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2018年7月27日 (金) 15:44時点における版
仏教用語としての中道(ちゅうどう、梵: Madhyamā-pratipad[注釈 1], マディヤマー・プラティパッド[2]、巴: Majjhimā-paṭipadā, マッジマー・パティパダー[3])は、「中指、子宮、適齢女性[信頼性要検証]」を意味する Madhyamā と[4][5]、(所)行や行迹・道跡などを指す pratipad[6]からなる熟語を漢訳で中道と訳出した仏教用語。中行[7]、中路あるいは単に中ともいう[8]。
『広説佛教語大辞典』では、2つのものの対立を離れていること[9]。断・常の二見、[疑問点 ] あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこととしている[9]。中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す[10]。『総合仏教大辞典』は、中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を中道の語で表す点は一致するとし[8]、『広説佛教語大辞典』も概ねそうした説明をしている[9]。
仏教用語でない用法としては、「道の中央」「目的を達しないうち、中途」「極端に走らない中正の道」などの語義がある[11][12]。富士山の登山者が富士山の中腹をめぐることや、そのときの道も中道(ちゅうどう)と呼ばれる[11][12]。
中道の原義
中道(Madhyamā-pratipad)のMadhyamāの語尾の発音を違える Madhyama は、形容詞として「中間の、中心の、中位の、凡庸な、適度の、中間の大きさの、中立の」と訳され、名詞として「二人称、四分音符」とも訳される[4]ほか、「媒体・媒介、仲介・又ぐ」など多様な英訳がある[13]。一方、 pratipad の方は「入り口[14]、始まり[14]、陰暦の最初の日[15]」などの名詞のほか、動詞としても多様な英訳がある[14]。
二辺の語義
二辺は、中道を離れた両極端を指す[16]。仏典では『中論』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、『順中論』の巻下が〈常・断〉を、『摂大乗論』世親釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている[16]。
二辺の語義に、「二諦」と同様の"空"や"仮"の意味があるとする一部の仏教解釈がある[17]。総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする[16]が、それらしき引用箇所が見当たらない[要検証 ][注釈 2]。「二諦」に"空"や"仮"の解釈を与えるのも、天台宗が三観の中観や三諦の中諦の立場を説くときである[18][19][20]。
中道の用法
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部派仏教時代から共通の用法
部派仏教では、中道は賢聖(仏教の声聞)[注釈 3][疑問点 ]が無明を縁として行ずるものであるとする記述がみられ[21][信頼性要検証][要検証 ]、大乗経典でも中道やその類語は無明あるいは二明から三明[注釈 4]へと向かう前後の関係[22][23]の所行道として説く[信頼性要検証][要検証 ]。また、大般若波羅蜜多経では声聞或いは独覚が退入する地として説かれた[24][信頼性要検証][要検証 ]。
大乗経典では二辺だけではなく、中道をも離/出/捨/滅するという記述を多出させ[25][要検証 ][注釈 5]、中道については魔を度す所作(行道)として記述されることがある[26][信頼性要検証][要検証 ]。佛説阿闍世王經では、「五陰を知る者は以って魔事有ること無し。魔界を度す者は以って中道を作す所に覆蔽(ふくへい)する所無し」とし[26][要検証 ]、中道を「五陰」を知る過程のうち、以って魔界を度す覆蔽(ふくへい)なき所作(行道)としている[26][信頼性要検証][要検証 ]。中国ではより具体的に、悪鬼境界の二辺に出づることが中道の(宝の)渚に到達することであるとする経解も出現した[27][信頼性要検証][要検証 ]。
また、遡って天台智顗の『妙法蓮華經文句』を参照すると、「衆生戒を摂する尸波羅蜜(しはらみつ)と共に中道の道を持して度し[疑問点 ]、「魔界を降伏す」と経解しており[28][要検証 ]、眞の法喜を護ることは「衆生戒を摂する」ものとして明示している[28][要検証 ]。天台智顗はまた『摩訶止観』の中で、「若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り」としている[29][注釈 6]。
なお、大正新脩大藏經で密教部に所収されている佛説瑜伽大教王經[30]にも、「実相の菩提は有無に非ず、亦た二辺無く中道(も)無く、虚空の如き寂静を離相し、三世諸仏が証する所の何かである」とするものがある[31](その何かとは大道心であるとする[32])[信頼性要検証][要検証 ]。
原始仏教・パーリ仏典・阿含経典
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原始仏教において中道は、主として不苦不楽の中道を意味した。具体的には八正道を指す[9]。[要検証 ]
不苦不楽の中道
中阿含経巻五六などでは、八聖道(八正道[33])の実践は快楽主義と苦行主義との偏った生活態度を離れ、それによって智慧を完成して涅槃のさとりに趣く道であるから八聖道を中道という[8]。
相応部の教典
釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際に(初転法輪)、中道と八正道について次のように述べたことが、パーリ語経典相応部の五六・二に描かれている[34]。
そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。それは八つの項目から成るとうとい道(八正道、八支聖道)である。
