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大杉勝男の4番、5番の回数及び比率としては
大杉勝男の4番、5番の回数及び比率としては
4番は1087試合(4番比率49%)パ時代は552試合(年間55試合)、セ時代は535試合(年間59試合)
4番は1087試合(4番比率49%)パ時代は552試合(平均55試合)、セ時代は535試合(平均59試合)
5番は645試合(5番比率29%)パ時代は305試合(年間31試合)、セ時代は340試合(年間38試合)
5番は645試合(5番比率29%)パ時代は305試合(平均31試合)、セ時代は340試合(平均38試合)


パ時代の比率は4番46%、5番25% セ時代の比率は4番52%、5番33%と安定した比率で主軸を務め19年に亘ってスラッガーとして活躍し、相手チームから恐れられた。
パ時代の比率は4番46%、5番25% セ時代の比率は4番52%、5番33%と安定した比率で主軸を務め19年に亘ってスラッガーとして活躍し、相手チームから恐れられた。

また、本塁打率は15.9 打点率は0.194と非常に優秀であり、打点率0.194は6000打数以上では王、落合、清原に続いて歴代4位である。また、打率0.287は、7000打数以上の打者では14位(右打者で7位)と非常に良く、打率も高く本塁打も残せ、尚且つ非常に勝負強い、歴代屈指のスラッガーであったことも伺える。


== エピソード ==
== エピソード ==

2012年2月25日 (土) 14:29時点における版

大杉 勝男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 岡山県勝田郡奈義町
生年月日 (1945-03-05) 1945年3月5日
没年月日 (1992-04-30) 1992年4月30日(47歳没)
身長
体重
181 cm
88 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手
プロ入り 1965年
初出場 1965年4月20日
最終出場 1983年9月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
野球殿堂(日本)
殿堂表彰者
選出年 1997年
選出方法 競技者表彰

大杉 勝男(おおすぎ かつお、1945年3月5日 - 1992年4月30日)は、岡山県勝田郡奈義町出身のプロ野球選手内野手)。

来歴・人物

関西高校を卒業後、社会人野球チームの丸井に入るが、入部1年目で野球部が解散。

1965年東映フライヤーズの入団テストを受けたが、球団幹部は獲得に難色を示した。しかし、当時の東映打撃コーチ・藤村富美男が、才能を見出し、「東映が獲らないなら、私が阪神に推薦しますが、それでも良いですか」と、東映の監督・水原茂に問い詰めると、「お前がそこまで言うのだから、さぞ凄い打者なんだろう」と獲得を決意。入団に至った。(大杉勝男のバット人生) 入団1~2年目までは1軍2軍を行ったり来たりであったが、「月に向かって打て」のエピソードで有名な飯島滋弥コーチの指導のもと練習を重ね、1967年よりレギュラーに定着。1968年より6年連続30本塁打1970年からは3年連続40本塁打を放ち、1970年・1971年と2年連続本塁打王に輝く。また、1970年、1972年打点王を獲得している。ただし、72年は本来2冠だった。 1972年7月11日南海戦で大杉は初回に26号を放つものの、降雨コールドゲーム。幻の本塁打となった。最終的に阪急長池に本塁打1本差をつけられ2位。打点は南海・野村と同点1位。2度目の2冠は雨に奪われるという悲惨な結果になってしまった。

1975年、日本ハムファイターズとなったフロントによる東映色を一掃する流れで、ヤクルトスワローズ内田順三小田義人との交換で電撃移籍。一時スランプに陥るが、腕の感覚がなくなるまで素振りを行うなどの猛特訓の末に克服し、1977年には打率.329、31本塁打、104打点という成績を残した。翌1978年も同様の活躍を見せて球団のリーグ初優勝に貢献し、日本シリーズでは第7戦、6回裏に足立光宏からレフトポール際に本塁打を放った。(ただしがんばれ!!タブチくん!!の阪神編では、ボールがレフト外審に当たるという設定に変えられている)が、この判定を巡って阪急ブレーブス上田利治監督が猛抗議。実に、1時間19分も試合が中断するも、結局判定は覆らず、正式に本塁打と認められる。次の打席で山田久志から左中間スタンドに向かって“文句なし”の本塁打を叩き込んで試合を決定づけ、MVPに輝いた。1981年には.343という生涯最高の打率を記録するが、首位打者には及ばなかった。

