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「シーキングザパール」の版間の差分

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'''シーキングザパール''' (''Seeking the Pearl'') は[[日]][[競走馬]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]で生れ、日本およびアメリカで調教された[[外国産馬]]である。[[1998年]]に日本調教として初めて国外の[[競馬の競走格付け|G1]]競走を優勝した
'''シーキングザパール'''({{lang|en|Seeking the Pearl}}、[[1994年]][[4月16日]] - [[2005年]][[6月10日]])は、[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[日本]]とアメリカで調教された[[競走馬]]、およびアメリカ供用された[[繁殖牝馬]]。

1996年から1999年まで日本で競走生活を送り、1997年の[[NHKマイルカップ]]に優勝、1998年夏には[[フランス]]遠征を行い[[モーリス・ド・ゲスト賞|モーリス・ド・ギース賞]]<ref group="注">競走名(Prix Maurice de Gheest)は、当時はモーリス・ド・ギース賞と呼ばれることが多かったが、その後表記を見直し現在ではモーリス・ド・ゲスト賞と呼ばれることが多い。</ref>に優勝し、日本調教馬として初めて[[ヨーロッパ]]のG1競走を制した。日本在籍時代の[[主戦騎手]]は[[武豊]]。1999年7月にアメリカへ移籍した後に引退。繁殖牝馬としての主な産駒に、[[重賞]]5勝を挙げたほかGI競走で9度の2着を記録した[[シーキングザダイヤ]]がいる。

※年齢は全て日本で2000年以前に使用された当時の旧表記(数え年)で記述する。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== デビューまで ===
[[馬齢|年齢]]は全て当時の旧表記。レース名に年齢が含まれるものもそのままとする。
[[1994年]]、アメリカ・[[ヴァージニア州]]のレイジーレーンステーブルの生産<ref name="100meiba">『週刊100名馬 シーキングザパール』p.11</ref>。翌1995年7月に[[キーンランド競馬場|キーンランド]]で開催された[[セリ市 (競馬)|セリ市]]に上場されて主取<ref group="注">ぬしとり。セリに出した販売者が自ら落札し引き取ること。買い手がつかなかったり、販売希望額に達しなかった場合に行われることが多い。[[セリ市 (競馬)#日本のセリ市の流れ]]参照。</ref>となったが<ref name="yushun199705">『優駿』1997年5月号、p.141</ref>、その後、本馬の所有者となる植中倫子の娘・昌子に<ref name="yushun199706">『優駿』1997年6月号、p.144</ref>18万5000ドルで購買された<ref name="100meiba" />。昌子は名簿段階から本馬に目を留めていたが、セール後に主取となったことを知り、改めて厩舎に実馬の検分に赴くと、ちょうど馬房の窓から顔を出しており、「普通の若馬は落ち着きがないのに、何か考えごとをしている。いかにも頭が良さそうに見え」「まさに運命的な出会いを感じて」購買を決めたという<ref name="yushun199705" />。同11月に日本へ送られ、[[北海道]][[安平町|早来町]]の[[ノーザンファーム]]で育成調教を積まれた<ref name="100meiba" />。翌1996年5月に[[滋賀県]][[栗東トレーニングセンター]]の[[佐々木晶三]]厩舎に入厩<ref name="100meiba" />。「[[真珠]]探し」を意味する馬名は父[[シーキングザゴールド]]からの連想であるが<ref name="100meiba" />、昌子の[[誕生石]]が真珠であることから、倫子は「馬があなたを探してくれた」との意味を込めたという<ref name="yushun199706" />。

=== 戦績 ===
==== 3歳(1996年) ====
1996年7月20日、[[小倉競馬場|小倉開催]]の新馬戦でデビュー。従前から調教での走りが栗東で評判となっており<ref name="100meiba2">『週刊100名馬 シーキングザパール』p.12</ref>、単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持されると、スタート直後先頭から、2着に7馬身差を付けて初勝利を挙げた。続く[[中山競馬場|中山開催]]の[[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]では[[シンコウスプレンダ]]に次ぐ2番人気の支持を受けたが、スタート直後に外側へ大きく逃避したことが影響して後方からのレース運びとなり、直線で追い込むも3着と敗れた<ref name="100meiba2" />。騎乗していた[[武豊]]は逸走の原因が分からなかったといい、「ちょっと普通のいいコではないなと」感じたという<ref>武(2003)p.103</ref>。しかし次走の[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]では気難しさを見せることなく、[[メジロブライト]]に5馬身差、3歳馬による芝1400メートルの日本レコードタイムで重賞初勝利を挙げた<ref name="100meiba2" />。また、武はこの勝利で兄弟子の[[河内洋]]が保持した年間重賞最多勝記録を14に更新し、さらに史上初の4週連続重賞勝利を合わせて達成した<ref name="100meiba3">『週刊100名馬 シーキングザパール』p.6</ref>。

12月1日に臨んだ3歳女王戦・[[阪神ジュベナイルフィリーズ|阪神3歳牝馬ステークス]]では、前走に続き単勝オッズ1.5倍を付けて1番人気となった。しかしレースでは先行策から直線で失速し、[[メジロドーベル]]の4着に終わった。武は後に「4コーナーまではごく普通に走っていたのに突然手応えが悪くなって、これまた原因不明です」と回想している<ref name="yutaka">武(2003)p.104</ref>。調教師の佐々木も「説明がつかない」と語ったが<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.14</ref>、植中倫子は「きっと初めての荒れた馬場に嫌気がさしたためでしょう」と分析している<ref>『優駿』1997年3月号、p.144</ref>。当年は4戦2勝でシーズンを終えたが、敗れた2戦の不可解な内容から以後「気性難」というレッテルを貼られることになった<ref name="yutaka" />。なお、武によれば「厩にいるときのシーキングザパールは絶対に人を噛まない、暴れない、何をされても嫌がらないという、いい馬」であり、「乗ったら変身」していたのだという<ref>島田(2007)p.281</ref>。

==== 4歳(1997年) ====
翌1997年、初戦の[[シンザン記念]]を3馬身差で勝利。しかし2月5日<ref name="100meiba" />に佐々木からシーキングザパールが[[森秀行]]厩舎へ転厩することが発表され、シーキングザパールは同日中に森厩舎へ移された<ref name="100meiba3" />。植中と佐々木との間で以後の[[ローテーション#競馬|ローテーション]]を巡る対立が起こったことが原因とされている<ref name="100meiba3" />。

当時、[[外国産馬]]には[[中央競馬クラシック三冠|クラシック競走]]への出走が認められていなかったため、外国産馬にも門戸を開いた前年新設のGI競走・[[NHKマイルカップ]](5月11日)を春の目標に据えた。以後[[フラワーカップ]]、[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]と重賞を連勝。本命馬としてマイルカップに臨んだ。もう1頭の有力候補であった外国産馬[[スピードワールド]]が捻挫のため出走を回避し、当日は前年の3歳王者・[[マイネルマックス]]等を抑え1番人気の支持を受けた。レースは前半600mを35秒0というスローペースの中、6-7番手を進むと、最後の直線半ばで先頭に立ち、2着[[ブレーブテンダー]]に1馬身3/4差を付けて優勝、GI制覇を果たした。競走後、森から秋の目標を牝馬三冠最終戦の[[秋華賞]]とし、最終的に香港で行われる[[香港カップ|香港国際カップ]]を視野に入れていくことが発表された<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.18</ref>。なお、武は陣営に対して9月にアメリカで行われる[[ビヴァリーD・ステークス]]への遠征を提案していたが、これは日程的な問題から見送られた<ref>『優駿』1997年10月号,p.13</ref>。

