長12,300mm[14][81]・全長12,700mm[80]で、車体幅は2,800mm[62]である。
構体
[編集]それまでの特急車両では、格下げを考慮して[82] 車体の強度を定員の250%の荷重として計算していた[12]が、SE車では将来の格下げは考えず[82]、定員の130%として荷重を計算した[79]上で航空機の技術を取り入れ[62]、各部にわたって徹底的な軽量化を図った[12]。
車体構造は強度部材の軽量化のために張殻構造とし[83]、車体外板はそれまでの車両よりも半分近い厚さ1.2mm[62] の耐蝕鋼板を採用し[62]、バックリング防止のため[84] 125mm間隔でリブを入れることによって強度を補う構造とした[12]。この耐蝕鋼板は日本鋼管に開発を依頼した[85] もので、銅とリンを加えたものである[85]。当初計画では車体に軽合金を使用する予定であった[50] が、車両メーカー側で軽合金車両の製造経験がなかったこと[50][注 13] と、価格が高いという理由により[50] 鋼板を使用している。
車体断面は下部を半径4,000mmの緩いカーブで絞り込み[62]、側面上部を4度の傾斜角で内傾させた形状とすることで[62]、横風に対する安定度を確保し[62]、風圧の影響を減少させることを図った[62]。低重心化のため台車間の床面を低くし[62]、軌条上面から床面までの寸法は、台車の上では1,000mm[86] で車体中央部では875mmとなった[86][87]。台枠部は航空機の主翼構造を応用し[85]、それまでの鉄道車両には存在した中梁を廃した[85] 上で、波板が縦方向の圧縮強度も担うようにした[85] ほか、横方向の梁には航空機と同様に重量軽減孔を開けることで軽量化を図った[85]。床板にも航空機の技術を応用し[88]、ハニカム構造が採用された[62]。
こうした工夫の結果、構体重量は従来車が1mあたり500kgだった[12] ものが、SE車では1mあたり370kgにまで軽量化され[12]、2300形が全長70mの4両編成で135t(1mあたり1.93t)であった[89] のに対して、SE車では全長108mの8両連接車でありながら147t(1mあたり1.36t)[89] と、大幅な軽量化を実現した[89]。
なお、製造時にはそれまでの鉄道車両ではあまり行われていなかった[90] 荷重試験が行われ[90]、構体の175箇所に対して[90] ねじれや圧縮などの力を加えた測定が行われた[90]。荷重試験については、島も「国鉄車両の車体構造の設計に役立った」と評価しており[90]、これ以後は国鉄・私鉄を問わず、新設計の車両では必ず荷重試験が行われるようになった[90]。
先頭部
[編集]先頭部の形状は流線形で[12]、模型を作成した上で風洞実験を繰り返し[12]、さらにその結果を基にしてモックアップ(実物大模型)を作成した[12] 上で細部に検討を加えて決定された[12]。これにより、形状抵抗係数は国鉄80系電車の0.64に対して[91]、SE車では0.25にまで減少した[91][注 14]。本来はもう少し上部を絞り込めば空気抵抗が減少するところだった[92] が、当時の日本のガラス製造技術では円錐曲面のガラスが製造できず[92]、円筒曲面ガラスを使用することを前提とした形状になった[92]。
前照灯は日本の鉄道車両では初めてシールドビームが採用された[84] が、当時はまだ鉄道車両用のシールドビームが開発されていなかった[18] ため、自動車用の24V仕様のものを使用した[18]。前照灯の配置は空気抵抗から流線形の頂点に配置するようにしたこと[93] と、左右に分けた場合には「1灯が故障した時に列車の位置が分からなくなる」という理由によって[93]、2灯を前面中央部に並べた[93]。また、対向する列車の運転士にとっては眩し過ぎることから[93]、運転席には足踏み式減光スイッチを設けている[93]。先頭部には異常時に使用する格納式簡易連結器が収納された[12]。
また、先頭下部には車両が空力的に浮き上がらないように[94]、排障器も兼ねたスカートが設置された[95]。3031×8では正面のスカートの開口部が楕円形から真円形に変更されたのが外観上の識別点である[96]。
その他車体構造
[編集]側面客用扉は車体断面に合わせた[12] 高さ1,770mm・幅800mmの手動式[注 15]内開き戸[80] を中間車に1箇所ずつ配置した。扉を内開き戸にしたのは車体を極力平滑にするためで[98]、当時まだプラグドアという発想はなく[99]、航空機と同様の扉を採用すると却って重量が嵩む[99] ことから、この構造が採用された。側面窓は700mm四方の1段上昇窓を、窓柱の幅を300mmとして配置した[80]。乗務員室の扉は高さ1,400mm・幅600mmである[80]。車両間の貫通路は車内の見通しを良くする目的で広幅とし[12]、仕切り扉は一切設けていない[12]。
屋根はファンデリアの外気取り入れ口を設けた二重構造とし[12]、先頭車の最前部には補助警報器のスピーカーを内蔵させた[79]。
塗装デザインについては、「それまでの車両と同じ色で」という意見もあった[100] が、「まったく新しい電車なのだから新しい色にすべきだ」と決まり[101]、小田急の宣伝ポスター作成を手がけたこともある縁で[92]、二紀会の宮永岳彦が色彩設計を担当[21]、バーミリオンオレンジ■を基調にホワイト □・グレー■の帯が入る[21]、警戒色となるような明るい色とした[2]。このデザインは、その後NSE車・LSE車にも継承され[102]、バーミリオンオレンジについてはVSE車・MSE車・EXEα車・GSE車にも継承された[102]。
内装
[編集]車体の節で記述したように車体中央部を低床化しているが、台車上と車両中央部の床の高さの差は客室両端部の通路に傾斜をつけて解決した[103]。座席については、回転式クロスシートを採用し[12]、シートピッチ1,000mmで配置した[80]。この座席は、当時日本航空で運航されていたDC-4型旅客機の座席を参考にし[91]、ねじの頭を削るなど細かいところまで重量軽減にこだわった[104]。軽量化を優先したためリクライニング機構の導入は見送られた[105] ものの、それまでの同種の座席の重量が60kgだったところを33kgにまで軽量化した[91]。座席の回転方法は座席下のペダルを踏み込んでから回転させる方式である[106]。ただし、車端部の座席はスペースに余裕がないことから回転しない[107]。床に段差があることから、段差の上段になる座席では床面から座面の上面までを340mmに[108]、それ以外の座席では床面から座面の上面までを400mmとして[108]、着座位置を極力揃えるようにしている[107]。窓の下には各座席ごとに引き出して使用する折畳みテーブルを設置した[109]。
室内の配色は、天井を白[110]、壁面は明るい色のデコラ張りとして[110]、窓上カーテンキセ上部に赤い帯を入れた[110]。座席は濃い青色の表地を採用した[110]。
3号車の新宿寄り海側出入台脇と6号車の小田原寄り海側出入台脇には喫茶カウンター(売店)を設置した[12]。2号車の新宿寄り海側出入台脇と7号車の小田原寄り海側出入台脇には男女共用和式トイレ・化粧室を配置した[12]。喫茶カウンター・トイレとも、通路を挟んだ反対側は通常の座席である。
客室と乗務員室の仕切り扉は両ヒンジ式で[111]、左右どちら側にでも開けるようにした[111]。これは、乗務員から緊急時の脱出について意見があったため[111] で、運転士が使用する際には乗務員室側から見て左ヒンジ[111]、車掌が使用する際には右ヒンジとして開閉できるようにした[111]。
主要機器
[編集]床下機器配置は、重心の低下を図ったため[112]、それまでの車両での機器配置とは大きく異なるものになった[112]。
速度制御機器