1983年限りで現役引退。この年の6月3日に前人未踏の両リーグ1000本安打を達成するも、史上初の両リーグ200本塁打には惜しくもあと1本及ばなかった(後に、落合博満が1993年に達成)。通算本塁打はパ・リーグで287本、セ・リーグで199本。引退試合の挨拶で「最後に、わがまま気ままなお願いですが、あと1本と迫っておりました両リーグ200号本塁打、この1本をファンの皆様の夢の中で打たして頂きますれば、これに優る喜びはございません」という言葉を残し、ファンの涙を誘った。また引退会見の席では「さりし夢 神宮の杜に かすみ草」という句を詠んでいる。

引退後、フジテレビ野球解説者1984年から1989年)、その傍らでタレントとしても活躍していた。萩本欽一は番組を通じて大杉のファンとなり、自身がプロデュースする番組の中で「大杉の話を聞くだけ」というコーナーを設けていた。 1990年横浜大洋ホエールズの打撃コーチに就任した。しかし、1991年に癌に罹患していることが判明し、退団。

1992年4月30日肝臓ガンで逝去。逝去当日のプロ野球ニュースにおいては、司会の中井美穂と解説者の大矢明彦(ヤクルト時代の後輩であり、解説者としても特に親交が深かった)は放送中ながら大いに涙にくれた。 大杉が他界してから間もない1992年5月28日、ヤクルト日本一の時のチームメイトだった船田和英も病死した。1997年野球殿堂入りした。

大杉勝男の4番、5番の回数及び比率としては 4番は1087試合(4番比率49%)パ時代は552試合(平均55試合)、セ時代は535試合(平均59試合) 5番は645試合(5番比率29%)パ時代は305試合(平均31試合)、セ時代は340試合(平均38試合)

パ時代の比率は4番46%、5番25% セ時代の比率は4番52%、5番33%と安定した比率で主軸を務め19年に亘ってスラッガーとして活躍し、相手チームから恐れられた。

また、本塁打率は15.9 打点率は0.194と非常に優秀であり、打点率0.194は6000打数以上では王、落合、清原に続いて歴代4位である。また、打率0.287は、7000打数以上の打者では14位(右打者で7位)と非常に良く、打率も高く本塁打も残せ、尚且つ非常に勝負強い、歴代屈指のスラッガーであったことも伺える。

