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{{出典の明記| date = 2024年5月}} |
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{{otheruses|イギリスの女優|アメリカのフィギュアスケート選手|ヴィヴィアン・リー (フィギュアスケート選手)}} |
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| 芸名 = ヴィヴィアン・リー |
| 芸名 = ヴィヴィアン・リー |
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| ふりがな = Vivien Leigh |
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| 画像コメント = |
| 画像コメント = 『風と共に去りぬ』(1939)より |
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| 本名 = Vivian Mary Hartley |
| 本名 = Vivian Mary Hartley |
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| 別名 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --> |
| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合記載。愛称の欄ではありません。 --> |
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| 出生地 ={{IND1885}}・[[西ベンガル州]][[ダージリン]] |
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| 死没地 ={{ENG}}・[[ロンドン]]・[[ベルグレイヴィア]] |
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| 国籍 = {{UK}} |
| 国籍 = {{UK}} |
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| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --> |
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です。 --> |
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| 身長 = 161 cm<ref>{{Cite web|url=https://www.imdb.com/name/nm0000046/bio/|title=Vivien Leigh - Biography|publisher=[[IMDb]]|language=英語|accessdate=2013-11-03}}</ref> |
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| 身長 = 161 cm |
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| 血液型 = |
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| 生年 = 1913 |
| 生年 = 1913 |
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| 生月 = 11 |
| 生月 = 11 |
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| 没日 = 8 |
| 没日 = 8 |
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| 職業 = [[俳優|女優]] |
| 職業 = [[俳優|女優]] |
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| ジャンル = 舞台 |
| ジャンル = [[舞台]]、[[映画]] |
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| 活動期間 = |
| 活動期間 = 1933年 - 1967年 |
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| 活動内容 = |
| 活動内容 = |
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| 配偶者 = ハーバート・リー・ホルマン |
| 配偶者 = ハーバート・リー・ホルマン(1932年 - 1940年)<br />[[ローレンス・オリヴィエ]] (1940年 - 1960年) |
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| 著名な家族 = スーザン・ファーリントン(娘) |
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| 家族 = |
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| 事務所 = |
| 事務所 = |
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| 主な作品 = 『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1939年)<br />『[[哀愁 (映画)|哀愁]]』(1940年)<br />『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』(1951年) |
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| 公式サイト = |
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| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />[[1939年]]『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』<br />[[1951年]]『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』 |
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| ニューヨーク映画批評家協会賞 = '''[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />[[1939年]]『風と共に去りぬ』<br />[[1951年]]『欲望という名の電車』 |
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| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞|女優賞]]'''<br />[[1951年]]『欲望という名の電車』 |
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| AFI賞 = |
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| AFI賞 = '''[[映画スターベスト100]]'''<br />[[1999年]](女優部門第16位) |
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| 英国アカデミー賞 = '''最優秀英国女優賞'''<br />1952 『欲望という名の電車』 |
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| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国女優賞]]'''<br />[[1951年]]『欲望という名の電車』 |
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| ゴールデングローブ賞 = |
| ゴールデングローブ賞 = |
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| ローレンス・オリヴィエ賞 = |
| ローレンス・オリヴィエ賞 = |
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| トニー賞 = '''[[トニー賞 ミュージカル主演女優賞|ミュージカル主演女優賞]]'''<br />[[1963年]]『Tovarich』 |
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| 全米映画俳優組合賞 = |
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| その他の賞 = '''[[ハリウッド名声の歩道]]'''<br />[[1960年]] 映画産業への貢献、映画・演劇業界への業績に対して |
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| トニー賞 = '''[[トニー賞 ミュージカル主演女優賞|ミュージカル主演女優賞]]'''<br />1963 『Tovarich』 |
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| 備考 = |
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| その他の賞 = '''[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞]]'''<br />1951 『欲望という名の電車』 |
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| 備考 = |
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'''ヴィヴィアン・リー'''( |
'''ヴィヴィアン・リー'''({{lang|en|Vivien Leigh, Lady Olivier}}、[[1913年]][[11月5日]] - [[1967年]][[7月8日]])は、[[イギリス]]の[[俳優|女優]]。本名は'''ヴィヴィアン・メアリ・ハートリー'''(Vivian Mary Hartley)。[[英領インド帝国]]の[[西ベンガル州]]出身。 |
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1939年の映画『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』の[[スカーレット・オハラ]]役と1951年の映画『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』のブランチ・デュボワ役で[[アカデミー主演女優賞]]を受賞した。後者では、1949年に[[ロンドン]]の[[ウェスト・エンド]]で上演された舞台版に引き続いて主演を演じた。また、1963年の[[ブロードウェイ・シアター]]で上演されたミュージカル『トヴァリッチ』{{enlink|Tovarich (musical)|Tovarich|i=on|s=off}}で、[[トニー賞]]の[[トニー賞 ミュージカル主演女優賞|ミュージカル主演女優賞]]を受賞している。2度の結婚歴と離婚歴があり、その一人は[[ローレンス・オリヴィエ]]である<ref>{{Cite news|url=https://www.jiji.com/jc/d4?p=oms012-000_SAPA990705713060&d=d4_ent|title=往年の海外ムービースター 写真特集|newspaper=時事ドットコム|accessdate=2020-07-10}}</ref>。 |
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<!-- 全体のリード文ですので、「概要」などの節で単純に区切らないでください --> |
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演劇学校を辞めた後の1934年〜35年に4本の映画に出演し、その後舞台『美德の仮面』で映画プロデューサーの[[アレクサンダー・コルダ]]に認められ、1937年の映画『[[無敵艦隊 (1937年の映画)|無敵艦隊]]』に出演した<ref name=":0" />。映画女優として有名となった後も活動の主軸を舞台におき、30年にわたる舞台女優としての活動で幅広い役柄を演じた。[[ノエル・カワード]]や[[ジョージ・バーナード・ショウ]]らの戯曲をはじめ、『[[ハムレット]]』における[[オフィーリア]]、『[[アントニーとクレオパトラ]]』の[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]、『[[ロミオとジュリエット]]』のジュリエット、『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』のマクベス夫人や、[[ジャン・アヌイ]]が[[ソフォクレス]]の「[[アンティゴネ]]」を翻案したアンチゴーヌなどを演じた。 |
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当時の一般大衆からはイギリスの名優[[ローレンス・オリヴィエ]]の2度目の妻としての印象を強くもたれていた。オリヴィエとは多くの舞台作品で共演し、映画作品でも3度共演している。結婚生活は1940年から1960年まで続いたが、そのころから徐々に[[双極性障害]]に悩まされるようになり<ref name="Laurence">Olivier 1982, p. 174.</ref>、女優としての仕事量の減少を経験した時期もあった。また、1940年代半ばごろからは慢性の結核の発作に見まわれるようになり、最終的にはこの慢性結核で死去している。 |
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[[1999年]]に[[アメリカン・フィルム・インスティチュート]]が発表した「[[映画スターベスト100]]」では女優部門の16位に選ばれた。日本では、[[2000年]]の「[[キネマ旬報20世紀の映画スター]]」の外国女優で4位に選ばれている。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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=== 前半生 === |
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[[インド]]の[[ダージリン]]出身。本名は、'''ヴィヴィアン・メアリー・ハートリー'''(''Vivian Mary Hartley'')。父は[[イギリス]]人の株の仲買人であった。母ガートルード・メアリーは自ら[[アイルランド系]]であると主張していたが、旧姓「ロビンソン・ヤーチ(Robinson Yackje)」のYackje(Yackjeeとも表記)から、インド人との[[混血]]である可能性が指摘されており、また、それがリーの東洋的美貌の理由であるとも言われている<ref>{{Cite web|url=http://wiki.answers.com/Q/What_ethnicity_is_Leigh|title=What ethnicity is Leigh?|publisher=Answers|language=英語|accessdate=2013-03-12}}</ref>。リーは上流階級の教育を受けさせたいという両親の希望で、6歳でローハンプトンのセイクレッド・ハート修道院に入所させられ、そこで後の女優仲間となる[[モーリン・オサリヴァン]]と出会う。その後、王立演劇芸術アカデミーを卒業した。 |
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リーは1913年11月5日に、[[イギリス領インド帝国]][[ダージリン]]のセント・ポール・スクールの寄宿舎で生まれた。[[東インド会社]]が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込み、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した新興成金の父親アーネスト・ハートリーと母の代からインドに住まう母親のガートルード・メアリ・フランセスとの間に生まれた一人娘で<ref>[http://www.findmypast.co.uk/search/england-and-wales/results?recordType=GRO&route=X&event=M&fromYear=1837&toYear=2005&forenames=Gertrude&surname=Yackjee&includeSurnameVariants=false&includeForenamesVariants=true&performExactSearch=false "Yackjee."] ''Marriage Records 1837-2005''.</ref><ref>[http://www.hartleyfamily.org.uk/Fame1.htm "Vivien Leigh's parents and extended family."] ''Hartley family genealogy website.'' Retrieved: 10 October 2013.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref>、ヴィヴィアン・メアリ・ハートリーと名づけられた<ref name=Dict.> Briggs 1992, p. 338.</ref>。アーネストとガートルードは1912年にロンドンの[[ケンジントン]]で結婚し、その後[[イギリス領インド帝国]]に駐留していた<ref>''General Register Office of England and Wales, Marriages'', June quarter 1912, Kensington vol. 1a, p. 426.</ref>。 |
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近年、リーの先祖の起源についての憶測が飛び交っている<ref name=":1">{{Cite book|洋書 |title=VIVIEN LEIGH AN INTIMATE PORTRAIT |date=2013/10/15 |publisher=Running Press Book Publishers |page=20 |author=Kendra Bean}}</ref>。リーの伝記作家ヒューゴー・ヴィッカーズは、母親のガートルードがアルメニア人かインド人の血をひいているかもしれないと明かし、それがリーの持つ「暗い東洋の美しさ」の説明になるだろうと書いている<ref name=":1" />。 |
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1932年にケンブリッジ大卒で13歳年上の[[法廷弁護士]]ハーバート・リー・ホルマンと結婚し、1933年に娘のスーザンが生まれた<ref name="Leigh Profile">{{cite web|title=Vivien Leigh Profile|url=http://www.tcm.com/this-month/article/337185%7C0/Vivien-Leigh-Star-of-the-Month-.html|work=[[:w:Turner Classic Movies|TCM]]|accessdate=13 October 2012}}</ref>が、リーは女優として成功することしか考えておらず、娘の養育には殆ど興味を示さなかった。ホルマンは結婚している間、リーのマネージャーもしていたが、夫としての本音は女優を引退し家庭的な主婦になってもらうことだった。しかし上昇志向が強く野心のかたまりのリーにとって主婦になるのは無理な注文だった。 |
