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「安政江戸地震」の版間の差分

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{{Otheruses|1855年の江戸直下地震|1854年の東海地震|安政東海地震|1854年の南海地震|安政南海地震}}
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'''安政江戸地震'''(あんせいえどじしん)は、[[安政]]2年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]([[1855年]][[11月11日]])午後10時ごろ、[[関東地方]]南部で発生した[[マグニチュード|M]]7クラスの[[地震]]である。世にいう'''[[安政の大地震]]'''(あんせいのおおじしん)は、特に本地震を指す<ref>『[[日本大百科全書]]』小学館、1994年</ref><ref>[http://www.library.metro.tokyo.jp/digital_library/collectionthe45/the46/tabid/3612/Default.aspx 東京都] [[東京都立図書館]]: 安政の大地震大火絵図</ref><ref name="Oedo">[[花咲一男]] 『大江戸ものしり図鑑』 主婦と生活社、2007年</ref>ことが多く、単に'''江戸地震'''(えどじしん)とも呼ばれる<ref name="soran" />。
[[File:1855 Ansei Edo earthquake intensity.png|thumb|right|240px|安政江戸地震の震度分布<ref name="soran">宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref>]]

'''安政江戸地震'''(あんせいえどじしん)は、[[安政]]2年[[10月2日 (旧暦)|10月2日]]([[1855年]][[11月11日]])午後10時ごろ、[[関東地方]]南部で発生した[[マグニチュード|M]]6.9の[[地震]]である。[[南関東直下地震]]に含まれる。
[[南関東直下地震]]の一つと考えられている。


== 地震の概要 ==
== 地震の概要 ==
近代的な観測なされる前(明治17年以前)に発生した地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や[[宏観異常現象|前兆現象]]の記録などから、[[北アメリカプレート]]内部の[[地震#内陸地殻内地震|内陸地殻内地震]](大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込む[[フィリピン海プレート]]内部の地震([[地震#海洋プレート内地震|海洋プレート内地震]])、北米プレートに沈み込む[[太平洋プレート]]上面の[[関東フラグメント]]による[[地震#プレート間地震|プレート境界地震]]など推定されている。震源は[[東京湾]]北部・[[荒川 (関東)|荒川]]河口付近と考えられている。
近代的な観測なされる前(明治17年以前)に発生した[[歴史地震]]であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や[[宏観異常現象|前兆現象]]の記録などから、[[北アメリカプレート]]内部の[[地震#内陸地殻内地震|内陸地殻内地震]](大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込む[[フィリピン海プレート]]内部の地震([[地震#海洋プレート内地震|海洋プレート内地震]])、北米プレートに沈み込む[[太平洋プレート]]上面の[[関東フラグメント]]による[[地震#プレート間地震|プレート境界地震]]など推定されている。震源は[[東京湾]]北部・[[荒川 (関東)|荒川]]河口付近と考えられている。

最近の研究<ref>[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_22/P101-107.pdf 関東地域の三次元減衰構造・異常震域とそれに基づく1855年安政江戸地震の震源深さの推定  歴史地震研究会〔歴史地震・第22号(2007)〕]</ref>では、[[市川市]]付近で深さ70kmの[[フィリピン海プレート]]によるものだとされた。
震源の深さ・位置についても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの<ref>{{PDFlink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/12617/1/ji0513003.pdf 宇佐美龍夫(1976)]}} 宇佐美龍夫(1976): 新史料による安政江戸地震の調査,東京大学地震研究所彙報,'''51''', 209-230.</ref>、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震<ref>{{PDFlink|[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004875051 大竹政和(1980)]}} 大竹政和(1980): 関東・東海地域のテクトニクスの統一モデルと南関東直下の地震の発生メカニズム, 防災科学技術, '''41''', 1-7.</ref>、古記録から[[初期微動]]の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度<ref>萩原尊礼:江戸-東京の直下地震-古地震から探る, 地震予知総合研究振興会『東京直下地震』毎日新聞社、1991年</ref>、などである。

中村亮一(2007)らの研究では、東京湾北部の[[市川市]]付近で深さ70kmの[[フィリピン海プレート]]に関係するものだとされた<ref>{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_22/P101-107.pdf 中村亮一(2007)]}} 中村亮一(2007): 関東地域の三次元減衰構造・異常震域とそれに基づく1855年安政江戸地震の震源深さの推定, 歴史地震, 第22号, 101-107.</ref>。


特に強い揺れを示したのは[[隅田川]]東側([[江東区]])であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1855-ansei-edoJISHIN/1855-ansei-edoJISHIN_04_chap1.pdf 安政江戸地震]}}</ref>。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は[[東北地方]]南部から[[東海地方]]まで及んだ<ref name="eri.u-tokyo-1855">[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/furumura/anseiedo.htm 関東平野直下の地震と1855年安政江戸地震]東京大学 地震研究所</ref>。
特に強い揺れを示したのは[[隅田川]]東側([[江東区]])であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1855-ansei-edoJISHIN/1855-ansei-edoJISHIN_04_chap1.pdf 安政江戸地震]}}</ref>。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は[[東北地方]]南部から[[東海地方]]まで及んだ<ref name="eri.u-tokyo-1855">[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/furumura/anseiedo.htm 関東平野直下の地震と1855年安政江戸地震]東京大学 地震研究所</ref>。