エピソード

  • 風貌がタレント毒蝮三太夫に似ていたため、口の悪いチームメイトからは、「毒マムシ」という渾名で呼ばれていた。しかし、その人相や風体に似合わず無類の愛妻家であった。毎日克明に日記を記していたが、その内容の殆どは妻へ宛てたものであったと、逝去後の特集番組で夫人が明らかにしている。ロマンティストでもあり、自身が本塁打を打った時はファンのために投げキッスのパフォーマンスをしたり、後述されるような文学的表現のある数々の名言を残している。
  • 東映のブラジル遠征の折に「(飛行機が墜落して)私が死んだら、誰が母の面倒を見るんですか」と船移動を球団に直訴したり(当然却下)、前日のクロスプレーを巡って殴り倒したカール・ボレス西鉄ライオンズ)に翌日謝罪するなど、その実直な人間性で人気の選手だった。2000本安打達成時、記念のボールを渡してくれた審判に試合中であることも忘れて握手を求めたエピソードも大杉の人間性を表している。また、他の選手がアドバイスを求めると、相手が敵チームの選手であったとしても、自分の練習時間を削ってまでとことんコーチ役を買って出ていたと言う。
  • 東映時代、ビジターの試合で一塁側スタンドからの執拗な野次に耐えられず、試合中に「てめぇ、表で待ってろ!!」と凄んだ。
  • 東映時代、南海の野村克也が打席で囁きかけたところ、野村よりも10歳年下でありながら「うるせえ!」と一喝したため、後で「お前、先輩になんて口のききかたするんや!」と大激怒された。
  • 腕っ節が強いことでも有名で、球界で一番喧嘩が強いという噂もあった。自軍の選手への攻撃に対しては容赦なく立ち向かい、ヤクルト時代には死球を与えた鈴木康二朗投手に襲い掛かったジョン・シピンを殴り倒している。また、この時巨人長嶋茂雄監督を乱闘の最中に殴った。生前本人はこれについて「覚えていない」と述べていたが、プロ野球史上最大のスターと言われる長嶋茂雄を試合中に殴ったのは、後にも先にも大杉のみである。
  • 中日ドラゴンズ戦で星野仙一から死球を食らった際、マウンドに歩み寄り「星野、わざとぶつけたな!」と詰め寄った。大杉・星野ともに気性の激しい選手であったため、両軍とも大乱闘を覚悟していたが、星野は「大杉さん、同じ岡山の先輩にわざとぶつけるわけないじゃないですか」と返し、それを聞いた大杉は「それもそうだな」と言って一塁に歩いていき、結局乱闘に発展することはなかった。
  • 広島東洋カープ戦では、打席に入ったところ、捕手の達川光男がマウンドに向かって「こいつは石ころだ」と叫んだ。コントロールの定まらないピッチャーの津田恒美を「球界の大先輩だからといって遠慮せず、思い切り投げろ」と叱咤する意味での発言だったのだが、これを聞いた大杉は激怒してわざわざ達川に身体に当たるようなリードを要求、達川が「すんません、当てます」と死球コースに要求すると身体に向かってきた球を引っぱたき特大本塁打にしてしまった。そしてダイヤモンドを1周してホームベースを踏むなり、「石ころだと? ふざけるなっ!!」と達川の頭を思いきり叩いている(達川の項目も参照)。このエピソードは、江本孟紀の著書「プロ野球を20倍楽しく見る本」内でも書かれている。
  • 無類の肉好きであり、結婚後も必ず肉料理を作らせていた。しかし夫人は、プロ野球選手の健康管理という面からそれを好ましく思わず、ある日肉抜きの料理を食卓に出した。それを見て怒った大杉は、翌日、怒りに任せて特大本塁打を放ったという(試合翌日のスポーツ新聞より)。
  • 足が遅く、守備も得手な方ではなかったため、当時のヤクルト監督・広岡達朗による選手としての大杉評は、決して高いものではなかった(広岡は走攻守が揃った選手を理想としていた)。が、大杉は広岡のことを「球界のサムライ」と高く評価し、師として慕っている様子も見られた。
  • 1983年に「原因不明の不整脈が悪化した」として現役を引退したが、自著によれば、本人には引退の意思は全くなく、医師からも野球を十分続けられるという診断を下されていたという。その真相は、武上四郎監督との確執が原因で、フロント主導により一方的に退団が決められてしまった、とのことである。この時、松園尚巳オーナーからは巨人への移籍を勧められたが、新監督に就任したばかりの王貞治に迷惑がかかると移籍を固辞、引退を決意したという(また一説では、日々大杉の事を気遣う妻が心労で入院した事があったが為に、引退を決意したとも言われている)。
  • 自らを「かすみ草」になぞらえたのは、これまでに達成した偉大な記録がことごとく他の話題の前に霞んでしまい目立つことがなかった(史上初の両リーグ1000本安打ですら、同じ日に福本豊が盗塁数の世界記録を樹立してしまい紙面のトップを飾ることが出来なかった)不遇さを、通算1500打点を達成した試合後のインタビューで、野村克也の「ON(王貞治・長嶋茂雄)がひまわりなら、自分は日本海にひっそりと咲く月見草」という言葉を引き合いに出し、「ONがひまわり、野村さんが月見草。まあハリさん(張本勲)も月見草で、さしずめ自分は神宮に咲いたかすみ草だ」と語ったことに由来する。余談だが、後年著書でこの時のインタビューについて「ハリさんはどちらかといえば『雑草』だが、それではさすがに失礼なので月見草にした」と述べている。