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1917年にアーネストは[[バンガロール]]への転属を命じられたが、妻ガートルードと幼いヴィヴィアンを[[ウダカマンダラム]]に残したままの単身赴任だった<ref>Vickers 1988, p. 9.</ref>。ヴィヴィアンは3歳のときに母親が加入していた素人劇団の舞台に立ち、イギリス童謡の「ちっちゃな羊飼い』{{enlink|Little Bo Peep|i=on|s=off}}を歌っている。ガートルードはヴィヴィアンに文学の教養を身につけさせようとして、[[ハンス・クリスチャン・アンデルセン|アンデルセン]]、[[ルイス・キャロル]]、[[ラドヤード・キップリング]]といった作家たちの子供向け文学作品だけでなく、[[ギリシア神話]]やインドの民間伝承なども読み聞かせていた。6歳のときにヴィヴィアンは母ガートルードの意向でインドを離れて、それまで通っていたダージリンの学校からロンドン南西部[[ワンズワース区]]ローハンプトン{{enlink|Roehampton|s=off}}にあったカトリック女子修道院付属学校(現在のウォルディンガム女学校{{enlink|Woldingham School|s=off}}に転入した。この学校で知り合った友人に、後に女優となる2歳年上の[[モーリン・オサリヴァン]]がおり、ヴィヴィアンはオサリヴァンに「立派な女優」になりたいという夢を語っている<ref>Fury 2006</ref><ref>Edwards 1978, pp. 12–19.</ref>。その後ヴィヴィアンは父アーネストのヨーロッパ旅行についていくかたちで修道院付属学校を退校した。ヴィヴィアンは父に従ってヨーロッパ各地の学校を転々とし、アーネストとヴィヴィアンがイギリスに戻ったのは1931年のことだった。そして、ロンドンの[[ウエスト・エンド (ロンドン)|ウエスト・エンド]]で上映されていた、すでに女優としてデビューしていたオサリヴァンが出演していた映画を観たヴィヴィアンは、両親に女優になりたいという望みを告げた。ヴィヴィアンの願いを聞いたアーネストは、ヴィヴィアンをロンドンの[[王立演劇学校]]へと入学させた<ref>Edwards 1978, pp. 25–30.</ref>。 |
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女優としてのリーの経歴は、舞台演劇から始まった。初出演作は『緑の飾り帯 The Green Sash』、その後スターダムに押し上げた作品は『美徳の仮面 Mask of Virtue』であった。1935年に初めて[[映画]]『探しだされるもの』に出演した。リーの最も有名な出演作は1939年の『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』である。 |
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ヴィヴィアンが13歳年上の法廷弁護士ハーバート・リー・ホルマンと出会ったのは1931年のことである。ハーバートは「役者」を嫌っていたが、1932年12月20日に2人は結婚し、ヴィヴィアンは王立演劇学校を退学した。そして1933年10月12日にヴィヴィアンは一人娘スーザンを出産した<ref name="Leigh Profile">[http://www.tcm.com/this-month/article/337185%7C0/Vivien-Leigh-Star-of-the-Month-.html "Vivien Leigh profile".] ''Turner Classic Movies''. Retrieved: 13 October 2013.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref>。数十年後にスーザンは結婚し、リーの孫となる子供を3人出産している<ref>[http://www.geni.com/people/Suzanne-Farrington/6000000008681454413 "Suzanne Farrington (Holman)."] ''Geni.com''. Retrieved: 13 October 2013.</ref>。 |
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『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』はヒロインの決まらぬまま、撮影所では既に[[アトランタ]]炎上のシーンの撮影が開始されていた。その頃リーは、ハリウッドに進出したイギリスの男優[[ローレンス・オリヴィエ]]を追って渡米していた。撮影所に出入りしていたリーが、その場でプロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]]に「スカーレットがそこにいた!」と見いだされた、という有名な逸話がある。しかしセルズニックの息子の証言によると、それはハリウッドによくある宣伝用の作り話で、実際は撮影の2日前、当時オリヴィエのマネージャーを務めていたオリヴィエの兄マイロンの紹介でカメラテストを受けた結果、リーはスカーレットのオーディションに合格していた。そして主演したスカーレット・オハラ役で[[アカデミー主演女優賞]]を受賞した。 |
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=== 女優としてのキャリア初期 === |
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1940年にリーはホルマンと離婚し、オリヴィエと再婚した。二人の出会いは、1935年にオリヴィエの舞台での勇姿を見たリーが、彼に一目ぼれをしたのがきっかけだった。リーはオリヴィエを振り向かせるために、オリヴィエ夫妻の出入り先を調べると偶然を装って出向き、知人同士になる。次に彼の好みや性格を良く知っている妻の[[ジル・エズモンド]]にも近づいて友人となり彼女を手なづけるなど、オリヴィエの愛人の地位を得るための手段を選ばなかった。 |
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ヴィヴィアンは友人たちの勧めで、1935年の映画作品『{{lang|en|Things Are Looking Up}}』に出演し、この作品の端役で女優としてデビューした。ヴィヴィアンが契約していた代理人のジョン・グリッドンは「ヴィヴィアン・ホルマン ({{lang|en|Vivian Holman}}) 」という名前が女優として相応しくないと考えた。グリッドンが考えた「エイプリル・モーン」という名前が気に入らなかったヴィヴィアンは、夫ハーバートのミドルネームの「リー」をラストネームに借用し、さらに自身のファーストネーム「ヴィヴィアン ({{lang|en|Vivian}} )」の綴りの「a」を「e」に変更して「ヴィヴィアン・リー ({{lang|en|Vivien Leigh}})」という芸名を名乗ることを決めた。グリッドンはリーを映画女優として映画監督[[アレクサンダー・コルダ]]に推薦したが、このときコルダはリーに将来性が欠けているとして出演を断っている<ref>Edwards 1978, pp. 30–43.</ref>。1935年に舞台作品『美徳の仮面 ({{lang|en|The Mask of Virtue}})』に出演したリーは高い評価を受け、複数のインタビューや新聞記事にとりあげられた。タブロイド紙『[[デイリー・エクスプレス]]』のインタビュー記事ではリーのことを「すばやくころころと変わる表情」と表現している。この記事が、後にリーの特徴となっていく「気まぐれ」に最初に言及した公的なコメントだといわれている<ref>Coleman 2005, p. 74.</ref>。のちに[[桂冠詩人]]の称号を手にするイギリスの詩人{{仮リンク|ジョン・ベチェマン|en|John Betjeman}}は「典型的なイングランドの少女」であるとリーのことを言い表している<ref>Coleman 2005, p. 75.</ref>。以前に自身が監督する映画作品へのリーの出演を断ったコルダも、開幕初日にリーが出演する『美徳の仮面』を観劇した。そしてコルダは過去の過ちを認め、リーの映画出演契約書にサインした。『美徳の仮面』はヒットを続け、コルダの計らいで規模の大きな劇場で上演されることとなった。しかしながら当時のリーの声質は大規模な劇場に適しているとはいえなかった。リーの演技は十分に観客をひきつけることが出来ず、『美徳の仮面』は間もなく終演となってしまっている<ref>Edwards 1978, pp. 50–55.</ref>。 |
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1960年にリーはこの当時のことを回想している。デビュー間もない自分が批評家たちから高く評価され、突然有名になったことに戸惑っており「私が優れた女優だなどと無責任なことをいう批評家もいました。なんと無責任で不道徳ともいえる発言でしょう。当時の私にとってそういった言葉がどれだけ重荷で負担になったことか。耐えられませんでした。このような最初の評価になんとか応えられるようになるまで、何年もかかったのです。ほんとうに馬鹿げた話です。今でもそのときの批評家をはっきりと覚えていますし、生涯許すことはないでしょう」と語っている<ref name="ActorTalk">Boothe, John E. and Lewis Funke, eds. [http://www.vivien-leigh.com/interview.html "Actors Talk About Acting: Vivien Leigh interview (1961)."] ''vivien-leigh.com.'' Retrieved: 13 October 2013.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref>。 |
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オリヴィエとリーの交際は、次第にエスカレートし、人目をはばかることなく行われた。この時オリヴィエの妻であった女優の[[ジル・エズモンド]]は妊娠しており、後に男児を出産。しかしジルは、夫婦の仲を引き裂いたリーに怒りをぶつけることはなかった。実はジルがレズビアンで、並み外れた野心的な性格を持ちながらも、美しくチャーミングな性格のリーに、ジル自身が魅了されていた事が理由のようだ。 |
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=== ローレンス・オリヴィエとの出会い === |
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1944年にリーの左肺が[[結核]]に感染していると診断された。病気にもかかわらず彼女は[[ソーントン・ワイルダー]]作の舞台『危機をのがれて Skin of Our Teeth』や、1946年には映画『シーザーとクレオパトラ』に出演した。その出演はリーの結核を悪化させる原因となる。さらには映画の撮影中に転倒してオリヴィエとの子供を流産をする。 |
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[[File:Vivien Leigh and Laurence Olivier disembarking plane, Brisbane 1948.jpg|thumb|200px|1948年に行われたオーストラリア公演でブリスベンの空港へ降り立つリーとオリヴィエ。]] |
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『美徳の仮面』でリーを観たイギリスの俳優[[ローレンス・オリヴィエ]]はリーの演技を賞賛し、それから2人の交友が始まった。オリヴィエとリーは、初めての共演となる1937年の映画『[[無敵艦隊 (1937年の映画)|無敵艦隊]]』で恋人同士を演じた。当時のリーはハーバートと結婚しており、オリヴィエも女優[[ジル・エズモンド]]と結婚していたが、オリヴィエとリーは不倫関係に陥っていった。この当時のリーは[[マーガレット・ミッチェル]]の小説『[[風と共に去りぬ]]』を読んでおり、この小説の映画化を企画していたプロデューサーの[[デヴィッド・O・セルズニック]]にアメリカの代理人を通じて面会を求めている。リーはマスコミに「[[スカーレット・オハラ]]を演じたい」と公言していた。イギリスの新聞「[[オブザーバー (イギリスの新聞)|オブザーバー]]」の映画評論家{{仮リンク|キャロライン・アリス・レジュネ|en|C. A. Lejeune}}は、当時リーが「(オリヴィエは)レット・バトラーを演じないでしょうけれど、私はスカーレット・オハラを演じることになるわ。見ていてくださいな」と言い放ったことに「皆が愕然とした」と振り返っている<ref>Coleman 2005, pp. 76–77, 90, 94–95.</ref>。 |
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1937年にリーとオリヴィエは、[[デンマーク]]の[[ヘルシンゲル]]で上演される『[[ハムレット]]』で共演した。ロンドンの[[オールド・ヴィック・シアター]]が企画したこのシェイクスピア原作の舞台劇でリーはオフィーリアを演じた<ref>Coleman 2005, p. 92.</ref>。後にオリヴィエはこのときの上演で、舞台に登場する前のリーが「気まぐれ」で起こした事件を回想している。何も怒らせるようなことをしていないにもかかわらず、リーがオリヴィエに向かって怒鳴りだし、突然黙り込んだと思ったら虚空を見つめだしたことがあった。しかしながらリーは翌日には何も覚えておらず、いつもどおりに何事もなく舞台を務めあげたという。オリヴィエにとって、この出来事がリーの突拍子もない言動を目にした最初の経験となった<ref>Coleman 2005, pp. 97–98.</ref>。 |
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同時期に、夫となったオリヴィエが偉大な俳優としてサー(Sir)の称号を得ると、リーもサー(Sir)の配偶者としてのレディー(Lady)の尊称を得る。しかし、同じく俳優として大成していたリーは、サー(Sir)と同等である女性の称号であるデイム(Dame)が欲しいという願望に引き裂かれた。1951年に彼女は映画『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』でのブランチ・デュボワ役で2度目のアカデミー賞を受賞した。 |
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リーとオリヴィエは同棲をはじめたが、どちらの配偶者も離婚を拒否した。当時の道徳的見地からの非難を恐れて、映画会社は2人の関係を大衆には隠し通そうとした。私生活では問題をはらんでいたリーだったが、女優としては1938年の映画『[[響け凱歌]]』に出演し、[[ロバート・テイラー (俳優)|ロバート・テイラー]]、[[ライオネル・バリモア]]、[[モーリン・オサリヴァン]]と共演している。この『響け凱歌』はリーの出演作品としては最初にアメリカで注目を集めた映画となった。この作品の撮影中にリーは、扱いが難しく理不尽だと囁かれるようになった。コルダはリーの代理人に対し、リーの言動が改まらないのであれば契約を更新しないと警告している。予定されていたリーの次回作は、コルダと親交があった[[チャールズ・ロートン]]が製作と主演を担当する、1938年の映画『{{仮リンク|セント・マーティンの小径|en|Sidewalks of London}}』のヒロインであるリビー役だった<ref>Coleman 2005, p. 97.</ref>。 |
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リーは1950年代の初めに二度流産し、結核で体力も衰えていった。さらに彼女は暫しの間[[双極性障害]]に悩まされた。双極性障害はリーの結核快復の障害の大きな要因と考えられた。リーは普段は礼儀正しく温和であったが、躁病のときはヒステリーを起こした。意味不明な言動で周りを振り回し、暴言を吐いて暴れることが度重なり、また性的関係が乱脈になり手がつけられない状態になった(ゴシップとして騒がれた例は、オリヴィエの後輩俳優の[[ピーター・フィンチ]]との浮気など)。また、このヒステリー発作が出たため、映画『[[巨象の道]]』を強制降板になる。これにより夫婦関係がすっかり破綻し、オリヴィエは家を出てしまう。 |
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=== 『風と共に去りぬ』 === |
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リーとオリヴィエは1960年に合意の上離婚した。この時リーは「レディー・オリヴィエは、オリヴィエのためなら何でもしてあげます」と、離婚に同意したという。彼女は後に恋人の俳優ジョン・メリヴェールと同居するが、周りの人たちに離婚前と同様に自分をレディ・オリヴィエと呼ぶように頼み、ベッドサイドのテーブルには額に入ったオリヴィエの写真を飾っていた。 |
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[[File:Gable-Leigh GWTW-b.jpg|thumb|『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1939年)。相手役のレット・バトラーは[[クラーク・ゲーブル]]が演じた。]] |
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1930年代終わりごろのハリウッドは、[[デヴィッド・O・セルズニック]]が製作を決定していた映画『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』の主役[[スカーレット・オハラ]]を演じる女優候補を広く募集していた。リーのアメリカ側での代理人は、セルズニックの兄{{仮リンク|マイロン・セルズニック|label=マイロン|en|Myron Selznick}}が経営する代理店のロンドン支社だった。1938年2月にリーは、自身がスカーレット役に選ばれる可能性があるかどうかをセルズニックに打診している。セルズニックはリーが出演した『無敵艦隊』と『響け凱歌』を同月に確認し、リーがスカーレット役に相応しいかも知れないと考えたが、「あまりにイギリス的」だったと感じたため、リーにはスカーレット役は無理だろうと判断した。しかしながらリーは、当時アメリカで映画撮影を行っていたオリヴィエを頼ってロサンゼルスへと向かい、自分こそがスカーレットだということをセルズニックに納得させようとした。リーと面会した、セルズニックの兄でオリヴィエの代理人も務めていたマイロン・セルズニックは、弟がスカーレット役の女優に求めている資質をリーが持っているのではないかという印象を受けた。ハリウッドに伝わる伝説に、スカーレット役不在のまま[[アトランタ]]炎上シーンを撮影していた現場にマイロンがリーとオリヴィエを連れて行き、セルズニックにリーを紹介して「よう天才、お前のスカーレットに会わせてやるぜ」と嘯いたというものがある。いずれにせよ、セルズニックはスクリーンテストを行い、リーがカメラの前で台本を読んで見せた。リーに満足したセルズニックは妻に宛てて「彼女(リー)がスカーレット役の大穴だ。見た目も全く申し分ない。まだ誰にも言ってない、お前だけだ。(スカーレット役は)[[ポーレット・ゴダード]]、[[ジーン・アーサー]]、[[ジョーン・ベネット]]、そしてヴィヴィアン・リーに絞られた」という手紙を書いている。『風と共に去りぬ』の監督を当初任されていた[[ジョージ・キューカー]]もスカーレット役にリーを抜擢することに賛同し、リーのことを「信じられないくらいに野生的だ」と評価した。そしてリーがスカーレットを演じることが正式に決定された<ref>Haver 1980, p. 259.</ref>。 |
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『風と共に去りぬ』の撮影現場はリーにとって辛いものだった。監督のキューカーが更迭されて、代わりに[[ヴィクター・フレミング]]が監督となったが、リーはフレミングとしょっちゅう仲違いを起こしていた。リーと、メラニー・ハミルトン役を演じる[[オリヴィア・デ・ハヴィランド]]は夜にこっそりと前監督のキューカーと会っており、毎週末にはキューカーから演技指導も受けていた。リーはレット・バトラー役の[[クラーク・ゲーブル]]とその妻の女優[[キャロル・ロンバード]]、デ・ハヴィランドと仲良くなっていったが、スカーレットが感情的になるシーンが多かったアシュレイ・ウィルクス役の[[レスリー・ハワード]]とは、撮影現場でも実際に激しく衝突していた。週7日間拘束されることもあったうえに撮影が夜中までかかることも珍しくなく、このような状況下でリーは疲労を重ねていった。リーはオリヴィエが恋しくなり、ニューヨークで仕事をしていたオリヴィエに長距離電話をかけて「あなた、あなた、もう演技にはうんざり!もうイヤ、イヤ、二度と映画になんか出たくない!」と愚痴をこぼしている<ref name="名前なし-pQWq-1">Taylor 1984, pp. 22–23.</ref>。 |
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オリヴィエとの二度目の結婚のせいで、元夫のホルマンと長女スーザンを捨てた後も、リーは二人と連絡を取り合っていた。スーザンが初めて出産したとき、リーは生まれて間もない孫を抱くことができた。他に素晴らしい孫3人にも恵まれた。またオリヴィエの先妻ジルとの関係が良好だったので、彼らとの間の息子とも親しく交際していた。 |
