「ロシア帝国」の版間の差分
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|次旗1 = Flag of Russia.svg |
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|国旗説明 = |
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|国章画像 = Greater_Coat_of_Arms_of_the_Russian_Empire_1700x1767_pix_Igor_Barbe_2006.jpg |
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|国章リンク = |
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|国章説明 = 帝国 |
|国章説明 = 帝国紋章 |
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|国章幅 = |
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|標語 = ''{{Lang|ru|Съ нами Богъ!}}''<br />(ロシア語 : [[神は我らと共に|神は我らと共に!]]) |
|標語 = ''{{Lang|ru|Съ нами Богъ!}}''<br />(ロシア語 : [[神は我らと共に|神は我らと共に!]]) |
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|国歌追記 = |
|国歌追記 = |
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|位置画像 = Russian Empire (orthographic projection).svg |
|位置画像 = Russian Empire (orthographic projection).svg |
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|位置画像説明 =ロシア帝国の最大版図 |
|位置画像説明 = 1866年のロシア帝国の最大版図 |
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|公用語 = [[ロシア語]] |
|公用語 = [[ロシア語]] |
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|首都 = [[サンクトペテルブルク]]<br /><small>(1713年 - 1728年)</small><br />[[モスクワ]]<br /><small>(1728年 - 1730年)</small><br />[[サンクトペテルブルク]]<br /><small>(1730年 - 1914年)</small><br />[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]<br /><small>(1914年 - 1917年)</small> |
|首都 = [[サンクトペテルブルク]]<br /><small>(1713年 - 1728年)</small><br />[[モスクワ]]<br /><small>(1728年 - 1730年)</small><br />[[サンクトペテルブルク]]<br /><small>(1730年 - 1914年)</small><br />[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]<br /><small>(1914年 - 1917年)</small> |
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|注記 = |
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[[File:Main centres of Polish exiles in the Russian Empire.png|thumb|right|300px|領土の変遷。赤枠が1917年の国境線。]] |
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{{ロシアの歴史}} |
{{ロシアの歴史}} |
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'''ロシア帝国'''(ロシアていこく、{{Llang|言語記事名=ロシア語|ru|'''Российская империя'''}} ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、[[ |
'''ロシア帝国'''(ロシアていこく、{{Llang|言語記事名=ロシア語|ru|'''Российская империя'''}} ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、[[1721年]]から[[1917年]]までに存在した[[帝国]]である。[[ロシア]]を始め、[[フィンランド]]、[[リボニア]]、[[リトアニア]]、[[ベラルーシ]]、[[ウクライナ]]、[[ポーランド]]、[[カフカーズ]]、[[中央アジア]]、[[シベリア]]、[[満州]]などの広い[[ユーラシア大陸]]の北部を支配していた。'''帝政ロシア'''(ていせいロシア)とも呼ばれる。 |
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君主が[[ツァーリ]]を名乗ったそれ以前の[[ロシア・ツァーリ国]]についても「ロシア帝国」と翻訳されることがある<ref group=n>"{{lang|ru|Царство}}"に「{{lang|ru|Царь}}の国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)</ref><ref group=n>"{{lang|ru|Царство}}"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)</ref>が、ロシア語では「ツァーリ」<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?word=%F6%E0%F0%FC&all=x&lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x {{lang|ru|Царь // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=38246 {{lang|ru|Царь // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=69469 {{lang|ru|Царь // Большой Энциклопедический Словарь }}], [http://vidahl.agava.ru/cgi-bin/dic.cgi?p=244&t=42239 {{lang|ru|Царь // Толковый словарь В. Даля ON-LINE. Современное написание слов. Републикация выполнена на основе II издания (1880-1882 гг.)}}]</ref>([[王]]、[[ハーン]])と「インペラートル」([[皇帝]])<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x&word=%E8%EC%EF%E5%F0%E0%F2%EE%F0 {{lang|ru|Император // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=10754 {{lang|ru|Император // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=23667 {{lang|ru|Император // Большой Энциклопедический Словарь }}]</ref><ref name="Talina">[http://74.125.153.132/search?q=cache:txArAxcJ-GYJ:old.portal-slovo.ru/rus/history/87/9256/+%D0%A6%D0%B0%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%B0%D1%8F+%D0%B2%D0%BB%D0%B0%D1%81%D1%82%D1%8C+%D0%B2+XVII+%D0%B2%D0%B5%D0%BA%D0%B5:+%D1%82%D0%B8%D1%82%D1%83%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5+%D0%B8+%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D0%B5.+%D0%9F%D1%80%D0%B5%D0%B4%D0%B8%D1%81%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D0%B5,+%D0%BF%D0%BE%D0%B4%D0%B3%D0%BE%D1%82%D0%BE%D0%B2%D0%BA%D0%B0+%D1%82%D0%B5%D0%BA%D1%81%D1%82%D0%BE%D0%B2,+%D0%BA%D0%BE%D0%BC%D0%BC%D0%B5%D0%BD%D1%82%D0%B0%D1%80%D0%B8%D0%B8+%D0%93.%D0%92.+%D0%A2%D0%B0%D0%BB%D0%B8%D0%BD%D0%BE%D0%B9&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a {{lang|ru|Г.В. Талина. ''Царская власть в XVII веке: титулование и положение.'' }}]</ref>が異なる称号であるため、適訳ではない<ref name="Talina"></ref>。 |
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[[1721年]]に、[[スウェーデン]]との[[大北方戦争]]に勝利した[[ロマノフ朝]]の[[ツァーリ]][[ピョートル1世]]が、[[元老院]]から[[インペラトル|インペラートル]]([[皇帝]])の称号を贈られ、[[国体]]を正式に「[[帝国]](インペラートルの国)」と宣言し、対外的な[[国号]]を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したのに始まる。 |
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帝政は[[1721年]]にツァーリ・[[ピョートル1世]]が[[皇帝]]([[インペラートル]])を宣言したことに始まり、[[第一次世界大戦]]中の[[1917年]]に起こった[[2月革命 (1917年)|二月革命]]での[[ニコライ2世]]の退位によって終焉する。 |
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君主が[[ツァーリ]]を名乗ったそれ以前の[[ロシア・ツァーリ国]]についても「ロシア帝国」と翻訳されることがある<ref>"{{lang|ru|Царство}}"に「{{lang|ru|Царь}}の国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)</ref><ref>"{{lang|ru|Царство}}"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"{{lang|ru|Царь}}"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)</ref>が、ロシア語では「ツァーリ」<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?word=%F6%E0%F0%FC&all=x&lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x {{lang|ru|Царь // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=38246 {{lang|ru|Царь // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=69469 {{lang|ru|Царь // Большой Энциклопедический Словарь }}], [http://vidahl.agava.ru/cgi-bin/dic.cgi?p=244&t=42239 {{lang|ru|Царь // Толковый словарь В. Даля ON-LINE. Современное написание слов. Републикация выполнена на основе II издания (1880-1882 гг.)}}]</ref>([[王]]、[[ハーン]])と「インペラートル」([[皇帝]])<ref>[http://www.gramota.ru/slovari/dic/?lop=x&bts=x&zar=x&ag=x&ab=x&sin=x&lv=x&az=x&pe=x&word=%E8%EC%EF%E5%F0%E0%F2%EE%F0 {{lang|ru|Император // Справочно-информационный портал ГРАМОТА.РУ }}], [http://www.vedu.ru/ExpDic/enc_searchresult.asp?S=10754 {{lang|ru|Император // Толковый Словарь Русского Языка }}], [http://www.vedu.ru/BigEncDic/enc_searchresult.asp?S=23667 {{lang|ru|Император // Большой Энциклопедический Словарь }}]</ref><ref name="Talina">[http://74.125.153.132/search?q=cache:txArAxcJ-GYJ:old.portal-slovo.ru/rus/history/87/9256/+%D0%A6%D0%B0%D1%80%D1%81%D0%BA%D0%B0%D1%8F+%D0%B2%D0%BB%D0%B0%D1%81%D1%82%D1%8C+%D0%B2+XVII+%D0%B2%D0%B5%D0%BA%D0%B5:+%D1%82%D0%B8%D1%82%D1%83%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B0%D0%BD%D0%B8%D0%B5+%D0%B8+%D0%BF%D0%BE%D0%BB%D0%BE%D0%B6%D0%B5%D0%BD%D0%B8%D0%B5.+%D0%9F%D1%80%D0%B5%D0%B4%D0%B8%D1%81%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D0%B5,+%D0%BF%D0%BE%D0%B4%D0%B3%D0%BE%D1%82%D0%BE%D0%B2%D0%BA%D0%B0+%D1%82%D0%B5%D0%BA%D1%81%D1%82%D0%BE%D0%B2,+%D0%BA%D0%BE%D0%BC%D0%BC%D0%B5%D0%BD%D1%82%D0%B0%D1%80%D0%B8%D0%B8+%D0%93.%D0%92.+%D0%A2%D0%B0%D0%BB%D0%B8%D0%BD%D0%BE%D0%B9&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a {{lang|ru|Г.В. Талина. ''Царская власть в XVII веке: титулование и положение.'' }}]</ref>が異なる称号であるため、適訳ではない<ref name="Talina"></ref>。 |
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[[領域 (国家)|領土]]は、[[19世紀]]末の時点において、のちの[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]の領域に[[フィンランド]]と[[ポーランド]]の一部を加えたものとほぼ一致する[[面積]][[1 E13 m²|2000万km²]]超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。[[首都]]は、[[1712年]]まで伝統的にモスクワ国家の首府であった[[モスクワ]]から[[サンクトペテルブルク]]に移され、以降帝国の終末まで帝都となった<ref name=syuto group=n>ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。</ref>。 |
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== 国土 == |
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{{main|ロシア帝国の県の一覧|ロシア帝国の州の一覧}} |
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[[領域 (国家)|領土]]は、[[19世紀]]末の時点において、のちの[[ソビエト連邦|ソヴィエト連邦]]の領域に[[フィンランド]]を加えたものとほぼ一致する[[面積]][[1 E13 m²|2000万km²]]超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。 |
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政治体制は皇帝による[[専制政治]]であったが、帝政末期には[[国家基本法]](憲法)が公布され、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]と[[ドゥーマ]]からなる[[二院制]]議会が設けられて[[立憲君主制]]に移行した。20世紀はじめの時点で[[#陸軍|陸軍]]の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった<ref name=Britannica879/><ref name=Livesey13/>。[[#海軍|海軍]]力は長い間、世界第3位であったが、[[日露戦争]]で大損失を出して以降は世界第6位となっている<ref name=Gardiner291/>。 |
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[[首都]]は、[[1712年]]まで伝統的にモスクワ国家の首府であった[[モスクワ]]から[[サンクトペテルブルク]]に移され、以降帝国の終末まで帝都となった。 |
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宗教は[[正教会]]([[ロシア正教会]])が[[国教]]ではあるが、領土の拡大に伴い大規模な[[ムスリム]]社会を内包するようになり、そのほかフィンランドやバルト地方の[[ルーテル教会|ルター派]]、旧[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア]]の[[カトリック教会|カトリック]]そして[[ユダヤ人]]も存在した。 |
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ロシア帝国の臣民は[[#貴族|貴族]]、[[#聖職者|聖職者]]、[[#名誉市民|名誉市民]]、[[#商人・町人・職人|商人・町人・職人]]、[[#カザーク|カザーク]]そして[[#農民|農民]]といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる[[#農奴|農奴]]であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。[[シベリア]]の[[先住民]]や[[中央アジア]]のムスリムそしてユダヤ人は[[#異族人|異族人]]に区分されていた。 |
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ロシア帝国ではロシア暦([[ユリウス暦]])が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦を[[グレゴリオ暦]](新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.132-133.</ref>。 |
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==国土== |
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[[ファイル:The Russian Empire-en.png|thumb|left|300px|1866年のロシア帝国{{Legend|#003000|領域}}{{Legend|#008000|勢力圏}}]] |
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19世紀末時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の1/6のあたる約 {{convert|22400000|km2|sqmi|sp=US}}に及び、[[イギリス帝国]]の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパ・ロシアに居住していた。100以上の異なる[[民族]]がおり、[[ロシア人]]は人口の約45%を占めている。 |
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現代の[[ロシア連邦]]のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国は[[ウクライナ]]の大部分([[ドニプロ・ウクライナ]]と[[クリミア]])、[[ベラルーシ]]、[[モルドバ]]([[ベッサラビア]])、[[フィンランド]]([[フィンランド大公国]])、[[アルメニア]]、[[アゼルバイジャン]]、[[グルジア]]({{仮リンク|ミングレリア|en|Samegrelo}}の大部分を含む)、中央アジア諸国の[[カザフスタン]]、[[キルギスタン]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]]([[トルキスタン総督府]])、[[リトアニア]]、[[エストニア]]と[[ラトビア]](バルト諸州)の大部分だけでなく、[[ポーランド]]([[ポーランド立憲王国|ポーランド王国]])と[[アルダハン]]、[[アルトヴィン県|アルトヴィン]]、[[ウードゥル県|ウードゥル]]、[[カルス県|カルス]]の相当の部分、そしてオスマン帝国から併合した[[エルズルム]]の北東部を含んでいた。 |
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1860年から1905年にかけて、ロシア帝国は[[トゥヴァ共和国|トゥヴァ]](1944年に併合)、[[カリーニングラード州]]([[第二次世界大戦]]後にドイツより併合)そして[[千島列島|クリル列島]](第二次世界大戦後に[[実効支配]])を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。[[北アメリカ大陸|北アメリカ]]の[[アラスカ州|アラスカ]]を領有していたが、1867年にアメリカに売却している([[アラスカ購入]])。[[樺太庁|サハリン州南部]](南樺太、第二次世界大戦後に実効支配<ref group=n>日本は[[サンフランシスコ講和条約]]で南樺太の領有権を放棄したが、ロシアの領有は承認していない。{{cite web|title=樺太- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E6%A8%BA%E5%A4%AA/|author=外川継男・栗生沢猛夫|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年3月8日}}</ref>)は1905年の[[ポーツマス条約]]により日本に割譲されている。 |
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== 歴史 == |
== 歴史 == |
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{{main|ロシア帝国の歴史}} |
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[[File:Peter Imperor whole Russia.jpeg|thumb|250px|「全ロシアの皇帝」の称号を贈られるピョートル1世。<br>Boris Chorikov画。]] |
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1613年に全国会議([[ゼムスキー・ソボル]])が[[ミハイル・ロマノフ]]をツァーリに選出したことによって300年続くことになる[[ロマノフ朝]]が開かれた。その孫にあたる[[ピョートル1世]](1682年 - 1725年)は近代化改革を断行して、専制体制を確立させた。1721年、[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して[[元老院 (ロシア)|元老院]]と[[聖務会院|宗務院]]が「[[皇帝]]」([[インペラトル|インペラートル]])の称号を贈り、[[国体]]を正式に「[[帝国]](インペラートルの国)」と宣言し、対外的な[[国号]]を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立する。 |
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ツァーリとインペラートルの区別はきちんとされたほうがよいように思います。ロシア語ではツァーリの国はцарствоといい、империя(帝国)とは別の単語です。 |
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ロシア帝国の源流は[[モスクワ大公国]]にある。モスクワ大公国は[[14世紀]]から[[15世紀]]にかけて、[[タタール]]や周辺の[[ルーシ]]諸国と戦って勢力を拡大し、[[イヴァン3世]]のとき、初めて「ツァーリ」(王)の[[称号]]を名乗った<ref>「ツァーリ」という[[古東スラヴ語]]の称号は、[[東ローマ帝国]]の皇帝、聖書で登場する聖人や君主、[[モンゴル帝国]]の[[ハーン]]たちに対して用いられていたものである。俗説によれば、[[1453年]]に東ローマ帝国の[[パレオロゴス王朝|パレオロゴス朝]]が[[オスマン帝国]]に滅ぼされた後、[[1467年]]にモスクワ大公[[イヴァン3世]]はパレオロゴス朝最後の皇帝[[コンスタンティノス11世]]の[[姪]]を迎えて結婚し、ツァーリの称号を名乗る正統性を得たとされる。またこの時代には、モスクワにあった[[正教会]]の府主教座(現・[[モスクワ総主教|モスクワ総主教庁]])が[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]から独立を宣言しており、東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワは[[ローマ帝国]]の[[ローマ]]、東ローマ帝国の[[コンスタンティノポリス]]([[古期ロシア語]]ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「[[モスクワ第3ローマ論|第三のローマ]]」であるという言説が見られるようになるなど、モスクワ大公国の中で「帝国」を自任する意識が生じていた。</ref>。[[1480年]]にイヴァン3世は[[タタール]]の支配から独立し、[[1547年]]には、その孫[[イヴァン4世]]が「全ルーシのツァーリ」を自称し、モスクワ大公国の[[君主]]が全ルーシの君主であるという宣言が行われた。しかし、この称号は国内的な自称にとどまり、ヨーロッパ諸国との外交関係では、モスクワの君主は長らく「[[王]]」でもなく、単なる「モスクワ国の[[大公]]」として扱われている。 |
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ピョートル1世の死後、[[女帝]]と[[幼帝]]が続き、保守派によって改革が軌道修正されることもあったが<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.58-59.</ref>、ロシアの領土と国力は着実に増しており、[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]](在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した[[七年戦争]](1756年 - 1763年)では[[プロイセン王国|プロイセン]]を破滅寸前に追い込んでいる<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.68.</ref>。 |
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イヴァン4世の死後、[[リューリク朝]]が絶え、国は荒れ、[[内戦]]に陥った([[大動乱]])。その混乱でヨーロッパへの進出が停滞したモスクワは、そのために国際的な地位は低いままに甘んじた。[[1613年]]、リューリク朝の[[外戚]]であった[[ミハイル・ロマノフ]]が、元老院からツァーリに任じられ、[[ロマノフ朝]]を開いた。[[17世紀]]末、ロマノフ朝の[[ピョートル1世]]がツァーリに即位し、西欧化政策を実施するに及んで、ようやくロシアはヨーロッパ諸国の外交関係の中で対等な国とみなされるようになった。ピョートルが西欧で用いられていた[[ローマ帝国]]の皇帝の称号である「インペラートル」(皇帝)をロシア君主の称号として採用し、「ロシア帝国」を正式な[[国号]]にした。 |
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[[File:Vigilius Eriksen 008.jpg|thumb|left|175px|エカチェリーナ2世。<br>Vigilius Eriksen画]] |
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宮廷クーデターにより、夫[[ピョートル3世]](在位1761年 - 1762年)を廃位して即位した[[エカチェリーナ2世]](1762年 - 1796年)は啓蒙主義に基づく統治を志したが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、[[農奴]]制を強化している<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.74;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.242.</ref>。彼女の治世にロシアは西方では[[ポーランド分割|ポーランドを分割]]をなし、南方では[[オスマン帝国]]との戦争に勝利して[[クリミア半島]]を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大した。 |
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次の[[パーヴェル1世]](1796年 - 1801年)は母帝を否定する政策をとったが<ref>[[#土肥(2009)|土肥(2009)]],p.51;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.263-264.</ref>、宮廷クーデターによって殺害された。皇位を継承した[[アレクサンドル1世]](1801年 - 1825年)は自由主義貴族や[[ミハイル・スペランスキー|スペランスキー]]を起用して改革を志したが、保守層の抵抗を受け不十分なものに終わっている<ref>[[#鈴木他(1999)|鈴木他(1999)]],pp.268-273.</ref>。彼の治世は[[フランス革命戦争]]や[[ナポレオン戦争]]の時期であり、列強国となっていたロシアも欧州の戦乱に巻き込まれた。[[1812年ロシア戦役|ロシアに侵攻]]した[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に破滅的な大敗を喫しさせたアレクサンドル1世は[[神聖同盟]]を提唱し、戦後の[[ウィーン体制]]を主導している。 |
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=== ピョートル1世以降 === |
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{{Main|ロシアの歴史#ピョートル1世以降のロシア帝国}} |
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{{節stub}} |
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アレクサンドル1世の急死によって即位した[[ニコライ1世]](1825年 - 1855年)はその直後に[[デカブリストの乱]]に直面した。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の革命運動・自由思想を弾圧し<ref>倉持俊一【ニコライ[1世]】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.416.</ref>、国外でも反革命外交政策をとった<ref>{{cite web|title=ニコライ(1世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%EF%BC%881%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年4月9日}}</ref>。オスマン帝国との戦争に勝利して[[バルカン半島]]への影響力を広げたが、治世末期の[[クリミア戦争]](1853年 - 1856年)では英仏の介入を招く結果となった。 |
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== 歴代皇帝(インペラートル) == |
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#[[ピョートル1世]] ([[1721年]] - [[1725年]]) |
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ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだ[[アレクサンドル2世]](1855年 - 1881年)は不利な内容の[[パリ条約 (1856年)|パリ条約]]の締結を余儀なくされた。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、[[1861年]]に[[農奴解放令]]を発布したが、地主貴族に配慮した不十分なもので社会問題は解消されなかった<ref>{{cite web|title=農奴解放令- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4/|author=栗生沢猛夫|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年1月23日}}</ref>。これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は[[大改革]]と呼ばれる。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大するが、警戒した列強国の干渉を受け、[[ベルリン会議]]で譲歩を余儀なくされている。国内の知識人の間では革命思想が広がり、[[ナロードニキ]]運動が起こった。政府はこれを弾圧するが、アレクサンドル2世は革命派の爆弾テロで暗殺された。 |
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#[[エカチェリーナ1世]] ([[1725年]] - [[1727年]]) |
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[[File:Отречение Николая II.jpg|thumb|250px|皇帝列車内で大臣や将軍に退位を表明するニコライ2世。]] |
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#[[ピョートル2世]] ([[1727年]] - [[1730年]]) |
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父の暗殺によって即位した[[アレクサンドル3世]](1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧したが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げている<ref>{{cite web|title=ロシア史 - 改革と反動 - Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E5%8F%B2/%E6%94%B9%E9%9D%A9%E3%81%A8%E5%8F%8D%E5%8B%95/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年4月9日}}</ref>。最後の皇帝となる[[ニコライ2世]](1894年 - 1917年)は専制政治を維持したが、[[日露戦争]](1904 - 1905年)の敗北によって[[ロシア第一革命|1905年革命]]が起こり、国民に大幅な譲歩をする[[十月詔書]]を余儀なくされた。十月詔書によって[[ドゥーマ]](国会)が開設され、ロシアは[[立憲君主制]]に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものだった<ref>[[#鈴木他(1999)|鈴木他(1999)]],p.331.</ref>。 |
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#[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]] ([[1730年]] - [[1740年]]) |
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#[[イヴァン6世]] ([[1740年]] - [[1741年]]) |
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[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]首相が強権を伴う国内改革を断行したが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)を迎えることになる。ロシア軍は緒戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻した。ロシアはドイツ、[[オーストリア・ハンガリー帝国|オーストリア=ハンガリー]]、オスマン帝国との[[総力戦]]を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出している<ref name=kuriuzawa116>[[#栗生沢(2010)|栗生沢(2010)]],p.116.</ref>。国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都[[ペトログラード]]で労働者が蜂起する[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こった。兵士は労働者の側について労兵[[ソビエト]]を組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告した。ニコライ2世はこれを受け入れ、ロシアの帝政は終焉した。 |
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#[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]] ([[1741年]] - [[1762年]]) |
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{{-}} |
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#[[ピョートル3世]] ([[1762年]]) |
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#[[エカチェリーナ2世]] ([[1762年]] - [[1796年]]) |
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==政府== |
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#[[パーヴェル1世]] ([[1796年]] - [[1801年]]) |
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===皇帝=== |
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#[[アレクサンドル1世]] ([[1801年]] - [[1825年]]) |
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[[file:Greater Coat of Arms of the Russian Empire 1700x1767 pix Igor Barbe 2006.jpg|thumb|全ロシアの皇帝かつ専制者であると表示しているロシア帝国の大紋章。]] |
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#[[ニコライ1世]] ([[1825年]] - [[1855年]]) |
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{{Main|ツァーリ#ロシアのツァーリ|ロマノフ家}} |
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#[[アレクサンドル2世]] ([[1855年]] - [[1881年]]) |
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1613年にミハイル・ロマノフが[[ツァーリ]]に推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたり[[ロマノフ家]]がロシアの君主であり続けた。[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|ホルシュタイン=ゴットルプ公]]だった[[ピョートル3世]](在位1761年 - 1762年)が即位して以降は'''ホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝'''(''Гольштейн-Готторп-Романовская'')とも呼ばれる。 |
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#[[アレクサンドル3世]] ([[1881年]] - [[1894年]]) |
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#[[ニコライ2世]] ([[1894年]] - [[1917年]]) |
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1721年に[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」([[インペラトル|インペラートル]]:''Император'')たるを宣言した。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ったが、一般的にはツァーリとも呼称されていた<ref name=tsar>{{cite web|title=ツァーリ- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%AA/|author=[[伊藤幸男 (歴史家)|伊藤幸男]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年12月31日}}</ref>。1905年の[[十月詔書]]以前、皇帝は[[絶対君主]]として君臨しており、{{仮リンク|ロシア帝国基本法|label=基本法|ru|Свод законов Российской империи}}(''Свод законов'')第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定している<ref name=rokokujijyou3>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.3.</ref>。皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていた<ref name=rokokujijyou3/>。一つは皇帝とその配偶者は[[ロシア正教会]]に属さねばならない。もう一つは[[パーヴェル1世]](在位1796年 - 1801年)の時に定められた{{仮リンク|帝位継承法|en|Pauline Laws}}に従わねばならないことである。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限であった<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.3-5.</ref>。 |
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この状況は1905年10月17日に変化した。[[ロシア第一革命|1905年革命]]の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けるが、1906年4月28日に制定された[[国家基本法]]は「無制限」の語を取り除いている<ref name=tanakata398>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.398.</ref>。皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会([[ドゥーマ]])の承認なく法制化できなくなった。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行している。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来た。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできない。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けた。 |
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ロシア皇帝は[[フィンランド大公]](1809年以降)および[[ポーランド国王]](1815年以降)を兼ねていた。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙している<ref>{{cite web|title=Royal Russia - Russian Fundamental Laws of 1906|url=http://www.angelfire.com/pa/ImperialRussian/royalty/russia/rfl.html|publisher=|page=|accessdate=2012年3月9日}}</ref>([[:ru:Император всероссийский|ロシア語版]]を参照<!--日本語表記が分からない地名があり、翻訳できませんでした。-->)。 |
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==== 歴代皇帝(インペラートル) ==== |
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[[file:Sadovnikov 1258.jpg|thumb|right|275px|サンクトペテルブルクの[[冬宮殿|冬宮]]は1732年から1917年までロシア帝国の[[宮殿|皇宮]]であった。現在は[[エルミタージュ美術館]]の一部になっている。<br>Vasily Sadovnikov画。1840年代。]] |
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[[File:House of people opened during celebration 300Romanoffs.JPG|thumb|275px|1913年に盛大に祝われた{{仮リンク|ロマノフ朝300年祭|ru|300-летие дома Романовых}}<ref>[[#土肥(2009)|土肥(2009)]],pp.116-117.</ref>。この4年後にロマノフ朝は滅亡した。]] |
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! 歴代 !! 皇帝 !! 在位 !! 備考 |
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| 初代 || [[ピョートル1世]] ||style="white-space:nowrap"| [[1721年]] - [[1725年]] || ツァーリ即位は1682年。元老院と宗務院より、インペラートルとともに[[大帝]](''Великий'')の称号も受ける。 |
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| <span style="color:red">第2代</span> ||style="white-space:nowrap"| [[エカチェリーナ1世]] || [[1725年]] - [[1727年]] || ピョートル1世の皇后。 |
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| 第3代 || [[ピョートル2世]] || [[1727年]] - [[1730年]] || ピョートル1世の孫、廃太子[[アレクセイ・ペトロヴィチ|アレクセイ]]の子。 |
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| <span style="color:red">第4代</span> || [[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]] || [[1730年]] - [[1740年]] || ピョートル1世の異母兄[[イヴァン5世]]の子。[[クールラント・ゼムガレン公国|クールラント公]][[フリードリヒ・ヴィルヘルム・ケトラー|フリードリヒ・ヴィルヘルム]]の未亡人。 |
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| 第5代 || [[イヴァン6世]] || [[1740年]] - [[1741年]] || イヴァン5世の曾孫。宮廷革命により廃位。1764年に殺害。 |
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| <span style="color:red">第6代</span> || [[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]] || [[1741年]] - [[1761年]] || ピョートル1世とエカチェリーナ1世の子。 |
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| 第7代 || [[ピョートル3世]] || [[1761年]] - [[1762年]] || エリザヴェータの甥。[[ホルシュタイン=ゴットルプ家|ホルシュタイン=ゴットルプ公]]。宮廷革命により廃位、後に殺害される。 |
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| <span style="color:red">第8代</span> || [[エカチェリーナ2世]] || [[1762年]] - [[1796年]] || ピョートル3世の皇后。[[プロイセン王国|プロイセン]]の[[アンハルト=ツェルプスト侯領|アンハルト=ツェルプスト侯家]]出身。大帝の称号を受ける。 |
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| 第9代 || [[パーヴェル1世]] || [[1796年]] - [[1801年]] || ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子。宮廷革命により殺害。 |
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|style="white-space:nowrap"|第10代 ||style="white-space:nowrap"| [[アレクサンドル1世]] || [[1801年]] - [[1825年]] || パーヴェル1世の子。 |
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| 第11代 || [[ニコライ1世]] || [[1825年]] - [[1855年]] || パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。 |
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| 第12代 || [[アレクサンドル2世]] || [[1855年]] - [[1881年]] || ニコライ1世の子。「[[人民の意志]]」派の爆弾テロにより暗殺される。 |
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| 第13代 || [[アレクサンドル3世]] || [[1881年]] - [[1894年]] || アレクサンドル2世の子。 |
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| 第14代 || [[ニコライ2世]] || [[1894年]] - [[1917年]] || アレクサンドル3世の子。[[2月革命 (1917年)|二月革命]]により退位。1918年に家族とともに殺害される。 |
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|} |
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*代数<span style="color:red">赤文字</span>は女帝。 |
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*在位年は露暦([[ユリウス暦]])による<ref name=koyomi group=n>ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.132-133.</ref>。 |
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{{-}} |
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===国家評議会=== |
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[[File:Gossovet-27-04-1906.jpg|thumb|275px|国家評議会。1906年撮影。]] |
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{{Main|ロシア帝国国家評議会}} |
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[[アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の時代に[[ミハイル・スペランスキー|スペランスキー]]の改革の一つとして1811年に設置された国家評議会(''Государственный Совет'':枢密院とも訳す)は法律の立案および頒布に関して君主に参与すべき審議官である<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.59.</ref>。国家評議会が法案を審議し、皇帝は多数決によるその意見を「傾聴し、決定する」ことになっていたが、実際には決定は皇帝の意思に依った<ref name=kokkahyougikai>加納格【国家評議会】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.211-212.</ref>。1890年時点の国家評議会は勅選議員60名から構成され、議長は皇帝もしくは大臣委員会議長その他勅選された者が務めた<ref name=kokkahyougikai/>。 |
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1906年2月20日の基本法改正により、[[ロシア帝国国家評議会|国家評議会]]は[[ドゥーマ]]に関連付けられ、立法機関の上院の役割を果たすこととなった。これ以降、立法権は皇帝が二院と調整した上で実行されることになる<ref>[http://www.angelfire.com/pa/ImperialRussian/royalty/russia/rfl.html Fundamental Laws of the Russian Empire], Chapter 1, Article 7.</ref>。国家評議会はこの目的のために再組織され、勅選議員98名、公選議員98名の計196議員で構成されることとなった。勅任される大臣は国家評議会出身者である。公選議員は6議席が正教会関係、18議席が貴族団、6議席が[[ロシア科学アカデミー|科学アカデミー]]と大学関係者、12議席が商工ブルジョワジー、34議席が県[[ゼムストヴォ]]、22議席がゼムストヴォのない県の大土地所有者であったref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.397.</ref>。国家評議会は立法機関としてドゥーマと同等の権限を有していたが、立法を率先することは稀であった<ref name=Britannica873>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/873/mode/1up|publisher=|page=873|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。二院の一つとなった国家評議会は保守派の牙城となり、[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]大臣会議議長(首相)の土地改革に抵抗している<ref name=kokkahyougikai/>。 |
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===ドゥーマ=== |
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{{Main|ドゥーマ}} |
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[[File:Зал заседаний государственной думы 1906-1917.jpg|thumb|275px|left|ドゥーマ。1917年撮影。]] |
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ドゥーマ(''Ду́ма'':国会)は1905年の十月詔書により創設された代議制議会である。ロシア帝国の立法機関は二院制で国家評議会が上院、ドゥーマは下院にあたる。議員数は1907年の時点で442人である<ref name=Britannica873/>。選挙方式は所有財産によって別けられた地主、都市(ブルジョワジー)、農民、労働者の4つのグループからなる複雑な[[間接選挙]]方式で、地主やブルジョワジーに極めて有利な制度であった。1906年4月23日に発布された国家基本法(憲法)では皇帝は依然として専制君主と規定されており、法案の[[拒否権]]とドゥーマの解散権を留保した<ref name=iwama410411>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.410-411.</ref>。大臣会議議長(首相)と大臣は皇帝の任命によるもので、議会に対して責任を負う[[責任内閣制]]でもなかった。また、予算審議権も戦時関係予算や勅令・法律による歳入出はドゥーマの管轄外であるなど制約の多いものであった<ref name=tanakata398/>。 |