[編集]主電動機と駆動装置は既に中空軸平行カルダン駆動方式で実績のある東洋電機製造が[62]、制御装置は電機メーカー各社の設計入札を行った結果[62] 超多段制御方式では最軽量となった東京芝浦電気(東芝)が[62]、制動装置(ブレーキ)は小田急において採用実績のある三菱電機が[62]、それぞれ担当した。
主電動機は出力100kW(端子電圧375V・定格回転数1,800rpm・最弱界磁率50%)の直流直巻補極付電動機である[2] 東洋電機製造のTDK806/1-A形で[2]、定格速度が高く[113]、高速域からの発電制動を十分に作用させることが可能な特徴を有する[113]。箱根登山鉄道(現・小田急箱根)鉄道線での上り勾配低速運転に対応するため[2]、冷却方式は強制通風式となっている[2]。駆動装置は中空軸平行カルダン駆動方式の東洋電機製造製DND143-SH9921形である[4]。歯数比は78:21=3.71とした[2]。主電動機の最大回転数は4,320rpmで[114]、東洋電機製造では「理論上は4,300rpmで180km/hの速度が可能である」と述べている[114]。
主制御器は、発電制動付電動カム軸式抵抗制御装置であるMM-50A形で[2]、2・5・7号車に搭載された[115]。特急車両であることから起動回数が少なく[113]、起動時の損失以上に回路の簡略化が図れる[2] ことから、直並列制御は行わずに抵抗制御及び界磁制御を行う仕様で[2]、1台で4つの主電動機の制御を行い(1C4M)[2]、主回路接続は4つの電動機を全て直列に接続する方式(永久4S)である[113]。また、全ての主制御器を直列に接続することにより、これを1台の制御器とみなした上で、その「みなし制御器」により12個の主電動機の制御をおこなうことも可能である[2]。制御段数は力行が抵抗制御14段・界磁制御3段[2]、制動は全界磁抵抗制御による14段である[2] が、起動時のショックを防ぐために「捨てノッチ」と呼ばれる低速段が5段設定された[113]。軌条面との空間を確保するため[116]、通常はレールと並行に機器を配置するところを枕木と並行に配置し[116]、台枠横梁の間に機器箱を押し上げた状態で搭載している[116]。
ブレーキは、電空併用[注 16] のHSC-D形[注 17]電磁直通ブレーキで[2]、ブレーキ初速125km/hから600m以内に停車することが可能である[2]。ブレーキ装置についても軽量化が図られ[113]、通常は電動車と付随車の平均で800kgとなるところ[113]、SE車では500kgに抑えている[113]。基礎ブレーキ装置は電動台車がクラスプ式(両抱え式)踏面ブレーキ[117]、付随台車ではシングルディスク式ディスクブレーキである[117]。ディスクブレーキについては研究所から「最高運転速度を上げるためにはディスクブレーキを使うべし」と強い主張があった[103] ために採用された[103] が、これも航空機で採用されていた技術からのもので[91]、ディスクブレーキは日本の鉄道車両では初の採用事例である[18]。なお、設計段階では空力ブレーキも検討されていた[91] が、150km/h以下では効果が少ないため採用には至っていない[91]。
主抵抗器は特殊リボン抵抗体を使用した強制通風式とした[2]。
台車
[編集]曲線の多い小田急線の軌道条件から[62]、「曲線通過を容易にできる」[62]「オーバーハング部分をなくした上で乗り心地を改善できる」[62]「車体支持間隔の短縮により車体剛性を確保できる」[62]「台車配置が平均化されることによって軌道への負担が軽減される」[62] という利点を考慮し、各車体の連結部直下に台車の回転を支える心皿を置く、連接構造が採用された[62]。このため台車数は1編成8車体で9台、5車体で6台となっている。
通常のボギー車では台車と車体を結ぶ配線の接続の端子として「つなぎ箱」と呼ばれる機器を車体側に設けている[116] が、SE車では「つなぎ箱」を台車側に設置し[116]、台車と車体を結ぶ配線の接続だけではなく[116]、車両間の引き通し線もこの「つなぎ箱」を経由することとした[116]。この後、NSE車・LSE車・HiSE車・VSE車でも連接構造が採用され[118]、小田急の特急車両の大きな特徴となった[22]。
台車そのものは、振動特性の研究結果から円筒案内式(シュリーレン)台車が松平より推奨された[99][87]。このため、軽量化を目的としてこの方式を採用することになり[94]、開発元のスイス車両エレベーター製造(SWS)社と技術提携しシュリーレン台車の設計製造を行っていた近畿車輛が設計製造を担当することとなった[62]。
近畿車輛のシュリーレン台車は、本形式の設計時点では1954年に近畿日本鉄道(近鉄)大阪線向けWNドライブ試作車のモ1450形モ1451用KD6・モ1452用KD7、それに同名古屋線向け直角カルダン試作車のモニ6211用KD8の3種が試作された[119] 後、同じ1954年に製作された西日本鉄道のカルダン駆動試験車である100形モ103・モ106用KD9[120] および奈良電気鉄道の特急車であるデハボ1200形用KD10[120] を皮切りに、親会社の近鉄をはじめ近畿車輛が車両を納品していた私鉄各社への納入が開始されたばかりであった。
本形式に採用された台車は、KD17(電動台車。軸距2,200mm)[117] とKD18(付随台車。軸距2,000mm)[117] の2種で、いずれも車輪径840mm、枕ばねをコイルばねとする金属ばね台車である[117]。これらは各台車の重量を3t台に収めることを目標として設計された[114]。保守が容易で磨耗部分が少ないシュリーレン台車の特徴を生かし[114]、6つに分けられた溶接鋼板の組み立てによる箱型とする[114] などの設計の工夫によりKD17は3.8t、KD18は3.6tに重量を抑えた[114]。また、SE車では定員の130%として荷重を計算した[79] ことからばね定数を低く設定し、各ばねを柔らかくすることが可能になった[79]。なお、各台車の荷重は心皿と左右の側受でそれぞれ50パーセントずつ負担する[114] 3点支持方式[注 18][121] が採用されている。また、付随台車であるKD18は編成の連接部3箇所[122][注 19] に装着されている。
しかし、このKD17・KD18は揺れ枕を吊り下げるスイングハンガー(吊りリンク)が短いため左右剛性が硬く[123]、また揺動周期も短くなるため高速域での左右振動性能に難があったという[123]。この時期の近畿車輛製シュリーレン台車は短リンク式と称する、揺れ枕の横動を許容するためにスイングハンガーをリンク長の短いユニバーサルリンク(自在吊りリンク)[124] とした機構を1956年設計の近鉄800系用KD12で採用しており[125]、本形式の装着するKD17・KD18もこれに準じる。もっとも、この設計は翌1958年に設計された近鉄名古屋線用特急車の6431系が装着したKD28・KD28Aで横動を重視して吊りリンク長を長くした長リンク式が実用化され、さらに枕ばねにベローズ式空気ばねの採用が開始されたことで飛躍的な揺動特性の改善が実現した[126] ため、極めて短期間で著しく陳腐化する結果となった。
空調装置
[編集]空調装置は、実車完成までに解決できなかった問題である[62]。
当時、既に他の鉄道事業者においては冷房装置が搭載された車両は存在したが、鉄道車両向けで小型軽量のユニット式冷房装置はまだ開発されておらず、冷凍機を使用した本格的な冷房は重量の問題で搭載が難しいという理由により、研究所からは氷式冷房装置が提案された[62]。これは車両に氷を大量に積載した上で、客室内の空気を通すことで熱交換するものであった[62] が、業者に確認してみると小田原で大量の氷を確保することは困難であった[66] ことから、設計に至らなかった[66]。また、車両側面からパイプで新鮮な外気を取り入れる方法も検討された[62] が、車体表面近くでは相対的な速度が小さく[62]、パイプを伸ばせば車両限界に抵触する[62] ため、これも実現しなかった[127]。
