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{{Otheruses|主に仏教の用語|政治用語の中道|中道政治|その他}}
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{{Infobox Buddhist term
仏教用語としての'''中道'''(ちゅうどう、{{lang-sa-short|Madhyamā-pratipad}}{{efn|{{lang-sa-short|madhyamā-pratipat}} とも綴る<ref>岩波書店『岩波 仏教辞典 第二版』 714-715頁、春秋社『仏教・インド思想辞典』</ref>。}}, マディヤマー・プラティパッド<ref>『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 ([[霊友会]]) 73頁「中道」。</ref>、{{lang-pi-short|Majjhimā-paṭipadā}}, マッジマー・パティパダー<ref>『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社) 和訳語索引 2375頁「中道」。</ref>)は、「中指、子宮、適齢女性{{要高次出典|date=2017年5月}}」意味す Madhyamā と<ref name="kb282">B・B・ヴィディヤランカール、A・ヴィディヤランカール 『基本梵英和辞典 縮刷版』 東方出版、2011年5月、282頁。</ref><ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=madhyamA&script=&direction=SE&link=yes मध्यमा (madhyamA)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>(所)行や行迹・道跡などを指す pratipad<ref>pratipad (行,正行,通行,現行,行迹,行跡;道,道跡,所行道;通;法;順) 出典:荻原雲来 『漢訳対照梵和大辞典 <small>増補改訂版</small> 鈴木学術財団 (山喜房仏林)1979年、833頁。</ref>からなる熟語を漢訳で中道と訳出した[[仏教用語]]。'''中行'''<ref>『漢訳対照梵和大辞典 <small>増補改訂版</small>』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、995頁。</ref>、'''中路'''あるいは単に'''中'''ともいう<ref name="sb997-999" />。
| title = 中道
| en = Middle Way
| pi = Majjhimā-paṭipadā
| sa = Madhyamā-pratipad
| zh = 中道
| zh-Latn =
| ja = 中道
| ja-Latn =
| th = มัชฌิมาปฏิปทา
| bo = དབུ་མའི་ལམ།
| bo-Latn =
| vi = Trung đạo;
| id =
}}
仏教用語としての'''中道'''(ちゅうどう、{{lang-sa-short|Madhyamā-pratipad}}{{efn|{{lang-sa-short|madhyamā-pratipat}} とも綴る<ref>岩波書店『岩波 仏教辞典 第二版』 714-715頁、春秋社『仏教・インド思想辞典』</ref>。}}, マディヤマー・プラティパッド<ref>『仏教漢梵大辞典』 [[平川彰]]編纂 ([[霊友会]]) 73頁「中道」。</ref>、{{lang-pi-short|Majjhimā-paṭipadā}}, マッジマー・パティパダー<ref>『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社) 和訳語索引 2375頁「中道」。</ref>)は、2つのものの対立離れていと<ref name="kb1183" />[[断見|断]]・[[常見|常]]の二見あるいは有無の二辺を離れた不偏にして中正なるのこと<ref name="kb1183">中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京20016月1183頁。</ref>。'''中行'''<ref>『漢訳対照梵和大辞典 <small>増補改訂版</small>』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、995頁。</ref>、'''中路'''あるいは単に'''中'''ともいう<ref name="sb997-999" />。


『広説佛教語大辞典』では、2つのものの対立を離れていること<ref name="kb1183" />。{{疑問点範囲|断・常の二見、|title=読点がついており、中道とは二見のこととも受け取れる。|date=2017年5月}} あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこととしている<ref name="kb1183">中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、1183頁。</ref>。中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す<ref name="ib714">中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、714-715頁の「中道」の項目。</ref>。『総合仏教大辞典』は、'''中道'''の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を'''中道'''の語で表す点は一致するとし<ref name="sb997-999">総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、997-999頁。</ref>、『広説佛教語大辞典』も概ねそうした説明をしている<ref name="kb1183" />。
中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を中道の語で表す点は一致する<ref name="sb997-999">総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、997-999頁。</ref><ref name="kb1183" />。


==原義と漢訳==
仏教用語でない用法としては、「道の中央」「目的を達しないうち、中途」「極端に走らない中正の道」などの語義がある<ref name="kokugo"/><ref name="san">[http://www.weblio.jp/content/%E4%B8%AD%E9%81%93 中道] 三省堂 大辞林(weblio辞書)。</ref>。[[富士山]]の[[登山]]者が富士山の中腹をめぐることや、そのときの道も中道(ちゅうどう)と呼ばれる<ref name="kokugo">小学館国語辞典編集部 『日本国語大辞典 第8巻』 小学館、2001年7月、1480頁。</ref><ref name="san"/>。
中道(Madhyamā-pratipad)のMadhyamāは「中指、子宮、適齢女性{{要高次出典|date=2017年5月}}」を意味する<ref name="kb282">B・B・ヴィディヤランカール、A・ヴィディヤランカール 『基本梵英和辞典 縮刷版』 東方出版、2011年5月、282頁。</ref><ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=madhyamA&script=&direction=SE&link=yes मध्यमा (madhyamA)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>。Madhyamāの語尾の発音を違える Madhyama は、形容詞として「中間の、中心の、中位の、凡庸な、適度の、中間の大きさの、中立の」と訳され、名詞として「二人称、四分音符」とも訳される<ref name="kb282" />ほか、「媒体・媒介、仲介・又ぐ」など多様な英訳がある<ref>[http://spokensanskrit.org/index.php?mode=3&script=hk&tran_input=madhyama&direct=au मध्यम (madhyama)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>。一方、 pratipad の方は「入り口<ref name="ssde2">[http://spokensanskrit.de/index.php?beginning=0+&tinput=pratipad&trans=Translate&direction=SE प्रतिपद् (pratipad)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>、始まり<ref name="ssde2"/>、陰暦の最初の日<ref>山中元 『サンスクリット語 - 日本語単語帳』 国際語学社、2004年7月。</ref>、行{{refnest|pratipad (行,正行,通行,現行,行迹,行跡;道,道跡,所行道;通;法;順)<ref>荻原雲来 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、833頁。</ref>}}」などの名詞のほか、動詞としても多様な英訳がある<ref name="ssde2" />。