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1906年4月27日に開会されたドゥーマは地主の1票がブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当にする選挙制度そして政府の選挙干渉にも関わらず、自由主義左派の[[立憲民主党]](カデット)が第一党となった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.411.</ref><ref name=duma>{{cite web|title=ドゥーマ- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%9E/|author=木村英亮|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月19日}}</ref>。このドゥーマは立憲民主党が地主の土地の強制収用を含む大胆な土地改革を強硬に主張したために紛糾し、7月8日に軍隊が投入されて強制解散された<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.411-412</ref>。('''第一ドゥーマ''') |
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次の選挙には[[社会革命党]](エスエル)と[[ボリシェヴィキ]]も加わり、その結果、社会主義諸派が議席の40%を占めるより急進的な構成となった<ref>[[#松田(1990)|松田(1990)]],p.206;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.412.</ref>。1907年2月20日に開会されたドゥーマは[[ピョートル・ストルイピン|ストルイピン]]大臣会議議長(首相)の土地改革に従おうとせず、6月3日に解散された<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.403-404.</ref><ref name=duma/>。('''第二ドゥーマ''') |
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ストルイピンは解散と同時に新選挙法を発布させ、これは更に地主に有利な制度であり、地主の1票は農民の260票、労働者の540票に相当した({{仮リンク|6月3日クーデター|en|Coup of June 1907}})<ref name=iwama410411/>。1907年11月1日に新選挙法の元で選ばれた政府寄りの自由主義右派{{仮リンク|十月党|en|Union of October 17}}(オクチャブリスト)を中心とするドゥーマが開会され、1912年6月9日までの会期を全うした。('''第三ドゥーマ''') |
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1912年11月に第三国会と同じ選挙法の元で選ばれた'''第四ドゥーマ'''が開会された。第四ドゥーマ中の1914年に第一次世界大戦が勃発した。戦争指導を巡って政府とドゥーマとの対立が激化し、立憲民主党や十月党左派、その他諸派の中道自由主義者が{{仮リンク|進歩ブロック|en|Progressive Bloc (Russia)}}を結成して[[責任内閣制|信任内閣]]を要求している<ref>[[#田中他(1997)|田中他(1997)]],p.17;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.429.</ref>。1917年に[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こると、議員たちは{{仮リンク|国会臨時委員会|en|Provisional Committee of the State Duma}}を組織して権力掌握に動き、社会主義者の労働者・兵士ソビエトと[[ロシア臨時政府|臨時政府]]を組織してニコライ2世に退位を求め、帝政を崩壊させることとなる。 |
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===大臣委員会と大臣会議=== |
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[[File:Sergey Yulievich Vitte.jpg|thumb|150px|初代大臣会議議長セルゲイ・ヴィッテ<br>(在任1905年 - 1906年)]] |
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大臣委員会(''Комитет Министров'')は国家の高等行政に関する事務を審査をする機関である。[[アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の改革の一環として、1802年にそれまでの参議会制に代わる省庁制が設けられると同時に大臣委員会が置かれた。ナポレオン戦争期にはその権能が拡張し、皇帝が出征中は国家行政事務の全てを担った<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],pp.71-72.</ref>。[[ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)の時代に大臣委員会の権能が定められ、第一に各大臣および元老院の権限以外の重要事項について協議すること、第二に公安、公共糧食、正教会の保護および公共交通とくに鉄道敷設の許認可に関することとなった<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],pp.72-73.</ref>。その他、地方行政の監督も大臣委員会の職責であった<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.73.</ref>。 |
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1905年10月18日法により大臣委員会は改組され、皇帝を補佐する最高行政機関として[[ロシアの首相|大臣会議議長]]([[首相]]に相当)を長とする{{仮リンク|ロシア帝国大臣会議|label=大臣会議|en|Council of Ministers of Russia}}(''Совета министров'')が創設された。これは諸国の内閣に相当するもので、各省大臣と主要行政機関の長によって構成される。1905年にロシア側全権代表として日本と[[ポーツマス条約]]を締結して帰国したセルゲイ・ヴィッテが初代大臣会議議長となった。 |
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|+ 大臣会議議長(首相) |
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! 歴代 !! 氏名 !! 在任 |
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| 1 || [[セルゲイ・ヴィッテ]]|| 1905年10月24日 - 1906年4月22日 |
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| 2 || [[イワン・ゴレムイキン]] || 1906年4月22日 - 1906年7月8日 |
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| 3 || [[ピョートル・ストルイピン]] || 1906年7月8日 - 1911年9月5日 |
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| 4 || [[ウラジーミル・ココツェフ]] || 1911年9月5日 - 1914年1月30日 |
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| 5 || [[イワン・ゴレムイキン]] || 1914年1月30日 - 1916年1月20日 |
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| 6 || [[ボリス・スチュルメル]] || 1916年1月20日 - 1916年11月10日 |
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| 7 || [[アレクサンドル・トレポフ]] || 1916年11月10日 - 1916年12月27日 |
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| 8 || [[ニコライ・ゴリツィン]] || 1916年12月27日 - 1917年2月27日 |
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|} |
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*年月日は露暦([[ユリウス暦]])<ref name=koyomi group=n/>。 |
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===宗務院=== |
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{{Main|聖務会院}} |
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[[file:Senatesynod.jpg|thumb|250px|旧元老院及び宗務院本部。<br>サンクトペテルブルク、{{仮リンク|デカブリスト広場|en|Decembrists Square}}。]] |
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1700年に[[モスクワ総主教]]{{仮リンク|アドリアン (モスクワ総主教)|label=アドリアン|en|Adrian of Moscow}}が死去すると[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は後任の選出を許さず、1721年に正式に総主教座を廃止し、ロシア正教会を統括する最高機関としての[[聖務会院|宗務院]]<!--ウィキペディア日本語版の項目名は「聖務会院」だが、参考文献のほとんどが全てが「宗務院」、一部が「聖宗務院」、明治期の1件「教務院」、「聖務会院」は高橋保行氏の著作だけであったため、この項目では「宗務院」を用いる。-->(''Святейший Правительствующий Синод'':聖宗務院、聖務会院、シノドとも訳される)を設立させた<ref name=tanaka42 group=n>1720年の設立当初の名称は「聖職参議会」で、翌1721年に元老院と同格の「宗務院」に改称された。[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.42.</ref><ref>森安達也【シノド】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.246.</ref>。基本法は「教会の政治に於いては君主の独裁権は宗務院を媒介として行動すべきものである」と規定している<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.83.</ref>。 |
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宗務院の職務は第一に教義の正統解釈と聖職者の監督そして宗教出版物の検閲、第二に宗教教育機関および1885年に設置された教区小学校の管理、第三は行政もしくは司法の全ての教会事務の最高法廷そして婚姻に関する事務の採決である<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.84.</ref>。 |
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宗務院のメンバーは皇帝の代理人である俗人の宗務院総監と[[モスクワ総主教・モスクワ府主教の一覧|モスクワ]]、サンクトペテルブルク、キエフの3[[府主教]]、グルジア[[総主教代理]]そして幾人かの[[主教]]が交替で務めた<ref name=Britannica875/>。 |
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===元老院=== |
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1711年に[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は出征中に内政を預かる{{仮リンク|元老院 (ロシア)|label=元老院|en|Governing Senate}}(セナート:''сенат'')を設けて9人の議員を任命した。当初は臨時の措置であったが、これが常設化して行政・司法の執行に関する監督と立法を司る国政の中心機関となった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.26.</ref>。[[エカチェリーナ1世]](在位1725年 - 1727年)と[[ピョートル2世]](在位1727年 - 1730年)の時代には[[最高枢密院]]が権力を握り元老院はこれに従属させられたが、[[アンナ (ロシア皇帝)|アンナ]](在位1730年 - 1740年)は即位直後に最高枢密院を廃止している。[[エリザヴェータ (ロシア皇帝)|エリザヴェータ]](在位1741年 - 1761年)の時代に元老院は権力を回復した<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.232.</ref>。その後、アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の大臣委員会創設によって権限が減少して、主に最高司法機関として機能するものとなった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.114;[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.80.</ref>。 |
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帝政末期の元老院は複数の部から構成され、法律の布告および解釈、地方行政官職の監督、行政裁判、商業裁判所そして刑事および民事の破棄院([[最高裁判所]])としての広範な権限を有していた<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],pp.80-82.</ref>。元老院は帝国の行政に関わる全ての紛争に対する最高管轄権を有しており、とりわけ、中央政府の代理人と地方自治機関との間の係争を取り扱っていた<ref name=Britannica875>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/875/mode/1up|publisher=|page=875|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。また、元老院は新法の登記と布告を審査する役割を持ち、基本法に反するものを拒否する権限があった<ref name=Britannica875/>。 |
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===参議会と省庁=== |
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[[File:VO Universitet 12 Kollegiy 15-04-2004.jpg|thumb|250px|参議会があったДвeнaдцaть Коллегий(12コレギア館)。1722年から1744年建築。<br>[[サンクトペテルブルク大学]]敷地内。]] |
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[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の行政改革の一環として、管轄範囲が明確でない[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1584年)以来の[[官署制|官署]]が廃止されて、新たに北欧諸国の制度に倣った合議制で運営される{{仮リンク|参議会 (ロシア)|label=参議会|ru|Коллегии (Российская империя)}}(コレギア:''Коллегии'')が設置された<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.26-27.</ref>。外務、陸軍、海軍を「主要」とし、都市、所領、司法、歳出、監査、商業、工業、鉱業といった参議会が設けられている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.26;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.233.</ref>。 |
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その後、参議会は責任の所在が曖昧で非効率になり、[[パーヴェル1世]](在位1796年 - 1801年)の時代に改革が試みられ、合議制から専決制に代えられた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.264.</ref><ref>鳥山成人【ロシア帝国】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.682-689.</ref>。彼の暗殺後に即位した[[アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)が参議会を廃止して、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8部の大臣を任命し、[[省庁制]]を発足させた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.114;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.268.</ref>。 |
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帝政末期の20世紀初頭の時点では以下の省庁が存在した<ref name=Britannica875/>。 |
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*{{仮リンク|宮内省 (ロシア)|label=宮内及御料省|en|Ministry of the Imperial Court}} |
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*[[ロシア外務省|外務省]] |
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*[[ロシア帝国軍事省|軍事省]] |
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*[[ロシア海軍|海軍省]] |
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*{{仮リンク|大蔵省 (ロシア帝国)|label=大蔵省|en|Ministry of Finance of the Russian Empire}} |
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*商工省(1905年創設) |
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*[[ロシア内務省|内務省]](警察、保健、検閲と報道、逓信、外国宗教、統計を含む) |
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*{{仮リンク|国有財産省|label=農務及国有財産省|en|Ministry of State Property}} |
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*逓信省 |
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*{{仮リンク|司法省 (ロシア)|label=司法省|en|List of Ministers of Justice of Imperial Russia}} |
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*{{仮リンク|国民啓蒙省|label=国民啓蒙省|en|List of Ministers of National Enlightenment}} |
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=== 官等表 === |
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[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の時代、1722年に14の官等からなる官吏および軍人の位階が定められた({{仮リンク|官等表|en|Table of Ranks}})。中等教育修了者は官吏になることができ、昇格は勤務年数で決められており、九等官で一代貴族、四等官で世襲貴族になれた<ref>和田春樹【官僚制】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.130.</ref>。 |
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1899年時点の官等は以下の通り(第11等と第13等は廃止)。 |
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{| class="wikitable" style="text-align:center" |
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|- |
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! 等級 !! 文官 !! 陸軍 !! 海軍 |
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|- |
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| 第一等 || 大臣(Канцлер)<br>一等枢密議官(Действительный тайный советник 1-го класса) || 陸軍元帥(Генерал-фельдмаршал ) || 海軍総督(Генерал-адмирал) |
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|- |
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| 第二等 || 現任枢密議官(Действительный тайный советник) || 大将(Генерал) || 提督(Адмирал) |
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|- |
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| 第三等 || 枢密議官(Тайный советник) || 中将(Генерал-лейтенант) || 副提督(Вице-адмирал) |
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|- |
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| 第四等 || 現任発事官(Действительный статский советник) || 少将(Генерал-майор) || 小提督(Контр-адмирал) |
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|- |
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| 第五等 || 発事官(Статский советник) || 参謀官 || - |
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|- |
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| 第六等 || 集議官(Коллежский советник) || 大佐(Полковник) || 艦長(Капитан 1-го ранга) |
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|- |
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| 第七等 || 参事官(Надворный советник) || 中佐(Подполковник) || 副艦長(Капитан 2-го ранга) |
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|- |
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| 第八等 || 参事官補(Коллежский асессор) || - || - |
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|- |
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| 第九等 || 名義参事官(Титулярный советник) || 大尉(Штабс-капитан) || 大尉(Лейтенант) |
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|- |
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| 第十等 || 書記官(Коллежский секретарь) || 中尉(Поручик) || - |
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|- |
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| 第十一等 || 廃止 || - || - |
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|- |
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| 第十二等 || 地方書記官(Губернский секретарь) || 少尉(Подпоручик) || 士官候補(Унтер-лейтенант) |
|||
|- |
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| 第十三等 || 廃止 || - || - |
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|- |
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|style="white-space:nowrap"| 第十四等 || 録事(Коллежский регистратор) || 少尉補(Фе́ндрик) || - |
|||
|} |
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*官職の日本語訳は次による。{{Cite book|和書|author=|translator=民友社|editor=露国政府編|year=1899|title=露国事情|series=|publisher=民友社|url={{近代デジタルライブラリーURL|40010729}}|page=115-116}} |
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==司法制度== |
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[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は当時の西欧で主流であった糾問主義手続きの[[司法|司法制度]]を導入した。[[民事裁判|民事]]および[[刑事裁判|刑事]]の裁判は非公開手続きであった<ref name=Britannica877/>。全ての裁判は書面審理で行われ、判事は判決時にのみ当事者および傍聴人と対面した<ref name=Britannica877/>。この非公開性と判事の報酬が僅かであったことが組み合わさり、贈賄と汚職が蔓延することとなった<ref name=iwama318/>。法廷の調査は複数回あったが(5、6回またはそれ以上)、悪行の回数を増やすだけであった<ref name=Britannica877/>。証拠書類は法廷から法廷へと積み上げられたが、その書類を書いた事務官だけがその要旨を語ることができる類のものであり、費用がかさんだ<ref name=Britannica877/>。これに加えて、大量の勅令、法令そして慣習法(これらはしばしば矛盾した)により、法廷の運営はよりいっそう遅滞し、混乱した<ref name=Britannica877/>。さらに、司法と行政の線引きはなかった。判事は専門家ではなく、彼らは官吏に過ぎず、偏見と悪徳が蔓延していた<ref name=Britannica877>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/877/mode/1up|publisher=|page=877|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。 |
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帝政終焉まで続くロシア帝国の司法制度は「解放皇帝」[[アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の{{仮リンク|アレクサンドル2世の司法改革|label=1864年勅令|en|Judicial reform of Alexander II}}によって成立した。英仏の制度を部分的に取り入れた司法制度は司法と行政の分離、判事と法廷の独立、公開裁判と口頭審理、法の前での全ての身分の平等といった幾つかの大まかな原則によって成立している<ref name=iwama318>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.318.</ref>。その上、[[弁護士|弁護士制]]と[[陪審制]]の採用によって民主主義的要素も取り入れられた。これらの諸原則による司法制度の確立は司法を行政の範囲の外に置くことにより、専制に終わらせ、ロシア国家の概念に大きな変化をもたらした。しかしながら、1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件以降には幾らかの反動が見られるようになった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.226-227.</ref>。 |
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1864年勅令によって成立した制度は英仏形式の二つの完全に分けられた法廷から成り、おのおのが独自の[[高等裁判所|上訴裁判所]]を有し、最高裁判所の役割を果たす元老院にのみ連携する。イギリス形式のものは選挙で選ばれた{{仮リンク|治安判事 (ロシア)|label=治安判事|en|justices of the peace (Russia)}}の法廷で民事刑事の軽微な事件を管轄し、郡治安判事会議に上訴できる<ref name=iwama318/>。もう一つのフランス形式の任命された判事による普通裁判所は重要事件を扱い、陪審員の置かれた地方裁判所、控訴院そして最高裁判所に当たる元老院の三審制である<ref name=iwama318/>。また、農民の軽犯罪・民事は農村共同体の郷裁判所において旧来の慣習法で裁かれる<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.215.</ref>。 |
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これらとは別に聖職者の規律や離婚を扱う宗教裁判所、そして軍人に対する軍法会議があり、政治犯は軍法会議で裁かれる<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.226;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.318-319.</ref>。 |
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==地方行政== |
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===行政区分=== |
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{{main|ロシア帝国の県の一覧|ロシア帝国の州の一覧}} |
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[[file:Subdivisions of the Russian Empire in 1914.svg|thumb|300px|1914年時点のロシア帝国の行政区分。]] |
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1914年時点のロシアは81県([[グベールニヤ]])、20州([[オーブラスチ]])そして1行政庁([[:en:okrug|okrug]])の行政単位に分かたれていた。ロシア帝国は中央アジアの[[ブハラ・ハン国]]と[[ヒヴァ・ハン国]]を[[保護国]]としており、1914年には[[トゥヴァ共和国|トゥヴァ]]が加えられている。 |
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11県、17州そして[[樺太|サハリン]]行政庁がアジア・ロシアに属している。8県がフィンランド、10県がポーランドである。残りはヨーロッパ・ロシアで59県と1州(ドン軍管州)となる。ドン州は軍事省の管轄下にあり、その他の諸県州には知事と副知事(行政評議会議長)が置かれていた。これに加えて、複数の県を管轄し、駐留軍の指揮権を含む広範な権限を有する総督が置かれている。1906年時点でフィンランド、{{仮リンク|ワルシャワ総督府|label=ワルシャワ|ru|Варшавское генерал-губернаторство}}、イルクーツク、キエフ、モスクワ、{{仮リンク|沿アムール総督府|label=アムール|ru|Приамурское генерал-губернаторство}}、[[トルキスタン総督府|トルキスタン]]、[[ステップ総督府 |ステップ]]そして{{仮リンク|カフカース総督府|label=カフカース|en|Viceroyalty of the Caucasus}}に総督府が存在していた。 |
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サンクトペテルブルク、モスクワ、[[オデッサ]]、[[セヴァストポリ]]、[[ケルチ]]、[[ムィコラーイウ|ニコラエフ]]、[[ロストフ・ナ・ドヌ|ロストフ]]といった大都市は県知事から独立した独自の行政制度があり、[[警察署長]]が長官の役割を果たした<ref name=Britannica876>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/876/mode/1up|publisher=|page=876|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref>。 |
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===地方自治機関=== |
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中央政府の地方組織とともに、ロシアには行政の役割を果たす3つの公選による自治機関が存在する。 |
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#農村共同体を基礎とした村団と郷。 |
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#ヨーロッパ・ロシア34県に置かれた[[ゼムストヴォ]]。 |
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#都市ドゥーマ。 |
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====ミールとヴォロースチ==== |
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[[File:KorovinS NaMiru.jpg|thumb|200px|ミール(農村共同体)の集会。<br>Sergey Alekseevich Korovin画。1893年。]] |
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その起源が定かではない農村共同体({{仮リンク|ミール (農村共同体)|label=ミール|en|Obshchina}}''мир''またはオプシナチ''о́бщина'')は、村ごとの農民の自治組織である<ref>{{cite web|title=ミール- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%88%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%EF%BC%89/|author=伊藤幸男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月11日}}</ref>。ミールは村長と各世帯の家長たちからなる村会を持ち、村の行政と司法そして耕地の割替を行っていた<ref name=mir>保田孝一【ミール】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp. 571-572.</ref>。耕地や森林、牧草地は農民個人のものではなくミールの共同所有とされ、政府はミールを利用して徴税や賦役を課しており、農奴解放後も土地の共同所有は変わらず、却ってミールの役割が強化されることとなった<ref name=mir/>。[[アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の行政改革で、農村共同体を基礎に地方行政の末端機関としての村団(セーリスコエ・オブシチェストヴォ:''Cельское общество'')が組織された<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.227;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.217-218.</ref>。 |
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幾つかの村団が集まって郷({{仮リンク|ヴォロースチ|en|volost}}:''волость'')を構成しており、村団の代表者による集会を持っていた。この集会で郷長が選ばれおり、また郷裁判所が持たれ、ここでは軽犯罪や民事訴訟などを取り扱っていた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.318-319.</ref>。 |
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====ゼムストヴォ==== |
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{{main|ゼムストヴォ}} |
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[[File:Grigorij Grigorjewitsch Mjassojedow 001.jpg|thumb|275px|left|『ゼムストヴォの昼食』<br>Grigoriy Myasoyedov画。1872年。<br>貴族議員が食堂で食事をし、農民議員は屋外で食べている。]] |
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[[アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の行政改革の一環として、1864年に34県とドン軍管州およびこれに属する郡に地方自治機関である[[ゼムストヴォ]](''Земство'')が設置された。郡ゼムストヴォには住民によって選挙された郡会とこれに指名されたメンバーによる執行機関の郡参事会があった。県ゼムストヴォの県会および参事会は郡会の代表者によって構成される。ゼムストヴォは地主、都市居住民そして郷(ヴォロースチ)が別々に代議員を選挙していた<ref name=Zemstvo>鈴木健夫【ゼムストボ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.316.</ref><ref>{{cite web|title=ゼムストボ- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9C/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月11日}}</ref>。参事会は次の五つの階級から選出された。(1)590エーカー以上を有する大地主は1議席(2)中小地主および聖職者の代表(3)裕福な都市住民の代表(4)都市中産階級の代表(5)ヴォロースチから選出された農民の代表である<ref name=Britannica876/>。 |
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創設当初のゼムストヴォには地域の課税、教育、保健、道路整備などといった広範な権限が与えられていたが、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代に厳しい制限を加えられている。この結果、郡ゼムストヴォは県知事、県ゼムストヴォは内務省に従属することとなり、ゼムストヴォの決議すべてに県知事・内務省の同意が必要とされ、県知事と内務省は議員たちを統制する強力な権限を有するようになった。 |
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ゼムストヴォの選挙人資格には財産規定があり、このため郡会、県会ともに代議員は貴族・地主が常に優勢であったが、1870年代以降、ゼムストヴォは立憲制を求める自由主義者たちの拠点と化しており、1906年に開設された国会の自由主義政党(立憲民主党や十月党)の母体となった<ref name=Zemstvo/>。 |
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{{-}} |
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====都市ドゥーマ==== |
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1870年の新都市法の発布以降、ヨーロッパ・ロシアの市当局はゼムストヴォと同様の代議制都市自治機関(都市ドゥーマ)を持つようになった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.224.</ref>。家主、納税している商人・職人・労働者は資産量の順番にリストに記載されていた。財産所有評価によって三つのグループに分かたれ、当然各グループの人数は大きく異なるのだが、各々が同人数の都市ドゥーマ議員を選出する。行政部は選挙された市長や都市ドゥーマから選ばれたメンバーによる都市参事会が執り行った。しかしながら、[[アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の治世にゼムストヴォと同じく、都市ドゥーマは県知事や警察に従属させられた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.225.</ref>。1894年と1895年にシベリアとカフカースの幾つかの都市に(より一層制限されたものではあるが)都市ドゥーマが設けられている。 |
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==軍事== |
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=== 陸軍 === |
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| caption1 = 17世紀末、ピョートル1世時代の兵士・下士官・将校。 |
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| caption2 = 18世紀半ば、エカチェリーナ2世時代の兵士。 |
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}} |
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[[File:Самокиш. Атака литовцев.jpg|thumb|300px|1812年の[[ボロジノの戦い]]でのロシア兵。]] |
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17世紀末時点の[[ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)のロシア軍は約16万の兵力を有しており、この規模は他のヨーロッパ諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった<ref name=tanakata30>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.30.</ref>。だが、[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)緒戦の[[ナルヴァの戦い]](1700年)でロシア軍は[[カール12世 (スウェーデン王)|カール12世]]の[[スウェーデン軍]]に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世が[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド=リトアニア=ザクセン]]制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに都市民や農民を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な徴兵制度ははじめてであった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.14-15.</ref>。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった<ref name=doita408409>[[#土肥他(2009b)|土肥他(2009b)]],pp.408-409.</ref>。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた<ref name=doita408409/>。貴族の国家勤務査閲を強化して[[将校]]の養成を行い<ref>[[#阿部(1966)|阿部(1966)]],p.129.</ref>、不足は外国人を雇用していたが、1721年の段階でほぼロシア人将校で充足することができるようになっている<ref>[[#土肥他(2009b)|土肥他(2009b)]],pp.407-408;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.30.</ref>。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された<ref name=tanakata30/>。これら軍制改革で強化されたロシア軍は[[ポルタヴァの戦い]](1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。 |
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18世紀のロシア軍は数次にわたる[[オスマン帝国]]や[[ペルシア]]との戦争に勝利して領土を拡大させ、[[七年戦争]]では[[プロイセン国王|プロイセン王]][[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ2世]]を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀の[[ナポレオン戦争]]ではロシア軍は[[アウステルリッツの戦い]](1805年)や[[フリートラントの戦い]](1807年)で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]に敗北したものの、[[1812年ロシア戦役|ロシア遠征]]に向かったナポレオンに破滅的な大敗を喫しさせ、最終的な勝利者となった[[アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.275</ref>。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた[[ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)は欧州政治に積極的に介入し、軍事力を持って[[ポーランド立憲王国|ポーランド]]や[[ハンガリー]]の革命運動を粉砕している。 |
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しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり<ref>[[#藤沼(1966)|藤沼(1966)]],p.549.</ref>、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった<ref name=cyclopediarussia683>鳥山成人【ロシア帝国】[クリミア戦争の敗北と軍制改革][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.683..</ref>。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては刑罰同然のものと考えられ<ref name=iwama319>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.319.</ref>、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での体罰や病気での死亡率も高かった<ref name=cyclopediarussia683/>。 |
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[[クリミア戦争]](1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],p.248.</ref>。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の鉄道網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],pp.248-249.</ref>。ロシア軍は[[セヴァストポリの戦い (クリミア戦争)|セヴァストポリ攻囲戦]](1854年 - 1855年)で英仏軍に敗れて[[黒海]]の非軍事化を含む屈辱的な内容の[[パリ条約 (1856年)|パリ講和条約]]を結ばされ<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],p.251.</ref>、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた<ref>[[#栗生沢(2010)|栗生沢(2010)]],p.92;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.310;[[#鳥山(1968)|鳥山(1968)]],pp.327-328.</ref>。 |
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[[File:Russian soldiers during January Uprising.jpg|thumb|150px|left|19世紀半ばアレクサンドル2世時代の騎兵と歩兵。]] |
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敗戦後、[[アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)は[[大改革]]と呼ばれる[[農奴解放令|農奴解放]]を含んだ行政改革を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、ドイツやフランスの軍隊は国民男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる[[国民皆兵]]であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた<ref>[[#和田(1971)|和田(1971)]],p.249.</ref>。軍事大臣[[ドミートリー・ミリューチン|ミリューチン]]は軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された<ref name=tanakaiwama243319>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.243;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.319.</ref>。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった<ref name=tanakaiwama243319/>。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.243,280.</ref>。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され<ref name=tanakata243>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.243.</ref>、貴族以外からの将校への道も広げられた<ref name=iwama319/>。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された<ref name=tanakata243/>。 |
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[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]](1877年 - 1878年)でロシア軍は[[バルカン半島]]とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末に{{仮リンク|プレヴェン包囲戦|label=プレヴェン要塞を陥落させて|en|Siege of Plevna}}[[イスタンブル]]に迫った。オスマン帝国は[[サン・ステファノ条約]]によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、[[ベルリン会議]]を経て[[モンテネグロ公国|モンテネグロ]]、[[ルーマニア公国|ルーマニア]]そして[[セルビア公国 (近代)|セルビア]]が独立、[[大ブルガリア公国]]が成立している。 |
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[[アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応([[軽騎兵]]や[[槍騎兵]]が[[竜騎兵]]に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている<ref name=Britannica879/>。 |
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[[File:Defenders NGM-v31-p369-A.jpg|thumb|250px|第一次世界大戦開戦時のロシア軍歩兵。]] |
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[[File:TzarNicholasAmongTroops.jpeg|thumb|250px|皇帝がかざした[[イコン]]に礼拝する将兵たち。大戦中、ニコライ2世は最高司令官を務めていた。1914年から1917年撮影。]] |
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[[ニコライ2世]](在位1894年 - 1917年)の時代にはアジア方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された<ref name=Britannica879>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/879/mode/1up|publisher=|page=879|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年3月31日}}</ref>。[[日露戦争]](1904年 - 1905年)開戦時、[[シベリア鉄道]]はバイカル湖迂回区間が未開通であったためヨーロッパ・ロシアからの兵員輸送に時間を要し、糧食の一部は現地調達に頼らざる得なかった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],pp.35-35.</ref>。戦術思想は[[銃剣]]突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],p.37.</ref>。[[機関銃]]は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],p.41.</ref>。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],p.38,.</ref>。将校の質は[[義和団の乱|義和団事件]](1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった<ref>[[#コナフトン(1989)|コナフトン(1989)]],pp.38-39.</ref>。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、[[旅順攻囲戦|旅順要塞]]を失陥し、[[奉天会戦]]でも敗れた。この敗北が[[ロシア第一革命|1905年革命]]を引き起こすことになった。 |
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この時期のロシア軍は正規兵、カザークそして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた<ref name=Britannica879/>。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた<ref name=Livesey13>[[#Livesey(1994)|Livesey(1994)]],p.13.</ref>。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、工場生産の不備から武器弾薬が不足していた<ref>[[#瀬戸(2011)|瀬戸(2011)]],p.37;[[#Livesey(1994)|Livesey(1994)]],p.13.</ref>。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた<ref name=seto37>[[#瀬戸(2011)|瀬戸(2011)]],p.37.</ref>。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車は700台に満たなかった<ref name=seto37/>。 |
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第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の[[東プロイセン]]に攻め込んだが、[[タンネンベルクの戦い (1914年)|タンネンベルクの戦い]]で包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、ポーランド、リトアニアそしてベラルーシ西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の[[総力戦]]となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している<ref name=kuriuzawa116/>。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった<ref>岩間他(1979),p.428.</ref>。1917年に首都[[サンクトペテルブルク|ペトログラード]]で[[2月革命 (1917年)|二月革命]]が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した労働者の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。 |