  • スワローズ初の日本一に貢献、前人未踏の両リーグ1000本安打、球団初の2000本安打の快挙に、背番号8はヤクルトの永久欠番に制定された。が、大杉本人の意志で、1985年に入団してきた広沢克己に背番号8が与えられている。
  • 1987年、「とんねるずのみなさんのおかげです」で、とんねるず対大杉・土橋正幸(ともに当時、フジテレビ野球解説者)という野球大会が行われた。この試合で大杉が放ったサヨナラホームランは、まさに「神宮の夜空の月に向かって飛んでいった」打球で、打たれた石橋貴明はうなだれてぐうの音も出なくなっていた。
  • 山口瞳(作家)や二宮清純(スポーツジャーナリスト)、マッシー村上(元南海ホークス)、八重樫幸雄(元ヤクルトスワローズ)と言った面々が大杉の凄さを語っている。 山口瞳は「大杉を見ると、いつも景浦(阪神)を思い出した。それほどの打者」と評し、二宮清純やマッシー村上は「大リーグで間違いなく通用した」と太鼓判を押している。更に、マッシー村上は「一番打たれたのは大杉。コンパクトなスイングなのに、やたら飛距離が出た。全盛期の彼なら十分通用した」と付け加えている。八重樫の大杉評は論理的で「右打者では少なくとも落合より大杉さん(が上)でしょう。落合は読みがすばらしく、どのピッチャーのどのコースも把握しているが、ナチュラルに曲がるスライダーやシュート、それに初対面のピッチャーには対応できなかった。しかし大杉さんは9割の確率でストレートを待ちながら、変化球が来ても本能的に体を開かずにボールを拾うことが出来た。落合が『流す』なら、大杉さんはそのまま『打撃する』感じ。それにパワーもある。大リーグに通用するのは全盛期の大杉さんでしょう。」と語っている。
  • 入団直後の大杉のバッティングを見た、同僚の張本勲は、「頭と手足がやたらデカく脚が遅い。そのクセやたら軽いバットを振り回している。 首脳陣や選手たちは『コイツはダメだ』と諦めていたが、よく見ると、バッティングが物凄いことに気づいた。 高い位置にボールが来たときは、無理のないアッパースイング。腰の位置にボールが来たときは、自然なレベルスイングで捌き、低い位置に来たときは、腰を落として綺麗に払ってゆく。しかもバットのトップ位置が変わらない。これには仰天した。そのとき私は確信した。『コイツは三冠王になる』」 と後述している。
  • 20本塁打以上を放っての引退は、日本人選手では、王貞治(30本)、山本浩二(27本)、大杉勝男(21本)の3人しかいない。
  • ヤクルト時代は30本塁打以上が2度しかないため、印象から中距離打者と言われがちだが、本塁打率18、長打能力Isopは.209 9年平均.294 22本 76打点を残しており、十分長距離砲であったことがわかる。
  • オールスターで満塁ホームランを放った後、飯島打撃コーチから呼び出され、「君はこれから打率3割とホームラン、どちらをとるつもりかね」と問い詰められ、教えに背かないように「やっぱり3割を打ちたいですね。勿論、ホームランも打てる そんなバッターになりたいと思います。」と、返し、「お前はなんてことを言うんだ。お前はホームランを打つ為に生まれてきた打者なのに」と飯島打撃コーチを泣かせてしまい、「すみませんでした。今の言葉は訂正します」と慌ててしまったという、大杉らしい、人に対する思いやりと人の良さが伺えるエピソードが残っている。(本人談)
  • 元ヤクルト 荒木大輔の初勝利に結びつく勝利打点は大杉のものであったことから、荒木や本人の母親は、大杉に会うたびに「大杉さん、あのときは・・・」と頭を下げていた。
  • 大杉のライバルであった阪急・長池は「僕の目標の打者でもあった。ゆっくりと彼と語り合えなかったことが心残りです。」と懐述している。
  • 同僚・張本勲は「新聞記者泣かせの勝負強いバッターでもあった」とテレビ番組で語っている。
  • 大杉本人は、張本を師と仰ぎ、目標としていた。
  • 78年対阪急日本シリーズ第5戦のヒーローインタビューで「確かに、足立投手は巧い。しかしウチの打線が、2回続けて足立投手に抑えられてしまうということはありえない」と言い切り、観客の喝采を浴びた。その言葉通り、最終戦では、足立・山田両投手を一閃の本塁打で粉砕し、有言実行を果たした。
  • 69年の年俸に納得がいかず、保留を続け、キャンプインに入った最中、記者に「5月~6月が開幕と思ってやる」と打ち明けたところ、それが松木監督の耳に入り確執が生じた。「実家に帰らせてもらいます」と直訴。張本が「監督に謝れ」と促した。
  • 50年の大スランプ時、東映時代の恩師・水原茂が大杉の下を訪れ「どうだ元気でがんばってるか」と声を掛けると、大杉は人目も憚らず号泣した。
  • スランプ時、子供がサインをねだると、「ごめんな。オレ鳥目だからサイン出来ないんだ」と、子供を傷つけないように、やんわりと断ったことがある。
  • 野村克也は「バッティング時の体捌きは大杉が一番」と語っている。
  • 現役時代のバットの重量は、なんと850グラムの軽いバットだった。
  • 大洋コーチ時代、肝臓癌が見つかるも、「途中で選手達を放るわけにはいかない」と、シーズン中の休養を拒み続け、責任を全うした。
  • 張本勲とのバッティング論のやり取りは有名である。張本が「バッターには9つのポイントがあるが、オレがどうしても打てないコースがある。そこはどこだと思う」と、大杉に問うと、大杉は「どこですか」と尋ねた。張本は「ど真ん中だ。皆、あの手この手で打たせないように攻めてくるから、そのときに真ん中に投げられると手が出せなくなる」と説明すると、大杉は、「オレなら打てます」と返した。
