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下書き:藤沢母娘殺人事件 |
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* またAはこの時Fの「俺と友達になろう」という言葉を聞いた上で自分の連絡先を記したメモを渡していたことから遠藤は「Aは当時Fからの『友達になろう』という申し出を了承したも同然だったが、一方でFの住所・電話番号はろくに聞いていなかった」と表現した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.28"/>。 |
* またAはこの時Fの「俺と友達になろう」という言葉を聞いた上で自分の連絡先を記したメモを渡していたことから遠藤は「Aは当時Fからの『友達になろう』という申し出を了承したも同然だったが、一方でFの住所・電話番号はろくに聞いていなかった」と表現した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.28"/>。 |
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Fはそれから約1週間後にA宅へ電話を |
Fはそれから約1週間後にA宅へ電話を掛けてAをデートに誘い<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.28"/>、2回目の電話で「1981年12月11日(土曜日)の13時に茅ヶ崎高校近くの国道1号交差点付近で待ち合わせる」と約束したが、Aの同級生が「すっぽかしてしまえばいい」と忠告したため、Aはこの日待ち合わせ場所に現れなかった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.29">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=29}}</ref>。しかしFは再び電話を掛け、期末試験後の12月15日14時に改めて[[日本国有鉄道]](国鉄、現在の[[東日本旅客鉄道|JR東日本]])[[東海道線 (JR東日本)|東海道線]]・[[辻堂駅]]前で待ち合わせするよう提案し、この時はAも約束通り辻堂駅でFと待ち合わせた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.29"/>。2人はこの日、東海道線の下り電車に乗車して[[熱海駅]]([[静岡県]][[熱海市]])まで移動してバスを乗り継いで[[熱海後楽園ゆうえんち|熱海後楽園ホテル]]へ行き、レストランで食事をしたりゲームを楽しんだりし<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.29"/>、さらに海岸沿いの道を歩いて駅に向かった際には腕組こそしなかったものの「仲の良いカップルのように」肩を並べて歩き、Fはこの時に初めて自分の住所・電話番号をAに教え、自宅近くの[[平塚駅]]で下車する際にAと別れた<ref group="書籍">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=29-30}}</ref>。 |
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* 遠藤允は当時のFの心理状態に関して「Fは中学卒業まで同級生にほとんど相手にされず、周囲が男性だらけの少年院で通算2年3か月過ごしていたことを抜きにしても成人に達するまで女性関係がほとんどなかった。口では[[接吻|キス]]を求めながら行動に移せず、相手の女性に拒絶されるとあっさり引き下がる弱気な面も持っていたFにとって、自ら接近して声をかけたAが熱海までデートに付き合ってくれたことはかなり嬉しかっただろうし、Aと一緒に過ごした数時間は天にも昇る気持ちだったに違いない」と推測した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.30">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=30}}</ref>。またこの時にはAから「ニューミュージックのファンだ」と聞き出していたことから、後述のように12月27日にA宅を訪問した際にはイギリス人グループのカセットテープを持参している<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.32"/>。 |
* 遠藤允は当時のFの心理状態に関して「Fは中学卒業まで同級生にほとんど相手にされず、周囲が男性だらけの少年院で通算2年3か月過ごしていたことを抜きにしても成人に達するまで女性関係がほとんどなかった。口では[[接吻|キス]]を求めながら行動に移せず、相手の女性に拒絶されるとあっさり引き下がる弱気な面も持っていたFにとって、自ら接近して声をかけたAが熱海までデートに付き合ってくれたことはかなり嬉しかっただろうし、Aと一緒に過ごした数時間は天にも昇る気持ちだったに違いない」と推測した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.30">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=30}}</ref>。またこの時にはAから「ニューミュージックのファンだ」と聞き出していたことから、後述のように12月27日にA宅を訪問した際にはイギリス人グループのカセットテープを持参している<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.32"/>。 |
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* またこの時にFは2人分の往復電車賃・食事代・ゲーム料金などすべての費用を自分で支払っていたが、遠藤はこの点に関して「この時の出費は大した金額ではないとはいえ、定職を持たずひったくりを重ねていたFは普段なら気前よく現金を出さなかっただろう。その点はしばらくしてAへしつこく取り立てを始めることからもわかる」と述べた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.30-31">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=30-31}}</ref>。 |
* またこの時にFは2人分の往復電車賃・食事代・ゲーム料金などすべての費用を自分で支払っていたが、遠藤はこの点に関して「この時の出費は大した金額ではないとはいえ、定職を持たずひったくりを重ねていたFは普段なら気前よく現金を出さなかっただろう。その点はしばらくしてAへしつこく取り立てを始めることからもわかる」と述べた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.30-31">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=30-31}}</ref>。 |
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1981年12月31日(大晦日)、Fは改めて電話で打ち合わせた上でAと辻堂駅南口で会い「俺と付き合ってほしい」と告白したが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.33"/>、AはFから詰め寄られる度に好意を寄せていた同級生の男子へひきつけられており、Fに対しては「こんな男は相手にしていられない」という心境でその同級生の存在・名前を挙げつつ「好きな人がいるからダメ」と拒絶し、それでもなお交際を求められると「私に付き合ってほしいだなんて10年早い」と笑いながら拒絶した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.33-34"/>。これは当時Aが自分とFを同い年程度と思い込んでいたためだったが、Fは「付き合ってくれ」と繰り返すばかりで、執拗に詰め寄られたことにたまりかねたAは「あんたなんかガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と拒絶したが、この言葉は「Fにとってはかなり乱暴で『侮辱された』と受け取れるような言葉」だった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.33-34">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=33-34}}</ref>。 |
1981年12月31日(大晦日)、Fは改めて電話で打ち合わせた上でAと辻堂駅南口で会い「俺と付き合ってほしい」と告白したが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.33"/>、AはFから詰め寄られる度に好意を寄せていた同級生の男子へひきつけられており、Fに対しては「こんな男は相手にしていられない」という心境でその同級生の存在・名前を挙げつつ「好きな人がいるからダメ」と拒絶し、それでもなお交際を求められると「私に付き合ってほしいだなんて10年早い」と笑いながら拒絶した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.33-34"/>。これは当時Aが自分とFを同い年程度と思い込んでいたためだったが、Fは「付き合ってくれ」と繰り返すばかりで、執拗に詰め寄られたことにたまりかねたAは「あんたなんかガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と拒絶したが、この言葉は「Fにとってはかなり乱暴で『侮辱された』と受け取れるような言葉」だった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.33-34">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=33-34}}</ref>。 |
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年が明けた1982年1月5日、Fは前回の会話でうっかりAがFに同級生男子の名前を明かしてしまったことを利用してAに電話を |
年が明けた1982年1月5日、Fは前回の会話でうっかりAがFに同級生男子の名前を明かしてしまったことを利用してAに電話を掛け、「俺はあいつ(同級生男子)を知っている」と実名だけでなくその出身中学校まで述べたが、Aは大みそかにその同級生のフルネームを思わず漏らしてしまったことを忘れていたために驚くこととなった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.35">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=35}}</ref>。Fはその後も数日間にわたり、Aの両親が出勤している昼間にA宅へ電話を掛けたが、やがて表現がエスカレートし「耳にするのも耐えられない言葉」を口走るようになったため、Aは一方的に電話を切るようになった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.35"/>。さらにFは1982年1月12日にAが在学していた茅ケ崎高校へ「Aの従兄」を名乗り電話を掛け「Aのクラスにいる男子生徒(前述の同級生)の件」に関して聞き出そうとしたほか、その後も数回にわたり「Aの母親Cが倒れたからAを急いで帰宅させてほしい」などと騙り茅ケ崎高校へ電話を掛けたが、その電話をきっかけにAは明確にFを拒絶するようになったほか、Aへの電話が不審な内容ばかりだったため事務職員もAに電話を取り継がなかった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.35-36">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=35-36}}</ref>。この時、電話を受けて応対していた高校の事務職員はFの顔こそ見ていないものの、その口調から「幼稚っぽさが残るしゃべり方」という印象を抱いていた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.36">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=36}}</ref>。 |
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一方でFはAから避けられるようになったことを察知しつつも「電話では埒が明かない」と考えて再びA宅を訪れてAに「12月のデートで貸した金を返済しろ」と迫り、玄関を開けてもらえなかったためにドア越しにAに話しかけたが「返す金なんかないから帰れ」と突き放され、別の日の夜にも再び訪問したが、Aに加えて妹のBも加わり同様に追い返された<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.37">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=37}}</ref>。遠藤允はこの時の背景に関して『Fは熱海でデートした時の幸福感を継続させたっかったのか、それともAが好意を寄せていただろう男子同級生への嫉妬心を燃え立たせたのか…そこまではよくわからないが、具体的な行動として『貸した金の返済要求』に戦術を変えたのは事実だ」と述べ<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.36"/>、その上で「FはAとのつながりを保ち続けようとするための単なる口実で『金を返せ』と迫ったのだろう。熱海でのデートの時の金はAの(後述のような)『おごってもらったもので、借りたわけではない』という解釈が正しい」と解釈している<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.41">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=41}}</ref>。 |
一方でFはAから避けられるようになったことを察知しつつも「電話では埒が明かない」と考えて再びA宅を訪れてAに「12月のデートで貸した金を返済しろ」と迫り、玄関を開けてもらえなかったためにドア越しにAに話しかけたが「返す金なんかないから帰れ」と突き放され、別の日の夜にも再び訪問したが、Aに加えて妹のBも加わり同様に追い返された<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.37">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=37}}</ref>。遠藤允はこの時の背景に関して『Fは熱海でデートした時の幸福感を継続させたっかったのか、それともAが好意を寄せていただろう男子同級生への嫉妬心を燃え立たせたのか…そこまではよくわからないが、具体的な行動として『貸した金の返済要求』に戦術を変えたのは事実だ」と述べ<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.36"/>、その上で「FはAとのつながりを保ち続けようとするための単なる口実で『金を返せ』と迫ったのだろう。熱海でのデートの時の金はAの(後述のような)『おごってもらったもので、借りたわけではない』という解釈が正しい」と解釈している<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.41">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=41}}</ref>。 |
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FはAが下校する際に校門前・通学路の途中でAに声をかけようとしたが、担任教師から助言を受けたAは必ず数人の同級生と一緒に下校していたため、FはAに話しかける機会をつかめなかったことから「Aと直接対面して話すことは無理だ」と感じ、1982年1月下旬には両親が在宅する時間を選んだうえで改めて電話を |
FはAが下校する際に校門前・通学路の途中でAに声をかけようとしたが、担任教師から助言を受けたAは必ず数人の同級生と一緒に下校していたため、FはAに話しかける機会をつかめなかったことから「Aと直接対面して話すことは無理だ」と感じ、1982年1月下旬には両親が在宅する時間を選んだうえで改めて電話を掛けた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.37"/>。この時はAの父親Dが電話に応対したところ、Fは「娘さん(A)に金を貸したが返してもらえないのでお父さんが代わりに払ってほしい」と要求したが、Dは娘Aに毎月小遣いを5000円渡して学用品も買い与えていた上に「無闇に他人から金を借りてはいけない」と諭していたためFの要求が信じられず<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.37"/>、「いい加減なことを言うな。うちの子供が他人から金など借りるわけがない」と返した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.38">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=38}}</ref>。 |
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1982年2月のある日、Fは21時ごろにA宅を訪れた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.38"/>。当初はA・F両名がA宅の玄関の外で話し合っていたが、Aが大声を出したことから父親Dが2人を玄関内に入れ、DはAを居間に入れて話を引き継いだ上で「いつどこでいくら借りた?」と質問したが、Aから「熱海へ行った時の金だ」と聞かされたことから驚いた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.39">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=39}}</ref>。それに関するAの解釈は「おごってもらったもので、借りたわけではない」というものだったが、Dは「目の前にいる男(F)とこれ以上関わり合いになりたくない」という考えから「2人で熱海に行ったのが事実なら、立て替えてもらったAの分は自分が払う」とFに申し出た上で金額を尋ね<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.39"/>、おおよその額である3,000円をFに渡した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.39-40"/>。この時にDは「Fが受け取った現金3,000円を財布にしまう際、その中に1万円札が数枚入っている」ことを目撃したが、当時はFの素性を詳しく知らなかったためにその年齢を風貌から「17,18歳程度」と推測した上で「若い割には大金を持っている」という印象を抱いた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.39-40">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=39-40}}</ref>。その上でDがFに「娘が世話になったからどこの誰なのか教えてほしい」と訊いたところ、Fは「平塚市在住の山田等(偽名)だ」とだけ答え、それ以上のことを聞き出そうとするDに「詳しく教えれば家に電話を掛けてくるだろう。そうなるとお母さんが迷惑する」と答え、最後にDが「うちの娘とはもう付き合わないでくれ」と念を押すと「金さえ返してもらえればいい」と回答した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.40">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=40}}</ref>。 |