十二縁起と中道
雑阿含経巻一二などでは、十二縁起の真理を正しく理解することは、常見と断見や、有見と無見などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することであると説く[8]
琴の弦(緊緩中道)
パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、釈迦が、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘に対して、琴の弦を例えに出して、中道を説いている。
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。
部派仏教・部派仏典
『総合仏教大辞典』は、部派仏教では大毘婆沙論巻四九や成実論巻十一などに、阿含の教説を承けて、中道は断・常の二見を離れた立場であると説くとしている[8]。ただし、大正新脩大蔵経では、大毘婆紗論巻四九にニ見を離れるという記述は出現せず[35][疑問点 ]、成実論巻十一には二見の語が現れない[36]。[疑問点 ]
大乗仏教・大乗仏典
中論・中観派
ナーガールジュナの中論では、中道は縁起・空・仮名と同じ意味である[9]。また、同書第18偈では、縁起と空と中道をほぼ同義として扱う[37][注釈 7]。中論が、縁起・空性・仮・中道を同列に置くのは、全てのものは縁起し空であると見る点に中道を見て、空性の解明によって中道を理論づけるものである[10]。中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という[8]。
中観派では、般若波羅蜜を根本的立場とし、すべての執着や分別のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする[8]。
瑜伽行派
瑜伽行派(唯識派)[38]においては、認識対象は外在的なものではなく識の顕れにすぎないので非有、しかし識の顕れは現実に存在するので非無であり、全ては認識作用にすぎないという〈一切唯識〉において中道が把握される(唯識中道)[10]。
三論宗
三論宗は、中論が説く八不中道の説に基づき、俗諦中道(世諦中道)・真諦中道・二諦合明の中道(非俗非真の中道)という三種の中道を説く[8]。
法相宗
唯識宗(法相宗)[39]では、有空中の三時教の教判を立てて、解深密経などの説のように、〈有・空〉の二辺を離れて非有非空の中道の真理を完全に顕した教えを中道了義教とし、〈有・空〉に偏る教えを不了義教とする[8]。その中道とは、いわゆる唯識中道のことであり、法相宗は唯識中道を説くことから、自らを中道宗とも称する[8]。法相宗の教えは中道教とも呼ばれる[9]。法相宗では中道は、教理の核心としての非有非空をも指す[9]。
成論師
成論師は、世諦中道・真諦中道・真俗合論中道の三種中道を立てた[9]。
天台・天台宗
慧文によると、因縁によって生じたものが必ずある(定有)のでもなく、またそれらが空であるとしても、必ず空(定空)であるというのでもなく、空有不二であることを中道という[9]。
天台宗では、空・仮・中の三諦を立て、中は空・仮を超えた絶対であるとする[9]。この空・仮・中は相互に別なく円融し、即空・即仮・即中としての中道であるとする[9]。天台宗では中道は、教理の核心としての諸法実相をも指す[9]。
法華経
法華経の化城喩品では、三界の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間を中道という[9]。
脚注
注釈
- ^ 梵: madhyamā-pratipat とも綴る[1]。
- ^ 「中道を空・仮とするのは不止止とするのに似て不当である(適当ではない)」とも読める箇所がある。大正新脩大蔵経テキストデータベース 『止觀輔行傳弘決 (湛然述)』卷第三之二 (T1912_.46.0225b06: ~): 今云隨縁心隨俗理。前不止止約理不當止與不止。今息二邊。空邊如止假如不止。中道不當空假二邊似不止止。其相異者。前之三止共成一諦。今之三止各成一諦。前三成次三等者。次之與後並指體相。綺文互説是故不同。前釋名三成體相三。故體相三一一皆假釋名三成。
- ^ 漢訳の倶舎論に現れた「賢聖」から見道に通じる意味でも用いられる(中村元 『広説佛教語大辞典』(東京書籍) 「賢聖」)が、サンスクリットにそのような意味はなく「devatā(諸天部の)」「śrāvaka(声聞)」、またはそれに通じる意味である(『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 1113頁「賢聖」)
- ^ 部派仏教も含めて六明まで記述される経論が多くみられる。大正新脩大蔵経テキストデータベース『六明』
- ^ 「無中道」が格段に多くみられるが、「非有非無中道」のように複雑な文脈で記述されるため出典記述としていない。
- ^ 国訳一切経での書き下し文は、この前後を含めると次の通り:「第三に菩薩の淸浄大果報を明さんが爲の故に、是の止觀を説くとは、若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り。設ひ未だ分段を出でざるも、護る所の華報、亦七種の方便に異なる。況や真の果報をや。」 ※出典:岩野眞雄・編 『国訳一切経 和漢撰述部 諸宗部2』 大東出版社、1988年、74頁。
- ^ 「中論」という名称は、『中論』の約450偈のうちでこの1回だけ現れる「中道」の語に基づく[37]。
出典
- ^ 岩波書店『岩波 仏教辞典 第二版』 714-715頁、春秋社『仏教・インド思想辞典』
- ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 73頁「中道」。
- ^ 『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社) 和訳語索引 2375頁「中道」。
- ^ a b B・B・ヴィディヤランカール、A・ヴィディヤランカール 『基本梵英和辞典 縮刷版』 東方出版、2011年5月、282頁。
- ^ मध्यमा (madhyamA) - Spoken Sanskrit Dictionary.