== 規模 ==
河角廣は現・[[足立区]]付近([[北緯]]35.8°、[[東経]]139.8°)に[[震央]]を仮定し''M''<sub>K</sub> = 4としてマグニチュード ''M'' = 6.9を与えていた<ref>{{PDFlink|[http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/11692/1/ji0293004.pdf Kawasumi(1951)]}} Kawasumi, H., 1951, Measures of earthquakes danger and expectancy of maximum intensity throughout Japan as inferred from the seismic activity in historical times, ''Bull. Earthq. Res. Inst.'', Univ. Tokyo, '''29''', pp.469-482.</ref>。宇佐美(2003)は ''M'' = 7.0-7.1としている<ref name="soran">宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref>。引田(2001)は強震動のシミュレーションから ''M'' = 7.4が妥当としている<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110004304069 引田智樹(2001), CiNii] 引田智樹・工藤一嘉(2001): 経験的グリーン関数法に基づく1855年安政江戸地震の震源パラメータと地震動の推定,日本建築学会構造系論文集, 第546号,63-70.</ref>。


== 被害の状況 ==
== 被害の状況 ==
この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている<ref name="Dainippon">[[震災予防調査会]]編『大日本地震史料』下巻、丸善、1904年</ref><ref name="E.R.I.5-2-1(1987)">[[東京大学地震研究所]]『新収 日本地震史料 五巻 別巻二-一 安政二年十月二日』日本電気協会、1987年</ref><ref name="E.R.I.5-2-2(1987)">東京大学地震研究所『新収 日本地震史料 五巻 別巻二-二 安政二年十月二日』日本電気協会、1987年</ref><ref>東京大学地震研究所『新収 日本地震史料 続補遺別巻』日本電気協会、1994年</ref><ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/oshirase/h15/031222/2-3.pdf 内閣府防災担当(2003)]}} 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案「1855 安政江戸地震」</ref>。
被災したのは[[江戸]]を中心とする[[関東平野]]南部の狭い地域に限られたが、大都市[[江戸]]の被害は甚大であった。被害は[[軟弱地盤]]である[[沖積層]]の厚みに明確に比例するもので、[[武蔵野台地]]上の[[山手]]地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]地区の大半や[[銀座 (歴史)|銀座]]などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、[[下町]]地区、とりわけ[[埋立て]]の歴史の浅い[[隅田川]]東岸の[[深川]]などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、[[日比谷]]から[[皇居外苑|西の丸下]]、[[大手町]]、[[神田神保町]]といった[[谷地]]を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている<ref>[http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E3E3E2E2858DE3E3E2E0E0E2E3E09180EAE2E2E2 日本経済新聞2012年2月11日付]</ref>。死者約4,300人、倒壊家屋約1万戸とされている。