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1982年2月のある日、Fは21時ごろにA宅を訪れた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.38"/> |
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これにより「借金の問題」は解決したが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.40"/>、Fにとってこれは前述のように少女Aとのつながりを保つ目的の口実だった上に、その口実として使用した要求が案外簡単に通ってしまったことで「このままでは少女Aに近寄ることができなくなる」と困るようになり、その後も午後にA宅へ電話したが、ほとんどがその都度電話を切られるかAが不在の時だった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.41">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=41}}</ref>。しかし3学期修了直前の1982年3月11日に電話するとAが応対したため、FはAと辻堂駅南口で落ち合う約束をした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.41"/>。約束通り辻堂駅でAと対面したFは「あの金(3,000円)は返してもらう必要はなかった」と言いつつAに金を返し、その上で「お前のことが好きだ。付き合ってほしい」と申し出たが、Aは「あんたなんかダサいし不潔で顔もマズいし話題も貧弱だから嫌だ」と拒絶したため、Fは「やっぱり金を返すのはやめだ」と言っていったん手渡した現金をひったくるように取り返し、Aの顔面をいきなり平手打ちした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.41-42">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=41-42}}</ref>。 |
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このように喧嘩別れに終わった後もFはAに電話を掛け続け、1982年3月20日には互いに自分たちの非を認め謝罪する形で和解した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.42">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=42}}</ref>。その後、2人は1982年3月下旬に再び辻堂駅南口([[東急ストア]]前)で待ち合わせ、Fは「以前(1982年3月11日)に2,500円しか渡されなかったのに3,000円を奪われた」というAからの申し出を受け、「寄りが戻せるならどうでもいい」としてAに500円を渡した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.42"/>。その後、制服姿だったAが「帰宅して着替えたい」と言ったためFはA宅まで同伴したが、家の中に入った途端にAは玄関を施錠してFを閉め出し、2人がドア越しに口論になっていたところで帰宅した母親CがFに「まだ何か用があるの?」と問い詰めてきたため<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.42"/>、Fは先ほど釈然とせぬまま渡した500円のことを思い浮かべつつ「お金のことで来ました」と申し出たが、Cからも「お金なら前返したはずじゃない」と返され相手にされなかった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.43">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=43}}</ref>。 |
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1982年3月30日 - 4月1日夕方まで少女Aは1人で宇都宮市内へ旅行に行ったが、それを知らなかったDは4月1日午後の早い時間帯にA宅を訪れ、事情を知らずちょうど1人で在宅していたAの妹Bが応対して2階4畳半のAの部屋にFを招き入れた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.43"/>。この訪問を含めFは1982年3月 - 4月ごろにかけて妹Bが1人で留守番していたA宅にチョコレートなどを持って2回ほど訪問しており、妹BはFの申し出を受けて自室に案内して自分と姉Aの卒業アルバムを見せたほか、その際にFからキス(接吻)を求められると「わずかながら嫌がる様子」を見せたが明確には拒絶せずにキスに応じた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.157-159"/>。遠藤允は当時のFの心境を「好きな相手の個室に足を踏み入れることができて感激した反面、自分自身の狭い家を思い浮かべて妬ましさを感じたかもしれない」と推測している<ref group="書籍">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=43-44}}</ref>。Fはその数日後に近所の中学2年生とバイクで2人乗りして藤沢駅前を走行していたところで偶然美容院へ行く途中だったAと出会ったためAに改めて3,000円を返して美容院前でAが出てくるのを待ったが、Aは一向に出てこず連れの中学生がしびれを切らしたためそのまま帰宅し、これが2人の最後の対面となった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.44">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=44}}</ref>。 |
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年が明けて1982年になってからも<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>Fは「心変わりされた腹立たしさ」「なお交際を求めたい気持ち」が入り混じった感情から無言電話・いたずら電話で少女Aに嫌がらせをするなど<ref group="裁判" name="最高裁第三小法廷判決(2004-06-15)"/>執拗に交際を求めて少女Aに付きまとう[[ストーカー]]行為をしたが、少女A本人のみならずAの両親<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>・妹Bから交際を強く拒絶された<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>。 |
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Fは1982年4月に入ってからも<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>再びA宅に頻繁に電話を掛けるようになったが、当初こそ快活に応対していた少女Aが一貫して拒絶するような態度を取るようになり、Fが電話を掛けてくる度に「私はあんたのことなんか好きじゃない。あんたみたいな顔じゃ結婚できそうもないね」などと罵倒するようになったほか、電話を代わった妹BもFを「お姉ちゃん(A)の気持ちがよくわかる」などと非難した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.44"/>。ある日の21時ごろに数回目の電話を掛けたところで父親Dが応対した際、「また(Aが美容院に行った際に)金を貸したから返してくれ」と申し出たが<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.44"/>、父親Dはそのことを娘Aから聞いていなかったために電話が終わった後でAに問い質したところ「Fが自分のポケットに勝手に押し込んで逃げた」と聞かされた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.45">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=45}}</ref>。その電話でもFは父親Dに対し「金の問題云々以前に俺はAが好きだ。Aと交際させてほしい」と申し出たが、Dは「Aは大学受験を控えているから男女交際などする暇はない。Aも嫌がっているからやめてほしい。勝手に好きになられても困る」と拒否し、Fが食い下がると「いい加減にしろ」と言って電話を切った<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.45"/>。その後もFは執拗に電話を掛け続け、Dが「金を送るから住所を教えろ」と要求しても「俺の方からとりに行くから教えなくてもいいだろう」と回答を拒否し、長い時では30分近くも話したが互いに平行線の会話となり問題は解決しなかったため、Dは最終的に「勝手に押し付けた金など返す必要はない」と最後通告して電話を切り、その後妻子に「しつこい男だ。これ以上来たら110番通報しよう」と言い渡した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.45"/>。 |
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* 犯行に使用したくり小刀(刃渡り13.3cm・全長24cm)を<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.56"/>1982年4月28日に自宅近くの平塚市内のスーパーマーケットで購入した<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>。 |
* 犯行に使用したくり小刀(刃渡り13.3cm・全長24cm)を<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.56"/>1982年4月28日に自宅近くの平塚市内のスーパーマーケットで購入した<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>。 |
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* 1982年4月ごろには凶器として前述のくり小刀のほかに包丁2本(文化包丁・刺身包丁)を用意した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>。 |
* 1982年4月ごろには凶器として前述のくり小刀のほかに包丁2本(文化包丁・刺身包丁)を用意した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>。 |
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** 文化包丁(刃渡り18.4cm・全長30.3cm)<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.56"/> - 4月中旬ごろに[[横浜駅]]西口「[[ザ・ダイヤモンド|ダイヤモンド地下街]]」(現:[[相鉄ジョイナス]])のスーパーマーケットで購入した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/> |
** 文化包丁(刃渡り18.4cm・全長30.3cm)<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.56"/> - 4月中旬ごろに[[横浜駅]]西口「[[ザ・ダイヤモンド|ダイヤモンド地下街]]」(現:[[相鉄ジョイナス]])のスーパーマーケットで購入した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>。 |
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** 刺身包丁(刃渡り20cm・全長33cm)<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.56"/> - [[兵庫県]][[尼崎市]]内へ出向いた際に[[阪神電気鉄道]][[阪神本線|本線]]・[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]前の[[尼崎中央・三和・出屋敷商店街]]にあった金物店から万引きして入手した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>。 |
** 刺身包丁(刃渡り20cm・全長33cm)<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.56"/> - [[兵庫県]][[尼崎市]]内へ出向いた際に[[阪神電気鉄道]][[阪神本線|本線]]・[[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]前の[[尼崎中央・三和・出屋敷商店街]]にあった金物店から万引きして入手した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>。 |
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くり小刀以外に包丁を用意した理由は「Xを刺殺した際に刃が体に突き刺さって柄から刃が抜けたため、留め金の付いた包丁を選んだ」ためで、自宅付近にて短時間で一家4人を殺害するための練習を行った<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>。 |
くり小刀以外に包丁を用意した理由は「Xを刺殺した際に刃が体に突き刺さって柄から刃が抜けたため、留め金の付いた包丁を選んだ」ためで、自宅付近にて短時間で一家4人を殺害するための練習を行った<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>。このころからFはAに対する「心変わりされた腹立たしさ」「なお交際を求めたい気持ち」が入り混じった感情から無言電話・いたずら電話で少女Aに嫌がらせをするなど<ref group="裁判" name="最高裁第三小法廷判決(2004-06-15)"/>、執拗に交際を求めて少女Aに付きまとう[[ストーカー]]行為をしたが、少女A本人のみならずAの両親・妹Bから交際を強く拒絶された<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>。 |
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* Fは深夜1時ごろに喫茶店・スナックバーなどからA宅に無言電話を繰り返すようになり<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>、自分で電話するだけでなく少年院仲間たちに頼んでA宅に電話させた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.47">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=47}}</ref>。 |
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* それに辟易したA一家はベルの音が漏れないように電話機の下に座布団を敷いて毛布で包む防音措置を施すようになった上<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.46"/>、「電話番号の変更」を検討して家族会議をしたが、結局はA・B姉妹が「学校の緊急連絡網を変えなければいけなくなる」と反対したため実現しなかった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.47"/>。 |
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さらにFは遊園地で少女Aのために使った金の返済を要求して執拗にAに付きまとったが、ますます疎まれてAやその家族から強く交際を拒まれ<ref group="裁判" name="最高裁第三小法廷判決(2004-06-15)"/>、1982年5月8日夜<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>にA宅を訪ねた際には110番通報されて逃げ帰る事態となり<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>、これが「一家皆殺し」を強く決意する決定打となった<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>。 |
さらにFは遊園地で少女Aのために使った金の返済を要求して執拗にAに付きまとったが、ますます疎まれてAやその家族から強く交際を拒まれ<ref group="裁判" name="最高裁第三小法廷判決(2004-06-15)"/>、1982年5月8日夜<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>にA宅を訪ねた際には110番通報されて逃げ帰る事態となり<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>、これが「一家皆殺し」を強く決意する決定打となった<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-07-17 02"/>。 |