==中道の原義==
=== 漢語としての中道 ===
中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す<ref name="ib714">中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、714-715頁の「中道」の項目。</ref>。
中道(Madhyamā-pratipad)のMadhyamāの語尾の発音を違える Madhyama は、形容詞として「中間の、中心の、中位の、凡庸な、適度の、中間の大きさの、中立の」と訳され、名詞として「二人称、四分音符」とも訳される<ref name="kb282" />ほか、「媒体・媒介、仲介・又ぐ」など多様な英訳がある<ref>[http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=madhyama&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0 मध्यम (madhyama)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>。一方、 pratipad の方は「入り口<ref name="ssde2">[http://spokensanskrit.de/index.php?beginning=0+&tinput=pratipad&trans=Translate&direction=SE प्रतिपद् (pratipad)] - Spoken Sanskrit Dictionary.</ref>、始まり<ref name="ssde2"/>、陰暦の最初の日<ref>山中元 『サンスクリット語 - 日本語単語帳』 国際語学社、2004年7月。</ref>」などの名詞のほか、動詞としても多様な英訳がある<ref name="ssde2" />。


=== 二辺の語義 ===
=== 二辺の語義 ===
'''二辺'''は、中道を離れた両極端を指す<ref name="sb1118" />。仏典では『[[中論]]』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、『[[順中論]]』の巻下が〈常・断〉を、『[[摂大乗論]]』[[世親]]釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている<ref name="sb1118">総合佛教大辞典編集委員会 『総合佛教大辞典』 法蔵館、1988年1月、p.1118の「二辺」の項目。</ref>。
'''二辺'''は、中道を離れた両極端を指す<ref name="sb1118" />。仏典では『[[中論]]』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、『[[順中論]]』の巻下が〈常・断〉を、『[[摂大乗論]]』[[世親]]釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている<ref name="sb1118">総合佛教大辞典編集委員会 『総合佛教大辞典』 法蔵館、1988年1月、p.1118の「二辺」の項目。</ref>。


二辺の語義に、「[[二諦]]」と同様の"[[空 (仏教)|空]]"や"仮"の意味があるとする一部の仏教解釈がある<ref>[http://k-dic.sokanet.jp/%E4%B8%AD%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A9%E3%81%86%EF%BC%89/ 中道] - 創価学会 教学用語検索。</ref>。総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする<ref name="sb1118" />{{要検証範囲|が、それらしき引用箇所が見当たらない|date=2017年5月18日 (木) 00:54 (UTC)|title=総合佛教大辞典は、該当する原文を止観補行の本文から挙げてはいないのだから、この「それらしき引用箇所」というのは、この部分を書いたWikipedia執筆者が独自に想定したものにすぎない。従ってそれは総合佛教大辞典の著者が想定している「止観補行の原文での該当箇所」とは関係がない。}}<ref group="注釈">「中道を空・仮とするのは不止止とするのに似て不当である(適当ではない)」とも読める箇所がある。大正新脩大蔵経テキストデータベース 『止觀輔行傳弘決 ([[湛然]]述)』卷第三之二 (T1912_.46.0225b06: ~): 今云隨縁心隨俗理。前不止止約理不當止與不止。今息二邊。空邊如止假如不止。'''中道不當空假二邊似不止止'''。其相異者。前之三止共成一諦。今之三止各成一諦。前三成次三等者。次之與後並指體相。綺文互説是故不同。前釋名三成體相三。故體相三一一皆假釋名三成。</ref>。「二諦」に"空"や"仮"の解釈を与えるの、[[天台宗]]が三観の[[中観]]や三諦の[[中諦]]の立場を説くときである<ref>中村元 『広説佛教語大辞典 上巻』  東京書籍、2001年6月、363頁の「假観」の項目。</ref><ref>中村元 『広説佛教語大辞典 中巻』  東京書籍、2001年6月、1179頁の「中観」の項目。</ref><ref name="nitai">[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E8%AB%A6-70984#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89 三諦], [https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%AB%A6-567678#E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.9E.97.20.E7.AC.AC.E4.B8.89.E7.89.88 中諦] - コトバンク。</ref>。
二辺の語義に、「[[二諦]]」と同様の"[[空 (仏教)|空]]"や"仮"の意味があるとする一部の仏教解釈がある<ref>[http://k-dic.sokanet.jp/%E4%B8%AD%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%A1%E3%82%85%E3%81%86%E3%81%A9%E3%81%86%EF%BC%89/ 中道] - 創価学会 教学用語検索。</ref>{{efn|「二諦」に"空"や"仮"の解釈を与えるの、[[天台宗]]が三観の[[中観]]や三諦の[[中諦]]の立場を説くときである<ref>中村元 『広説佛教語大辞典 上巻』  東京書籍、2001年6月、363頁の「假観」の項目。</ref><ref>中村元 『広説佛教語大辞典 中巻』  東京書籍、2001年6月、1179頁の「中観」の項目。</ref><ref name="nitai">{{Kotobank|三諦}}, {{Kotobank|中諦}}</ref>。}}。総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする<ref name="sb1118" />。