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2006年に出版されたオリヴィエの伝記で、『風と共に去りぬ』撮影中のリーの[[躁病]]じみた言動への苦情に対して、オリヴィア・デ・ハヴィランドがリーを弁護していたという記述がある。「ヴィヴィアンは非の打ち所がないプロフェッショナルで、『風と共に去りぬ』では完全に自己管理が出来ていました。ただし、あのときの彼女には二つの大きな悩みがあったのです。一つは(スカーレットという)きわめて難しい役を完璧に演じなければならないこと、そしてもう一つはニューヨークにいたラリー(ローレンス・オリヴィエの愛称)と離れ離れになっていたことです」とデ・ハヴィランドは語っている<ref>Thomas, Bob. [https://web.archive.org/web/20071212100723/http://www.dcexaminer.com/articles/2006/01/04/features/books/62bbooks04olivier.txt "Quoting Olivia de Havilland."] ''DC Examiner'' (''The Associated Press''), 3 January 2006. Retrieved: 7 January 2006,.</ref>。 |
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リーは慢性的な結核の末、1967年に[[ロンドン]]の自宅アパートで喀血によって気管を詰まらせて死去した。葬儀委員長は前夫のオリヴィエが務め、生前の希望通り遺体は火葬され、遺灰は[[ロンドン]]の[[サセックス]]、ブラックボーイズの近くにあるティッカレジ・ミル湖にまかれた。 |
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『風と共に去りぬ』は公開直後から注目され、主役のスカーレットを演じたリーは絶賛された。しかしながらリーは「私は映画スターではなく女優です。映画スター、そう映画スターなどというのは嘘だらけの暮らしでしょう。偽りの価値観と虚栄のための生き方です。(それに比べて)女優は人生すべてを費やすに値する仕事であり、いつだって素晴らしく重要な役割なのです」と語っている<ref name="名前なし-pQWq-1"/>。『風と共に去りぬ』は[[アカデミー作品賞|作品賞]]をはじめ10部門で[[アカデミー賞]]を受賞し、リーも[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]を受賞した。さらにリーは[[ニューヨーク映画批評家協会賞]]の[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]も受賞している。 |
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リーはその生涯をイギリスで閉じたが、[[ハリウッド]]の人々は彼女の女優としての功績を称え、[[ハリウッド]]大通り6773番地の[[ハリウッド名声の歩道]]に、彼女の名を刻んだ星型のタイルを埋め込んだ。 |
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=== ローレンス・オリヴィエとの結婚 === |
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== 主な出演作 == |
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[[File:Vivien Leigh in Waterloo Bridge trailer c.jpg|thumb|『[[哀愁 (映画)|哀愁]]』(1940年)で踊り子マイラ・レスター役を演じたリー。]] |
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1940年2月になって、オリヴィエの妻ジル・エズモンドとリーの夫ホルマンはどちらも離婚に合意した。ただし、両人共にリーとの深い交友関係はその後も生涯続いている。オリヴィエの息子タルキンの親権は母親のエズモンドが、リーの娘スーザンの親権は父親のホルマンがそれぞれ得ている。1940年8月31日にオリヴィエとリーは[[カリフォルニア州]][[サンタバーバラ]]の高級ホテルであるサン・イシドロ・ランチ{{enlink|San Ysidro Ranch|s=off}}で結婚した。結婚式には立会人として女優[[キャサリン・ヘプバーン]]と劇作家[[ガーソン・ケニン]]の2人しか招かれていない。結婚したリーはオリヴィエとの共演を望み、オリヴィエが主役の一人を演じることになっていた[[アルフレッド・ヒッチコック]]の監督作品『[[レベッカ (1940年の映画)|レベッカ]]』のスクリーンテストを受けた。しかしながら、スクリーンテストを確認したプロデューサーのセルズニックは「彼女(リー)には、誠実さ、若々しさ、純真さが欠けていると感じる」と判断し、監督ヒッチコックやリーの恩師ジョージ・キューカーもこの判断を支持した<ref>McGilligan 2003, p. 238.</ref>。 |
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セルズニックは、オリヴィエの出演が決まるまでリーが『レベッカ』に興味を示していなかったと考えており、主役の「わたし」には[[ジョーン・フォンテイン]]を選んだ。さらにセルズニックは、リーがオリヴィエとの共演を望んだ『[[高慢と偏見 (1940年の映画)|高慢と偏見]]』でも、リーではなく[[グリア・ガースン]]を起用した。また、1940年の映画『[[哀愁 (映画)|哀愁]]』はリーとオリヴィエの共演が予定されていたが、セルズニックはオリヴィエを外して、[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]の看板スターで、当時人気絶頂だった[[ロバート・テイラー (俳優)|ロバート・テイラー]]を起用している。この映画にかけられた莫大な宣伝費用は主役を演じたリーのハリウッドでの地位を示すもので、『哀愁』は観客からも批評家たちからも高評価を得た<ref>[http://movies.yahoo.com/person/vivien-leigh/biography.html "Vivien Leigh- Biography."] ''Yahoo! Movies''. Retrieved: 13 October 2012.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref>。 |
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結婚後、映画での共演はなかなか果たせなかったリーとオリヴィエだが、舞台では[[ブロードウェイ]]で1940年5月に上演された『[[ロミオとジュリエット]]』で共演している。しかしながらこの作品に対する評価は散々なものだった。『[[ニューヨーク・プレス (1887年創刊)|ニューヨーク・プレス]]』紙は、リーとオリヴィエの関係が不倫から始まったことを指摘し、母国イギリスが[[第二次世界大戦]]を戦っている最中であるにもかかわらず2人がイギリスに戻って戦争に協力しないことに対する道徳心の欠如を疑問視する記事を掲載している。『[[ニューヨーク・タイムズ]]』の映画評論家{{仮リンク|ブルックス・アトキンソン|en|Brooks Atkinson}}は「リーとオリヴィエの容姿は端麗かもしれないが、演技は全くなっていない」と批判している<ref>Edwards 1978, p. 127.</ref>。2人に対する非難はほとんどがオリヴィエの演技や演出に対するものだったが、バーナード・グラバニーのように「リーの発声は薄っぺらく、店の売り子並みの質しかない」とリーを酷評する批評家もいた。「2人はこの舞台(『ロミオとジュリエット』)にほとんど全財産をつぎ込んだために、破産寸前となってしまった」ともいわれている<ref>Holden 1989, pp. 189–190.</ref>。 |
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1941年の映画『[[美女ありき]]』で、オリヴィエはイギリス海軍提督[[ホレーショ・ネルソン (初代ネルソン子爵)|ホレーショ・ネルソン]]役、リーはその愛人[[エマ・ハミルトン]]役として共演した。当時のアメリカはいまだ第二次世界大戦には参戦しておらず、この『美女ありき』は当時ドイツに対して苦戦を続けていたイギリスに対するアメリカの大衆の関心を惹く目的で製作されたハリウッド映画の一つだった。『美女ありき』はアメリカでヒットし、[[ソビエト連邦]]でも非常に大きな成功を収めた。当時のイギリス首相[[ウィンストン・チャーチル]]は『美女ありき』の上映会を企画し、アメリカ大統領[[フランクリン・ルーズベルト]]ら厳選した招待客に向かって「みなさん、この映画を楽しんでいただけることと思います。この映画は、現在あなたたちが直面している大きな出来事ととてもよく似ていますから」とスピーチしている。チャーチルはオリヴィエのことを気に入っており、生涯を通じて夕食に招待したり、行事への参加を依頼したりする間柄だった。チャーチルはリーのことも「本当に彼女は素晴らしい<!-- 【訳注】"By Jove, she's a clinker." 俗語としての「clinker」には否定の意味も肯定の意味もありますが、肯定として訳しています。毒舌家チャーチルのことなので否定の意味の可能性も高いですけれど。-->」と評していた<ref>Holden 1989, pp. 202, 205, 325.</ref>。 |
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その後オリヴィエはイギリスに戻り、リーは単独で1943年に[[北アフリカ]]のイギリス軍を慰問した。北アフリカ各地を回ったが、その後しばらくしてから咳と発熱のために慰問の中断を余儀なくされている。1944年にリーは左肺が結核に罹患していると診断され、数週間の入院生活を送った。『[[シーザーとクレオパトラ]]』(1945年)の撮影中に妊娠していることが判明したが、このときリーは流産してしまった。流産に[[うつ病|ひどく落ち込んだ]]リーは自身が泣き疲れ果てて床に崩れ落ちるまで、オリヴィエに怒鳴り散らし、殴りかかった。これが、その後リーが長く苦しむことになる[[双極性障害]]の最初の大きな発作となった。<!-- オリヴィエはリーが発作を起こす兆候が徐々に分かるようになっていった。 -->リーは非常に深く落ち込んだかと思うと、数日間は異常なまでに活動的になった。落ち込んでいるときのことは何も覚えておらず、リーはそんな自分にひどい困惑を感じていたといわれている<ref>Holden 1989, pp. 221–222.</ref>。 |
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[[File:Sir Laurence Olivier and Vivien Leigh on holiday in Queensland (3190855694).jpg|thumb|200px|オーストラリア滞在中のリーとオリヴィエ。1948年6月。]] |
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1946年には演技が出来るまでにリーの病状が回復した。劇作家[[ソーントン・ワイルダー]]原作の戯曲『危機一髪』{{enlink|The Skin of Our Teeth|i=on|s=off}}は好評だったが、この前後の時期にリーが出演した『シーザーとクレオパトラ』(1945年)と『[[アンナ・カレニナ (1948年の映画)|アンナ・カレニナ]]』(1948年)は大きな成功を収めたとはいえない。 |
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1947年にオリヴィエが[[ナイト|ナイト爵]]を受け、[[バッキンガム宮殿]]で開催された叙任式にはリーとオリヴィエの2人で出席した。リーもナイト爵士夫人として「レディ」の[[儀礼称号|称号]]を許された。後に2人は離婚しているが慣例に従ってリーに「レディ」の称号は残されており、リーは公式の場ではヴィヴィアン・レディ・オリヴィエとして知られるようになっている。 |
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1948年ごろにはオリヴィエが[[オールド・ヴィック・シアター]]の重役の一人となり、劇場の運営資金を得るために[[オーストラリア]]と[[ニュージーランド]]各地で6カ月間にわたる巡業を開始した。オリヴィエはシェイクスピアの戯曲『[[リチャード三世 (シェイクスピア)|リチャード三世]]』で主役を演じたほか、[[リチャード・ブリンズリー・シェリダン]]の戯曲『{{仮リンク|悪口学校 (戯曲)|label=悪口学校|en|The School for Scandal}}』や『危機一髪』ではリーと共演で舞台をつとている。この巡業は非常に大きな成功を収めた。巡業中のリーは[[不眠症]]に悩まされており、体調が悪かったときには1週間代役が立てられたこともあったが、自身に任せられた役割はなんとかこなしていた。オリヴィエはリーの「マスコミを魅了する」能力に賛辞をよせている。ただし、この巡業に参加した団員たちが当時のことを振り返り、リーとオリヴィエの間には何度か諍いがあり、ニュージーランドの[[クライストチャーチ]]での上演でリーが舞台に上がることを拒否した事件がとくに印象的だったと語っている。このときオリヴィエはリーの顔を平手打ちし、リーもオリヴィエに平手打ちを返した。そして最終的にリーがステージに上がる直前までオリヴィエに毒舌を浴びせ続けた。巡業の終わりごろには両者共に消耗しきっており、体調を崩していた。オリヴィエはマスコミに対して「知らないかもしれないけれど、今あなたは歩く死人2人に話しかけているんだよ」と語りかけている。後にオリヴィエは、オーストラリアで「ヴィヴィアンを失った」とコメントしている<ref>Holden 1989, p. 295.</ref>。 |
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オーストラリアとニュージーランドでの巡業公演の大成功に気をよくしたオリヴィエは、ロンドンのウエスト・エンドにおけるリーとの初の舞台共演を行った。このときの演目は、それまで共演した作品のほかに古代ギリシアの悲劇作家[[ソポクレス|ソフォクレス]]の『[[アンティゴネ (ソポクレス)|アンティゴネー]]』も上演されている。これはリーが悲劇を演じたいと希望したためでもあった。 |
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=== 『欲望という名の電車』 === |
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[[File:Vivien Leigh in Streetcar Named Desire trailer 2.jpg|left|thumb|『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』(1951年)の宣伝フィルム。リーは主役のブランチ・デュボアを演じた。]] |
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リーは、[[テネシー・ウィリアムズ]]が書き、ウエスト・エンドで上演されることになっていた戯曲『[[欲望という名の電車]]』の主役ブランチ・デュボア役を欲した。原作者のウィリアムズと舞台プロデューサーの{{仮リンク|アイリーン・メイヤー・セルズニック|en|Irene Mayer Selznick}}は、リーが出演した舞台『悪口学校』と『アンティゴネー』を観て、リーをブランチ・デュボア役に起用することを決めた。さらにオリヴィエも舞台監督として『欲望という名の電車』に参加することが決まった。陵辱シーンがあり、さらに乱交、同性愛への言及といった刺激的な内容を持つこの作品は大きな論争の的となり、マスコミもこの役を演じることがリーの精神状態を悪化させるのではないかと懸念していた。しかしながらリーはこのブランチ・デュボアは自身のキャリアにおいて非常に重要な役どころとなると固く信じていた。 |
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ウエスト・エンドでの舞台劇『欲望という名の電車』は1949年に開幕した。劇作家[[J・B・プリーストリー]]はこの作品自体とリーの演技を激しく非難している。また、以前からリーの舞台を酷評することが多かった演劇評論家{{仮リンク|ケネス・タイナン|en|Kenneth Tynan}}も<ref>Dominic Shellard [https://books.google.co.uk/books?id=3U0q-DTHHDgC&pg=PA126&hl=en ''Kenneth Tynan: A Life''], London & New Haven, NJ: Yale University Press, 2003, p.126</ref>、リーはひどいミスキャストであり、その理由として「このような(荒々しく粗野な)感情を舞台で表現するには、イギリス人俳優は上品に過ぎる」とコメントしている。オリヴィエとリーは、この作品が好色で扇情的な舞台になるに違いないと考えた観客が大量に詰め掛け、その結果として興行収入が上がったことについて遺憾の意を示している。しかしながらこの作品には熱心な支持者も多く<ref>Coleman 2005, pp. 227–231.</ref>、[[ノエル・カワード]]はリーのことを「最高だ」と評している<ref>Holden 1989, p. 312.</ref>。 |
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ウエスト・エンドでの舞台『欲望という名の電車』は326回に及ぶ公演を重ねて幕を閉じ、その後すぐに映画化が決まった『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』へのリーの出演が決まった。リーの傲岸さと、ときに下品なユーモアセンスを気に入った共演者の[[マーロン・ブランド]]との仲は良好だったが、リーのことを一流の女優だとは認めていなかった監督の[[エリア・カザン]]との関係はぎくしゃくしていた。後に「彼女(リー)の才能は微々たるものだった」とコメントしたこともあるカザンだったが、撮影が進むにつれてリーが「自身が知るどの女優よりも優れた演技を見せると固く心に決めた。彼女(リー)はもし演技に必要であれば、砕けたガラスの上に這いつくばる覚悟だった」と「大いなる賞賛」を与えている。それでもリーはこの映画のブランチ・デュボア役を演じることに疲れ果てており、『[[ロサンゼルス・タイムズ]]』紙に「私は劇場で9カ月間ブランチ・デュボアを演じていました。それが今では彼女(ブランチ)が私を牛耳っています」と語っている<ref>Coleman 2005, pp. 233–236.</ref>。この作品の撮影中はオリヴィエもリーと共にハリウッドに滞在しており、[[ウィリアム・ワイラー]]監督作品『[[黄昏 (1952年の映画)|黄昏]]』に出演し、[[ジェニファー・ジョーンズ]]と共演している。 |
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映画版『欲望という名の電車』は高く評価され、リーは2度目となるアカデミー主演女優賞と[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国アカデミー最優秀英国女優賞]]、[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞]]を受賞した。原作者テネシー・ウィリアムスはリーがブランチ・デュボアに「私が意図したあらゆるもの、そして私が夢にも思わなかった多くのもの」をもたらしてくれたと感謝を表しているが、後年にリーはブランチ・デュボアを演じたことは「倒れそうで、気が狂わんばかりだった」と振り返っている<ref>Holden 1989, pp. 312–313.</ref>。 |
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=== 病気との闘い === |
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1951年にリーとオリヴィエはシェイクスピアの戯曲『[[アントニーとクレオパトラ]]』と[[ジョージ・バーナード・ショー|バーナード・ショー]]の戯曲『[[シーザーとクレオパトラ]]』で共演し、リーはどちらの作品でも[[クレオパトラ7世|クレオパトラ]]を演じた。日替わりで上演された両作品は好評を博した。リーとオリヴィエはこれらの舞台をニューヨークでも上演することを決め、1952年のシーズンにブロードウェイのジークフェルド・シアター{{enlink|Ziegfeld Theatre|s=off}}で開幕した。ニューヨークでの公演もおおむね好評だったが、評論家ケネス・タイナンは、リーが二流の才能しか持っていないせいで、オリヴィエの才能まで貶められてしまっていると激しく非難した。タイナンの痛烈な批判はリーの精神状態に大きな傷を与えた。リーは失敗に怯え、素晴らしい演技をすることだけに汲々となってしまった。リーはタイナンの批判のみを思い悩み、他の批評家からの好意的な評価は頭から消え去っていた<ref>Edwards 1978, pp. 196–197.</ref>。 |