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一方でF・Y両加害者は親子3人を惨殺した直後に[[国道1号]]まで全速力で走って逃げ、同国道を西に折れて茅ヶ崎市内の小和田郵便局まで徒歩で逃走すると20時30分ごろ、横浜市から中郡[[大磯町]]内の営業所に戻る途中で同所付近を通過していた空車のタクシーを呼んで乗車した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=83-84}}</ref>。Fは当初の行き先としてタクシー運転手に「国鉄東海道線[[茅ケ崎駅]]前」と伝えたが、その後「同線[[大磯駅]]で別のタクシーに乗り換えて逃走経路を攪乱しよう」と考えたことから行き先を大磯駅前に変更した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84"/>。その途中でタクシーはFの自宅付近を通過したが、Fは前述の目的から自宅に直行することを避けた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84"/>。 |
一方でF・Y両加害者は親子3人を惨殺した直後に[[国道1号]]まで全速力で走って逃げ、同国道を西に折れて茅ヶ崎市内の小和田郵便局まで徒歩で逃走すると20時30分ごろ、横浜市から中郡[[大磯町]]内の営業所に戻る途中で同所付近を通過していた空車のタクシーを呼んで乗車した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=83-84}}</ref>。Fは当初の行き先としてタクシー運転手に「国鉄東海道線[[茅ケ崎駅]]前」と伝えたが、その後「同線[[大磯駅]]で別のタクシーに乗り換えて逃走経路を攪乱しよう」と考えたことから行き先を大磯駅前に変更した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84"/>。その途中でタクシーはFの自宅付近を通過したが、Fは前述の目的から自宅に直行することを避けた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84"/>。 |
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タクシーが大磯駅前に到着するとF・Y両加害者は改札口東の公衆トイレに入り傷口を確認したところ、Fの左手首・右親指の切り傷をはじめそれ以外にも無数の小さな傷があ |
タクシーが大磯駅前に到着するとF・Y両加害者は改札口東の公衆トイレに入り傷口を確認したところ、Fの左手首・右親指の切り傷をはじめそれ以外にも無数の小さな傷があり<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84"/>、その中でも左手首の切り傷は静脈にまで達していたためか、後に帰宅した際にも血液が滴っていた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。Fがトイレットペーパーで血液を拭き取ろうとしたところ手袋の片方が水洗トイレの便器に落ちてしまい、拾い上げることを躊躇しつつ水を流すと手袋もそのまま流れたため、F・Y両加害者は証拠隠滅のために血液が付着した手袋4足を同様に流し<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.83-84"/>手を洗った<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-07-17"/>。遠藤允は「Fはこのように手袋が偶然便器に落ちたことを巧みに利用し、残りの手袋をトイレに流して遺棄したことで『証拠物を完全に消し去った』と思ったに違いない。しかしその証拠隠滅工作は後に手痛いしっぺ返しを食らうことになる」と表現した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84">{{Harvtxt|遠藤允|1983|p=84}}</ref>。 |
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約20分間を公衆トイレの中で過ごした2人は大磯駅前のタクシー乗り場で再びタクシーに乗車したが、Fはこのタクシーの運転手が先ほど乗車した時と全く同じ運転手であることに気づき唖然とした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。しかし既にYを奥の座席に座らせていたことからFは「このまま乗車を断念するとタクシー運転手から怪しまれる」と考えてそのまま自宅前の狭い路地までこのタクシーに乗車して帰宅した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。Fは自宅前に到着した際、「大磯駅で降りた際に支払った[[千円紙幣|1000円札]]に血液が付着した可能性がある」と危惧し、その1000円札を釣り銭で回収できる機会に賭けて「[[一万円紙幣|1万円札]]で母親に料金を払わせよう』と考えたが、母親に「1万円札で支払ってほしい」と説明してもその説明が要領を得なかったため、母親は結局1000円札を出して釣り銭を受け取った<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。これに憤慨したFは母親を怒鳴りつけ、今度は1万円札をタクシー運転手に差し出して両替を求めたが、タクシー運転手が持っていた1000円札は10枚に満たなかったため、結局Fは血液の付着した1000円札を回収できなかった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。 |
約20分間を公衆トイレの中で過ごした2人は大磯駅前のタクシー乗り場で再びタクシーに乗車したが、Fはこのタクシーの運転手が先ほど乗車した時と全く同じ運転手であることに気づき唖然とした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。しかし既にYを奥の座席に座らせていたことからFは「このまま乗車を断念するとタクシー運転手から怪しまれる」と考えてそのまま自宅前の狭い路地までこのタクシーに乗車して帰宅した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。Fは自宅前に到着した際、「大磯駅で降りた際に支払った[[千円紙幣|1000円札]]に血液が付着した可能性がある」と危惧し、その1000円札を釣り銭で回収できる機会に賭けて「[[一万円紙幣|1万円札]]で母親に料金を払わせよう』と考えたが、母親に「1万円札で支払ってほしい」と説明してもその説明が要領を得なかったため、母親は結局1000円札を出して釣り銭を受け取った<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。これに憤慨したFは母親を怒鳴りつけ、今度は1万円札をタクシー運転手に差し出して両替を求めたが、タクシー運転手が持っていた1000円札は10枚に満たなかったため、結局Fは血液の付着した1000円札を回収できなかった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.84"/>。 |
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# 被害者A宅から発見された血糊の大きさが被疑者Fの足の大きさと一致した点<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-23"/> |
# 被害者A宅から発見された血糊の大きさが被疑者Fの足の大きさと一致した点<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-23"/> |
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事件発生から10日近くが経過した1982年6月4日夕方、被疑者Fは知人の少女に電話を |
事件発生から10日近くが経過した1982年6月4日夕方、被疑者Fは知人の少女に電話を掛け「今は横浜にいる。7日の夜7時(19時)ごろには平塚に向かう」と約束した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.69-70">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=69-70}}</ref>。この情報を把握した捜査本部が「Fはまた誰かに電話を掛けてくる」と推測しつつ次の手がかりを持っていたところ、Fは翌日(1982年6月5日)午前8時50分ごろになって<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-16 2">『読売新聞』1982年6月16日東京朝刊第14版第一社会面23面「母娘3人殺し参考人逮捕 友人の父に脅迫の電話」</ref>かつて自分や被害者Xと同時期に久里浜特別少年院に在院していた厚木市の元少年院仲間宅に電話を掛け、応対した父親に「息子には『Xの事件のことを警察に話すな』と伝えろ。約束を破ったら一家を皆殺しにする。お前の妻の勤務先も知っているから妻も強姦して殺すぞ」と脅した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.70-71">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=70-71}}</ref>。同日昼過ぎ、厚木市の元少年院仲間の父親は「電話の主は声・話し方の特徴から息子の元少年院仲間で自宅に2回ほど泊まったことがあるFに間違いない」と確信した上で県警[[厚木警察署]]にこの脅迫電話の事実を届け出<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-16 2"/><ref group="書籍" name="遠藤1983 p.70-71"/>、捜査本部は1982年6月8日付で脅迫容疑にて被疑者Fの逮捕状を請求した<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-16 2"/>。 |
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なお5日の脅迫電話で厚木市の元少年院仲間の父親はFから「京急蒲田駅付近から電話している」と脅迫された後、電話の声が女性のような声に変わり「余計なことは言わないほうが身のためよ」と脅迫された<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-17 社会面">『神奈川新聞』1982年6月17日朝刊B版第一社会面17面「母娘惨殺の重要参考人 逮捕直前まで脅迫電話 『話せば皆殺し』 戸塚殺人でも仲間宅に」</ref>。この点から捜査本部は当初「Fは女性とともに逃走していた」と推測したほか<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-18"/>「Y事件の現場にも女性の『やめて』という悲鳴が響いていた」という情報も把握したが、一連の逃亡劇では女性の姿が全く確認できなかったため<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-26">『神奈川新聞』1982年6月26日朝刊B版第一社会面17面「母娘惨殺のF 一家皆殺し狙う 犯行後関西など転々?殺されたYさん、玄関先まで同行」</ref>、殺人容疑における逮捕後に「女性が本島にFとともに逃亡していたのか?いたとすればYと同様に口封じ目的で殺害されたのか、それとも逃亡している女性をFがかばっているのか」などに関して厳しく追及した<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-29">『神奈川新聞』1982年6月29日朝刊B版第二社会面14面「母娘殺しF供述 『Yさんは見張り役』 事前に打ち合わせも」</ref>。結局、被疑者Fは否認し続けていた脅迫電話に関して一転して容疑を認めた際に「電話の最後に出た女性の声はYが声色を変えたものだ。逃亡中にYが逃げようとしたため足止めをしようと“次の殺人を計画している”と思わせる目的だった」と自供した<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-09-08"/>。 |
なお5日の脅迫電話で厚木市の元少年院仲間の父親はFから「京急蒲田駅付近から電話している」と脅迫された後、電話の声が女性のような声に変わり「余計なことは言わないほうが身のためよ」と脅迫された<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-17 社会面">『神奈川新聞』1982年6月17日朝刊B版第一社会面17面「母娘惨殺の重要参考人 逮捕直前まで脅迫電話 『話せば皆殺し』 戸塚殺人でも仲間宅に」</ref>。この点から捜査本部は当初「Fは女性とともに逃走していた」と推測したほか<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-18"/>「Y事件の現場にも女性の『やめて』という悲鳴が響いていた」という情報も把握したが、一連の逃亡劇では女性の姿が全く確認できなかったため<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-26">『神奈川新聞』1982年6月26日朝刊B版第一社会面17面「母娘惨殺のF 一家皆殺し狙う 犯行後関西など転々?殺されたYさん、玄関先まで同行」</ref>、殺人容疑における逮捕後に「女性が本島にFとともに逃亡していたのか?いたとすればYと同様に口封じ目的で殺害されたのか、それとも逃亡している女性をFがかばっているのか」などに関して厳しく追及した<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-29">『神奈川新聞』1982年6月29日朝刊B版第二社会面14面「母娘殺しF供述 『Yさんは見張り役』 事前に打ち合わせも」</ref>。結局、被疑者Fは否認し続けていた脅迫電話に関して一転して容疑を認めた際に「電話の最後に出た女性の声はYが声色を変えたものだ。逃亡中にYが逃げようとしたため足止めをしようと“次の殺人を計画している”と思わせる目的だった」と自供した<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-09-08"/>。 |
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* {{ウィキ座標|34|43|12.7|N|135|25|10.1|E|region:JP-14|name=|尼崎事件の現場(現:兵庫県尼崎市昭和通二丁目6番地)|地図}} |
* {{ウィキ座標|34|43|12.7|N|135|25|10.1|E|region:JP-14|name=|尼崎事件の現場(現:兵庫県尼崎市昭和通二丁目6番地)|地図}} |
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** 「[[阪神電気鉄道]][[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]([[阪神本線|本線]]・[[阪神西大阪線|西大阪線]])北口から[[庄下川]]沿いに[[国道2号]]に出て[[玉江橋 (兵庫県)|玉江橋]]を渡った直後に右折し、庄下川沿い道路に面して建っていた2棟のマンションのうち橋から歩いて手前のマンション」だった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.96-97"/>。 |
** 「[[阪神電気鉄道]][[尼崎駅 (阪神)|尼崎駅]]([[阪神本線|本線]]・[[阪神西大阪線|西大阪線]])北口から[[庄下川]]沿いに[[国道2号]]に出て[[玉江橋 (兵庫県)|玉江橋]]を渡った直後に右折し、庄下川沿い道路に面して建っていた2棟のマンションのうち橋から歩いて手前のマンション」だった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.96-97"/>。 |
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Fは屋上にYを誘導してから殺害するつもりだったが、屋上は扉が施錠されており入れなかかったため「踊り場でYを殺害しよう」と考え、Yに「指紋が付着したものを落とせばそこから足がつく。持っているものを全部出して指紋を拭き取れ」と命じてYに所持品の腕時計・サングラスなどを取り出させ、手袋をはめて指紋を拭き取るYに小田原少年院などで過ごした日々の思い出話をした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.96-97"/>。しかしYが指紋を拭き取り終わった直後、Fは豹変して「お前のような度胸のないやつをこのまま生かしておいたら俺の身が危ないから消えてもらう」と言いつつ<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.96-97"/>、以前から持ち歩いていたくり小刀2本を両手に1本ずつ握った上で殺意を持って右手のくり小刀でYの胸を突き刺した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>。そのくり小刀は刃先が曲がったが、Fはもう1本の左手のくり小刀をYに突き付けて動きを封じつつ、刃先の曲がったくり小刀を右足で伸ばして再び襲い掛かった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>。Yは特に凶器・武器となるものを持っておらず、なすすべもなく「既に4人を刺し殺しており手慣れて度胸もついている」Fに胸・腹などを突き刺されつつも階段を駆け下りて逃げようとしたが、Fは4階 |