{| class="wikitable"
! style="background-color:#669999" | 街道 !! style="background-color:#aad" | 推定震度<ref name="soran" />
|-
| style="white-space:nowrap"| [[畿内]] || [[京都]](e), 池田(e), [[大坂]](S)
|-
| style="white-space:nowrap"| [[武蔵国]] || [[半蔵門]](6), [[四谷]](6), [[神田小川町|小川町]](6), 大名小路(6), [[神田 (千代田区)|神田]](6), [[湯島]](6), 三田(6), [[築地]](6), [[亀有]](6), 大谷田(6), 三峰(E), 青梅(4), 五日市(4), [[八王子]](E), 日野(E), 田無(4), 小野路(E), [[草加宿|草加]](6), 彦糸(6), [[越谷]](5), [[所沢]](4), [[秩父]](E), 小瀬戸(E), [[毛呂山]](5), [[川越]](5), 志木(6), [[蕨宿|蕨]](6), [[浦和宿|浦和]](6), [[大宮宿|大宮]](5), [[桶川宿|桶川]](5), [[鴻巣宿|鴻巣]](5), 吹上(6), [[熊谷]](5), 幸手(6), 栗橋(6)
|-
| style="white-space:nowrap"| [[東海道]] || 高萩(E), 上出島(6), 三村(6), 大野(5), [[銚子]](e), 鏑木(E), 布川(6), 布佐(6), [[我孫子]](5), 松戸(6), [[佐倉藩|佐倉]](5), 成田(5), 成東(5), 部田(5), 若山(E), 勝浦(5), 房総陣屋(5), [[木更津]](6), [[袖ヶ浦]](6), 鶴巻(6), [[鷺沼]](5), [[鶴見]](6), [[神奈川宿|神奈川]](6), 上宮田(6), [[材木座海岸|材木座]](6), [[戸塚宿|戸塚]](5) - [[藤沢宿|藤沢]](6) - [[平塚宿|平塚]](5), 上溝(5), 勝沼(E), [[甲府]](E), 茶畑(E), [[箱根宿|箱根]](5), 足柄(4), 網代(E), [[下田]](E), [[新島]](5), [[沼津宿|沼津]](e), [[府中宿|府中]](e), [[新居宿|新居]](e), 豊川(E), 豊橋(e), 西尾(e), [[津藩|津]](e), [[伊勢神宮|伊勢]](e)
|-
| style="white-space:nowrap"| [[東山道]] || [[八戸藩|八戸]](e), [[青森]](e), [[弘前藩|弘前]](e), 横手(e), 大石田(e), 長井(e), [[石巻]](E), [[仙台藩|仙台]](e), [[福島藩|福島]](E), [[会津藩|会津]](S), 守山(S), 矢吹(4-5), [[那須]](E), [[宇都宮藩|宇都宮]](E), [[日光東照宮|日光]](5), 天明(4-5), [[赤城]](5), 永井(E), [[長野]](E), [[上田]](5), 臼田(E), [[諏訪藩|諏訪]](E), [[駒ヶ根]](e), [[馬籠宿|馬籠]](E), 下条(e), 上石津(e), 近江八幡(e)
|-
| style="white-space:nowrap"| [[北陸道]] || 新発田(E), [[大河津分水|分水]](e), 見附(e), 馬屋(e), [[糸魚川藩|糸魚川]](e), 氷見(e), [[大野藩|大野]](e)
|-
| style="white-space:nowrap"| [[山陰道]] || [[宮津藩|宮津]](E)
|-
| style="white-space:nowrap"| [[山陽道]] || [[岡山藩|岡山]](e), 笠岡(e)
|-
| colspan="2" | S: 強地震(≧4), &nbsp; E: 大地震(≧4), &nbsp; M: 中地震(2-3), &nbsp; e: 地震(≦3)
|}

[[File:1855 Ansei Edo earthquake intensity.png|thumb|right|240px|安政江戸地震の震度分布<ref name="soran">宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref>]]
被災したのは[[江戸]]を中心とする[[関東平野]]南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は[[軟弱地盤]]である[[沖積層]]の厚みに明確に比例するもので、[[武蔵野台地]]上の[[山手]]地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]地区の大半や[[銀座 (歴史)|銀座]]などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、[[下町]]地区、とりわけ[[埋立て]]の歴史の浅い[[隅田川]]東岸の[[深川 (江東区)|深川]]などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、[[日比谷]]から[[皇居外苑|西の丸下]]、[[大手町]]、[[神田神保町]]といった[[谷地]]を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている<ref>[http://www.nikkei.com/news/headline/article/g=96958A9C93819695E3E3E2E2858DE3E3E2E0E0E2E3E09180EAE2E2E2 日本経済新聞2012年2月11日付]</ref><ref name="Nakamura2011">{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_26/HE26_33_64_07_Nakamura.pdf 中村操(2011)]}} 中村操, 松浦律子(2011): 1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布, 歴史地震, 第26号, 33-64.</ref>。死者は町方において10月6日の初回の幕府による公式調査では4,394人、10月中旬の2回目の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸とされている。またこれに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると死者は1万人くらいであろうとされる<ref name="soran" />。

『破窓の記』には「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし。」とあり、当時から特に揺れの激しい地域の存在が認識されていた<ref name="Nakamura2002">{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_18/16-Nakamura.pdf 中村操(2002)]}} 中村操, 茅野一郎, 唐鎌郁夫(2002): 安政江戸地震(1855/11/11)の江戸市中の被害, 歴史地震, 第18号, 77-96.</ref>。


地震後約30分後に30余箇所から出火、半日後には鎮火したが2.2km<sup>2</sup>を焼失。[[旗本]]・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。[[亀有]]では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万[[石 (単位)|石]]に上った<ref name="jiten">[[宇津徳治]]、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年</ref>。
地震後約30分後に30余箇所から出火、半日後には鎮火したが2.2km<sup>2</sup>を焼失。[[旗本]]・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。[[亀有]]では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万[[石 (単位)|石]]に上った<ref name="jiten">[[宇津徳治]]、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年</ref>。


[[小石川]]の[[水戸藩]]藩邸が倒壊して、水戸藩主の[[徳川斉昭]]の腹心で、水戸の両田と言われた[[戸田忠太夫]]や[[藤田東湖]]が死亡した<ref name="Oedo">花咲一男 『大江戸ものしり図鑑』 主婦と生活社、2007年</ref>。また斉昭の婿である[[盛岡藩]]藩主[[南部利剛]]も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年([[1860年]])の[[桜田門外の変]]つながった<ref name="Ishibashi">[[石橋克彦]] 『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』 岩波新書</ref>。
[[小石川]]の[[水戸藩]]藩邸が倒壊して、水戸藩主の[[徳川斉昭]]の腹心で、水戸の両田と言われた[[戸田忠太夫]]や[[藤田東湖]]が死亡した<ref name="Oedo" />。また斉昭の婿である[[盛岡藩]]藩主[[南部利剛]]も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年([[1860年]])の[[桜田門外の変]]へとつながった<ref name="Ishibashi">[[石橋克彦]] 『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』 岩波新書</ref>。