==中道の用法==
{{独自研究|date=2017年5月11日 (木) 21:57 (UTC)|title=仏典の本文を二次資料無しで解釈したこのような記述の危険性は[[ノート:中道]]において指摘され、未だ解決には至っていない。|section=1}}
{{一次資料|date=2017年5月23日 (火) 01:52 (UTC)|section=1}}
===部派仏教時代から共通の用法===
[[部派仏教]]では、中道は賢聖(仏教の声聞)<ref group="注釈">漢訳の倶舎論に現れた「賢聖」から見道に通じる意味でも用いられる(中村元 『広説佛教語大辞典』(東京書籍) 「賢聖」)が、サンスクリットにそのような意味はなく「devatā(諸天部の)」「śrāvaka(声聞)」、またはそれに通じる意味である(『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 1113頁「賢聖」)</ref>{{疑問点|date=2017年6月4日 (日) 01:39 (UTC)|title=賢聖(仏教の声聞)という文頭の記述は、賢聖が声聞を意味するものと主張しているように見受けられるが、その出典は結局、平川彰の仏教漢梵大辞典におけるサンスクリット語義解説のみなのであろう。しかしこの賢聖という単語は、この直後にある脚注から明らかなように漢訳経典(雑阿含経)の本文に出てくる漢語なのだから、その語をサンスクリットに戻してから語義を決定するのは手続きがおかしいのではないか。そもそも、ほかならぬこの雑阿含経のこの箇所に出てくる賢聖の原語がdevatāだとかśrāvakaであると述べている二次・三次資料は無い。なお岩波仏教辞典第二版287頁の賢聖の項目でも、やはりこの語が声聞のみを指すとは書かれていないし、この語はāryaの漢訳語として用いられることが多いとしている。}}が無明を縁として行ずるものであるとする記述がみられ<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[雑阿含経|雜阿含經]] ([[求那跋陀羅]]譯)』 (T0099_.02.0084c28: ~): 梵行者亦無有 離此二邊 正向中道。賢聖出世 如實不顛倒正見所知 所謂縁無明行。諸比丘。若無明離欲而生明。</ref>{{要高次出典|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)}}{{要検証|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)|title=}}、大乗経典でも中道やその類語は無明あるいは二明から三明<ref group="注釈">部派仏教も含めて六明まで記述される経論が多くみられる。大正新脩大蔵経テキストデータベース『[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%85%AD%E6%98%8E&mode=search&uop=1 六明]』</ref>へと向かう前後の関係<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『[[瑜伽師地論]] ([[玄奘]]譯)』 (T1579_.30.0350a16: ~): 又有三明 當知爲顯於前後中際 斷常二邊邪執。※中際。</ref><ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『阿毘曇毘婆沙論 (迦旃延子造 [[浮陀跋摩]]譯 道泰譯 [[五百羅漢]]譯)』 (T1546_.28.0382c11: ~): 住於中道。復次念前世智證明。能生空。生死智證明。能生無願。漏盡智證明。能生無相。以如是等義故。此*三明隨順厭離之法。; 同『觀音玄義記 ([[知礼|知禮]]述))』 (T1727_.34.0911b20: ~): 從假入空徹見三諦即是中道無縁與拔。二明中道建立二。初約雙非皆破問。二明中道遍立答二。</ref>の所行道として説く{{要高次出典|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)}}{{要検証|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)|title=「へと向かう前後の関係」などと読んでいるが、「へと向かう」に相当する語句が原文にはなかろう。もちろん「所行道」という語の出処は不明(大正新脩大蔵経の3仏典から引用したこの脚注内にその語はないので、執筆者が独断でここへ持ち出してきているとしか考えられない)。なお瑜伽師地論の「中際」を中道の類語と見なしているらしいが、それは無出典。阿毘曇毘婆沙論の引用部分には無明や前後という語がない。觀音玄義記からの引用部分には無明および前後の語がない。Wikipedia記事の本文に有る語が、その出典とされる原文には無いというのは致命的。無いのならどこから出てきたのだ、執筆者が独断で書き込んだのか、と疑問を持たれるのは当然のこと。}}。また、[[大般若波羅蜜多経]]では声聞或いは独覚が退入する地として説かれた<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%B5%82%E4%B8%8D%E4%B8%AD%E9%81%93%E9%80%80%E5%85%A5%E8%81%B2%E8%81%9E%E6%88%96%E7%8D%A8%E8%A6%BA%E5%9C%B0&mode=search&uop=1 「終不中道退入聲聞或獨覺地」]。</ref>{{要高次出典|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)}}{{要検証|date=2017年5月31日 (水) 01:10 (UTC)|title=ノート:中道でも指摘してあることだが、執筆者は、退入の後ろに書いてある名詞のうちの「地」だけを、退入という動詞の目的語とし、声聞と独覚はなぜか退入の主語にしているわけだが、そのような読み方が正しいとする二次資料は無い。なお、この脚注内のURLのリンク先が示す経文の原文では、「終不中道退入」の直前に必ず名詞がある。従って、この「終不中道退入」の終不/不/退入などを動詞と見なすなら、その主語は、原文で「終不」の直前に書いてある各名詞である可能性があり、そうであるなら声聞や独覚はその動詞の主語にはなるまい。なぜなら同一の動詞の主語をわざわざ2箇所に分割して置くことは不自然であろうから。なお、過去の版では「不」の字を「不する」などと読んでいる者がいるが、漢文の読み下しとはいえ、不するなどという日本語は存在自体が疑わしい。「不する」と読みたいなら、その動詞が、古語を含む日本語に存在するとか漢文解釈学で容認されていることの根拠も併せて示すべき。}}。

大乗経典では二辺だけではなく、{{要検証範囲|中道をも離/出/捨/滅するという記述を多出させ<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E9%9B%A2%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search&uop=1&tall=1&nm=&np=&smode=search 離中道], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E5%87%BA%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search 出中道], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E6%8D%A8%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search 捨中道], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%B8%AD%E9%81%93%E6%BB%85&mode=search 中道滅]。</ref>|date=2017年5月23日 (火) 01:52 (UTC)|title=離中道、出中道、捨中道、中道滅という各々の三文字が、経文の当該部分において「中道を離/出/捨/滅する」と読まれるものであるかどうかは未検証。二次資料による裏付けはまだ無い。従ってこの読み方は執筆者の創作。}}<ref group="注釈">「[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E7%84%A1%E4%B8%AD%E9%81%93&mode=search 無中道]」が格段に多くみられるが、「非有非無中道」のように複雑な文脈で記述されるため出典記述としていない。</ref>、中道については魔を度す所作(行道)として記述されることがある<ref name="chudo"/>{{要高次出典|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)}}{{要検証|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)|title=所作(行道)という丸括弧が何を意味するのか不明瞭だが、行道という語が出典にないことは事実。なお、丸括弧の意味を、ノートページにおいて特定のWikipediaユーザーを対象に説明しても無意味であって、読者一般が読んでわかるようにしておかなければならない。もし所作=行道という意味で丸括弧を置いているのなら、「所作すなわち行道」などと書くほうが、意味が明らかなぶんだけマシである(しかしそのイコールの出典がなければどうしようもないが)。}}。佛説阿闍世王經では、「五陰を知る者は以って魔事有ること無し。魔界を度す者は以って中道を作す所に覆蔽(ふくへい)する所無し」とし<ref name="chudo">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説阿闍世王經 ([[支婁迦讖]]譯) 』 (T0626_.15.0390c13: ~): 以知五陰者無有魔事。以度魔界者所作中道無所覆蔽。※[[経集部 (大正蔵)|経集部]]所収の顕教の経。</ref>{{要検証|date=2017年5月31日 (水) 01:10 (UTC)|title=「所・作」という2字を、ここでは「作す所」と読んでいるようだが、この直前ではこれを「所作(行道)」と読んでいるわけである。所作と「作す所」が同義語であるとか「入れ替え可能」だなどと述べている二次・三次資料はないので、原文にあるこの2字を一方では「所作」という2字熟語として読み、他方では「作す所」と読んだ場合に、その両方の読み方が容認されるとか同義だなどとは全く言えない。これはノート:中道でも指摘済み。}}、中道を「五陰」を知る過程のうち、以って魔界を度す覆蔽(ふくへい)なき所作(行道)としている<ref name="chudo"/>{{要高次出典|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)}}{{要検証|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)|title=「五陰を知る過程」などと読んでいるが、「過程」に相当する語は原文にない。また、所作(行道)という丸括弧が何を意味するのか不明瞭だが、行道という語が出典にないことは事実。ここもやはり、丸括弧の意味を読者一般が読んですぐ分かるようにすべき。丸括弧という記号の意味は多様でありうるので、何を意図して丸括弧を置いているのかは、じつは執筆者以外の人は定かには分からない。}}。[[中国]]ではより具体的に、悪鬼境界の二辺に出づることが中道の(宝の)渚に到達することであるとする経解も出現した<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『觀音義疏記 (知禮述)』 (T1729_.34.0941c14: ~): 即出二邊惡鬼境界 即能達到中道寶渚。鬼義合前後 章前即此章貼文約事 後即第五鬼難章也。</ref>{{要高次出典|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)}}{{要検証|date=2017年5月29日 (月) 05:46 (UTC)|title=悪鬼境界の二辺に出づること、と読んでいるが、この読み方を支持する二次・三次資料はもちろん挙げられていない。「二辺と悪鬼境界を出る」とも読めようし、もしそう読めば、その二辺は「悪鬼境界の二辺」ではなく単なる二辺でしかない。「悪鬼境界の」という修飾の有無は重大な差異であろうから、二次資料が支持する読み下しかたを確認できないかぎりは、このような記述を本文に載せるべきではない。より具体的、という評価も、執筆者の個人的な感慨にすぎない。}}。