夏の休養後、8月末に帰厩<ref name="100meiba" />。秋華賞へ向け、シーキングザパールは[[桜花賞]]優勝馬[[キョウエイマーチ]]、[[優駿牝馬|優駿牝馬(オークス)]]優勝馬メジロドーベルと共に、4歳牝馬の「三強」に数えられた<ref>『優駿』1997年10月号、p.10</ref>。秋緒戦は[[ローズステークス]](秋華賞トライアル)から始動。キョウエイマーチとの初対戦となり、当日はシーキングザパールが1.4倍で1番人気、キョウエイマーチが3.9倍の2番人気となった。しかしレースではキョウエイマーチが逃げ切りを見せた後方で、シーキングザパールは直線で伸びきれず、3着に終わった<ref name="yushun200510">『優駿』p.66</ref>。その後も秋華賞に向けて調整されていたが、コンディション検査の際、気管の入口が皺によって塞がれる[[喉頭蓋エントラップメント]]の症状が発見されたため、秋華賞を断念。喉の手術が行われたのち休養に入った<ref name="yushun200510" />。植中昌子によれば、当初は原因不明とされていたもののローズステークスの時点ですでに症状が出ており、同競走の残り400メートルは呼吸ができない状態で走っていたという<ref>『優駿』1998年6月号、p.147</ref>。

==== 5歳(1998年) ====
約7カ月の休養後、3歳時以来の1200メートル戦・[[シルクロードステークス]]で復帰。手術からの長期休養明け、[[プール]]調教主体の調整過程といった様々な不安要素もあり、当日4番人気の評価だったが<ref>『優駿』1998年6月号、p.68</ref>、2番人気の[[マサラッキ]]をクビ差かわして勝利を挙げた。この勝利により夏のヨーロッパ遠征が決定する<ref name="100meiba4"> 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.8</ref>。次走は春の短距離王者決定戦・[[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]に出走、1番人気に支持された。しかし当日は降雨によって馬場状態が不得手の重馬場(稍重)となり、先行するも伸びきれず4着に終わった<ref>『優駿』2005年10月号、p.67</ref>。続いてNHKマイルカップと同じ[[東京競馬場]]の1600メートル戦・[[安田記念]]に進んだが、前走以上の降雨で、馬場状態は騎手たちが「ここ数年記憶にない」と語ったほど悪化、レースでは武との折り合いも欠き、[[タイキシャトル]]の10着と大敗を喫した<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.22</ref>。勝ったタイキシャトルも夏のヨーロッパ遠征を予定し、この競走は壮行戦として出走したもので、渡欧を控えた2頭の明暗が分かれる結果となった<ref name="100meiba4" />。

競走後、改めてシーキングザパールのフランス遠征が発表され、[[ドーヴィル競馬場]]で行われる距離1300メートルのG1競走モーリス・ド・ギース賞への出走が明言された。格付けはG1ながら同競走は当時日本での知名度が低く、武は著書で「森先生はよくこんなレースを見つけ出したものだと感心します。日本人はよく名の知られたビッグレースを狙うのがふつうでしたから」とその決定を称えている<ref>武(2003)p.109</ref>。森は前年にこの競走の存在を知り、[[ドージマムテキ]]を出走させようとして頓挫して経緯があり、その経験を踏まえたものであった<ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.132</ref>。また森は当初1600メートル戦の[[ジャック・ル・マロワ賞]]への出走を企図していたが、イギリスの[[サセックスステークス]]への出走を予定していたタイキシャトルが、コース適性を理由としてジャック・ル・マロワ賞に目標を切り替えたため「1600メートルではタイキシャトルに勝てない」と判断しての決定でもあった<ref name="100meiba6">『週刊100名馬 シーキングザパール』pp.8-9</ref>。「それなら格は下でも1週早いモーリス・ド・ギース賞を狙って、日本で最初に海外のGIを勝つ調教師になってやろうと思った」ともいう<ref name="100meiba7">『週刊100名馬 シーキングザパール』p.9</ref>。


7月21日に調教を行う予定のイギリスへ出発。翌22日に受け入れ先である[[ニューマーケット]]のジェフ・ラグ([[:en:Geoff Wragg|Geoff Wragg]])厩舎に到着し、以後調教が積まれていった。森がニューマーケットでの調教を選んだ理由は、日本で専ら使用している[[ウッドチップコース|ウッドチップ]]の坂路コースに近いサイドヒルというウッドチップコースが備えられていたことにあった<ref name="100meiba7" />。森は「輸送を考えるとフランスの[[シャンティイ調教場|シャンティー]]でやった方がいい。けど、あそこの[[ダート]]コースで仕上げる自信はなかった。タイキシャトルや[[エルコンドルパサー]]<ref group="注">1999年にフランス遠征を行った日本調教馬。</ref>ぐらい能力が高い馬なら、どこで調教したって勝てるやろ。パールはそうはいかん。日本でも余裕で勝てる馬やない。''(中略)''これ以上ないってくらい仕上げんと勝負にならんと思った」と述べている<ref name="100meiba7" />。8月5日には日本から武が駆けつけて最終調教を行い、3ハロン(約600メートル)を推定35秒5という好タイムを計時し好調を窺わせた<ref name="100meiba7" />。
=== デビュー ===
[[1994年]]にアメリカで生まれ、アメリカの[[セリ市 (競馬)|セリ市]]に上場され日本人[[馬主]]の目に留まるが主取<ref>ぬしとり。セリに出した販売者が自ら落札し引き取ること。買い手がつかなかったり、販売希望額に達しなかった場合に行われることが多い。[[セリ市 (競馬)#日本のセリ市の流れ]]参照。</ref>。その後[[庭先取引]]で購入され来日した。当時の日本競馬(特に短距離路線)は外国産馬による全盛期で、シーキングザパールのライバルの多くも外国産馬であった。


翌6日にフランスへ渡ってドーヴィル競馬場に入り<ref name="100meiba7" />、8月9日にモーリス・ド・ギース賞を迎えた。フランスは雨が多い時期に当たり森は馬場状態を懸念していたが、当年は雨が降らず、数十年ぶりといわれる硬い馬場での競走となった<ref>『Sports Graphic Number PLUS』p.133</ref>。シーキングザパールはオッズ10.4倍の5番人気であった。スタートが切られると、スローペースで押し出されるような形で先頭に立ち、そのままレースを先導。残り300m地点からスパートを掛けると追走する[[ジムアンドトニック]]らの追走を振り切り、コースレコードを17年ぶりに更新する1分14秒7で逃げ切り勝ちを収めた<ref name="100meiba8">『週刊100名馬 シーキングザパール』pp.24-25</ref>。日本競馬界の悲願とされていた初の欧州G1競走制覇であり、地元紙『[[パリチュルフ]]』は「ロケット弾、その名はシーキングザパール」との見出しで、この勝利を1面で伝えた<ref name="yushun199810">『優駿』1998年10月号、p.47</ref>。またイギリスの『[[レーシング・ポスト]]』も「日本の牝馬、歴史を作る」の見出しと共に1面で大きく取り上げ、関係者の紹介や、1958年から1959年にアメリカへ遠征した[[ハクチカラ]]以降の日本馬の海外遠征史も合わせて取り上げた<ref>『優駿』1998年10月号、p.124</ref>。手綱を取った武はフランス調教馬[[スキーパラダイス]]で勝った[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]に次ぐ欧州G1競走2勝目であったが、「スキーパラダイスの時とは違う嬉しさがありますね。日本の馬で日本のチームで勝てたんですから。これは僕ひとりの勝利ではなく長年やってやっと勝てたんですから。日本のホースマンにとって今日の勝利はすごく大きいと思います」と語った<ref name="100meiba8" />。また、森は勝因について「ジョッキーかな。予想外の展開だったけど、このコースをよく知ってる彼のあの乗り方が結果的に見ればベストだった。もちろん涼しいニューマーケットでの調教がうまくいったこと、馬場が軽くてシーキングザパールに向いていたことなども勝因にあげられる。負担重量や距離を考えてこのレースを狙った甲斐があったと思う」と述べた<ref name="yushun199810" />。
=== 3歳(1996年) ===
[[小倉競馬場]]の新馬戦で7馬身差の圧勝。続く[[新潟2歳ステークス|新潟3歳ステークス]]ではスタート直後に大きく外へヨレて体勢を崩し、[[落馬]]寸前にまで追い込まれるが、それでも3着に食い込んだ。続く[[デイリー杯2歳ステークス|デイリー杯3歳ステークス]]は[[メジロブライト]]を突き放して快勝するも、阪神3歳牝馬ステークス(現・[[阪神ジュベナイルフィリーズ]])では全く伸びず、メジロドーベルの雪辱を許した。当時は[[武豊]][[騎手]]も「気難しい」と言うほどのムラ馬であった。