開発に携わった山村秀幸(元小田急電鉄副社長)は最後まで冷房搭載にこだわっていた[127] が、結局、重量面の問題もあり[59]、冷房装置の搭載は座席定員を削減しなければ実現できないと判断され[128]、運転時間が短いこともあって[59]、当面は直径16インチのファンデリア[109] を先頭車に6台・中間車に5台設置することになった[129]。
補助警報装置
[編集]補助警報音については、「アメリカや満鉄の機関車が鐘を鳴らして走るのは、驚かすためではなく、遠くから列車の進来を知らせる、いわば"良い"汽笛である」ということから[130]、これをさらに音楽的にしようではないかと研究されたものであり[130]、「警報装置としての条件を満足させる」という運輸省の要求[72] と、「騒音公害にならないように」と要求する警視庁の要望[72] を両立させるため、小田急沿線在住の音楽家である黛敏郎にも相談[131]、音響心理学研究所の指導を得た上で[131]ビブラフォンの音色とし[131]、2km付近まで達する音量とした[132]。補助警報音を発する装置は、乗務員室内に設けられた再生装置[79] によってエンドレステープを再生し[79]、屋根上に設置した指向性の強いスピーカー[79] から放送する仕組みである[79][130]。しかし、営業運行後にエンドレステープが伸びたり切れてしまうことが多かった[133] ため、NSE車以降はトランジスタ発振器に変更された[134]。
この補助警報音は、SE車が「オルゴール電車」と呼ばれる由来となった[135]。その後、RSE車まで警笛とは別に補助警報装置が搭載された[136]。その後、VSE車では警笛と共用のミュージックホーンとして復活している[136]。
その他機器
[編集]乗務員室は前後方向に2,450mmとなっており[80]、計器板から客室との仕切りの間は1,570mmである[80]。前面計器板上には、万一の事故で正面ガラスが割れた際に運転士を守るために[137] 防弾ガラスを設置した[137]。また、前面下のスカートの開口部からダクトを通じて乗務員室内に外気を導入する構造とした[109]。
集電装置(パンタグラフ)についても、「重くて丈夫なもので、ばねをたくさんつけて架線に圧着させる」という考えがそれまでの常識であった[138] が、研究所の「パンタグラフは軽くなくてはいけない。追従性を増すにはばねを柔らかくすることで解決可能」という意見により軽量化が図られた[138]。パンタグラフは付加抵抗が20%増にもなる[91] ため、境界層の厚くなる列車の中央部に近づけた[91] 結果、2号車の屋根上新宿側車端部と7号車の屋根上小田原側車端部に[115]、高速運転時の追従性を向上させた東洋電機製造PT42-K菱枠パンタグラフを各1基ずつ設置した[77]。
補助電源装置については、二相交流6kVA・直流35kWの複流式電動発電機(MG)であるCLG-314形[2] と、三相交流18kVAのMGであるCLG-315形[2] をそれぞれ2台ずつ採用[2]、両先頭車に各1台ずつ搭載した[115]。
電動空気圧縮機(CP)は、低床化に対応したM-20-D形を採用[2]、1・3・6・8号車に搭載した[115]。
沿革
[編集]運用開始
[編集]1957年5月20日に日本車輌製造(東京支店)製の3001×8が入線[45]、同年6月上旬には日本車輌製造(東京支店)製の3021×8が入線した[45]。同年6月から小田急線内での試運転を開始し[45]、小田急線内では127km/hという速度を記録した[21] が、曲線の多い小田急線の軌道条件ではこれが限界であった[139]。このため、小田急と研究所は「これ以上の高速性能の確認は軌道条件が優れている国鉄の路線上での走行試験によって行う以外に方法はない」という意見で一致していた[21]。なお、ディスクブレーキの容量不足によってディスクに熱亀裂の発生が認められた[140] ことから、ディスクブレーキの最大圧力を制限する措置がとられている[140]。
また、SE車の完成後にスペインから日本へタルゴの売り込みがあり[141]、小田急にも訪れた[141]。この時、小田急側では売り込みにきた担当者をSE車に乗せて歓迎した[141][注 20]。商談は成立しなかった[141] が、6月26日・27日に行われた展示会の席上では、当時研究所長だった篠原武司が「タルゴの開発に携わったホセ・ルイス・オリオールが『実際に乗ってみて150km/hは大丈夫だ』という感想を述べた」と発言している[4]。また、この時の雑誌ではSE車に対して「日本製タルゴ」という表現も使用された[142]。
「電車といえば四角い箱」であった時代において、SE車は鉄道ファンだけではなく一般利用者からも注目を集めた[143]。同年7月6日から箱根特急においてSE車の営業運行が開始された[144][45]が、そのすぐ後に夏休みを迎えたこともあり[9]、前評判を聞いた利用者が殺到し[9][144]、連日満席となる好成績となった[9]。箱根湯本駅前には「祝 超特急車運転開始」という歓迎アーチが立てられた[145]。
ただ、狭い経堂工場には8両連接車のSE車が全て同時に入場することはできなかった[146][注 10]。連接車は車体を持ち上げないと連結部を切り離しできない[147] ため、経堂工場の構内留置線にリフティングジャッキが設置された[148]。さらに、通常のボギー車であれば車内床に設置された点検蓋を開くことで台車と車体を結ぶ配線の接続や分離を行うことが可能である[116] が、SE車では配線の切り離しにも、その前に床下に潜り込んでの作業を強いられた[147]。低床構造のため床下が狭く[116]、床下作業は困難で[116]、主電動機の送風ダクトに至っては手探りでボルトを脱着する有様であった[116]。ようやく分解された編成は、経堂工場の構内に分散して留め置かれていたという[147][注 11]。隣接する経堂検車区でも、SE車の検査のためにピット線を延長することとなった[61] が、延長された部分は庫外である上に曲線にかかっていた[61]。また、制御装置の点検も車両側面から行うことは出来ず[140]、床下に潜り込まなければ目視点検さえ出来なかった[140]。
狭軌世界最高速度記録
[編集]国鉄線上での試験
[編集]折りしも研究所では1957年5月30日に研究所創立50周年を記念して銀座山葉ホールにて「東京 - 大阪間3時間への可能性」という講演会を開いていた[144][149]が、この講演は大きな反響を呼び[144][150]、朝日新聞社が後援していた関係から国電の中吊り広告にも掲載され[151]、新聞・雑誌などでも取り上げられていた[150]。既に、国鉄では後に新幹線となる高速電車列車開発に向けた動きが始まっていたのである[152]。しかも、この講演会で三木が発表した内容は、車体に関してはSE車とほぼ同様の考え方であった[150]。
山本はこの年の7月2日に[67]、国鉄に技師長として復職していた島に対して[67]、試験で収集されたデータを小田急と国鉄の双方で利用することを条件として[139]、「東海道本線を貸してもらえないだろうか」と[139] SE車の国鉄線上での高速試験を申し入れていた[67]。これに対して、島は「国鉄の方から要求して試験することにしたい」と[152]、SE車の国鉄線上での高速試験を快諾した[153][注 21]。試験の本来の目的は基本データの収集であったが、「高速電車列車開発につながるものであればなんでも利用したい」と島は考えたのである[152]。島は国鉄側の責任者として副技師長の石原米彦を指名[139]、石原は「絶対に145km/h以上出さないこと」を条件に受諾した[139]。
この決定には、国鉄部内でも「国鉄が私鉄の車両を借りて高速試験をするとは何事だ」[145]「ライバル路線の私鉄電車を国鉄線で試験するなど論外」[154] といった反対意見が出た。当時の国鉄部内には客車を機関車が牽引する機関車列車方式(動力集中方式)に対する「信仰」が根強く残っていた[152] が、分散動力方式の支持者からも「国鉄の面子が立たない」という反対意見が多かった[145]。最終的には「国鉄が試験車両を作るまで待てない」と押し切るしかなかったという[155]。