Fは屋上にYを誘導してから殺害するつもりだったが、屋上は扉が施錠されており入れなかかったため「踊り場でYを殺害しよう」と考え、Yに「指紋が付着したものを落とせばそこから足がつく。持っているものを全部出して指紋を拭き取れ」と命じてYに所持品の腕時計・サングラスなどを取り出させ、手袋をはめて指紋を拭き取るYに小田原少年院などで過ごした日々の思い出話をした<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.96-97"/>。しかしYが指紋を拭き取り終わった直後、Fは豹変して「お前のような度胸のないやつをこのまま生かしておいたら俺の身が危ないから消えてもらう」と言いつつ<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.96-97"/>、以前から持ち歩いていたくり小刀2本を両手に1本ずつ握った上で殺意を持って右手のくり小刀でYの胸を突き刺した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>。そのくり小刀は刃先が曲がったが、Fはもう1本の左手のくり小刀をYに突き付けて動きを封じつつ、刃先の曲がったくり小刀を右足で伸ばして再び襲い掛かった<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>。Yは特に凶器・武器となるものを持っておらず、なすすべもなく「既に4人を刺し殺しており手慣れて度胸もついている」Fに胸・腹などを突き刺されつつも階段を駆け下りて逃げようとしたが、Fは3・4階間の踊り場で高い位置からYに飛び掛かって押し倒し、両手のくり小刀でYの背中を滅多刺しにした上、最後はとどめとして右の背中・左脇腹を深く突き立て<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>、結果的に共犯少年Yを「29か所におよぶ右側頸部刺切創などの傷害」により失血死させて殺害した(第3の殺人)<ref group="裁判" name="判例タイムズ1160"/>。 |
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Yを殺害後、Fはマンション屋上に通じる踊り場に駆け上ってくり小刀を入れてあった紙袋を拾い、再び1回まで駈け下りると犯行に使用した手袋を中に収めた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>。これは「紙袋に指紋が付着していたためにどうしても回収する必要があったため」の行動だったが、マンション出口から道路に出たFは「周囲を注意深く観察する余裕」がなく、マンション最寄り駅の阪神尼崎駅まで徒歩移動して同駅でタクシーを拾って逃走した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=98-99}}</ref>。目の前の尼崎駅に発着していた阪神電車に乗車せず客待ちのタクシーで移動した理由は「返り血を浴びているから電車に乗ると怪しまれる」という理由であり、その後は[[新大阪駅]]まで移動した上で「[[山陽新幹線]]で再び福岡に逃走しよう」と目論むがタクシー運転手から「もう[[博多駅|博多]]行きは終電が出た」と知らされたためにやむを得ず京都方面まで向かうが、座席シートに返り血が付着してしまったためにタクシーを[[京都市]]内で乗り捨て、同市内で別のタクシーを拾って[[愛知県]][[名古屋市]]内まで移動した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.102-103">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=102-103}}</ref>。 |
Yを殺害後、Fはマンション屋上に通じる踊り場に駆け上ってくり小刀を入れてあった紙袋を拾い、再び1回まで駈け下りると犯行に使用した手袋を中に収めた<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99"/>。これは「紙袋に指紋が付着していたためにどうしても回収する必要があったため」の行動だったが、マンション出口から道路に出たFは「周囲を注意深く観察する余裕」がなく、マンション最寄り駅の阪神尼崎駅まで徒歩移動して同駅でタクシーを拾って逃走した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.98-99">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=98-99}}</ref>。目の前の尼崎駅に発着していた阪神電車に乗車せず客待ちのタクシーで移動した理由は「返り血を浴びているから電車に乗ると怪しまれる」という理由であり、その後は[[新大阪駅]]まで移動した上で「[[山陽新幹線]]で再び福岡に逃走しよう」と目論むがタクシー運転手から「もう[[博多駅|博多]]行きは終電が出た」と知らされたためにやむを得ず京都方面まで向かうが、座席シートに返り血が付着してしまったためにタクシーを[[京都市]]内で乗り捨て、同市内で別のタクシーを拾って[[愛知県]][[名古屋市]]内まで移動した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.102-103">{{Harvtxt|遠藤允|1983|pp=102-103}}</ref>。 |
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同日10時半過ぎになって被疑者Fの身柄は再び県警本部総合留置場に移送され<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-25 朝刊社会面"/>、同日21時に捜査本部は記者会見で被疑者Fの実名を公表した上で「被疑者Fが本件犯行を自供した。また本件含め3件は『広域重要指定112号事件』に指定された」と発表した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.126-127"/>。地元紙『神奈川新聞』および<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-25"/>『朝日新聞』『中日新聞』は<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25"/><ref group="新聞" name="中日新聞1982-06-25"/>前述の別件逮捕後も被疑者Fに関して「逮捕容疑が別件逮捕であったため」<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-25"/>「殺人事件との関係が明確でなかったため」として匿名で報道していたが、いずれも本件殺人容疑で逮捕されたことを報道した1982年6月25日朝刊からそれぞれ前述の旨の説明を「おことわり」として添えた上で[[実名報道]]に切り替えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25"/><ref group="新聞" name="中日新聞1982-06-25"/>。 |
同日10時半過ぎになって被疑者Fの身柄は再び県警本部総合留置場に移送され<ref group="新聞" name="読売新聞1982-06-25 朝刊社会面"/>、同日21時に捜査本部は記者会見で被疑者Fの実名を公表した上で「被疑者Fが本件犯行を自供した。また本件含め3件は『広域重要指定112号事件』に指定された」と発表した<ref group="書籍" name="遠藤1983 p.126-127"/>。地元紙『神奈川新聞』および<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-25"/>『朝日新聞』『中日新聞』は<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25"/><ref group="新聞" name="中日新聞1982-06-25"/>前述の別件逮捕後も被疑者Fに関して「逮捕容疑が別件逮捕であったため」<ref group="新聞" name="神奈川新聞1982-06-25"/>「殺人事件との関係が明確でなかったため」として匿名で報道していたが、いずれも本件殺人容疑で逮捕されたことを報道した1982年6月25日朝刊からそれぞれ前述の旨の説明を「おことわり」として添えた上で[[実名報道]]に切り替えた<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25"/><ref group="新聞" name="中日新聞1982-06-25"/>。 |
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なおこの時点では以下のような情報から「尼崎市内でYが殺害された際やFが知人に脅迫電話を |
なおこの時点では以下のような情報から「尼崎市内でYが殺害された際やFが知人に脅迫電話を掛けた際、女性がFと同行していた」とする情報があり、捜査本部は「これらの女性は同一人物で、事件当時にFと同行していた『この女性』もYと同様に口封じ目的で殺害された可能性が高い」と推測して足取り・行方を追ったが<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25 東京夕刊">『朝日新聞』1982年6月25日東京夕刊第4版第一社会面19面「連続殺人犯人・F 同行の女性も殺す? 行方はいぜん不明」</ref>、前述の殺人容疑による再逮捕の時点でもその女性の存在は確認できず<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25 大阪"/>、結局は立件されなかった。 |
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* Yが尼崎市内のマンションで刺殺された際、現場から若い女性の声で「やめて」と2度叫び声が聞こえた<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25 東京夕刊"/>。 |
* Yが尼崎市内のマンションで刺殺された際、現場から若い女性の声で「やめて」と2度叫び声が聞こえた<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25 東京夕刊"/>。 |
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* その後東京都内に戻ったFが厚木市内の友人宅に脅迫電話をした際、女性の声でも脅すような言葉が聞こえた<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25 東京夕刊"/>。 |
* その後東京都内に戻ったFが厚木市内の友人宅に脅迫電話をした際、女性の声でも脅すような言葉が聞こえた<ref group="新聞" name="朝日新聞1982-06-25 東京夕刊"/>。 |
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1983年10月31日に開かれた第14回公判では被告人Fの実父が証人として出廷し、事件当時の様子に関しては以下のように「妻(被告人Fの実母)とあまり変わらない証言」をした<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164">{{Harvtxt|遠藤允|1988|p=164}}</ref>。 |
1983年10月31日に開かれた第14回公判では被告人Fの実父が証人として出廷し、事件当時の様子に関しては以下のように「妻(被告人Fの実母)とあまり変わらない証言」をした<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164">{{Harvtxt|遠藤允|1988|p=164}}</ref>。 |
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* 「藤沢事件当夜は事件発生時刻の20時ごろ・被告人Fが帰宅した時間ともに寝入っており、事件当時のことは何も知らない。事件直後の事情聴取で検察官に対し『自分たちが息子に自首を勧めた』と証言したが、あの証言は検察官から『Fが“両親から自首を勧められた”と言っているし、狭い家で帰宅したことに気づかないはずがないだろう』と繰り返し言われたからそう答えただけだ」<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164"/>。 |
* 「藤沢事件当夜は事件発生時刻の20時ごろ・被告人Fが帰宅した時間ともに寝入っており、事件当時のことは何も知らない。事件直後の事情聴取で検察官に対し『自分たちが息子に自首を勧めた』と証言したが、あの証言は検察官から『Fが“両親から自首を勧められた”と言っているし、狭い家で帰宅したことに気づかないはずがないだろう』と繰り返し言われたからそう答えただけだ」<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164"/>。 |
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** なお被告人Fが逃走して以降、両親に電話を |
** なお被告人Fが逃走して以降、両親に電話を掛けた際に両親から出頭を勧められた形跡はなかった一方、後の判決では「両親が被告人Fに出頭することを勧めた」と[[事実認定]]された<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164-165">{{Harvtxt|遠藤允|1988|pp=164-165}}</ref>。 |
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* 「事件翌日に捜査員が自宅を訪れたことや新聞報道などで事件を『息子の犯行だ』と悟り、『大変なことになった』と思い夫婦で[[心中]]しようとしたが娘から反対されて思い留まった」<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164"/>。 |
* 「事件翌日に捜査員が自宅を訪れたことや新聞報道などで事件を『息子の犯行だ』と悟り、『大変なことになった』と思い夫婦で[[心中]]しようとしたが娘から反対されて思い留まった」<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.164"/>。 |
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* 「息子は幼少期からなぜか電球が好きでこだわりが強かったほか、足は「普通の速さ」と思っていたが小学校5年生の時にマラソン大会で優勝したことがあった。中学入学後に新聞配達のアルバイトを始めたので「何か買いたいものでもあるのか?」と思ったが何が欲しかったのかまではわからない」<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.165">{{Harvtxt|遠藤允|1988|p=165}}</ref> |
* 「息子は幼少期からなぜか電球が好きでこだわりが強かったほか、足は「普通の速さ」と思っていたが小学校5年生の時にマラソン大会で優勝したことがあった。中学入学後に新聞配達のアルバイトを始めたので「何か買いたいものでもあるのか?」と思ったが何が欲しかったのかまではわからない」<ref group="書籍" name="遠藤1988 p.165">{{Harvtxt|遠藤允|1988|p=165}}</ref> |
2019年4月8日 (月) 13:57時点における版
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藤沢母娘殺人事件 | |
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正式名称 | 警察庁広域重要指定112号事件[新聞 1][新聞 2] |
場所 | |
座標 | |
日付 | |
概要 |
男Fが約半年間に計5人を刺殺した3件の連続殺人事件。 |
攻撃手段 | 刃物で刺す |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 |
鋭利な刃物 |
死亡者 | 計5人(女子高生一家の女性3人+一家殺害事件前後に犯罪行為を行っていた共犯者男性2人) |
損害 | 被害総額計321万円余りの窃盗[裁判 1] |
犯人 | 男F(逮捕当時21歳) |
動機 |
金銭トラブル(1件目) 交際を断られた上にストーカー行為を警察に通報されたことへの逆恨み(2件目) 2件目共犯者の口封じ(3件目) |
関与者 | 2件目の共犯者少年Y(死亡当時19歳・3件目でFに殺害される。被疑者死亡のまま神奈川県警から横浜地検へ書類送検・不起訴処分) |
対処 | 神奈川県警が被疑者Fを逮捕[新聞 7][新聞 8]・横浜地検が被告人Fを起訴[新聞 9] |
謝罪 | 公判で被告人Fは身勝手な不規則発言などを繰り返した。第41回公判にて犯行を認めて反省の言葉を述べるとともにそれまで否認・黙秘し続けていたことを謝罪したが[書籍 2]、被害者・遺族への正式な謝罪の言葉は最期まで述べなかった[新聞 10][新聞 11]。 |
刑事訴訟 | 死刑(執行済み) |
管轄 | 横浜地方検察庁[新聞 9]・東京高等検察庁 |
藤沢母娘殺人事件(ふじさわおやこさつじんじけん)は、1982年(昭和57年)5月27日に神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目の家屋で住民男性の妻・娘2人の計3人が刺殺された殺人事件である[新聞 4]。
加害者の男(本文中では実名のイニシャル「F」と表記)はストーカー行為をしていた相手だった女子高生とその家族(母親・妹)の計3人を刃物で刺殺したほか、本事件前年の1981年(昭和56年)には金銭トラブルから知人男性を神奈川県横浜市内で刺殺、さらに本事件後には母娘殺害事件の共犯者を逃亡先の兵庫県尼崎市内で刺殺した[新聞 8]。加害者Fが逮捕されるまでの6か月間に男女5人が殺害されたこれら一連の連続殺人事件は警察庁より「広域重要指定112号事件」に指定された[新聞 2]。
被告人として起訴された男Fは1988年(昭和63年)に第一審・横浜地裁で死刑判決を受けて東京高裁に控訴するも、控訴審の最中に「不安定な精神状態」で控訴を取り下げたため、取り下げの効力を巡り最高裁までもつれ込んだ「深刻な争い」が生じた[裁判 1]。このことから本事件の刑事訴訟は第一審判決から2000年(平成12年)の控訴審判決までに12年近く、2004年(平成16年)の上告審判決で死刑が確定するまでに計16年を要する異例の長期裁判となった[裁判 1][新聞 14]。
概要
本事件は以下4つの事件からなる[裁判 1]。
- 1981年10月6日、神奈川県横浜市内で窃盗の共犯者だった仲間の男性1人を殺害した事件(殺人罪、以下「横浜事件」および「X事件」)[裁判 1]
- 1982年5月27日、神奈川県藤沢市内で交際に応じなかった女子高生とその母・妹の母娘3人を殺害した事件(殺人罪、本項目名事件)[裁判 1]
- 2.の事件後となる1982年6月5日、同事件の共犯者だった少年を兵庫県尼崎市内で殺害した事件(殺人罪、以下「尼崎事件」および「Y事件」)[裁判 1]
- その他10回にわたり窃盗を繰り返し被害総額321万円余りを出した事件(窃盗罪)[裁判 1]