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=== 海軍 === |
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| caption1 = 1712年に竣工したロシア海軍草創期の戦列艦{{仮リンク|ポルタヴァ (戦列艦)|label=ポルタヴァ|en|Russian ship of the line Poltava (1712)}} |
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| caption2 = 19世紀前半の戦列艦インペラートル・アレクサンドル |
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[[ロシア海軍]]は[[ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)によってつくられた<ref name=tanakata30/>。1695年に[[オスマン帝国]]の属国[[クリミア・ハン国]]領の[[アゾフ]]要塞攻略に失敗したピョートル1世は[[モスクワ]]近郊の町や[[ヴォロネジ]]で平底川船1300艘、[[ガレー船]]22艘、[[火船]]4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.8.</ref>。[[スウェーデン]]との[[大北方戦争]](1700年 - 1721年)では占領した[[イングリア]]やバルト地方に[[クロンシュタット]]をはじめとする造船所をつくり、[[バルチック艦隊]]を建造した<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.9.</ref>。バルチック艦隊は[[ハンゲの海戦|ガングートの海戦]](1714年)や{{仮リンク|グレンガム島沖の海戦|en|Battle of Grengam}}(1720年)で[[スウェーデン海軍|スウェーデン艦隊]]に勝利して[[バルト海]]の[[制海権]]を確保し、戦争の勝利に貢献した。 |
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[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の時代の[[露土戦争 (1768年-1774年)|第一次露土戦争]](1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発した[[アレクセイ・オルローフ|オルローフ]]提督率いるバルチック艦隊が[[ジブラルタル海峡|ジブラルタル海峡]]を経て[[地中海]]に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している<ref name=tanaka38>[[#田中(2009)|田中(2009)]],p.38.</ref>。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世は[[グリゴリー・ポチョムキン|ポチョムキン]]を新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンは[[セヴァストポリ]]を根拠地とする[[黒海艦隊]]を創設する<ref name=tanaka38/>。その後に発生した{{仮リンク|露土戦争 (1787年-1792年)|label=第二次露土戦争|en|Russo-Turkish War (1787–1792)}}(1787年 - 1792年)や[[アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の時の{{仮リンク|露土戦争 (1806年-1812年)|label=第三次露土戦争|en|Russo-Turkish War (1806–1812)}}(1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.11.</ref>。 |
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[[ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)の時代に入ると[[ギリシャ独立戦争]](1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して英仏と連合艦隊を組み、[[ナヴァリノの海戦]](1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利により[[ギリシャ王国|ギリシャ]]を独立へと導いている<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.11-12.</ref>。 |
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1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々に[[パーヴェル・ナヒーモフ|ナヒモフ]]提督の黒海艦隊が[[スィノプ]]港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、港湾機能を破壊した([[シノープの海戦]])<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.12-13.</ref>。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と報道したことにより反ロシア的世論を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.13.</ref>。[[パリ条約 (1856年)|パリ講和条約]]の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた<ref name=Watts14>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.14.</ref>。 |
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Capture of Azov 1696.png|アゾフ攻略(1696年)<br><small>Robert Kerr Porter画。1842年以前。</small> |
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Bogolyubov SrazhPriGangCVMM.jpg|ガングートの海戦(1714年)<br><small>Алексей БОГОЛЮБОВ画。1877年。</small> |
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Navarino-A L Garneray.jpg|ナヴァリノの海戦(1827年)<br><small>Ambroise-Louis Garneray画。1830年頃。</small> |
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Sinope aivaz.jpg|シノープの海戦(1853年)<br><small>[[イヴァン・アイヴァゾフスキー]]画。1853年。</small> |
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[[File:Monitor Bronenosets.jpg|thumb|250px|ロシア軍のモニター艦(砲塔装甲艦)。<br>1863年 - 1914年。]] |
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クリミア戦争の敗戦後、[[アレクサンドル2世]](在位1855-1881)の弟[[コンスタンチン・ニコラエヴィチ|コンスタンチン大公]]が艦隊の再編と近代化を指揮した<ref name=Watts14/>。1860年代に[[帆船|帆走軍艦]]は姿を消し、[[蒸気船|蒸気軍艦]]が主体となった<ref>[[#Conway(1979)|Conway(1979)]],p.171.</ref>。[[南北戦争]]での[[ハンプトン・ローズ海戦]](1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦[[モニター (装甲艦)|モニター号]]に類した沿岸防衛用の[[モニター艦]]を17隻建造している<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],p.14;[[#Conway(1979)|Conway(1979)]],p.172.</ref>。[[普仏戦争]](1870年 - 1871年)にフランスが敗れて[[フランス第二帝政|第二帝政]]が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.14-15.</ref>。[[露土戦争 (1877年-1878年)|露土戦争]](1877年 - 1878年)では発明されて間もない[[魚雷]]を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している<ref>[[#Watts(1990)|Watts(1990)]],pp.15-16.</ref>。 |
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1860年の[[北京条約]]で清国から[[沿海州|沿海地方]]を割譲されており、この地に建設された[[ウラジオストク]]が[[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]]の根拠地となる。1898年に清国から[[大連市|大連]]・[[旅順口区|旅順]]地域を租借したロシアは[[旅順要塞]]を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。 |
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[[File:Knyaz'Suvorov1904Reval.jpg|thumb|left|200px|バルチック艦隊旗艦[[スワロフ]]。]] |
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20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そして[[カスピ海小艦隊|カスピ海艦隊]]から成っていた。[[日露戦争]](1904年 - 1905年)開戦時の戦力は[[前弩級戦艦|戦艦]]21隻(5隻建造中)、[[海防戦艦]]3隻、旧式[[装甲巡洋艦]]4隻、[[装甲巡洋艦]]8隻、[[防護巡洋艦|巡洋艦]]13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり<ref>[[#オレンダー(2010)|オレンダー(2010)]],p.15.</ref>、イギリス、ドイツに次ぐ世界第三位の海軍大国であった<ref name=Gardiner291/>。 |
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日本の[[連合艦隊]]と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は[[旅順口攻撃|旅順港に封じ込められた]]。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが[[黄海海戦 (日露戦争)|黄海海戦]]で大損害を受けて阻止され、[[旅順攻囲戦|旅順陥落]]で全滅した。ヨーロッパ・ロシアから長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は[[日本海海戦]](ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では[[戦艦ポチョムキンの反乱]]が起こっている。この戦争でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った<ref>[[#Conway(1979)|Conway(1979)]],p.172.</ref>。 |
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[[ファイル:Gangut battleship.jpg|thumb|250px|弩級戦艦ガングート。1915年]] |
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1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、[[ドゥーマ]](国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け[[弩級戦艦]]4隻の予算が承認された<ref name=Gardiner291>[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],p.291.</ref>。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年の[[モロッコ事件|モロッコ危機]]で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた<ref name=Gardiner291/>。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった<ref>[[#パイロンズオフィス(1998)|パイロンズオフィス(1998)]],pp.34-35.</ref>。 |
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艦隊再建の途上でロシア海軍は[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は[[機雷戦]]を中心とした防御的なものになった<ref>[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],pp.291-292.</ref>。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦{{仮リンク|マクデブルク (軽巡洋艦)|label=マクデブルク|en|SMS Magdeburg}}から[[暗号|暗号表]]を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている<ref>[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],p.292.</ref>。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けの[[ガングート級戦艦]]4隻と黒海艦隊向けの[[インペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦]]3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と[[ロシア内戦|内戦]]の混乱で全て失われた。 |
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1917年の[[2月革命 (1917年)|二月革命]]で帝政が瓦解し、さらに[[十月革命]]ではバルチック艦隊の水兵が[[ボリシェヴィキ]]に与し、巡洋艦[[アヴローラ (防護巡洋艦)|アヴローラ]]が[[冬宮]]を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、[[ウラジーミル・レーニン|レーニン]]をはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる<ref>[[#ポルトフ(2010)|ポルトフ(2010)]],p.156;[[#Gardiner(1985)|Gardiner(1985)]],pp.292-293.</ref>。 |
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=== 航空隊 === |
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[[File:Bulla Vityaz.jpg|thumb|200px|世界初の4発爆撃機イリヤー・ムーロメツ]] |
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西欧諸国やアメリカと同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行は[[ライト兄弟]]よりも20年近く早い、1884年の[[アレクサンドル・モジャイスキー|モジャイスキー]]によるものであると主張されていた<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.15-16.</ref>。19世紀末に[[コンスタンチン・ツィオルコフスキー|ツィオルコフスキー]]が先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.20-21.</ref>。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれる[[ニコライ・ジュコーフスキー|ジューコフスキー]]がロシア初の航空団体を設立した<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.21-22.</ref>。そして、1914年に[[イーゴリ・シコールスキイ|シコールスキイ]]が世界初の4発飛行機[[イリヤー・ムーロメツ (航空機)|イリヤー・ムーロメツ]]を完成させた。 |
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[[第一次世界大戦]](1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],p.29.</ref>。国産軍用機も存在していたが少数生産に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.29-30.</ref>。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.30-34.</ref>、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあって{{仮リンク|ドイツ帝国軍航空隊|en|Luftstreitkräfte}}を相手に劣勢を強いられている<ref>[[#飯山(2003)|飯山(2003)]],pp.28-30.</ref>。 |
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{{-}} |
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==宗教== |
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{|style="float:right" |
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|style="width:1em"| |
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{|class="wikitable sortable" style="float:right" |
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!宗教 |
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!信者数<ref name=Britannica885/> |
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|[[正教会]]<ref group=n>古儀式派の司祭派は1881年に政府の公認を受けている。</ref> |
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|align=right|87,123,604 |
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|- |
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|[[イスラム教]] |
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|align=right|13,906,972 |
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|- |
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|[[カトリック教会|ローマ・カトリック]] |
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|align=right|11,467,994 |
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|- |
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|[[ユダヤ教]] |
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|align=right|5,215,805 |
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|- |
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|[[ルーテル教会|ルター派]] |
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|align=right|3,572,653 |
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|- |
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|[[古儀式派]]([[無司祭派]])と諸セクト |
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|align=right|2,204,596 |
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|[[アルメニア教会]] |
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|align=right|1,179,241 |
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|- |
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|[[仏教]]と[[チベット仏教|ラマ教]] |
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|align=right|433,863 |
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|- |
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|その他非キリスト教 |
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|align=right|285,321 |
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|- |
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|[[改革派教会|カルヴァン派]] |
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|align=right|85,400 |
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|- |
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|[[メノナイト]] |
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|align=right|66,564 |
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|- |
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|style="width:12em" | {{仮リンク|アルメニア・カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}} |
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|align=right|38,840 |
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|- |
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|[[バプテスト教会]] |
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|align=right|38,139 |
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|[[カライ派]] |
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|align=right|12,894 |
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|- |
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|[[聖公会]] |
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|align=right|4,183 |
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|その他のキリスト教宗派 |
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|align=right|3,952 |
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|} |
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|} |
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1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。 1905年の「[[信教の自由]]に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。 |
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=== 正教会 === |
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{{main|正教会の歴史|ロシア正教会の歴史|古儀式派}} |
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ロシア帝国の[[国教]]は[[正教会]]([[ギリシャ正教]]、東方正教会)である。[[独立正教会|独立教会]][[ロシア正教会]]の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は叙任権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった<ref name=Britannica885/>。 |
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[[File:Cathedral of Christ the Saviour 1903.jpg|thumb|left|200px|モスクワの[[救世主ハリストス大聖堂]]。 1903年撮影。<br>この聖堂は1931年にスターリンの指令によって爆破されている。]] |
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ロシア帝国の多数を占める[[東スラヴ人|東スラヴ系]]の[[ロシア人]]、[[小ロシア|小ロシア人]]([[ウクライナ人]])、白ロシア人([[ベラルーシ人]])は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外では[[ルーマニア人]]([[モルドバ人]])、[[グルジア人]]も正教である。[[フィンランド大公国|フィンランド]]の[[カレリア]]地方の正教徒はロシア革命後の1917年に[[自治教会]][[フィンランド正教会]]を創設している。ウラル・ヴォルガ地方では[[モルドヴィン人]]のほとんどが正教であり、[[ウドムルト人]]、 {{仮リンク|ヴォグル人|en|Mansi people}}、チェレミス人([[マリ人]]) と[[チュヴァシ人]]も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けた[[シャーマニズム]]との混合であった<ref name=Britannica885/>。シベリアでは[[ヤクート|ヤクート人]]が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している<ref name=Yakuts>加藤九祚【ヤクート族】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.606.</ref>。 |
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ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、[[コンスタンディヌーポリ総主教庁]]の管轄下に置かれ、ほとんどの[[府主教]]がギリシャ人であったが<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],p.74.</ref>、[[東ローマ帝国]]が衰退して[[フィレンツェ公会議|バーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議]]で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.74-75.</ref>。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワは[[ローマ帝国]]の[[ローマ]]、東ローマ帝国の[[コンスタンティノープル]]([[古期ロシア語]]ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「[[モスクワ第3ローマ論|第三のローマ]]」であるという言説が見られるようになった<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.54;[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.76-78..</ref>。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教[[イェレミアス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)|イェレミアス2世]]より、独立教会の祝福を正式に受け、[[モスクワ総主教]]座が成立した<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.80-84.</ref>。 |
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[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.170.</ref>。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の[[国教会]]的な組織に改編すべく、教会改革を断行した<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],p.115.</ref>。1700年に[[モスクワ総主教]]{{仮リンク|アドリアン (モスクワ総主教)|label=アドリアン|en|Adrian of Moscow}}が死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実な[[フェオファン・プロコポヴィチ|フェオファン]]大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、[[モスクワ総主教|総主教]]位を廃止して合議制の[[聖務会院|宗務院]]を設け<ref name=tanaka42 group=n/>、教会を国家権力の統制下に置かせた<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.118-121.</ref>。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した<ref name=seikyoukai679>森安達也【ロシア正教会】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.679-680.</ref>。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた<ref name=tanak41/>。 |
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ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人<ref name=Yakuts/>といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、[[ムスリム]]に対しては概して上手くゆかなかった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.63-65.</ref>。[[タタール人]]の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らは[[#貴族|ロシア貴族]]化したが<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.51-53.</ref>、民衆はごく一部が改宗したのみで<ref group=n>正教徒となったタタール人は[[クリャシェン]]と呼ばれる。18世紀初頭に2万人前後、19世紀末には11万となったが、その後激減しており、2002年現在は2万5000人程度になっている。[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],p.56.</ref>、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に[[棄教]]者が続出する事態が起こっている<ref>[[#高田(2012)|高田(2012)]],pp.144-147;[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.62-63,93.</ref>。[[バシキール人]]は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し<ref>青木節也【バシキール自治共和国】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.451-452.</ref>、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアの[[トルキスタン総督府]]では正教会による[[宣教]]自体が禁止されていた<ref>西山克典+宇山智彦【ロシア正教会】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],pp.531-534.</ref>。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半に{{仮リンク|ニコライ・イヴァーノヴィチ・イリミンスキー|label=イリミンスキー|ru|Ильминский, Николай Иванович}}が洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる<ref>[[#高田(2012)|高田(2012)]],pp.145-148</ref>。 |
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帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、[[アラスカのインノケンティ|聖インノケンティ・ヴェニアミノフ]]はロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年に[[アラスカ購入|アラスカが売却]]されるとロシア正教会は[[アメリカ合衆国]]へと進出して1872年に[[サンフランシスコ]]、1905年には[[ニューヨーク]]に主教座が設けられている<ref>[[#高橋(1980)|高橋(1980)]],p.155.</ref>。日本へは、1861年に宣教師[[ニコライ・カサートキン|ニコライ]]が来日して、後の[[日本ハリストス正教会]]の基礎を築いている。 |
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[[File:Flickr - …trialsanderrors - Sergei Prokudin-Gorskii, Solovetskii monastery, Solovetski Islands, Russia, 1915.jpg|thumb|210px|[[ソロヴェツキー修道院]]。<br>古儀式派の拠点となり、1668年から1676年まで抵抗を続けた。<br>[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影の最初期のカラー写真。1915年。]] |
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ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.254.</ref>、ロシア語と正教を強制する[[ロシア化]]政策が強化された19世紀後半の[[アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の時代には[[コンスタンチン・ポベドノスツェフ|ポベドノスツェフ]]宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアの[[タタール人]]に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.336-338.</ref>。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している<ref name=CatholicEncyclopedia264>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=http://www.archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/264/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=264|accessdate=2012年3月11日}}</ref>。 |
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帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の[[地方公会]](1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた<ref name=hirooka>{{cite web|title=20世紀のロシア正教会 チーホンからアレクシー2世へ(1)|url=http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/sympo/Proceed97/hiro.html|publisher=[[北海道大学スラブ研究センター|スラブ研究センター]]|author=[[廣岡正久]]|page=|accessdate=2012年3月17日}}</ref>。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されて[[ティーホン (モスクワ総主教)|ティーホン]]が総主教に選出されるが<ref>[[#廣岡(1993)|廣岡(1993)]],pp.127-130.</ref><ref name=hirooka/>、この後、ロシア正教会は[[無神論]]の[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる<ref>{{cite web|title=ロシア正教会- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A/|author=[[田口貞夫]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年3月12日}}</ref>。 |
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20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の[[府主教]](サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の[[大主教]]、50人の主教がいた<ref name=Britannica885>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/885/mode/1up|publisher=|page=885|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月23日}}</ref>。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と[[礼拝堂]]が60,000、公認された[[修道院]]298、[[女子修道院]]400があり、[[司祭]]45,000人、[[長司祭]]2,400人、[[輔祭]]15,000人、[[修道士]]・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた<ref name=CatholicEncyclopedia263>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=http://www.archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/263/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=263|accessdate=2012年3月10日}}</ref>。 |
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17世紀の総主教{{仮リンク|ニーコン|en|Patriarch Nikon}}の典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]](在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から[[破門]]を受けた<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],pp.76-78;廣岡(1993),pp.97-98,112-114..</ref>。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは[[古儀式派]](スタロオブリャージェストヴォ:''Старообрядчество'')<ref group=n>分離派(ラスコーリニキ:''раскольники'')とも呼ばれる。</ref>と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.210,254.</ref>、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.43,98-99.</ref>。 |
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古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とする{{仮リンク|司祭派|en|Popovtsy}}と無用とする[[無司祭派]]とに分裂した<ref name=raskoliniki/>。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている<ref name=raskoliniki>森安達也【ラスコーリニキ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.617.</ref>。18世紀後半の[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p254.</ref>、[[ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、[[アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.338-339.<br>外川継男【ポベドノスツェフ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.549.</ref>。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている<ref name=raskoliniki/>。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.339.</ref>。 |
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グルジアには5世紀以来の独立教会[[グルジア正教会]]が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている<ref name=cyclopediacentraleurasia180>高橋清治【グルジア正教会】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],p.180.</ref>。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝での[[グルジア語]]の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている<ref name=cyclopediacentraleurasia180/>。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは[[第二次世界大戦]]中の1943年のことであった。 |
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=== 正教会以外のキリスト教 === |
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[[File:Krakowskie 016.jpg|thumb|200px|ワルシャワの{{仮リンク|聖十字架教会 (ワルシャワ)|label=聖十字架教会|en|Holy Cross Church, Warsaw}}。1890年代撮影]] |
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[[ポーランド人]]とほとんどの[[リトアニア人]]は[[カトリック教会|ローマ・カトリック]]である。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は[[東方典礼カトリック教会]]、アルメニア人の一部は{{仮リンク|アルメニア・カトリック教会|en|Armenian Catholic Church}}に属していた。[[エストニア人]]を含む全ての西部[[フィン人]]、[[バルト・ドイツ人|ドイツ人]]そして[[スウェーデン人]]は[[プロテスタント]]であり、[[ルーテル教会|ルター派]]は[[バルト三国|バルト地方]]、[[イングリア]]そして[[フィンランド大公国]]での支配的宗派であった。[[アルメニア]]には独自の[[アルメニア教会]]が存在する。 |
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1721年の[[ニスタット条約]]でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。 |
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18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシ<ref group=n>ロシア編入時、ベラルーシ住民の75%が合同派教会だった。[[#服部(2004)|服部(2004)]],p.23.</ref>の合同派教会([[ウクライナ東方カトリック教会]])に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる<ref>[[#ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)|ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)]],p.160,221.</ref>。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる<ref>[[#ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)|ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)]],p.210-211.</ref>。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起([[1月蜂起|一月蜂起]])が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている<ref>[[#ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)|ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)]],p.220</ref>。1882年に[[アレクサンドル3世]](在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約([[コンコルダート]])が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた<ref>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=http://www.archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/259/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=259|accessdate=2012年3月25日}}</ref>。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.337.</ref>。 |
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19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自の[[アルメニア教会]]が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた<ref name=centraleurasia45>吉村貴之【アルメニア教会】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],p.45.</ref>。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された<ref>[[#中島(2009)|中島(2009)]],p.77;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.338.</ref>。[[ニコライ2世]](在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている<ref>[[#中島(2009)|中島(2009)]],p.77.</ref><ref name=centraleurasia45/>。 |
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帝政時代のロシアでは聖霊キリスト教系のさまざまな異端諸派([[セクト]])が生じており、有力なものには[[ドゥホボール派]]<ref>森安達也【ドゥホボル派】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.388.</ref>や信者が100万人達した[[モロカン派]]<ref>森安達也【モロカン派】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.603-604.</ref>がある。またこの時代の極端なセクトの事例としてはフルイスト派(鞭身派)やスコプツィ派(去勢派)が知られる<ref group=n>フルイスト派やスコプツィ派については次の論考を参照。*{{Cite book|和書|author=青山太郎|translator=|editor=|year=2001|title={{PDFlink|[https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/5362/1/slc013p121.pdf ロシアの性愛論 (7) : 去勢派]}}|series=言語文化論究 13|publisher=九州大学学術情報リポジトリ|isbn=|ref=}}</ref>。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた<ref>森安達也【キリスト教】[異端諸派][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.152.</ref>。 |
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=== 非キリスト教 === |
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{{main|ロシアにおけるイスラーム}} |
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ヴォルガ・ウラル地方の[[タタール人]]と[[バシキール人]]そして[[アゼルバイジャン人]]を含む[[コーカサス|カフカース]]諸民族の一部、[[中央アジア]]諸民族は[[ムスリム]]([[イスラム教|イスラム教徒]])であり、この内[[キルギス人]]は土俗の[[シャーマニズム]]をイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒には[[チベット仏教|ラマ教徒]]の[[カルムイク人]]や、[[シャーマニズム]]の[[サモエード人]]をはじめとするシベリア諸民族がいた。 |
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[[File:UfaBashkirMosque.jpg|thumb|250px|left|ムスリム宗務協議会によって1830年に建設されたウファのモスク。]] |
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16世紀中頃、[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1584年)の[[カザン・ハン国]]、[[アストラハン・ハン国]]の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地に[[カザン]]大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],p.54.</ref>。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らは[[クリャシェン]]と呼ばれた<ref>濱本真実【クリャシェン】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],pp.174-175.</ref>。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した<ref>[[#山内(1996)|山内(1996)]],p.307.</ref>。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.56-59,61-65.</ref>。 |
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[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.72-75;[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.309-310.</ref>。1789年に[[オレンブルク・ムスリム宗務局|ムスリム宗務協議会]]が[[ウファ]]に設立され、この行政組織を通じて[[ウラマー]](イスラム法学者)の統制や[[シャリーア]] (イスラム法)の執行、[[モスク]]の管理が行われるようになった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.75-79.</ref>。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている<ref>小松久男【ムスリム宗務局】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],pp.498-500.</ref>。 |
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18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースの[[アゼルバイジャン人]]といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている<ref>[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.354-355.</ref>。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した([[コーカサス戦争|カフカース戦争]])。 |
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[[File:Gaspirali1872.jpg|150px|thumb|ガスプリンスキー<br>1872年撮影。]] |
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早くにロシアの支配に入った[[タタール商人|ヴォルガ・タタール人の商人や企業家]]は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.79-85.</ref>。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに[[留学]]しており、[[ブハラ・ハン国]]で中心的だった[[スーフィズム]]がロシアでも盛んになった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.81-84.</ref>。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的な[[ウトゥズ・イマニー]]や法源を主体的に解釈する[[イジュティハード]]を主張する[[アブー・ナスル・アブドゥンナスィール・クルサヴィー|クルサヴィー]]によるイスラム改革運動が生まれている<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.86-92.</ref>。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.84,96-97.</ref>。 |