翌週のジャック・ル・マロワ賞では圧倒的1番人気に推されたタイキシャトルも優勝、2週連続での日本調教馬による快挙はフランスを驚かせ、当地のマスコミでは「日本馬がノルマンディーに歴史的な上陸を果たした」といわれた<ref>『優駿3月号増刊 TURF HERO '98』p.123</ref>。これらの勝利に対し、[[日本中央競馬会]](JRA)からはシーキングザパール陣営に対し約9200万円、タイキシャトル陣営に対し約1億6800万円の褒賞金が出された<ref group="注">タイキシャトルの方が高額であるのは、JRAが指定していた褒賞金対象の競走で、ジャック・ル・マロワ賞の方が格上に設定されていたためである。同競走はAランク、モーリス・ド・ギース賞はBランクであった。(『優駿』1998年9月号、p.9)</ref>。
=== 4歳(1997年) ===
[[シンザン記念]]を勝利した後に当時の[[佐々木晶三]]調教師とオーナーのトラブルから[[森秀行]]厩舎に転厩するも、その後も[[フラワーカップ]]、[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]、[[NHKマイルカップ]]と[[重賞]]4連勝を果たした。この頃の勢いには凄まじいものがあり、{{要出典範囲|行く行くは[[牝馬]]の重賞勝利数記録を更新するとの声も挙がっていた|date=2012年11月}}。
秋は[[ローズステークス]]から始動するも距離が長かったのか[[キョウエイマーチ]]を捉えられず3着となった。その後[[秋華賞]]での決戦が期待されたが、[[喉頭蓋エントラップメント]]により喉を手術し長期休養に入った。{{要出典範囲|この頃からだんだんイレ込みがきつくなる|date=2012年11月}}。


その後帰国したタイキシャトルに対し、シーキングザパールはニューマーケットに戻って調教を続け、9月6日には再度フランスへ渡り2戦目の[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]に臨んだ。しかし[[アイリッシュ2000ギニー]]を制した[[デザートプリンス]]や[[プール・デッセ・デ・プーリッシュ]](フランス1000ギニー)の優勝馬[[ザライーカ]]など出走馬は前走よりも強化され、他陣営の[[ペースメーカー]]に絡まれながら逃げる展開や、降雨による不良馬場などもあって7頭立ての5着に終わった。武は「展開だけでなく、馬場、相手すべてが前走よりきつかった」と語った<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.26</ref>。
=== 5歳(1998年) ===
初戦の[[シルクロードステークス]]を勝利するも、[[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]、[[安田記念]]は苦手の道悪に泣き敗戦。しかしその後に遠征した[[フランス]]では、[[モーリス・ド・ゲスト賞|モーリス・ド・ギース賞]]<ref>競走名 (Prix Maurice de Gheest) は、当時はモーリス・ド・ギース賞と呼ばれることが多かったが、その後表記を見直し現在ではモーリス・ド・ゲスト賞と呼ばれることが多い。</ref>をレコードタイムで快勝。日本調教馬初の[[ヨーロッパ|欧州]]G1制覇の栄冠を手に入れた。フランスのパリ・チュルフ紙は“シーキングザパール爆弾、炸裂”と報じ、日本語訳では「日本の爆弾娘」と評された。その翌週には日本のライバルであった[[タイキシャトル]]も[[ジャック・ル・マロワ賞]]を優勝、2週連続での日本調教馬による快挙はフランスを驚かせた(これも含め、当地のマスコミでは「日本馬がノルマンディーに歴史的な上陸を果たした」と言われた<ref group="†">『優駿3月号増刊 TURF HERO '98』、123頁。</ref>)。その後[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]は渋った馬場と他陣営の「ラビット(ペースメーカー)」の執拗なマークに泣き5着、[[スプリンターズステークス]]ではこの競走限りで引退が決まっていたタイキシャトルを後方から差し切り意地を見せたが、伏兵[[マイネルラヴ]]の2着に敗れた。


9月10日に帰国し、10月に栗東トレーニングセンターに帰厩<ref name="100meiba" />。11月22日には[[マイルチャンピオンシップ]]に出走した。騎乗停止中であった武に代わり[[河内洋]]が騎乗し、当日はタイキシャトルに次ぐ2番人気であったが、先行策から直線で伸びず<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.27</ref>、5馬身差で圧勝したタイキシャトルの後方で8着に終わった。年末には騎手を武に戻し[[スプリンターズステークス]]に出走。前走に続きタイキシャトルに次ぐ2番人気であったが、オッズはこれが引退レースのタイキシャトルが1.3倍、シーキングザパール10.5倍と大きく離されていた。道中は最後方待機から最後の直線で追い込み、ゴール寸前でタイキシャトルを交わしたものの、先に抜け出していた7番人気の[[マイネルラヴ]]にアタマ差及ばず2着に敗れた。武は競走後「力は出しきれましたが、(タイキシャトルのほかに)まさかもう1頭いるとは思わなかった」と語った<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.28</ref>。また武は2000年に行われたインタビューで、自身のキャリアにおける「一番悔しかったレース」としてこの競走を挙げている<ref>島田(2007)p.274</ref>。
なお、日本調教馬初の欧州G1制覇の偉業を成し遂げた本馬ではあったが、この年の[[JRA賞]]の選からは漏れている。