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1953年1月にリーは、[[ピーター・フィンチ]]と共演する『[[巨象の道]]』の撮影のために[[セイロン (ドミニオン)|セイロン]]を訪れた。しかしながら、撮影開始後間もなくしてリーが神経症の発作を起こしたために、製作会社の[[パラマウント映画]]はリーを降板させ、代役に[[エリザベス・テイラー]]を起用した。オリヴィエはイギリスの自宅にリーを連れ戻したが、リーの精神状態は混乱しており、オリヴィエに向かってフィンチが好きになった、肉体関係を持ってしまったと繰り返した。その後、リーの状態は数カ月をかけて徐々にではあるが安定していったとはいえ、『巨象の道』の降板を巡る一連の騒動のためにオリヴィエの友人たちがリーが問題を抱えていることを知った。[[デヴィッド・ニーヴン]]はリーが「完全に、本当に完全に狂っていた」と語り、ノエル・カワードは日記に「事態は最悪だ。(リーは)1948年あたりからどんどんおかしくなっていった」と驚きをもって記している<ref>Coleman 2005, pp. 254–263.</ref>。リーとフィンチの不倫は1948年に始まり、波はあったが数年間関係が続いていた。そしてリーの精神状態の悪化によって自然消滅していた<ref name=Brooks>Brooks, Richard. [http://www.timesonline.co.uk/tol/news/uk/article552527.ece "Olivier Worn Out by Love and Lust of Vivien Leigh".] ''The Sunday Times'', 7 August 2005. Retrieved: 27 July 2008.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref>。 |
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[[File:George Cukor, Vivien Leigh, Laurence Olivier.jpg|left|upright|200px|thumb|ロサンゼルスの空港で、映画監督ジョージ・キューカーに出迎えられたリーとオリヴィエ。1957年2月撮影。]] |
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1953年にはリーの精神状態は安定し、舞台作品『眠りの森の王子』{{enlink|The Sleeping Prince (play)|The Sleeping Prince|i=on|s=off}}でオリヴィエと共演した。1955年のシーズンには2人で[[ストラトフォード=アポン=エイヴォン]]でシェイクスピアの戯曲『[[十二夜]]』、『[[マクベス (シェイクスピア)|マクベス]]』、『[[タイタス・アンドロニカス]]』に出演している。どの公演も満員になり高い評価を得て、リーの精神状態も安定しているように見えていた。『十二夜』の舞台監督[[ジョン・ギールグッド]]は当時「……たぶん、私はこの舞台を成功させることが出来るのだろう。彼(オリヴィエ)が可愛い奥方(リー)- 彼女は彼よりも聡明だが、生まれながらの女優というわけではない - の小心さと精神の安定に気を配ってくれるのであればだが。彼はあまりに自信満々だが……、彼女は何事に対してもまったく自信が持てていない。演技が過剰でないかどうかを恐れ、行き過ぎたともいえる準備なしには何もできないと思い込んでいる」と記している<ref>Coleman 2005, p. 271.</ref>。リーは1955年に[[アナトール・リトヴァク]]が監督する映画作品『[[愛情は深い海のごとく (1955年の映画)|愛情は深い海のごとく]]』に出演した。この作品の共演者[[ケネス・モア]]は、撮影の間中リーとの相性の悪さを感じていた<ref> More 1978, pp. 163–167.</ref>。 |
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1956年にリーは、ノエル・カワードの戯曲『サウス・シー・バブル』{{enlink|South Sea Bubble (play)|South Sea Bubble|i=on|s=off}}の主役を演じる予定だったが、妊娠していることが判明して役を降板した。折しもオリヴィエが『[[王子と踊り子]]』で共演する[[マリリン・モンロー]]をロンドンの[[ヒースロー空港]]で夫婦そろって出迎えた際に発表されたため、リーの虚言ではないかと一部で囁かれた。リーは身重の体でスタジオに顔を見せていたが、数週間後に流産し、数ヶ月にわたる鬱期に入ってしまった。リーはヨーロッパ各地で『タイタス・アンドロニカス』を巡業上演するオリヴィエと合流したが、この巡業はオリヴィエや一座の団員に対する、リーの絶え間ない暴言のために悲惨なものとなった。一座はロンドンへと戻り、いまだリーに大きな影響力を持っていた前夫ホルマンが、リーが落ち着くまでオリヴィエに協力して面倒を見た。 |
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1958年にはリーとオリヴィエの結婚生活は破綻していた。リーは自身の精神状態を理解していた俳優ジョン・メリヴェールと関係を持つようになり、メリヴェールもリーの面倒を見ていくことをオリヴィエに約束した。1959年にリーはノエル・カワードの喜劇『{{lang|en|Look After Lulu}}』に出演し、高く評価された。[[タイムズ|タイムズ紙]]はリーを「美しく、快いまでに無愛想だ。彼女はどの場面でも女王のように舞台を支配していた」と評している<ref>Edwards 1978, pp. 219–234, 239.</ref>。 |
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1960年にリーとオリヴィエは正式に離婚した。その後まもなくオリヴィエは20歳以上年下の女優[[ジョーン・プロウライト]]と3度目の結婚をしている。オリヴィエの伝記作家は、オリヴィエがリーの病気のために何年も精神的に追い詰められていたとしている。「いつも彼女(リー)は躁鬱という不気味で恐ろしい怪物を飼っており、極めて危険で張り詰めた精神状態を繰り返していた。彼女は独特の抜け目のなさを備えていて、ほとんどの人間に対しては自分の精神状態をうまく隠していた。だけど私に対しては別だった。私が彼女に辛く当たることは考えてもいなかっただろうから<ref name="Laurence"/>」。 |
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=== 最晩年 === |
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メリヴェールはリーの精神状態に好影響を与えることができ、リーも安らいだ暮らしを送っていたが、アメリカのジャーナリストの{{仮リンク|ラディ・ハリス|en|Radie Harris}}に「ラリー(オリヴィエ)と一緒にいた時間はあっという間でしたけれど、彼のいない今の暮らしはなんと長く感じることでしょう」と漏らしている<ref>Walker 1987, p. 290.</ref>。リーの最初の夫であるホルマンも、かなりの時間をリーのために費やしていた。メリヴェールは、1961年7月から1962年5月にかけてオーストラリア、ニュージーランド、[[ラテンアメリカ|中南米]]を回るリーの巡業に同行している。相手役オリヴィエのいない舞台だったが、この巡業は好評価を得てリーを安心させた。相変わらず鬱の発作に悩まされていたとはいえリーは舞台活動を続け、1963年には[[ブロードウェイ・シアター]]で上演されたミュージカル『トヴァリッチ』{{enlink|Tovarich (musical)|Tovarich|i=on|s=off}}で、[[ジャン=ピエール・オーモン|ジャン・ピエール・オーモン]]らと共演し[[トニー賞]]の[[トニー賞 ミュージカル主演女優賞|ミュージカル主演女優賞]]を受賞した。映画作品では、1961年の『[[ローマの哀愁]]』、1965年の『[[愚か者の船]]』に出演している。 |
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リーは1967年5月に、[[マイケル・レッドグレイヴ]]と共演する[[エドワード・オールビー]]の戯曲『デリケート・バランス』{{enlink|A Delicate Balance (play)|A Delicate Balance|i=on|s=off}}のために舞台稽古を開始したが、結核が再発してしまった<ref>[https://news.google.com/newspapers?nid=1870&dat=19670709&id=NXIeAAAAIBAJ&sjid=nckEAAAAIBAJ&pg=3858,1664232 "Actress Vivien Leigh, Who Achieved Fame a Scarlett O'Hara, Dies at 53."] ''Daytona Beach Sunday News-Journal'', 9 July 1967.</ref>。リーは数週間の休養をとって回復したかのようにみえた。1967年7月7日の夜にメリヴェールは舞台に出演するためにリーを残して自宅を出て、公演を終えたメリヴェールが帰宅した深夜にはすでにリーは寝室で眠りについていた。そして、およそ30分後に寝室に入ったメリヴェールが、床に崩れ落ちて死亡しているリーを発見した。リーはおそらくトイレに行こうとしてベッドから起き上がったときに死亡したとみられ、その肺には大量の血がたまっていた<ref>Edwards 1978, pp. 304–305.</ref>。メリヴェールは、[[前立腺癌]]の治療で近くの病院に入院していたオリヴィエに連絡をとった。すぐさまリーとメリヴェールの自宅へと向かったオリヴィエは、リーをベッドに横たえようとしているメリヴェールの姿を見たときに、その自叙伝で「このうえなく悲痛」な気持ちになったと記している。オリヴィエは「その場に立ち尽くし、かつて私たちの間で起こってしまった数々の諍いごとに対して許しを乞うた」<ref>Olivier 1982, pp. 273–274.</ref>。リーの公式死亡記録には7月8日と記載されているが、7月7日を死亡日としている資料もある。 |
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リーはロンドンのゴルダーズ・グリーン{{enlink|en:Golders Green Crematorium|s=off}}で荼毘に付され、その遺灰はリーの希望でイングランド南東部にあたる[[イースト・サセックス]]のブラックボーイズ近くにあるティッカレジ・ミル湖に撒かれた。そして追悼式がロンドンのセント・マーティン=イン=ザ=フィールズ教会{{enlink|St Martin-in-the-Fields|s=off}}で挙行され、リーに捧げる追悼文を名優[[ジョン・ギールグッド]]が読み上げている。アメリカでも[[南カリフォルニア大学]]がリーを「南カリフォルニア大学図書館の擁護者」の最初の女優として顕彰し、出演した映画から集めたリーのフィルムを上映する追悼式を開いた。この追悼式にはジョージ・キューカーら、生前のリーとつながりのあった人々から言葉が寄せられた<ref>Edwards 1978, p. 306.</ref>。 |
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== 評価 == |
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[[File:Vivien Leigh Gone Wind3.jpg|thumb|200px|『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』(1939年)では[[スカーレット・オハラ]]を演じた。]] |
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リーは当時もっとも容貌が美しい女優の一人だとみなされており、監督たちはリーの美しさを強調するような作品を撮った。その美しさが逆に真剣な演技の妨げになるのではないかと尋ねられたリーは、「そのようなことはまったくの筋違いであって、あなたは演技がどういうものかをおそらく分かっていないのでしょう。私は演技を真剣に考えています。もし自分とは似ても似つかない役を演じることになって、その役柄に相応しい容貌になりたいと望むことでもあれば、美貌が不利な条件となることがあるかも知れません<!-- 【誤訳の可能性あり】 "People think that if you look fairly reasonable, you can't possibly act, and as I only care about acting, I think beauty can be a great handicap, if you really want to look like the part you're playing, which isn't necessarily like you." -->」と応えている<ref name = "ActorTalk"/>。 |
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映画監督のジョージ・キューカーは「完璧な女優。美しさが邪魔をしているくらい」とリーを評し<ref>Shipman 1988, p. 126.</ref>、ローレンス・オリヴィエは「彼女(リー)を女優として正当に評価すべきだ。彼女が持つあまりの美しさのせいで批評家たちの判断はすっかり歪められてしまっている」と批評家たちに苦言を呈している<ref>Coleman 2005, p. 227.</ref>。劇作家ガーソン・ケニンも同様の考えを持っており、リーのことを「あまりに美しく魅力的な女性は、女優として圧倒的な成果を挙げたとしても目立たなくなってしまう。とてつもない美貌を持つ女優が役者として大成することは滅多にない。美しい女優はそれだけで売り物になるからだ。だがヴィヴィアンは違う。意欲があって不屈の精神をもち、真剣に演技に取り組んでいる。見事なまでに素晴らしい」と表現している<ref>Shipman 1988, p. 125.</ref>。 |
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リーは「できる限りさまざまな役」を演じたいと考えており、自身の能力に対する不安感を払いのけるためにさまざまな研鑽を積んでいた。リーは演劇のなかで喜劇がもっとも難しいと信じていた。それはリーが、喜劇には極めて正確なタイミングでの演技とコメディに相応しい大げさな台詞回しが要求されると考えていたためだった。リーのキャリア後期では、ノエル・カワードの喜劇からシェイクスピアの悲劇まで幅広い役柄を演じきっている。リーは「人を笑わせるよりも泣かせることのほうが遥かに簡単」と考えていた<ref name = "ActorTalk"/>。 |
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リーはそのキャリア初期から母国イギリスでは高く評価されていたが、世界的にみると『風と共に去りぬ』の大ヒットまではほぼ無名の女優だった。1939年12月にニューヨーク・タイムズが「リーが演じるスカーレットの不条理な言動が、間接的にリーの演技力を見せつけたといえる。彼女はまさにこの役を演じるために生まれてきた女優であり、他の女優がこの役を演じることなど想像もできない」という記事を掲せている<ref>Haver 1980, p. 305.</ref>。リーの人気は高くなっていき、スカーレットに扮したリーの写真が[[タイムズ]]の表紙を飾っている。映画批評家[[アンドリュー・サリス]]は、1969年に『風と共に去りぬ』の成功はリーをスカーレット役に抜擢するという「素晴らしい配役」によるところが大きいとしており<ref> Ebert, Roger. [http://www.rogerebert.com/cast-and-crew/vivien-leigh "Vivien Leigh."] ''Roger Ebert.com'' quoting Andrew Sarris, ''The American Cinema: Directors and Directions 1929–1968''. Retrieved: 6 January 2006.</ref>、1998年にも「彼女(リー)は我々の心の中に生き続けている。動かない存在としてではなく、生き生きとして活力に満ちた女優として我々の記憶に残っている」と記している<ref>[http://www.nytimes.com/books/98/05/03/reviews/980503.03woodlt.html and "Reviews on the Web", quoting Andrew Sarris in ''You Ain't Heard Nothin' Yet, The American Talking Film: History & Memory, 1927–1949''."] ''The New York Times'', 3 May 1998. Retrieved: 11 January 2006.</ref>。アメリカの映画批評家{{仮リンク|レナード・マーティン|en|Leonard Maltin}}は1998年に、『風と共に去りぬ』は映画史上もっとも素晴らしい作品の一つであり、リーが「この上ない演技」でスカーレットを演じたと評している<ref>Maltin 1997, p. 522.</ref>。 |
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リーが舞台版の『欲望という名の電車』でみせた演技は、イギリスの作家{{仮リンク|フィリス・ハートノール|en|Phyllis Hartnoll}}が「これまでのリーの演技のなかでも、女優としてのもっとも優れた力量を見せつけた」とし、リーがイギリスの劇場にもっとも相応しい女優の一人であったことが、長きにわたって語り継がれるだろうと評価している<ref>Hartnoll 1972, p. 301.</ref>。アメリカの映画批評家[[ポーリン・ケイル]]は、リーが舞台版に続いて主役を演じた映画版の『欲望という名の電車』でのリーとマーロン・ブランドの演技を「これまで上映された映画の中でもっとも素晴らしい」とし、リーについて「心の底からの恐怖心と哀れみをかきたてる稀に見る演技」だったとしている<ref>Kael 1982, p. 564.</ref>。 |
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ケネス・タイナンは、1955年の舞台作品『[[タイタス・アンドロニカス]]』でオリヴィエ演じるタイタス・アンドロニカスの娘役ラヴィニアを演じたリーの演技を酷評し「夫を殺されてその死体の上で陵辱されると知らされたときのラヴィニア(リー)の表情は、(夫の死体の上で陵辱されるのではなく)発泡ゴムの上にしてくれないかしらと軽く苛立っているようなものだ」とコメントした<ref>Ellis, Samantha. [http://www.guardian.co.uk/stage/2003/jun/25/theatre.samanthaellis "Peter Brook's Titus Andronicus, August 1955".] ''The Guardian'', 23 June 2003 (quoting Kenneth Tynan). Retrieved: 7 January 2005.</ref>。タイナンは1955年の舞台作品『マクベス』でマクベス夫人役を演じたリーの役に対する解釈を否定的に評価した批評家の一人で、リーの演技が貧弱であり、レディ・マクベス役に必要な激情に欠けていると評した。しかしながらタイナンはリーの死後に、批評家としてのキャリア初期の自分の批評が「あまりにもひどい間違いだった」と前言を撤回している。タイナンは、リーのマクベス夫人役に対する解釈がマクベスを魅了する性的魅力にあふれたもので「それまで演じられていた傲慢で気性の激しいマクベス夫人よりも、より説得力を感じさせられる」と考えるようになっていった。リーの死後間もなくしてから演劇批評家たちを対象とした調査が行われ、複数の批評家がリーのマクベス夫人の演技を、舞台で成し遂げられたもっとも優れた演技だったと称している<ref>Taylor 1984, p. 99.</ref>。 |
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リーが死去して2年後の1969年に、「俳優たちの教会」として知られるロンドンのコヴェント・ガーデン広場にあるセント・ポール教会{{enlink|en:St Paul's, Covent Garden|s=off}}に、リーを記念する飾り額が設置された。1985年にリーの切手が、[[アルフレッド・ヒッチコック]]、[[チャーリー・チャップリン]]、[[ピーター・セラーズ]]、[[デヴィッド・ニーヴン]]とともに、「イギリス映画年」の記念切手として発行された<ref>Walker 1987, pp. 303, 304.</ref>。また、2013年4月にもリーの生誕100周年のイギリスの記念切手が発行されている。王族以外の人物がイギリスの切手の図案に複数回採用されるのは稀なことだった。 |