また、遡って[[天台智顗]]の『妙法蓮華經文句』を参照すると、「衆生戒を摂する尸波羅蜜(しはらみつ)と共に中道の道を{{疑問点範囲|持して度し|date=2017年5月23日 (火) 01:52 (UTC)|title=国訳一切経掲載の書き下し文では「中道の道を度す」という文意は無い。国訳一切経 和漢撰述部 諸経部2のp.27参照。ノート:中道 にも引用してある。ノート:中道 では、IP利用者がこの部分について「一切経のほうがやっつけ仕事です」との独断に基づいて、自前の解釈を正当化している。}}、「魔界を降伏す」と経解しており<ref name="myo">大正新脩大蔵経テキストデータベース 『妙法蓮華經文句 (智顗説)』 (T1718_.34.0007a03: ~): 久除五住何惡不破獲眞法喜如食乳糜更無所須。持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度。魔界降伏。</ref>{{要検証|date=2017年5月23日 (火) 01:52 (UTC)|title=ノート:中道 に引用してあるとおり、妙法蓮華經文句のこの部分を含む文は本来、「本迹とは、」で始まっており、そのまま文が終わらず続き、この「持中道道共〜」というフレーズが現れるより前に「眞の法喜を護ることは、」という文言も入っている。従って、「本迹」や「眞の法喜を護ること」が「魔界を降伏」するのであって、「魔界を降伏」は「中道」の語義ではないとの解釈も可能だが(文の始点から読めばその読解可能性を無視できないはずだが)、なぜかここでは「魔界を降伏」が「中道」の語義だとされている。}}、{{要検証範囲|眞の法喜を護ることは「衆生戒を摂する」ものとして明示している<ref name="myo"/>|date=2017年5月27日 (土) 03:11 (UTC)|title=ノートページに引用してあるように、国訳一切経は「持中道道共尸波羅蜜攝衆生戒度」を「中道道共の尸波羅蜜、攝衆生の戒度を持し」と書き下している。「衆生戒を摂する」では「度」の字も脱落もしている。}}。天台智顗はまた『[[摩訶止観]]』の中で、「若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り」としている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『摩訶止觀 (智顗説)』 (T1911_.46.0020a24: ~): 説是止觀者若行違中道即有二邊果報。若行順中道即有勝妙果報。</ref><ref group="注釈">国訳一切経での書き下し文は、この前後を含めると次の通り:「第三に菩薩の淸浄大果報を明さんが爲の故に、是の止觀を説くとは、若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り。設ひ未だ分段を出でざるも、護る所の華報、亦七種の方便に異なる。況や真の果報をや。」 ※出典:岩野眞雄・編 『国訳一切経 和漢撰述部 諸宗部2』 大東出版社、1988年、74頁。</ref>。

なお、[[大正新脩大蔵経|大正新脩大藏經]]で[[密教]]部に所収されている佛説瑜伽大教王經<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?key=%E4%BD%9B%E8%AA%AC%E7%91%9C%E4%BC%BD%E5%A4%A7%E6%95%99%E7%8E%8B%E7%B6%93&mode=search&uarnums%5B0890_18%5D=0890_18 佛説瑜伽大教王經] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>にも、「実相の菩提は有無に非ず、亦た二辺無く中道(も)無く、虚空の如き寂静を離相し、三世諸仏が証する所の何かである」とするものがある<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a06: ~): 實相菩提非有無 亦無二邊無中道 離相寂靜如虚空 三世諸佛何所證。</ref>(その何かとは大道心であるとする<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『佛説瑜伽大教王經 (法賢譯)』 (T0890_.18.0580a09: ): 智離取捨觀諸蘊 唯顯眞空大道心。</ref>){{要高次出典|date=2017年6月4日 (日) 02:38 (UTC)}}{{要検証|date=2017年6月4日 (日) 02:38 (UTC)|title=「三世諸佛何所證」の「何」の字が「大道心」を指すという解釈を述べている二次・三次資料は無いし、原文をどう読めばそのような解釈が可能なのかも全く説明されていない。}}。


== 原始仏教・パーリ仏典・阿含経典 ==
== 原始仏教・パーリ仏典・阿含経典 ==
{{節stub}}
{{節スタブ}}
{{要検証範囲|原始仏教において'''中道'''は、主として不苦不楽の中道を意味した。具体的には[[八正道]]を指す<ref name="kb1183" />。|title=不苦不楽=中道=八正道の理屈が不明。辞典の短い記述を抜き出しただけの記述。中村元が頭の中で意味を構築していたとしても、この記述だけでは意味不明。下の記述とも矛盾する。|date=20175月}}
原始仏教において'''中道'''は、主として不苦不楽の中道を意味した。具体的には[[八正道]]を指す<ref name="kb1183" /><ref name=fukita />{{要ページ番号|date=2018825日 (土) 21:45 (UTC)}}


=== 不苦不楽の中道 ===
=== 不苦不楽の中道 ===
[[中阿含経]]巻五六などでは、八聖道(八正道<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93%E3%83%BB%E5%85%AB%E8%81%96%E9%81%93-359691|title=八正道・八聖道(はっしょうどう)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-5-17}}</ref>)の実践は[[快楽主義]]と[[苦行]]主義との偏った生活態度を離れ、それによって[[智慧]]を完成して[[涅槃]]の[[悟り|さとり]]に趣く道であるから八聖道を中道という<ref name="sb997-999" />。
[[中阿含経]]巻五六などでは、八聖道(八正道<ref>{{Kotobank|八正道・八聖道}}</ref>)の実践は[[快楽主義]]と[[苦行]]主義との偏った生活態度を離れ、それによって[[智慧]]を完成して[[涅槃]]の[[悟り|さとり]]に趣く道であるから八聖道を中道という<ref name="sb997-999" />。