一方、SE車は「車両として」日本で初めての信託車両であり[156][4]、最終所有者は支払いが終了するまでは住友信託銀行であった[157] ため、「80系電車のように試験中に燃えてしまったらどうするのか」という声も上がった[155]。また、国鉄線内で事故が発生した場合の責任所在などの問題もあった[157]。それらの問題を解決し、1957年9月に小田急社長の安藤楢六と国鉄総裁の十河信二との間で、SE車の貸借について契約が行われ[157]、高速試験そのものに保険を掛けることで決着した[158]。
こうして、私鉄の車両が国鉄線上で高速試験を行うという、日本の鉄道史上で初めてとなる[21] 国鉄・私鉄合同の試験が行われることになった[21][注 22]。試験の交渉窓口担当者として、山本が陣頭指揮にあたることになった[160]。
前記に「車両として」と記載したのは、日本国内で初めての信託車両は、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)1700形である[156]。同形式の三菱電機製の主電動機、制御装置、空気ブレーキ装置などの主要電機品(約1億2,300万円相当)は、営団地下鉄の購入品ではなく三井信託銀行からの信託車両とした[161]。同時期に小田急もSE車を住友信託銀行との車両信託に付しているが、営団地下鉄1700形はSE車よりも4日早く契約しており、日本国内の鉄道車両では初めての信託車両である[156]。ただし、機器を含めた「鉄道車両」の車両信託は、SE車が日本国内で初めてである[156]。
記録達成
[編集]試験では輪重・車輪横圧・振動・走行抵抗・集電装置の離線・制動距離・風圧・ディスクブレーキの温度・電力消費量などの測定が行われることとなり[115]、測定機器は国鉄で使用している最新の機器が使用された[162]。風圧分布測定を行うためにSE車の正面10数箇所に1mm径の穴を開け[91]、そこからゴム管でマノメータに接続した[91]。また、車体表面の風圧については屋根に節型ピトー管を設置した[91]。また、架線の状態監視には国鉄の走行試験では初めて工業用テレビが使用された[162]。試験区間は、この当時に保線関係の新技術をテストする「モデル線」として整備されていた[163]藤沢から平塚までの下り線を使用することになった[164]。辻堂駅構内には渡り線の分岐器が存在した[164] が、輪重抜けの危険を考慮して試験前に撤去された[164]。
川崎車輛製の3011×8は同年8月8日に小田急線に入線したが、すぐには営業運行には入らず[9]、1957年9月19日に小田原から自力走行で東海道本線に入線し[165]、翌日の9月20日から試験が開始された[162]。初日は藤沢と平塚の間で日中に試験が行われ[45]、9月21日からは大船と平塚の間で深夜に速度試験が行われた[45]。試験では、最初は95km/hで走行し、その後5km/hずつ速度を高くしていった[163]。9月24日深夜には小田急線内での最高速度記録を超える130km/hを記録[21][注 23]、さらに9月26日午前3時34分30秒には、当時の狭軌鉄道における世界最高速度である143km/hを記録した[21][167]。この時には報道関係者も同乗しており[162]、朝日新聞や毎日新聞では9月26日の夕刊で「東京と大阪を結ぶ特急電車計画の見通しがついた」と報道している[168]。
しかし、SE車の設計最高速度は145km/hであり、試験の関係者は「一度は最高速度を出したい」と考えた[169]。このため、翌日の9月27日からは、試験の区間をさらに長い直線区間があり[163]、緩い下り勾配となっている函南と沼津の間に移し[169]、日中に試験が行われた[21]。この日は午前11時ごろから同区間を2往復試験走行した後に最高速度試験が開始された[170]。函南を午後1時50分に発車したSE車は三島を100km/hで通過した後も加速を続け[157]、午後1時57分に145km/hに達した[171]。この瞬間に、9月26日の記録を上回る、狭軌鉄道における世界最高速度記録が達成された[170][注 24]。この時、沼津で停止できなかった場合に備えて次の原[注 25] まで線路を空けており[173]、沼津では停止時に車両の横揺れがあってもプラットホームに接触しないように縁石を一部撤去していた[173] が、いずれも杞憂に終わっている[173]。
なお、9月26日までの走行試験のデータを検討した結果「150km/h程度までは問題ない」という結論に達していた[174] ことから、150km/hまで速度を上げようという意見もあった[174] が、石原の「日本の動力分散化の成否に関わっている問題であり、何か故障が起きたら困る。ここまで行けば十分成功」という考えにより[172]、150km/hでの走行試験は実施されずに終わっている[172]。
新幹線開発へ
[編集]この高速試験で得られたデータは、それまでの研究データの正確さを裏付けるものとなった[21]。車輪横圧はそれまでの車両では4tだったのに対して最大でも2.5tという結果となり[157]、脱線係数も小さかったために速度向上の余地が相当にあると判断された[157]。日本で初の採用事例となったディスクブレーキについては、145km/hから停止までのブレーキの距離は1,000mを超えていた[157] ものの、ブレーキ圧力を上げれば短縮可能と報告された[157]。一方、集電装置の離線率が高くなることについては今後の課題とされた[157]。これらのデータは、その後の車両・軌道・架線などの設計や保守に役立った[164]。
SE車の試験によって、三木の研究成果である「東京と大阪間を4時間半で結ぶ」という可能性は立証され[21]、「東海道本線を広軌や標準軌の別線にすれば最高速度250km/hも可能」との裏付けが作られた[19]。島は後年、この試験については「国鉄内部に対するプロパガンダであった」と述べており[152]、国鉄側の責任者だった石原も、この試験について「将来は新幹線のようなものを電車でできると思い、これの成否のもとになると考えていた」と述べ[172]、この高速試験が新幹線計画への布石だったことを認めている[172]。また、車体設計に携わった三木も、後年「飛行機の設計をいかに鉄道に応用するかを研究し、まずSE車を設計、それから新幹線の設計に取り組んだ」と述べ[175]、SE車が新幹線の先駆けとなった存在であることを認めている[175]。
国鉄内部で設置されていた「電車化調査委員会」において、SE車の速度試験と、翌月に行われた90系電車(後の101系電車)による速度試験の結果を踏まえ[176]、「軽量車両を使用することで、これまでの機関車牽引の特急では実現が困難だった高速サービスが可能」という検討結果がまとめられた[177]。これを受けて、1957年11月12日に東京と大阪の間に電車特急を走らせることが決定した[177]。この電車特急のために20系電車(後の151系→181系電車)の設計が開始され[152]、1959年には完成した151系を使用して新幹線開発のための速度試験とデータ収集が行われることになり[178]、その速度試験では、SE車の記録をさらに更新する163km/hの速度記録が打ち立てられた[178]。
その後、新幹線の開発は本格化し、1963年には新幹線のモデル線区間で256km/hの速度記録が樹立された[20]。三木は、そのモデル線区間での記録について「SE車の試験を元にした計算の通り」としている[20]。
こうした経緯もあり、SE車は「新幹線のルーツ」[19] や「超高速鉄道のパイオニア」[20] とも言われるようになった。
波及効果
[編集]小田急においては、世界最高速度記録がマスコミで大きく取り上げられたこともあり[157]、特急ロマンスカーの利用者数は急増することになった[157]。