  • 乱闘が多いように思われるが、退場は2度しかない。
  • 昭和53年日本シリーズでの阪急投手陣の大杉に関する印象は「全くもって掴み辛い」というものだったらしい。セリーグ移籍後、自身のバッティングを大きく変えたことが伺える評価だったことが伺える。中でも阪急の山田久志は「あれが大杉さんか?」と別人だと思った感想を述べている。
  • 江川の速球を「大したこと無い」と切って捨てた。「ボクは尾崎の豪速球を知っているんです。江川なんか今更何をという感じです」と述べている。
  • 張本勲の3000安打達成のとき、「ライバルとして一言」と記者から感想を求められると、「オレがライバルだなんてとんでもない」と記者に激怒した。張本勲本人は「あいつがそんなことを言いましたか。まあ、遠慮するなと言っておきましょう。ワッハッハ」と機嫌良く答えた。
  • 大杉は、土井正博を「素質の人」、長池を「努力の人」、自身を「その中間」としている。
  • ライバルを長池、土井としており、後年「勝負はどうなったと思うか」と問われたときに、「勝ったとも負けたとも思えない。抜いたり抜かれたりしながら、3人ともユニフォームを脱いでしまった」と語っている。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1965 東映
日拓
日本ハム
60 113 104 7 20 5 1 1 30 13 0 1 1 2 5 0 1 23 3 .192 .232 .288 .521
1966 101 203 186 29 50 6 1 8 82 28 1 0 2 3 7 0 5 29 1 .269 .308 .441 .749
1967 134 552 491 64 143 25 1 27 251 81 1 4 4 3 46 4 8 107 11 .291 .359 .511 .871
1968 133 536 476 76 114 17 1 34 235 89 4 6 1 3 51 7 5 106 15 .239 .318 .494 .811
1969 130 548 495 71 141 22 2 36 275 99 3 3 0 3 43 9 7 77 16 .285 .349 .556 .904
1970 130 556 492 84 167 27 2 44 330 129 5 4 0 15 44 1 5 61 18 .339 .388 .671 1.059
1971 130 562 489 74 154 17 1 41 296 104 7 8 0 4 63 18 6 65 15 .315 .397 .605 1.002
1972 130 559 492 81 145 18 1 40 285 101 0 1 0 2 57 9 8 58 21 .295 .376 .579 .955
1973 130 548 478 74 129 14 1 34 247 85 3 1 0 7 59 2 4 56 21 .270 .350 .517 .867
1974 130 521 461 54 108 14 0 22 188 90 4 2 0 8 48 7 4 73 12 .234 .307 .408 .715
1975 ヤクルト 115 431 389 42 92 9 1 13 142 54 1 3 3 4 30 1 5 64 13 .237 .297 .365 .662
1976 121 466 423 62 127 21 1 29 237 93 0 3 0 3 35 2 5 43 19 .300 .358 .560 .919
1977 123 505 453 62 149 19 1 31 263 104 0 2 0 8 37 9 7 65 16 .329 .382 .581 .963
1978 125 516 462 73 151 17 0 30 258 97 0 2 0 3 47 4 4 51 27 .327 .391 .558 .950
1979 118 456 413 46 100 18 0 17 169 68 1 1 0 2 38 1 3 74 10 .242 .309 .409 .718
1980 118 462 425 52 128 19 1 21 212 82 0 3 0 7 27 2 3 42 14 .301 .342 .499 .841
1981 120 453 414 59 142 21 2 20 227 78 1 3 0 4 33 8 2 43 12 .343 .391 .548 .939
1982 88 324 298 30 84 11 0 17 146 59 1 0 0 4 22 3 0 39 11 .282 .327 .490 .817
1983 99 349 322 40 84 6 2 21 157 53 0 0 0 1 23 5 3 40 11 .261 .315 .488 .803
通算:19年 2235 8660 7763 1080 2228 306 19 486 4030 1507 32 47 11 86 715 92 85 1116 266 .287 .350 .519 .869
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