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19世紀後半になるとカフカース戦争の激化とともに政府のムスリムへの警戒が強まり、[[アラビア文字]]、[[トルコ語]]出版物への規制が行われた<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.95-96.</ref>。この時期に[[シハーブッディーン・メルジャーニー|メルジャーニー]]や[[ムハマド・アリー・アル・チュクリー|チュクリー]]、[[カイユーム・ナースィリー|ナースィリー]]がロシア文化受容を唱え、ウラマーの改革運動とムスリム知識人を取り結ぶ動きが起こっている<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.97-105.</ref>。そして、[[イスマイル・ガスプリンスキー|ガスプリンスキー]]が[[マドラサ]]の伝統教育に代わる近代的な新方式学校の設立と[[共通トルコ語]]使用の運動を起こし、これが19世紀末から20世紀のムスリム社会の近代化を目指した[[ジャディード運動]]に結びついた<ref>[[#濱本(2011)|濱本(2011)]],pp.105-108;[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.329-332.</ref>。 |
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1860年代から1880年代にかけて中央アジアがロシアの版図に組み入れられ、これらの地域のムスリムもロシア帝国の臣民となった。ロシア帝国は彼らを[[#異族人|異族人]]と規定して、ムスリム社会の風俗慣習に基本的に立ち入らない政策を採っている<ref>[[#山内(1996)|山内(1996)]],pp.362-363.</ref>。 |
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1905年革命が起こるとムスリムの政治運動も活発化し、[[ロシア・ムスリム大会]]が開催され、{{仮リンク|ロシア・ムスリム連盟|en|Ittifaq al-Muslimin}}が発足した<ref>[[#小松他(2000)|小松他(2000)]],pp.385-387.<br>長縄宣博【ロシア・ムスリム大会】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],pp.540-541.</ref>。ロシア・ムスリム連盟は立憲民主党と共同歩調をとり、ドゥーマ(国会)に議員団を送り込んでいる<ref>長縄宣博【ロシア・ムスリム連盟】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],p.541.</ref>。 |
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=== ユダヤ教 === |
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13世紀の[[カリシュの法令|カリシュ法]]以降、[[ユダヤ人]]に寛容だった[[ポーランド・リトアニア共和国|ポーランド・リトアニア]]の領土が、18世紀末のポーランド分割でロシアに併合されたことにより、ロシア帝国は世界有数のユダヤ人人口を抱える国となった<ref name=cyclopediarussia610/>。ユダヤ人はウクライナ、ベラルーシそしてリトアニアに集中しており、1897年の国勢調査では521万人になっている<ref name=cyclopediarussia610>原暉之【ユダヤ人】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.610-611.</ref>。[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は「ジード」の卑称を用いず「エブレイ」(ヘブライ人)と呼び、ユダヤ人に権利と自由を保証したが、都市行政から排除し、1791年には移動制限を課している<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.99-100.</ref>。1835年に定住地制度が定められ、ユダヤ人は指定された定住区域に居住することを義務づけられた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.302.</ref>。ユダヤ人の中には貴族に取り立てられる者や企業活動・芸術分野で活躍する者もいたが国政に参画することは許されなかった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.014.</ref>。 |
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[[アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)の[[大改革]]の際にはユダヤ人に対する規制が緩和されたが、1881年の皇帝暗殺事件の犯人の中にユダヤ人女性が加わっていたことが明らかになるとポーランドやウクライナでユダヤ人を襲撃する[[ポグロム]]が巻き起こった<ref>[[#伊東他(1998)|伊東他(1998)]],p.248;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.339-340.</ref>。ロシア政府はこの事態を黙認する態度をとり、「ユダヤ人=搾取者説」が流布されて虐殺が助長された<ref name=cyclopediarussia542/>。事件後にユダヤ人臨時条例が制定されて農村移住・不動産取得が禁止された<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.340;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.291,302.</ref>。19世紀末には中・高等教育機関のユダヤ人の数に制限がかけられ、ゼムストヴォ(地方自治機関)からも排除されている<ref name=iwama340>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.340.</ref>。 |
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1903年から1906年にかけて再び大規模なポグロムがあり、ベッサラビアでのユダヤ人襲撃を契機にウクライナ・ロシア西部に広まった<ref name=cyclopediarussia542>原暉之【ポグロム】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.542.</ref>。これには極右団体だけでなく警察や軍隊まで関与している<ref name=iwama340/>。これらの迫害によって150万人のユダヤ人がロシアを去って北米・西欧へ移住しており、やがて[[イスラエル]]の地に祖国の再建を目指す[[シオニズム|シオニズム運動]]へとつながることになる<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.014;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.303.</ref>。 |
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数多くのユダヤ人が革命運動に参加しており<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.298,302-303、329-330.</ref>、その中には[[レフ・カーメネフ|カーメネフ]]、[[ヤーコフ・スヴェルドロフ|スヴェルドロフ]]そして[[レフ・トロツキー|トロツキー]]といったボリシェヴィキの指導者たちもいた。 |
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{{-}} |
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==社会== |
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{|style="float:right" |
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|style="width:1em"| |
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{|class="wikitable sortable" style="float:right" |
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|+ロシア帝国の人口 |
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!年 !!人口!!出典 |
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|style="white-space:nowrap" |1724年 |
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|style="text-align:right"|15,580,000 |
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|<ref name=rossiiskaya682>鳥山成人【ロシア帝国】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.682.</ref> |
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|style="white-space:nowrap" |1796年 |
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|style="text-align:right;white-space:nowrap"|37,600,000 |
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|<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.157.</ref> |
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|- |
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|style="white-space:nowrap" |1812年 |
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|style="text-align:right"|42,700,000 |
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|<ref name=rossiiskaya682/> |
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|- |
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|style="white-space:nowrap" |1851年 |
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|style="text-align:right"|69,000,000 |
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|<ref name=CatholicEncyclopedia233>{{cite web|title=the Catholic Encyclopedia Volume13-"Russia"|url=http://www.archive.org/stream/catholicencyclop13herbuoft#page/233/mode/1up|publisher=New York, The Encyclopedia Press|page=233|accessdate=2012年3月10日}}</ref> |
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|- |
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|style="white-space:nowrap" |1897年 |
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|style="text-align:right;white-space:nowrap"|128,967,694 |
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|<ref group=n>ロシア初の[[国勢調査]]による数値。</ref> |
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|- |
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|style="white-space:nowrap" |1904年 |
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|style="text-align:right"|146,000,000 |
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|<ref name=CatholicEncyclopedia233/> |
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|- |
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|style="white-space:nowrap" |1908年 |
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|style="text-align:right"|154,000,000 |
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|<ref name=CatholicEncyclopedia233/> |
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|- |
|||
|style="white-space:nowrap" |1910年 |
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|style="text-align:right"|158,000,000 |
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|<ref name=CatholicEncyclopedia233/> |
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|- |
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|style="white-space:nowrap" |1913年 |
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|style="text-align:right"|159,153,000 |
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|<ref name=rossiiskaya682>島村史郎【人口】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.282-283.</ref> |
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|} |
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|} |
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ロシア帝国の臣民は[[#貴族|貴族]]、[[#聖職者|聖職者]]、[[#名誉市民|名誉市民]]、[[#商人・町人・職人|商人、町人、職人]]、[[#カザーク|カザーク]]([[コサック]])そして[[#農民|農民]]といった身分([[:en:sosloviye|sosloviye]])に分けられる。カフカースの先住民や[[タタールスタン共和国|タタールスタン]]、[[バシコルトスタン共和国|バシコルトスタン]]、シベリアそして中央アジアの非ロシア系住民は{{仮リンク|異族人|en|inorodtsy}}と呼ばれる区分に公的に分類されていた。 |
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1897年の[[国勢調査]]の結果によるとロシア帝国の身分別割合は世襲貴族・一代貴族・官吏(1.5%)、聖職者(0.5%)、名誉市民(0.3%)、商人(0.2%)、町人・職人(10.6%)、カザーク(2.3%)、農民(77.1%:都市居住農民を含む)、異族人(6.6%)、フィンランド人、外国人・身分不詳・その他(0.9%)となっている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.313.</ref>。 |
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=== 貴族 === |
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{{multiple image |
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| image1 = Dmitriy Golitsyn.jpg |
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| caption1 = 有力家門{{仮リンク|ゴリツイン家|en|Galitzine}}出身の将軍{{仮リンク|ドミトリー・ヴラディミロヴィチ・ゴリツイン|en|Dmitry Golitsyn}}(1771–1844) |
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| image2 = Golitsyna and Vorontsova Alexander Brullov.jpg |
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| caption2 = 貴族の婦人。Alexander Brullov画。1824-25年 |
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}} |
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[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の改革によって古くからの貴族階層({{仮リンク|ボヤール|en|Boyar}}:''боярин'')が、モスクワ大公そしてツァーリに奉仕する小領主の士族階層({{仮リンク|ドボリャンストボ|en|Russian nobility}}:''Дворянство'')に吸収された<ref name=dvoryanstvo>倉持俊一【ドボリャンストボ】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.400-401.</ref>。ロシア帝国では官吏や軍人として勤務することにより貴族になる道が開かれていた。官等表で定められた九等官になった文武官は一代貴族、そして武官は六等官以上、文官は四等官以上で世襲貴族になれた<ref group=n>ピョートル1世が官等表を制定した時点では十四等官で一代貴族、九等官で世襲貴族になれた。[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.256.</ref><ref name=dvoryanstvo/>。また勲章を得ることでも貴族身分を取得することができ、世襲貴族の多くは受勲によるものである<ref>高橋一彦【勲章】[帝政期][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.180.</ref>。 |
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ピョートル1世は従来の公爵({{仮リンク|クニャージ|en|Knyaz}}:''князь'')に加えて伯爵(''Граф'')と男爵(''Барон'')を設けている。公爵と伯爵は古くからの家柄の貴族と勲功のあった者に授けられ、男爵は主にバルト海沿岸部のドイツ系貴族に与えられており、全体的には爵位のない貴族が多かった<ref name=kizoku>中村和喜【ロシア帝国】[貴族,地主][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.660.</ref>。貴族は土地と農奴を所有する権利を有するが、一代貴族は国家勤務の俸給で生活しており土地を持たない者が多く農奴も所有できない。1858年頃のロシア帝国には約100万人の貴族がおり、農奴を所有できる世襲貴族は61万人になり、このうち実際に農奴を所有する者は約9万人であった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.296.</ref>。貴族として体面を保つには100人以上の農奴が必要とされるが農奴所有貴族のうち約78%は農奴所有数100人以下であり、100人以上の中流貴族は約22%、1000人以上の上流貴族は1%に過ぎない<ref name=kizoku/><ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.296-297.</ref>。 |
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ピョートル1世や[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は西欧宮廷文化の輸入・模倣をすすめ、貴族教育の制度も整えられた結果、18世紀末にはロシア貴族は完全に西欧化した<ref>鳥山成人【ロシア帝国】[宮廷文化と西欧化][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.688.</ref>。貴族や上流階級の間では当時の[[国際語]]であった[[フランス語]]<ref>{{cite web|title=フランス語[国際語としてのフランス語]- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%AA%9E/|author=[[松原秀一]]|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月24日}}</ref>や[[ドイツ語]]が用いられるようになっている<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.260-261.<br>{{cite web|title=第5回 ロシア人と外国語――欧米文化に復帰するロシア人|url=http://www.tmu.co.jp/feature/hakamada05.html|author=[[袴田茂樹]]|publisher=[http://www.tmu.co.jp/ TMU CONSULTING]|page=|accessdate=2012年2月24日}}</ref>。 |
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ピョートル1世は拡大する行政機構の官吏の必要のために貴族の国家勤務を強化して査閲を厳格化し、また「一子相続令」によって家領の分割を禁じ、当主以外の貴族子弟の収入を断ち国家勤務を事実上強制化した<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.31-33.</ref>。だが、国家勤務は貴族にとって大きな負担であり、貴族の勤務忌避やサボタージュといった抵抗が後をたたず<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.55.</ref>、アンナの時に一子相続令が廃止され、勤務年数も短縮されている<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.179.</ref>。そして、[[ピョートル3世]](在位1761年 - 1762年)が「貴族の自由についての布告」(貴族の解放令)を出して貴族の国家勤務義務が全廃された<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.179-180.</ref>。上位官職に就いていた貴族は勤務を継続したが、多数の中小領主が地方に移り住み、領地の経営に専念するようになった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.180;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.70.</ref>。しかしながら、18世紀後半には貴族社会の中でも官等表の等級が家柄や財産よりも重んじられるようにもなっており、官吏の半数近くを貴族が占めるようになった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.180;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.257-259.</ref>。 |
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[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は貴族階層の支持を権力基盤とし、特権認可状が交付され、さらに広大な国有地が下賜されることによって貴族の黄金時代となった<ref>{{cite web|title=エカチェリーナ(2世)- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%A8%E3%82%AB%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A%EF%BC%882%E4%B8%96%EF%BC%89/|author=伊藤幸男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月21日}}</ref>。地方行政も貴族に委ねられ、彼らは県・郡ごとに貴族団を組織して大きな影響力を持った<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.190-191.<br>鳥山成人【ロシア帝国】[在地の貴族団の活動][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.686-687.</ref>。1861年の農奴解放後はその影響力を減じたが、郡・県ゼムストヴォやドゥーマ(国会)でも有利な選挙制度を与えられている<ref name=dvoryanstvo/>。 |
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=== 聖職者 === |
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[[File:Meletiy - Yakimov with priests.jpg|thumb|250px|主教と聖職者。1892年撮影。]] |
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聖職者身分は公認されたキリスト教の聖職者に与えられ、人頭税、体刑そして徴兵を免除されていた。 |
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[[正教会]]の聖職者は独身の黒僧([[修道士]])と妻帯している白僧([[在俗司祭]])がいた。上位聖職者は黒僧が占め、白僧は町や村の司祭で叙任時点で妻帯していなければならないが、妻が死去した場合は再婚は許されなかった<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],pp.85-86.</ref>。在俗司祭の教養は概して低く、軽蔑の対象となっていた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.98.<br>鳥山成人【ロシア帝国】[聖職者][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.687.</ref>。 |
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[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)の教会改革の際に「聖務規則」がつくられ、聖職者は皇帝への宣誓を義務づけられている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.42.</ref>。聖界所領の行政権を国家管理とされ、事実上国有化された結果、修道士たちは国家からの給与によって生活せざる得なくなった<ref name=tanak41>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.41-42,98.</ref>。修道院の新設は禁じられ、修道士数も制限され、活動にも様々な規制が加えられた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.43.</ref>。世襲が許されていた在俗司祭職についても、新たに[[神学校]]での教育が義務づけられたが、[[ラテン語]]の暗記教育は効果が薄く、世襲を固定化して身分的閉鎖性を強めるだけの結果になった<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],pp.125-126;[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.171;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.98.</ref>。 |
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聖職者たちは国家の安全に関わる[[告解]]の秘密を報告することを命じられており、帝政時代の教会は国家の「侍女」と化していた<ref>[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.126.</ref>。 |
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=== 名誉市民 === |
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{{仮リンク|名誉市民 (ロシア)|label=名誉市民|ru|Почётные граждане (сословие)}}(''Почётные граждане'')はニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代の1832年に勃興しつつあったブルジョワジーに与える目的で創設された身分であり、人頭税、兵役、体刑を免除されていた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.214.</ref>。一代貴族や聖職者の子には世襲身分として与えられ、また高等教育を受けた者や14等官になった官吏、功労ある商人、芸術家にも終身身分として与えられた<ref>和田春樹【身分】、中村和喜【ロシア】[社会を構成する諸身分][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.569-570,659.</ref>。 |
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=== 商人・町人・職人 === |
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[[File:Kustodiyev fair.JPG|thumb|175px|市場。<br>[[ボリス・クストーディエフ|クストーディエフ]]画。1910年。]] |
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都市住民の身分には商人、町人そして職人があり、おのおの身分団体を組織していた。 |
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商人(クペーツ:''купчиха'')は[[ギルド]]に所属している裕福な商人や手工業者であり、営業を止めれば身分を失う。[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は都市住民を組織化して都市の自治権を裕福な市民に委ねた<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.39.</ref>。[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は商人を貴族・聖職者に次ぐ「第3身分」とするべく体刑と人頭税の免除や独占的営業権の特権認可状の付与により保護育成を図っている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.88.</ref>。やがて、農民身分出身の「農民=商人」(クレチャーニン=クペーツ)の台頭により、従来の商人身分層は衰え、1863年に全ての身分の者が商人身分に転換することが認められた<ref name=syounin>高田和夫【商人】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.274.</ref>。商人と貴族の一部そして農民身分出身の資本家がロシアにおけるブルジョワジー階層を形成した。商人は流動性の高い身分であったが、人口は20万人程度にとどまっている<ref name=syounin/>。 |
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町人({{仮リンク|メシチャニーン|ru|Мещанство}}:''мещане'')と職人はエカチェリーナ2世が1755年に出した詔書により、商人身分から分けられた小売商人や零細手工業者であり、都市住民の大部分である<ref>高田和夫【商人】、中村喜和【ロシア】[社会を構成する諸身分][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.274,659.</ref>。 |
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18世紀末のロシアの都市住民は198万人で、総人口に占める割合は4.2%に過ぎなかったが<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.95-97.</ref>、帝政終焉時の1917年には2600万人となり、総人口の15.6%に達している<ref>栗生沢猛夫【都市】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],p.392-393.</ref>。 |
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{{-}} |
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=== カザーク === |
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{{main|コサック}} |
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[[File:Russian Cossaks1914 Postcard.jpg|thumb|250px|ロシア軍のカザーク騎兵。1914年。]] |
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15世紀から16世紀に南ロシアや[[ウクライナ]]で形成された'''カザーク'''(''Казак'':英語読みでは[[コサック]])は農業に従事せず<ref group=n>17世紀後半にはカザーク も農耕に従事し始めている。[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.151.</ref>漁業、狩猟そして略奪を生業とする軍事共同体であり、ロシア帝国の支配に組み込まれて以降は特別な軍事身分となった<ref name=Cossacks/>。 |
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南ロシア・[[ドン川]]流域の[[ドン・コサック軍|ドン・カザーク ]]はモスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国において有力な政治勢力を形成していた。ツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]](在位1645年 - 1676年)の時代にドン・カザーク は[[ラージンの乱]](1670年 - 1671年)を起こして政府軍に鎮圧され、以降ドン・カザーク の自治は失われた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.148-149.</ref>。ドン・カザーク は[[ピョートル1世]](在位1682年 - 1725年)の1707年にもカザークの特権を守るべく蜂起している([[ブラーヴィンの乱]])<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.18-19.</ref>。 |
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[[ヘーチマン]]を首領とする共同体([[ヘーチマン国家]])を形成していたウクライナの[[ウクライナ・コサック|サポロジェ・カザーク]]は17世紀のツァーリ・アレクセイの時代にポーランドの支配から離れてロシアの保護下に入った<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.145-146.</ref>。[[大北方戦争]]の際にヘーチマン国家の首領[[イヴァン・マゼーパ]]がロシアから離反したことにより自治が制限された。[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)の治世に入るとロシアの支配はさらに強められ、1764年にヘーチマン制が正式に廃止され、1785年までにヘーチマン国家体制は完全に廃止されて小ロシアと名付けられ、直轄支配に置かれた<ref>[[中井和夫]]【ウクライナ】[民族意識の形成][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.50-51.</ref>。 |
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カザークによる最後の大反乱である[[プガチョフの乱]](1773年 - 1776年)以降、カザークは中央政府の管理下に置かれるようになった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.249.</ref><ref name=Cossacks>{{cite web|title=- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B3%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AF/|author=外川継男|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2012年2月24日}}</ref>。 |
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南部国境にカザーク軍管区が置かれて行政は軍事省の管轄とされ、騎馬に巧みなカザークは軍役(18歳から20年間)を課される代わりに土地割当の優遇を受けた<ref name=Cossacks/>。1827年以降、ロシア皇太子が全カザーク軍団の[[アタマン]](首長)とされた。ロシア帝国は騎兵の中核戦力としてのカザーク軍団を編成するとともに、辺境防備のためにカザーク集団をシベリア、中央アジアそして極東に植民させている<ref name=Kazak>鳥山成人【コサック】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.205-206.</ref>。 |
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1916年時点で13軍管区、443万人(内軍人28万人)のカザークがいた<ref name=Cossacks/>。カザークは革命運動の弾圧に用いられ、[[ロシア内戦]]では多くのカザークが[[白軍]]に加わって戦っている<ref name=Kazak/>。 |
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=== 農民 === |
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[[File:Gorskii 04422u.jpg|thumb|250px|ロシアの農民<br>[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影の[[カラー写真]]。1909年。]] |
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[[File:A Korzukhin Collecting Arrears 002.jpg|thumb|250px|滞納金の取り立て。<br>Alexey Korzukhin画。1868年。]] |
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[[File:Seeing off a recruit (Repin).jpg|thumb|250px|徴兵された農民との別れ。<br>イリヤ・レーピン画。1879年。]] |
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ロシア帝国臣民の大部分は農民(クレチャーニン:''Крестьяне'')である。農民は国有地農民、聖界領農民(エカチェリーナ2世の時代に国有地化<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.238,262.</ref>)、御料地(帝室領)農民そして領主農民([[農奴]])に分けられる。1858年の調査では農民人口の55%が国有地農民(男性9,194,891人)と御料地農民(男性842,740人)であり、45%が農奴(男性10,447,149人)であった<ref name=Britannica887>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/887/mode/1up|publisher=|page=887|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月23日}}</ref>。 |
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農民身分では農村共同体(ミールまたはオプシナチ)と農奴解放後に組織された村団そして郷(ヴォロースチ)が身分団体にあたり、新規にこれに登録されることは事実上不可能であった<ref name=mibun/>。農村共同体は村長と村会からなる農民の自治組織で耕地、牧畜地そして森林は農村共同体の共同所有とされ、耕作地は村会の決定によって定期的に各農民に割替えられていた<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.181-182;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.192-193.</ref>。農村共同体は体制側の統治の道具としての側面もあり、納税と徴兵は農村共同体の連帯責任であった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.192-193.</ref>。 |
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農民は人頭税に加えて領主(国家、皇族、貴族)に対する貢租(生産物、貨幣)と賦役(労役)の義務を負っていた。伝統的な[[三圃式農業]]によるロシアの農業は気候の厳しさに加えて、農村共同体による土地利用は私的意欲が欠如し、機械化も肥料・品種改良の導入も進まず、収穫率は低いままで停滞した<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.74-75,191,287-288.</ref><ref group=n>18世紀後半のイギリスでははん播種量の10倍の収穫であったのに対して、ロシアでは半分の5倍に留まっている。[[#土肥(2007)|土肥(2007)]],p.241.</ref>。 |
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ロシアの工業化の進展とともに多くの農民が都市で出稼ぎ労働者として働くようになったが、身分は農民のままである<ref name=mibun>和田春樹【身分】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.569-570.</ref>。これら農村からの出稼ぎ労働者は工場労働者の主力となり、19世紀末には新たな都市労働者階層を形成することになる<ref>鳥山成人【ロシア帝国】[労働者][[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.687-688.</ref>。 |
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ロシアの農村共同体の起源については古くから論争が続いており、スラヴ派は原始・古代的共同体の遺制であると唱え、西欧派は近世になって[[人頭税]]の導入に関係して発生したとしている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.193.</ref>。ピョートル1世以前への回帰を唱えるスラヴ派は農村共同体の共同体精神を高く評価し<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.301-302.</ref>、知識人は農村共同体を社会主義的理想に近似したものと捉え、[[ナロードニキ]]は農村に入って農民たちに革命思想を啓蒙しようと試みている<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.261,265-266.</ref>。 |
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20世紀に入ると農村共同体は専制体制に抵抗する闘争拠点と化し<ref name=mir/>、[[ロシア第一革命|1905年革命]]の際には農村共同体が地主の追放を決め地主地を焼き討ちする運動が広まっている<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.264.</ref>。これに加えて共同所有による生産性への弊害も多く、ストルイピン政権は農村共同体を解体して自営農([[クラーク (農家)|クラーク]])を育成しようとする土地改革を図ったが、農民の強い抵抗を受けおり、共同体を離脱した農民は20%程度に留まっている<ref>[[#鈴木他(1999)|鈴木他(1999)]],p.332-336.</ref>。 |
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==== 農奴 ==== |
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ロシアにおける{{仮リンク|農奴 (ロシア)|label=農奴|en|Serfdom in Russia}}(''крепостной крестьянин'')は貴族の領地に住む土地に緊縛された農民である。15世紀頃までは農民の移転は自由であったが、農民の逃亡に苦しむ中小領主(士族)を保護すべく、ツァーリ・[[イヴァン3世]](在位1462年 - 1505年)と[[イヴァン4世]](在位1533年 - 1584年)の時代に移転期間制約と移転料が設けられ、やがて全面禁止となった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.172-174.</ref>。そして、1649年にツァーリ・[[アレクセイ (モスクワ大公)|アレクセイ]](在位1645年 - 1676年)が定めた「[[会議法典]]」で、逃亡農民の追求権が無期限となったことで[[農奴制]]が法的に完成した<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.144;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.194.</ref>。[[ピョートル1世]](在位1721年 - 1725年)は税収確保のために貴族の[[ホロープ]](家内奴隷)にも人頭税をかけてこの制度を消滅させたが、これにより農奴の社会的地位がさらに低下する結果となった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.165;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.40.</ref>。 |
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啓蒙専制君主を自任する[[エカチェリーナ2世]](在位1762年 - 1796年)は即位当初には農奴制の改善を試みる意向を示したものの、貴族の支持を権力基盤とする彼女は農奴制をいっそう強化させている<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.186-187;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.242.</ref>。エカチェリーナ2世は広大な国有地を貴族に賜与して約80万人もの国有地農民を農奴となし、彼女の時代に農奴制の全盛期となった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],p.97.</ref>。 |
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国有地農民や御料地農民が人格面では自由であり保有地の処分もできたのに対して<ref name=iwama252>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.252.</ref>、農奴は領主の個人的所有物とみなされており、人格面での隷属を強いられ、領主から刑罰(シベリア流刑も含む)を受ける一方で領主を告訴する権利はなかった<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.198;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.236.</ref>。生活に干渉されて結婚を強制されることもあり<ref name=Serfdom>鈴木健夫【農奴】[[#『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)|『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)]],pp.437-438.</ref>、農奴は売買の対象とされ、土地や家族と切り離されて売却されることもあった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.244.</ref>。農奴は国家に対する人頭税の他に領主に対して貢租(オブローク)もしくは賦役(バールシチナ)を課されており、[[黒土地帯]]では貢租が、非黒土地帯では賦役が主に課された<ref name=iwama252/>。いずれも国有地農民や御料地農民よりも苛酷であり<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.197.</ref>、賦役は領主直営地の農作業や工場・鉱山での労働で、週3日からほとんど毎日の場合すらあった<ref name=iwama252/>。 |
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18世紀後半になると農奴制はロシアの後進性の象徴として批判の対象になり<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.295.</ref>、改革を目指した[[アレクサンドル1世]](在位1801年 - 1825年)の非公式委員会では農奴制の廃止も議されたが、その実施は限定的で効果のないものに終わった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.113-114;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.168.</ref>。反動政治を行った[[ニコライ1世]](在位1825年 - 1855年)も農業改革を考え、農奴への模範とするべく、国有地農民・御料地農民の待遇の改善を行い、地主が自発的に土地を農奴に分与する勅令を出したが、これに応じた者は僅かしかいなかった<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.154-157;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],p.288.</ref>。 |
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[[クリミア戦争]]の敗北によって、農奴制への非難が強まり、[[アレクサンドル2世]](在位1855年 - 1881年)は改革を決断し、1861年に[[農奴解放令]]が公布された<ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],pp.223-226;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.310-312.</ref>。だが、この農奴解放は地主の利益に配慮した不徹底なものであった。農奴は人格的支配から解放され、土地も分与されたものの地主に有利な価格での有償であり、支払い能力のない農奴に代わって国家が立て替えたが、これにより元農奴は国家に対して49年賦の負債を課せられ、これを払い終えるまで一定の義務を負担する一時的義務負担農民となった<ref>[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.313-316.</ref>。土地は個人に対してではなく農村共同体を基礎に新たに組織された村団に分与されて買戻金の支払いは連帯責任となり、農村共同体の役割がさらに強化されることとなった。加えて地主には土地の3分の1から2分の1が保留地とされたことで、元農奴はかなりの土地を切り取られている<ref name=noudokaihou>{{cite web|title=農奴解放令- Yahoo!百科事典|url=http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%BE%B2%E5%A5%B4%E8%A7%A3%E6%94%BE%E4%BB%A4/|author=栗生沢猛夫|publisher=日本大百科全書(小学館)|accessdate=2011年1月23日}}</ref><ref>[[#和田他(2002)|和田他(2002)]],p.227;[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.214-215;[[#岩間他(1979)|岩間他(1979)]],pp.313.</ref>。元農奴は重い負担と土地不足に苦しめられ、元地主から耕地や金・穀物を借りることになり、その支払いのために元農奴たちは地主の畑を耕作し、農閑期には都市で労働者として働く経済的隷属に陥ることになった(雇役制農業)<ref>[[#田中他(1994)|田中他(1994)]],pp.287-289.</ref>。 |
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=== 異族人 === |
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[[File:Перекочевка киргизов.jpg|thumb|250px|キルギスの遊牧民。<br>[[ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン]]画。1869年 - 1870年。]] |
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{{仮リンク|異族人|en|inorodtsy}}(イノロードツィ:''Инородцы'')は民族的区分の法律用語である。ほとんどの場合、この用語は[[シベリア]]、[[中央アジア]]そして[[極東連邦管区|極東]]の[[先住民]]に対して適用されるものであった。この区分は特定の範疇の住民の扱いに対して、幾つかの帝国の法律を適用することは不適当と見なし、伝統的風俗習慣の保護を含む特別の法的地位を与えるべく導入されたものである。この用語は法令以外の分野で非[[スラヴ人|スラヴ]]系諸民族に対して拡大的に用いられ、「野蛮人」「駄目な連中」という侮蔑的な意味も込められるようになった<ref>[[#高田(2012)|高田(2012)]],pp.81-87,</ref>。 |
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法的な異族人の定義は[[ミハイル・スペランスキー|スぺランスキー]]のシベリア行政改革の一環として、1822年に出された『異族人統治規約』『シベリア・キルギスに関する規約』が始まりである。異族人に対しては[[徴兵制度|兵役]]の免除、放牧地の保護そして宗教と内政の自治権を含む特権と特別待遇が与えられていた<ref>[[#Millar(2004)|Millar(2004)]];[[#Slocum(1998)|Slocum(1998)]], pp. 173-190.</ref><ref name=centraleurasia58>宇山智彦【異族人】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],pp.58-59.</ref>。異族人の権利と義務は彼らの階級に従いロシア人と同等であるが、彼らの自治に関してロシア人と異なる幾らかの特権を有していた。遊牧を生業とする民族はロシアの農民と同等に取り扱われるが、自治と裁判は中央アジアにおける風俗習慣に従い、また彼らの使用するべきもの、もしくは財産として一定の土地が指定され、ロシア人の入植は禁止されていた<ref>[[#露国事情(1899)|露国事情(1899)]],p.53.</ref>。もっとも、現地総督府の農民入植推進の施策によりこの保護策は骨抜きにされている<ref>西山克典【中央アジア入植】[[#『中央ユーラシアを知る事典』(2005)|『中央ユーラシアを知る事典』(2005)]],pp.343-344.</ref>。 |
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1835年には[[ユダヤ人]]も異族人に加えられたが、居住制限を受ける一方で兵役は課されている<ref name=centraleurasia58/>。 |
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=== 民族構成 === |
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{| class="wikitable sortable" style="float:left" |
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|+ 1897年国勢調査での民族構成<ref name=Britannica874>{{cite web|title=Encyclopædia Britannica (11 ed.)VOLUME XXIII. "Russia"|url=http://www.archive.org/stream/encyclopaediabri23chisrich#page/874/mode/1up|publisher=|page=874|ref=Britannica(11ed)|accessdate=2012年2月12日}}</ref> |
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! 民族 !! 人口 |
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| [[ロシア人]] || style="text-align:right" |55,673,408 |
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| [[小ロシア|小ロシア人]]([[ウクライナ人]] )|| style="text-align:right" |22,380,551 |