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1999年にロンドンの[[大英図書館]]が、ローレンス・オリヴィエが暮らしていた邸宅から紙の資料を買い取った。「ローレンス・オリヴィエ文書 ({{lang|en|The Laurence Olivier Archive}})」として知られるこのコレクションには、リーがオリヴィエに送った大量の手紙など、リーに関する記録も多く含まれている。また、リーの手紙、写真、契約書、日記などを、リーの娘であるスーザン・ファーリントンが保管している。1994年に[[オーストラリア国立図書館]]が、「L & V O」というイニシャルが入った写真アルバムを購入した。このアルバムはオリヴィエとリーの夫妻が所有していたと考えられており、1948年にオーストラリアを巡業したときの2人の写真573枚が収められていた。後にこのアルバムはオーストラリアの演劇の歴史的資料の一つとして扱われるようになった<ref>[http://www.nla.gov.au/pub/gateways/archive/14/14.html#laurieviv "Laurence Olivier/Vivien Leigh."] ''Gateways: National Library of Australia''. ISSN 1443-0568, #14, March 1995. Retrieved: 7 January 2006.</ref>。2013年にヴィヴィアン・リーの書簡、日記、写真、解説が付けられた映画、舞台台本、そして生涯に獲得した多くの賞品などの一大コレクションを、ロンドンの[[ヴィクトリア&アルバート博物館]]が購入している<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-23692733 "Vivien Leigh archive acquired by V&A."] ''BBC News'', 14 August 2013.</ref>。 |
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== 受賞 == |
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! 年度 |
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! 賞 |
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! 作品名 |
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| 1939年 |
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| [[アカデミー主演女優賞|アカデミー賞 主演女優賞]] (受賞)<ref name="awardsdatabase.oscars.org">[http://awardsdatabase.oscars.org/ampas_awards/DisplayMain.jsp?curTime=1211672277559 "Awards won by Vivien Leigh".] ''Academy Awards Database (Oscars.org)''. Retrieved: 24 May 2008.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref><br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞]](受賞)<ref>[http://www.nyfcc.com/awards.php?year=1939 "1939 Awards."] ''New York Film Critics Circle''. Retrieved: 24 May 2008.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref> |
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| 『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』 |
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| 1951年 |
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| アカデミー賞 主演女優賞 (受賞)<ref name="awardsdatabase.oscars.org"/><br />[[英国アカデミー賞 主演女優賞|英国アカデミー賞 最優秀英国女優賞]](受賞)<ref name=BFI>[http://ftvdb.bfi.org.uk/sift/title/64816?view=event "A Streetcar Named Desire".] ''British Academy of Film and Television Arts Awards.'' Retrieved: 22 May 2008.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref><br />[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|ゴールデングローブ賞 ドラマ部門主演女優賞]](ノミネート)<ref>[http://www.goldenglobes.org/browse/member/30406 "Golden Globe Awards won by Vivien Leigh."] ''Hollywood Foreign Press Association''. Retrieved: 24 May 2008.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref><br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞]](受賞)<ref>[http://www.nyfcc.com/awards.php?year=1951 "1951 Awards."] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20100907075421/http://www.nyfcc.com/awards.php?year=1951 |date=2010年9月7日 }} ''New York Film Critics Circle''. Retrieved: 24 May 2008.</ref><br />[[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞]](受賞)<ref name=BFI/> |
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| 『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』 |
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| 1963年 |
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| [[トニー賞 ミュージカル主演女優賞]](受賞)<ref name="名前なし-pQWq-2">[http://www.tonyawards.com/p/tonys_search "Vivien Leigh."] ''Tony Awards Database''. Retrieved: 24 May 2008.{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref> |
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| 『トヴァリッチ』 |
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| 1965年 |
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| フィルム・デイリー紙 助演女優賞(受賞)<ref name="名前なし-pQWq-2"/> |
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| 『愚か者の船』 |
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|1999年 |
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|[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|AFI]] 映画スターベスト100 第16位<ref>{{Cite web |url=https://www.afi.com/afis-100-years-100-stars/ |title=AFI's 100 YEARS...100 STARS |access-date=2023-06-25 |publisher=American Film Institute}}</ref> |
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|} |
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== 出演作品 == |
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{{see also|[[:en:Vivien Leigh chronology of stage and film performances]]}} |
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=== 出演映画 === |
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{| class="wikitable" |
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!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考 |
! width=50|公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考 |
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| rowspan="4" |1935年 |
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|rowspan="4"|1935|| 紳士協定<br />''Gentleman's Agreement || フィル・スタンリー || |
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| 万事上向き<br />''[[:en:Things Are Looking Up (film)|Things Are Looking Up]]''|| 女学生 || 端役。クレジットなし。日本未公開。<br />英国でビデオのみ発売。<br />1934年作品と書かれている本もある<ref>{{Cite book|title=『「風と共に去りぬ」ヴィヴィアン・リー』|date=1973年9月6日初版発行|year=|publisher=芳賀書店|author=筈見有弘・福田千秋}}</ref><ref>{{Cite book|title=Vivien Leigh|date=|year=1984|publisher=Elm Tree Books/Hamish Hamilton Ltd|author=John Russell Taylor|isbn=0-241-11333-4}}</ref>。 |
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| 田舎紳士<br />''[[:en:The Village Squire|The Village Squire]]''|| ローズ ||リーは2作目にして主演女優<ref name=":0">{{Cite book|title=『ヴィヴィアン・リー』|date=1985年5月25日初版発行|year=|publisher=文藝春秋|author=アン・エドワーズ}}</ref><br />日本未公開。全世界でビデオ・DVD発売なし。 |
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| 見つめて笑え<br /> ''Look Up And Laugh || マージョリー || |
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| 紳士協定<br />''[[:en:Gentlemen's Agreement (film)|Gentlemen's Agreement]]''<ref>{{Cite web|url=https://www.bfi.org.uk/films-tv-people/4ce2b795de134|title=Gentlemen's Agreement (1935)|accessdate=2020年6月7日|publisher=英国映画協会(BFI)}}{{リンク切れ|date=2024年5月}}</ref>|| フィル・スタンリー ||リーは主演女優。日本未公開。<br />[[英国映画協会]]によればフィルムは現存していない<ref>{{Cite web|url=https://www.filmaffinity.com/uk/film358443.html|title=Gentlemen's Agreement|accessdate=2020年6月14日|publisher=filmaffinity|quote=}}</ref>。 |
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| 探しだされるもの<br />''Things Are Looking Up || 少女 || クレジットなし |
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| 見つめて笑え<br />''[[:en:Look Up and Laugh|Look Up And Laugh]]''|| マージョリー・ベルファー ||脇役。日本未公開。日本ではビデオ・DVD発売なし。 |
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| 田舎紳士<br />''The Village Squire || ローズ || |
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|rowspan="3"|1937|| [[無敵艦隊 (1937年の映画)|無敵艦隊]] <br />''Fire Over England || シンシア || |
|rowspan="3"|1937年|| [[無敵艦隊 (1937年の映画)|無敵艦隊]] <br />''Fire Over England'' || シンシア ||脇役。 |
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| 間諜<br />''[[:en:Dark Journey (film)|Dark Journey]] || マ |
| [[間諜 (1937年の映画)|間諜]]<br />''[[:en:Dark Journey (film)|Dark Journey]]'' || マドレーヌ・ゴダール || |
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|[[茶碗の中の嵐]]<br />''[[:en:Storm in a Teacup (film)|Storm in a Teacup]]''|| ヴィクトリア・ガウ<br />(ヴィッキー) |
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|rowspan="2"|1938 |
|rowspan="2"|1938年|| [[響け凱歌]] <br />''A Yank at Oxford'' || エルザ ||脇役。『哀愁』のロバート・テイラーとの初共演。<br />日本ではビデオ・DVD発売なし。 |
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|[[セント・マーティンの小径]]<br />''[[:en:Sidewalks of London|St. Martins Lane]]''|| リビー ||日本未公開。 |
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|1939|| [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]<br />''Gone with the Wind || スカーレット・オハラ || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞 |
|1939年|| [[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]<br />''Gone with the Wind'' || スカーレット・オハラ || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞<br /> [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞]] 受賞<br /> [[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]演技賞 受賞 |
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|rowspan="2"|1940年 || 21日間<br />''[[:en:21 Days|Twenty-One Days]]'' || ワンダ || 1937年撮影。日本未公開。2003年1月5日にNHK衛星第2で放送<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/timemachine/index.html?date=2003-01-05&time=2:53&channel=3#|title=『番組タイムマシーン/NHKアーカイブス』ミッドナイト映画劇場「21日間」|accessdate=2020年4月22日|publisher=NHK}}</ref>。<br />日本ではビデオ・DVD発売なし。 |
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|rowspan="2"|1940 || 21日間<br />''[[:en:21 Days|Twenty-One Days]] || ワンダ || |
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| [[哀愁]]<br />''Waterloo Bridge || マイラ || |
| [[哀愁 (映画)|哀愁]]<br />''Waterloo Bridge'' || マイラ || |
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| 1941 |
| 1941年|| [[美女ありき]]<br />''That Hamilton Woman'' || [[エマ・ハミルトン]] || |
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| 1945 |
| 1945年|| [[シーザーとクレオパトラ]]<br />''Caesar and Cleopatra'' || [[クレオパトラ]] || |
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| 1948年||[[アンナ・カレニナ (1948年の映画)|アンナ・カレニナ]]<br />''Anna Karenina'' || アンナ・カレニナ || |
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| 1951 |
| 1951年|| [[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]<br />''A Streetcar Named Desire'' || ブランチ・デュボア || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞<br /> [[ヴェネチア国際映画祭]] 女優賞 受賞<br /> [[英国アカデミー賞 主演女優賞]] 受賞 |
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| 1955 |
| 1955年||[[愛情は深い海のごとく (1955年の映画)|愛情は深い海のごとく]]<br />''The Deep Blue Sea''|| ヘスター・コリヤー ||全世界でビデオ・DVD発売なし。 |
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| 1961 |