釈迦が[[鹿野苑]]において[[五比丘]]に対して初めての説法を行った際に([[初転法輪]])、中道と八正道について次のように述べたことが、[[パーリ典]][[相応部]]の五六・二に描かれている<ref>長尾雅人・工藤成樹訳 『世界の名著 1 バラモン教典 原始仏典』 [[中央公論社]]、1969年5月、pp435-439の「二 初めての説法(相応部 五六・二)」</ref>。
=== 相応部の教典 ===
釈迦が[[鹿野苑]]において[[五比丘]]に対して初めての説法を行った際に([[初転法輪]])、中道と八正道について次のように述べたことが、[[パーリ語経典]]相応部の五六・二に描かれている<ref>長尾雅人・工藤成樹訳 『世界の名著 1 バラモン教典 原始仏典』 [[中央公論社]]、1969年5月、pp435-439の「二 初めての説法(相応部 五六・二)」</ref>。


{{quotation|
{{quotation|そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たち、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。<br />
 第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道をはっきりと悟った。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。<br />
そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たちよ、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。<br />
 第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。また、第二には[[苦行|自ら肉体的な疲労消耗を追い求める]]ということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。<br>
 比丘たち、如来はそれら両極端を避けた中道(majjhimā paṭipadā)をはっきりと悟った。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。<br />
 比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。それは八つの項目から成るとうとい道(八正道、八支聖道)である。}}
 比丘たち、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。それは八つの項目から成る[[解脱への道|]](八正道、八支聖道)である。
| [[相応部]] 56.[[諦相応]] [[転法輪経]]}}


=== 十二縁起と中道 ===
=== 十二縁起と中道 ===
{{Quotation|
[[雑阿含経]]巻一二などでは、[[十二縁起]]の真理を正しく理解することは、常見と断見や、有見と無見などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することであると説く<ref name="sb997-999" />
[[迦旃延|カッチャーナ]]よ、[[世間]]では多くの人が二つの見を拠り所としている。[[実在論]](atthita)と[[虚無論]](natthita)に。<br>
... (中略) ...<br>
カッチャーナよ、「一切は存在する(atthī)」というのは、第一の極端である。<br>
カッチャーナよ、「一切は存在しない(naatthī)」というのは、第二の極端である。<br>
カッチャーナよ、[[如来]]はこれらの両極端には近づかず、中道(majjhena)によって法を指し示す。<br>
無明により行が起こり、...([[十二因縁#概要|中略]])...生により老死が、愁悲苦憂悩が生じる。このようにして、全ての苦蘊は生起する。
| {{SLTP|[[相応部]][[因縁相応]] 15.カッチャーナゴッタ経 }}
}}

{{Quotation|
比丘よ、「生命(jīvaṃ)と身体(sarīran)は同一である」という見があるならば、梵行に住することはない。<br>
比丘よ、「生命と身体とは別個である」という見があるならば、梵行に住することはない。<br>
比丘よ、如来はこれらの両極端へ近づかず、中道(majjhena)によって法を指し示す。<br>
生(jati)に縁って(paccayā)老死(jarāmaraṇa)ありと。
... (中略) ... 有に縁って生ありと。... (中略) ... サンカーラに縁って識ありと。
| {{SLTP| [[相応部]] [[因縁相応]] 35.無明縁経 }}
}}

[[雑阿含経]]巻一二などでは、[[十二縁起]]の真理を正しく理解することは、[[常見]][[断見]]や、[[有見]][[無見]]などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することであると説く<ref name="sb997-999" />


=== 琴の弦(緊緩中道) ===
=== 琴の弦(緊緩中道) ===
{{Main|五根 (三十七道品)#五根の均衡}}
{{出典の明記|date=2017年5月16日 (火) 08:25 (UTC)|section=1}}
[[パーリ語経典]]の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、釈迦が、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていた[[ソーナ (僧)|ソーナ]]という比丘に対して、琴の例えに出して中道をいている
[[パーリ語経典]]の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに[[精進]]しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていた[[ソーナ (僧)|ソーナ]]という比丘が登場する<ref name=fukita/>{{要ページ番号|date=2018年8月25日 (土) 21:45 (UTC)}}。彼は、過度の修行より足から血を流すほどであった<ref name=fukita/>{{要ページ番号|date=2018年8月25日 (土) 21:45 (UTC)}}。それを知った釈迦はソーナが琴の名手であったこと知り以下の法を行った<ref name=fukita/>{{要ページ番号|date=2018年8月25日 (土) 21:45 (UTC)}}


{{Quotation|
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」<br>
「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」<br>
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」<br>
「いいえ、そうではありません、大徳よ」<br>
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」<br>
「そのとおりです、大徳よ」<br>
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」
| [[犍度|ケン度]]大品 5,16-17 <ref name=fukita>{{Cite |和書|title=ブッダとは誰か |author=[[吹田隆道]] |date=2013|isbn=978-4393135686 |pp=151-154}}</ref> }}
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。
弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。