[[江戸城]]や幕閣らの屋敷が大被害を受け、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定|家定]]は一時的に吹上御庭に避難した。[[江戸幕府]]は前年の[[安政東海地震|安政東海]]・[[安政南海地震|南海地震]]で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、[[幕末]]の多難な時局における財政悪化を深刻化させた<ref name="Ishibashi" />。
[[江戸城]]や幕閣らの屋敷が大被害を受け、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家定|家定]]は一時的に吹上御庭に避難した。[[江戸幕府]]は前年の[[安政東海地震|安政東海]]・[[安政南海地震|南海地震]]で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、[[幕末]]の多難な時局における財政悪化を深刻化させた<ref name="Ishibashi" />。

== 余震 ==
『安政見聞誌』や『破窓の記』などには江戸各所の被害が詳細に記録され、地震当日から10月中の約一か月間の[[余震]]がその強さに応じて黒丸(夜)および白丸(昼)の大きさで表示され、余震回数が日時の経過とともに減少していく様子が窺える<ref name="Nakamura">{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_21/P061-062.pdf 中村操(2006)]}} 中村操, 松浦律子, 白石睦弥(2006): [講演要旨]安政江戸地震について, 歴史地震, 第21号, 61-62.</ref><ref>[http://jcsw-lib.net/ansei/htmls/ansei/01/normal/01_009.html 安政見聞誌] [[日本社会事業大学]]附属図書館, デジタル・ライブラリー</ref>。『なゐの日並』には日記形式で11月中頃まで余震が記録されている<ref name="Musha">武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年</ref>。
{| class="wikitable"
|+ 十月一ヶ月地震之記(余震度数と強度)
|-
| 二日 || <font size="15">&#9679;</font>四時 <font size="4">&#9679;</font>四過 <font size="4">&#9679;</font>九半 <font size="3">&#9679;</font>八時 <font size="4">&#9679;</font>八半 <font size="4">&#9679;</font>七時 <font size="5">&#9679;</font>七過 <font size="3">&#9679;</font>同 <font size="4">&#9679;</font>七半 <font size="3">&#9679;</font>七半
|-
| 三日 || <font size="6">&#9675;</font>九時 <font size="6">&#9675;</font>七時 <font size="3">&#9679;</font>五時 <font size="4">&#9679;</font>四時 <font size="3">&#9679;</font>八時
|-
| 四日 || <font size="4">&#9675;</font>八半 <font size="4">&#9675;</font>七過 <font size="4">&#9679;</font>九半 <font size="3">&#9679;</font>八半過 <font size="4">&#9679;</font>八過
|-
| 五日 || <font size="4">&#9675;</font>六時 <font size="4">&#9675;</font>八時 <font size="4">&#9679;</font>六時 <font size="3">&#9679;</font>九時 <font size="3">&#9679;</font>九半 <font size="3">&#9679;</font>八過 <font size="3">&#9679;</font>七時 <font size="3">&#9679;</font>七過
|-
| 六日 || <font size="5">&#9675;</font>六時 <font size="5">&#9675;</font>四時 <font size="5">&#9675;</font>七時 <font size="3">&#9679;</font>九時 <font size="3">&#9679;</font>八時 <font size="3">&#9679;</font>七半
|-
| style="height:2em" | 七日 || <font size="4">&#9675;</font>四時 <font size="4">&#9675;</font>七時 <font size="6">&#9679;</font>六過 <font size="3">&#9679;</font>五過 <font size="3">&#9679;</font>九過
|-
| 八日 || <font size="4">&#9675;</font>七時 <font size="5">&#9679;</font>六過 <font size="3">&#9679;</font>九半 <font size="3">&#9679;</font>七過
|-
| 九日 || <font size="4">&#9675;</font>五時 <font size="3">&#9679;</font>四過 <font size="3">&#9679;</font>七過
|-
| 十日 || <font size="5">&#9675;</font>六過 <font size="5">&#9679;</font>六過
|-
| 十一日 || <font size="4">&#9675;</font>八時 <font size="3">&#9679;</font>四過 <font size="3">&#9679;</font>九半
|-
| 十二日 || <font size="5">&#9675;</font>八半
|-
| 十三日 || <font size="5">&#9675;</font>五半過 <font size="5">&#9679;</font>四過
|-
| style="height:2em" | 十四日 || <font size="6">&#9675;</font>四過 <font size="3">&#9679;</font>五半 <font size="3">&#9679;</font>七時
|-
| 十五日 || <font size="4">&#9675;</font>七過 <font size="3">&#9679;</font>七時
|-
| 十六日 || <font size="5">&#9675;</font>六時 <font size="5">&#9675;</font>八過 <font size="3">&#9679;</font>四時 <font size="3">&#9679;</font>九時
|-
| 十七日 || <font size="5">&#9675;</font>八半 <font size="5">&#9679;</font>四過 <font size="5">&#9679;</font>八時
|-
| 十八日 || <font size="5">&#9679;</font>九過今夜雷雨
|-
| 十九日 || <font size="3">&#9679;</font>六過 <font size="3">&#9679;</font>四時
|-
| 廿日 || <font size="3">&#9679;</font>八半過
|-
| 廿一日 || <font size="5">&#9675;</font>六時 <font size="5">&#9675;</font>五時
|-
| 廿二日 || <font size="4">&#9675;</font>五半
|-
| 廿三日 || 無
|-
| 廿四日 || <font size="3">&#9679;</font>五半
|-
| 廿五日 || <font size="5">&#9675;</font>七過
|-
| 廿六日 || <font size="5">&#9675;</font>七過 <font size="3">&#9679;</font>八過
|-
| 廿七日 || <font size="4">&#9675;</font>九過
|-
| 廿八日 || <font size="5">&#9679;</font>四時
|-
| 廿九日晦日 || <font size="5">&#9679;</font>九時
|}