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| [[ポーランド人]] || style="text-align:right" |7,931,307 |
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| 白ロシア人([[ベラルーシ人]]) || style="text-align:right" |5,885,547 |
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| [[ユダヤ人]] || style="text-align:right" |5,063,156 |
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| [[キルギス人]] || style="text-align:right" |4,084,139 |
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| [[タタール人]] || style="text-align:right" |3,737,627 |
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| [[フィン人]] || style="text-align:right" |2,496,058 |
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| [[バルト・ドイツ人]] || style="text-align:right" |1,790,489 |
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| [[リトアニア人]] || style="text-align:right" |1,658,532 |
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| [[バシキール人 ]] || style="text-align:right" |1,492,983 |
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| [[ラトビア人]] || style="text-align:right" |1,435,937 |
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| [[グルジア人]] || style="text-align:right" |1,352,455 |
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| [[アルメニア人]] || style="text-align:right" |1,173,096 |
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| [[ルーマニア人]] || style="text-align:right" |1,134,124 |
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| その他カフカース系 || style="text-align:right" |1,091,782 |
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| [[モルドヴィン人 ]] || style="text-align:right" |1,023,841 |
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|- |
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| [[エストニア人]] || style="text-align:right" |1,002,738 |
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| [[サルト人]] || style="text-align:right" |968,655 |
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| [[チュヴァシ人]] || style="text-align:right" |843,755 |
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| [[ウズベク人]] || style="text-align:right" |726,534 |
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|- |
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| その他 || style="text-align:right" |724,039 |
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|- |
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| [[ウドムルト人]] || style="text-align:right" |420,970 |
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| [[マリ人|チェレミス人]] || style="text-align:right" |375,439 |
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| [[スウェーデン人]] || style="text-align:right" |363,932 |
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|- |
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| [[タジク人]] || style="text-align:right" |350,397 |
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|- |
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| [[ブリヤート人]] || style="text-align:right" |288,663 |
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|- |
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| [[トルクメン人]] || style="text-align:right" |281,357 |
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|- |
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| [[ヤクート]] || style="text-align:right" |227,384 |
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|- |
|||
| その他スラヴ系 || style="text-align:right" |224,859 |
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|- |
|||
| [[トルコ人]] || style="text-align:right" |208,822 |
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|- |
|||
| [[カレリア人]] || style="text-align:right" |208,101 |
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|- |
|||
| [[ギリシャ人]] || style="text-align:right" |186,925 |
|||
|- |
|||
| [[カルムイク人]] || style="text-align:right" |185,274 |
|||
|- |
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| [[オセット人]] || style="text-align:right" |171,716 |
|||
|- |
|||
| Syryenians<ref group=n>フィン系民族。[http://www.1911encyclopedia.org/Syryenians Syryenians]</ref> || style="text-align:right" |153,618 |
|||
|- |
|||
| {{仮リンク|タリッシュ人|en|Talysh people}}とTates|| style="text-align:right" |130,347 |
|||
|- |
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| [[カラカルパク人 ]] || style="text-align:right" |104,274 |
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| [[コミ人]] || style="text-align:right" |103,339 |
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| [[クルド人]] || style="text-align:right" |99,836 |
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| [[中国人]]、[[日本人]]、[[朝鮮人]] || style="text-align:right" |86,113 |
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| [[エヴェンキ ]] || style="text-align:right" |70,064 |
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| その他フィン系 || style="text-align:right" |67,846 |
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| [[コリャーク人]], [[チュクチ]] || style="text-align:right" |39,349 |
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| [[ペルシャ人]] || style="text-align:right" |38,923 |
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| その他ヨーロッパ系 || style="text-align:right" |34,276 |
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| [[ジプシー]] || style="text-align:right" |27,125 |
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| [[サモエード人]]([[ネネツ人]]) || style="text-align:right" |15,869 |
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| [[サーミ人]] || style="text-align:right" |3,112 |
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|} |
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|style="vertical-align:top"| |
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{|style="float:right;vertical-align:top" |
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|+ '''ロシア帝国の諸民族'''(帝政時代の写真とイラスト) |
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|'''ヨーロッパ・ロシアの民族''' |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Carrick, Kamenka Fair.jpg|thumb|125px|[[ロシア人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Малороссийские типы 033.jpg|thumb|125px|[[ウクライナ人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Isaak Serbov 010.jpg|thumb|125px|[[ベラルーシ人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Galicja 1908.jpg|thumb|125px|[[ポーランド人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Talonpoikaisnaisia Ruokolahdelta.jpg|thumb|125px|[[フィン人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Livonian National Costumes.jpg|thumb|125px|[[ラトビア人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Anseküla mees -Anseküll, EKM40840 G25189 Stern F S Anseküla Saarema rahvaröivaid ATG2118.jpg|thumb|125px|[[エストニア人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Norblin - Peasant from Samogitia 02.jpeg|thumb|125px|[[リトアニア人]]]] |
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|'''カフカースの民族''' |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Portrait of two Georgian men. George Kennan. 1870-1886.jpg|thumb|125px|[[グルジア人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Армянки в коротких курточках и прямых юбках. Армения. Армяне. Фотограф Д.Н. Ермаков. 1881 г.jpg|thumb|125px|[[アルメニア人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Azeris.jpeg|thumb|175px|[[アゼルバイジャン人]]<br><small>タタール人に分類されていた<ref>[[#鈴木(2006)|鈴木(2006)]],p.170.</ref>。</small>]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Ramonov vano ossetin northern caucasia dress 18 century.jpg|thumb|125px|[[オセット人]]]] |
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|'''ヴォルガ・ウラルの民族''' |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Xatin-ir-3.jpg|thumb|125px|[[タタール人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Bashkirs.jpg|thumb|125px|[[バシキール人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Udmurt people.jpg|thumb|175px|[[ウドムルト人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Черемисы (марийцы)-2.jpg|thumb|125px|チェレミス人([[マリ人]])]] |
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|'''中央アジアの民族''' |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Costumes of Uzbek men.jpg|thumb|125px|[[ウズベク人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Kurmanjan4.JPG|thumb|125px|[[キルギス人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:SB - Inside a Kazakh yurt.jpg|thumb|175px|[[カザフ人]]<br><small>[[セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー]]撮影の最初期のカラー写真。<br>キルギス人に分類されていた<ref>[[#小松他(2000)|小松他(2000)]],p.324.</ref>。</small>]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Turkmen man with camel.jpg|thumb|175px|[[トルクメン人]]<br><small>セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影の最初期のカラー写真。</small>]] |
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|'''シベリアの民族''' |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Buriatka.jpg|thumb|125px|[[ブリヤート人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Yakuty okhotniki.jpg|thumb|125px|[[ヤクート人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Koryak armor.jpeg|thumb|125px|[[コリャーク人]]]] |
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|style="vertical-align:top"|[[File:Nenets 1860x by Denier.jpg|thumb|100px|[[サモエード人]]([[ネネツ人]])]] |
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|} |
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{{-}} |
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==脚注== |
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=== 注釈 === |
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{{Reflist|group=n|2}} |
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===出典=== |
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{{reflist|colwidth=30em}} |
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== 参考文献 == |
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{{refbegin|2}} |
|||
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[和田春樹]](編集)|year=2002|title=ロシア史|series=新版 世界各国史|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634415201|ref=和田他(2002)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=田中陽児, 倉持俊一、和田春樹(編集)|year=1994|title=ロシア史〈2〉18~19世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460706|ref=田中他(1994)}} |
|||
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=田中陽児, 倉持俊一、和田春樹(編集)|year=1997|title=ロシア史〈3〉20世紀|series=世界歴史大系|publisher=山川出版社|isbn=978-4634460805|ref=田中他(1997)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[川端香男里]]、佐藤経明、[[中村喜和]]、和田春樹(監修)|year=1989|title=ロシア・ソ連を知る事典|series=|publisher=[[平凡社]]|isbn=978-4582126136|ref=『ロシア・ソ連を知る事典』(1989)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[岩間徹]](編集)|year=1979|title=ロシア史|series=世界各国史 (4)|publisher=山川出版社|isbn=|ref=岩間他(1979)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=民友社|editor=露国政府編|year=1899|title=露国事情|series=|publisher=[[民友社]]|url={{近代デジタルライブラリーURL|40010729}}|ref=露国事情(1899)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[小松久男]], 宇山智彦, 堀川徹, 梅村坦, 帯谷知司(編集)|year=2005|title=中央ユーラシアを知る事典|series=|publisher=平凡社|isbn=978-4582126365|ref=中央ユーラシアを知る事典(2005)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=小松久男(編集)|year=2000|title=中央ユーラシア史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn=978-4634413405 |ref=小松他(2000)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[伊東孝之]], [[中井和夫]], 井内敏夫(編集)|year=1998|title=ポーランド・ウクライナ・バルト史|series=新版 世界各国史|publisher=山川出版社|isbn= 978-4634415003|ref=伊東他(1998)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=パイロンズオフィス|year=1998|title=未完成艦名鑑 1906~45|series=ミリタリーイラストレイテッド|publisher=[[光栄]]|isbn=978-4877195328|ref=パイロンズオフィス(1998)}} |
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*{{Cite book|和書|author=ピョートル・オレンダー|translator=平田光夫|editor=|year=2010|title=日露海戦1905〈Vol.1〉旅順編|series=|publisher=[[大日本絵画]]|isbn=978-4499230360|ref=オレンダー(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=R.M. コナフトン|translator=妹尾作太男|editor=|year=1989|title=ロシアはなぜ敗れたか―日露戦争における戦略・戦術の分析|series=|publisher=[[新人物往来社]]|isbn=978-4404016928|ref=コナフトン(1989)}} |
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*{{Cite book|和書|author=アンドレイ・V・ポルトフ|translator=|editor=|year=2010|title=ソ連/ロシア巡洋艦建造史|series=世界の艦船増刊 2010年 12月号|publisher=[[海人社]]|isbn=|ref=ポルトフ(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=イェジ・ルコフスキ、フベルト・ザヴァツキ |translator=河野肇|year=2007|title=ポーランドの歴史|series=ケンブリッジ版世界各国史|publisher=[[創土社]]|isbn=978-4789300537|ref=ルコフスキ&ザヴァツキ(2007)}} |
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*{{Cite book|和書|author=阿部重雄|translator=|year=1966|title=ピョートル大帝と北方戦争|series=『世界の戦史〈第6〉ルイ十四世とフリードリヒ大王』所収|publisher=人物往来社|isbn=|ref=阿部(1966)}} |
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*{{Cite book|和書|author=飯山幸伸|translator=|editor=|year=2003|title=ソビエト航空戦―知られざる航空大国の全貌|series=|publisher=[[光人社]]|isbn=978-4769823964|ref=飯山(2003)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[栗生沢猛夫]]|translator=|editor=|year=2010|title=図説 ロシアの歴史|series=ふくろうの本|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309761435|ref=栗生沢(2010)}} |
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*{{Cite book|和書|author=鈴木是生|translator=|editor=|year=2006|title={{PDFlink|[http://library.nakanishi.ac.jp/kiyou/gaidai(30)/09.pdf 帝国の解体と民族自決論――バウアー、ウィルソン、レーニン(一)]}}|series=紀要第30号|publisher=[[名古屋外国語大学]]|ref=鈴木(2006)}} |
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*{{Cite book|和書|author=瀬戸利春|translator=|editor=|year=2011|title=タンネンベルクの殲滅戦|series=『第一次世界大戦 上巻』所収|publisher=[[学習研究社]]|isbn=978-4056064049|ref=瀬戸(2011)}} |
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*{{Cite book|和書|author=高田和夫|translator=|editor=|year=2012|title=ロシア帝国論―19世紀ロシアの国家・民族・歴史|series=|publisher=平凡社|isbn= 978-4582447125|ref=高田(2012)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[高橋保行]]|translator=|year=1980|title=ギリシャ正教|series=講談社学術文庫|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4061585003|ref=高橋(1980)}} |
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*{{Cite book|和書|author=田中良英|translator=|editor=|year=2009|title=エカチェリーナ2世とその時代|series=ユーラシア・ブックレット|publisher=[[東洋書店]]|isbn=978-4885958335|ref=田中(2009)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[谷川稔]]、鈴木健夫、[[村岡健次]]、[[北原敦]]|translator=|editor=|year=1999|title=近代ヨーロッパの情熱と苦悩|series=世界の歴史〈22〉|publisher=[[中央公論新社]]|isbn=978-4124034226|ref=鈴木他(1999)}}<!--ロシア史関係は鈴木健夫が担当--> |
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*{{Cite book|和書|author=[[土肥恒之]]|translator=|editor=|year=2009|title=図説 帝政ロシア|series=ふくろうの本|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309761244|ref=土肥(2009)}} |
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*{{Cite book|和書|author=土肥恒之|translator=|editor=|year=2007|title=ロシア・ロマノフ王朝の大地|series=興亡の世界史|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062807142 |ref=土肥(2007)}} |
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*{{Cite book|和書|author=鳥山成人|translator=|editor=|year=1968|title=スラヴの発展|series=大世界史〈第15〉|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=|ref=鳥山(1968)}} |
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*{{Cite book|和書|author=中島偉晴 |translator=|editor=|year=2009|title=アルメニアを知るための65章|series=エリア・スタディーズ|publisher=[[明石書店]]|isbn=978-978-4750329895|ref=中島(2009)}} |
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*{{Cite book|和書|author=長谷川輝夫, 土肥恒之, [[大久保桂子]]|translator=|editor=|year=2009|title=ヨーロッパ近世の開花|series=世界の歴史〈17〉|publisher=中央公論新社|isbn=978-4122051157|ref=土肥他(2009b)}}<!--ロシア史関係は土肥恒之が担当--> |
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*{{Cite book|和書|author=服部倫卓|translator=|editor=|year=2004|title=歴史の狭間のベラルーシ|series=ユーラシア・ブックレット|publisher=東洋書店|isbn=978-4885955235|ref=服部(2004)}} |
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*{{Cite book|和書|author=濱本真実|translator=|editor=|year=2010|title=共生のイスラーム―ロシアの正教徒とムスリム|series=イスラームを知る|publisher=山川出版社|isbn=978-4634474659|ref=濱本(2011)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[廣岡正久]]|translator=|editor=|year=1993|title=ロシア正教の千年―聖と俗のはざまで |series=|publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn=978-4140016800|ref=廣岡(1993)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[藤沼貴]]|translator=|editor=|year=1966|title=戦争と平和の歴史的・社会的背景|series=世界文学全集〈第20巻〉『戦争と平和』所収|publisher=河出書房新社|isbn=|ref=藤沼(1966)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[松田道雄]]|translator=|year=1990|title=ロシアの革命|series=世界の歴史〈22〉|publisher=河出書房新社|isbn=978-4309471815|ref=松田(1990)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[山内昌之]] |translator=|editor=|year=1996|title=近代イスラームの挑戦|series=世界の歴史〈20〉|publisher=中央公論新社|isbn=978-4124034202|ref=山内(1996)}} |
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*{{Cite book|和書|author=和田春樹|translator= |editor=|year=1971|title=ロシアの「大改革」時代|series=『岩波講座 世界歴史20』所収|publisher=[[岩波書店]] |isbn=|ref=和田(1971)}} |
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* {{cite book |title=Conway's All the World's Fighting Ships, 1860-1905|last=Conway Maritime Editors|first=|coauthors=|year=1979|publisher=Wh Smith Pub|location=|isbn=978-0831703028|pages=|ref=Conway(1979)}} |
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* {{cite book |title=Conway's All the World's Fighting Ships: 1906-1921|last=Gardiner|first=Robert|coauthors=|year=1985|publisher=Naval Inst Pr Pub|location=|isbn=978-0851772455 |pages=|ref=Gardiner(1985)}} |
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* {{cite book |title=The Historical Atlas of World War I|last=Livesey|first=Anthony|coauthors=H. P. Willmott |year=1994 |publisher=Henry Holt & Co|location=|isbn=978-0805026511|pages=|ref=Livesey(1994)}} |
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* {{cite book |title=Encyclopedia of Russian History|last=Millar|first=James R. |authorlink=|year=2004 |publisher=MacMillan Reference |location=|isbn=0028656938 |pages= |ref=Millar(2004)}} |
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* {{cite book |title=Who, and When, Were the ''Inorodtsy''? The Evolution of the Category of 'Aliens' in Imperial Russia|last=Slocum|first=John W.|authorlink=|year=1998|publisher=''[[:en:Russian Review|Russian Review]],'' vol 57|location=|isbn= |pages= |ref=Slocum(1998)}} |
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* {{cite book |title=The Imperial Russian Navy|last=Watts|first=Anthony J. |coauthors=|year=1990|publisher=Arms & Armour|location=|isbn=978-0853689126|pages=|ref=Watts(1990)}} |
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* {{1911}} |
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{{refend}} |
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==関連図書== |
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{{refbegin}} |
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*{{Cite book|和書|author=アナトール・レルア・ボリュー|translator=[[林毅陸]]|editor=|year=1901|title=露西亜帝国|series=|publisher=東京専門学校出版部|url={{近代デジタルライブラリーURL|40010736}}|ref=ボリュー(1901)}} |
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*{{Cite book|和書|author=平田久|translator=|editor=|year=1895|title=露西亜帝国|series=|publisher=民友社|url={{近代デジタルライブラリーURL|40010737}}|ref=平田(1895)}} |
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*{{Cite book|和書|author=ルードルフ・マルチン|translator=[[斎藤清太郎]]|editor=|year=1907|title=露西亜之将来|series=|publisher=武林堂|url={{近代デジタルライブラリーURL|40015421}}|ref=マルチン(1907)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[和田春樹]]|translator=|editor=|year=2005|title=テロルと改革―アレクサンドル二世暗殺前後|series=|publisher=山川出版社|isbn=978-4634640160|ref=和田(2005)}} |
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*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor=[[川端香男里]]、佐藤経明他(監修)|year=2004|title=新版 ロシアを知る事典|series=|publisher=平凡社|isbn=978-4582126358|ref=『新版 ロシアを知る事典』(2004)}} |
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*{{Cite book|和書|author=デヴィッド・ウォーンズ|translator=月森左知 |editor=栗生沢猛夫(監修)|year=2001|title=ロシア皇帝歴代誌|series=|publisher=創元社|isbn=978-4422215167|ref=ウォーンズ(2001)}} |
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*{{Cite book|和書|author=ユーリー・ミハイロヴィチ・ロートマン|translator=[[桑野隆]]、渡辺雅司、 望月哲|editor=|year=1997|title=ロシア貴族 |series=|publisher=筑摩書房|isbn= 978-4480861030|ref=ロートマン(1997)}} |
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*{{Cite book|和書|author=[[藤本和貴夫]]、松原広志|translator=|editor=|year=1999|title=ロシア近現代史―ピョートル大帝から現代まで|series=|publisher=[[ミネルヴァ書房]]|isbn=978-4623027477|ref=藤本他(1999)}} |
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* {{cite book |title=Russia at the Barricades: Eyewitness Accounts of the August 1991 Coup |last=Bonnell |first=Victoria E. |coauthors=Ann Cooper, Gregory Freidin |year=1994 |publisher=M. E. Sharpe |location=Armonk, NY |isbn=9781563242717 |pages=371 |ref=Bonnell}} |
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* {{cite book |title=Soviet Hieroglyphics: Visual Culture in Late Twentieth-Century Russia |last=Condee |first=Nancy |authorlink=:en:Nancy Condee |year=1995 |publisher=Indiana University Press |location=Bloomington, IN |isbn=9780253314024 |pages=208 |ref=Condee}} |
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* {{cite book |title=Matters of Conflict: Material Culture, Memory and the First World War |last=Saunders |first=Nicholas J. |authorlink=:en:Nicholas J. Saunders |year=2004 |publisher=Routledge |location=New York, NY |isbn=9780415280532 |pages=224 |ref=Saunders}} |
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* {{cite book |title=The Modernisation of Russia, 1676–1825 |last=Dixon |first=Simon |year=1999 |publisher=Cambridge University Press |location=Cambridge |isbn=9780521371001 |pages=288}} |
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* {{cite book |title=Illustrated History of the Russian Empire: The Coronation Book |editor1-first=Nikita |editor1-last=Chakirov |year=1971 |publisher=The Russian Orthodox Youth Committee |location=Astoria, NY |pages=488}} |
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* {{cite book |title=The Battle That Shook Europe: Poltava and the Birth of the Russian Empire |last=Englund |first=Peter |authorlink=:en:Peter Englund |year=2002 |publisher=I. B. Tauris |location=New York, NY |isbn=978-1860648472 |pages=288}} |
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* Etkind, Alexander. ''Internal Colonization: Russia's Imperial Experience'' (Polity Press, 2011) 289 pages; discussion of serfdom, the peasant commune, etc. |
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* {{cite book |title=Russia: A History |last=Freeze |first=George |edition=2nd |year=2002 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn=9780198605119 |pages=556}} |
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* {{cite book |title=The Russian Empire: A Multi-Ethnic History |last=Kappeler |first=Andreas |year=2001 |publisher=Longman Publishing Group |location=New York, NY |isbn=9780582234154 |pages=480}} |
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* {{cite book |title=Russia in the Age of Peter the Great |last=Hughes |first=Lindsey |authorlink=:en:Lindsey Hughes |year=2000 |publisher=Yale University Press |location=New Haven, CT |isbn=9780300082661 |pages=640}} |
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* {{cite book |title=The Longman Companion to Imperial Russia, 1689–1917 |last=Longley |first=David |year=2000 |publisher=Longman Publishing Group |location=New York, NY |isbn=9780582319905 |pages=496}} |
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* {{cite book |title=The Russian Peasantry 1600–1930: The World the Peasants Made |last=Moon |first=David |year=1999 |publisher=Addison-Wesley |location=Boston, MA |isbn=9780582095083 |pages=396}} |
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* {{cite book |title=The End of Imperial Russia, 1855–1917 |last=Waldron |first=Peter |year=1997 |publisher=St. Martin's Press |location=New York, NY |isbn=9780312165369 |pages=189}} |
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* {{cite book |title=Endurance and Endeavour: Russian History 1812–2001 |last=Westwood |first=J. N. |edition=5th |year=2002 |publisher=Oxford University Press |location=Oxford |isbn=9780199246175 |pages=656}} |
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* Hingley, Ronald. ''The Tsars, 1533–1917''. Macmillan, 1968. |
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* {{Cite journal |
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| last=Saunders |
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| first=David |
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| title=Regional Diversity in the Later Russian Empire |
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| journal=Transactions of the Royal Historical Society |
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| volume=10 |
|||
| year=2000 |
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| issue=10 |
|||
| month=December |
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| pages=143–163 |
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| issn=0080-4401 |
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| doi=10.1017/S0080440100000074 |
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}} |
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* Warnes, David. ''Chronicle of the Russian Tsars: The Reign-by-Reign Record of the Rulers of Imperial Russia''. Thames & Hudson, 1999. |
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* {{ru icon}} Грибовский В.М. Государственное устройство и управление Российской империи, 1912. [http://elibrary.karelia.ru/book.shtml?levelID=012003&id=318&cType=1 Photocopy of pages] |
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* {{ru icon}} Первая Всеобщая перепись населения Российской Империи 1897 г. Под ред. Н.А.Тройницкого. т.I. Общий свод по Империи результатов разработки данных Первой Всеобщей переписи населения, произведенной 28 января 1897 года. С.-Петербург, 1905. Таблица XII. Распределение населения по вероисповеданиям. [http://www.archipelag.ru/ru_mir/religio/statistics/said/statistics-imp/ Archipelag.ru] |
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{{refend}} |
|||
== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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105行目: | 953行目: | ||
*[[ロシアの歴史]] |
*[[ロシアの歴史]] |
||
*[[ロシア・ツァーリ国]] |
*[[ロシア・ツァーリ国]] |
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== 脚注 == |
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{{Wikisourcelang|en|1911 Encyclopædia Britannica/Russia}} |
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*[http://www.rusempire.ru/ Russian Empire]: All about Russian Empire and Russia. |
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*{{cite web|title=NHK高校講座 世界史 第23回 ロシア帝国 ~18-19世紀の東ヨーロッパ~|url=http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/chapter023.html|publisher=[[日本放送協会]]|page=|accessdate=2012年1月20日}} |
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*[http://www.loc.gov/exhibits/empire/ The Empire that was Russia]: color photographs from Library of Congress |
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*{{cite web|title=NHK高校講座 世界史 第31回 第一次世界大戦とロシア革命 ~社会主義国家の登場~|url=http://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/chapter031.html|publisher=[[日本放送協会]]|page=|accessdate=2012年1月20日}} |
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*[[s:en:The New Student's Reference Work/Russia, Empire of|The New Student's Reference Work/Russia, Empire of]] |
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*[[:en:Library of Congress Country Studies|Library of Congress Country Studies]]: [http://lcweb2.loc.gov/frd/cs/rutoc.html Russia] |
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*[http://www.rusempire.com/ Russian Empire]: All about Russian Empire and Russia (Russian). |
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* '''{{youtube|EPgbIK002us|Film «Moscow clad in snow», 00:07:22, 1908}}''' |
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*[http://www.loc.gov/exhibits/empire/ The Empire that was Russia]: color photographs from [[:en:Library of Congress]] |
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*[[:s:The New Student's Reference Work/Russia, Empire of|The New Student's Reference Work/Russia, Empire of]] |
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*[http://www.governingdynamo.com/a-level-resources/2009/9/11/the-geography-of-the-russian-empire-1795-1914.html Maps of the Russian Empire 1795-1914] |
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*[http://gerbovnik.com General armorial of noble families in the Russian Empire (Gerbovnik)] |
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2012年4月10日 (火) 11:41時点における版
- ロシア帝国
- Российская империя
Rossiyskaya Imperiya -
← 1721年 - 1917年 → (国旗) (国章) - 国の標語: Съ нами Богъ!