| 1961年|| [[ローマの哀愁]] <br />''The Roman Spring of Mrs. Stone'' || カレン・ストーン || |
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| 1965 |
| 1965年|| [[愚か者の船]]<br />''Ship of fool'' || メアリー・ドレッドウェル || フィルム・デイリー紙 助演女優賞 受賞 |
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=== 主なインタビュー収録 === |
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* Small World:( [[エドワード・R・マロー]] ''[[:en:Edward Roscoe Murrow|Edward Roscoe Murrow]]'' がホスト。[[サミュエル・ゴールドウィン]] ''[[:en:Samuel Goldwyn|Samuel Goldwyn]]'' ・[[ケン・タイナン]] ''[[:en:Ken Tynan|Ken Tynan]]'' と共演 )([[1958年]]12月) |
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== |
== 出典 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== アカデミー賞 === |
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=== 脚注 === |
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;受賞 |
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:[[第12回アカデミー賞|1940年]] [[アカデミー主演女優賞]]:『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』 |
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=== 参考文献 === |
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:[[第24回アカデミー賞|1952年]] アカデミー主演女優賞:『[[欲望という名の電車 (映画)|欲望という名の電車]]』<ref>なお、この式典にリー本人は出席しておらず、代理人として[[グリア・ガーソン]]が受賞している。</ref> |
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{{Refbegin}} |
|||
* Berg, A. Scott. ''Goldwyn''. London: Sphere Books, 1989. ISBN 0-7474-0593-X. |
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* Briggs, Asa, ed. ''A Dictionary of Twentieth Century World Biography.'' London: Book Club Associates, 1992. ISBN 978-0-19211-679-6. |
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* Coleman, Terry. ''Olivier, The Authorised Biography''. London: Bloomsbury Publishing, 2005. ISBN 0-7475-8306-4. |
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* Edwards, Anne. ''Vivien Leigh, A Biography''. London: Coronet Books, 1978 edition. ISBN 0-340-23024-X. |
|||
** アン・エドワーズ『ヴィヴィアン・リー』[[清水俊二]]訳、[[文藝春秋]] 1980年、[[文春文庫]] 1985年 |
|||
* Fury, David. ''Maureen O'Sullivan: No average Jane''. Minneapolis, Minnesota: Artist's Press, 2006, ISBN 0-924556-06-4. |
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* Haver, Ronald. ''David O. Selznick's Hollywood''. New York: Bonanza Books, 1980. ISBN 0-517-47665-7. |
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* Hartnoll, Phyllis, ''The Concise Companion to the Theatre''. Peachtree City, Georgia, USA: Omega Books, 1972. ISBN 1-85007-044-X. |
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* Holden, Anthony. ''Olivier''. London: Sphere Books Limited, 1989. ISBN 0-7221-4857-7. |
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* Kael, Pauline. ''5001 Nights At The Movies''. Minneapolis, Minnesota: Zenith Books, 1982. ISBN 0-09-933550-6. |
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* Maltin, Leonard. ''1998 Movie and Video Guide''. New York: Signet Books, 1997. ISBN 978-0-45225-993-5. |
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* McGilligan, Patrick. ''Alfred Hitchcock, A Life in Darkness and Light''. Chichester, West Sussex, UK: Wiley Press, 2003. ISBN 0-470-86973-9. |
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* More, Kenneth. ''More or Less''. London: Hodder & Staughton, 1978. ISBN 0-240-22603-X. |
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* Olivier, Laurence. ''Confessions Of an Actor''. New York: Simon & Schuster, 1982. ISBN 0-14-006888-0. |
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* Selznick, David O.; Rudy Behlmer, editor. ''Memo from David O. Selznick''. New York: Modern Library, 2000. ISBN 0-375-75531-4. |
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* Shipman, David, ''Movie Talk''. New York: St Martin's Press, 1988. ISBN 0-312-03403-2. |
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* Taylor, John Russell. ''Vivien Leigh''. London: Elm Tree Books, 1984. ISBN 0-241-11333-4. |
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* Vickers, Hugo. ''Vivien Leigh: A Biography''. London: Little, Brown and Company, 1988 edition. ISBN 978-0-33031-166-3. |
|||
* Walker, Alexander. ''Vivien, The Life of Vivien Leigh''. New York: Grove Press, 1987. ISBN 0-8021-3259-6. |
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{{Refend}} |
|||
== 日本語関連文献 == |
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=== 英国アカデミー賞 === |
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*『ヴィヴィアン・リー:風と共に去りぬ』[[筈見有弘]]ほか編(シネアルバム17、[[芳賀書店]]、1973年) |
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;受賞 |
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*『情熱の美女 ヴィヴィアン・リー』SCREEN特別編集([[近代映画社]]、2005年) |
|||
:[[1953年]] [[英国アカデミー賞 主演女優賞|主演女優賞]]:『欲望という名の電車』 |
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== 関連項目 == |
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=== ゴールデングローブ賞 === |
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*[[双極性障害]] |
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;ノミネート |
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:[[1953年]] [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞 (ドラマ部門)]]:『欲望という名の電車』 |
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=== ニューヨーク映画批評家協会賞 === |
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;受賞 |
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:[[第5回ニューヨーク映画批評家協会賞|1939年]] [[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞|主演女優賞]]:『風と共に去りぬ』 |
|||
:[[第17回ニューヨーク映画批評家協会賞|1951年]] 主演女優賞:『欲望という名の電車』 |
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=== ヴェネツィア国際映画祭 === |
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;受賞 |
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:[[1951年]] [[ヴェネツィア国際映画祭 女優賞|女優賞]]:『欲望という名の電車』 |
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=== トニー賞 === |
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;受賞 |
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:[[1963年]] [[トニー賞 ミュージカル主演女優賞|ミュージカル主演女優賞]]:『[[:en:Tovarich (musical)|Tovarich]]』 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}}{{Reflist}} |
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== 日本語文献 == |
|||
*『情熱の美女ヴィヴィアン・リー』 SCREEN特別編集、[[近代映画社]] 2005年 |
|||
*アン・エドワーズ、[[清水俊二]]訳 『ヴィヴィアン・リー』[[文藝春秋]] 1980年、[[文春文庫]] 1985年 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commons|Vivien Leigh}} |
{{commons&cat|Vivien Leigh|Vivien Leigh}} |
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* {{allcinema name|37927|ヴィヴィアン・リー}} |
* {{allcinema name|37927|ヴィヴィアン・リー}} |
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* {{ |
* {{Kinejun name|509|ヴィヴィアン・リー}} |
||
* [http://www.biography.com/search/article.do?id=9378241 Vivien Leigh]{{en icon}} |
|||
* {{amg name|41659|Vivien Leigh}} |
* {{amg name|41659|Vivien Leigh}} |
||
* {{ |
* {{IMDb name|46|Vivien Leigh}} |
||
* {{IBDB name|49426|Vivien Leigh}} |
|||
* [http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo0008.html IVC 淀川長治『アンナ・カレニナ』 解説ページ] |
|||
* {{Screenonline name|id=488753|name=Vivien Leigh}} |
|||
* [http://nla.gov.au/nla.pic-an11334994 Australian National Library, photographs from Australian tour] |
|||
{{アカデミー賞主演女優賞}} |
|||
{{英国アカデミー賞主演女優賞}} |
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{{ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞}} |
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{{ヴェネツィア国際映画祭 女優賞}} |
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{{Normdaten}} |
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{{アカデミー賞主演女優賞 1928-1940}} |
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{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}} |
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2024年6月4日 (火) 09:59時点における最新版
Vivien Leigh, Lady Olivier ヴィヴィアン・リー | |||||||||||||||||||||||||||||||
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『風と共に去りぬ』(1939)より | |||||||||||||||||||||||||||||||
本名 | Vivian Mary Hartley | ||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1913年11月5日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
没年月日 | 1967年7月8日(53歳没) | ||||||||||||||||||||||||||||||
出生地 | イギリス領インド帝国・西ベンガル州ダージリン | ||||||||||||||||||||||||||||||
死没地 | イングランド・ロンドン・ベルグレイヴィア | ||||||||||||||||||||||||||||||
国籍 | イギリス | ||||||||||||||||||||||||||||||
身長 | 161 cm[1] | ||||||||||||||||||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||||||||||||||||||
ジャンル | 舞台、映画 | ||||||||||||||||||||||||||||||
活動期間 | 1933年 - 1967年 | ||||||||||||||||||||||||||||||
配偶者 |
ハーバート・リー・ホルマン(1932年 - 1940年) ローレンス・オリヴィエ (1940年 - 1960年) | ||||||||||||||||||||||||||||||
著名な家族 | スーザン・ファーリントン(娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||||||||||||||
『風と共に去りぬ』(1939年) 『哀愁』(1940年) 『欲望という名の電車』(1951年) | |||||||||||||||||||||||||||||||
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ヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh, Lady Olivier、1913年11月5日 - 1967年7月8日)は、イギリスの女優。本名はヴィヴィアン・メアリ・ハートリー(Vivian Mary Hartley)。英領インド帝国の西ベンガル州出身。
1939年の映画『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役と1951年の映画『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワ役でアカデミー主演女優賞を受賞した。後者では、1949年にロンドンのウェスト・エンドで上演された舞台版に引き続いて主演を演じた。また、1963年のブロードウェイ・シアターで上演されたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich) で、トニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞している。2度の結婚歴と離婚歴があり、その一人はローレンス・オリヴィエである[2]。
演劇学校を辞めた後の1934年〜35年に4本の映画に出演し、その後舞台『美德の仮面』で映画プロデューサーのアレクサンダー・コルダに認められ、1937年の映画『無敵艦隊』に出演した[3]。映画女優として有名となった後も活動の主軸を舞台におき、30年にわたる舞台女優としての活動で幅広い役柄を演じた。ノエル・カワードやジョージ・バーナード・ショウらの戯曲をはじめ、『ハムレット』におけるオフィーリア、『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラ、『ロミオとジュリエット』のジュリエット、『マクベス』のマクベス夫人や、ジャン・アヌイがソフォクレスの「アンティゴネ」を翻案したアンチゴーヌなどを演じた。