== 影響 ==
== 影響 ==
[[File:Namazu4.jpg|right|thumb|200px|安政の大地震後に流行した鯰絵]]
[[File:Namazu4.jpg|right|thumb|200px|安政の大地震後に流行した鯰絵]]
被害情報を伝える[[瓦版]]が発行され、[[風刺画]]の[[鯰絵]]なども刊行された。復旧事業が一時的な経済効果になったとも言われる<ref name="Oedo" />。
被害情報を伝える[[瓦版]]が発行され、[[風刺画]]の[[鯰絵]]なども刊行された。復旧事業が一時的な経済効果になったとも言われる<ref name="Oedo" />。地震後には夥しい数の[[瓦版]]や[[鯰絵]]が巷に出回り、よく売れたとする記録が少なくない(『武江地動之記』『なゐの日並』など)。瓦版には市民の情報獲得に対する欲求を満たす役割があり、中には国元の縁者に親子兄弟の安否を刷り込み知らせるもの、地震の発生を歓迎するような詞書が添えられているものもあり、災害が世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が当時は依然として根強く残っていた<ref name="Kitahara">北原糸子『安政大地震と民衆』三一書房、1983年</ref>。


の震に、[[佐久間象山]]が大地震を予知する地震予知器を開発している。地震の予兆について人々から聞いた話を元に作成され、原理としては[[磁石]]の先端に[[火薬]]が付けられ、[[大地震]]が来る前にはその火薬が下に落ちるとするものであったという。
『安政見聞誌』には、地震当日夜五つ時頃(20時頃)、「浅草御蔵前通大墨」という眼鏡屋が所有する3[[尺]]余(約1m)の[[磁石]]に吸付いていた古釘、古錠など金物が悉く落下し、地後に再び鉄吸付ける力を回復したとある。この現象を元に、[[佐久間象山]]が大地震を予知する地震予知器を開発している。地震の予兆について人々から聞いた話を元に作成され、原理としては磁石の先端に[[火薬]]が付けられ、[[大地震]]が来る前にはその火薬が下に落ちるとするものであったという<ref>[http://jcsw-lib.net/ansei/htmls/ansei/03/normal/03_019.html 安政見聞誌] [[日本社会事業大学]]附属図書館, デジタル・ライブラリー</ref><ref name="Tsuji">[[都司嘉宣]]『千年震災』ダイヤモンド社、2011年</ref>


== 安政年間の地震 ==
== 安政年間の地震 ==
[[安政]]年間は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政江戸地震発生の前年である安政元年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]([[1854年]][[12月23日]])には[[安政東海地震]](M8.4)、その約32時間後に[[安政南海地震]](M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「'''安政三大地震'''」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には[[豊予海峡地震]](M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]](1854年[[7月9日]])に[[伊賀上野地震]](M7.4)、安政2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]](1855年[[3月18日]])に[[飛騨地震]](M6.8)、安政5年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1858年]][[4月9日]])に[[飛越地震]](M6.7)が発生している<ref name="jiten" />。
[[安政]]年間は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政江戸地震発生の前年である安政元年[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]([[1854年]][[12月23日]])には[[安政東海地震]](M8.4)、その約32時間後に[[安政南海地震]](M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「'''安政三大地震'''」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には[[豊予海峡地震]](M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年[[6月15日 (旧暦)|6月15日]](1854年[[7月9日]])に[[伊賀上野地震]](M7.4)、安政2年[[2月1日 (旧暦)|2月1日]](1855年[[3月18日]])に[[飛騨地震]](M6.8)、安政5年[[2月26日 (旧暦)|2月26日]]([[1858年]][[4月9日]])に[[飛越地震]](M6.7)が発生している<ref name="jiten" />。