母娘3人を含め5人が殺害された一連の連続殺人事件はいずれも上告審判決で「被害者の言動により被告人Fがその心情を害されることが多少はあったが、それでも被告人Fが殺害を決意・実行していく過程は誠に短絡的かつ身勝手なもので動機に酌量の余地はない」「いずれの殺害行為もあらかじめ『殺傷能力の高い鋭利な刃物』を凶器として複数準備して計画的に行われており、攻撃の態様も『確定的殺意の下に各被害者の身体の枢要部を刃物で滅多刺しにする執拗・残虐な犯行』だった」と事実認定された[裁判 2]。
この一連の連続殺人事件は残忍な手口・短絡的な動機から日本社会に大きな衝撃を与え[新聞 15]、中でも2件目の母娘3人殺害事件は被害者2人が多感な中高生だったことから最も衝撃的なものだった[新聞 16]。地元・神奈川県の県紙『神奈川新聞』(神奈川新聞社)は編集局幹部による投票で「県内10大ニュース」のトップに本事件を選出したほか、『読売新聞』(読売新聞社)も神奈川県内の各地方版で「年間トップニュース」の読者投票を行った結果、読者からのはがき2,540通中2,532通(99.3%)が本事件を挙げた[書籍 4]。
加害者・元死刑囚F
元死刑囚F | |
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生誕 |
1960年(昭和45年)8月21日[書籍 5][書籍 6] 日本・神奈川県茅ヶ崎市[書籍 6](同県平塚市育ち) |
死没 |
2007年12月7日(47歳没)[書籍 5][新聞 17] 日本・東京都葛飾区小菅(東京拘置所)[書籍 5][新聞 17] |
国籍 | 日本 |
職業 | 元工場従業員[新聞 8] |
罪名 | 殺人罪・窃盗罪 |
刑罰 | 死刑(絞首刑・執行済み) |
動機 | 金銭トラブル・逆恨み・殺人共犯者の口封じ |
有罪判決 |
横浜地裁・死刑判決(1988年3月10日)[新聞 18] 東京高裁・上記判決支持(2000年1月25日)[新聞 19] 最高裁第三小法廷・上記判決支持(2004年6月15日、同年6月25日付確定)[新聞 20][新聞 21] |
加害者の男Fは1960年(昭和45年)8月21日[書籍 5][書籍 6]に神奈川県茅ヶ崎市内の病院で生まれ[書籍 6]平塚市内で育った[書籍 7]。死刑囚Fは法務省(法務大臣:鳩山邦夫)の発した死刑執行命令により2007年(平成19年)12月7日に収監先・東京拘置所で死刑を執行された(47歳没)[書籍 5][新聞 17]。
逮捕当時は神奈川県平塚市上平塚11番地4号在住・元工場従業員だった[新聞 8]。
1967年(昭和42年)4月に平塚市立富士見小学校に入学し[書籍 8]、同校卒業後の1973年(昭和48年)4月には平塚市立春日野中学校に入学した[書籍 9]。平塚市立春日野中学校の卒業文集では「将来はお金持ちになって御殿を建てているだろう」と書き記していたほか[書籍 10]、寄せ書きに平仮名で「ぼくのことをわすれないでほしい」とも書き記していた[書籍 11][雑誌 1]。
1976年(昭和51年)3月に中学校を卒業後、Fは学校の紹介により学校近くの高校に旋盤工として就職したが、わずか3か月未満で退職した[書籍 12]。それ以降は父親が勤務していた鉄工会社の下請け会社に再就職したが同社もわずか1週間で退職、同年だけでも「平塚市内の新聞販売店・ラーメン店・別の新聞販売店」、その翌年となる1977年(昭和52年)も「中郡大磯町内の新聞販売店・鎌倉市内の新聞販売店・厚木市の工場」と職を転々とし、いずれも4日間 - 3か月間で退職した[書籍 12]。このように中学卒業からわずか1年半で職を9つにわたり転々とした末に1977年10月、当時17歳2か月だったFは平塚市内の事務所に忍び込んで現金2000円を盗んだことから窃盗容疑で平塚警察署(神奈川県警察)に逮捕されて(1度目の逮捕)家庭裁判所から少年審判で「在宅試験観察」の処分を受け、それに前後して中学時代の先輩たちとともに平塚市内の高校へ侵入して現金・音響機器を盗んだ[書籍 13]。「在宅試験観察」処分という「少年犯罪では軽い処分」が下された理由は「初犯であり両親の下で善導することが必要」というものであり、当時の事務所荒らし事件で逮捕されたFを取り調べた平塚署員は遠藤允の取材に対し「Fは落ち着きがあまり見られなかったが割と素直な感じだった」と証言したが、Fは家裁の「在宅試験観察」処分決定からわずか半月後に両親には無断で横浜市戸塚区内の新聞販売店に住み込んだ[書籍 14]。「X事件の4年ほど前」(1977年)ごろ、Fは後に知人Xを殺害した横浜市戸塚区中田町(現:横浜市泉区中田町)内に位置していた新聞販売店で新聞配達をしたことがあり、同町内に強い土地勘があった[書籍 15]。
Fは同店も数か月ほどで退職すると東京都内で中学時代の先輩とともにひったくりをした事件により1978年(昭和53年)6月30日には警視庁三田警察署に逮捕され(2度目の逮捕)「中等少年院送致」の処分を受け、1978年8月2日から新潟少年学院(新潟県長岡市)に入所した[書籍 14]。Fは同所で同室となった先輩たちが積極的に面倒を見ようとしても容易に心を開かず、院内で起こした暴力事件で計2回・通算3か月近く単独室に収容されており、やがて学院内の様子を知るにつれて脱走を考えるようになった[書籍 16]。1978年12月27日、Fは塀・柵のなかった新潟少年学院から脱走を試みたが同日中に発見されて連れ戻され、翌1979年(昭和54年)3月には自宅に近い小田原中等少年院(神奈川県小田原市)に移送された[書籍 16]。この理由は「脱走を試みた少年は周囲を塀で囲まれ容易に抜け出せない少年院に収容すべき」という判断のほかに「新潟では両親の面会もままならない。自宅に近い小田原ならばF自身の精神安定にもつながる」という少年院側の配慮もあったが、同院でFは同室の少年たちからいじめを受けた[書籍 16]。そのような中でFは「強そうな相手に対してはどんなに馬鹿にされてもじっと耐える」生活を送りつつも後に「横浜事件」「尼崎事件」で殺害した少年X・Yと知り合い親しくなり[書籍 16]、同院では目立った問題行動を起こすことなく半年の在院期間を過ごしたが、その間に家族が面会したのは実母が2回訪れただけで、やがて仮退院が近づいたことを受けて保護司がFの実家を訪ねて身元引受を説得しても両親は拒否するなどした[書籍 17]。結局、仮退院(1979年10月5日)は申請から許可までに4か月近くかかり[書籍 17]、自宅に帰れなかったFは川崎市内の施設に身を寄せたが、わずか10日間で姿を消すと同市内の耐火施設会社に就職し、その後は食品会社をわずか1日で退職したり、高座郡寒川町内の日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東海)東海道新幹線の保守工事下請け会社に就職したりした[書籍 18]。
母娘殺害事件から2年前の1979年秋、前述の耐火設備会社に就職したFは東京都葛飾区の清掃工場・関西電力尼崎第三発電所(尼崎市)にて大型焼却炉の建設・修理を請け負ったが[書籍 18]、後者の工事では後に共犯者Yを殺害した尼崎市内(阪神電鉄・尼崎駅周辺)[書籍 19]に6日間滞在していたため[書籍 18]、同駅を中心とした尼崎に「関西で最も強い土地勘」があった[書籍 19]。後者の工事を請け負った工場は前述の耐火設備会社の関連工場で、後に友人Yを殺害したマンションの近くに位置していた[新聞 22]。
1980年(昭和55年)3月9日、定職を得ずにバイクを乗り回すような自堕落な生活を送っていたFは父親から注意されて逆上し、止めに入ろうとした妹を殴ると近くにあったバールを手に取り大暴れした[書籍 20]。それ以前から家庭内暴力を振るわれ続けていたFの父親は身の危険を感じて平塚署に110番通報し、ごみ箱に捨ててあった女性用ハンドバッグを駆け付けた署員へ見せ「これは息子がひったくりで持ち帰ったものだ」と申告したため、Fは窃盗容疑で平塚署に逮捕されて同年4月9日には久里浜特別少年院(神奈川県横須賀市、横須賀刑務所に隣接)へ送致されることが決定された[書籍 20]。
事件の経緯
第1の事件(横浜事件)
被害者:Fの友人男性X(死亡当時20歳・無職・神奈川県鎌倉市山崎1283番地在住)[新聞 6][新聞 3]
最初の被害者となったXはFと横須賀市内の久里浜特別少年院で1980年春から1981年春までともに在院していた仲だった[書籍 21]。XはFに先駆けて1981年3月19日に少年院を退所すると自宅近くの空調設備会社に就職して配管工として働き始めたが、Fが5月中旬に[書籍 21]会社寮を訪れて同じ会社に就職した直後の1981年5月18日からはF・Xの2人でひったくりを再開した[書籍 22]。遠藤允は「2人の経歴を見る限りはXよりFの方が労働意欲に欠けていただろう。Fの方がXにひったくりを提案したことは想像に難くない」と述べた[書籍 22]。結局、2人は5月18日・5月19日と2日連続でひったくりを行ったことで現金17万6000円を得ることに成功し、Fが働き始めてからわずか5日後には2人揃って会社を辞めた[書籍 22]。
空調設備会社を退職し寮も退去した2人は神奈川県茅ヶ崎市東海岸の民間アパートを借りた後、1981年7月末には横浜市鶴見区矢向のアパートに転居してひったくりを重ねつつ家賃・生活費などをその金で支払って共同生活をしていた[書籍 22]。1981年7月31日未明、Fは横浜市鶴見区下末吉一丁目21番地8号のレストランに侵入して中にあった金庫を破壊し現金101万8000円余りを盗んだほか[新聞 23]、同年8月8日昼には川崎市川崎区南町の路上を歩いていた無職男性(当時60歳・茨城県内在住)が住宅資金として銀行預金から下ろしてきたばかりの[新聞 23]現金108万3000円余りをひったくるなど窃盗を繰り返し[新聞 24]、Fが単独またはXと共謀した上で神奈川県内各地(鎌倉市・川崎市・厚木市・横浜市・藤沢市)にて起こした一連のひったくり・事務所荒らしなど窃盗事件10件の被害総額は321万円余りにわたり[裁判 1]、Fはこれらの窃盗事件で盗んだ金の一部を後に母娘殺害事件で逃走する際の逃走資金として自宅に隠していた[新聞 23]。
しかし1981年8月5日夜、XがFの財布から現金20万円を抜き取って逃げたことに激怒したFはXを「裏切り者」としてその行方を捜し、その最中の8月中旬には[書籍 22]厚木市内在住のもう1人の元少年院仲間(後述のように後にFはその家族を脅迫した)[書籍 23]と厚木市内で偶然出会い[書籍 22]、その口から「この間Xに出会ったが、Xは『5万円を盗んだ』と言っていた」と聞いたことから「20万円も俺の金を盗んでおきながらいけしゃあしゃあと『5万円だ』と言いやがった」と激怒した[書籍 22]。これを受けてFはその元少年院仲間に「Xにまた会ったらすぐに俺に知らせろ」と伝えた上で日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東日本)大船駅周辺など「Xが立ち寄りそうな場所」を集中的に探し、ついには1981年8月中旬にX宅に上がり込んでその家族を脅迫した上、ちょうど帰宅して隠れていたXを連れ出し「働いて稼いだ金で20万円を返せ。嘘をついたりして返すのを渋ったら殺すぞ」と脅迫した[書籍 22][書籍 24]。Fはその後もXが覚醒剤を密売して稼いだ代金7万円を取り上げたり、消費者金融から借金をさせようとするなどして全額回収しようとした上、1982年9月3日にはXに「残金を10月5日までに全額返済する」と誓約書を書かせた上で同日に給料日を迎える大船駅前のキャバレーで働かせた一方、Xの母親には「Xが約束を守らなかった場合は代わりに月々5,000円ずつ返済する」と誓約書を書かせた[書籍 24]。
その一方でXは1982年9月ごろに「俺がFと共謀して行ったひったくりを警察に自首したらFもおしまいだな」とうそぶいたことを知って「金を取り戻す気持ち」以外に「Xに対する殺意」も抱くようになり、同月上旬から下旬にかけて茅ケ崎駅前の金物店でくり小刀・藤沢駅前のデパートで刺身包丁と、それぞれ凶器に用いた刃物を相次いで購入した[書籍 24]。これに加えて「犯行後の逃走場所」を確保する目的で同年9月中旬には東京都豊島区池袋近辺のアパートを賃貸契約したほか、「血が出ない上に『刃物で刺し殺す以上に残忍』な殺害方法」としてXを生きたまま焼き殺すことまで検討し、その目的で清涼飲料水の空き瓶2本にガソリンを入れる用意をした[書籍 24]。
「返済期限」と定めた1981年10月5日午後、XはFの自宅に電話をしたがFは当時外出中のため家族が応対した[書籍 25]。Fは帰宅後にXから電話があったことを聞かされ2度目の電話を待ち続けたが電話はかかってこなかったため、近所の中学2年生を使ってX宅に電話を隠させたものの「不在」という返事が返ってきた[書籍 25]。一方でXは1981年10月5日18時ごろ「友人のところに行く」と言い残してバイクで自宅から外出し[新聞 6][新聞 3]、同日夜にXは横浜市戸塚区内で[書籍 26]かつて自分やFとともに久里浜特別少年院にいた厚木市内の元少年院仲間[書籍 23]と喧嘩した[書籍 26]。その元少年院仲間は翌6日に鎌倉市内の元少年院仲間を訪れて「Xはいないか」と行方を尋ねたが、鎌倉市の元少年院仲間は厚木市の元少年院仲間が訪れた直後にやってきたXと2人で覚醒剤を注射しており、Xはその帰り道でFと遭遇して殺害されることとなった[書籍 26]。
Fはいったんそのまま就寝しようとしたが眠れなかったため、「Xに裏切られた。もう殺すしかない」と殺意を固めた上で事前に用意していた凶器類をショルダーバッグに詰め込んで自動二輪車でX宅に向かい、翌日(1981年10月6日)深夜3時ごろにX宅に到着したがXが乗っていたバイクが見当たらなかったために引き返そうとバス用道路へ向かおうとしたところ、湘南モノレール高架下にてバイクで大船駅方面へ走行するXの姿を発見して「止まれ」と声をかけ、Xを停車させた[書籍 25]。しかし当時Xは覚醒剤の売買で損害を出して70 - 80万円の借金を抱えており、とてもFへの借金を返済できる状態ではなかったため、Fから「なぜ約束の日を過ぎても金を返さない。返す気はあるのか?」と質問されて「もう返す気はない」と返答した[書籍 27]。
さらにXは「Fと一緒に寝泊まりしていた間、Fは『カッとなると何をしでかすかわからない男』だとわかってはいた」が、覚醒剤を注射した直後で気が大きくなっていたためかFに対し「お前とはもう付き合いたくない。俺にも知り合いにヤクザがいるからあまりうるさいとただでは済まないぞ」と脅したため[書籍 15]、一向に誠意ある態度を見せなかったことに激怒したFはXを人気のない場所へ連れて行って殺害するため[裁判 1]その口実として「わかったよ、仕方ないな。最後のドライブに行こうか」と提言して国鉄根岸線・本郷台駅(大船駅の隣駅)まで一緒に走り、同駅駐輪場でXに被らせるヘルメットを盗んでから中田町方面までともに走行した[書籍 15]。
まだ夜は完全に明けてはいなかったが「周囲が畑であることはわかる程度の明るさ」になっていた[書籍 15]1981年10月6日午前5時ごろ[書籍 15][裁判 1]、Fは「畑に自分の自動二輪車で乗り付けるとタイヤの跡で犯行が発覚する恐れがある」と考えて現場の手前1kmで停車し、建前を使ってXのバイクに2人乗りして畑へ乗り入れさせた。
このようにして神奈川県横浜市戸塚区中田町2748番地(現住所:横浜市泉区中田町2748番地)[新聞 3]のキャベツ畑[新聞 25]に至ったところ、Fはバイクを降りた直後に右手に刺身包丁を手にして「お前をぶっ殺してやる。動くな!動くと心臓を一突きにするぞ」とXを脅した[書籍 28]。
その上でFはXに「よくも俺を裏切ったな。そこに座れ」と命じてXを道端に座らせてうつぶせにさせ、ショルダーバッグからガソリン入りの飲料用瓶を取り出してXの背中にガソリンをふりかけ、点火したマッチを投げつけたが引火しなかった[書籍 28]。そのため2本目のマッチを擦ろうとしたところXが立ち上がって抵抗したため、Fは「動くな」と叫びながらXに2回包丁を突き出し、2度目で刃先がXの大腿部に深く突き刺さったものの柄が抜け落ちた[書籍 28]。Xは苦痛に悶えつつも自分で本体を抜き取って右手に持って走りだそうとしたため、Fはくり小刀を取り出して落ちていた角材を手に取り「包丁を捨てろ」と命じた[書籍 28]。XがおとなしくFの指示に従ったことに関して遠藤允は「足に負傷してしまったから下手に動かず様子をうかがいながら反撃に転じようとしたのだろう」と考察している[書籍 29]。
FはXが自力で包丁を引き抜いたことから「Xは素手になっても激しく抵抗するだろう。油断させた上で殺そう」と考え、Fに「俺が悪かった。医者に連れて行ってやる」と謝罪した[書籍 29]。Xは足を引きずって歩こうと下が力尽きてキャベツ畑の中に座り込んだため、FはXを油断させるため「俺が背負ってやる」と言葉を掛けつつXに近づき[書籍 29]、くり小刀で背中・首・胸を11か所にわたり滅多刺しにして[書籍 29]被害者男性Xを「左総頚動脈切断」により失血死させて殺害した(第1の殺人)[裁判 1]。
事件発生直後の午前5時40分ごろ、犬を連れて散歩中だった近隣住民がキャベツ畑の道路わきで血まみれになり仰向けに倒れて死亡している被害者Xの遺体を発見して戸塚警察署に110番通報し[新聞 6]、所有物を調べた結果、遺留品のクレジットカードから遺体の身元は直ちに男性Xと判明したほか、死亡推定時刻は発見直前の午前3時 - 4時ごろと推測された[新聞 6]。このことから戸塚署および神奈川県警捜査一課は本事件を殺人事件と断定して捜査本部を設置し[新聞 6][新聞 12][新聞 3]、捜査員150人を動員して捜査を開始した[新聞 6]。
- 遺体の着衣に乱れはなかった一方で[新聞 6]手帳[新聞 26]・クレジットカード以外の所持品は発見できず[新聞 6]、遺体の周囲には約20mにわたって血痕・肉片[新聞 6]・「複数とみられる足跡」がかなり残されていた[新聞 12]。また遺体には抵抗した形跡は確認できず[新聞 6]左首・左胸・肩・大腿部など7,8か所を鋭利な刃物で刺されており[新聞 3]、特に直接の致命傷として左首への刺し傷、即ち前述の「左総頚動脈切断」が確認されたほか[新聞 6]、左胸の傷が肺に達していた[新聞 3]。
- 遺体発見現場から南へ[新聞 12]約250m離れた農道には被害者Xが所有していた原動機付自転車(原付)が[新聞 6]鍵付きのままで放置されていたため、捜査本部は「被害者Xはバイクで現場近くまで来て犯人と争い刺殺された」と推測した[新聞 12]。その他の遺留品はXが前述のように途中で盗んで被っていた白いヘルメットだけだった[書籍 29]。
- X自身が「友人のところに行く」と言い残して自宅を出ていたこと・事件現場には「何人かが入り乱れて争ったような形跡」があったことから、捜査本部は「被害者Xは複数の相手と喧嘩をして刺された可能性が高い」と推測して交友関係などを調べたが[新聞 3]、被害者Xの財布・所持金などがなくなっていたことから物取り目的の強盗殺人の線も含めて捜査した[新聞 6]。
- また捜査本部は上記のような背景に加えて「遺体には着衣の乱れ・抵抗した跡が見られなかった一方で背後から5か所以上も刺されていた点」「現場周辺にXの友人は住んでおらず『土地勘がない』と推測される点」「Xが家を出た時に持って行った現金4万円がなくなっている点」などの事実から「犯人は被害者Xと面識がある者で、現場に誘い出していきなり刺殺し金品を奪った可能性が強い」と推測して捜査した[新聞 6]。