当時の一般大衆からはイギリスの名優ローレンス・オリヴィエの2度目の妻としての印象を強くもたれていた。オリヴィエとは多くの舞台作品で共演し、映画作品でも3度共演している。結婚生活は1940年から1960年まで続いたが、そのころから徐々に双極性障害に悩まされるようになり[4]、女優としての仕事量の減少を経験した時期もあった。また、1940年代半ばごろからは慢性の結核の発作に見まわれるようになり、最終的にはこの慢性結核で死去している。
1999年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表した「映画スターベスト100」では女優部門の16位に選ばれた。日本では、2000年の「キネマ旬報20世紀の映画スター」の外国女優で4位に選ばれている。
生涯
[編集]前半生
[編集]リーは1913年11月5日に、イギリス領インド帝国ダージリンのセント・ポール・スクールの寄宿舎で生まれた。東インド会社が解散し英国王室が支配するインドに10代で乗り込み、最初は小間使いから始め、株式ブローカーとして財産をつくることに成功した新興成金の父親アーネスト・ハートリーと母の代からインドに住まう母親のガートルード・メアリ・フランセスとの間に生まれた一人娘で[5][6]、ヴィヴィアン・メアリ・ハートリーと名づけられた[7]。アーネストとガートルードは1912年にロンドンのケンジントンで結婚し、その後イギリス領インド帝国に駐留していた[8]。
近年、リーの先祖の起源についての憶測が飛び交っている[9]。リーの伝記作家ヒューゴー・ヴィッカーズは、母親のガートルードがアルメニア人かインド人の血をひいているかもしれないと明かし、それがリーの持つ「暗い東洋の美しさ」の説明になるだろうと書いている[9]。
1917年にアーネストはバンガロールへの転属を命じられたが、妻ガートルードと幼いヴィヴィアンをウダカマンダラムに残したままの単身赴任だった[10]。ヴィヴィアンは3歳のときに母親が加入していた素人劇団の舞台に立ち、イギリス童謡の「ちっちゃな羊飼い』 (Little Bo Peep) を歌っている。ガートルードはヴィヴィアンに文学の教養を身につけさせようとして、アンデルセン、ルイス・キャロル、ラドヤード・キップリングといった作家たちの子供向け文学作品だけでなく、ギリシア神話やインドの民間伝承なども読み聞かせていた。6歳のときにヴィヴィアンは母ガートルードの意向でインドを離れて、それまで通っていたダージリンの学校からロンドン南西部ワンズワース区ローハンプトン (Roehampton) にあったカトリック女子修道院付属学校(現在のウォルディンガム女学校 (Woldingham School) に転入した。この学校で知り合った友人に、後に女優となる2歳年上のモーリン・オサリヴァンがおり、ヴィヴィアンはオサリヴァンに「立派な女優」になりたいという夢を語っている[11][12]。その後ヴィヴィアンは父アーネストのヨーロッパ旅行についていくかたちで修道院付属学校を退校した。ヴィヴィアンは父に従ってヨーロッパ各地の学校を転々とし、アーネストとヴィヴィアンがイギリスに戻ったのは1931年のことだった。そして、ロンドンのウエスト・エンドで上映されていた、すでに女優としてデビューしていたオサリヴァンが出演していた映画を観たヴィヴィアンは、両親に女優になりたいという望みを告げた。ヴィヴィアンの願いを聞いたアーネストは、ヴィヴィアンをロンドンの王立演劇学校へと入学させた[13]。
ヴィヴィアンが13歳年上の法廷弁護士ハーバート・リー・ホルマンと出会ったのは1931年のことである。ハーバートは「役者」を嫌っていたが、1932年12月20日に2人は結婚し、ヴィヴィアンは王立演劇学校を退学した。そして1933年10月12日にヴィヴィアンは一人娘スーザンを出産した[14]。数十年後にスーザンは結婚し、リーの孫となる子供を3人出産している[15]。
女優としてのキャリア初期
[編集]ヴィヴィアンは友人たちの勧めで、1935年の映画作品『Things Are Looking Up』に出演し、この作品の端役で女優としてデビューした。ヴィヴィアンが契約していた代理人のジョン・グリッドンは「ヴィヴィアン・ホルマン (Vivian Holman) 」という名前が女優として相応しくないと考えた。グリッドンが考えた「エイプリル・モーン」という名前が気に入らなかったヴィヴィアンは、夫ハーバートのミドルネームの「リー」をラストネームに借用し、さらに自身のファーストネーム「ヴィヴィアン (Vivian )」の綴りの「a」を「e」に変更して「ヴィヴィアン・リー (Vivien Leigh)」という芸名を名乗ることを決めた。グリッドンはリーを映画女優として映画監督アレクサンダー・コルダに推薦したが、このときコルダはリーに将来性が欠けているとして出演を断っている[16]。1935年に舞台作品『美徳の仮面 (The Mask of Virtue)』に出演したリーは高い評価を受け、複数のインタビューや新聞記事にとりあげられた。タブロイド紙『デイリー・エクスプレス』のインタビュー記事ではリーのことを「すばやくころころと変わる表情」と表現している。この記事が、後にリーの特徴となっていく「気まぐれ」に最初に言及した公的なコメントだといわれている[17]。のちに桂冠詩人の称号を手にするイギリスの詩人ジョン・ベチェマンは「典型的なイングランドの少女」であるとリーのことを言い表している[18]。以前に自身が監督する映画作品へのリーの出演を断ったコルダも、開幕初日にリーが出演する『美徳の仮面』を観劇した。そしてコルダは過去の過ちを認め、リーの映画出演契約書にサインした。『美徳の仮面』はヒットを続け、コルダの計らいで規模の大きな劇場で上演されることとなった。しかしながら当時のリーの声質は大規模な劇場に適しているとはいえなかった。リーの演技は十分に観客をひきつけることが出来ず、『美徳の仮面』は間もなく終演となってしまっている[19]。
1960年にリーはこの当時のことを回想している。デビュー間もない自分が批評家たちから高く評価され、突然有名になったことに戸惑っており「私が優れた女優だなどと無責任なことをいう批評家もいました。なんと無責任で不道徳ともいえる発言でしょう。当時の私にとってそういった言葉がどれだけ重荷で負担になったことか。耐えられませんでした。このような最初の評価になんとか応えられるようになるまで、何年もかかったのです。ほんとうに馬鹿げた話です。今でもそのときの批評家をはっきりと覚えていますし、生涯許すことはないでしょう」と語っている[20]。
ローレンス・オリヴィエとの出会い
[編集]『美徳の仮面』でリーを観たイギリスの俳優ローレンス・オリヴィエはリーの演技を賞賛し、それから2人の交友が始まった。オリヴィエとリーは、初めての共演となる1937年の映画『無敵艦隊』で恋人同士を演じた。当時のリーはハーバートと結婚しており、オリヴィエも女優ジル・エズモンドと結婚していたが、オリヴィエとリーは不倫関係に陥っていった。この当時のリーはマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』を読んでおり、この小説の映画化を企画していたプロデューサーのデヴィッド・O・セルズニックにアメリカの代理人を通じて面会を求めている。リーはマスコミに「スカーレット・オハラを演じたい」と公言していた。イギリスの新聞「オブザーバー」の映画評論家キャロライン・アリス・レジュネは、当時リーが「(オリヴィエは)レット・バトラーを演じないでしょうけれど、私はスカーレット・オハラを演じることになるわ。見ていてくださいな」と言い放ったことに「皆が愕然とした」と振り返っている[21]。
1937年にリーとオリヴィエは、デンマークのヘルシンゲルで上演される『ハムレット』で共演した。ロンドンのオールド・ヴィック・シアターが企画したこのシェイクスピア原作の舞台劇でリーはオフィーリアを演じた[22]。後にオリヴィエはこのときの上演で、舞台に登場する前のリーが「気まぐれ」で起こした事件を回想している。何も怒らせるようなことをしていないにもかかわらず、リーがオリヴィエに向かって怒鳴りだし、突然黙り込んだと思ったら虚空を見つめだしたことがあった。しかしながらリーは翌日には何も覚えておらず、いつもどおりに何事もなく舞台を務めあげたという。オリヴィエにとって、この出来事がリーの突拍子もない言動を目にした最初の経験となった[23]。
リーとオリヴィエは同棲をはじめたが、どちらの配偶者も離婚を拒否した。当時の道徳的見地からの非難を恐れて、映画会社は2人の関係を大衆には隠し通そうとした。私生活では問題をはらんでいたリーだったが、女優としては1938年の映画『響け凱歌』に出演し、ロバート・テイラー、ライオネル・バリモア、モーリン・オサリヴァンと共演している。この『響け凱歌』はリーの出演作品としては最初にアメリカで注目を集めた映画となった。この作品の撮影中にリーは、扱いが難しく理不尽だと囁かれるようになった。コルダはリーの代理人に対し、リーの言動が改まらないのであれば契約を更新しないと警告している。予定されていたリーの次回作は、コルダと親交があったチャールズ・ロートンが製作と主演を担当する、1938年の映画『セント・マーティンの小径』のヒロインであるリビー役だった[24]。
『風と共に去りぬ』
[編集]1930年代終わりごろのハリウッドは、デヴィッド・O・セルズニックが製作を決定していた映画『風と共に去りぬ』の主役スカーレット・オハラを演じる女優候補を広く募集していた。リーのアメリカ側での代理人は、セルズニックの兄マイロンが経営する代理店のロンドン支社だった。1938年2月にリーは、自身がスカーレット役に選ばれる可能性があるかどうかをセルズニックに打診している。セルズニックはリーが出演した『無敵艦隊』と『響け凱歌』を同月に確認し、リーがスカーレット役に相応しいかも知れないと考えたが、「あまりにイギリス的」だったと感じたため、リーにはスカーレット役は無理だろうと判断した。しかしながらリーは、当時アメリカで映画撮影を行っていたオリヴィエを頼ってロサンゼルスへと向かい、自分こそがスカーレットだということをセルズニックに納得させようとした。リーと面会した、セルズニックの兄でオリヴィエの代理人も務めていたマイロン・セルズニックは、弟がスカーレット役の女優に求めている資質をリーが持っているのではないかという印象を受けた。ハリウッドに伝わる伝説に、スカーレット役不在のままアトランタ炎上シーンを撮影していた現場にマイロンがリーとオリヴィエを連れて行き、セルズニックにリーを紹介して「よう天才、お前のスカーレットに会わせてやるぜ」と嘯いたというものがある。いずれにせよ、セルズニックはスクリーンテストを行い、リーがカメラの前で台本を読んで見せた。リーに満足したセルズニックは妻に宛てて「彼女(リー)がスカーレット役の大穴だ。見た目も全く申し分ない。まだ誰にも言ってない、お前だけだ。(スカーレット役は)ポーレット・ゴダード、ジーン・アーサー、ジョーン・ベネット、そしてヴィヴィアン・リーに絞られた」という手紙を書いている。『風と共に去りぬ』の監督を当初任されていたジョージ・キューカーもスカーレット役にリーを抜擢することに賛同し、リーのことを「信じられないくらいに野生的だ」と評価した。そしてリーがスカーレットを演じることが正式に決定された[25]。
『風と共に去りぬ』の撮影現場はリーにとって辛いものだった。監督のキューカーが更迭されて、代わりにヴィクター・フレミングが監督となったが、リーはフレミングとしょっちゅう仲違いを起こしていた。リーと、メラニー・ハミルトン役を演じるオリヴィア・デ・ハヴィランドは夜にこっそりと前監督のキューカーと会っており、毎週末にはキューカーから演技指導も受けていた。リーはレット・バトラー役のクラーク・ゲーブルとその妻の女優キャロル・ロンバード、デ・ハヴィランドと仲良くなっていったが、スカーレットが感情的になるシーンが多かったアシュレイ・ウィルクス役のレスリー・ハワードとは、撮影現場でも実際に激しく衝突していた。週7日間拘束されることもあったうえに撮影が夜中までかかることも珍しくなく、このような状況下でリーは疲労を重ねていった。リーはオリヴィエが恋しくなり、ニューヨークで仕事をしていたオリヴィエに長距離電話をかけて「あなた、あなた、もう演技にはうんざり!もうイヤ、イヤ、二度と映画になんか出たくない!」と愚痴をこぼしている[26]。
2006年に出版されたオリヴィエの伝記で、『風と共に去りぬ』撮影中のリーの躁病じみた言動への苦情に対して、オリヴィア・デ・ハヴィランドがリーを弁護していたという記述がある。「ヴィヴィアンは非の打ち所がないプロフェッショナルで、『風と共に去りぬ』では完全に自己管理が出来ていました。ただし、あのときの彼女には二つの大きな悩みがあったのです。一つは(スカーレットという)きわめて難しい役を完璧に演じなければならないこと、そしてもう一つはニューヨークにいたラリー(ローレンス・オリヴィエの愛称)と離れ離れになっていたことです」とデ・ハヴィランドは語っている[27]。
『風と共に去りぬ』は公開直後から注目され、主役のスカーレットを演じたリーは絶賛された。しかしながらリーは「私は映画スターではなく女優です。映画スター、そう映画スターなどというのは嘘だらけの暮らしでしょう。偽りの価値観と虚栄のための生き方です。(それに比べて)女優は人生すべてを費やすに値する仕事であり、いつだって素晴らしく重要な役割なのです」と語っている[26]。『風と共に去りぬ』は作品賞をはじめ10部門でアカデミー賞を受賞し、リーも主演女優賞を受賞した。さらにリーはニューヨーク映画批評家協会賞の主演女優賞も受賞している。
ローレンス・オリヴィエとの結婚
[編集]1940年2月になって、オリヴィエの妻ジル・エズモンドとリーの夫ホルマンはどちらも離婚に合意した。ただし、両人共にリーとの深い交友関係はその後も生涯続いている。オリヴィエの息子タルキンの親権は母親のエズモンドが、リーの娘スーザンの親権は父親のホルマンがそれぞれ得ている。1940年8月31日にオリヴィエとリーはカリフォルニア州サンタバーバラの高級ホテルであるサン・イシドロ・ランチ (San Ysidro Ranch) で結婚した。結婚式には立会人として女優キャサリン・ヘプバーンと劇作家ガーソン・ケニンの2人しか招かれていない。結婚したリーはオリヴィエとの共演を望み、オリヴィエが主役の一人を演じることになっていたアルフレッド・ヒッチコックの監督作品『レベッカ』のスクリーンテストを受けた。しかしながら、スクリーンテストを確認したプロデューサーのセルズニックは「彼女(リー)には、誠実さ、若々しさ、純真さが欠けていると感じる」と判断し、監督ヒッチコックやリーの恩師ジョージ・キューカーもこの判断を支持した[28]。
セルズニックは、オリヴィエの出演が決まるまでリーが『レベッカ』に興味を示していなかったと考えており、主役の「わたし」にはジョーン・フォンテインを選んだ。さらにセルズニックは、リーがオリヴィエとの共演を望んだ『高慢と偏見』でも、リーではなくグリア・ガースンを起用した。また、1940年の映画『哀愁』はリーとオリヴィエの共演が予定されていたが、セルズニックはオリヴィエを外して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーの看板スターで、当時人気絶頂だったロバート・テイラーを起用している。この映画にかけられた莫大な宣伝費用は主役を演じたリーのハリウッドでの地位を示すもので、『哀愁』は観客からも批評家たちからも高評価を得た[29]。
結婚後、映画での共演はなかなか果たせなかったリーとオリヴィエだが、舞台ではブロードウェイで1940年5月に上演された『ロミオとジュリエット』で共演している。しかしながらこの作品に対する評価は散々なものだった。『ニューヨーク・プレス』紙は、リーとオリヴィエの関係が不倫から始まったことを指摘し、母国イギリスが第二次世界大戦を戦っている最中であるにもかかわらず2人がイギリスに戻って戦争に協力しないことに対する道徳心の欠如を疑問視する記事を掲載している。『ニューヨーク・タイムズ』の映画評論家ブルックス・アトキンソンは「リーとオリヴィエの容姿は端麗かもしれないが、演技は全くなっていない」と批判している[30]。2人に対する非難はほとんどがオリヴィエの演技や演出に対するものだったが、バーナード・グラバニーのように「リーの発声は薄っぺらく、店の売り子並みの質しかない」とリーを酷評する批評家もいた。「2人はこの舞台(『ロミオとジュリエット』)にほとんど全財産をつぎ込んだために、破産寸前となってしまった」ともいわれている[31]。
1941年の映画『美女ありき』で、オリヴィエはイギリス海軍提督ホレーショ・ネルソン役、リーはその愛人エマ・ハミルトン役として共演した。当時のアメリカはいまだ第二次世界大戦には参戦しておらず、この『美女ありき』は当時ドイツに対して苦戦を続けていたイギリスに対するアメリカの大衆の関心を惹く目的で製作されたハリウッド映画の一つだった。『美女ありき』はアメリカでヒットし、ソビエト連邦でも非常に大きな成功を収めた。当時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは『美女ありき』の上映会を企画し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトら厳選した招待客に向かって「みなさん、この映画を楽しんでいただけることと思います。この映画は、現在あなたたちが直面している大きな出来事ととてもよく似ていますから」とスピーチしている。チャーチルはオリヴィエのことを気に入っており、生涯を通じて夕食に招待したり、行事への参加を依頼したりする間柄だった。チャーチルはリーのことも「本当に彼女は素晴らしい」と評していた[32]。
その後オリヴィエはイギリスに戻り、リーは単独で1943年に北アフリカのイギリス軍を慰問した。北アフリカ各地を回ったが、その後しばらくしてから咳と発熱のために慰問の中断を余儀なくされている。1944年にリーは左肺が結核に罹患していると診断され、数週間の入院生活を送った。『シーザーとクレオパトラ』(1945年)の撮影中に妊娠していることが判明したが、このときリーは流産してしまった。流産にひどく落ち込んだリーは自身が泣き疲れ果てて床に崩れ落ちるまで、オリヴィエに怒鳴り散らし、殴りかかった。これが、その後リーが長く苦しむことになる双極性障害の最初の大きな発作となった。リーは非常に深く落ち込んだかと思うと、数日間は異常なまでに活動的になった。落ち込んでいるときのことは何も覚えておらず、リーはそんな自分にひどい困惑を感じていたといわれている[33]。
1946年には演技が出来るまでにリーの病状が回復した。劇作家ソーントン・ワイルダー原作の戯曲『危機一髪』 (The Skin of Our Teeth) は好評だったが、この前後の時期にリーが出演した『シーザーとクレオパトラ』(1945年)と『アンナ・カレニナ』(1948年)は大きな成功を収めたとはいえない。
1947年にオリヴィエがナイト爵を受け、バッキンガム宮殿で開催された叙任式にはリーとオリヴィエの2人で出席した。リーもナイト爵士夫人として「レディ」の称号を許された。後に2人は離婚しているが慣例に従ってリーに「レディ」の称号は残されており、リーは公式の場ではヴィヴィアン・レディ・オリヴィエとして知られるようになっている。
1948年ごろにはオリヴィエがオールド・ヴィック・シアターの重役の一人となり、劇場の運営資金を得るためにオーストラリアとニュージーランド各地で6カ月間にわたる巡業を開始した。オリヴィエはシェイクスピアの戯曲『リチャード三世』で主役を演じたほか、リチャード・ブリンズリー・シェリダンの戯曲『悪口学校』や『危機一髪』ではリーと共演で舞台をつとている。この巡業は非常に大きな成功を収めた。巡業中のリーは不眠症に悩まされており、体調が悪かったときには1週間代役が立てられたこともあったが、自身に任せられた役割はなんとかこなしていた。オリヴィエはリーの「マスコミを魅了する」能力に賛辞をよせている。ただし、この巡業に参加した団員たちが当時のことを振り返り、リーとオリヴィエの間には何度か諍いがあり、ニュージーランドのクライストチャーチでの上演でリーが舞台に上がることを拒否した事件がとくに印象的だったと語っている。このときオリヴィエはリーの顔を平手打ちし、リーもオリヴィエに平手打ちを返した。そして最終的にリーがステージに上がる直前までオリヴィエに毒舌を浴びせ続けた。巡業の終わりごろには両者共に消耗しきっており、体調を崩していた。オリヴィエはマスコミに対して「知らないかもしれないけれど、今あなたは歩く死人2人に話しかけているんだよ」と語りかけている。後にオリヴィエは、オーストラリアで「ヴィヴィアンを失った」とコメントしている[34]。
オーストラリアとニュージーランドでの巡業公演の大成功に気をよくしたオリヴィエは、ロンドンのウエスト・エンドにおけるリーとの初の舞台共演を行った。このときの演目は、それまで共演した作品のほかに古代ギリシアの悲劇作家ソフォクレスの『アンティゴネー』も上演されている。これはリーが悲劇を演じたいと希望したためでもあった。
『欲望という名の電車』
[編集]リーは、テネシー・ウィリアムズが書き、ウエスト・エンドで上演されることになっていた戯曲『欲望という名の電車』の主役ブランチ・デュボア役を欲した。原作者のウィリアムズと舞台プロデューサーのアイリーン・メイヤー・セルズニックは、リーが出演した舞台『悪口学校』と『アンティゴネー』を観て、リーをブランチ・デュボア役に起用することを決めた。さらにオリヴィエも舞台監督として『欲望という名の電車』に参加することが決まった。陵辱シーンがあり、さらに乱交、同性愛への言及といった刺激的な内容を持つこの作品は大きな論争の的となり、マスコミもこの役を演じることがリーの精神状態を悪化させるのではないかと懸念していた。しかしながらリーはこのブランチ・デュボアは自身のキャリアにおいて非常に重要な役どころとなると固く信じていた。