また、鉄道友の会ではSE車の世界最高速度記録を契機として[179]、1958年より優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞を創設した[180] が、当時の鉄道友の会理事会がSE車を高く評価していたため[181]、SE車に対しては会員投票によることなく[181]、理事会の決定において第1回ブルーリボン賞が授与された[181]。
NSE車登場前後
[編集]速度試験は9月28日で終了し[45]、3011×8は小田急線内に戻り、10月1日から箱根特急の運用に投入された[45]。これによって、1700形は一般車に改造されることになった[182]。
1958年7月19日、3021×8が走行中にデハ3026の台車からディスクブレーキが脱落する不具合が発生[183]、この後8月7日までは編成を短縮した3021×5として運行した[183]。同年8月には全編成に対して付随車の車軸に設置されたディスクブレーキをツインディスク式に改造し[2]、あわせて台車のばねも交換された[2]。
1959年2月12日には増備車として3031×8が入線し[184]、同年2月28日から運行を開始した[184][注 26]。3031×8の導入によって、箱根特急は全てSE車で運用することが可能となり[110]、箱根特急のスピードアップが行われた[110]。このため、2300形は準特急車に格下げされることになった[185]。また、SE車はこの年から夏季に運行される江ノ島線の特急にも運用されるようになった[186] ほか、特殊急行「納涼ビール電車」にもSE車が使用された[187]。この時期、3031×8については座席の表地を茶色系のチェック模様に変更していた[8] が、1962年に他車と同様の青色系の表地に戻した[8]。また、この時期に座席の背ずり形状などの改修が行われた[8]。
一方、1958年以降には他の鉄道事業者で冷房装備の特急形電車の製造が行われていた[89] ことから、1961年にはSE車の冷房設置が計画された[2]。車体が軽量構造であることから屋根上への冷房搭載工事は車体や車軸の補強工事を伴うなど大改造となるため[2]、床置き式の冷房装置を搭載することになり[77]、1962年2月から設置工事が行われた[2]。搭載する冷房装置は冷凍能力9,000kcal/hのCBU-381形が採用され[27]、1両に2台ずつ搭載し[77]、冷房の設置箇所の側面にはよろい戸状の外気取入口が設けられた[27]。設置に際しては各車両とも2脚ずつ座席が撤去された[77] が、この時に撤去する座席はトイレ前や売店前・出入り口脇など[2]、乗客に好まれない座席を優先した[77]。この改造に伴い、各車両とも定員が4名減少し[2]、編成定員は316名となった[2]。冷房装置の新設に伴い、3号車と6号車に出力60kVAのCLG-326形電動発電機(MG)が増設された[27]。
なお、1961年にはシュリーレン台車を2400形(HE車)に振り替え[123]、SE車には住友金属工業で新しく新造した空気バネ台車を装着するという案もあり[123]、実際に試験も行われている[123] が、実現には至っていない[123]。
1963年には集電装置の摺り板がカーボンからブロイメット[注 27]に変更された[27]。また、1966年には列車無線が新設された[27]。
1963年には、時代に合わせて室内のデラックス化と冷房化を図る、全面展望を一層進化させるためイタリア国鉄の特急「セッテベッロ」のような構造にするという構想によって[190]NSE車が登場し[17]、その後1967年に箱根特急が全てNSE車で運用できるようになる[26] と、SE車は江ノ島線の特急「えのしま」や、1966年6月に新設された途中駅停車の特急「さがみ」に運用されるようになった[191]。
編成短縮
[編集]1968年に御殿場線が電化されることにともなって[25]、1955年からキハ5000形気動車により運行していた[191] 御殿場線直通の特別準急を電車に置き換えることになった[191]。新型電車を製造する案もあったが[192]、SE車を改造の上御殿場線直通列車に使用することにした[25]。SE車は耐用年数を10年として製造された車両で[10]、1968年の時点で既に10年を超えていたことから小田急の社内では反対の声があがったものの[192]、当時は国鉄の組合闘争の激しかった時期で[193]「NSE車が乗り入れてくれば反対する」という噂も聞こえ[193]、国鉄側も過敏になっていた[193] ことから、在来車の改造で対応することにした[192]。しかし、4編成では「えのしま」「さがみ」に加えて御殿場線直通の列車に使用するには編成数が不足する[191] ため、輸送力の適正化も考えて5両連接車×6編成に組み換えることとした[6]。
改造内容は、まず8両連接車の編成から3両を外した5両連接車を4編成組成し[6]、外した中間車を改造して5両連接車を2編成組成した[6]。不足する先頭車4両は中間車に同一形態の運転台を新設した[192]。台車の全数は電動台車24台・付随台車12台で変更されていない[194] が、編成中間の3号車は両端とも付随台車となる車両となるため[6]、新形式のサハ3000形となった[6]。御殿場線の連続勾配区間に対応させるため[25]、歯数比を80:19=4.21に変更し[25]、これによって低下する高速性能を補うために[6] 弱め界磁を3段から4段に変更[6]、最弱界磁率を50%から40%に変更した[6]。また、全ての台車について車輪径を840mmから860mmに変更した[27]。先頭形状は、愛称表示器をNSE車と同様の形態に変更し[6]、前照灯は愛称表示器の両側に移設した[6]。また、連結器設置がSE車の国鉄線へ乗り入れの条件とされた[137] ため、前面の連結器を電気連結器付密着連結器に変更し[27]、着脱式の連結器覆いを設置した[6]。トイレ・化粧室は2号車に[6]、喫茶カウンターは3号車に位置を揃えた[6] 上、喫茶カウンターの面積を拡大した[27]。保安装置については、国鉄のATS-S形を設置し[25]、先頭部に信号炎管を新設した[25]。冷房装置については屋根上設置に変更[25]、冷凍能力4,000kcal/hのCU-11形集約分散式冷房装置を先頭車に6台・中間車に5台設置した[27]。外部塗装デザインについても、NSEに準じたグレー部分の多い塗り分けに変更された[6]。
これらの改造は日本車輌製造蕨工場で行われた[6] が、この組成変更で32両中22両が改番され[25]、余剰となった2両は廃車となった[25][注 28]。
こうして、1968年7月1日からSE車は連絡準急行(1968年10月以降は連絡急行)「あさぎり」としても運用されるようになり[195]、編成が短くなったことから "Short Super Express" (略して「SSE車」)とも称されるようになった[26]。この年にはOM-ATS装置が設置された[6]。また、1972年には保安ブレーキ装置の設置が[27]、1973年には列車無線装置の更新が行われた[27]。
その後、SE車は「さがみ」「えのしま」「あさぎり」を中心に運用された[196]。NSE車の検査時にはSE車が箱根特急の運用に入り[197]、また、多客時には2編成を連結した「重連運転」が行われることもあった[197]。2編成を連結した場合、1号車から5号車が2両ずつになってしまう[197] ため、編成全体を「A号車」「B号車」と呼んで区別した[197]。1977年から1980年にかけて内装が更新された[27]。
しかし、1970年代に入り、もともと耐用年数を10年として製造された[198] SE車は老朽化が進んできたことから[198]、1976年からはSE車の後継車として新型特急車両の研究が開始され[198]、1980年にはLSE車が登場した[199]。LSE車の導入によって、NSE車が検査入場した場合にSE車を箱根特急に使用することによる輸送力不足は解消された[200]。