== 部派仏教・部派仏典 ==
== 部派仏教・部派仏典 ==
『総合仏教大辞典』は、[[部派仏教]]では[[阿毘達磨大毘婆沙論|大毘婆沙論]]巻四九や[[成実論]]巻十一などに、[[阿含経典|阿含]]の教説を承けて、中道は断・常の二見を離れた立場であると説くとしている<ref name="sb997-999" />。
『総合仏教大辞典』は、[[部派仏教]]では[[阿毘達磨大毘婆沙論|大毘婆沙論]]巻四九や[[成実論]]巻十一などに、[[阿含経典|阿含]]の教説を承けて、中道は断・常の二見を離れた立場であると説くとしている<ref name="sb997-999" />。ただし、[[大正新脩大蔵経]]では、{{疑問点範囲|大毘婆紗論巻四九にニ見を離れるという記述は出現せず<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1545_,27,0255a21&key=%E9%9B%A2+%E4%BA%8C%E8%A6%8B&ktn=&mode2=2 大毘婆紗論] 巻四十九は(T1545_.27.0252a19 ~ T1545_.27.0257a10)まで。 - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。</ref>|date=2017年6月7日 (水) 04:18 (UTC)|title=これは、この部分の執筆者が、大毘婆沙論巻四十九における「二見を離れるという記述」というものを独自に「離 二見」であると想定したうえで、一次資料たる大毘婆沙論原文に「それが出現しない」と言っているにすぎない。従ってそれは、総合佛教大辞典の著者が「二見を離れた立場」を指すものとして想定している大毘婆沙論の文言とは関係がないので、この「○○が見つからない」という指摘自体が的外れである。そもそも総合佛教大辞典の当該頁は、「二見を離れた立場」に相当する文言を、大毘婆沙論の原文から特定して挙げてはいない。}}、{{疑問点範囲|成実論巻十一には二見の語が現れない<ref>[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1646_,32,0323a09&key=+%E6%88%90%E5%AF%A6%E8%AB%96%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%80&ktn=&mode2=2 成実論巻十一(その1)], [http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=1646_,32,0332b22&key=+%E6%88%90%E5%AF%A6%E8%AB%96%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%80&ktn=&mode2=2 成実論巻十一(その2)] - 大正新脩大蔵経テキストデータベース。※同大蔵経は成実論を[[論集部 (大正蔵)|論集部]]に位置づけている。</ref>。|date=2017年6月7日 (水) 04:18 (UTC)|title=そもそも総合佛教大辞典の997-998頁は成実論巻十一に「二見」の語が〈存在する〉と述べているわけではないのだから、成実論の巻十一に「二見が現れない」という指摘自体が的外れ。辞典が仏典原文をそのまま引用しているとは限らない以上、辞典にある語句がそのまま仏典原文にあるとは限らないのだから、「辞典が言う○○を原文で探したけれど、ありませんでした」ということをわざわざ記事本文で報告することにさほどの価値はないのではないか。三次資料たるこの辞典が成実論に関して言うこの「二見」が何を指しているのかを推定するためには別の二次・三次資料が必要だし(もちろん総合仏教大辞典のこのp.998の②が言う断・常もその有力な候補であるのだが、なぜか執筆者はそれを考慮の外に置いている)、「原文に二見が無い」という情報は、その推定の結果として二見は何を指しているのか、という文脈の下で使えばよいだけだろう。}}


== 大乗仏教・大乗仏典 ==
== 大乗仏教・大乗仏典 ==
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[[龍樹|ナーガールジュナ]]の[[中論]]では、'''中道'''は[[縁起]]・空・仮名と同じ意味である<ref name="kb1183" />。また、同書第18偈では、縁起と空と中道をほぼ同義として扱う<ref name="ib704">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |authorlink= |coauthors= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=704 |isbn=}}</ref>{{efn|「中論」という名称は、『中論』の約450偈のうちでこの1回だけ現れる「中道」の語に基づく<ref name="ib704" />。}}。中論が、縁起・空性・仮・中道を同列に置くのは、全てのものは縁起し空であると見る点に中道を見て、空性の解明によって中道を理論づけるものである<ref name="ib714" />。中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という<ref name="sb997-999" />。
[[龍樹|ナーガールジュナ]]の[[中論]]では、'''中道'''は[[縁起]]・空・仮名と同じ意味である<ref name="kb1183" />。また、同書第18偈では、縁起と空と中道をほぼ同義として扱う<ref name="ib704">{{Cite book |和書 |author=中村元ほか(編) |authorlink= |coauthors= |date=2002-10 |title=岩波仏教辞典 |edition=第二版 |publisher=岩波書店 |volume= |page=704 |isbn=}}</ref>{{efn|「中論」という名称は、『中論』の約450偈のうちでこの1回だけ現れる「中道」の語に基づく<ref name="ib704" />。}}。中論が、縁起・空性・仮・中道を同列に置くのは、全てのものは縁起し空であると見る点に中道を見て、空性の解明によって中道を理論づけるものである<ref name="ib714" />。中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という<ref name="sb997-999" />。


中観派では、[[般若波羅蜜]]を根本的立場とし、すべての執着や分別のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする<ref name="sb997-999" />。
中観派では、[[般若波羅蜜]]を根本的立場とし、すべての執着や[[分別 (仏教)|分別]]のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする<ref name="sb997-999" />。


=== 瑜伽行派 ===
=== 瑜伽行派 ===
[[瑜伽行派]](唯識派)<ref>{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E6%B4%BE-144960|title=瑜伽行派(ゆがぎょうは)とは - コトバンク|publisher=朝日新聞社|accessdate=2017-5-17}}</ref>においては、認識対象は外在的なものではなく[[識]]の顕れにすぎないので非有、しかし識の顕れは現実に存在するので非無であり、全ては認識作用にすぎないという〈一切唯識〉において中道が把握される(唯識中道)<ref name="ib714" />。
[[瑜伽行派]](唯識派)<ref>{{Kotobank|瑜伽行派}}</ref>においては、認識対象は外在的なものではなく[[識]]の顕れにすぎないので非有、しかし識の顕れは現実に存在するので非無であり、全ては認識作用にすぎないという〈一切唯識〉において中道が把握される(唯識中道)<ref name="ib714" />。


=== 三論宗 ===
=== 三論宗 ===
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=== 法相宗 ===
=== 法相宗 ===
唯識宗([[法相宗]])<ref>{{Cite web|url=http://www.nara-yakushiji.com/guide/hosso.html|title=法相宗とは(教義について)-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple|publisher=薬師寺|accessdate=2017-5-12}}</ref>では、有空中の三時教の[[教判]]を立てて、[[解深密経]]などの説のように、〈有・空〉の二辺を離れて非有非空の中道の真理を完全に顕した教えを中道了義教とし、〈有・空〉に偏る教えを不了義教とする<ref name="sb997-999" />。その中道とは、いわゆる唯識中道のことであり、法相宗は唯識中道を説くことから、自らを'''中道宗'''とも称する<ref name="sb997-999" />。法相宗の教えは'''中道教'''とも呼ばれる<ref name="kb1183" />。法相宗では'''中道'''は、教理の核心としての'''非有非空'''をも指す<ref name="kb1183" />。
唯識宗([[法相宗]])<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nara-yakushiji.com/guide/hosso.html|title=法相宗とは(教義について)-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple|publisher=薬師寺|accessdate=2017-05-12}}</ref>では、有空中の三時教の[[教判]]を立てて、[[解深密経]]などの説のように、〈有・空〉の二辺を離れて非有非空の中道の真理を完全に顕した教えを中道了義教とし、〈有・空〉に偏る教えを不了義教とする<ref name="sb997-999" />。その中道とは、いわゆる唯識中道のことであり、法相宗は唯識中道を説くことから、自らを'''中道宗'''とも称する<ref name="sb997-999" />。法相宗の教えは'''中道教'''とも呼ばれる<ref name="kb1183" />。法相宗では'''中道'''は、教理の核心としての'''非有非空'''をも指す<ref name="kb1183" />。


=== 成論師 ===
=== 成論師 ===
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[[法華経]]の化城喩品では、[[三界]]の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間を'''中道'''という<ref name="kb1183" />。
[[法華経]]の化城喩品では、[[三界]]の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間を'''中道'''という<ref name="kb1183" />。