ただし、伊賀上野地震(安政伊賀地震)・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震は「安政」への[[改元]]前に発生した地震である。これらの地震や[[黒船来航]]、[[内裏]]炎上などの災異が相次いだため、「[[嘉永]]」から「安政」に改元された。
ただし、伊賀上野地震(安政伊賀地震)・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震は「安政」への[[改元]]前に発生した地震である<ref>{{PDFlink|[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/22/3/22_3_253/_pdf 湯村哲男(1969)]}} 湯村哲男(1969): 本邦における被害地震の日本暦について, 地震, 第2輯, '''22''', pp.253-255.</ref>。これらの地震や[[黒船来航]]、[[内裏]]炎上などの災異が相次いだため、「[[嘉永]]」から「安政」に改元された。


== 参考文献 ==
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[[Category:日本の地震]]
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2012年12月13日 (木) 08:17時点における版

安政江戸地震
安政の大地震絵図
安政江戸地震の位置(日本内)
安政江戸地震
震源の位置
本震
発生日 1855年11月11日
発生時刻 午後10時(日本標準時
震央 日本の旗 日本 江戸直下
北緯35度39分0秒 東経139度48分0秒 / 北緯35.65000度 東経139.80000度 / 35.65000; 139.80000座標: 北緯35度39分0秒 東経139度48分0秒 / 北緯35.65000度 東経139.80000度 / 35.65000; 139.80000
規模    マグニチュード 6.9-7.4
最大震度    震度6:江戸
地震の種類 直下型地震
被害
死傷者数 死者4000人余-1万余
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
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安政江戸地震(あんせいえどじしん)は、安政2年10月2日1855年11月11日)午後10時ごろ、関東地方南部で発生したM7クラスの地震である。世にいう安政の大地震(あんせいのおおじしん)は、特に本地震を指す[1][2][3]ことが多く、単に江戸地震(えどじしん)とも呼ばれる[4]

南関東直下地震の一つと考えられている。

地震の概要

近代的な観測がなされる前(明治17年以前)に発生した歴史地震であるため、その震源やメカニズムについては諸説があり、各地の地震被害資料や前兆現象の記録などから、北アメリカプレート内部の内陸地殻内地震(大陸プレート内地震)、北米プレートに沈み込むフィリピン海プレート内部の地震(海洋プレート内地震)、北米プレートに沈み込む太平洋プレート上面の関東フラグメントによるプレート境界地震などと推定されている。震源は東京湾北部・荒川河口付近と考えられている。

震源の深さ・位置についても諸説あり、深さ約40km以下の浅い場所で発生したM6.9の地震とするもの[5]、フィリピン海プレート上面で発生したプレート境界型地震[6]、古記録から初期微動の継続時間が約10秒と読み取れることから深さ100km程度[7]、などである。

中村亮一(2007)らの研究では、東京湾北部の市川市付近で深さ70kmのフィリピン海プレートに関係するものだとされた[8]

特に強い揺れを示したのは隅田川東側(江東区)であった。隅田川と江戸川に挟まれた沖積地が揺れを増幅したものと考えられる[9]。震度6以上の揺れと推定されるのは江戸付近に限られる一方で、震度4以上の領域は東北地方南部から東海地方まで及んだ[10]

規模

河角廣は現・足立区付近(北緯35.8°、東経139.8°)に震央を仮定しMK = 4としてマグニチュード M = 6.9を与えていた[11]。宇佐美(2003)は M = 7.0-7.1としている[4]。引田(2001)は強震動のシミュレーションから M = 7.4が妥当としている[12]

被害の状況

この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている[13][14][15][16][17]

街道 推定震度[4]
畿内 京都(e), 池田(e), 大坂(S)
武蔵国 半蔵門(6), 四谷(6), 小川町(6), 大名小路(6), 神田(6), 湯島(6), 三田(6), 築地(6), 亀有(6), 大谷田(6), 三峰(E), 青梅(4), 五日市(4), 八王子(E), 日野(E), 田無(4), 小野路(E), 草加(6), 彦糸(6), 越谷(5), 所沢(4), 秩父(E), 小瀬戸(E), 毛呂山(5), 川越(5), 志木(6), (6), 浦和(6), 大宮(5), 桶川(5), 鴻巣(5), 吹上(6), 熊谷(5), 幸手(6), 栗橋(6)
東海道 高萩(E), 上出島(6), 三村(6), 大野(5), 銚子(e), 鏑木(E), 布川(6), 布佐(6), 我孫子(5), 松戸(6), 佐倉(5), 成田(5), 成東(5), 部田(5), 若山(E), 勝浦(5), 房総陣屋(5), 木更津(6), 袖ヶ浦(6), 鶴巻(6), 鷺沼(5), 鶴見(6), 神奈川(6), 上宮田(6), 材木座(6), 戸塚(5) - 藤沢(6) - 平塚(5), 上溝(5), 勝沼(E), 甲府(E), 茶畑(E), 箱根(5), 足柄(4), 網代(E), 下田(E), 新島(5), 沼津(e), 府中(e), 新居(e), 豊川(E), 豊橋(e), 西尾(e), (e), 伊勢(e)
東山道 八戸(e), 青森(e), 弘前(e), 横手(e), 大石田(e), 長井(e), 石巻(E), 仙台(e), 福島(E), 会津(S), 守山(S), 矢吹(4-5), 那須(E), 宇都宮(E), 日光(5), 天明(4-5), 赤城(5), 永井(E), 長野(E), 上田(5), 臼田(E), 諏訪(E), 駒ヶ根(e), 馬籠(E), 下条(e), 上石津(e), 近江八幡(e)
北陸道 新発田(E), 分水(e), 見附(e), 馬屋(e), 糸魚川(e), 氷見(e), 大野(e)
山陰道 宮津(E)
山陽道 岡山(e), 笠岡(e)
S: 強地震(≧4),   E: 大地震(≧4),   M: 中地震(2-3),   e: 地震(≦3)
安政江戸地震の震度分布[4]