=== 6歳(1999年) ===
==== 6歳(1999年) ====
年明けの1月9日、森が突如としてシーキングザパールのアメリカ遠征を発表<ref name="100meiba10">『週刊100名馬 シーキングザパール』p.29</ref>。19日に渡米、23日にはG1競走の[[サンタモニカハンデキャップ]]に出走した。当日は8頭立て6番人気の評価で、レースでは緩いペースのなか3~4番手を進んだが、要所で馬群のペースが上がると一旦後方に置かれ、直線で再度伸びるも4着と敗れた<ref name="100meiba10" />。アメリカはこの1戦のみで帰国し、5月23日には高松宮記念に出走した。前年に続き1番人気に支持されると、レースではハイペースのなか好位に付けて最後の直線で抜け出したが、後方から追い込んだ[[マサラッキ]]に交わされ、1馬身1/4差の2着となった<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.30</ref>。6月13日には前年大敗した安田記念に出走。3番人気に推され、レースでは最終コーナー10番手から直線で追い込んだが、[[エアジハード]]、[[グラスワンダー]]から2馬身差の3着と敗れる。
初戦でアメリカのダートG1[[サンタモニカハンデキャップ]]に挑戦し4着に食い込むと、帰国後の高松宮記念、安田記念でも2着、3着に入った。
その後アメリカの馬主にトレードされることとなった。日本調教で国際G1を優勝した現役競走馬としては初の国外移籍であり、他には2006年に[[アラブ首長国連邦]]の国際G2と日本国内GIを優勝した[[ユートピア (競走馬)|ユートピア]]が[[イギリス]]にトレードされた程度である<ref>日本の現役競走馬が移籍されない理由は日本競馬の賞金水準が世界でも群を抜いて高いためであり、逆に日本では現在も外国籍の現役競走馬を移籍させてくることは不可能である。</ref>。
その年の秋にアメリカでG3を2戦走ったが振るわず、そのままアメリカの[[クレイボーンファーム]]で[[繁殖牝馬]]生活に入った。


この後は休養し、秋季に備える予定となっていたが、7月に[[中央競馬]]の登録を抹消され、アメリカ・[[ニュージャージー州]]のジェイエフビーステーブルへトレードされたことが発表された<ref name="100meiba" />。同28日に離日し、ニュージャージーのアラン・ゴールドバーグ厩舎に入厩<ref name="100meiba" />。10月2日にG3競走のノーブルダムセルハンデキャップに出走し、単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持されたが、騎手との折り合いを欠いて直線で失速し4着<ref name="100meiba" />。続くローレルダッシュステークスも7着と敗れ、これを最後として引退が発表された<ref name="100meiba" />。なお、シーキングザパールは中央競馬時代に牡馬との混合重賞で6勝(モーリス・ド・ギース賞含む)を挙げたが、これは当時[[トウメイ]]と並ぶ史上最多記録であった<ref>『週刊100名馬 シーキングザパール』p.37</ref>。
=== 繁殖生活 ===
初仔の[[シーキングザダイヤ]](父[[ストームキャット]])も日本に輸入され[[ニュージーランドトロフィー]]では母子優勝を達成しているが、日本のGIでは2着9回を重ねながら未勝利である。続く2頭はアメリカで競走生活を送っている。


=== 繁殖牝馬時代 ===
そして[[2005年]][[6月]]、死因も正確には伝わってこないまま、死亡という話が日本にも伝えられたが、実際の死因は[[落雷]]による[[感電]][[死]]であった。
引退後はケンタッキー州の[[クレイボーンファーム]]で繋養された。初年度は[[ストームキャット]]と交配され、翌年同馬との間に生まれた牡駒はシーキングザダイヤと命名され日本で競走馬となり、芝・ダート双方で活躍。重賞5勝を挙げたほか、GI競走で9回の2着を記録した。勝利競走にはニュージーランドトロフィーの母子制覇があり、また2004年にはモーリス・ド・ギース賞にも出走したが、こちらは15着と敗れている。第2仔ダイブ(父ストームキャット)、第3仔シークンファインド(父[[ジャイアンツコーズウェイ]])はいずれもアメリカで競走生活を送り、のちに繁殖牝馬となっている。


2005年6月10日、シーキングザパールは当時繋養されていた[[レーンズエンドファーム]]の放牧地で死んでいるところを発見された。ジェイエフビーステーブルのマネージャーであるレイモンズ・ベルによれば、馬体に目立った傷や暴れたような跡はなく、正確な死因は不明であるが、落雷に遭ったものであろうと推測された<ref>{{Cite web |url=http://www.drf.com/news/seeking-pearl-found-dead |title=Seeking the Pearl found dead |author=Glenye Cain |publisher=[[デイリー・レーシング・フォーム|Daily Racing Form]] |accessdate=2013年8月3日 |date=2005-6-13}}</ref>。11歳であった。
日本・欧州でGIを制しているが、[[日本中央競馬会|JRA]]が[[2000年]]に実施したファン投票企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」で100位以内に選ばれなかった(107位)。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
{| style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
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! 年月日 !! 競馬場 !! 競走名 !! 格 !! 頭数 !!colspan="2"|オッズ<br />(人気)!! 着順 !! 騎手 !! 斤量 <br/>[kg]!! 距離(馬場) !! タイム !! 着差 !! 勝ち馬/(2着馬)
! 年月日 !! 競馬場 !! 競走名 !! 格 !! 頭数 !!colspan="2"|オッズ<br />(人気)!! 着順 !! 騎手 !! 斤量 <br />[kg]!! 距離(馬場) !! タイム !! 着差 <br />[秒] !! 勝ち馬/(2着馬)
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|([[メジロブライト]])
|([[メジロブライト]])
248行目: 264行目:
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|Grapeshot
|Grapeshot
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|}
※タイム欄赤字はレコードタイムを表す。


== 主な産駒の勝鞍 ==
== 産駒成績 ==
{| class="wikitable"
* [[シーキングザダイヤ]] - [[ニュージーランドトロフィー]] (GII) 、[[日本テレビ盃]](統一GII)など
|-
!&nbsp;!!生年!!馬名!!性別!!毛色!!父馬!!戦績!!主な勝利競走!!繁殖
|-
|初仔||[[2001年]]||[[シーキングザダイヤ]]||牡||鹿毛||rowspan="2"|[[ストームキャット]]||30戦7勝||[[ニュージーランドトロフィー]](GII)<br />[[日本テレビ盃]](GII)<br />[[浦和記念]](JpnII)<br />[[兵庫ゴールドトロフィー]](GIII)<br />[[アーリントンカップ]](GIII)||種牡馬
|-
|2番仔||[[2002年]]||Dive||牝||黒鹿毛||11戦1勝||||繁殖牝馬
|-
|3番仔||[[2003年]]||Seeknfind||牝||鹿毛||[[ジャイアンツコーズウェイ]]||3戦1勝||||繁殖牝馬
|-
|}

== 評価 ==
武豊は、シーキングザパールとタイキシャトルがフランスで好結果を残したことが日本の関係者の自信となり、以後の旺盛な国外遠征に繋がっていると両馬の功績を称え、個人的には「僕がずっと『日本の馬は絶対レベルが高いから、日本でふつうに重賞を勝つ馬は海外でGIを勝てるかも知れない」と言っていたことを、シーキングザパールは実際に証明してくれたところが嬉しかった」と述べている<ref name="take">武(2003)pp.117-118</ref>。また、騎手という立場からは「気性のむずかしい馬でしたが、乗り味は最高でした。もう少し聞き分けがよかったらなあ、とは思いますけれど、なしとげたことは歴史に残るのだからすごい名牝です」と評している<ref name="take" />。森秀行厩舎では従前から頻繁に国外遠征を行うことで知られていたが、森はシーキングザパールについて「これまで[[スキーキャプテン]]や[[フジヤマケンザン]]でやってきたことが、ひとつの結果として残せたということでも僕にとってはすごい意義があった。もちろん、[[アグネスワールド]]や[[エアシャカール]]などの遠征も、シーキングの経験があってこそなんです」と述べている<ref name="seek">『週刊100名馬 シーキングザパール』p.35</ref>。