== 関連項目 ==
==== 摩訶止観 ====
天台智顗は『[[摩訶止観]]』の中で、「若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り」としている<ref>大正新脩大蔵経テキストデータベース 『摩訶止觀 (智顗説)』 (T1911_.46.0020a24: ~): 説是止觀者若行違中道即有二邊果報。若行順中道即有勝妙果報。</ref>{{efn|国訳一切経での書き下し文は、この前後を含めると次の通り:「第三に菩薩の淸浄大果報を明さんが爲の故に、是の止觀を説くとは、若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り。設ひ未だ分段を出でざるも、護る所の華報、亦七種の方便に異なる。況や真の果報をや。」<ref>岩野眞雄・編 『国訳一切経 和漢撰述部 諸宗部2』 大東出版社、1988年、74頁</ref>}}。
*[[縁覚]]
*[[畜生道]]


== 注 ==
== 注 ==
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== 出典 ==
=== 注釈 ===
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=== 典 ===
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== 外部リンク ==
== 関連項目 ==
* [[縁覚]]
* [[中庸]]


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仏教用語
中道
パーリ語 Majjhimā-paṭipadā
サンスクリット語 Madhyamā-pratipad
チベット語 དབུ་མའི་ལམ།
中国語 中道
日本語 中道
英語 Middle Way
タイ語 มัชฌิมาปฏิปทา
ベトナム語 Trung đạo;
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仏教用語としての中道(ちゅうどう、: Madhyamā-pratipad[注釈 1], マディヤマー・プラティパッド[2]: Majjhimā-paṭipadā, マッジマー・パティパダー[3])は、2つのものの対立を離れていること[4]の二見、あるいは有・無の二辺を離れた不偏にして中正なる道のこと[4]中行[5]中路あるいは単にともいう[6]

中道の語は仏教において広く重んじられているため、その意味には浅深があるが、各宗がその教理の核心を中道の語で表す点は一致する[6][4]

原義と漢訳

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中道(Madhyamā-pratipad)のMadhyamāは「中指、子宮、適齢女性[信頼性要検証]」を意味する[7][8]。Madhyamāの語尾の発音を違える Madhyama は、形容詞として「中間の、中心の、中位の、凡庸な、適度の、中間の大きさの、中立の」と訳され、名詞として「二人称、四分音符」とも訳される[7]ほか、「媒体・媒介、仲介・又ぐ」など多様な英訳がある[9]。一方、 pratipad の方は「入り口[10]、始まり[10]、陰暦の最初の日[11]、行[13]」などの名詞のほか、動詞としても多様な英訳がある[10]

漢語としての中道

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中道の〈中〉は、2つのものの中間ではなく、2つのものから離れて矛盾対立を超えることを意味し、〈道〉は実践・方法を指す[14]

二辺の語義

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二辺は、中道を離れた両極端を指す[15]。仏典では『中論』の巻四が〈有・無〉あるいは〈常・無常〉を、『順中論』の巻下が〈常・断〉を、『摂大乗論世親釈の巻一が〈増益・損減〉を二辺の語義として挙げている[15]

二辺の語義に、「二諦」と同様の""や"仮"の意味があるとする一部の仏教解釈がある[16][注釈 2]。総合佛教大辞典は『止観輔行』の巻三が〈空・仮〉を二辺として挙げているとする[15]

原始仏教・パーリ仏典・阿含経典

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原始仏教において中道は、主として不苦不楽の中道を意味した。具体的には八正道を指す[4][20][要ページ番号]

不苦不楽の中道

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中阿含経巻五六などでは、八聖道(八正道[21])の実践は快楽主義苦行主義との偏った生活態度を離れ、それによって智慧を完成して涅槃さとりに趣く道であるから八聖道を中道という[6]

釈迦が鹿野苑において五比丘に対して初めての説法を行った際に(初転法輪)、中道と八正道について次のように述べたことが、パーリ仏典相応部の五六・二に描かれている[22]

そのとき、世尊は五人の比丘の群れに告げられた。「比丘たちよ、出家した者はこの二つの極端に近づいてはならない。二つとは何か。
 第一にさまざまな対象に向かって愛欲快楽を求めるということ、これは低劣で、卑しく、世俗の者のしわざであり、とうとい道を求める者のすることではない。また、第二には自ら肉体的な疲労消耗を追い求めるということ、これは苦しく、とうとい道を求める者のすることではなく、真の目的にかなわない。
 比丘たちよ、如来はそれら両極端を避けた中道(majjhimā paṭipadā)をはっきりと悟った。これは、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ、すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつものである。
 比丘たちよ、では如来がはっきりとさとったところの、人の眼を開き、理解を生じさせ、心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役立つ中道とは何か。それは八つの項目から成る(八正道、八支聖道)である。

—  相応部 56.諦相応 転法輪経

十二縁起と中道

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カッチャーナよ、世間では多くの人が二つの見を拠り所としている。実在論(atthita)と虚無論(natthita)に。
... (中略) ...
カッチャーナよ、「一切は存在する(atthī)」というのは、第一の極端である。
カッチャーナよ、「一切は存在しない(naatthī)」というのは、第二の極端である。
カッチャーナよ、如来はこれらの両極端には近づかず、中道(majjhena)によって法を指し示す。
無明により行が起こり、...(中略)...生により老死が、愁悲苦憂悩が生じる。このようにして、全ての苦蘊は生起する。 —  パーリ仏典, 相応部因縁相応 15.カッチャーナゴッタ経, Sri Lanka Tripitaka Project

比丘よ、「生命(jīvaṃ)と身体(sarīran)は同一である」という見があるならば、梵行に住することはない。
比丘よ、「生命と身体とは別個である」という見があるならば、梵行に住することはない。
比丘よ、如来はこれらの両極端へ近づかず、中道(majjhena)によって法を指し示す。
生(jati)に縁って(paccayā)老死(jarāmaraṇa)ありと。 ... (中略) ... 有に縁って生ありと。... (中略) ... サンカーラに縁って識ありと。 —  パーリ仏典, 相応部 因縁相応 35.無明縁経, Sri Lanka Tripitaka Project

雑阿含経巻一二などでは、十二縁起の真理を正しく理解することは、常見断見や、有見無見などのように偏ったものの見方を離れることであるから、十二縁起を正しく観察することが中道の正見に住することであると説く[6]

琴の弦(緊緩中道)

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パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場する[20][要ページ番号]。彼は、過度の修行により足から血を流すほどであった[20][要ページ番号]。それを知った釈迦は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行った[20][要ページ番号]

「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「いいえ、そうではありません、大徳よ」
「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」
「そのとおりです、大徳よ」
「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」

—  ケン度大品 5,16-17 [20]

弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。

部派仏教・部派仏典

[編集]