大井川鉄道への譲渡
[編集]その後、LSE車の増備が進んだことから1983年3月に3001×5が廃車された[25]。廃車された3001×5は動態保存車両として大井川鉄道(現・大井川鐵道)に譲渡されることになった[25]。
1983年4月15日付で大井川鉄道の車両として竣工[201]、電動車の記号が「デハ」から「モハ」に改められた以外はほぼそのままの状態で[202][注 29]、1983年8月よりロマンス急行「おおいがわ」として運行を開始した[202]。車内では緑茶のサービスも行われた[203] が、蒸気機関車牽引列車の「かわね路号」ほどの集客ができず[204]、1987年7月のダイヤ改正以降は運用から外れて休車となった[205]。その後まったく利用されないまま[205]、1992年3月に廃車となり[204]、1993年4月に解体された[204]。
運用終了まで
[編集]一方、小田急に残ったSE車も既に車齢25年を超えており[206]、継続使用に反対する社内意見もあり[206]、LSE車によって「あさぎり」に運用されているSE車を置き換える案もあった[207]。しかし、これも当時の国鉄側の現場の反応などを考慮して[207]、仕方なく継続使用することになった[206]。
このため、1984年から3011×5を除く4編成に対して車体修理が行われた[206]。外観上の変化は、側面窓を高さ650mm×幅680mmの固定窓に変更し[27]、連接部の外幌をLSE車と同様のウレタン芯形とした点である[27]。また、屋根上のクーラーキセを強化プラスチック(FRP)製に変更した[27]。室内については、一部の車両について座席表地をLSE車に準じたオレンジとイエローのツートーンとした[6] ほか、化粧板は木目調から皮絞り模様に[6]、天井板は白系のクロス模様に変更された[6]。また、客用扉に電動ロック装置が設置された[195]。
この時に車体修理対象から外れた3011×5については、他の4編成の更新が終了した後は後は運用には入らずに経堂検車区に留置された後[207]、1987年3月27日付で廃車された[3]。この編成は狭軌世界最高速度記録を樹立した車両であったこと[3] から、廃車後もしばらくは海老名検車区で保管されていた[3] が、車両増備に伴う留置線不足などの理由により[208]1989年5月に大野工場で解体され[209]、保存には至らなかった[208]。
残った4編成については、その後「あさぎり」を中心に使用されていたが、1987年に導入されたHiSE車が増備されたため[210]、1989年7月15日からはSE車の定期運用は「あさぎり」だけとなった[210]。
これより少し遡る1988年7月、小田急から東海旅客鉄道(JR東海)に対して、車齢30年を超えたSE車の置き換えを申し入れた[211]。これをきっかけとして両社の間で相互直通運転に関する協議が進められることになった[211]。この中で、2社がそれぞれ新型車両[注 30] を導入した上で相互直通運転に変更することとなり[212]、ようやくSE車の置き換えの方向性が見いだされた。
1990年年末にRSE車が入線し[213]、1991年に入ってからは通常の愛称板ではなく「さよなら運転」のタイトルが入った愛称板も用意された[213]。本格的な特急車両が格下げされずに運用から外れるのは小田急では事実上初めての事例であり[213]、多くの鉄道ファンが沿線で撮影する姿が見られた[213]。定期運用最終日である1991年3月15日の「あさぎり8号」は重連運用となり[213]、SE車の定期運用最後の列車となる「あさぎり8号」の到着を見届けるため[213]、新宿駅には多くの鉄道ファンが集まった[213]。
定期運用から離脱した後もしばらくは波動輸送用として残されていたが[213]、1992年3月にさよなら運転が行われた後に全車両が廃車となった[213]。さよなら運転がおこなわれた3月8日は、くしくも同日に新幹線初の大幅モデルチェンジである300系の試乗会もあり、新旧の節目と報じられた[214]。
耐用年数を10年として設計された車両であったが、山本の意志に反して35年弱もの長期間にわたって運用されたのである[10]。
保存車両
[編集]当初は保存の計画はなかった[215] が、日本の電車の発達史における一大エポックメーカーとして[216][217]、また産業考古学上も重要なものと認められ[216]、保存の価値が十分にあると認識された[216] ことから、役員会により1編成を永久保存することが決定した[218]。
保存されることになったのは3021×5の編成で[218]、新宿側の先頭部分を原型に復元し[218]、デハ3021・デハ3022は塗装も変更された[219]。1993年3月に復元が完了し[218]、同年3月16日に海老名検車区へ輸送され[183]、同年3月20日に保存用の車庫に収容された[220]。この保存用の車庫は、構内の配置上から軌道敷設が出来ない遊休地があったことから[215] これを活用することになり、1億円の予算で新設された[215]。収容時には一時的に待避線から仮設線路を接続し[215]、関係者が人力でSE車を押して収容した[220]。
この5両は「ファミリー鉄道展」等のイベントで展示された[219]。2007年10月のファミリー鉄道展では、保存以来初めて屋外展示が行われた[221]。このほか、1992年11月10日には大野工場の構内にSE車のモニュメントが設置された[183]。
2018年に小田急電鉄から車両基地のスペース確保の観点から中間車両2両の解体が正式に発表され[222]、サハ3023とデハ3024が2019年8月をもって解体された。残るデハ3021・デハ3022・デハ3025の3両は、2021年4月19日に開館したロマンスカーミュージアムにて展示されている。
また、KD18台車1台がメーカーである近畿車輛へ譲渡され、同社敷地内で2022年10月より展示。一般公開ではないが隣接するJR学研都市線の車窓から見える場所に設置されている[223]。
編成表
[編集]8両連接車時代
[編集]← 小田原 新宿 →
| |||||||||||||||||||||||||
号車 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | |||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
形式 | デハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | |||||||||||||||||
区分 | M8c | M7 | M6 | M5 | M4 | M3 | M2 | M1c | |||||||||||||||||
車両番号 | 3008 | 3007 | 3006 | 3005 | 3004 | 3003 | 3002 | 3001 | |||||||||||||||||
3018 | 3017 | 3016 | 3015 | 3014 | 3013 | 3012 | 3011 | ||||||||||||||||||
3028 | 3027 | 3026 | 3025 | 3024 | 3023 | 3022 | 3021 | ||||||||||||||||||
3038 | 3037 | 3036 | 3035 | 3034 | 3033 | 3032 | 3031 | ||||||||||||||||||
搭載機器 | MG,CP | CON,PT | CP | CON | CP | CON,PT | MG,CP | ||||||||||||||||||
台車形式 | KD17 | KD17 | KD18 | KD17 | KD18 | KD17 | KD18 | KD17 | KD17 | ||||||||||||||||