日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では107位となった。この結果について、競馬漫画家の[[よしだみほ]]は「なんでパールが100位以内に入ってないんだろう。強い馬だったと思うし、日本と海外でGI制覇、実績は十分すぎるくらいあるのに……。あまり好かれないタイプなのかな?理由が知りたいです」と疑問を呈している<ref>よしだ(2000)p.100</ref>。同時期に競馬会の広報誌『[[優駿]]』が選定した「20世紀のベストホース100」には名を連ねており<ref>『優駿』2000年11月号、p.28</ref>、また2010年に同誌800号記念として行われた読者投票企画「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち THE GREATEST HORSES 100」では97位に選出されている<ref>『優駿』2010年8月号、p.11</ref>。また、アメリカへ売却される直前に『[[週刊Gallop]]』が読者に募集した「現役馬No.1美女」というランキングでは101票を集め1位に選ばれた<ref>『週刊Gallop』1999年6月27日号、pp.104-105</ref>。


== 血統表 ==
== 血統表 ==
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父については同馬の項を参照のこと。母はアメリカで6戦1勝。大伯父にフランスでG1競走2勝を挙げ種牡馬としても米・仏の[[リーディングサイアー]]となった[[リファール]]や、アメリカで重賞2勝のバルカス、大伯母に米・仏でG1競走2勝のノビリアリーがいる。
* 本馬の活躍と前後して、近親の多くが繁殖牝馬、または競走馬として輸入されたが、それらの子孫からは(本馬と産駒のシーキングザダイヤを除いては)[[日本中央競馬会|中央]]・[[公営競馬|地方]]のいずれの重賞勝ち馬も出ていない。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
=== 出典 ===
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== 参考文献 ==
*よしだみほ『よしだみほの20世紀の100名馬』(ワニブックス、2000年)ISBN 978-4847013744
*武豊『ターフの女王 - 最強牝馬コレクション』(朝日新聞社、2003年)ISBN 978-4022578723
*[[島田明宏]]『武豊インタビュー集スペシャル 名馬編』(廣済堂出版、2007年)ISBN 978-4331654118
*『優駿』1997年3月号、5月号、6月号、10月号(日本中央競馬会)
*『優駿』1998年6月号、9月号、10月号(日本中央競馬会)
*『優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)
*『優駿』2005年10月号(日本中央競馬会)
*『優駿』2010年8月号(日本中央競馬会)
*『Sports Graphic Number PLUS - 競馬黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)
*『週刊100名馬Vol.76 シーキングザパール』(産経新聞社、2000年)


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2013年8月3日 (土) 14:07時点における版

シーキングザパール
ファイル:Seeking-the-pearl.jpg
欧字表記 Seeking the Pearl
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1994年4月16日
死没 2005年6月10日(11歳没)
登録日 1996年6月6日
抹消日 1999年7月2日(中央)
Seeking the Gold
Page Proof
母の父 Seattle Slew
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生産者 レイジー・レーン・ステーブル
馬主 植中倫子
→植中昌子
→ジェイエフ "ビー" ステーブル
調教師 佐々木晶三栗東
森秀行(栗東)
→アラン E. ゴールドバーグ(アメリカ)
競走成績
生涯成績 21戦8勝
獲得賞金 402万1716ドル
テンプレートを表示

シーキングザパールSeeking the Pearl1994年4月16日 - 2005年6月10日)は、アメリカ合衆国で生産され、日本とアメリカで調教された競走馬、およびアメリカで供用された繁殖牝馬

1996年から1999年まで日本で競走生活を送り、1997年のNHKマイルカップに優勝、1998年夏にはフランス遠征を行いモーリス・ド・ギース賞[注 1]に優勝し、日本調教馬として初めてヨーロッパのG1競走を制した。日本在籍時代の主戦騎手武豊。1999年7月にアメリカへ移籍した後に引退。繁殖牝馬としての主な産駒に、重賞5勝を挙げたほかGI競走で9度の2着を記録したシーキングザダイヤがいる。

※年齢は全て日本で2000年以前に使用された当時の旧表記(数え年)で記述する。

生涯

デビューまで

1994年、アメリカ・ヴァージニア州のレイジーレーンステーブルの生産[1]。翌1995年7月にキーンランドで開催されたセリ市に上場されて主取[注 2]となったが[2]、その後、本馬の所有者となる植中倫子の娘・昌子に[3]18万5000ドルで購買された[1]。昌子は名簿段階から本馬に目を留めていたが、セール後に主取となったことを知り、改めて厩舎に実馬の検分に赴くと、ちょうど馬房の窓から顔を出しており、「普通の若馬は落ち着きがないのに、何か考えごとをしている。いかにも頭が良さそうに見え」「まさに運命的な出会いを感じて」購買を決めたという[2]。同11月に日本へ送られ、北海道早来町ノーザンファームで育成調教を積まれた[1]。翌1996年5月に滋賀県栗東トレーニングセンター佐々木晶三厩舎に入厩[1]。「真珠探し」を意味する馬名は父シーキングザゴールドからの連想であるが[1]、昌子の誕生石が真珠であることから、倫子は「馬があなたを探してくれた」との意味を込めたという[3]

戦績

3歳時(1996年)

1996年7月20日、小倉開催の新馬戦でデビュー。従前から調教での走りが栗東で評判となっており[4]、単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持されると、スタート直後先頭から、2着に7馬身差を付けて初勝利を挙げた。続く中山開催新潟3歳ステークスではシンコウスプレンダに次ぐ2番人気の支持を受けたが、スタート直後に外側へ大きく逃避したことが影響して後方からのレース運びとなり、直線で追い込むも3着と敗れた[4]。騎乗していた武豊は逸走の原因が分からなかったといい、「ちょっと普通のいいコではないなと」感じたという[5]。しかし次走のデイリー杯3歳ステークスでは気難しさを見せることなく、メジロブライトに5馬身差、3歳馬による芝1400メートルの日本レコードタイムで重賞初勝利を挙げた[4]。また、武はこの勝利で兄弟子の河内洋が保持した年間重賞最多勝記録を14に更新し、さらに史上初の4週連続重賞勝利を合わせて達成した[6]

12月1日に臨んだ3歳女王戦・阪神3歳牝馬ステークスでは、前走に続き単勝オッズ1.5倍を付けて1番人気となった。しかしレースでは先行策から直線で失速し、メジロドーベルの4着に終わった。武は後に「4コーナーまではごく普通に走っていたのに突然手応えが悪くなって、これまた原因不明です」と回想している[7]。調教師の佐々木も「説明がつかない」と語ったが[8]、植中倫子は「きっと初めての荒れた馬場に嫌気がさしたためでしょう」と分析している[9]。当年は4戦2勝でシーズンを終えたが、敗れた2戦の不可解な内容から以後「気性難」というレッテルを貼られることになった[7]。なお、武によれば「厩にいるときのシーキングザパールは絶対に人を噛まない、暴れない、何をされても嫌がらないという、いい馬」であり、「乗ったら変身」していたのだという[10]

4歳時(1997年)

翌1997年、初戦のシンザン記念を3馬身差で勝利。しかし2月5日[1]に佐々木からシーキングザパールが森秀行厩舎へ転厩することが発表され、シーキングザパールは同日中に森厩舎へ移された[6]。植中と佐々木との間で以後のローテーションを巡る対立が起こったことが原因とされている[6]