タイトル

  • 本塁打王:2回 (1970年、1971年)
  • 打点王:2回 (1970年、1972年)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回 (1971年) ※1994年より表彰

表彰

記録

  • オールスターゲーム出場:8回 (1967年、1969年、1970年、1972年 - 1974年、1977年、1981年) ただし、選出は9回。80年は風邪のため辞退。
  • 6試合連続本塁打 (1973年10月2日 - 10月9日・パ・リーグタイ記録)
  • 5試合連続本塁打 (1969年6月20日 - 6月26日)
  • 月間本塁打15本 (1972年5月)
  • シーズンサヨナラ安打:5 (1969年・プロ野球タイ記録)
  • シーズンサヨナラ本塁打:3 (1969年・パ・リーグタイ記録)
  • シーズン最多犠飛:15 (1970年 プロ野球記録)
  • 日本シリーズ4本塁打 (1978年) ※シリーズタイ記録
  • 日本シリーズ10打点 (1978年) ※シリーズ記録
  • 1000試合出場:1973年6月23日 (166人目)
  • 2000試合出場:1981年7月31日 (16人目)
  • セ・パ両リーグ1000本安打:1983年6月3日 (日本プロ野球史上初)
  • セ・パ両リーグ2試合5本塁打:1970年8月6日阪急戦3本・8日南海戦2本、1983年6月17日阪神戦2本・18日阪神戦3本

背番号

  • 51 (1965年 - 1972年、1974年)
  • 3 (1973年)
  • 8 (1975年 - 1983年)
  • 88 (1990年 - 1991年)

関連情報

著作

  • サムライたちのプロ野球―プロ野球における監督と選手の研究(1984年)
  • 大杉勝男のバット人生―アイ・ラブ・素敵な野球野郎たち(1984年)
  • ヤクルトスワローズ(1986年)

関連項目

外部リンク