自重 | 24.34t | 17.19t | 15.75t | 15.13t | 16.28t | 16.00t | 17.19t | 24.87t | |||||||||||||||||
車内設備 | 乗 | WC | 喫 | 喫 | WC | 乗 | |||||||||||||||||||
定員 | 52 | 40 | 38 | 44 | 44 | 38 | 40 | 52 |
5両連接車時代
[編集]← 小田原 新宿 →
| ||||||||||||||||
号車 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | |||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
形式 | デハ3000 | デハ3000 | サハ3000 | デハ3000 | デハ3000 | |||||||||||
区分 | M4c | M3 | T | M2 | M1c | |||||||||||
車両番号 ()内は改番前の番号 |
3005 (3008) |
3004 (3007) |
3003 (3006) |
3002 (3002) |
3001 (3001) | |||||||||||
3015 (3018) |
3014 (3017) |
3013 (3016) |
3012 (3012) |
3011 (3011) | ||||||||||||
3025 (3028) |
3024 (3027) |
3023 (3026) |
3022 (3022) |
3021 (3021) | ||||||||||||
3035 (3038) |
3034 (3037) |
3033 (3036) |
3032 (3032) |
3031 (3031) | ||||||||||||
3045 (3014) |
3044 (3004) |
3043 (3013) |
3042 (3005) |
3041 (3015) | ||||||||||||
3055 (3034) |
3054 (3024) |
3053 (3033) |
3052 (3025) |
3051 (3035) | ||||||||||||
搭載機器 | MG,CP | CON,PT | CP | CON,PT | MG,CP | |||||||||||
台車形式 | KD17 | KD17 | KD18 | KD18 | KD17 | KD17 | ||||||||||
自重 | 28.385t | 19.094t | 18.597t | 19.078t | 28.316t | |||||||||||
車内設備 | 乗 | WC | 喫 | 乗 | ||||||||||||
定員 | 52 | 38 | 36 | 44 | 52 |
登場作品
[編集]アニメ、及び漫画作品
[編集]アニメ第12話で登場、5両編成なのと連結器カバーが取り付けられているので車両自体はSSE車であることが確認できる。 うっすらとミュージックホーンも鳴っているがこちらはSE車で使われていた音源だと思われる。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 蕨製作所、埼玉県川口市。当時の住所は北足立郡芝村。1971年(昭和46年)4月生産終了。
- ^ 現在のJR西日本阪和線・羽衣支線。
- ^ 1933年11月運行開始の、紀勢線に直通する鉄道省制式客車を阪和電気鉄道の電動客車で牽引する南紀直通列車「黒潮号」と、同年12月運行開始の「超特急」での記録。いずれも阪和天王寺 - 東和歌山間ノンストップ運転であった。「黒潮号」は1937年12月1日のダイヤ改正で廃止、「超特急」は1940年12月1日に阪和電気鉄道が南海鉄道へ合併された際にも存続したが、1941年7月1日か同年12月1日のいずれかに実施されたダイヤ改正で廃止となり、この時点で阪和電気鉄道以来の阪和間45分運転は終了したと推定されている[35][36]。
- ^ 具体的には、「新宿から小田原までを60分で走ることによって、1編成が新宿と箱根湯本の間を往復するのに折り返し時間を含めたとしても180分で済み、箱根特急を60分間隔で運行する場合に必要な車両が3編成で済む。新宿から小田原まで60分以上かかると4編成が必要」というものであった[39]。
- ^ 例えば、輸送改善委員会が目標として想定した阪和電気鉄道は、輸入品の100ポンドレール(50 kg/mレール相当)を敷設し、十分な容量の変電所施設や架線設備を用意した上で、1時間定格出力200馬力級 (149.1 kW) 電動機を4基ずつ装架する自重53 t(基幹形式となる3扉ロングシート車であるモタ300形のメーカー実測値[41]。公称自重は47 t - 48.56 t)の超重量級車両を走らせて前述の記録を達成していた。また、阪和電気鉄道のモデルとなった新京阪鉄道も、軌間こそ異なるものの同様の車両・施設で、天神橋 - 京阪京都間42.4 kmを34分で走破する(表定速度74.8 km/h)超特急を同時期に運行していた。なお、同時代における小田急の車両とこれら関西私鉄で用いられていた重量級電車の重量差は公称値でも10 t以上、電動車の出力差は約300馬力に達した[41]。
- ^ 1800形で速度を上げて飛ばしたら、線路の犬釘が抜けてしまったこともあったという[42]。
- ^ しかし、当初は研究所生え抜きの研究者からことごとく否定され、倉庫のような研究室しかあてがわれていなかった[48][49]。
- ^ 島の部下だった星晃は「言葉は悪いが、島は山本の構想を利用したのではないか」と述べている[58] が、一方の山本は、1957年6月に行われた展示会での談話の中で、研究所の支援を受けられたことについて「将来国鉄でも役立つとの考えからであったと思う」と述べている[59]。
- ^ 研究会が行われた時間帯は、就業時間が終了した午後5時から午後8時までで、小田急の担当者はこの研究会を「夜学」と呼んでいた。研究会の一部に参加した生方良雄は「我々が考えてもいない発想をしていると思った。海軍出身の技術者から授業を受けているような雰囲気で、ずいぶん勉強になった」と述べている[60]。
- ^ a b 当時、経堂工場の建物の奥行きは67.5mしかなかった[71]。
- ^ a b 後年、生方良雄は「SE車の8両をよく狭い経堂工場で整備できたものだ」と感想を述べている[70]。
- ^ この時点で日本に存在した高速電気鉄道向け連接車は、1934年に登場した京阪60型、1942年に登場した西鉄500形、1952年に改造によって登場した名鉄2代目400形の3形式しかなく、いずれも2車体か3車体であった[75]。
- ^ 当時の日本で、外板にステンレス板を使用した車両は関門トンネル区間用の国鉄EF10形電気機関車しかなく、日本で初めて電車でステンレス外板を使用した東急5200系電車の登場も小田急SE車登場の翌年であった。日本において、鋼体全てがステンレス鋼というオールステンレス車両や、アルミ軽合金製車両の登場に至っては1960年代に入ってからであった。
- ^ 新幹線0系電車先頭部の形状抵抗係数は0.21である[91]。
- ^ 1700形・2300形の客用扉も、特急専用車だった頃は手動扉であった[97]。
- ^ 発電制動・空気制動を併用するという表記。
- ^ 「ハイスピードコントロール (High Speed Control) ・ダイナミックブレーキ (Dynamic Break) 付」の略である。
- ^ 従来の鉄道車両では側受に数ミリの隙間を設け、荷重の全てを原則的に心皿が負担する方式が用いられていた。しかし軽量化の観点からは、左右の枕ばねに近い側受で荷重を常時負担する方が揺れ枕など心皿周辺の各部材断面の縮小が図れて有利であった。
- ^ 2・3号車の間、4・5号車の間、6・7号車の間。
- ^ 山本利三郎は「経堂工場でSE車を見せたら、なかなか離れなかった」と回想している[141]。