- ^ pratipad (行,正行,通行,現行,行迹,行跡;道,道跡,所行道;通;法;順) 出典:荻原雲来 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、833頁。
- ^ 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、995頁。
- ^ a b c d e f g h i j 総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、997-999頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、1183頁。
- ^ a b c 中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、714-715頁の「中道」の項目。
- ^ a b 小学館国語辞典編集部 『日本国語大辞典 第8巻』 小学館、2001年7月、1480頁。
- ^ a b 中道 三省堂 大辞林(weblio辞書)。
- ^ मध्यम (madhyama) - Spoken Sanskrit Dictionary.
- ^ a b c प्रतिपद् (pratipad) - Spoken Sanskrit Dictionary.
- ^ 山中元 『サンスクリット語 - 日本語単語帳』 国際語学社、2004年7月。
- ^ a b c 総合佛教大辞典編集委員会 『総合佛教大辞典』 法蔵館、1988年1月、p.1118の「二辺」の項目。
- ^ 中道 - 創価学会 教学用語検索。
- ^ 中村元 『広説佛教語大辞典 上巻』 東京書籍、2001年6月、363頁の「假観」の項目。
- ^ 中村元 『広説佛教語大辞典 中巻』 東京書籍、2001年6月、1179頁の「中観」の項目。
- ^ 三諦, 中諦 - コトバンク。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『雜阿含經 (求那跋陀羅譯)』 (T0099_.02.0084c28: ~): 梵行者亦無有 離此二邊 正向中道。賢聖出世 如實不顛倒正見所知 所謂縁無明行。諸比丘。若無明離欲而生明。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『瑜伽師地論 (玄奘譯)』 (T1579_.30.0350a16: ~): 又有三明 當知爲顯於前後中際 斷常二邊邪執。※中際。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘曇毘婆沙論 (迦旃延子造 浮陀跋摩譯 道泰譯 五百羅漢譯)』 (T1546_.28.0382c11: ~): 住於中道。復次念前世智證明。能生空。生死智證明。能生無願。漏盡智證明。能生無相。以如是等義故。此*三明隨順厭離之法。; 同『觀音玄義記 (知禮述))』 (T1727_.34.0911b20: ~): 從假入空徹見三諦即是中道無縁與拔。二明中道建立二。初約雙非皆破問。二明中道遍立答二。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 「終不中道退入聲聞或獨覺地」。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 離中道, 出中道, 捨中道, 中道滅。
- ^ a b c 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説阿闍世王經 (支婁迦讖譯) 』 (T0626_.15.0390c13: ~): 以知五陰者無有魔事。以度魔界者所作中道無所覆蔽。※経集部所収の顕教の経。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『觀音義疏記 (知禮述)』 (T1729_.34.0941c14: ~): 即出二邊惡鬼境界 即能達到中道寶渚。鬼義合前後 章前即此章貼文約事 後即第五鬼難章也。
- ^ a b 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0007a03: ~): 久除五住何惡不破獲眞法喜如食乳糜更無所須。持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度。魔界降伏。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『摩訶止觀 (智顗説)』 (T1911_.46.0020a24: ~): 説是止觀者若行違中道即有二邊果報。若行順中道即有勝妙果報。
- ^ 佛説瑜伽大教王經 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a06: ~): 實相菩提非有無 亦無二邊無中道 離相寂靜如虚空 三世諸佛何所證。
- ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a09: ): 智離取捨觀諸蘊 唯顯眞空大道心。
- ^ “八正道・八聖道(はっしょうどう)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年5月17日閲覧。
- ^ 長尾雅人・工藤成樹訳 『世界の名著 1 バラモン教典 原始仏典』 中央公論社、1969年5月、pp435-439の「二 初めての説法(相応部 五六・二)」
- ^ 大毘婆紗論 巻四十九は(T1545_.27.0252a19 ~ T1545_.27.0257a10)まで。 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。
- ^ 成実論巻十一(その1), 成実論巻十一(その2) - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。※同大蔵経は成実論を論集部に位置づけている。
- ^ a b 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、704頁。
- ^ “瑜伽行派(ゆがぎょうは)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年5月17日閲覧。
- ^ “法相宗とは(教義について)-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple”. 薬師寺. 2017年5月12日閲覧。