(ロシア語 : 神は我らと共に!) - 国歌: 神よツァーリを護り給え
1866年のロシア帝国の最大版図-
公用語 ロシア語 首都 サンクトペテルブルク
(1713年 - 1728年)
モスクワ
(1728年 - 1730年)
サンクトペテルブルク
(1730年 - 1914年)
ペトログラード
(1914年 - 1917年)通貨 ロシア・ルーブル
ロシアの歴史 | |
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ロシア帝国(ロシアていこく、ロシア語:Российская империя ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、満州などの広いユーラシア大陸の北部を支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。
君主がツァーリを名乗ったそれ以前のロシア・ツァーリ国についても「ロシア帝国」と翻訳されることがある[n 1][n 2]が、ロシア語では「ツァーリ」[1](王、ハーン)と「インペラートル」(皇帝)[2][3]が異なる称号であるため、適訳ではない[3]。
帝政は1721年にツァーリ・ピョートル1世が皇帝(インペラートル)を宣言したことに始まり、第一次世界大戦中の1917年に起こった二月革命でのニコライ2世の退位によって終焉する。
領土は、19世紀末の時点において、のちのソヴィエト連邦の領域にフィンランドとポーランドの一部を加えたものとほぼ一致する面積2000万km²超の広域に及び、1億を越える人口を支配した。首都は、1712年まで伝統的にモスクワ国家の首府であったモスクワからサンクトペテルブルクに移され、以降帝国の終末まで帝都となった[n 3]。
政治体制は皇帝による専制政治であったが、帝政末期には国家基本法(憲法)が公布され、国家評議会とドゥーマからなる二院制議会が設けられて立憲君主制に移行した。20世紀はじめの時点で陸軍の規模は平時110万人、戦時450万人でありヨーロッパ最大であった[4][5]。海軍力は長い間、世界第3位であったが、日露戦争で大損失を出して以降は世界第6位となっている[6]。
宗教は正教会(ロシア正教会)が国教ではあるが、領土の拡大に伴い大規模なムスリム社会を内包するようになり、そのほかフィンランドやバルト地方のルター派、旧ポーランド・リトアニアのカトリックそしてユダヤ人も存在した。
ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人・町人・職人、カザークそして農民といった身分に分けられていた。貴族領地の農民は人格的な隷属を強いられる農奴であり、ロシアの農奴制は1861年まで維持された。シベリアの先住民や中央アジアのムスリムそしてユダヤ人は異族人に区分されていた。
ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい[7]。
国土
19世紀末時点のロシア帝国の規模は世界の陸地の1/6のあたる約 22,400,000平方キロメートル (8,600,000 sq mi)*に及び、イギリス帝国の規模に匹敵した。しかしながら、この当時は人口の大半がヨーロッパ・ロシアに居住していた。100以上の異なる民族がおり、ロシア人は人口の約45%を占めている。
現代のロシア連邦のほぼ全領土に加えて、1917年以前のロシア帝国はウクライナの大部分(ドニプロ・ウクライナとクリミア)、ベラルーシ、モルドバ(ベッサラビア)、フィンランド(フィンランド大公国)、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア(ミングレリアの大部分を含む)、中央アジア諸国のカザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン(トルキスタン総督府)、リトアニア、エストニアとラトビア(バルト諸州)の大部分だけでなく、ポーランド(ポーランド王国)とアルダハン、アルトヴィン、ウードゥル、カルスの相当の部分、そしてオスマン帝国から併合したエルズルムの北東部を含んでいた。
1860年から1905年にかけて、ロシア帝国はトゥヴァ(1944年に併合)、カリーニングラード州(第二次世界大戦後にドイツより併合)そしてクリル列島(第二次世界大戦後に実効支配)を除く現在のロシア連邦の全領土を支配した。北アメリカのアラスカを領有していたが、1867年にアメリカに売却している(アラスカ購入)。サハリン州南部(南樺太、第二次世界大戦後に実効支配[n 4])は1905年のポーツマス条約により日本に割譲されている。
歴史
1613年に全国会議(ゼムスキー・ソボル)がミハイル・ロマノフをツァーリに選出したことによって300年続くことになるロマノフ朝が開かれた。その孫にあたるピョートル1世(1682年 - 1725年)は近代化改革を断行して、専制体制を確立させた。1721年、大北方戦争(1700年 - 1721年)に勝利したピョートル1世に対して元老院と宗務院が「皇帝」(インペラートル)の称号を贈り、国体を正式に「帝国(インペラートルの国)」と宣言し、対外的な国号を「ロシア帝国(インペラートルの国)」と称したことにより、ロシア帝国が成立する。
ピョートル1世の死後、女帝と幼帝が続き、保守派によって改革が軌道修正されることもあったが[8]、ロシアの領土と国力は着実に増しており、エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に参戦した七年戦争(1756年 - 1763年)ではプロイセンを破滅寸前に追い込んでいる[9]。
宮廷クーデターにより、夫ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)を廃位して即位したエカチェリーナ2世(1762年 - 1796年)は啓蒙主義に基づく統治を志したが、結果的には貴族の全盛時代をもたらす施策を行っており、農奴制を強化している[10]。彼女の治世にロシアは西方ではポーランドを分割をなし、南方ではオスマン帝国との戦争に勝利してクリミア半島を版図に加え、ロシア帝国の領土を大きく拡大した。
次のパーヴェル1世(1796年 - 1801年)は母帝を否定する政策をとったが[11]、宮廷クーデターによって殺害された。皇位を継承したアレクサンドル1世(1801年 - 1825年)は自由主義貴族やスペランスキーを起用して改革を志したが、保守層の抵抗を受け不十分なものに終わっている[12]。彼の治世はフランス革命戦争やナポレオン戦争の時期であり、列強国となっていたロシアも欧州の戦乱に巻き込まれた。ロシアに侵攻したナポレオンに破滅的な大敗を喫しさせたアレクサンドル1世は神聖同盟を提唱し、戦後のウィーン体制を主導している。
アレクサンドル1世の急死によって即位したニコライ1世(1825年 - 1855年)はその直後にデカブリストの乱に直面した。乱を鎮圧したニコライ1世は「専制、正教、国民性」の標語を掲げて国内の革命運動・自由思想を弾圧し[13]、国外でも反革命外交政策をとった[14]。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン半島への影響力を広げたが、治世末期のクリミア戦争(1853年 - 1856年)では英仏の介入を招く結果となった。
ニコライ1世は戦争中に死去しており、帝位を継いだアレクサンドル2世(1855年 - 1881年)は不利な内容のパリ条約の締結を余儀なくされた。アレクサンドル2世はロシアの後進性を克服するための改革を志し、1861年に農奴解放令を発布したが、地主貴族に配慮した不十分なもので社会問題は解消されなかった[15]。これ以外にも地方行政・司法・教育・軍制の諸改革が実施され、一連の改革は大改革と呼ばれる。オスマン帝国との戦争に勝利してバルカン諸国の独立を実現させるとともに、バルカン半島への影響力も拡大するが、警戒した列強国の干渉を受け、ベルリン会議で譲歩を余儀なくされている。国内の知識人の間では革命思想が広がり、ナロードニキ運動が起こった。政府はこれを弾圧するが、アレクサンドル2世は革命派の爆弾テロで暗殺された。
父の暗殺によって即位したアレクサンドル3世(1881年 - 1894年)は反動政策を行い、革命運動を弾圧したが、彼の時代にロシア経済は大きな躍進を遂げている[16]。最後の皇帝となるニコライ2世(1894年 - 1917年)は専制政治を維持したが、日露戦争(1904 - 1905年)の敗北によって1905年革命が起こり、国民に大幅な譲歩をする十月詔書を余儀なくされた。十月詔書によってドゥーマ(国会)が開設され、ロシアは立憲君主制に移行したものの、依然として皇帝権が国会に優越したものだった[17]。
ストルイピン首相が強権を伴う国内改革を断行したが、中途で暗殺されて終わり、ロシアは国内が不安定なまま第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎えることになる。ロシア軍は緒戦で惨敗を喫し、ドイツ軍がロシア領に深く侵攻した。ロシアはドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン帝国との総力戦を戦い、2年間の戦闘で530万人もの犠牲者を出している[18]。国民と兵士に厭戦気分が広まり、1917年に首都ペトログラードで労働者が蜂起する二月革命が起こった。兵士は労働者の側について労兵ソビエトを組織し、権力掌握に動いた国会議員団はニコライ2世に退位を勧告した。ニコライ2世はこれを受け入れ、ロシアの帝政は終焉した。
政府
皇帝
1613年にミハイル・ロマノフがツァーリに推戴されて以降、1917年に帝政が終焉するまでのおよそ300年にわたりロマノフ家がロシアの君主であり続けた。ホルシュタイン=ゴットルプ公だったピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が即位して以降はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ朝(Гольштейн-Готторп-Романовская)とも呼ばれる。
1721年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は称号をツァーリから変えて「全ロシアの皇帝」(インペラートル:Император)たるを宣言した。彼の後継者たちも1917年の二月革命で帝政が打倒されるまで、この称号を保ったが、一般的にはツァーリとも呼称されていた[19]。1905年の十月詔書以前、皇帝は絶対君主として君臨しており、基本法(Свод законов)第一条は「ロシア皇帝は独裁にして無限の権を有する君主であり、主権の全体は帝の一身に集中する」と規定している[20]。皇帝は(既存の体制を維持するための)次の2つの事項にのみ制約されていた[20]。一つは皇帝とその配偶者はロシア正教会に属さねばならない。もう一つはパーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時に定められた帝位継承法に従わねばならないことである。これ以外のことではロシアの専制君主の統治権は如何なる法律にも制約されず事実上無制限であった[21]。
この状況は1905年10月17日に変化した。1905年革命の結果出された十月詔書以降、皇帝の称号は依然として「全ロシアの皇帝かつ専制者」であり続けるが、1906年4月28日に制定された国家基本法は「無制限」の語を取り除いている[22]。皇帝は自主的に立法権を制限し、いかなる法案も国会(ドゥーマ)の承認なく法制化できなくなった。しかしながら、皇帝は国会の解散権を有しており、彼は一度ならずこれを実行している。加えて皇帝は全ての法案に対する拒否権を有しており、国家基本法を自ら改正することも出来た。大臣は皇帝に対してのみ責任を負っており、国会は問責はできるが解任はできない。このため、皇帝権はある程度は制限されたものの、帝政が終焉するまで強大であり続けた。
ロシア皇帝はフィンランド大公(1809年以降)およびポーランド国王(1815年以降)を兼ねていた。国家基本法第59条はロシア皇帝の正式名称として君臨する50以上の地域名を列挙している[23](ロシア語版を参照)。
歴代皇帝(インペラートル)
歴代 | 皇帝 | 在位 | 備考 |
---|---|---|---|
初代 | ピョートル1世 | 1721年 - 1725年 | ツァーリ即位は1682年。元老院と宗務院より、インペラートルとともに大帝(Великий)の称号も受ける。 |
第2代 | エカチェリーナ1世 | 1725年 - 1727年 | ピョートル1世の皇后。 |
第3代 | ピョートル2世 | 1727年 - 1730年 | ピョートル1世の孫、廃太子アレクセイの子。 |
第4代 | アンナ | 1730年 - 1740年 | ピョートル1世の異母兄イヴァン5世の子。クールラント公フリードリヒ・ヴィルヘルムの未亡人。 |
第5代 | イヴァン6世 | 1740年 - 1741年 | イヴァン5世の曾孫。宮廷革命により廃位。1764年に殺害。 |
第6代 | エリザヴェータ | 1741年 - 1761年 | ピョートル1世とエカチェリーナ1世の子。 |
第7代 | ピョートル3世 | 1761年 - 1762年 | エリザヴェータの甥。ホルシュタイン=ゴットルプ公。宮廷革命により廃位、後に殺害される。 |
第8代 | エカチェリーナ2世 | 1762年 - 1796年 | ピョートル3世の皇后。プロイセンのアンハルト=ツェルプスト侯家出身。大帝の称号を受ける。 |
第9代 | パーヴェル1世 | 1796年 - 1801年 | ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子。宮廷革命により殺害。 |
第10代 | アレクサンドル1世 | 1801年 - 1825年 | パーヴェル1世の子。 |
第11代 | ニコライ1世 | 1825年 - 1855年 | パーヴェル1世の子、アレクサンドル1世の弟。 |
第12代 | アレクサンドル2世 | 1855年 - 1881年 | ニコライ1世の子。「人民の意志」派の爆弾テロにより暗殺される。 |
第13代 | アレクサンドル3世 | 1881年 - 1894年 | アレクサンドル2世の子。 |
第14代 | ニコライ2世 | 1894年 - 1917年 | アレクサンドル3世の子。二月革命により退位。1918年に家族とともに殺害される。 |
国家評議会
アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時代にスペランスキーの改革の一つとして1811年に設置された国家評議会(Государственный Совет:枢密院とも訳す)は法律の立案および頒布に関して君主に参与すべき審議官である[25]。国家評議会が法案を審議し、皇帝は多数決によるその意見を「傾聴し、決定する」ことになっていたが、実際には決定は皇帝の意思に依った[26]。1890年時点の国家評議会は勅選議員60名から構成され、議長は皇帝もしくは大臣委員会議長その他勅選された者が務めた[26]。
1906年2月20日の基本法改正により、国家評議会はドゥーマに関連付けられ、立法機関の上院の役割を果たすこととなった。これ以降、立法権は皇帝が二院と調整した上で実行されることになる[27]。国家評議会はこの目的のために再組織され、勅選議員98名、公選議員98名の計196議員で構成されることとなった。勅任される大臣は国家評議会出身者である。公選議員は6議席が正教会関係、18議席が貴族団、6議席が科学アカデミーと大学関係者、12議席が商工ブルジョワジー、34議席が県ゼムストヴォ、22議席がゼムストヴォのない県の大土地所有者であったref>田中他(1994),p.397.</ref>。国家評議会は立法機関としてドゥーマと同等の権限を有していたが、立法を率先することは稀であった[28]。二院の一つとなった国家評議会は保守派の牙城となり、ストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に抵抗している[26]。
ドゥーマ
ドゥーマ(Ду́ма:国会)は1905年の十月詔書により創設された代議制議会である。ロシア帝国の立法機関は二院制で国家評議会が上院、ドゥーマは下院にあたる。議員数は1907年の時点で442人である[28]。選挙方式は所有財産によって別けられた地主、都市(ブルジョワジー)、農民、労働者の4つのグループからなる複雑な間接選挙方式で、地主やブルジョワジーに極めて有利な制度であった。1906年4月23日に発布された国家基本法(憲法)では皇帝は依然として専制君主と規定されており、法案の拒否権とドゥーマの解散権を留保した[29]。大臣会議議長(首相)と大臣は皇帝の任命によるもので、議会に対して責任を負う責任内閣制でもなかった。また、予算審議権も戦時関係予算や勅令・法律による歳入出はドゥーマの管轄外であるなど制約の多いものであった[22]。
1906年4月27日に開会されたドゥーマは地主の1票がブルジョアジーの3票、農民の15票、労働者の45票に相当にする選挙制度そして政府の選挙干渉にも関わらず、自由主義左派の立憲民主党(カデット)が第一党となった[30][31]。このドゥーマは立憲民主党が地主の土地の強制収用を含む大胆な土地改革を強硬に主張したために紛糾し、7月8日に軍隊が投入されて強制解散された[32]。(第一ドゥーマ)
次の選挙には社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキも加わり、その結果、社会主義諸派が議席の40%を占めるより急進的な構成となった[33]。1907年2月20日に開会されたドゥーマはストルイピン大臣会議議長(首相)の土地改革に従おうとせず、6月3日に解散された[34][31]。(第二ドゥーマ)
ストルイピンは解散と同時に新選挙法を発布させ、これは更に地主に有利な制度であり、地主の1票は農民の260票、労働者の540票に相当した(6月3日クーデター)[29]。1907年11月1日に新選挙法の元で選ばれた政府寄りの自由主義右派十月党(オクチャブリスト)を中心とするドゥーマが開会され、1912年6月9日までの会期を全うした。(第三ドゥーマ)
1912年11月に第三国会と同じ選挙法の元で選ばれた第四ドゥーマが開会された。第四ドゥーマ中の1914年に第一次世界大戦が勃発した。戦争指導を巡って政府とドゥーマとの対立が激化し、立憲民主党や十月党左派、その他諸派の中道自由主義者が進歩ブロックを結成して信任内閣を要求している[35]。1917年に二月革命が起こると、議員たちは国会臨時委員会を組織して権力掌握に動き、社会主義者の労働者・兵士ソビエトと臨時政府を組織してニコライ2世に退位を求め、帝政を崩壊させることとなる。
大臣委員会と大臣会議
大臣委員会(Комитет Министров)は国家の高等行政に関する事務を審査をする機関である。アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の改革の一環として、1802年にそれまでの参議会制に代わる省庁制が設けられると同時に大臣委員会が置かれた。ナポレオン戦争期にはその権能が拡張し、皇帝が出征中は国家行政事務の全てを担った[36]。ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に大臣委員会の権能が定められ、第一に各大臣および元老院の権限以外の重要事項について協議すること、第二に公安、公共糧食、正教会の保護および公共交通とくに鉄道敷設の許認可に関することとなった[37]。その他、地方行政の監督も大臣委員会の職責であった[38]。
1905年10月18日法により大臣委員会は改組され、皇帝を補佐する最高行政機関として大臣会議議長(首相に相当)を長とする大臣会議(Совета министров)が創設された。これは諸国の内閣に相当するもので、各省大臣と主要行政機関の長によって構成される。1905年にロシア側全権代表として日本とポーツマス条約を締結して帰国したセルゲイ・ヴィッテが初代大臣会議議長となった。
歴代 | 氏名 | 在任 |
---|---|---|
1 | セルゲイ・ヴィッテ | 1905年10月24日 - 1906年4月22日 |
2 | イワン・ゴレムイキン | 1906年4月22日 - 1906年7月8日 |
3 | ピョートル・ストルイピン | 1906年7月8日 - 1911年9月5日 |
4 | ウラジーミル・ココツェフ | 1911年9月5日 - 1914年1月30日 |
5 | イワン・ゴレムイキン | 1914年1月30日 - 1916年1月20日 |
6 | ボリス・スチュルメル | 1916年1月20日 - 1916年11月10日 |
7 | アレクサンドル・トレポフ | 1916年11月10日 - 1916年12月27日 |
8 | ニコライ・ゴリツィン | 1916年12月27日 - 1917年2月27日 |
宗務院
1700年にモスクワ総主教アドリアンが死去するとピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は後任の選出を許さず、1721年に正式に総主教座を廃止し、ロシア正教会を統括する最高機関としての宗務院(Святейший Правительствующий Синод:聖宗務院、聖務会院、シノドとも訳される)を設立させた[n 6][39]。基本法は「教会の政治に於いては君主の独裁権は宗務院を媒介として行動すべきものである」と規定している[40]。
宗務院の職務は第一に教義の正統解釈と聖職者の監督そして宗教出版物の検閲、第二に宗教教育機関および1885年に設置された教区小学校の管理、第三は行政もしくは司法の全ての教会事務の最高法廷そして婚姻に関する事務の採決である[41]。
宗務院のメンバーは皇帝の代理人である俗人の宗務院総監とモスクワ、サンクトペテルブルク、キエフの3府主教、グルジア総主教代理そして幾人かの主教が交替で務めた[42]。
元老院
1711年にピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は出征中に内政を預かる元老院(セナート:сенат)を設けて9人の議員を任命した。当初は臨時の措置であったが、これが常設化して行政・司法の執行に関する監督と立法を司る国政の中心機関となった[43]。エカチェリーナ1世(在位1725年 - 1727年)とピョートル2世(在位1727年 - 1730年)の時代には最高枢密院が権力を握り元老院はこれに従属させられたが、アンナ(在位1730年 - 1740年)は即位直後に最高枢密院を廃止している。エリザヴェータ(在位1741年 - 1761年)の時代に元老院は権力を回復した[44]。その後、アレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の大臣委員会創設によって権限が減少して、主に最高司法機関として機能するものとなった[45]。
帝政末期の元老院は複数の部から構成され、法律の布告および解釈、地方行政官職の監督、行政裁判、商業裁判所そして刑事および民事の破棄院(最高裁判所)としての広範な権限を有していた[46]。元老院は帝国の行政に関わる全ての紛争に対する最高管轄権を有しており、とりわけ、中央政府の代理人と地方自治機関との間の係争を取り扱っていた[42]。また、元老院は新法の登記と布告を審査する役割を持ち、基本法に反するものを拒否する権限があった[42]。
参議会と省庁
ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の行政改革の一環として、管轄範囲が明確でないイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)以来の官署が廃止されて、新たに北欧諸国の制度に倣った合議制で運営される参議会(コレギア:Коллегии)が設置された[47]。外務、陸軍、海軍を「主要」とし、都市、所領、司法、歳出、監査、商業、工業、鉱業といった参議会が設けられている[48]。
その後、参議会は責任の所在が曖昧で非効率になり、パーヴェル1世(在位1796年 - 1801年)の時代に改革が試みられ、合議制から専決制に代えられた[49][50]。彼の暗殺後に即位したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)が参議会を廃止して、陸軍、海軍、外務、司法、内務、大蔵、通商、文部の8部の大臣を任命し、省庁制を発足させた[51]。
帝政末期の20世紀初頭の時点では以下の省庁が存在した[42]。
官等表
ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の時代、1722年に14の官等からなる官吏および軍人の位階が定められた(官等表)。中等教育修了者は官吏になることができ、昇格は勤務年数で決められており、九等官で一代貴族、四等官で世襲貴族になれた[52]。
1899年時点の官等は以下の通り(第11等と第13等は廃止)。
等級 | 文官 | 陸軍 | 海軍 |
---|---|---|---|
第一等 | 大臣(Канцлер) 一等枢密議官(Действительный тайный советник 1-го класса) |
陸軍元帥(Генерал-фельдмаршал ) | 海軍総督(Генерал-адмирал) |
第二等 | 現任枢密議官(Действительный тайный советник) | 大将(Генерал) | 提督(Адмирал) |
第三等 | 枢密議官(Тайный советник) | 中将(Генерал-лейтенант) | 副提督(Вице-адмирал) |
第四等 | 現任発事官(Действительный статский советник) | 少将(Генерал-майор) | 小提督(Контр-адмирал) |
第五等 | 発事官(Статский советник) | 参謀官 | - |
第六等 | 集議官(Коллежский советник) | 大佐(Полковник) | 艦長(Капитан 1-го ранга) |
第七等 | 参事官(Надворный советник) | 中佐(Подполковник) | 副艦長(Капитан 2-го ранга) |
第八等 | 参事官補(Коллежский асессор) | - | - |
第九等 | 名義参事官(Титулярный советник) | 大尉(Штабс-капитан) | 大尉(Лейтенант) |
第十等 | 書記官(Коллежский секретарь) | 中尉(Поручик) | - |
第十一等 | 廃止 | - | - |
第十二等 | 地方書記官(Губернский секретарь) | 少尉(Подпоручик) | 士官候補(Унтер-лейтенант) |
第十三等 | 廃止 | - | - |
第十四等 | 録事(Коллежский регистратор) | 少尉補(Фе́ндрик) | - |
- 官職の日本語訳は次による。露国政府編 編、民友社 訳『露国事情』民友社、1899年、115-116頁 。
司法制度
ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は当時の西欧で主流であった糾問主義手続きの司法制度を導入した。民事および刑事の裁判は非公開手続きであった[53]。全ての裁判は書面審理で行われ、判事は判決時にのみ当事者および傍聴人と対面した[53]。この非公開性と判事の報酬が僅かであったことが組み合わさり、贈賄と汚職が蔓延することとなった[54]。法廷の調査は複数回あったが(5、6回またはそれ以上)、悪行の回数を増やすだけであった[53]。証拠書類は法廷から法廷へと積み上げられたが、その書類を書いた事務官だけがその要旨を語ることができる類のものであり、費用がかさんだ[53]。これに加えて、大量の勅令、法令そして慣習法(これらはしばしば矛盾した)により、法廷の運営はよりいっそう遅滞し、混乱した[53]。さらに、司法と行政の線引きはなかった。判事は専門家ではなく、彼らは官吏に過ぎず、偏見と悪徳が蔓延していた[53]。
帝政終焉まで続くロシア帝国の司法制度は「解放皇帝」アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の1864年勅令によって成立した。英仏の制度を部分的に取り入れた司法制度は司法と行政の分離、判事と法廷の独立、公開裁判と口頭審理、法の前での全ての身分の平等といった幾つかの大まかな原則によって成立している[54]。その上、弁護士制と陪審制の採用によって民主主義的要素も取り入れられた。これらの諸原則による司法制度の確立は司法を行政の範囲の外に置くことにより、専制に終わらせ、ロシア国家の概念に大きな変化をもたらした。しかしながら、1866年のアレクサンドル2世暗殺未遂事件以降には幾らかの反動が見られるようになった[55]。
1864年勅令によって成立した制度は英仏形式の二つの完全に分けられた法廷から成り、おのおのが独自の上訴裁判所を有し、最高裁判所の役割を果たす元老院にのみ連携する。イギリス形式のものは選挙で選ばれた治安判事の法廷で民事刑事の軽微な事件を管轄し、郡治安判事会議に上訴できる[54]。もう一つのフランス形式の任命された判事による普通裁判所は重要事件を扱い、陪審員の置かれた地方裁判所、控訴院そして最高裁判所に当たる元老院の三審制である[54]。また、農民の軽犯罪・民事は農村共同体の郷裁判所において旧来の慣習法で裁かれる[56]。
これらとは別に聖職者の規律や離婚を扱う宗教裁判所、そして軍人に対する軍法会議があり、政治犯は軍法会議で裁かれる[57]。
地方行政
行政区分
1914年時点のロシアは81県(グベールニヤ)、20州(オーブラスチ)そして1行政庁(okrug)の行政単位に分かたれていた。ロシア帝国は中央アジアのブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国を保護国としており、1914年にはトゥヴァが加えられている。