被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域に限られたが、大都市江戸の被害は甚大であった。被害は軟弱地盤である沖積層の厚みに明確に比例するもので、武蔵野台地上の山手地区や、埋没した洪積台地が地表面のすぐ下に伏在する日本橋地区の大半や銀座などでは、大名屋敷が半壊にとどまることなどから震度5強程度とみられ、被害は少なかったが、下町地区、とりわけ埋立ての歴史の浅い隅田川東岸の深川などでは、震度6弱以上と推定され、甚大な被害を生じた。また、日比谷から西の丸下大手町神田神保町といった谷地を埋め立てた地域でも、大名屋敷が全壊した記録が残っているなど、被害が大きく、震度6弱以上と推定されている[18][19]。死者は町方において10月6日の初回の幕府による公式調査では4,394人、10月中旬の2回目の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸とされている。またこれに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると死者は1万人くらいであろうとされる[4]

『破窓の記』には「今度の地震、山川高低の間、高地は緩く、低地は急なり。その体、青山、麻布、四谷、本郷、駒込辺の高地は緩にて、御曲輪内、小川町、小石川、下谷、浅草、本所、深川辺は急なり。その謂れ、自然の理有るべし。」とあり、当時から特に揺れの激しい地域の存在が認識されていた[20]

地震後約30分後に30余箇所から出火、半日後には鎮火したが2.2km2を焼失。旗本・御家人らの屋敷は約80%が焼失、全潰、半潰または破損の被害を受けた。亀有では田畑に小山や沼が出来、その損害は約3万に上った[21]

小石川水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫藤田東湖が死亡した[3]。また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷した。指導者を失った水戸藩は内部抗争が激化、安政7年(1860年)の桜田門外の変へとつながった[22]

江戸城や幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難した。江戸幕府は前年の安政東海南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられ、幕末の多難な時局における財政悪化を深刻化させた[22]

余震

『安政見聞誌』や『破窓の記』などには江戸各所の被害が詳細に記録され、地震当日から10月中の約一か月間の余震がその強さに応じて黒丸(夜)および白丸(昼)の大きさで表示され、余震回数が日時の経過とともに減少していく様子が窺える[23][24]。『なゐの日並』には日記形式で11月中頃まで余震が記録されている[25]

十月一ヶ月地震之記(余震度数と強度)
二日 四時 四過 九半 八時 八半 七時 七過 七半 七半
三日 九時 七時 五時 四時 八時
四日 八半 七過 九半 八半過 八過
五日 六時 八時 六時 九時 九半 八過 七時 七過
六日 六時 四時 七時 九時 八時 七半
七日 四時 七時 六過 五過 九過
八日 七時 六過 九半 七過
九日 五時 四過 七過
十日 六過 六過
十一日 八時 四過 九半
十二日 八半
十三日 五半過 四過
十四日 四過 五半 七時
十五日 七過 七時
十六日 六時 八過 四時 九時
十七日 八半 四過 八時
十八日 九過今夜雷雨
十九日 六過 四時
廿日 八半過
廿一日 六時 五時
廿二日 五半
廿三日
廿四日 五半
廿五日 七過
廿六日 七過 八過
廿七日 九過
廿八日 四時
廿九日晦日 九時

影響

安政の大地震後に流行した鯰絵

被害情報を伝える瓦版が発行され、風刺画鯰絵なども刊行された。復旧事業が一時的な経済効果になったとも言われる[3]。地震後には夥しい数の瓦版鯰絵が巷に出回り、よく売れたとする記録が少なくない(『武江地動之記』『なゐの日並』など)。瓦版には市民の情報獲得に対する欲求を満たす役割があり、中には国元の縁者に親子兄弟の安否を刷り込み知らせるもの、地震の発生を歓迎するような詞書が添えられているものもあり、災害が世の乱れを糺すべく天が凶兆を以て警告するのだとする思想が当時は依然として根強く残っていた[26]