ウエスト・エンドでの舞台劇『欲望という名の電車』は1949年に開幕した。劇作家J・B・プリーストリーはこの作品自体とリーの演技を激しく非難している。また、以前からリーの舞台を酷評することが多かった演劇評論家ケネス・タイナンも[35]、リーはひどいミスキャストであり、その理由として「このような(荒々しく粗野な)感情を舞台で表現するには、イギリス人俳優は上品に過ぎる」とコメントしている。オリヴィエとリーは、この作品が好色で扇情的な舞台になるに違いないと考えた観客が大量に詰め掛け、その結果として興行収入が上がったことについて遺憾の意を示している。しかしながらこの作品には熱心な支持者も多く[36]、ノエル・カワードはリーのことを「最高だ」と評している[37]。
ウエスト・エンドでの舞台『欲望という名の電車』は326回に及ぶ公演を重ねて幕を閉じ、その後すぐに映画化が決まった『欲望という名の電車』へのリーの出演が決まった。リーの傲岸さと、ときに下品なユーモアセンスを気に入った共演者のマーロン・ブランドとの仲は良好だったが、リーのことを一流の女優だとは認めていなかった監督のエリア・カザンとの関係はぎくしゃくしていた。後に「彼女(リー)の才能は微々たるものだった」とコメントしたこともあるカザンだったが、撮影が進むにつれてリーが「自身が知るどの女優よりも優れた演技を見せると固く心に決めた。彼女(リー)はもし演技に必要であれば、砕けたガラスの上に這いつくばる覚悟だった」と「大いなる賞賛」を与えている。それでもリーはこの映画のブランチ・デュボア役を演じることに疲れ果てており、『ロサンゼルス・タイムズ』紙に「私は劇場で9カ月間ブランチ・デュボアを演じていました。それが今では彼女(ブランチ)が私を牛耳っています」と語っている[38]。この作品の撮影中はオリヴィエもリーと共にハリウッドに滞在しており、ウィリアム・ワイラー監督作品『黄昏』に出演し、ジェニファー・ジョーンズと共演している。
映画版『欲望という名の電車』は高く評価され、リーは2度目となるアカデミー主演女優賞と英国アカデミー最優秀英国女優賞、ニューヨーク映画批評家協会主演女優賞を受賞した。原作者テネシー・ウィリアムスはリーがブランチ・デュボアに「私が意図したあらゆるもの、そして私が夢にも思わなかった多くのもの」をもたらしてくれたと感謝を表しているが、後年にリーはブランチ・デュボアを演じたことは「倒れそうで、気が狂わんばかりだった」と振り返っている[39]。
病気との闘い
[編集]1951年にリーとオリヴィエはシェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』とバーナード・ショーの戯曲『シーザーとクレオパトラ』で共演し、リーはどちらの作品でもクレオパトラを演じた。日替わりで上演された両作品は好評を博した。リーとオリヴィエはこれらの舞台をニューヨークでも上演することを決め、1952年のシーズンにブロードウェイのジークフェルド・シアター (Ziegfeld Theatre) で開幕した。ニューヨークでの公演もおおむね好評だったが、評論家ケネス・タイナンは、リーが二流の才能しか持っていないせいで、オリヴィエの才能まで貶められてしまっていると激しく非難した。タイナンの痛烈な批判はリーの精神状態に大きな傷を与えた。リーは失敗に怯え、素晴らしい演技をすることだけに汲々となってしまった。リーはタイナンの批判のみを思い悩み、他の批評家からの好意的な評価は頭から消え去っていた[40]。
1953年1月にリーは、ピーター・フィンチと共演する『巨象の道』の撮影のためにセイロンを訪れた。しかしながら、撮影開始後間もなくしてリーが神経症の発作を起こしたために、製作会社のパラマウント映画はリーを降板させ、代役にエリザベス・テイラーを起用した。オリヴィエはイギリスの自宅にリーを連れ戻したが、リーの精神状態は混乱しており、オリヴィエに向かってフィンチが好きになった、肉体関係を持ってしまったと繰り返した。その後、リーの状態は数カ月をかけて徐々にではあるが安定していったとはいえ、『巨象の道』の降板を巡る一連の騒動のためにオリヴィエの友人たちがリーが問題を抱えていることを知った。デヴィッド・ニーヴンはリーが「完全に、本当に完全に狂っていた」と語り、ノエル・カワードは日記に「事態は最悪だ。(リーは)1948年あたりからどんどんおかしくなっていった」と驚きをもって記している[41]。リーとフィンチの不倫は1948年に始まり、波はあったが数年間関係が続いていた。そしてリーの精神状態の悪化によって自然消滅していた[42]。
1953年にはリーの精神状態は安定し、舞台作品『眠りの森の王子』 (The Sleeping Prince) でオリヴィエと共演した。1955年のシーズンには2人でストラトフォード=アポン=エイヴォンでシェイクスピアの戯曲『十二夜』、『マクベス』、『タイタス・アンドロニカス』に出演している。どの公演も満員になり高い評価を得て、リーの精神状態も安定しているように見えていた。『十二夜』の舞台監督ジョン・ギールグッドは当時「……たぶん、私はこの舞台を成功させることが出来るのだろう。彼(オリヴィエ)が可愛い奥方(リー)- 彼女は彼よりも聡明だが、生まれながらの女優というわけではない - の小心さと精神の安定に気を配ってくれるのであればだが。彼はあまりに自信満々だが……、彼女は何事に対してもまったく自信が持てていない。演技が過剰でないかどうかを恐れ、行き過ぎたともいえる準備なしには何もできないと思い込んでいる」と記している[43]。リーは1955年にアナトール・リトヴァクが監督する映画作品『愛情は深い海のごとく』に出演した。この作品の共演者ケネス・モアは、撮影の間中リーとの相性の悪さを感じていた[44]。
1956年にリーは、ノエル・カワードの戯曲『サウス・シー・バブル』 (South Sea Bubble) の主役を演じる予定だったが、妊娠していることが判明して役を降板した。折しもオリヴィエが『王子と踊り子』で共演するマリリン・モンローをロンドンのヒースロー空港で夫婦そろって出迎えた際に発表されたため、リーの虚言ではないかと一部で囁かれた。リーは身重の体でスタジオに顔を見せていたが、数週間後に流産し、数ヶ月にわたる鬱期に入ってしまった。リーはヨーロッパ各地で『タイタス・アンドロニカス』を巡業上演するオリヴィエと合流したが、この巡業はオリヴィエや一座の団員に対する、リーの絶え間ない暴言のために悲惨なものとなった。一座はロンドンへと戻り、いまだリーに大きな影響力を持っていた前夫ホルマンが、リーが落ち着くまでオリヴィエに協力して面倒を見た。
1958年にはリーとオリヴィエの結婚生活は破綻していた。リーは自身の精神状態を理解していた俳優ジョン・メリヴェールと関係を持つようになり、メリヴェールもリーの面倒を見ていくことをオリヴィエに約束した。1959年にリーはノエル・カワードの喜劇『Look After Lulu』に出演し、高く評価された。タイムズ紙はリーを「美しく、快いまでに無愛想だ。彼女はどの場面でも女王のように舞台を支配していた」と評している[45]。
1960年にリーとオリヴィエは正式に離婚した。その後まもなくオリヴィエは20歳以上年下の女優ジョーン・プロウライトと3度目の結婚をしている。オリヴィエの伝記作家は、オリヴィエがリーの病気のために何年も精神的に追い詰められていたとしている。「いつも彼女(リー)は躁鬱という不気味で恐ろしい怪物を飼っており、極めて危険で張り詰めた精神状態を繰り返していた。彼女は独特の抜け目のなさを備えていて、ほとんどの人間に対しては自分の精神状態をうまく隠していた。だけど私に対しては別だった。私が彼女に辛く当たることは考えてもいなかっただろうから[4]」。
最晩年
[編集]メリヴェールはリーの精神状態に好影響を与えることができ、リーも安らいだ暮らしを送っていたが、アメリカのジャーナリストのラディ・ハリスに「ラリー(オリヴィエ)と一緒にいた時間はあっという間でしたけれど、彼のいない今の暮らしはなんと長く感じることでしょう」と漏らしている[46]。リーの最初の夫であるホルマンも、かなりの時間をリーのために費やしていた。メリヴェールは、1961年7月から1962年5月にかけてオーストラリア、ニュージーランド、中南米を回るリーの巡業に同行している。相手役オリヴィエのいない舞台だったが、この巡業は好評価を得てリーを安心させた。相変わらず鬱の発作に悩まされていたとはいえリーは舞台活動を続け、1963年にはブロードウェイ・シアターで上演されたミュージカル『トヴァリッチ』 (Tovarich) で、ジャン・ピエール・オーモンらと共演しトニー賞のミュージカル主演女優賞を受賞した。映画作品では、1961年の『ローマの哀愁』、1965年の『愚か者の船』に出演している。
リーは1967年5月に、マイケル・レッドグレイヴと共演するエドワード・オールビーの戯曲『デリケート・バランス』 (A Delicate Balance) のために舞台稽古を開始したが、結核が再発してしまった[47]。リーは数週間の休養をとって回復したかのようにみえた。1967年7月7日の夜にメリヴェールは舞台に出演するためにリーを残して自宅を出て、公演を終えたメリヴェールが帰宅した深夜にはすでにリーは寝室で眠りについていた。そして、およそ30分後に寝室に入ったメリヴェールが、床に崩れ落ちて死亡しているリーを発見した。リーはおそらくトイレに行こうとしてベッドから起き上がったときに死亡したとみられ、その肺には大量の血がたまっていた[48]。メリヴェールは、前立腺癌の治療で近くの病院に入院していたオリヴィエに連絡をとった。すぐさまリーとメリヴェールの自宅へと向かったオリヴィエは、リーをベッドに横たえようとしているメリヴェールの姿を見たときに、その自叙伝で「このうえなく悲痛」な気持ちになったと記している。オリヴィエは「その場に立ち尽くし、かつて私たちの間で起こってしまった数々の諍いごとに対して許しを乞うた」[49]。リーの公式死亡記録には7月8日と記載されているが、7月7日を死亡日としている資料もある。
リーはロンドンのゴルダーズ・グリーン (en:Golders Green Crematorium) で荼毘に付され、その遺灰はリーの希望でイングランド南東部にあたるイースト・サセックスのブラックボーイズ近くにあるティッカレジ・ミル湖に撒かれた。そして追悼式がロンドンのセント・マーティン=イン=ザ=フィールズ教会 (St Martin-in-the-Fields) で挙行され、リーに捧げる追悼文を名優ジョン・ギールグッドが読み上げている。アメリカでも南カリフォルニア大学がリーを「南カリフォルニア大学図書館の擁護者」の最初の女優として顕彰し、出演した映画から集めたリーのフィルムを上映する追悼式を開いた。この追悼式にはジョージ・キューカーら、生前のリーとつながりのあった人々から言葉が寄せられた[50]。
評価
[編集]リーは当時もっとも容貌が美しい女優の一人だとみなされており、監督たちはリーの美しさを強調するような作品を撮った。その美しさが逆に真剣な演技の妨げになるのではないかと尋ねられたリーは、「そのようなことはまったくの筋違いであって、あなたは演技がどういうものかをおそらく分かっていないのでしょう。私は演技を真剣に考えています。もし自分とは似ても似つかない役を演じることになって、その役柄に相応しい容貌になりたいと望むことでもあれば、美貌が不利な条件となることがあるかも知れません」と応えている[20]。
映画監督のジョージ・キューカーは「完璧な女優。美しさが邪魔をしているくらい」とリーを評し[51]、ローレンス・オリヴィエは「彼女(リー)を女優として正当に評価すべきだ。彼女が持つあまりの美しさのせいで批評家たちの判断はすっかり歪められてしまっている」と批評家たちに苦言を呈している[52]。劇作家ガーソン・ケニンも同様の考えを持っており、リーのことを「あまりに美しく魅力的な女性は、女優として圧倒的な成果を挙げたとしても目立たなくなってしまう。とてつもない美貌を持つ女優が役者として大成することは滅多にない。美しい女優はそれだけで売り物になるからだ。だがヴィヴィアンは違う。意欲があって不屈の精神をもち、真剣に演技に取り組んでいる。見事なまでに素晴らしい」と表現している[53]。
リーは「できる限りさまざまな役」を演じたいと考えており、自身の能力に対する不安感を払いのけるためにさまざまな研鑽を積んでいた。リーは演劇のなかで喜劇がもっとも難しいと信じていた。それはリーが、喜劇には極めて正確なタイミングでの演技とコメディに相応しい大げさな台詞回しが要求されると考えていたためだった。リーのキャリア後期では、ノエル・カワードの喜劇からシェイクスピアの悲劇まで幅広い役柄を演じきっている。リーは「人を笑わせるよりも泣かせることのほうが遥かに簡単」と考えていた[20]。
リーはそのキャリア初期から母国イギリスでは高く評価されていたが、世界的にみると『風と共に去りぬ』の大ヒットまではほぼ無名の女優だった。1939年12月にニューヨーク・タイムズが「リーが演じるスカーレットの不条理な言動が、間接的にリーの演技力を見せつけたといえる。彼女はまさにこの役を演じるために生まれてきた女優であり、他の女優がこの役を演じることなど想像もできない」という記事を掲せている[54]。リーの人気は高くなっていき、スカーレットに扮したリーの写真がタイムズの表紙を飾っている。映画批評家アンドリュー・サリスは、1969年に『風と共に去りぬ』の成功はリーをスカーレット役に抜擢するという「素晴らしい配役」によるところが大きいとしており[55]、1998年にも「彼女(リー)は我々の心の中に生き続けている。動かない存在としてではなく、生き生きとして活力に満ちた女優として我々の記憶に残っている」と記している[56]。アメリカの映画批評家レナード・マーティンは1998年に、『風と共に去りぬ』は映画史上もっとも素晴らしい作品の一つであり、リーが「この上ない演技」でスカーレットを演じたと評している[57]。
リーが舞台版の『欲望という名の電車』でみせた演技は、イギリスの作家フィリス・ハートノールが「これまでのリーの演技のなかでも、女優としてのもっとも優れた力量を見せつけた」とし、リーがイギリスの劇場にもっとも相応しい女優の一人であったことが、長きにわたって語り継がれるだろうと評価している[58]。アメリカの映画批評家ポーリン・ケイルは、リーが舞台版に続いて主役を演じた映画版の『欲望という名の電車』でのリーとマーロン・ブランドの演技を「これまで上映された映画の中でもっとも素晴らしい」とし、リーについて「心の底からの恐怖心と哀れみをかきたてる稀に見る演技」だったとしている[59]。
ケネス・タイナンは、1955年の舞台作品『タイタス・アンドロニカス』でオリヴィエ演じるタイタス・アンドロニカスの娘役ラヴィニアを演じたリーの演技を酷評し「夫を殺されてその死体の上で陵辱されると知らされたときのラヴィニア(リー)の表情は、(夫の死体の上で陵辱されるのではなく)発泡ゴムの上にしてくれないかしらと軽く苛立っているようなものだ」とコメントした[60]。タイナンは1955年の舞台作品『マクベス』でマクベス夫人役を演じたリーの役に対する解釈を否定的に評価した批評家の一人で、リーの演技が貧弱であり、レディ・マクベス役に必要な激情に欠けていると評した。しかしながらタイナンはリーの死後に、批評家としてのキャリア初期の自分の批評が「あまりにもひどい間違いだった」と前言を撤回している。タイナンは、リーのマクベス夫人役に対する解釈がマクベスを魅了する性的魅力にあふれたもので「それまで演じられていた傲慢で気性の激しいマクベス夫人よりも、より説得力を感じさせられる」と考えるようになっていった。リーの死後間もなくしてから演劇批評家たちを対象とした調査が行われ、複数の批評家がリーのマクベス夫人の演技を、舞台で成し遂げられたもっとも優れた演技だったと称している[61]。
リーが死去して2年後の1969年に、「俳優たちの教会」として知られるロンドンのコヴェント・ガーデン広場にあるセント・ポール教会 (en:St Paul's, Covent Garden) に、リーを記念する飾り額が設置された。1985年にリーの切手が、アルフレッド・ヒッチコック、チャーリー・チャップリン、ピーター・セラーズ、デヴィッド・ニーヴンとともに、「イギリス映画年」の記念切手として発行された[62]。また、2013年4月にもリーの生誕100周年のイギリスの記念切手が発行されている。王族以外の人物がイギリスの切手の図案に複数回採用されるのは稀なことだった。
1999年にロンドンの大英図書館が、ローレンス・オリヴィエが暮らしていた邸宅から紙の資料を買い取った。「ローレンス・オリヴィエ文書 (The Laurence Olivier Archive)」として知られるこのコレクションには、リーがオリヴィエに送った大量の手紙など、リーに関する記録も多く含まれている。また、リーの手紙、写真、契約書、日記などを、リーの娘であるスーザン・ファーリントンが保管している。1994年にオーストラリア国立図書館が、「L & V O」というイニシャルが入った写真アルバムを購入した。このアルバムはオリヴィエとリーの夫妻が所有していたと考えられており、1948年にオーストラリアを巡業したときの2人の写真573枚が収められていた。後にこのアルバムはオーストラリアの演劇の歴史的資料の一つとして扱われるようになった[63]。2013年にヴィヴィアン・リーの書簡、日記、写真、解説が付けられた映画、舞台台本、そして生涯に獲得した多くの賞品などの一大コレクションを、ロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館が購入している[64]。
受賞
[編集]年度 | 賞 | 作品名 |
---|---|---|
1939年 | アカデミー賞 主演女優賞 (受賞)[65] ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞(受賞)[66] |
『風と共に去りぬ』 |
1951年 | アカデミー賞 主演女優賞 (受賞)[65] 英国アカデミー賞 最優秀英国女優賞(受賞)[67] ゴールデングローブ賞 ドラマ部門主演女優賞(ノミネート)[68] ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞(受賞)[69] ヴェネツィア国際映画祭 女優賞(受賞)[67] |
『欲望という名の電車』 |
1963年 | トニー賞 ミュージカル主演女優賞(受賞)[70] | 『トヴァリッチ』 |
1965年 | フィルム・デイリー紙 助演女優賞(受賞)[70] | 『愚か者の船』 |
1999年 | AFI 映画スターベスト100 第16位[71] |
出演作品
[編集]出演映画
[編集]公開年 | 邦題 原題 |
役名 | 備考 |
---|---|---|---|
1935年 | 万事上向き Things Are Looking Up |
女学生 | 端役。クレジットなし。日本未公開。 英国でビデオのみ発売。 1934年作品と書かれている本もある[72][73]。 |
田舎紳士 The Village Squire |
ローズ | リーは2作目にして主演女優[3] 日本未公開。全世界でビデオ・DVD発売なし。 | |
紳士協定 Gentlemen's Agreement[74] |
フィル・スタンリー | リーは主演女優。日本未公開。 英国映画協会によればフィルムは現存していない[75]。 | |
見つめて笑え Look Up And Laugh |
マージョリー・ベルファー | 脇役。日本未公開。日本ではビデオ・DVD発売なし。 | |
1937年 | 無敵艦隊 Fire Over England |
シンシア | 脇役。 |
間諜 Dark Journey |
マドレーヌ・ゴダール | ||
茶碗の中の嵐 Storm in a Teacup |
ヴィクトリア・ガウ (ヴィッキー) |
||
1938年 | 響け凱歌 A Yank at Oxford |
エルザ | 脇役。『哀愁』のロバート・テイラーとの初共演。 日本ではビデオ・DVD発売なし。 |
セント・マーティンの小径 St. Martins Lane |
リビー | 日本未公開。 | |
1939年 | 風と共に去りぬ Gone with the Wind |
スカーレット・オハラ | アカデミー主演女優賞 受賞 ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 受賞 ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞演技賞 受賞 |
1940年 | 21日間 Twenty-One Days |
ワンダ | 1937年撮影。日本未公開。2003年1月5日にNHK衛星第2で放送[76]。 日本ではビデオ・DVD発売なし。 |
哀愁 Waterloo Bridge |
マイラ | ||
1941年 | 美女ありき That Hamilton Woman |
エマ・ハミルトン | |
1945年 | シーザーとクレオパトラ Caesar and Cleopatra |
クレオパトラ | |
1948年 | アンナ・カレニナ Anna Karenina |
アンナ・カレニナ | |
1951年 | 欲望という名の電車 A Streetcar Named Desire |
ブランチ・デュボア | アカデミー主演女優賞 受賞 ヴェネチア国際映画祭 女優賞 受賞 英国アカデミー賞 主演女優賞 受賞 |
1955年 | 愛情は深い海のごとく The Deep Blue Sea |
ヘスター・コリヤー | 全世界でビデオ・DVD発売なし。 |
1961年 | ローマの哀愁 The Roman Spring of Mrs. Stone |
カレン・ストーン | |
1965年 | 愚か者の船 Ship of fool |
メアリー・ドレッドウェル | フィルム・デイリー紙 助演女優賞 受賞 |
主なインタビュー収録
[編集]- Small World:( エドワード・R・マロー Edward Roscoe Murrow がホスト。サミュエル・ゴールドウィン Samuel Goldwyn ・ケン・タイナン Ken Tynan と共演 )(1958年12月)
出典
[編集]脚注
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