Fは犯行後、周到に「犯行が露見する可能性がある物品の処分・証拠隠滅」を行おうとして凶器とXが着ていた上着をショルダーバッグに詰め込み、その上で事件前に借りていた東京都豊島区池袋のアパートへ向かう途中で鶴見川に架かる橋の上から清涼飲料水の空き瓶2本を投棄した[書籍 29]。Xの上着には現金17,000円・覚醒剤1包・注射器が入っていたがFはその中から現金を抜き取ると上着をアパート付近のコインランドリーで自分の衣服とともに洗濯し、ビニール袋に詰めて山手線五反田駅前で遺棄した[書籍 30]。その後Fは夜になると紙袋に凶器の包丁・くり小刀と包丁が入っていた空き箱を入れて自動二輪車で池袋から東京都・神奈川県境へ向かい、2本の凶器は都県境を流れる多摩川・空き箱は川崎市内の商店街にあったゴミ用ポリバケツに投棄したが、最後に残った紙袋を投棄する場所を探しながら横浜市鶴見区岸谷の道路を走っていた22時ごろ、一方通行道路を逆走したところを鶴見警察署員に発見され、当時免許停止処分を受けていたために道路交通法違反(無免許運転)の現行犯で逮捕された[書籍 30]。戸塚署が被害者Xの身元を割り出してから約16時間後の逮捕だった[書籍 26]。
現行犯逮捕されたFが鶴見署の留置場にいたころ、戸塚署は「Fが事件直前に被害者Xと接触した」事実までは把握しておらず、前述のように事件前に被害者Xと喧嘩していた厚木市の元少年院仲間を最有力被疑者として取り調べていた[書籍 26]。
- 当時、殺害の動機は「覚醒剤が入っていたはずのXの上着がなくなり、バイクからも覚醒剤の粉末すら発見されていない」という事実から「覚醒剤取引を巡るトラブルが殺人にまで発展した」という線で捜査されていた[書籍 26]。実際にこの捜査の過程では覚醒剤常用者・取引関係者らが重点的に取り調べられ30人近くが事情聴取を受けた結果、厚木市の元少年院仲間を含めた4人が覚せい剤取締法違反で逮捕された[書籍 26]。
- また厚木市の元少年院仲間は覚せい剤取締法違反で逮捕された直後、留置場で同房となった暴力団員に「俺の敵を討つために仲間が殺しをやった」などと「被疑者Fの犯行をにおわせるような発言」をしていた[新聞 27]。
- また事件前日の10月5日昼には被害者Xの運転免許証が厚木市内に落ちており、近隣の警察署に「遺失物」として届けられていたが[新聞 6]、このことも「厚木市在住の元少年院仲間が犯行に関与した線が強い」と推測させる結果となった[書籍 26]。
しかしその一方でFもまた被疑者として取り調べを受け、身柄を当初の留置先・鶴見署から戸塚署に移送された上、直前の逮捕容疑は道路交通法違反だったにも拘らず10日間の検事勾留を受けるなど強い嫌疑をかけられていた[書籍 26]。それでも逮捕されるまでに凶器などの物的証拠を完全に遺棄していたFは取り調べに対しては潔白を主張し、ポリグラフ検査を受けても「陰性」が出るなどした上、Fの実母は事情聴取に対し「息子は被害者Xの死亡推定時刻を含めて事件前夜から自宅で就寝していた」とアリバイを証言した[書籍 26]。このように実母からアリバイを主張された上に物証も発見できなかったため、神奈川県警は検事勾留期限満了となる1981年10月17日に嫌疑不十分で被疑者Fを釈放した[書籍 26]。
結局、戸塚署内に設置された「戸塚区中田町畑地内殺人事件捜査本部」は160人の捜査員を動員しても被疑者逮捕に至らず、継続捜査に切り替えた[書籍 26]。遠藤允は当時の捜査状況に関して「過去の出来事に『もし』は禁句だが、もしもこの時にFの実母が警察の事情聴取に対し息子のアリバイを申し立てなければFはX殺害容疑で逮捕され、(この時点でまだFは被害者少女Aと出会ってすらいなかったため)後にA一家が殺害されることもなく済んだはずだ」と評価している[書籍 26]。
第2の事件(本項目名事件)
- 被害者
- 藤沢事件の現場(神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番地3号、事件当時の被害者少女A宅)[新聞 4][新聞 28]
- 被害者一家に関して遠藤允は「『中堅社員として毎日会社に通う父親D』『パート仕事で張りの出てきた母親C』『非行化の兆しなど見せずに育っていく娘たち(A・B)』による『どこにでもあるごく普通の家庭』だった。事件さえ起きなければ新聞・テレビで実名報道されることはあり得なかったはずだ」と評した[書籍 31]。妻子3人を一挙に失い被害者遺族となったAの父親D(48歳会社員男性)は事件当時、厚木市内の日産自動車設計総務部工務課に勤務していた[新聞 28]。
1981年11月20日[書籍 33]、当時高校1年生だった本項目名事件の被害者少女Aはアルバイト先と同じチェーン店(茅ケ崎駅前店)を訪れて「現在勤務している江ノ島店では藤沢駅を経由して小田急江ノ島線に乗り換えねばならず、自転車でも遠すぎて不便だ。自宅(最寄り駅は辻堂駅)から乗り換えなしで行けて学校からも近い茅ケ崎駅前店に転勤したい」と申し出たが同店からは「人手が不足していないから」という理由で断られ、その直後に立ち寄ったスーパーマーケットで手袋を万引きした[書籍 34]。この「万引き」をした少女Aの当時の心理状態に関して遠藤は「転勤の希望が入れられなかった腹いせだろう。両親が知らないところで小さな過ちを犯していた」と推測した上で[書籍 34]、この万引きを「結果的には小さな過ちでは終わらなかった。スーパーに寄ることさえなかったら後述のようなFとの出会いはなかっただろうし、万引きせずに買い物かウィンドウショッピング程度で終わっていれば普段と変わらない気持ちでいられたはずだ」と評した[書籍 33]。
その後少女Aが19時ごろに自転車で同級生とともに帰宅しようとしていたところ[書籍 34]、約1か月半前にX殺害事件を犯したばかりで[書籍 33]女子高生をナンパするために神奈川県茅ヶ崎市内の高校付近の路上で待ち構えていたFが2人に「時刻を尋ねるふり」をして声をかけようと[裁判 1]排気量50ccの原動機付自転車でAら2人を追い抜いてその少し先で停車し、ヘルメットを脱ぎながら「今は何時?」と声をかけ、Aら2人から「19時(午後7時)よ」と回答されると「君たちはどこの学校?」などと質問した[書籍 34]。Fが「俺と友達になろうよ」と語りかけつつ[書籍 33]2人から住所・電話番号を訪ねると、同級生は頑なにに答えなかった一方でFに専ら対応していた少女Aは[書籍 34]自分の名前[裁判 1]・自宅の住所・電話番号をメモしてFに渡した[書籍 34]。
- この時の少女Aの心理状況に関して判決文は「軽い気持ちで応答した」と事実認定しているが[裁判 1]、遠藤は「まだ人を疑うことを知らなかったAは万引きを決行したことで興奮状態、すなわち『一種の異常心理』が続いており、その隙間に偶然Fが入り込んだのだろう。もし平常心さえ持っていれば1か月半前に殺人を犯していたFから『異様な雰囲気』が感じ取れたかもしれない」と推測した[書籍 33]。
- またAはこの時Fの「俺と友達になろう」という言葉を聞いた上で自分の連絡先を記したメモを渡していたことから遠藤は「Aは当時Fからの『友達になろう』という申し出を了承したも同然だったが、一方でFの住所・電話番号はろくに聞いていなかった」と表現した[書籍 33]。
Fはそれから約1週間後にA宅へ電話を掛けてAをデートに誘い[書籍 33]、2回目の電話で「1981年12月11日(土曜日)の13時に茅ヶ崎高校近くの国道1号交差点付近で待ち合わせる」と約束したが、Aの同級生が「すっぽかしてしまえばいい」と忠告したため、Aはこの日待ち合わせ場所に現れなかった[書籍 35]。しかしFは再び電話を掛け、期末試験後の12月15日14時に改めて日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東日本)東海道線・辻堂駅前で待ち合わせするよう提案し、この時はAも約束通り辻堂駅でFと待ち合わせた[書籍 35]。2人はこの日、東海道線の下り電車に乗車して熱海駅(静岡県熱海市)まで移動してバスを乗り継いで熱海後楽園ホテルへ行き、レストランで食事をしたりゲームを楽しんだりし[書籍 35]、さらに海岸沿いの道を歩いて駅に向かった際には腕組こそしなかったものの「仲の良いカップルのように」肩を並べて歩き、Fはこの時に初めて自分の住所・電話番号をAに教え、自宅近くの平塚駅で下車する際にAと別れた[書籍 36]。
- 遠藤允は当時のFの心理状態に関して「Fは中学卒業まで同級生にほとんど相手にされず、周囲が男性だらけの少年院で通算2年3か月過ごしていたことを抜きにしても成人に達するまで女性関係がほとんどなかった。口ではキスを求めながら行動に移せず、相手の女性に拒絶されるとあっさり引き下がる弱気な面も持っていたFにとって、自ら接近して声をかけたAが熱海までデートに付き合ってくれたことはかなり嬉しかっただろうし、Aと一緒に過ごした数時間は天にも昇る気持ちだったに違いない」と推測した[書籍 37]。またこの時にはAから「ニューミュージックのファンだ」と聞き出していたことから、後述のように12月27日にA宅を訪問した際にはイギリス人グループのカセットテープを持参している[書籍 38]。
- またこの時にFは2人分の往復電車賃・食事代・ゲーム料金などすべての費用を自分で支払っていたが、遠藤はこの点に関して「この時の出費は大した金額ではないとはいえ、定職を持たずひったくりを重ねていたFは普段なら気前よく現金を出さなかっただろう。その点はしばらくしてAへしつこく取り立てを始めることからもわかる」と述べた[書籍 39]。
しかしFがこのデートに浮かれたのとは対照的に、AにとってはFは「ゲーム機の操作は上手いが話題性に乏しい」ことに加えて「Fが本当に心を寄せていたのは初対面の時一緒にいた同級生だ」と勘づいていたことからあまり楽しい雰囲気ではなく[書籍 39]、判決文では「AはFの人柄を知ったことから交際を拒否するようになった」と認定された[裁判 2]。Fはその同級生の住所・電話番号をAから聞き出そうとしたが、自分の住所などを教えたAもその同級生のことまで明かす気にはなれなかったため、「まさか本当に来ることはないだろう」と考えつつも自宅までの道順を教えて「遊びに来てもいい」と伝えた[書籍 40]。その一方でFは11月に声をかけた当初こそ、どちらかと言えばもう1人のAより背が高い同級生に好意を寄せていたが、熱海でデートしてからは少しずつAの方に心が傾いていた[書籍 41]。
茅ヶ崎高校が冬休みに入った1981年12月27日の夕暮れ時、Fは前述のようにAの好みのイギリス人グループのカセットテープを持参した上でバイクに乗りA宅を訪問したが、Aは自宅の住所・電話番号などをFに教えたことを後悔しつつ、当時父親Dも在宅していたことから「Fは両親に会わせてはならない人物だ」と判断して自宅からやや離れた路上で「なんで急に来るのよ!」と責めた[書籍 38]。Aの心境の変化も知らないFは「Aは喜んで迎え入れてくれる」とばかり信じ込んでおり、「日曜日なら遊びに来たっていいといったじゃないか」と言いつつカセットテープを差し出したり「この辺を散歩しよう」と持ち掛けたりしが、Aが「今日はダメ」と言ったため、後楽園で味わった楽しい雰囲気を味わうことはできなかった[書籍 38]。Aの父親Dはこの時に娘がバイクに乗った男(F)と話している姿を遠目で玄関先から見ており、話し声は聞こえなかったがそれまで自宅に娘の男友達が訪問してくることはなかったため、Aが戻ってくると「どういう人なんだ?」と素性を尋ねたが、Aがはっきりと答えなかったため(Aがこの年の夏休みに「先輩にいい人がいる」と話していたこと、および男の背格好から)「高校の先輩だろう」と思い込んだ[書籍 41]。
1981年12月31日(大晦日)、Fは改めて電話で打ち合わせた上でAと辻堂駅南口で会い「俺と付き合ってほしい」と告白したが[書籍 41]、AはFから詰め寄られる度に好意を寄せていた同級生の男子へひきつけられており、Fに対しては「こんな男は相手にしていられない」という心境でその同級生の存在・名前を挙げつつ「好きな人がいるからダメ」と拒絶し、それでもなお交際を求められると「私に付き合ってほしいだなんて10年早い」と笑いながら拒絶した[書籍 42]。これは当時Aが自分とFを同い年程度と思い込んでいたためだったが、Fは「付き合ってくれ」と繰り返すばかりで、執拗に詰め寄られたことにたまりかねたAは「あんたなんかガキみたいでダサいし不潔だから嫌」と拒絶したが、この言葉は「Fにとってはかなり乱暴で『侮辱された』と受け取れるような言葉」だった[書籍 42]。
年が明けた1982年1月5日、Fは前回の会話でうっかりAがFに同級生男子の名前を明かしてしまったことを利用してAに電話を掛け、「俺はあいつ(同級生男子)を知っている」と実名だけでなくその出身中学校まで述べたが、Aは大みそかにその同級生のフルネームを思わず漏らしてしまったことを忘れていたために驚くこととなった[書籍 43]。Fはその後も数日間にわたり、Aの両親が出勤している昼間にA宅へ電話を掛けたが、やがて表現がエスカレートし「耳にするのも耐えられない言葉」を口走るようになったため、Aは一方的に電話を切るようになった[書籍 43]。さらにFは1982年1月12日にAが在学していた茅ケ崎高校へ「Aの従兄」を名乗り電話を掛け「Aのクラスにいる男子生徒(前述の同級生)の件」に関して聞き出そうとしたほか、その後も数回にわたり「Aの母親Cが倒れたからAを急いで帰宅させてほしい」などと騙り茅ケ崎高校へ電話を掛けたが、その電話をきっかけにAは明確にFを拒絶するようになったほか、Aへの電話が不審な内容ばかりだったため事務職員もAに電話を取り継がなかった[書籍 44]。この時、電話を受けて応対していた高校の事務職員はFの顔こそ見ていないものの、その口調から「幼稚っぽさが残るしゃべり方」という印象を抱いていた[書籍 45]。
一方でFはAから避けられるようになったことを察知しつつも「電話では埒が明かない」と考えて再びA宅を訪れてAに「12月のデートで貸した金を返済しろ」と迫り、玄関を開けてもらえなかったためにドア越しにAに話しかけたが「返す金なんかないから帰れ」と突き放され、別の日の夜にも再び訪問したが、Aに加えて妹のBも加わり同様に追い返された[書籍 46]。遠藤允はこの時の背景に関して『Fは熱海でデートした時の幸福感を継続させたっかったのか、それともAが好意を寄せていただろう男子同級生への嫉妬心を燃え立たせたのか…そこまではよくわからないが、具体的な行動として『貸した金の返済要求』に戦術を変えたのは事実だ」と述べ[書籍 45]、その上で「FはAとのつながりを保ち続けようとするための単なる口実で『金を返せ』と迫ったのだろう。熱海でのデートの時の金はAの(後述のような)『おごってもらったもので、借りたわけではない』という解釈が正しい」と解釈している[書籍 47]。
FはAが下校する際に校門前・通学路の途中でAに声をかけようとしたが、担任教師から助言を受けたAは必ず数人の同級生と一緒に下校していたため、FはAに話しかける機会をつかめなかったことから「Aと直接対面して話すことは無理だ」と感じ、1982年1月下旬には両親が在宅する時間を選んだうえで改めて電話を掛けた[書籍 46]。この時はAの父親Dが電話に応対したところ、Fは「娘さん(A)に金を貸したが返してもらえないのでお父さんが代わりに払ってほしい」と要求したが、Dは娘Aに毎月小遣いを5000円渡して学用品も買い与えていた上に「無闇に他人から金を借りてはいけない」と諭していたためFの要求が信じられず[書籍 46]、「いい加減なことを言うな。うちの子供が他人から金など借りるわけがない」と返した[書籍 48]。
1982年2月のある日、Fは21時ごろにA宅を訪れた[書籍 48]。当初はA・F両名がA宅の玄関の外で話し合っていたが、Aが大声を出したことから父親Dが2人を玄関内に入れ、DはAを居間に入れて話を引き継いだ上で「いつどこでいくら借りた?」と質問したが、Aから「熱海へ行った時の金だ」と聞かされたことから驚いた[書籍 49]。それに関するAの解釈は「おごってもらったもので、借りたわけではない」というものだったが、Dは「目の前にいる男(F)とこれ以上関わり合いになりたくない」という考えから「2人で熱海に行ったのが事実なら、立て替えてもらったAの分は自分が払う」とFに申し出た上で金額を尋ね[書籍 49]、おおよその額である3,000円をFに渡した[書籍 50]。この時にDは「Fが受け取った現金3,000円を財布にしまう際、その中に1万円札が数枚入っている」ことを目撃したが、当時はFの素性を詳しく知らなかったためにその年齢を風貌から「17,18歳程度」と推測した上で「若い割には大金を持っている」という印象を抱いた[書籍 50]。その上でDがFに「娘が世話になったからどこの誰なのか教えてほしい」と訊いたところ、Fは「平塚市在住の山田等(偽名)だ」とだけ答え、それ以上のことを聞き出そうとするDに「詳しく教えれば家に電話を掛けてくるだろう。そうなるとお母さんが迷惑する」と答え、最後にDが「うちの娘とはもう付き合わないでくれ」と念を押すと「金さえ返してもらえればいい」と回答した[書籍 51]。
これにより「借金の問題」は解決したが[書籍 51]、Fにとってこれは前述のように少女Aとのつながりを保つ目的の口実だった上に、その口実として使用した要求が案外簡単に通ってしまったことで「このままでは少女Aに近寄ることができなくなる」と困るようになり、その後も午後にA宅へ電話したが、ほとんどがその都度電話を切られるかAが不在の時だった[書籍 47]。しかし3学期修了直前の1982年3月11日に電話するとAが応対したため、FはAと辻堂駅南口で落ち合う約束をした[書籍 47]。約束通り辻堂駅でAと対面したFは「あの金(3,000円)は返してもらう必要はなかった」と言いつつAに金を返し、その上で「お前のことが好きだ。付き合ってほしい」と申し出たが、Aは「あんたなんかダサいし不潔で顔もマズいし話題も貧弱だから嫌だ」と拒絶したため、Fは「やっぱり金を返すのはやめだ」と言っていったん手渡した現金をひったくるように取り返し、Aの顔面をいきなり平手打ちした[書籍 52]。
このように喧嘩別れに終わった後もFはAに電話を掛け続け、1982年3月20日には互いに自分たちの非を認め謝罪する形で和解した[書籍 53]。その後、2人は1982年3月下旬に再び辻堂駅南口(東急ストア前)で待ち合わせ、Fは「以前(1982年3月11日)に2,500円しか渡されなかったのに3,000円を奪われた」というAからの申し出を受け、「寄りが戻せるならどうでもいい」としてAに500円を渡した[書籍 53]。その後、制服姿だったAが「帰宅して着替えたい」と言ったためFはA宅まで同伴したが、家の中に入った途端にAは玄関を施錠してFを閉め出し、2人がドア越しに口論になっていたところで帰宅した母親CがFに「まだ何か用があるの?」と問い詰めてきたため[書籍 53]、Fは先ほど釈然とせぬまま渡した500円のことを思い浮かべつつ「お金のことで来ました」と申し出たが、Cからも「お金なら前返したはずじゃない」と返され相手にされなかった[書籍 54]。