11県、17州そしてサハリン行政庁がアジア・ロシアに属している。8県がフィンランド、10県がポーランドである。残りはヨーロッパ・ロシアで59県と1州(ドン軍管州)となる。ドン州は軍事省の管轄下にあり、その他の諸県州には知事と副知事(行政評議会議長)が置かれていた。これに加えて、複数の県を管轄し、駐留軍の指揮権を含む広範な権限を有する総督が置かれている。1906年時点でフィンランド、ワルシャワ、イルクーツク、キエフ、モスクワ、アムール、トルキスタン、ステップそしてカフカースに総督府が存在していた。
サンクトペテルブルク、モスクワ、オデッサ、セヴァストポリ、ケルチ、ニコラエフ、ロストフといった大都市は県知事から独立した独自の行政制度があり、警察署長が長官の役割を果たした[58]。
地方自治機関
中央政府の地方組織とともに、ロシアには行政の役割を果たす3つの公選による自治機関が存在する。
- 農村共同体を基礎とした村団と郷。
- ヨーロッパ・ロシア34県に置かれたゼムストヴォ。
- 都市ドゥーマ。
ミールとヴォロースチ
その起源が定かではない農村共同体(ミールмирまたはオプシナチо́бщина)は、村ごとの農民の自治組織である[59]。ミールは村長と各世帯の家長たちからなる村会を持ち、村の行政と司法そして耕地の割替を行っていた[60]。耕地や森林、牧草地は農民個人のものではなくミールの共同所有とされ、政府はミールを利用して徴税や賦役を課しており、農奴解放後も土地の共同所有は変わらず、却ってミールの役割が強化されることとなった[60]。アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革で、農村共同体を基礎に地方行政の末端機関としての村団(セーリスコエ・オブシチェストヴォ:Cельское общество)が組織された[61]。
幾つかの村団が集まって郷(ヴォロースチ:волость)を構成しており、村団の代表者による集会を持っていた。この集会で郷長が選ばれおり、また郷裁判所が持たれ、ここでは軽犯罪や民事訴訟などを取り扱っていた[62]。
ゼムストヴォ
アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の行政改革の一環として、1864年に34県とドン軍管州およびこれに属する郡に地方自治機関であるゼムストヴォ(Земство)が設置された。郡ゼムストヴォには住民によって選挙された郡会とこれに指名されたメンバーによる執行機関の郡参事会があった。県ゼムストヴォの県会および参事会は郡会の代表者によって構成される。ゼムストヴォは地主、都市居住民そして郷(ヴォロースチ)が別々に代議員を選挙していた[63][64]。参事会は次の五つの階級から選出された。(1)590エーカー以上を有する大地主は1議席(2)中小地主および聖職者の代表(3)裕福な都市住民の代表(4)都市中産階級の代表(5)ヴォロースチから選出された農民の代表である[58]。
創設当初のゼムストヴォには地域の課税、教育、保健、道路整備などといった広範な権限が与えられていたが、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代に厳しい制限を加えられている。この結果、郡ゼムストヴォは県知事、県ゼムストヴォは内務省に従属することとなり、ゼムストヴォの決議すべてに県知事・内務省の同意が必要とされ、県知事と内務省は議員たちを統制する強力な権限を有するようになった。
ゼムストヴォの選挙人資格には財産規定があり、このため郡会、県会ともに代議員は貴族・地主が常に優勢であったが、1870年代以降、ゼムストヴォは立憲制を求める自由主義者たちの拠点と化しており、1906年に開設された国会の自由主義政党(立憲民主党や十月党)の母体となった[63]。
都市ドゥーマ
1870年の新都市法の発布以降、ヨーロッパ・ロシアの市当局はゼムストヴォと同様の代議制都市自治機関(都市ドゥーマ)を持つようになった[65]。家主、納税している商人・職人・労働者は資産量の順番にリストに記載されていた。財産所有評価によって三つのグループに分かたれ、当然各グループの人数は大きく異なるのだが、各々が同人数の都市ドゥーマ議員を選出する。行政部は選挙された市長や都市ドゥーマから選ばれたメンバーによる都市参事会が執り行った。しかしながら、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の治世にゼムストヴォと同じく、都市ドゥーマは県知事や警察に従属させられた[66]。1894年と1895年にシベリアとカフカースの幾つかの都市に(より一層制限されたものではあるが)都市ドゥーマが設けられている。
軍事
陸軍
17世紀末時点のピョートル1世(在位1682年 - 1725年)のロシア軍は約16万の兵力を有しており、この規模は他のヨーロッパ諸国の軍隊と比べて遜色ないものであった[67]。だが、大北方戦争(1700年 - 1721年)緒戦のナルヴァの戦い(1700年)でロシア軍はカール12世のスウェーデン軍に惨敗を喫してしまう。この後、カール12世がポーランド=リトアニア=ザクセン制圧に転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得ることができた。ピョートル1世は教会の鐘を鋳つぶして大砲を製作するとともに都市民や農民を対象とした本格的な徴兵を開始した。これ以前にも臨時の徴兵は行われていたが、租税民である農民を対象とした恒常的な徴兵制度ははじめてであった[68]。「20世帯につき1人」の兵士供出が各村に命じられたが、兵役は25年であり、事実上生涯に渡って村から切り離されることを意味しており、苛酷で死亡率の高い軍隊勤務は貧農に押しつけられる傾向が強かった[69]。「兵士の滞納」は後を絶たなかったが、それでもピョートル1世はこの徴兵制によって年間2万人以上の新兵を得ることができた[69]。貴族の国家勤務査閲を強化して将校の養成を行い[70]、不足は外国人を雇用していたが、1721年の段階でほぼロシア人将校で充足することができるようになっている[71]。陸軍参議会、海軍参議会、砲兵官庁、兵站部そして参謀本部が設けられ軍事行政も整備された[67]。これら軍制改革で強化されたロシア軍はポルタヴァの戦い(1709年)でロシアに侵攻したスウェーデン軍を壊滅させ、大北方戦争を勝利に導いた。
18世紀のロシア軍は数次にわたるオスマン帝国やペルシアとの戦争に勝利して領土を拡大させ、七年戦争ではプロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる。19世紀のナポレオン戦争ではロシア軍はアウステルリッツの戦い(1805年)やフリートラントの戦い(1807年)でナポレオンに敗北したものの、ロシア遠征に向かったナポレオンに破滅的な大敗を喫しさせ、最終的な勝利者となったアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)は「ヨーロッパの救済者」と呼ばれた[72]。「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれたニコライ1世(在位1825年 - 1855年)は欧州政治に積極的に介入し、軍事力を持ってポーランドやハンガリーの革命運動を粉砕している。
しかしながら、指揮官の大部分を占める貴族出身の将校で有能な者は一部であり[73]、兵士出身の将校・下士官は教養が低かった[74]。ピョートル1世以来の徴兵制度は25年の兵役を課して社会から切り離すものであり、農民にとっては刑罰同然のものと考えられ[75]、兵士の待遇は劣悪であり貴族の将校は兵士を農奴同様に扱い、軍隊内での体罰や病気での死亡率も高かった[74]。
クリミア戦争(1853年 - 1856年)が勃発した時点のロシア軍は将校27,745人、下士官兵112万人で、ヨーロッパ最大の規模であった[76]。だが、装備は旧式で砲弾も不足しており、加えて国内の鉄道網が未整備で軍隊の急速な展開が不可能な状態にあった[77]。ロシア軍はセヴァストポリ攻囲戦(1854年 - 1855年)で英仏軍に敗れて黒海の非軍事化を含む屈辱的な内容のパリ講和条約を結ばされ[78]、「ヨーロッパ最強国」の自尊心は打ち砕かれた[79]。
敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は大改革と呼ばれる農奴解放を含んだ行政改革を実施しており、軍制改革もこれに含まれる。この当時、ドイツやフランスの軍隊は国民男子全員に兵役を課して軍隊経験を積ませる国民皆兵であるのに対し、ごく一部の国民に長期の兵役を課す農奴制・身分制的なロシアの軍制は幅広い予備兵力層を欠いており、時代遅れなものになっていた[80]。軍事大臣ミリューチンは軍制の近代化に着手し始め、まず、軍隊内での体罰は禁止された[81]。1861年に兵役は16年に短縮され、1874年には国民皆兵制が施行されて陸軍は兵役6年予備役9年、海軍は兵役7年予備役3年となった[81]。もっとも、家族状況による兵役免除もあって実際の召集率は対象者の25-30%程度に留まっており、また学校教育を受けた者は兵役期間を軽減される規定により裕福な特権階級層は事実上兵役を免れている[82]。初等兵学校、中等兵学校そして士官学校といった教育機関が整備され[83]、貴族以外からの将校への道も広げられた[75]。軍事行政は総合参謀本部と七つの軍事最高機関が設けられ、各部門の長による軍事評議会が組織された[83]。
露土戦争(1877年 - 1878年)でロシア軍はバルカン半島とザカフカースでオスマン軍と戦い、苦戦の末にプレヴェン要塞を陥落させてイスタンブルに迫った。オスマン帝国はサン・ステファノ条約によってバルカン半島の大部分の喪失を余儀なくされ、ベルリン会議を経てモンテネグロ、ルーマニアそしてセルビアが独立、大ブルガリア公国が成立している。
アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代には総動員に必要とする日数の短縮、戦時における騎兵の即応性および下馬歩兵戦闘への適応(軽騎兵や槍騎兵が竜騎兵に置き換えられた)、国境地帯の要塞および鉄道網の強化そして砲兵および輜重隊の強化が図られている[4]。
ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)の時代にはアジア方面の戦力と即応性が強化され、民兵も再編された[4]。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時、シベリア鉄道はバイカル湖迂回区間が未開通であったためヨーロッパ・ロシアからの兵員輸送に時間を要し、糧食の一部は現地調達に頼らざる得なかった[84]。戦術思想は銃剣突撃に固執して銃剣を固定した小銃を用いた結果、射撃精度が低下しており、運用もナポレオン戦争と大差ない密集隊形による一斉射撃だった[85]。機関銃は配備されていたがその価値が認められるまでには時間を要した[86]。兵士は困苦欠乏に慣れ、皇帝を素朴に崇拝しており、困難な状況でも頑強に戦ったが、戦争目的を理解していなかった[87]。将校の質は義和団事件(1900年)の際にイギリス軍士官から「(ロシア軍は)ロバに率いられたライオン」と酷評されたもので、一部を除けば無気力で能力も低かった[88]。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢を前に後退を繰り返すことになり、旅順要塞を失陥し、奉天会戦でも敗れた。この敗北が1905年革命を引き起こすことになった。
この時期のロシア軍は正規兵、カザークそして民兵におおまかに区分される。1911年時点の平時戦力は将校42,000、兵110万人(うち戦闘員は95万人)であり、戦時戦力は将校75,000人、兵450万人になっていた[4]。この兵力にほぼ無尽蔵な人的資源を加味すると第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時のロシア軍の規模はヨーロッパ最大であったが、鉄道網の慢性的な不効率はロシアの潜在的戦力を大きく減じていた[5]。高級司令部と兵站部は汚職と不効率によってひどく弱められており、工場生産の不備から武器弾薬が不足していた[89]。将校の質的な弱点は改善されない上に数が不足していた[90]。近代装備についても通信システムが未整備で師団司令部が平文で無線連絡を交わし合う有り様であり、軍の自動車は700台に満たなかった[90]。
第一次世界大戦が開戦するとロシア軍はドイツ軍の予想よりも早く動員を終えて主力が不在の東プロイセンに攻め込んだが、タンネンベルクの戦いで包囲殲滅され大損害を出してしまう。ロシア軍はドイツ軍の攻勢に敗走を余儀なくされ、ポーランド、リトアニアそしてベラルーシ西部を占領された。大戦はドイツ軍、オーストリア・ハンガリー軍そしてオスマン軍を相手の総力戦となり、ロシア軍は1400万人もの動員を行ったが2年間の戦闘で530万人の犠牲者を出している[18]。軍の士気は低下して厭戦気分が広まった[91]。1917年に首都ペトログラードで二月革命が起こると兵士たちは皇帝の命令に従うことを拒否して蜂起した労働者の側に付き、労兵ソビエトを組織して帝政打倒を訴え、ロシア帝国を崩壊に追い込むことになる。
海軍
ロシア海軍はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)によってつくられた[67]。1695年にオスマン帝国の属国クリミア・ハン国領のアゾフ要塞攻略に失敗したピョートル1世はモスクワ近郊の町やヴォロネジで平底川船1300艘、ガレー船22艘、火船4艘の艦隊を建造し、1696年にこの艦隊を用いて海上補給路を断ち、3か月の包囲戦の末に要塞を陥れて念願の海への出口を手に入れた[92]。スウェーデンとの大北方戦争(1700年 - 1721年)では占領したイングリアやバルト地方にクロンシュタットをはじめとする造船所をつくり、バルチック艦隊を建造した[93]。バルチック艦隊はガングートの海戦(1714年)やグレンガム島沖の海戦(1720年)でスウェーデン艦隊に勝利してバルト海の制海権を確保し、戦争の勝利に貢献した。
エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代の第一次露土戦争(1768年 - 1774年)ではクロンシュタットを発したオルローフ提督率いるバルチック艦隊がジブラルタル海峡を経て地中海に入り、オスマン艦隊を撃破してロシアの海軍力を誇示している[94]。戦争に勝利してクリミア・ハン国を併合したエカチェリーナ2世はポチョムキンを新領土総督に任命してクリミア経営にあたらせた。ポチョムキンはセヴァストポリを根拠地とする黒海艦隊を創設する[94]。その後に発生した第二次露土戦争(1787年 - 1792年)やアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の時の第三次露土戦争(1806年 - 1812年)でもロシア艦隊とオスマン艦隊は戦火を交えている[95]。
ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に入るとギリシャ独立戦争(1821年 - 1832年)に介入したロシアは地中海に艦隊を派遣して英仏と連合艦隊を組み、ナヴァリノの海戦(1827年)でオスマン・エジプト連合艦隊を撃滅しており、この勝利によりギリシャを独立へと導いている[96]。
1853年にロシアとオスマン帝国は再び開戦した(クリミア戦争:1853年 - 1856年)。開戦早々にナヒモフ提督の黒海艦隊がスィノプ港に停泊していたオスマン艦隊に奇襲をかけて全滅させ、港湾機能を破壊した(シノープの海戦)[97]。海戦には勝利したが、英仏の新聞が「スィノプの虐殺」と報道したことにより反ロシア的世論を煽る結果となってしまう。参戦した英仏連合艦隊が黒海に入り、黒海艦隊はセヴァストポリに籠城する作戦をとったが、1年以上の包囲戦の末にセヴァストポリは陥落し、黒海艦隊は降伏前に自沈した[98]。パリ講和条約の条項により、黒海の艦艇保有数に厳しい制限がかけられ、艦隊を配備することは禁じられた[99]。
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アゾフ攻略(1696年)
Robert Kerr Porter画。1842年以前。 -
ガングートの海戦(1714年)
Алексей БОГОЛЮБОВ画。1877年。 -
ナヴァリノの海戦(1827年)
Ambroise-Louis Garneray画。1830年頃。 -
シノープの海戦(1853年)
イヴァン・アイヴァゾフスキー画。1853年。
クリミア戦争の敗戦後、アレクサンドル2世(在位1855-1881)の弟コンスタンチン大公が艦隊の再編と近代化を指揮した[99]。1860年代に帆走軍艦は姿を消し、蒸気軍艦が主体となった[100]。南北戦争でのハンプトン・ローズ海戦(1862年)に関心を持ったロシア海軍はさっそく木造軍艦2隻を装甲艦に改装させ、さらにアメリカの装甲艦モニター号に類した沿岸防衛用のモニター艦を17隻建造している[101]。普仏戦争(1870年 - 1871年)にフランスが敗れて第二帝政が倒れるとロシアはパリ条約を破棄して黒海艦隊を再建した[102]。露土戦争(1877年 - 1878年)では発明されて間もない魚雷を用いてオスマン海軍の船を撃沈することに成功している[103]。
1860年の北京条約で清国から沿海地方を割譲されており、この地に建設されたウラジオストクが太平洋艦隊の根拠地となる。1898年に清国から大連・旅順地域を租借したロシアは旅順要塞を築いて太平洋艦隊の根拠地となし、日本に備えた。
20世紀はじめのロシア海軍はバルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊そしてカスピ海艦隊から成っていた。日露戦争(1904年 - 1905年)開戦時の戦力は戦艦21隻(5隻建造中)、海防戦艦3隻、旧式装甲巡洋艦4隻、装甲巡洋艦8隻、巡洋艦13隻(5隻建造中)、軽巡洋艦8隻、駆逐艦49隻(11隻建造中)の主要艦艇からなり[104]、イギリス、ドイツに次ぐ世界第三位の海軍大国であった[6]。
日本の連合艦隊と対することになった太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は旅順港に封じ込められた。艦隊はウラジオストクへの脱出を図るが黄海海戦で大損害を受けて阻止され、旅順陥落で全滅した。ヨーロッパ・ロシアから長距離の航海を経て極東にたどり着いたバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は日本海海戦(ツシマ海戦)でほぼ全滅する。陸海での敗戦に国内は動揺し、黒海艦隊では戦艦ポチョムキンの反乱が起こっている。この戦争でロシア海軍は戦艦14隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦5隻、巡洋艦6隻、駆逐艦21隻を失った[105]。
1907年、海軍省は戦艦32隻、巡洋戦艦16隻、巡洋艦36隻、駆逐艦156隻からなる野心的な建艦計画を提出するが、ドゥーマ(国会)の猛反対にあい、縮小した計画も承認を得られず、1909年のドイツとの関係悪化でようやくバルチック艦隊向け弩級戦艦4隻の予算が承認された[6]。日本との関係が緩和する一方で独墺とは険悪化すると1911年に黒海艦隊向けの弩級戦艦3隻その他の予算が承認される。1911年のモロッコ危機で対独関係がさらに悪化すると海軍省は「大建艦計画」と呼ばれる野心的な海軍法をドゥーマに承認させた[6]。これは1927年までに総計戦艦27隻、巡洋戦艦12隻を建造しようとするものであったが、実現することはなかった[106]。
艦隊再建の途上でロシア海軍は第一次世界大戦(1914年 - 1918年)を迎える。このためバルチック艦隊と黒海艦隊の作戦は機雷戦を中心とした防御的なものになった[107]。ロシア海軍は開戦早々の1914年8月に触雷沈没したドイツの軽巡洋艦マクデブルクから暗号表を回収してイギリスへ送り、連合国の戦争努力への大きな貢献を果たしている[108]。戦前に起工された戦艦のうちバルチック艦隊向けのガングート級戦艦4隻と黒海艦隊向けのインペラトリッツァ・マリーヤ級戦艦3隻が大戦中に竣工したが、インペラトリッツァ・マリーヤ級は戦争と内戦の混乱で全て失われた。
1917年の二月革命で帝政が瓦解し、さらに十月革命ではバルチック艦隊の水兵がボリシェヴィキに与し、巡洋艦アヴローラが冬宮を砲撃した。続く内戦の混乱によって海軍の組織は崩壊し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキの指導者は海軍の必要性を理解せず、その結果、艦艇の多くが失われるか行動不能になり、建造中の艦は放置されることになる[109]。
航空隊
西欧諸国やアメリカと同じくロシアでも19世紀後半から動力飛行機の試みがなされており、ソ連時代には世界初の動力飛行はライト兄弟よりも20年近く早い、1884年のモジャイスキーによるものであると主張されていた[110]。19世紀末にツィオルコフスキーが先進的なロケット技術の諸論文を発表しており、今日では「宇宙ロケットの父」と呼ばれている[111]。1909年には「ロシア航空の父」と呼ばれるジューコフスキーがロシア初の航空団体を設立した[112]。そして、1914年にシコールスキイが世界初の4発飛行機イリヤー・ムーロメツを完成させた。
第一次世界大戦(1914年 - 1918年)開戦時、陸軍は約250機、海軍は約50機の航空機を保有していた[113]。国産軍用機も存在していたが少数生産に留まっており、ロシア軍は輸入機やライセンス生産機主体で戦った[114]。イリヤー・ムーロメツの爆撃型が製造され、シコールスキイ自身が率いる爆撃隊の活躍があったもの[115]、ロシア軍航空隊は用兵と運用の拙劣さもあってドイツ帝国軍航空隊を相手に劣勢を強いられている[116]。
宗教
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1897年の国勢調査に基づく1905年の報告書によれば、ロシア帝国内の各宗教宗派の概算信者数は右表のとおりである。 1905年の「信教の自由に関する勅令」により公的には全ての信仰が認められるようになった。
正教会
ロシア帝国の国教は正教会(ギリシャ正教、東方正教会)である。独立教会ロシア正教会の首長は「教会の最高守護者」の称号を有する皇帝であった。皇帝は叙任権を有していたが、教義や説教に関する問題を決定することは無かった[117]。
ロシア帝国の多数を占める東スラヴ系のロシア人、小ロシア人(ウクライナ人)、白ロシア人(ベラルーシ人)は正教もしくは無数にあるその分派を信仰している。東スラヴ系以外ではルーマニア人(モルドバ人)、グルジア人も正教である。フィンランドのカレリア地方の正教徒はロシア革命後の1917年に自治教会フィンランド正教会を創設している。ウラル・ヴォルガ地方ではモルドヴィン人のほとんどが正教であり、ウドムルト人、 ヴォグル人、チェレミス人(マリ人) とチュヴァシ人も同様であるがキリスト教やイスラム教の影響を受けたシャーマニズムとの混合であった[117]。シベリアではヤクート人が18世紀後半頃に正教に改宗しているが、これもシャーマニズムの要素を残している[118]。
ロシアのキリスト教受容は10世紀頃のことである。以降、コンスタンディヌーポリ総主教庁の管轄下に置かれ、ほとんどの府主教がギリシャ人であったが[119]、東ローマ帝国が衰退してバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議で東西教会の合同が宣言されたことを受け、1448年にモスクワ府主教座がコンスタンディヌーポリ総主教庁から事実上独立した[120]。東ローマ帝国の滅亡に伴って、モスクワはローマ帝国のローマ、東ローマ帝国のコンスタンティノープル(古期ロシア語ではツァリグラードと呼ばれた)に次ぐ「第三のローマ」であるという言説が見られるようになった[121]。1589年にロシア正教会はコンスタンディヌーポリ総主教イェレミアス2世より、独立教会の祝福を正式に受け、モスクワ総主教座が成立した[122]。
ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)以前の正教会の修道院・教会は農民の4分の1を支配し、世俗権力から独立した勢力を持っていた[123]。ピョートル1世はロシア正教会をプロテスタント諸国の国教会的な組織に改編すべく、教会改革を断行した[124]。1700年にモスクワ総主教アドリアンが死去するとピョートル1世は後任の選出を許さず、皇帝に忠実なフェオファン大主教を起用して1721年に「聖務規則」を作成させ、総主教位を廃止して合議制の宗務院を設け[n 6]、教会を国家権力の統制下に置かせた[125]。皇帝の代理人である俗人の総監に指導される宗務院は聖務に対する広範な権限を有するようになり、教会は国家の一機関と化した[126]。聖界領地は国家管理とされ(エカチェリーナ2世の時代に国有地化)、独自の収入を断たれた聖職者たちは国家からの給与に依存することになり、従属の度を深めた[127]。
ロシアの東方拡大とともにロシア正教会も東方へと進出し、ウラル・ヴォルガ地方の諸民族そしてシベリア先住民の正教への改宗が進められた。ウドムルト人、チェレミス人、ヤクート人[118]といった民間信仰の民族に対しては正教への改宗は順調だったが、ムスリムに対しては概して上手くゆかなかった[128]。タタール人の上級階級の正教受容は一定の成功を収め、彼らはロシア貴族化したが[129]、民衆はごく一部が改宗したのみで[n 8]、それも表面的に洗礼を受けただけの者が多く、後に棄教者が続出する事態が起こっている[130]。バシキール人は改宗に強く抵抗して反乱を繰り返し[131]、19世紀後半にロシアの版図に入った中央アジアのトルキスタン総督府では正教会による宣教自体が禁止されていた[132]。このような動きに危機感を持った正教会では、19世紀後半にイリミンスキーが洗礼タタール人に対する現地語、習慣を尊重した教育活動を行い、この方式が政府に採用されてイリミンスキー・システムと呼ばれるキリスト教化した異族人全般に対する教育制度が構築されることになる[133]。
帝政時代のロシア正教会の伝道活動は国外にも及んでおり、聖インノケンティ・ヴェニアミノフはロシア領アラスカ初の主教となり、先住民への伝道を行った。1868年にアラスカが売却されるとロシア正教会はアメリカ合衆国へと進出して1872年にサンフランシスコ、1905年にはニューヨークに主教座が設けられている[134]。日本へは、1861年に宣教師ニコライが来日して、後の日本ハリストス正教会の基礎を築いている。
ロシア帝国は征服した土地の異宗派信徒や異教徒の改宗自体はさほど重視していなかったが[135]、ロシア語と正教を強制するロシア化政策が強化された19世紀後半のアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務院総監の指導のもとで、カトリック・プロテスタント・アルメニア教会への規制強化と正教への改宗が促され、中央アジアのタタール人に対しては半ば強制的な正教への改宗が行われた[136]。1905年革命によって信教の自由が認められると多数の人々がカトリック、プロテスタントそしてイスラム教に改宗・復帰している[137]。
帝政下のロシア正教会では綱紀の紊乱や村司祭の貧困といった問題が深刻化しており、19世紀後半になるとこれら諸問題を解決するための教会改革を求める運動が起こり、この動きが1905年革命の際の地方公会(1681年に廃止)再開と総主教制復活の要求に結びついた[138]。二月革命で帝政が倒れた直後の1917年8月に地方公会が開催されてティーホンが総主教に選出されるが[139][138]、この後、ロシア正教会は無神論のソビエト政権下で厳しい迫害と宗教活動の制約を受けることになる[140]。
20世紀はじめ頃のロシア正教会の上座には3人の府主教(サンクトペテルブルク、モスクワ、キエフ)、14人の大主教、50人の主教がいた[117]。1912年時点の数値によるとロシア国内には正教会の教会と礼拝堂が60,000、公認された修道院298、女子修道院400があり、司祭45,000人、長司祭2,400人、輔祭15,000人、修道士・修練士17,583人、修道女・見習い修道女52,927人の聖職者がいた[141]。
17世紀の総主教ニーコンの典礼改革を巡ってロシアの正教会では分裂が生じ、ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)と対立したニーコンは失脚したが、同時に改革反対派も正教会から破門を受けた[142]。ロシア伝統の典礼を護持する彼らは古儀式派(スタロオブリャージェストヴォ:Старообрядчество)[n 9]と呼ばれた。古儀式派は激しい迫害を受けるが[143]、ピョートル1世の教会改革によってロシア正教会に対する統制が強められると勢力を伸ばすようになり、国民の3分の1から5分の1が古儀式派に属するようになった[144]。
古儀式派はロシア正教会から分離した際に主教を欠いていたため司祭の叙階が困難になり、17世紀末頃に司祭の存在を前提とする司祭派と無用とする無司祭派とに分裂した[145]。無司祭派は狂信の度を深めて無数に分裂を繰り返し、勢力を弱めている[145]。18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代には古儀式派に対する弾圧が緩められたが[146]、ニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代に再び弾圧を受けるようになり、アレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)の時代にはポベドノスツェフ宗務総監の指導のもとで迫害が行われた[147]。司祭派はこれらの迫害を耐えて1881年に政府の公認を受けている[145]。1897年の国勢調査によると総人口の15%にあたる1750万人が古儀式派であった[148]。
グルジアには5世紀以来の独立教会グルジア正教会が存在していたが、19世紀にグルジアが併合されるとグルジア正教会の独立が否定されて総主教も廃止されている[149]。ロシア人の大主教が派遣され、礼拝でのグルジア語の使用も制限されており、これに反発した民衆蜂起への報復としてさらなるロシア化が強制されている[149]。グルジア正教会が独立を回復するのは1917年の二月革命後であり、ロシア正教会が正式にこれを認めたのは第二次世界大戦中の1943年のことであった。