『総合仏教大辞典』は、部派仏教では大毘婆沙論巻四九や成実論巻十一などに、阿含の教説を承けて、中道は断・常の二見を離れた立場であると説くとしている[6]

大乗仏教・大乗仏典

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中論・中観派

[編集]

ナーガールジュナ中論では、中道縁起・空・仮名と同じ意味である[4]。また、同書第18偈では、縁起と空と中道をほぼ同義として扱う[23][注釈 3]。中論が、縁起・空性・仮・中道を同列に置くのは、全てのものは縁起し空であると見る点に中道を見て、空性の解明によって中道を理論づけるものである[14]。中論巻一観因縁品では、〈生・滅・断・常・一・異・去・来〉の八の誤った見解(八邪)を離れて無得正観に住するのを中道とし、これを八不中道という[6]

中観派では、般若波羅蜜を根本的立場とし、すべての執着や分別のはからいを離れた無所得の在り方にあるのを中道とする[6]

瑜伽行派

[編集]

瑜伽行派(唯識派)[24]においては、認識対象は外在的なものではなくの顕れにすぎないので非有、しかし識の顕れは現実に存在するので非無であり、全ては認識作用にすぎないという〈一切唯識〉において中道が把握される(唯識中道)[14]

三論宗

[編集]

三論宗は、中論が説く八不中道の説に基づき、俗諦中道(世諦中道)・真諦中道・二諦合明の中道(非俗非真の中道)という三種の中道を説く[6]

法相宗

[編集]

唯識宗(法相宗[25]では、有空中の三時教の教判を立てて、解深密経などの説のように、〈有・空〉の二辺を離れて非有非空の中道の真理を完全に顕した教えを中道了義教とし、〈有・空〉に偏る教えを不了義教とする[6]。その中道とは、いわゆる唯識中道のことであり、法相宗は唯識中道を説くことから、自らを中道宗とも称する[6]。法相宗の教えは中道教とも呼ばれる[4]。法相宗では中道は、教理の核心としての非有非空をも指す[4]

成論師

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成論師は、世諦中道・真諦中道・真俗合論中道の三種中道を立てた[4]

天台・天台宗

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慧文によると、因縁によって生じたものが必ずある(定有)のでもなく、またそれらが空であるとしても、必ず空(定空)であるというのでもなく、空有不二であることを中道という[4]

天台宗では、空・仮・中の三諦を立て、中は空・仮を超えた絶対であるとする[4]。この空・仮・中は相互に別なく円融し、即空・即仮・即中としての中道であるとする[4]。天台宗では中道は、教理の核心としての諸法実相をも指す[4]

法華経

[編集]

法華経の化城喩品では、三界の中にある分段生死と、三界を超えて外にある変易生死との中間を中道という[4]

摩訶止観

[編集]

天台智顗は『摩訶止観』の中で、「若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り」としている[26][注釈 4]

脚注

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注釈

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  1. ^ : madhyamā-pratipat とも綴る[1]
  2. ^ 「二諦」に"空"や"仮"の解釈を与えるのは、天台宗が三観の中観や三諦の中諦の立場を説くときである[17][18][19]
  3. ^ 「中論」という名称は、『中論』の約450偈のうちでこの1回だけ現れる「中道」の語に基づく[23]
  4. ^ 国訳一切経での書き下し文は、この前後を含めると次の通り:「第三に菩薩の淸浄大果報を明さんが爲の故に、是の止觀を説くとは、若し行、中道に違すれば、卽ち二邉の果報有り。若し行、中道に順ずれば、卽ち勝妙の果報有り。設ひ未だ分段を出でざるも、護る所の華報、亦七種の方便に異なる。況や真の果報をや。」[27]

出典

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  1. ^ 岩波書店『岩波 仏教辞典 第二版』 714-715頁、春秋社『仏教・インド思想辞典』
  2. ^ 『仏教漢梵大辞典』 平川彰編纂 (霊友会) 73頁「中道」。
  3. ^ 『パーリ仏教辞典』 村上真完, 及川真介著 (春秋社) 和訳語索引 2375頁「中道」。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m 中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、1183頁。
  5. ^ 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、995頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j 総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、997-999頁。
  7. ^ a b B・B・ヴィディヤランカール、A・ヴィディヤランカール 『基本梵英和辞典 縮刷版』 東方出版、2011年5月、282頁。
  8. ^ मध्यमा (madhyamA) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  9. ^ मध्यम (madhyama) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  10. ^ a b c प्रतिपद् (pratipad) - Spoken Sanskrit Dictionary.
  11. ^ 山中元 『サンスクリット語 - 日本語単語帳』 国際語学社、2004年7月。
  12. ^ 荻原雲来 『漢訳対照梵和大辞典 増補改訂版』 鈴木学術財団 (山喜房仏書林)、1979年、833頁。
  13. ^ pratipad (行,正行,通行,現行,行迹,行跡;道,道跡,所行道;通;法;順)[12]
  14. ^ a b c 中村元ほか編 『岩波仏教辞典 第二版』 岩波書店、2002年10月、714-715頁の「中道」の項目。
  15. ^ a b c 総合佛教大辞典編集委員会 『総合佛教大辞典』 法蔵館、1988年1月、p.1118の「二辺」の項目。
  16. ^ 中道 - 創価学会 教学用語検索。
  17. ^ 中村元 『広説佛教語大辞典 上巻』  東京書籍、2001年6月、363頁の「假観」の項目。
  18. ^ 中村元 『広説佛教語大辞典 中巻』  東京書籍、2001年6月、1179頁の「中観」の項目。
  19. ^ 三諦』 - コトバンク, 『中諦』 - コトバンク
  20. ^ a b c d e 吹田隆道『ブッダとは誰か』2013年。ISBN 978-4393135686 
  21. ^ 八正道・八聖道』 - コトバンク
  22. ^ 長尾雅人・工藤成樹訳 『世界の名著 1 バラモン教典 原始仏典』 中央公論社、1969年5月、pp435-439の「二 初めての説法(相応部 五六・二)」
  23. ^ a b 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年10月、704頁。 
  24. ^ 瑜伽行派』 - コトバンク
  25. ^ 法相宗とは(教義について)-薬師寺公式サイト|Guide-Yakushiji Temple”. 薬師寺. 2017年5月12日閲覧。
  26. ^ 大正新脩大蔵経テキストデータベース 『摩訶止觀 (智顗説)』 (T1911_.46.0020a24: ~): 説是止觀者若行違中道即有二邊果報。若行順中道即有勝妙果報。
  27. ^ 岩野眞雄・編 『国訳一切経 和漢撰述部 諸宗部2』 大東出版社、1988年、74頁

関連項目

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