当時、外国産馬にはクラシック競走への出走が認められていなかったため、外国産馬にも門戸を開いた前年新設のGI競走・NHKマイルカップ(5月11日)を春の目標に据えた。以後フラワーカップニュージーランドトロフィー4歳ステークスと重賞を連勝。本命馬としてマイルカップに臨んだ。もう1頭の有力候補であった外国産馬スピードワールドが捻挫のため出走を回避し、当日は前年の3歳王者・マイネルマックス等を抑え1番人気の支持を受けた。レースは前半600mを35秒0というスローペースの中、6-7番手を進むと、最後の直線半ばで先頭に立ち、2着ブレーブテンダーに1馬身3/4差を付けて優勝、GI制覇を果たした。競走後、森から秋の目標を牝馬三冠最終戦の秋華賞とし、最終的に香港で行われる香港国際カップを視野に入れていくことが発表された[11]。なお、武は陣営に対して9月にアメリカで行われるビヴァリーD・ステークスへの遠征を提案していたが、これは日程的な問題から見送られた[12]

夏の休養後、8月末に帰厩[1]。秋華賞へ向け、シーキングザパールは桜花賞優勝馬キョウエイマーチ優駿牝馬(オークス)優勝馬メジロドーベルと共に、4歳牝馬の「三強」に数えられた[13]。秋緒戦はローズステークス(秋華賞トライアル)から始動。キョウエイマーチとの初対戦となり、当日はシーキングザパールが1.4倍で1番人気、キョウエイマーチが3.9倍の2番人気となった。しかしレースではキョウエイマーチが逃げ切りを見せた後方で、シーキングザパールは直線で伸びきれず、3着に終わった[14]。その後も秋華賞に向けて調整されていたが、コンディション検査の際、気管の入口が皺によって塞がれる喉頭蓋エントラップメントの症状が発見されたため、秋華賞を断念。喉の手術が行われたのち休養に入った[14]。植中昌子によれば、当初は原因不明とされていたもののローズステークスの時点ですでに症状が出ており、同競走の残り400メートルは呼吸ができない状態で走っていたという[15]

5歳時(1998年)

約7カ月の休養後、3歳時以来の1200メートル戦・シルクロードステークスで復帰。手術からの長期休養明け、プール調教主体の調整過程といった様々な不安要素もあり、当日4番人気の評価だったが[16]、2番人気のマサラッキをクビ差かわして勝利を挙げた。この勝利により夏のヨーロッパ遠征が決定する[17]。次走は春の短距離王者決定戦・高松宮記念に出走、1番人気に支持された。しかし当日は降雨によって馬場状態が不得手の重馬場(稍重)となり、先行するも伸びきれず4着に終わった[18]。続いてNHKマイルカップと同じ東京競馬場の1600メートル戦・安田記念に進んだが、前走以上の降雨で、馬場状態は騎手たちが「ここ数年記憶にない」と語ったほど悪化、レースでは武との折り合いも欠き、タイキシャトルの10着と大敗を喫した[19]。勝ったタイキシャトルも夏のヨーロッパ遠征を予定し、この競走は壮行戦として出走したもので、渡欧を控えた2頭の明暗が分かれる結果となった[17]

競走後、改めてシーキングザパールのフランス遠征が発表され、ドーヴィル競馬場で行われる距離1300メートルのG1競走モーリス・ド・ギース賞への出走が明言された。格付けはG1ながら同競走は当時日本での知名度が低く、武は著書で「森先生はよくこんなレースを見つけ出したものだと感心します。日本人はよく名の知られたビッグレースを狙うのがふつうでしたから」とその決定を称えている[20]。森は前年にこの競走の存在を知り、ドージマムテキを出走させようとして頓挫して経緯があり、その経験を踏まえたものであった[21]。また森は当初1600メートル戦のジャック・ル・マロワ賞への出走を企図していたが、イギリスのサセックスステークスへの出走を予定していたタイキシャトルが、コース適性を理由としてジャック・ル・マロワ賞に目標を切り替えたため「1600メートルではタイキシャトルに勝てない」と判断しての決定でもあった[22]。「それなら格は下でも1週早いモーリス・ド・ギース賞を狙って、日本で最初に海外のGIを勝つ調教師になってやろうと思った」ともいう[23]

7月21日に調教を行う予定のイギリスへ出発。翌22日に受け入れ先であるニューマーケットのジェフ・ラグ(Geoff Wragg)厩舎に到着し、以後調教が積まれていった。森がニューマーケットでの調教を選んだ理由は、日本で専ら使用しているウッドチップの坂路コースに近いサイドヒルというウッドチップコースが備えられていたことにあった[23]。森は「輸送を考えるとフランスのシャンティーでやった方がいい。けど、あそこのダートコースで仕上げる自信はなかった。タイキシャトルやエルコンドルパサー[注 3]ぐらい能力が高い馬なら、どこで調教したって勝てるやろ。パールはそうはいかん。日本でも余裕で勝てる馬やない。(中略)これ以上ないってくらい仕上げんと勝負にならんと思った」と述べている[23]。8月5日には日本から武が駆けつけて最終調教を行い、3ハロン(約600メートル)を推定35秒5という好タイムを計時し好調を窺わせた[23]

翌6日にフランスへ渡ってドーヴィル競馬場に入り[23]、8月9日にモーリス・ド・ギース賞を迎えた。フランスは雨が多い時期に当たり森は馬場状態を懸念していたが、当年は雨が降らず、数十年ぶりといわれる硬い馬場での競走となった[24]。シーキングザパールはオッズ10.4倍の5番人気であった。スタートが切られると、スローペースで押し出されるような形で先頭に立ち、そのままレースを先導。残り300m地点からスパートを掛けると追走するジムアンドトニックらの追走を振り切り、コースレコードを17年ぶりに更新する1分14秒7で逃げ切り勝ちを収めた[25]。日本競馬界の悲願とされていた初の欧州G1競走制覇であり、地元紙『パリチュルフ』は「ロケット弾、その名はシーキングザパール」との見出しで、この勝利を1面で伝えた[26]。またイギリスの『レーシング・ポスト』も「日本の牝馬、歴史を作る」の見出しと共に1面で大きく取り上げ、関係者の紹介や、1958年から1959年にアメリカへ遠征したハクチカラ以降の日本馬の海外遠征史も合わせて取り上げた[27]。手綱を取った武はフランス調教馬スキーパラダイスで勝ったムーラン・ド・ロンシャン賞に次ぐ欧州G1競走2勝目であったが、「スキーパラダイスの時とは違う嬉しさがありますね。日本の馬で日本のチームで勝てたんですから。これは僕ひとりの勝利ではなく長年やってやっと勝てたんですから。日本のホースマンにとって今日の勝利はすごく大きいと思います」と語った[25]。また、森は勝因について「ジョッキーかな。予想外の展開だったけど、このコースをよく知ってる彼のあの乗り方が結果的に見ればベストだった。もちろん涼しいニューマーケットでの調教がうまくいったこと、馬場が軽くてシーキングザパールに向いていたことなども勝因にあげられる。負担重量や距離を考えてこのレースを狙った甲斐があったと思う」と述べた[26]

翌週のジャック・ル・マロワ賞では圧倒的1番人気に推されたタイキシャトルも優勝、2週連続での日本調教馬による快挙はフランスを驚かせ、当地のマスコミでは「日本馬がノルマンディーに歴史的な上陸を果たした」といわれた[28]。これらの勝利に対し、日本中央競馬会(JRA)からはシーキングザパール陣営に対し約9200万円、タイキシャトル陣営に対し約1億6800万円の褒賞金が出された[注 4]

その後帰国したタイキシャトルに対し、シーキングザパールはニューマーケットに戻って調教を続け、9月6日には再度フランスへ渡り2戦目のムーラン・ド・ロンシャン賞に臨んだ。しかしアイリッシュ2000ギニーを制したデザートプリンスプール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)の優勝馬ザライーカなど出走馬は前走よりも強化され、他陣営のペースメーカーに絡まれながら逃げる展開や、降雨による不良馬場などもあって7頭立ての5着に終わった。武は「展開だけでなく、馬場、相手すべてが前走よりきつかった」と語った[29]