正教会以外のキリスト教
ポーランド人とほとんどのリトアニア人はローマ・カトリックである。ウクライナ人、ベラルーシ人の一部は東方典礼カトリック教会、アルメニア人の一部はアルメニア・カトリック教会に属していた。エストニア人を含む全ての西部フィン人、ドイツ人そしてスウェーデン人はプロテスタントであり、ルター派はバルト地方、イングリアそしてフィンランド大公国での支配的宗派であった。アルメニアには独自のアルメニア教会が存在する。
1721年のニスタット条約でロシアに編入されたバルト地方のルター派教会は存続を保障され、1809年にロシアの属国となったフィンランド大公国の教会も同様の措置が取られた。
18世紀末のポーランド分割で併合されたウクライナおよびベラルーシ[n 10]の合同派教会(ウクライナ東方カトリック教会)に対しては正教会への復帰が強制されており、強い抵抗とこれに対する迫害が繰り返されることになる[150]。1861年にワルシャワにおいて総督府の兵士と民衆との衝突が発生した際にカトリック教会、プロテスタント教会そしてユダヤ教寺院が合同で教会を閉鎖する抗議行動を起こして総督を辞任に追い込んでいる[151]。1863年から1864年にかけてポーランド・リトアニアで起こった大規模な武装蜂起(一月蜂起)が鎮圧されると、ロシア政府は蜂起にカトリック教会の聖職者が関与していたとして規制が強化されて修道院の大半が閉鎖され、弾圧に抗議する司祭が追放されたためポーランド王国内で実質的に活動する教区が僅か1つとなる事態になっている[152]。1882年にアレクサンドル3世(在位1881年 - 1894年)と教皇庁との間で政教条約(コンコルダート)が結ばれたものの、ポベドノスツェフ宗務総監の宗教政策により、この合意は無効同然にされた[153]。アレクサンドル3世の時代には、それまで寛容であったバルト地方のルター派教会に対しても規制が強められている[154]。
19世紀にロシアの統治下に入ったアルメニアは4世紀以来の長い歴史を持つ独自のアルメニア教会が存在しており、正教会に併合されることなく存続を許されていた[155]。アレクサンドル3世の時代にはアルメニア教会も迫害を受け、ロシア化政策により1885年に教区学校が閉鎖された[156]。ニコライ2世(在位1894年 - 1917年)治世には、1896年に図書館・友愛団体も閉鎖され、1903年には教会財産が没収される「アルメニア教会の危機」と呼ばれる事態になっている[157][155]。
帝政時代のロシアでは聖霊キリスト教系のさまざまな異端諸派(セクト)が生じており、有力なものにはドゥホボール派[158]や信者が100万人達したモロカン派[159]がある。またこの時代の極端なセクトの事例としてはフルイスト派(鞭身派)やスコプツィ派(去勢派)が知られる[n 11]。これらのセクトは反社会分子として迫害を受けた[160]。
非キリスト教
ヴォルガ・ウラル地方のタタール人とバシキール人そしてアゼルバイジャン人を含むカフカース諸民族の一部、中央アジア諸民族はムスリム(イスラム教徒)であり、この内キルギス人は土俗のシャーマニズムをイスラムの信仰と合わせ持っている。ムスリム以外の非キリスト教徒にはラマ教徒のカルムイク人や、シャーマニズムのサモエード人をはじめとするシベリア諸民族がいた。
16世紀中頃、イヴァン4世(在位1533年 - 1584年)のカザン・ハン国、アストラハン・ハン国の併合以降、ロシアはムスリム社会を内包するようになった。イヴァン4世は征服地にカザン大主教座を置き、強制的な改宗が試みられたが、すぐに撤回している[161]。正教に改宗したタタール人は僅かであり、彼らはクリャシェンと呼ばれた[162]。ピョートル1世はタタール人の司祭をつくるべく神学校を開設させたが失敗した[163]。18世紀に入ると新規改宗者取扱局が置かれてクリャシェンの監督とムスリムに対する抑圧が行われ、カザンでは536あったモスクのうち418が取り壊されている[164]。
エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代にクリミア・ハン国が併合されて多くのクリミア・タタール人がロシアの支配に入った。エカチェリーナ2世は宗教寛容政策を採り、それまでの抑圧策を廃止してムスリムを統治体制に組み込む方針に転換させた[165]。1789年にムスリム宗務協議会がウファに設立され、この行政組織を通じてウラマー(イスラム法学者)の統制やシャリーア (イスラム法)の執行、モスクの管理が行われるようになった[166]。1831年にクリミア地方を管轄するウヴリーダ・ムスリム宗務理事会、1872年にザカフカース・ムスリム宗務理事会がそれぞれ開設されている[167]。
18世紀末から19世紀前半にかけてカフカースが征服され、北カフカースの山岳民族やザカフカースのアゼルバイジャン人といったムスリムがロシアの支配に組み込まれた。アゼルバイジャン人に対する改宗の試みは成果なく、同化政策に対する反発を引き起こしている[168]。北カフカースの山岳民族は長期にわたってロシア人の支配に抵抗した(カフカース戦争)。
早くにロシアの支配に入ったヴォルガ・タタール人の商人や企業家は言語・宗教の同質を利用してイスラム諸国との貿易に活躍して財を蓄え、ロシアにおけるムスリム社会の経済発展そしてイスラム文化復興に貢献している[169]。ロシアのウラマーの多くは中央アジアに留学しており、ブハラ・ハン国で中心的だったスーフィズムがロシアでも盛んになった[170]。19世紀に入ると中央アジア礼賛に批判的なウトゥズ・イマニーや法源を主体的に解釈するイジュティハードを主張するクルサヴィーによるイスラム改革運動が生まれている[171]。この一方で、裕福なタタール商人をはじめとするムスリムの知識階層も形成され、ロシア式教育が行われるようなり、彼らは飲酒をはじめとするロシア文化を受容しており、厳格なスーフィズム教団やウラマーの改革運動とは距離があった[172]。
19世紀後半になるとカフカース戦争の激化とともに政府のムスリムへの警戒が強まり、アラビア文字、トルコ語出版物への規制が行われた[173]。この時期にメルジャーニーやチュクリー、ナースィリーがロシア文化受容を唱え、ウラマーの改革運動とムスリム知識人を取り結ぶ動きが起こっている[174]。そして、ガスプリンスキーがマドラサの伝統教育に代わる近代的な新方式学校の設立と共通トルコ語使用の運動を起こし、これが19世紀末から20世紀のムスリム社会の近代化を目指したジャディード運動に結びついた[175]。
1860年代から1880年代にかけて中央アジアがロシアの版図に組み入れられ、これらの地域のムスリムもロシア帝国の臣民となった。ロシア帝国は彼らを異族人と規定して、ムスリム社会の風俗慣習に基本的に立ち入らない政策を採っている[176]。
1905年革命が起こるとムスリムの政治運動も活発化し、ロシア・ムスリム大会が開催され、ロシア・ムスリム連盟が発足した[177]。ロシア・ムスリム連盟は立憲民主党と共同歩調をとり、ドゥーマ(国会)に議員団を送り込んでいる[178]。
ユダヤ教
13世紀のカリシュ法以降、ユダヤ人に寛容だったポーランド・リトアニアの領土が、18世紀末のポーランド分割でロシアに併合されたことにより、ロシア帝国は世界有数のユダヤ人人口を抱える国となった[179]。ユダヤ人はウクライナ、ベラルーシそしてリトアニアに集中しており、1897年の国勢調査では521万人になっている[179]。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は「ジード」の卑称を用いず「エブレイ」(ヘブライ人)と呼び、ユダヤ人に権利と自由を保証したが、都市行政から排除し、1791年には移動制限を課している[180]。1835年に定住地制度が定められ、ユダヤ人は指定された定住区域に居住することを義務づけられた[181]。ユダヤ人の中には貴族に取り立てられる者や企業活動・芸術分野で活躍する者もいたが国政に参画することは許されなかった[182]。
アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)の大改革の際にはユダヤ人に対する規制が緩和されたが、1881年の皇帝暗殺事件の犯人の中にユダヤ人女性が加わっていたことが明らかになるとポーランドやウクライナでユダヤ人を襲撃するポグロムが巻き起こった[183]。ロシア政府はこの事態を黙認する態度をとり、「ユダヤ人=搾取者説」が流布されて虐殺が助長された[184]。事件後にユダヤ人臨時条例が制定されて農村移住・不動産取得が禁止された[185]。19世紀末には中・高等教育機関のユダヤ人の数に制限がかけられ、ゼムストヴォ(地方自治機関)からも排除されている[186]。
1903年から1906年にかけて再び大規模なポグロムがあり、ベッサラビアでのユダヤ人襲撃を契機にウクライナ・ロシア西部に広まった[184]。これには極右団体だけでなく警察や軍隊まで関与している[186]。これらの迫害によって150万人のユダヤ人がロシアを去って北米・西欧へ移住しており、やがてイスラエルの地に祖国の再建を目指すシオニズム運動へとつながることになる[187]。
数多くのユダヤ人が革命運動に参加しており[188]、その中にはカーメネフ、スヴェルドロフそしてトロツキーといったボリシェヴィキの指導者たちもいた。
社会
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ロシア帝国の臣民は貴族、聖職者、名誉市民、商人、町人、職人、カザーク(コサック)そして農民といった身分(sosloviye)に分けられる。カフカースの先住民やタタールスタン、バシコルトスタン、シベリアそして中央アジアの非ロシア系住民は異族人と呼ばれる区分に公的に分類されていた。
1897年の国勢調査の結果によるとロシア帝国の身分別割合は世襲貴族・一代貴族・官吏(1.5%)、聖職者(0.5%)、名誉市民(0.3%)、商人(0.2%)、町人・職人(10.6%)、カザーク(2.3%)、農民(77.1%:都市居住農民を含む)、異族人(6.6%)、フィンランド人、外国人・身分不詳・その他(0.9%)となっている[192]。
貴族
ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の改革によって古くからの貴族階層(ボヤール:боярин)が、モスクワ大公そしてツァーリに奉仕する小領主の士族階層(ドボリャンストボ:Дворянство)に吸収された[193]。ロシア帝国では官吏や軍人として勤務することにより貴族になる道が開かれていた。官等表で定められた九等官になった文武官は一代貴族、そして武官は六等官以上、文官は四等官以上で世襲貴族になれた[n 13][193]。また勲章を得ることでも貴族身分を取得することができ、世襲貴族の多くは受勲によるものである[194]。
ピョートル1世は従来の公爵(クニャージ:князь)に加えて伯爵(Граф)と男爵(Барон)を設けている。公爵と伯爵は古くからの家柄の貴族と勲功のあった者に授けられ、男爵は主にバルト海沿岸部のドイツ系貴族に与えられており、全体的には爵位のない貴族が多かった[195]。貴族は土地と農奴を所有する権利を有するが、一代貴族は国家勤務の俸給で生活しており土地を持たない者が多く農奴も所有できない。1858年頃のロシア帝国には約100万人の貴族がおり、農奴を所有できる世襲貴族は61万人になり、このうち実際に農奴を所有する者は約9万人であった[196]。貴族として体面を保つには100人以上の農奴が必要とされるが農奴所有貴族のうち約78%は農奴所有数100人以下であり、100人以上の中流貴族は約22%、1000人以上の上流貴族は1%に過ぎない[195][197]。
ピョートル1世やエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は西欧宮廷文化の輸入・模倣をすすめ、貴族教育の制度も整えられた結果、18世紀末にはロシア貴族は完全に西欧化した[198]。貴族や上流階級の間では当時の国際語であったフランス語[199]やドイツ語が用いられるようになっている[200]。
ピョートル1世は拡大する行政機構の官吏の必要のために貴族の国家勤務を強化して査閲を厳格化し、また「一子相続令」によって家領の分割を禁じ、当主以外の貴族子弟の収入を断ち国家勤務を事実上強制化した[201]。だが、国家勤務は貴族にとって大きな負担であり、貴族の勤務忌避やサボタージュといった抵抗が後をたたず[202]、アンナの時に一子相続令が廃止され、勤務年数も短縮されている[203]。そして、ピョートル3世(在位1761年 - 1762年)が「貴族の自由についての布告」(貴族の解放令)を出して貴族の国家勤務義務が全廃された[204]。上位官職に就いていた貴族は勤務を継続したが、多数の中小領主が地方に移り住み、領地の経営に専念するようになった[205]。しかしながら、18世紀後半には貴族社会の中でも官等表の等級が家柄や財産よりも重んじられるようにもなっており、官吏の半数近くを貴族が占めるようになった[206]。
エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は貴族階層の支持を権力基盤とし、特権認可状が交付され、さらに広大な国有地が下賜されることによって貴族の黄金時代となった[207]。地方行政も貴族に委ねられ、彼らは県・郡ごとに貴族団を組織して大きな影響力を持った[208]。1861年の農奴解放後はその影響力を減じたが、郡・県ゼムストヴォやドゥーマ(国会)でも有利な選挙制度を与えられている[193]。
聖職者
聖職者身分は公認されたキリスト教の聖職者に与えられ、人頭税、体刑そして徴兵を免除されていた。
正教会の聖職者は独身の黒僧(修道士)と妻帯している白僧(在俗司祭)がいた。上位聖職者は黒僧が占め、白僧は町や村の司祭で叙任時点で妻帯していなければならないが、妻が死去した場合は再婚は許されなかった[209]。在俗司祭の教養は概して低く、軽蔑の対象となっていた[210]。
ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)の教会改革の際に「聖務規則」がつくられ、聖職者は皇帝への宣誓を義務づけられている[211]。聖界所領の行政権を国家管理とされ、事実上国有化された結果、修道士たちは国家からの給与によって生活せざる得なくなった[127]。修道院の新設は禁じられ、修道士数も制限され、活動にも様々な規制が加えられた[212]。世襲が許されていた在俗司祭職についても、新たに神学校での教育が義務づけられたが、ラテン語の暗記教育は効果が薄く、世襲を固定化して身分的閉鎖性を強めるだけの結果になった[213]。
聖職者たちは国家の安全に関わる告解の秘密を報告することを命じられており、帝政時代の教会は国家の「侍女」と化していた[214]。
名誉市民
名誉市民(Почётные граждане)はニコライ1世(在位1825年 - 1855年)の時代の1832年に勃興しつつあったブルジョワジーに与える目的で創設された身分であり、人頭税、兵役、体刑を免除されていた[215]。一代貴族や聖職者の子には世襲身分として与えられ、また高等教育を受けた者や14等官になった官吏、功労ある商人、芸術家にも終身身分として与えられた[216]。
商人・町人・職人
都市住民の身分には商人、町人そして職人があり、おのおの身分団体を組織していた。
商人(クペーツ:купчиха)はギルドに所属している裕福な商人や手工業者であり、営業を止めれば身分を失う。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は都市住民を組織化して都市の自治権を裕福な市民に委ねた[217]。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は商人を貴族・聖職者に次ぐ「第3身分」とするべく体刑と人頭税の免除や独占的営業権の特権認可状の付与により保護育成を図っている[218]。やがて、農民身分出身の「農民=商人」(クレチャーニン=クペーツ)の台頭により、従来の商人身分層は衰え、1863年に全ての身分の者が商人身分に転換することが認められた[219]。商人と貴族の一部そして農民身分出身の資本家がロシアにおけるブルジョワジー階層を形成した。商人は流動性の高い身分であったが、人口は20万人程度にとどまっている[219]。
町人(メシチャニーン:мещане)と職人はエカチェリーナ2世が1755年に出した詔書により、商人身分から分けられた小売商人や零細手工業者であり、都市住民の大部分である[220]。
18世紀末のロシアの都市住民は198万人で、総人口に占める割合は4.2%に過ぎなかったが[221]、帝政終焉時の1917年には2600万人となり、総人口の15.6%に達している[222]。
カザーク
15世紀から16世紀に南ロシアやウクライナで形成されたカザーク(Казак:英語読みではコサック)は農業に従事せず[n 14]漁業、狩猟そして略奪を生業とする軍事共同体であり、ロシア帝国の支配に組み込まれて以降は特別な軍事身分となった[223]。
南ロシア・ドン川流域のドン・カザーク はモスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国において有力な政治勢力を形成していた。ツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)の時代にドン・カザーク はラージンの乱(1670年 - 1671年)を起こして政府軍に鎮圧され、以降ドン・カザーク の自治は失われた[224]。ドン・カザーク はピョートル1世(在位1682年 - 1725年)の1707年にもカザークの特権を守るべく蜂起している(ブラーヴィンの乱)[225]。
ヘーチマンを首領とする共同体(ヘーチマン国家)を形成していたウクライナのサポロジェ・カザークは17世紀のツァーリ・アレクセイの時代にポーランドの支配から離れてロシアの保護下に入った[226]。大北方戦争の際にヘーチマン国家の首領イヴァン・マゼーパがロシアから離反したことにより自治が制限された。エカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の治世に入るとロシアの支配はさらに強められ、1764年にヘーチマン制が正式に廃止され、1785年までにヘーチマン国家体制は完全に廃止されて小ロシアと名付けられ、直轄支配に置かれた[227]。
カザークによる最後の大反乱であるプガチョフの乱(1773年 - 1776年)以降、カザークは中央政府の管理下に置かれるようになった[228][223]。
南部国境にカザーク軍管区が置かれて行政は軍事省の管轄とされ、騎馬に巧みなカザークは軍役(18歳から20年間)を課される代わりに土地割当の優遇を受けた[223]。1827年以降、ロシア皇太子が全カザーク軍団のアタマン(首長)とされた。ロシア帝国は騎兵の中核戦力としてのカザーク軍団を編成するとともに、辺境防備のためにカザーク集団をシベリア、中央アジアそして極東に植民させている[229]。
1916年時点で13軍管区、443万人(内軍人28万人)のカザークがいた[223]。カザークは革命運動の弾圧に用いられ、ロシア内戦では多くのカザークが白軍に加わって戦っている[229]。
農民
ロシア帝国臣民の大部分は農民(クレチャーニン:Крестьяне)である。農民は国有地農民、聖界領農民(エカチェリーナ2世の時代に国有地化[230])、御料地(帝室領)農民そして領主農民(農奴)に分けられる。1858年の調査では農民人口の55%が国有地農民(男性9,194,891人)と御料地農民(男性842,740人)であり、45%が農奴(男性10,447,149人)であった[231]。
農民身分では農村共同体(ミールまたはオプシナチ)と農奴解放後に組織された村団そして郷(ヴォロースチ)が身分団体にあたり、新規にこれに登録されることは事実上不可能であった[232]。農村共同体は村長と村会からなる農民の自治組織で耕地、牧畜地そして森林は農村共同体の共同所有とされ、耕作地は村会の決定によって定期的に各農民に割替えられていた[233]。農村共同体は体制側の統治の道具としての側面もあり、納税と徴兵は農村共同体の連帯責任であった[234]。
農民は人頭税に加えて領主(国家、皇族、貴族)に対する貢租(生産物、貨幣)と賦役(労役)の義務を負っていた。伝統的な三圃式農業によるロシアの農業は気候の厳しさに加えて、農村共同体による土地利用は私的意欲が欠如し、機械化も肥料・品種改良の導入も進まず、収穫率は低いままで停滞した[235][n 15]。
ロシアの工業化の進展とともに多くの農民が都市で出稼ぎ労働者として働くようになったが、身分は農民のままである[232]。これら農村からの出稼ぎ労働者は工場労働者の主力となり、19世紀末には新たな都市労働者階層を形成することになる[236]。
ロシアの農村共同体の起源については古くから論争が続いており、スラヴ派は原始・古代的共同体の遺制であると唱え、西欧派は近世になって人頭税の導入に関係して発生したとしている[237]。ピョートル1世以前への回帰を唱えるスラヴ派は農村共同体の共同体精神を高く評価し[238]、知識人は農村共同体を社会主義的理想に近似したものと捉え、ナロードニキは農村に入って農民たちに革命思想を啓蒙しようと試みている[239]。
20世紀に入ると農村共同体は専制体制に抵抗する闘争拠点と化し[60]、1905年革命の際には農村共同体が地主の追放を決め地主地を焼き討ちする運動が広まっている[240]。これに加えて共同所有による生産性への弊害も多く、ストルイピン政権は農村共同体を解体して自営農(クラーク)を育成しようとする土地改革を図ったが、農民の強い抵抗を受けおり、共同体を離脱した農民は20%程度に留まっている[241]。
農奴
ロシアにおける農奴(крепостной крестьянин)は貴族の領地に住む土地に緊縛された農民である。15世紀頃までは農民の移転は自由であったが、農民の逃亡に苦しむ中小領主(士族)を保護すべく、ツァーリ・イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)とイヴァン4世(在位1533年 - 1584年)の時代に移転期間制約と移転料が設けられ、やがて全面禁止となった[242]。そして、1649年にツァーリ・アレクセイ(在位1645年 - 1676年)が定めた「会議法典」で、逃亡農民の追求権が無期限となったことで農奴制が法的に完成した[243]。ピョートル1世(在位1721年 - 1725年)は税収確保のために貴族のホロープ(家内奴隷)にも人頭税をかけてこの制度を消滅させたが、これにより農奴の社会的地位がさらに低下する結果となった[244]。
啓蒙専制君主を自任するエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)は即位当初には農奴制の改善を試みる意向を示したものの、貴族の支持を権力基盤とする彼女は農奴制をいっそう強化させている[245]。エカチェリーナ2世は広大な国有地を貴族に賜与して約80万人もの国有地農民を農奴となし、彼女の時代に農奴制の全盛期となった[246]。
国有地農民や御料地農民が人格面では自由であり保有地の処分もできたのに対して[247]、農奴は領主の個人的所有物とみなされており、人格面での隷属を強いられ、領主から刑罰(シベリア流刑も含む)を受ける一方で領主を告訴する権利はなかった[248]。生活に干渉されて結婚を強制されることもあり[249]、農奴は売買の対象とされ、土地や家族と切り離されて売却されることもあった[250]。農奴は国家に対する人頭税の他に領主に対して貢租(オブローク)もしくは賦役(バールシチナ)を課されており、黒土地帯では貢租が、非黒土地帯では賦役が主に課された[247]。いずれも国有地農民や御料地農民よりも苛酷であり[251]、賦役は領主直営地の農作業や工場・鉱山での労働で、週3日からほとんど毎日の場合すらあった[247]。
18世紀後半になると農奴制はロシアの後進性の象徴として批判の対象になり[252]、改革を目指したアレクサンドル1世(在位1801年 - 1825年)の非公式委員会では農奴制の廃止も議されたが、その実施は限定的で効果のないものに終わった[253]。反動政治を行ったニコライ1世(在位1825年 - 1855年)も農業改革を考え、農奴への模範とするべく、国有地農民・御料地農民の待遇の改善を行い、地主が自発的に土地を農奴に分与する勅令を出したが、これに応じた者は僅かしかいなかった[254]。
クリミア戦争の敗北によって、農奴制への非難が強まり、アレクサンドル2世(在位1855年 - 1881年)は改革を決断し、1861年に農奴解放令が公布された[255]。だが、この農奴解放は地主の利益に配慮した不徹底なものであった。農奴は人格的支配から解放され、土地も分与されたものの地主に有利な価格での有償であり、支払い能力のない農奴に代わって国家が立て替えたが、これにより元農奴は国家に対して49年賦の負債を課せられ、これを払い終えるまで一定の義務を負担する一時的義務負担農民となった[256]。土地は個人に対してではなく農村共同体を基礎に新たに組織された村団に分与されて買戻金の支払いは連帯責任となり、農村共同体の役割がさらに強化されることとなった。加えて地主には土地の3分の1から2分の1が保留地とされたことで、元農奴はかなりの土地を切り取られている[257][258]。元農奴は重い負担と土地不足に苦しめられ、元地主から耕地や金・穀物を借りることになり、その支払いのために元農奴たちは地主の畑を耕作し、農閑期には都市で労働者として働く経済的隷属に陥ることになった(雇役制農業)[259]。
異族人
異族人(イノロードツィ:Инородцы)は民族的区分の法律用語である。ほとんどの場合、この用語はシベリア、中央アジアそして極東の先住民に対して適用されるものであった。この区分は特定の範疇の住民の扱いに対して、幾つかの帝国の法律を適用することは不適当と見なし、伝統的風俗習慣の保護を含む特別の法的地位を与えるべく導入されたものである。この用語は法令以外の分野で非スラヴ系諸民族に対して拡大的に用いられ、「野蛮人」「駄目な連中」という侮蔑的な意味も込められるようになった[260]。
法的な異族人の定義はスぺランスキーのシベリア行政改革の一環として、1822年に出された『異族人統治規約』『シベリア・キルギスに関する規約』が始まりである。異族人に対しては兵役の免除、放牧地の保護そして宗教と内政の自治権を含む特権と特別待遇が与えられていた[261][262]。異族人の権利と義務は彼らの階級に従いロシア人と同等であるが、彼らの自治に関してロシア人と異なる幾らかの特権を有していた。遊牧を生業とする民族はロシアの農民と同等に取り扱われるが、自治と裁判は中央アジアにおける風俗習慣に従い、また彼らの使用するべきもの、もしくは財産として一定の土地が指定され、ロシア人の入植は禁止されていた[263]。もっとも、現地総督府の農民入植推進の施策によりこの保護策は骨抜きにされている[264]。
1835年にはユダヤ人も異族人に加えられたが、居住制限を受ける一方で兵役は課されている[262]。
民族構成
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脚注
注釈
- ^ "Царство"に「Царьの国」「帝国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「帝王」「皇帝」「国王」「ロシヤ皇帝」「第一人者」「王」などの訳語を当てている出典:八杉貞利著『岩波ロシヤ語辞典 増訂版』岩波書店(1465頁、第9刷、1970年11月20日発行)
- ^ "Царство"に「帝国」「王国」「治世」などの訳語を当て、"Царь"に「(ロシア)皇帝」「ツァーリ」「帝王」「国王」「第一人者」などの訳語を当てている出典:共編『ロシア語ミニ辞典』白水社(414頁、第8刷、2008年2月10日発行)
- ^ ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。
- ^ 日本はサンフランシスコ講和条約で南樺太の領有権を放棄したが、ロシアの領有は承認していない。外川継男・栗生沢猛夫. “樺太- Yahoo!百科事典”. 日本大百科全書(小学館). 2012年3月8日閲覧。
- ^ a b ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい。田中他(1994),pp.132-133.
- ^ a b 1720年の設立当初の名称は「聖職参議会」で、翌1721年に元老院と同格の「宗務院」に改称された。田中他(1994),p.42.
- ^ 古儀式派の司祭派は1881年に政府の公認を受けている。
- ^ 正教徒となったタタール人はクリャシェンと呼ばれる。18世紀初頭に2万人前後、19世紀末には11万となったが、その後激減しており、2002年現在は2万5000人程度になっている。濱本(2011),p.56.
- ^ 分離派(ラスコーリニキ:раскольники)とも呼ばれる。
- ^ ロシア編入時、ベラルーシ住民の75%が合同派教会だった。服部(2004),p.23.
- ^ フルイスト派やスコプツィ派については次の論考を参照。*青山太郎『ロシアの性愛論 (7) : 去勢派 (PDF)』九州大学学術情報リポジトリ〈言語文化論究 13〉、2001年。
- ^ ロシア初の国勢調査による数値。
- ^ ピョートル1世が官等表を制定した時点では十四等官で一代貴族、九等官で世襲貴族になれた。岩間他(1979),p.256.
- ^ 17世紀後半にはカザーク も農耕に従事し始めている。和田他(2002),p.151.
- ^ 18世紀後半のイギリスでははん播種量の10倍の収穫であったのに対して、ロシアでは半分の5倍に留まっている。土肥(2007),p.241.
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関連図書
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関連項目
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