『安政見聞誌』には、地震当日の夜五つ時頃(20時頃)、「浅草御蔵前通大墨」という眼鏡屋が所有する3余(約1m)の磁石に吸付いていた古釘、古錠など金物が悉く落下し、地震後に再び鉄を吸付ける力を回復したとある。この現象を元に、佐久間象山が大地震を予知する地震予知器を開発している。地震の予兆について人々から聞いた話を元に作成され、原理としては磁石の先端に火薬が付けられ、大地震が来る前にはその火薬が下に落ちるとするものであったという[27][28]

安政年間の地震

安政年間は日本で多くの大地震が発生した時代である。安政江戸地震発生の前年である安政元年11月4日1854年12月23日)には安政東海地震(M8.4)、その約32時間後に安政南海地震(M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には豊予海峡地震(M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年6月15日(1854年7月9日)に伊賀上野地震(M7.4)、安政2年2月1日(1855年3月18日)に飛騨地震(M6.8)、安政5年2月26日1858年4月9日)に飛越地震(M6.7)が発生している[21]

ただし、伊賀上野地震(安政伊賀地震)・安政東海地震・安政南海地震・豊予海峡地震は「安政」への改元前に発生した地震である[29]。これらの地震や黒船来航内裏炎上などの災異が相次いだため、「嘉永」から「安政」に改元された。

参考文献

  1. ^ 日本大百科全書』小学館、1994年
  2. ^ 東京都 東京都立図書館: 安政の大地震大火絵図
  3. ^ a b c 花咲一男 『大江戸ものしり図鑑』 主婦と生活社、2007年
  4. ^ a b c d e 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年
  5. ^ 宇佐美龍夫(1976) (PDF) 宇佐美龍夫(1976): 新史料による安政江戸地震の調査,東京大学地震研究所彙報,51, 209-230.
  6. ^ 大竹政和(1980) (PDF) 大竹政和(1980): 関東・東海地域のテクトニクスの統一モデルと南関東直下の地震の発生メカニズム, 防災科学技術, 41, 1-7.
  7. ^ 萩原尊礼:江戸-東京の直下地震-古地震から探る, 地震予知総合研究振興会『東京直下地震』毎日新聞社、1991年
  8. ^ 中村亮一(2007) (PDF) 中村亮一(2007): 関東地域の三次元減衰構造・異常震域とそれに基づく1855年安政江戸地震の震源深さの推定, 歴史地震, 第22号, 101-107.
  9. ^ 安政江戸地震 (PDF)
  10. ^ 関東平野直下の地震と1855年安政江戸地震東京大学 地震研究所
  11. ^ Kawasumi(1951) (PDF) Kawasumi, H., 1951, Measures of earthquakes danger and expectancy of maximum intensity throughout Japan as inferred from the seismic activity in historical times, Bull. Earthq. Res. Inst., Univ. Tokyo, 29, pp.469-482.
  12. ^ 引田智樹(2001), CiNii 引田智樹・工藤一嘉(2001): 経験的グリーン関数法に基づく1855年安政江戸地震の震源パラメータと地震動の推定,日本建築学会構造系論文集, 第546号,63-70.
  13. ^ 震災予防調査会編『大日本地震史料』下巻、丸善、1904年
  14. ^ 東京大学地震研究所『新収 日本地震史料 五巻 別巻二-一 安政二年十月二日』日本電気協会、1987年
  15. ^ 東京大学地震研究所『新収 日本地震史料 五巻 別巻二-二 安政二年十月二日』日本電気協会、1987年
  16. ^ 東京大学地震研究所『新収 日本地震史料 続補遺別巻』日本電気協会、1994年
  17. ^ 内閣府防災担当(2003) (PDF) 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案「1855 安政江戸地震」
  18. ^ 日本経済新聞2012年2月11日付
  19. ^ 中村操(2011) (PDF) 中村操, 松浦律子(2011): 1855年安政江戸地震の被害と詳細震度分布, 歴史地震, 第26号, 33-64.
  20. ^ 中村操(2002) (PDF) 中村操, 茅野一郎, 唐鎌郁夫(2002): 安政江戸地震(1855/11/11)の江戸市中の被害, 歴史地震, 第18号, 77-96.
  21. ^ a b 宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年
  22. ^ a b 石橋克彦 『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』 岩波新書
  23. ^ 中村操(2006) (PDF) 中村操, 松浦律子, 白石睦弥(2006): [講演要旨]安政江戸地震について, 歴史地震, 第21号, 61-62.
  24. ^ 安政見聞誌 日本社会事業大学附属図書館, デジタル・ライブラリー
  25. ^ 武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年
  26. ^ 北原糸子『安政大地震と民衆』三一書房、1983年
  27. ^ 安政見聞誌 日本社会事業大学附属図書館, デジタル・ライブラリー
  28. ^ 都司嘉宣『千年震災』ダイヤモンド社、2011年
  29. ^ 湯村哲男(1969) (PDF) 湯村哲男(1969): 本邦における被害地震の日本暦について, 地震, 第2輯, 22, pp.253-255.

関連項目

外部リンク