9月10日に帰国し、10月に栗東トレーニングセンターに帰厩[1]。11月22日にはマイルチャンピオンシップに出走した。騎乗停止中であった武に代わり河内洋が騎乗し、当日はタイキシャトルに次ぐ2番人気であったが、先行策から直線で伸びず[30]、5馬身差で圧勝したタイキシャトルの後方で8着に終わった。年末には騎手を武に戻しスプリンターズステークスに出走。前走に続きタイキシャトルに次ぐ2番人気であったが、オッズはこれが引退レースのタイキシャトルが1.3倍、シーキングザパール10.5倍と大きく離されていた。道中は最後方待機から最後の直線で追い込み、ゴール寸前でタイキシャトルを交わしたものの、先に抜け出していた7番人気のマイネルラヴにアタマ差及ばず2着に敗れた。武は競走後「力は出しきれましたが、(タイキシャトルのほかに)まさかもう1頭いるとは思わなかった」と語った[31]。また武は2000年に行われたインタビューで、自身のキャリアにおける「一番悔しかったレース」としてこの競走を挙げている[32]

6歳時(1999年)

年明けの1月9日、森が突如としてシーキングザパールのアメリカ遠征を発表[33]。19日に渡米、23日にはG1競走のサンタモニカハンデキャップに出走した。当日は8頭立て6番人気の評価で、レースでは緩いペースのなか3~4番手を進んだが、要所で馬群のペースが上がると一旦後方に置かれ、直線で再度伸びるも4着と敗れた[33]。アメリカはこの1戦のみで帰国し、5月23日には高松宮記念に出走した。前年に続き1番人気に支持されると、レースではハイペースのなか好位に付けて最後の直線で抜け出したが、後方から追い込んだマサラッキに交わされ、1馬身1/4差の2着となった[34]。6月13日には前年大敗した安田記念に出走。3番人気に推され、レースでは最終コーナー10番手から直線で追い込んだが、エアジハードグラスワンダーから2馬身差の3着と敗れる。

この後は休養し、秋季に備える予定となっていたが、7月に中央競馬の登録を抹消され、アメリカ・ニュージャージー州のジェイエフビーステーブルへトレードされたことが発表された[1]。同28日に離日し、ニュージャージーのアラン・ゴールドバーグ厩舎に入厩[1]。10月2日にG3競走のノーブルダムセルハンデキャップに出走し、単勝オッズ1.6倍の1番人気に支持されたが、騎手との折り合いを欠いて直線で失速し4着[1]。続くローレルダッシュステークスも7着と敗れ、これを最後として引退が発表された[1]。なお、シーキングザパールは中央競馬時代に牡馬との混合重賞で6勝(モーリス・ド・ギース賞含む)を挙げたが、これは当時トウメイと並ぶ史上最多記録であった[35]

繁殖牝馬時代

引退後はケンタッキー州のクレイボーンファームで繋養された。初年度はストームキャットと交配され、翌年同馬との間に生まれた牡駒はシーキングザダイヤと命名され日本で競走馬となり、芝・ダート双方で活躍。重賞5勝を挙げたほか、GI競走で9回の2着を記録した。勝利競走にはニュージーランドトロフィーの母子制覇があり、また2004年にはモーリス・ド・ギース賞にも出走したが、こちらは15着と敗れている。第2仔ダイブ(父ストームキャット)、第3仔シークンファインド(父ジャイアンツコーズウェイ)はいずれもアメリカで競走生活を送り、のちに繁殖牝馬となっている。

2005年6月10日、シーキングザパールは当時繋養されていたレーンズエンドファームの放牧地で死んでいるところを発見された。ジェイエフビーステーブルのマネージャーであるレイモンズ・ベルによれば、馬体に目立った傷や暴れたような跡はなく、正確な死因は不明であるが、落雷に遭ったものであろうと推測された[36]。11歳であった。

競走成績

年月日 競馬場 競走名 頭数 オッズ
(人気)
着順 騎手 斤量
[kg]
距離(馬場) タイム 着差
[秒]
勝ち馬/(2着馬)
1996.07.20 小倉 3歳新馬 8 01.2 (1人) 01着 武豊 53 芝1200m(良) 1:09.7 -1.1 (テンザンオスズ)
0000.09.01 中山 新潟3歳S GIII 12 02.3 (2人) 03着 武豊 53 芝1200m(良) 1:10.8 -0.5 パーソナリティワン
0000.10.19 京都 デイリー杯3歳S GII 16 01.5 (1人) 01着 武豊 53 芝1400m(良) R1:21.3 -0.8 メジロブライト
0000.12.01 阪神 阪神3歳牝馬S GI 10 01.5 (1人) 04着 武豊 53 芝1600m(良) 1:35.3 -0.7 メジロドーベル
1997.01.15 京都 シンザン記念 GIII 12 02.0 (1人) 01着 武豊 54 芝1600m(良) 1:34.6 -0.5 (ホッコービューティ)
0000.03.15 中山 フラワーC GIII 15 01.7 (1人) 01着 武豊 53 芝1800m(稍) 1:51.6 -0.3 (ホッコービューティ)
0000.04.20 東京 NZT4歳S GII 18 01.8 (1人) 01着 武豊 54 芝1400m(良) 1:21.1 -0.2 (ブレーブテンダー)
0000.05.11 東京 NHKマイルC GI 18 02.0 (1人) 01着 武豊 55 芝1600m(良) 1:33.1 -0.3 (ブレーブテンダー)
0000.09.21 阪神 ローズS GII 11 01.4 (1人) 03着 武豊 54 芝2000m(良) 2:01.9 -0.3 キョウエイマーチ
1998.04.26 京都 シルクロードS GIII 12 06.5 (4人) 01着 武豊 56 芝1200m(良) 1:08.6 -0.0 マサラッキ
0000.05.24 中京 高松宮記念 GI 16 02.6 (1人) 04着 武豊 55 芝1200m(稍) 1:09.3 -0.2 シンコウフォレスト
0000.06.14 東京 安田記念 GI 17 14.8 (4人) 10着 武豊 56 芝1600m(不) 1:39.2 -1.7 タイキシャトル
0000.08.09 ドーヴィル モーリス・ド・ゲスト賞 G1 12 (6人) 01着 武豊 56.5 芝1300m(良) R1:14.7 -0.2 (Jim and Tonic)
0000.09.06 ロンシャン ムーラン・ド・ロンシャン賞 G1 7 (4人) 05着 武豊 56.5 芝1600m(不) 1:42.9 -2.0 Desert Prince
0000.11.22 京都 マイルCS GI 13 06.7 (2人) 08着 河内洋 55 芝1600m(良) 1:34.3 -1.0 タイキシャトル
0000.12.20 中山 スプリンターズS GI 15 10.5 (2人) 02着 武豊 55 芝1200m(良) 1:08.6 -0.0 マイネルラヴ
1999.01.23 サンタアニタ サンタモニカH G1 10 (5人) 04着 武豊 54 ダ1400m(良) 1:22.7 -0.7 Stop Traffic
0000.05.23 中京 高松宮記念 GI 16 04.5 (1人) 02着 武豊 55 芝1200m(良) 1:08.2 -0.2 マサラッキ
0000.06.13 東京 安田記念 GI 14 11.4 (3人) 03着 武豊 56 芝1600m(良) 1:33.7 -0.4 エアジハード
0000.10.02 ベルモント ノーブルダムゼルH G3 8 (1人) 04着 J.ヴェラスケス 56 芝1600m(良) Khumba Mela
0000.10.17 ローレル ローレルダッシュS G3 10 (1人) 07着 C.ロペス 51.5 芝1200m(良) Grapeshot