1982年3月30日 - 4月1日夕方まで少女Aは1人で宇都宮市内へ旅行に行ったが、それを知らなかったDは4月1日午後の早い時間帯にA宅を訪れ、事情を知らずちょうど1人で在宅していたAの妹Bが応対して2階4畳半のAの部屋にFを招き入れた[書籍 54]。この訪問を含めFは1982年3月 - 4月ごろにかけて妹Bが1人で留守番していたA宅にチョコレートなどを持って2回ほど訪問しており、妹BはFの申し出を受けて自室に案内して自分と姉Aの卒業アルバムを見せたほか、その際にFからキス(接吻)を求められると「わずかながら嫌がる様子」を見せたが明確には拒絶せずにキスに応じた[書籍 55]。遠藤允は当時のFの心境を「好きな相手の個室に足を踏み入れることができて感激した反面、自分自身の狭い家を思い浮かべて妬ましさを感じたかもしれない」と推測している[書籍 56]。Fはその数日後に近所の中学2年生とバイクで2人乗りして藤沢駅前を走行していたところで偶然美容院へ行く途中だったAと出会ったためAに改めて3,000円を返して美容院前でAが出てくるのを待ったが、Aは一向に出てこず連れの中学生がしびれを切らしたためそのまま帰宅し、これが2人の最後の対面となった[書籍 57]。
Fは1982年4月に入ってからも[書籍 58]再びA宅に頻繁に電話を掛けるようになったが、当初こそ快活に応対していた少女Aが一貫して拒絶するような態度を取るようになり、Fが電話を掛けてくる度に「私はあんたのことなんか好きじゃない。あんたみたいな顔じゃ結婚できそうもないね」などと罵倒するようになったほか、電話を代わった妹BもFを「お姉ちゃん(A)の気持ちがよくわかる」などと非難した[書籍 57]。ある日の21時ごろに数回目の電話を掛けたところで父親Dが応対した際、「また(Aが美容院に行った際に)金を貸したから返してくれ」と申し出たが[書籍 57]、父親Dはそのことを娘Aから聞いていなかったために電話が終わった後でAに問い質したところ「Fが自分のポケットに勝手に押し込んで逃げた」と聞かされた[書籍 59]。その電話でもFは父親Dに対し「金の問題云々以前に俺はAが好きだ。Aと交際させてほしい」と申し出たが、Dは「Aは大学受験を控えているから男女交際などする暇はない。Aも嫌がっているからやめてほしい。勝手に好きになられても困る」と拒否し、Fが食い下がると「いい加減にしろ」と言って電話を切った[書籍 59]。その後もFは執拗に電話を掛け続け、Dが「金を送るから住所を教えろ」と要求しても「俺の方からとりに行くから教えなくてもいいだろう」と回答を拒否し、長い時では30分近くも話したが互いに平行線の会話となり問題は解決しなかったため、Dは最終的に「勝手に押し付けた金など返す必要はない」と最後通告して電話を切り、その後妻子に「しつこい男だ。これ以上来たら110番通報しよう」と言い渡した[書籍 59]。
一連の電話で「Aから一貫して侮辱された」と逆恨みしたFは殺意を抱き始め、以下のように凶器を用意して殺害の準備を始めるとともに[書籍 58]、「バイクで少女Aの後ろから通り魔的に刺殺しよう」などと考えた[新聞 29]。
- 犯行に使用したくり小刀(刃渡り13.3cm・全長24cm)を[書籍 1]1982年4月28日に自宅近くの平塚市内のスーパーマーケットで購入した[新聞 29]。
- 1982年4月ごろには凶器として前述のくり小刀のほかに包丁2本(文化包丁・刺身包丁)を用意した[書籍 58]。
くり小刀以外に包丁を用意した理由は「Xを刺殺した際に刃が体に突き刺さって柄から刃が抜けたため、留め金の付いた包丁を選んだ」ためで、自宅付近にて短時間で一家4人を殺害するための練習を行った[新聞 29]。このころからFはAに対する「心変わりされた腹立たしさ」「なお交際を求めたい気持ち」が入り混じった感情から無言電話・いたずら電話で少女Aに嫌がらせをするなど[裁判 2]、執拗に交際を求めて少女Aに付きまとうストーカー行為をしたが、少女A本人のみならずAの両親・妹Bから交際を強く拒絶された[裁判 1]。
- Fは深夜1時ごろに喫茶店・スナックバーなどからA宅に無言電話を繰り返すようになり[書籍 58]、自分で電話するだけでなく少年院仲間たちに頼んでA宅に電話させた[書籍 60]。
- それに辟易したA一家はベルの音が漏れないように電話機の下に座布団を敷いて毛布で包む防音措置を施すようになった上[書籍 58]、「電話番号の変更」を検討して家族会議をしたが、結局はA・B姉妹が「学校の緊急連絡網を変えなければいけなくなる」と反対したため実現しなかった[書籍 60]。
さらにFは遊園地で少女Aのために使った金の返済を要求して執拗にAに付きまとったが、ますます疎まれてAやその家族から強く交際を拒まれ[裁判 2]、1982年5月8日夜[新聞 29]にA宅を訪ねた際には110番通報されて逃げ帰る事態となり[裁判 1]、これが「一家皆殺し」を強く決意する決定打となった[新聞 29]。
A一家を逆恨みしたFは「A一家の者たちから散々馬鹿にされた」と感じたことから「Aを家族もろとも皆殺しにしてやる」と企ててはいたが[裁判 1]、しばらくは「いつ実行するか」を決めかねてあちこちを遊び歩いていたことから、遠藤允は当時のFに関して「もしYと出会わなければ、FのA一家に対する恨みは少しずつ薄れ、嫌がらせ電話だけで終わっていたかもしれない」と推測した[書籍 61]。しかし事件3日前の1982年5月24日深夜、Fは東京都新宿区歌舞伎町のゲームセンターを出たところでかつて小田原中等少年院にて同室で過ごし、久里浜特別少年院にも同時期に入所していた元少年院仲間・少年Y(後述の尼崎事件で殺害)と再会した[書籍 61]。Yは同年4月にシンナー乱用で警視庁新宿警察署に検挙されて東京都内の更生施設に預けられていたが、10日前(1982年5月10日)に施設を無断外出して新宿界隈を徘徊していた[書籍 61]。一方でこのころまでにBは中学校で同級生に「姉(A)が男(Fのこと)にしつこく付きまとわれ、いたずら電話も頻繁にかかってきて困っている。怖くて外に出られない」などと悩みを打ち明けており、これに対し級友らは「(Fは)気持ちが悪いね」などと応じていたが、後にBら母娘3人が惨殺されることは思いもしていなかった[新聞 16]。
YはFに「俺は犯罪で飯を食っていきたい。俺と組んでほしい」と持ち掛けたが、FはYを完全に信用しきれていなかったために即答を避け[書籍 61]、「Yを平塚へ連れて行ってしばらく一緒に行動してみよう。そのうちに信用できるかどうかがわかるはずだ」と考え、翌日(1982年5月25日)正午前に日本国有鉄道(国鉄、現在のJR東日本)東海道線・平塚駅前で落ち合うと2人で平塚市内の知人少女宅へ向かった[書籍 62]。Fはこの少女から「露天商の手伝いをしている」と聞いていたことから「森田久」の偽名を用いて少女に電話で仕事の紹介を受け、いったんは1982年5月27日(事件当日)朝から横浜公園一帯で開催される「横浜開港記念バザー」の露天商の手伝いの紹介を受けた一方、Yはこの時にFが「森田」の偽名を使っていることを不審に思っていた[書籍 62]。しかしYには寝泊まりする場所がなくFの家の部屋も2人で寝泊まりするには狭すぎたため、Yは24日・25日と2日連続で少女宅に泊まった[書籍 62]。
事件前日の1982年5月26日朝、Fは平塚駅前の喫茶店でYに「A一家を皆殺しにする計画」を打ち明けたが、当初Yは「冗談を言うな。そんなことがFにできるかよ」と本気にしなかったため、FはYの態度に「見下された」と感じつつ「俺はやる、できる。本気であいつらを皆殺しにする」と「Aから浴びせられた言葉・Aの家族たちの応対ぶり」などを自分の主観で説明した[書籍 63]。Fの話を聞かされたYはすぐに態度を翻意し「Fとはこれからも一生付き合っていきたい。犯行を手伝わせてもらう」と引き受けた[書籍 63]。
- 遠藤允はこのようにすぐ翻意した当時のYの心情を「Fから仕事を斡旋してもらった恩義を感じたのかもしれない」と推測した[書籍 63]。
- また、遠藤は当時のFの心情に関しても「Yから共謀への同意を取り付けられてホッとするとともに大いに感激した。『殺人という重大な行為』を一緒に実行してくれるYに全幅の信頼を置いたとしても不思議ではない」と推測した[書籍 63]。
喫茶店を出たF・Y両名は細かい実行計画を練り以下のように犯行計画を固めた一方[書籍 63]、翌27日の仕事は「Yが叔父から『帰って来い』と言われている」という方便で辞退することとした[書籍 64]。
- 翌日(1982年5月27日)20時に決行する[書籍 63]。この時間帯を選んだ理由は「Aの父親Dが仕事を終えて帰宅している時間帯」と予想したためだったが[新聞 29]、結果的にはDはこの日2時間にわたり残業していた上、3日後の日曜日に控えていた社内の親善ゴルフ大会に向けて平塚市内の相模川河川敷にあったゴルフ練習場へ向かおうとしていたため[書籍 65]、事件当時は不在だった[新聞 29]。
- 凶器はFが事前に用意していた刃物3本を用いる[書籍 63]。うちFが包丁2本・くり小刀1本はYが持ち、Yはまず電話線を切断する[書籍 63]。
- 家に侵入したらチェーンロックをかけた上で逃げようとする被害者は羽交い絞めにし、家族を皆殺しにする[書籍 63]。
そしてFは自動二輪車にYとともに2人乗りして国道129号を北上して東京都町田市へ出かけると「ボタン付きの服は犯行当時にボタンを落とす可能性がある」という理由でYに黒いジャージ・運動靴を買い与えて着替えさせた[書籍 66]。その後FはYとともにいったん帰宅して銭湯に行き、かつて自分が在学していた平塚市立富士見小学校近くの旅館に宿泊した[書籍 66]。
このようにFがAとその家族の殺害計画を練っていた一方、被害者Aの担任は「Aが校門で待ち伏せされている」などの事態を把握して在校生から平塚市内などの中学校卒業アルバムを借り、「山田等」と名乗った男(=F)の素性を調べようとしていた[書籍 67]。
事件当日の1982年5月27日朝にはFの自宅を戸塚署員2人が訪問したが、FはYとともに前夜から平塚市内の旅館へ投宿していたため不在だった[書籍 68]。その後(「戸塚署員訪問」と後述の「平塚署からの電話」とのちょうど中間の時間帯)[書籍 68]の午前10時ごろににFがいったん帰宅してYとともに16時ごろまで音楽鑑賞などをして時間を潰したが[書籍 66]、戸塚署員訪問の1時間後にはF宅に平塚警察署から「Fが平塚市内で起こした交通違反の件」で呼び出し電話が入った[書籍 68]。F・Y両名は互いに身体検査を行いあった上で[新聞 29]、16時ごろに自宅を出て平塚駅前に行き「Fが犯行時に使用する運動靴」を購入したり夕食を食べたりしてから再び自宅に戻り、Fの両親・妹が夕食を食べている中で凶器3本・手袋6足を入れて用意してあったスポーツバッグを取り出して中身の凶器・手袋をボストンバッグに詰め替えた[書籍 66]。Fは19時にYを自動二輪車の後ろに乗せて自宅を出発し、茅ケ崎駅前のスーパーマーケット横の駐輪場に駐輪すると駅前バス停留場から神奈川中央交通・藤沢駅行き路線バスに2人で乗車し、約10分後に国道1号上のバス停「二ッ谷」で下車して徒歩で数分の場所にあった少女A宅に向かい[書籍 66]、現場付近の路上でYにくり小刀を手渡した[新聞 29]。
FはYと共謀し当時不在だった父親D以外の3人を皆殺しにすることを決意して包丁2本・くり小刀を凶器として持参した上で1982年5月27日20時ごろ、それぞれ新聞集金人を装って[裁判 1]神奈川県藤沢市辻堂神台二丁目7番地3号の少女A宅を訪れた[新聞 30]。それ以前から下見を含めて少女A宅を数回にわたり訪れていたFは[書籍 66]「Aの父親Dも含めて一家4人を皆殺しにしてやる」と考えていたが[新聞 31]、A宅のガレージに自動車が駐車されていなかったことから「AのDはまだ帰ってきていない」と悟りつつも周囲に人通りがあったため「目撃されないうちに押し入って親子3人を殺し、室内でDの帰宅を待ち伏せよう」と決めた[書籍 66]。Fは既にAとその家族に声を知られていたため[書籍 66]、「自分の声では家族が警戒する」と考え[新聞 29]、A宅を初めて訪れたYが玄関ドアの前に立ち[書籍 66]新聞集金人を装って玄関ドアを叩いた[新聞 29]。屋内でA・B・Cの母娘3人が夕食を食べていたところでYが玄関のチャイムを鳴らすとB・C両名が玄関に出て応対した[書籍 69]。偶然とはいえ同日昼過ぎには本物の新聞集金人がA宅を訪れており、その時には中間テストを終えて帰宅していたAが応対して「母がいないのでまた来てください」と答えていた[書籍 69]。Yは結果的に「昼間にA宅を訪問した新聞集金人」とほとんど年齢差がなかったため[書籍 66]、遠藤允は「Aたちは『新聞集金人が改めて来た』と思ったのだろう」と推測した[書籍 69]。
「玄関の外に立っている男は娘にストーカー行為を繰り返していたFだ」という事実に気づかなかったCが玄関ドアを開けたところ、軍手をはめて包丁を握ったFがYとともに家の中に押し入り、Yが素早くドアのチェーン錠を掛けて玄関に置いてあった電話機の電話線を切断した[書籍 69]。Fは共犯Yに廊下で見張り役をさせて被害者3人が現場から逃避することを妨害させつつ[新聞 32]、被害者宅の居間へ[新聞 29]土足で上がり込むと怒鳴りながら包丁で目の前の次女Bに襲い掛かり、次いで台所に逃げ込んだ母親Cを襲撃した[書籍 69]。さらに長女Aが異変に気付いて2階から降りてきたところ[新聞 29]、Fは台所と居間の境にいたAを襲撃し[書籍 69]、被害者母娘3人を持っていた包丁・くり小刀で次々と滅多刺しにして、3人をいずれも以下のような傷害により失血死させて殺害した(第2の事件・本項目名事件)[裁判 1][新聞 30]。なおYは廊下で見張り役をしていた者の被害者3人を押さえつけるなどの行為はせず、室内にYの足跡・指紋などは残されていなかった[新聞 32]。
- 少女A - 6か所におよぶ右前胸部刺切創などの傷害[裁判 1]。心臓を一突きにされていた[新聞 32]。
- 少女Aの妹B - 15か所におよぶ左右前胸部刺切創などの傷害[裁判 1]。
- A・B姉妹の母親C - 6か所におよぶ背部刺切創などの傷害[裁判 1]。肺に通じる大動脈が切断されていた[新聞 32]。
被害者親子3人は「周到な準備・刺突訓練まで重ねた屈強な若い男」を前にして抵抗することも逃げることもできず、背中・胸などを滅多刺しにされて絶命し[書籍 70]、Cの遺体の背中には文化包丁・Bの遺体の胸にはくり小刀がそれぞれ突き刺さったまま現場に放置された[新聞 8]。Fは次女Bを殺害した際、うめき声をあげていたBの胸を包丁で突き刺してとどめを刺そうとしたが包丁は右腕に刺さり、包丁が筋肉収縮により抜けなくなったためにYからくり小刀を受け取って何度もBの胸を突き刺した[書籍 55]。Bは最後に激しく抵抗したため10か所以上を刺されたにもかかわらず、絨毯の上でもがき苦しみながら絶命した[新聞 29]。その後、Fはうつぶせに倒れていた長女Aの背中をくり小刀でつつき、まだ息があることを確かめるととどめを刺したが、Cが瀕死の重傷を負いつつも起き上がって勝手口から逃走しようとしたことにYが気づき「やばいぞ」と声を上げたため、Fは裏口の通路へ飛び出してCの片淵をつかみ背後から2回突き刺してとどめを刺した[新聞 29]。A・B姉妹ともに心臓に達するほどの深手が致命傷となりほとんど即死状態で、Cは刺された後も台所のドアを開けて外まで這い出たところをFにくり小刀でとどめを刺され、息絶える直前に長女Aの名前を何度も呼んだ[書籍 69]。
被害者3人の死亡推定時刻は以下のような近隣住民の証言・司法解剖結果などから「20時前後」と推定された[書籍 70]。加害者F・Y両名は「わずか数分か長くて5分」の犯行後に玄関から逃走した[書籍 70]。
- 凶行の最中に長女Aが叫んだ「キャー」という悲鳴[書籍 70]
- 母親Cが近隣住民に助けを求める声[書籍 70]
- 事件当時にテレビ中継放送されていたプロ野球セ・リーグ・巨人対中日戦(後楽園球場)で「(悲鳴が上がったころ)6回表に中日・大島康徳が2点本塁打を放ち7点目を挙げた」という証言[書籍 70]
事件発生時刻と推定された20時ごろには被害者女性Cが自宅で絶命する寸前に隣人の主婦に「奥さん」と2度にわたり助けを求めるような声を出したが、その主婦は恐怖から外に出られず部屋の照明・テレビを消して室内に籠っていた[新聞 33]。そこに夫が帰宅したため、夫婦で家の外に出て被害者A一家宅に回ったところ、裏庭で被害者Cが「お姉ちゃんは…?」と消え入るような声で長女Aの身を案じていた[新聞 33]。
F・Y両加害者は犯行後もA・B姉妹の父親(Cの夫)である男性Dが帰宅するのを待ち伏せてDも刺殺する予定だったが、3人の悲鳴が大きかったため「近隣住民に犯行を知られたのではないか?」と恐れて断念し逃走した[新聞 32]。
事件発覚
現場住民の会社員男性D(当時48歳・Cの夫でA・B姉妹の父親)は事件発生時刻ごろに相模川河川敷のゴルフ練習場に向かって自家用車を運転していたが、その途中で虫の知らせを覚えてゴルフ練習場へ向かうのを中止し帰宅した[書籍 65]。Dが帰宅したところ、自分が帰宅する時間帯には点灯しているはずの玄関の街灯が消えていた上、普段は妻子が開けてくれるはずの玄関ドアも閉まっていた[書籍 71]。男性が「普段は見慣れない光景」に違和感を覚えつつも自分でドアを開けて家に入ったところ、玄関先の電話機に接続させていた電話線が切断されており、家の中からも家族の声が全く聞こえてこなかった[書籍 71]。Dは「妻子が既に殺されている」とは考えもせず「A・Bが酷い姉妹喧嘩でもしたのだろう」と考えつつ洋間に入ったが、そこで食卓近くにて長女Aが、台所との境目においてあった冷蔵庫前の床に次女Bがそれぞれうつぶせになって倒れており、Aの倒れていた辺り一面が血の海になっていた[書籍 71]。Dは娘2人の惨殺された光景を目の当たりにしつつも「妻だけでも生きていてほしい」と一縷の希望を持ちつつ、妻Cが既に裏庭で死亡していることも知らずに押し入れ・トイレ・2回などを探したが家の外周までは探す余裕がなく、警察へ110番通報しようとしたが混乱していたために電話線が切断されていることを忘れており、いったんは電話線が切断された玄関先の電話機を手に取った後に20時40分ごろになって隣家の電話を借りて神奈川県警察へ110番通報した[書籍 71]。110番通報を受けた神奈川県警本部通信指令室は「殺人容疑事件」として事件現場付近を走行していた機動捜査隊のパトカーに現場急行を指令するとともに所轄の藤沢警察署および隣接各署(当時は茅ヶ崎・海老名・大和・戸塚・鎌倉の各警察署)に緊急配備命令を出した[書籍 1]。
藤沢署員が通報を受けて事件現場に駆け付けたところ、男性の娘2人(A・B)が食卓脇でそれぞれ胸を刺されてうつぶせになって死亡しており[新聞 4][新聞 28]、さらに隣家との境になっていた台所裏の裏庭にてうつぶせで血を流して死亡している妻Cを発見した[書籍 71]。被害者Cの遺体の背中には刃渡り13.3センチメートル(cm)のくり小刀(柄を含めた全長24cm)が突き立てられていたほか、被害者Bの右腕にも刃渡り18.4cm(全長30.3cm)の文化包丁が突き立てられ、それら刃物の鞘・段ボール箱ケースなどが遺留されていた[書籍 1]。またこちらは犯行には使用されることはなかったが、台所の床の上には包丁ケースに入ったままの刺身包丁(刃渡り20cm・全長33cm)が落ちていたほか、殺害された3人の血液型(A型)とは異なるO型の血痕が玄関の三和土に残され、台所にも波型に刻まれたゴム底の足跡があった[書籍 1]。
事件現場は室内の照明・テレビがつけっぱなしになっていたほか、リビングの食卓上には3人分の食事が箸をつけた状態で残されていた[新聞 4][新聞 28]。その一方で室内に物色の形跡は見当たらなかった上、3人の遺体とも血まみれ・即死状態だった一方で抵抗した跡・着衣の乱れは確認できなかったことから神奈川県警捜査一課・藤沢署は現場の様子などから総合して「3人は食事中に襲われ、Cは裏庭に逃げたところで殺された」と推測した上で本事件を殺人事件と断定して捜査を開始した[新聞 4][新聞 28]。1982年5月28日午前0時、神奈川県警は藤沢署内に「藤沢市辻堂母娘殺人事件捜査本部」を設置して同署員100人・本部から派遣された捜査一課員30人・鑑識課員20人・機動捜査隊員45人の計195人を動員した[書籍 72]。