- ^ 山本からの提案に対する島の答えは「やろうじゃないか」だったという[139]。
- ^ 国鉄時代、私鉄の車両が国鉄で走行試験を行ったのは、SE車以外には1982年に東海道本線でLSE車を使用した走行試験の事例があるのみである[159]。
- ^ それまでの国鉄線上での最高速度記録は、1954年12月にC62形蒸気機関車17号機が東海道本線木曽川橋梁上で記録した129km/hで[166]、この時のSE車の記録はC62形17号機の記録をも上回る。
- ^ 国鉄側の責任者だった石原は、沼津到着後に車両を点検する山本と三木の姿を「子供が入学試験に通った時のような顔をしていた」と回想している[172]。
- ^ 当時は片浜駅は未開業。
- ^ 竣功届は営業運行開始後の1959年3月2日提出であった[184]。
- ^ 銅粉末やグラファイトなどを混和焼結して形成される焼結銅合金の一種。日本粉末合金によって1949年に実用化された。カーボンと比較してトロリー線との接触抵抗が小さく熱伝導率も高いため、過大電流の通流時のトロリー線溶断事故抑止に有利という特徴がある[188][189]。
- ^ 台車の数が変わっていないため、廃車になった2両は車体のみの状態。
- ^ これは、小田急側が譲渡条件として提示したもの。大井川鉄道は当初3両連接に改造しての使用を考えていたが、先頭車両に乗客用扉の設置(改造)は小田急側が承服せず、3両連接では中間車の扉片側1箇所のみで営業列車に使用できないため、結局、5両連接のまま導入された。
- ^ JR東海371系電車とRSE車。
出典
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- ^ a b c d e 吉川文夫編『小田急 車両と駅の60年』 (1987) p.88
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- ^ a b c d 『鉄道ファン』通巻375号 三木忠直「小田急3000形SE車設計の追憶」 (1992) p.97
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- ^ 『鉄道史料』通巻108号 竹田辰男「特集:南海鉄道山手線史の考察」 (2003) pp.54-59
- ^ 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.21
- ^ 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.23
- ^ 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.22
- ^ NHKプロジェクトX製作班『プロジェクトX〜挑戦者たち〜 (2)復活への舞台裏』 (2003) p.20
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- ^ 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.130
- ^ 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) pp.130-131
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- ^ NHKプロジェクトX製作班『プロジェクトX〜挑戦者たち〜 コミック版 執念が生んだ新幹線 老友90歳・戦闘機が姿を変えた』 (2003) p.17
- ^ NHKプロジェクトX製作班『プロジェクトX〜挑戦者たち〜 コミック版 執念が生んだ新幹線 老友90歳・戦闘機が姿を変えた』 (2003) p.36
- ^ a b c d e f g h 『鉄道ファン』通巻375号 三木忠直「小田急3000形SE車設計の追憶」 (1992) p.92
- ^ a b 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.67
- ^ a b 高橋団吉『新幹線をつくった男 島秀雄物語』 (2000) p.158
- ^ 青田孝『ゼロ戦から夢の超特急 小田急SE車世界新記録誕生秘話』 (2009) p.66
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参考文献
[編集]書籍
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- 福原俊一『日本の電車物語 新性能電車編 SE車からVVVF電車まで』JTBパブリッシング〈JTBキャンブックス〉、2008年。ISBN 978-4533069659。
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雑誌記事
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- 生方良雄「小田急3000形SE車の復元に寄せて」『鉄道ファン』第386号、交友社、1993年6月、67-69頁。
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- 生方良雄「私鉄車両めぐり37 小田急電鉄」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、42-71頁。
- 生方良雄「私鉄車両めぐり 小田急電鉄(補遺)」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、74-82頁。
- 生方良雄「SE車とその時代 -技術開発と名車誕生の周辺-」『鉄道ピクトリアル』第789号、電気車研究会、2007年5月、49-52頁。
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- 山村秀幸「小田急の車両技術の回顧 SE車」『鉄道ピクトリアル』第546号、電気車研究会、1991年7月、82-86頁。
- T記者「お手並み拝見 見たり・聞いたり・乗ったりの記 小田急SE車」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、112-118頁。
- 「読者短信」『鉄道ピクトリアル』第515号、電気車研究会、1989年8月、111-113頁。
- 「EXE 115DAYS」『鉄道ダイヤ情報』第145号、弘済出版社、1996年5月、14-32頁。
- 「小田急座談 (Part1) 車両編」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、6-16頁。
- 「小田急車両アルバム 1950~60」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、32-41頁。
- 「小田急経営工場と1700系電車」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第1号、電気車研究会、2002年9月、100-103頁。
- 「小田急座談 (Part2) 輸送・運転編」『鉄道ピクトリアル アーカイブスセレクション』第2号、電気車研究会、2002年12月、6-20頁。
- 「小田急の保存車両」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、8頁。
- 「あの日、あの頃 小田急の情景」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、173-183頁。
- 「歴代ラインナップで見る小田急ロマンスカー」『鉄道ピクトリアル』第829号、電気車研究会、2010年1月、234-235頁。
関連項目
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