※タイム欄赤字はレコードタイムを表す。

産駒成績

  生年 馬名 性別 毛色 父馬 戦績 主な勝利競走 繁殖
初仔 2001年 シーキングザダイヤ 鹿毛 ストームキャット 30戦7勝 ニュージーランドトロフィー(GII)
日本テレビ盃(GII)
浦和記念(JpnII)
兵庫ゴールドトロフィー(GIII)
アーリントンカップ(GIII)
種牡馬
2番仔 2002年 Dive 黒鹿毛 11戦1勝 繁殖牝馬
3番仔 2003年 Seeknfind 鹿毛 ジャイアンツコーズウェイ 3戦1勝 繁殖牝馬

評価

武豊は、シーキングザパールとタイキシャトルがフランスで好結果を残したことが日本の関係者の自信となり、以後の旺盛な国外遠征に繋がっていると両馬の功績を称え、個人的には「僕がずっと『日本の馬は絶対レベルが高いから、日本でふつうに重賞を勝つ馬は海外でGIを勝てるかも知れない」と言っていたことを、シーキングザパールは実際に証明してくれたところが嬉しかった」と述べている[37]。また、騎手という立場からは「気性のむずかしい馬でしたが、乗り味は最高でした。もう少し聞き分けがよかったらなあ、とは思いますけれど、なしとげたことは歴史に残るのだからすごい名牝です」と評している[37]。森秀行厩舎では従前から頻繁に国外遠征を行うことで知られていたが、森はシーキングザパールについて「これまでスキーキャプテンフジヤマケンザンでやってきたことが、ひとつの結果として残せたということでも僕にとってはすごい意義があった。もちろん、アグネスワールドエアシャカールなどの遠征も、シーキングの経験があってこそなんです」と述べている[38]

日本中央競馬会が2000年に行ったファン投票による名馬選定企画「20世紀の名馬大投票」では107位となった。この結果について、競馬漫画家のよしだみほは「なんでパールが100位以内に入ってないんだろう。強い馬だったと思うし、日本と海外でGI制覇、実績は十分すぎるくらいあるのに……。あまり好かれないタイプなのかな?理由が知りたいです」と疑問を呈している[39]。同時期に競馬会の広報誌『優駿』が選定した「20世紀のベストホース100」には名を連ねており[40]、また2010年に同誌800号記念として行われた読者投票企画「未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち THE GREATEST HORSES 100」では97位に選出されている[41]。また、アメリカへ売却される直前に『週刊Gallop』が読者に募集した「現役馬No.1美女」というランキングでは101票を集め1位に選ばれた[42]

血統表

シーキングザパール血統ミスタープロスペクター系アウトブリード (血統表の出典)

Seeking the Gold
1985 鹿毛
父の父
Mr.Prospector
1970 鹿毛
Raise a Native Native Dancer
Raise You
Gold Digger Nashua
Sequence
父の母
Con Game
1974 黒鹿毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Broadway Hasty Road
Flitabout

*ページプルーフ
Page Proof
1988 黒鹿毛
Seattle Slew
1974 黒鹿毛
Bold Reasoning Boldnesian
Reason to Earn
My Charmer Poker
Fair Charmer
母の母
*バーブスボールド
Barb's Bold
1978 黒鹿毛
Bold Forbes Irish Castle
Comely Nell
Goofed Court Martial
Barra F-No.17-b

父については同馬の項を参照のこと。母はアメリカで6戦1勝。大伯父にフランスでG1競走2勝を挙げ種牡馬としても米・仏のリーディングサイアーとなったリファールや、アメリカで重賞2勝のバルカス、大伯母に米・仏でG1競走2勝のノビリアリーがいる。

脚注

注釈

  1. ^ 競走名(Prix Maurice de Gheest)は、当時はモーリス・ド・ギース賞と呼ばれることが多かったが、その後表記を見直し現在ではモーリス・ド・ゲスト賞と呼ばれることが多い。
  2. ^ ぬしとり。セリに出した販売者が自ら落札し引き取ること。買い手がつかなかったり、販売希望額に達しなかった場合に行われることが多い。セリ市 (競馬)#日本のセリ市の流れ参照。
  3. ^ 1999年にフランス遠征を行った日本調教馬。
  4. ^ タイキシャトルの方が高額であるのは、JRAが指定していた褒賞金対象の競走で、ジャック・ル・マロワ賞の方が格上に設定されていたためである。同競走はAランク、モーリス・ド・ギース賞はBランクであった。(『優駿』1998年9月号、p.9)

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.11
  2. ^ a b 『優駿』1997年5月号、p.141
  3. ^ a b 『優駿』1997年6月号、p.144
  4. ^ a b c 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.12
  5. ^ 武(2003)p.103
  6. ^ a b c 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.6
  7. ^ a b 武(2003)p.104
  8. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.14
  9. ^ 『優駿』1997年3月号、p.144
  10. ^ 島田(2007)p.281
  11. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.18
  12. ^ 『優駿』1997年10月号,p.13
  13. ^ 『優駿』1997年10月号、p.10
  14. ^ a b 『優駿』p.66
  15. ^ 『優駿』1998年6月号、p.147
  16. ^ 『優駿』1998年6月号、p.68
  17. ^ a b 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.8
  18. ^ 『優駿』2005年10月号、p.67
  19. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.22
  20. ^ 武(2003)p.109
  21. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.132
  22. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』pp.8-9
  23. ^ a b c d e 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.9
  24. ^ 『Sports Graphic Number PLUS』p.133
  25. ^ a b 『週刊100名馬 シーキングザパール』pp.24-25
  26. ^ a b 『優駿』1998年10月号、p.47
  27. ^ 『優駿』1998年10月号、p.124
  28. ^ 『優駿3月号増刊 TURF HERO '98』p.123
  29. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.26
  30. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.27
  31. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.28
  32. ^ 島田(2007)p.274
  33. ^ a b 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.29
  34. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.30
  35. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.37
  36. ^ Glenye Cain (2005年6月13日). “Seeking the Pearl found dead”. Daily Racing Form. 2013年8月3日閲覧。
  37. ^ a b 武(2003)pp.117-118
  38. ^ 『週刊100名馬 シーキングザパール』p.35
  39. ^ よしだ(2000)p.100
  40. ^ 『優駿』2000年11月号、p.28
  41. ^ 『優駿』2010年8月号、p.11
  42. ^ 『週刊Gallop』1999年6月27日号、pp.104-105

参考文献

  • よしだみほ『よしだみほの20世紀の100名馬』(ワニブックス、2000年)ISBN 978-4847013744
  • 武豊『ターフの女王 - 最強牝馬コレクション』(朝日新聞社、2003年)ISBN 978-4022578723
  • 島田明宏『武豊インタビュー集スペシャル 名馬編』(廣済堂出版、2007年)ISBN 978-4331654118
  • 『優駿』1997年3月号、5月号、6月号、10月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』1998年6月号、9月号、10月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』2000年11月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』2005年10月号(日本中央競馬会)
  • 『優駿』2010年8月号(日本中央競馬会)
  • 『Sports Graphic Number PLUS - 競馬黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)
  • 『週刊100名馬Vol.76 シーキングザパール』(産経新聞社、2000年)

外部リンク