県警の聞き込みを受けた近隣住民は「事件当日19時30分ごろにAら3人の悲鳴を聞いた」と証言したほか[新聞 28]、当時の『中日新聞』報道では「事件約1週間前にAの友人とみられる『高校生風の男』が被害者宅に押し掛け、家人の通報でパトカーが出動する事件があった。捜査本部はその男と本事件の関連を調べている」と言及された[新聞 28]。
この事件は被害者少女A・B姉妹の同級生たちにも大きな衝撃を与え、Bが通っていた明治中学校では「級友が事件翌日に貧血で卒倒する」「1学年上の先輩がショックでひきつけを起こす」など心的外傷後ストレス障害(PTSD)を引き起こした生徒もいた[新聞 16]。
被害者3人の遺体は1982年5月28日未明に神奈川県警科学捜査研究所(科捜研)で司法解剖され、いずれも死因は「胸・背中を鋭利な刃物で4,5か所刺されたことによる失血死」と断定された[新聞 33][新聞 34]。このほか「犯人が室内を物色していない」ことが判明した一方[新聞 33]、犯行の状況として「加害者は被害者を前からいきなり胸を刺し、逃げる被害者を追いかけて背中からとどめを刺す」という残忍な様相も浮き彫りになったため、捜査本部は「恨みによる犯行」との見方を強め、被害者の交友関係を調べるなどして捜査した[新聞 34]。また捜査本部は事件発生時刻前後の不審者情報などの聞き込みに全力を挙げた一方、事件前から長女Aに付きまとっていた男(後にFと判明)の存在を把握したことから[新聞 33][新聞 34]、28日夜までに「犯行は恨みによるものであり、長女Aに付きまとっており事件後に失踪した男が何らかの事情を知っている可能性が高い」と断定して行方を追った[新聞 33][新聞 35]。
- なお『読売新聞』はその男に関して「平塚市内在住の『田中』と名乗る20歳の男」と報道したが[新聞 35]、実際にFが使用していた偽名は「山田等」だった上、実際にはFの当時の年齢は21歳だった[書籍 73]。このように2点の誤りが生じてしまった理由に関して遠藤允は「同紙記者が捜査員から取材を受けた際に両者の認識に齟齬が生じたこと」「捜査員が被疑者Fの生年月日を単純に計算間違いしていたこと」を推測している[書籍 73]。
- また地元紙『神奈川新聞』はその「不審な男」に関して「平塚市内在住の17歳少年でミニバイクを乗り回している。男性Dはこの少年に関して『長女Aの生徒手帳にも書かれていない』ことに加え、1度しか会っていないため顔もあまりよく覚えていないそうだ」と報道した[新聞 33]。
被害者3人の葬儀は母親Cの実家近くの法源寺(鎌倉市腰越)で1982年5月29日19時から営まれ、翌30日午前11時から告別式が営まれた[新聞 33]。
事件解決後に判明した新事実
本事件には発生当時から正確に解明されず「憶測に近い形」で解釈されていた2点の事実があった[書籍 55]。
- 妹Bが受けた刺し傷が姉A・母Cに比べて異様に多かった理由[書籍 55]
- 前述のように「Fは長女Aに最も強い恨みを抱いていたにも拘らずその妹Bの刺し傷が異様に多かった」点が疑問視され、報道機関は事件当時「F自身の妹に対する恨みを(八つ当たりのような形で)Bに集中させた」と推測して報道したが、実際には「まだ息があったBにとどめを刺す際に使用しようとした包丁がBの右腕に刺さったまま筋肉収縮で抜けなくなったためにYのくり小刀で何度もBの胸を突き刺したため」だった[書籍 55]。
- また遠藤は「仮にFがBへの恨みを抱いていたとすれば前述のような『自分の妹への恨み』ではなく『一度は自分とキスをした仲だったにも拘らず姉Aからなされた侮辱に同調したこと』だろう」と推測している[書籍 55]。
- 少女Aが加害者Fとの交際を再開した理由[書籍 74]
- 長女AはFとの交際と同時期に別の神奈川県内の成人男性と文通をしていたほか、事件前年(1981年)夏からは同級生の男子生徒に好意を寄せていたが、前者との交際は不調に終わり、後者に対しても告白できずにいた[書籍 74]。
- 遠藤はこの点から「長女Aは同級生の男子生徒に告白できないことの寂しさを紛らすため、もしくは心の空白を埋めるために成人男性と文通に応じたのだろう。同時にFは『しつこさこそ目に余るが盛んに自分へモーションをかけてくる存在』だったため、いったんは自ら避けることを決めたばかりか父親Dからも『付き合うな』と言われたFと電話で会話したり対面したりしたのだろう」と推測した[書籍 74]。
- その上で遠藤は「Fには『Aを思い詰める気持ち』はあったが『Aが思い煩う内面』を理解できるだけの思いやりを有していなかった。時に喧嘩しても『強引に押していけば会ってくれた』長女Aに対し『このまま突き進めば相思相愛の間柄になれるのではないか』と幻想を抱いたのだろうが、それが幻想だったことを認識したことで殺意が生まれた」と推測した[書籍 74]。
- 長女AはFとの交際と同時期に別の神奈川県内の成人男性と文通をしていたほか、事件前年(1981年)夏からは同級生の男子生徒に好意を寄せていたが、前者との交際は不調に終わり、後者に対しても告白できずにいた[書籍 74]。
事件後の加害者の行動
一方でF・Y両加害者は親子3人を惨殺した直後に国道1号まで全速力で走って逃げ、同国道を西に折れて茅ヶ崎市内の小和田郵便局まで徒歩で逃走すると20時30分ごろ、横浜市から中郡大磯町内の営業所に戻る途中で同所付近を通過していた空車のタクシーを呼んで乗車した[書籍 75]。Fは当初の行き先としてタクシー運転手に「国鉄東海道線茅ケ崎駅前」と伝えたが、その後「同線大磯駅で別のタクシーに乗り換えて逃走経路を攪乱しよう」と考えたことから行き先を大磯駅前に変更した[書籍 75]。その途中でタクシーはFの自宅付近を通過したが、Fは前述の目的から自宅に直行することを避けた[書籍 75]。
タクシーが大磯駅前に到着するとF・Y両加害者は改札口東の公衆トイレに入り傷口を確認したところ、Fの左手首・右親指の切り傷をはじめそれ以外にも無数の小さな傷があり[書籍 75]、その中でも左手首の切り傷は静脈にまで達していたためか、後に帰宅した際にも血液が滴っていた[書籍 76]。Fがトイレットペーパーで血液を拭き取ろうとしたところ手袋の片方が水洗トイレの便器に落ちてしまい、拾い上げることを躊躇しつつ水を流すと手袋もそのまま流れたため、F・Y両加害者は証拠隠滅のために血液が付着した手袋4足を同様に流し[書籍 75]手を洗った[新聞 9]。遠藤允は「Fはこのように手袋が偶然便器に落ちたことを巧みに利用し、残りの手袋をトイレに流して遺棄したことで『証拠物を完全に消し去った』と思ったに違いない。しかしその証拠隠滅工作は後に手痛いしっぺ返しを食らうことになる」と表現した[書籍 76]。
約20分間を公衆トイレの中で過ごした2人は大磯駅前のタクシー乗り場で再びタクシーに乗車したが、Fはこのタクシーの運転手が先ほど乗車した時と全く同じ運転手であることに気づき唖然とした[書籍 76]。しかし既にYを奥の座席に座らせていたことからFは「このまま乗車を断念するとタクシー運転手から怪しまれる」と考えてそのまま自宅前の狭い路地までこのタクシーに乗車して帰宅した[書籍 76]。Fは自宅前に到着した際、「大磯駅で降りた際に支払った1000円札に血液が付着した可能性がある」と危惧し、その1000円札を釣り銭で回収できる機会に賭けて「1万円札で母親に料金を払わせよう』と考えたが、母親に「1万円札で支払ってほしい」と説明してもその説明が要領を得なかったため、母親は結局1000円札を出して釣り銭を受け取った[書籍 76]。これに憤慨したFは母親を怒鳴りつけ、今度は1万円札をタクシー運転手に差し出して両替を求めたが、タクシー運転手が持っていた1000円札は10枚に満たなかったため、結局Fは血液の付着した1000円札を回収できなかった[書籍 76]。
F・Y両加害者とも家の中に上がり、Fの母親は息子の左手首の傷を不審がりつつもマーキュロクロム液を塗って包帯を巻くなどして治療したが[書籍 76]、Fはその傷を「人を殺してきた。親子3人を殺した」と答えた[書籍 77]。これを聞いて就寝していたFの父親が起き出し、両親ともFに警察への自首を勧めたがFは「絶対に自首しない。逃げる」と答え、なおも説得されると「警察に通報したら家族を皆殺しにするぞ」と言い放った[書籍 77]。F・Y両加害者は40分近くF宅に滞在している中でFの母親に「鈴木」の偽名でタクシーを呼ばせていったん茅ケ崎駅に向かい、Fは犯行前に同駅前駐輪場に駐輪してあった自動二輪車を自宅に持ち帰ると着替え、犯行時に着用していた衣服をボストンバッグに詰め込み、大阪方面への逃走を開始した[書籍 78]。事件前の1982年5月12日に藤沢市内でひったくりをして得た現金66万円のうちこの時点で約半分の30万円ほどが残っていたため、それらの現金と同じくひったくりで得たハンドバッグを持参してタクシーで東海道線小田原駅へ向かった[書籍 79]。F・Y両加害者は小田原駅で23時48分発・沼津駅行き普通電車に乗車し、沼津駅到着から約1時間後には後続の大垣駅行き夜行列車・さらに大垣駅で同駅始発西明石駅行き普通電車を乗り継いだが[書籍 79]、その際にFは夜行列車内でYが母娘殺害事件の際に何もできずに立ちすくんでいたことを非難しており[書籍 80]、Yがその事実に負い目を感じていた一方でFはこの時点から「Yが警察に自首するかもしれない」と疑心を抱いていた[書籍 81]。
翌日(1982年5月28日)午前9時57分に大阪駅へ到着したFは当初「犯行時の衣服を大阪駅周辺のコインランドリーで洗濯してから遺棄しよう」と考えていたが、同駅周辺は阪急・阪神・大阪市営地下鉄(現:大阪市高速電気軌道)などの駅が集中して人通りも多かったため、Fは目標としていたコインランドリーが見つからないことにいら立ち「より馴染み深い兵庫県尼崎市内へに移動しよう」と決意し[書籍 79]、Yとともに阪神電気鉄道本線・梅田駅から阪神電車に乗車して13時ごろに阪神尼崎駅へ到着し、駅北口から尼崎中央・三和・出屋敷商店街に入ると商店街内のコインランドリーで衣服を選択して犯行当時の靴とともにごみ収集所へ投棄した[書籍 82]。その上でFは商店街付近の洋品店で「自分用の黒いジャージ上下」「Y用の近ズボン・青半袖シャツ」を購入したが、Yは「藤沢事件の際に何もできなかった負い目」からか退店時にFに「Fにばかり金を使わせて申し訳ない」と述べた上で「俺は恐喝で金を稼ぐ」と提案し、尼崎駅から北約200mの国道2号沿い商店街で刃渡り13.5cmのくり小刀を購入した[書籍 80]。その後2人は大阪に戻って夕食を摂り、Fは夕食後に自宅に「逃亡開始から初の電話」をして実母から「刑事が自宅にやってきて『山田等』と名乗った男を探している」と伝えられ、行き先を「(大阪とは逆方向の)北海道に行っている」と伝えて電話を切った[書籍 83]。
F・Y両加害者は20時12分新大阪駅発23時45分博多駅着の山陽新幹線「ひかり29号」に乗車して九州方面へ逃亡し、同夜は博多駅筑紫口(東口)付近のビジネスホテルに宿泊した[書籍 83]。
1982年5月29日 - 6月4日にかけてF・Y両加害者は福岡県福岡市内に宿泊して博多・中洲・天神など同市内の繁華街・熊本県熊本市などをうろつきながら過ごしていたが[書籍 84]、その間に「一家殺害の時に全く度胸のなかったYが警察に自首するのではないか」と不安になったことに加え、Yに誘いの隙を見せたところ現金20万円を盗まれた[裁判 1]。このことからFは「Yは裏切り者だから口封じのために殺すしかない」と殺意を抱き[裁判 1][書籍 85]、その殺害場所・機会を狙うために「無目的のようなぶらつき」を繰り返していた[書籍 84]。Fはその準備として凶器を購入するため、1982年5月29日には「Yが尼崎で購入したくり小刀の予備の凶器を得よう」とYに「恐喝で金を稼ぐんだよな。俺も手伝う」という口実で声をかけ、福岡市博多区上川端町の金物店でくり小刀・バールを購入させた上に「恐喝の際に指紋を残さない目的」という口実でドライブ用の革手袋2足を購入した[書籍 86]。このように九州へ逃走していた間にもFは数回にわたりYを殺害する機会を得たが、その間にも「Yを油断させる口実で空き巣に入らせようとしたところで近隣住民に気づかれる」「熊本市内まで出向いたが土地勘がない上、防犯カメラの目が気になる」「福岡市内を歩き回ったことで『顔を覚えられてしまったのではないか』と気になる」などの悪条件が重なって機会を逸した[書籍 87]。そのためFは1982年6月4日深夜(6月5日未明)に「九州では駄目だ。やはり尼崎でYを殺すしかない」と決断してYを尼崎へ連れ出すべく寝台特急「なは」(博多駅0時29分発大阪駅9時37分着・新大阪駅終点)に乗車して再び関西方面へ向かった[書籍 87]。
被疑者Fが捜査線上に浮上
逃亡を続けたFだったが本項目名事件で殺害されたA一家のみならずX・Y両名が殺害された2事件を含めて全被害者と接点があったことから、神奈川県警察捜査本部(県警本部捜査一課が藤沢警察署と合同で同署内に設置)から「被害者5人全員と交流関係があり、かつ本項目名事件以降に所在不明となっている」点から重要参考人として行方を追われた[裁判 3]。『読売新聞』1982年6月16日東京朝刊にて報道された「捜査本部が被疑者Fと母娘殺害事件との関連を重視した理由」は主に以下の通りだが、それまでの捜査では「犯行当夜の被疑者Fの足取りなど決め手になる裏付け」が取れなかったため、捜査本部は後述の脅迫容疑で逮捕状を用意した[新聞 7]。
- 事件直前の1982年5月8日夜にFが被害者A宅に押し掛け、Aの父親Dから「もう娘とは付き合わないでくれ」と追い返されたことから「A一家を強く恨んでいた」と推測される点[新聞 7]
- 被害者A宅の玄関前・近くの国道1号に落ちていた「犯人のものと思われる血痕」の血液型はいずれもO型で、被疑者Fの血液型と一致する点[新聞 7]
- 凶器のくり小刀・文化包丁はいずれも被疑者Fの自宅周辺のスーパーなどで販売されていた点[新聞 7]
- 被害者A宅の玄関ドア内側から被疑者Fの掌紋が検出された点[新聞 7]
- 被疑者Fは「一見おとなしそうだがすぐカッとなる性格」で、友人たちからは「何をするかわからない男」と恐れられていた点[新聞 7]
また逮捕後には以上の理由に加え、以下の事実も被疑者Fの犯行を裏付けるものとなった[新聞 36]。
- 被疑者Fが逮捕された際、その体には左手などに新しい刃物傷が多数あった点[新聞 36]
- (後にY事件への関与がほぼ断定された際に)両事件とも被害者の遺体にくり小刀が突き刺されており、犯行の手口が酷似している点[新聞 36]
- 被疑者Fが犯行直前の27日19時ごろに共犯・被害者Yとともに自宅を出てから別件逮捕された6月14日まで姿をくらましていた点[新聞 36]
- 被害者A宅から発見された血糊の大きさが被疑者Fの足の大きさと一致した点[新聞 36]
事件発生から10日近くが経過した1982年6月4日夕方、被疑者Fは知人の少女に電話を掛け「今は横浜にいる。7日の夜7時(19時)ごろには平塚に向かう」と約束した[書籍 88]。この情報を把握した捜査本部が「Fはまた誰かに電話を掛けてくる」と推測しつつ次の手がかりを持っていたところ、Fは翌日(1982年6月5日)午前8時50分ごろになって[新聞 37]かつて自分や被害者Xと同時期に久里浜特別少年院に在院していた厚木市の元少年院仲間宅に電話を掛け、応対した父親に「息子には『Xの事件のことを警察に話すな』と伝えろ。約束を破ったら一家を皆殺しにする。お前の妻の勤務先も知っているから妻も強姦して殺すぞ」と脅した[書籍 23]。同日昼過ぎ、厚木市の元少年院仲間の父親は「電話の主は声・話し方の特徴から息子の元少年院仲間で自宅に2回ほど泊まったことがあるFに間違いない」と確信した上で県警厚木警察署にこの脅迫電話の事実を届け出[新聞 37][書籍 23]、捜査本部は1982年6月8日付で脅迫容疑にて被疑者Fの逮捕状を請求した[新聞 37]。
なお5日の脅迫電話で厚木市の元少年院仲間の父親はFから「京急蒲田駅付近から電話している」と脅迫された後、電話の声が女性のような声に変わり「余計なことは言わないほうが身のためよ」と脅迫された[新聞 38]。この点から捜査本部は当初「Fは女性とともに逃走していた」と推測したほか[新聞 39]「Y事件の現場にも女性の『やめて』という悲鳴が響いていた」という情報も把握したが、一連の逃亡劇では女性の姿が全く確認できなかったため[新聞 31]、殺人容疑における逮捕後に「女性が本島にFとともに逃亡していたのか?いたとすればYと同様に口封じ目的で殺害されたのか、それとも逃亡している女性をFがかばっているのか」などに関して厳しく追及した[新聞 32]。結局、被疑者Fは否認し続けていた脅迫電話に関して一転して容疑を認めた際に「電話の最後に出た女性の声はYが声色を変えたものだ。逃亡中にYが逃げようとしたため足止めをしようと“次の殺人を計画している”と思わせる目的だった」と自供した[新聞 40]。
第3の事件(尼崎事件)
被害者:本項目名事件の共犯・少年Y(死亡当時19歳) - 東京都江東区出身の元ゲームセンター店員[新聞 8]。事件当時に兵庫県警が「江東区森下三丁目在住」と発表[新聞 13]
1982年6月5日朝、寝台特急「なは」に乗車して再び大阪に到着したF・Y両名は同駅および阪急梅田駅にほど近い映画館にて映画「TATTOO<刺青>あり」(監督:高橋伴明、三菱銀行人質事件を起こした梅川昭美が題材)を鑑賞したが、遠藤允は当時のFの精神状態を以下のように推測している[書籍 89]。
「どでかいことをやってやるんだ」―こう言い続けて死んでいった梅川と、Fが自らをオーバーラップさせたとしても、不思議ではない。梅川が思い描いていた「どでかい」ことと、Fのそれ(本事件)とは異なっていただろうが、社会を驚かせた点では、共通していた。隣(の席)に座っているYを殺すことなど、Fにとっては「ついで」のようなものだったかもしれない。—遠藤允、『Fの家』(1983年)[書籍 90]
その後Fは「強盗に押し入るマンションを探す」という名目でYを伴って殺害場所を探したが、その一帯では殺害場所をうまく見つけられなかったために「大阪は(盗みに入るのに)いいところがないから駄目だ。尼崎に行けばあるかもしれない」という口実で阪神本線・梅田駅から阪神電車に乗車して[書籍 90]Yを殺害するのに適当な場所を探すべく兵庫県尼崎市方面へ向かった[裁判 1]。
FはYとともに21時ごろになって尼崎駅の自動改札口を出ると北口から「前回とは逆に商店街とは逆方向」へ向かい[書籍 90]、偶然見つけたマンションで[裁判 1]少年Yに怪しまれないように「このマンションに強盗に入ろう。人妻がいたら強姦して逃げよう」などと持ち掛けた[書籍 91]。なお事件当時の『読売新聞』1982年6月25日東京朝刊・『中日新聞』1982年6月26日朝刊は「自首しようとしたYが兵庫県警察尼崎中央警察署(現:尼崎南警察署)へ約150メートル(m)のところまで来た時に犯行発覚を恐れたFがYをマンション踊り場に誘導した」と報道していた[新聞 41]。
- 事件現場:兵庫県尼崎市西大物町90番地、マンション「第二ハイツ玉江橋」[新聞 42][書籍 91](5階建て、現存しない。現住所:兵庫県尼崎市昭和通二丁目6番地[その他 1])の3・4階中間踊り場[新聞 42]
- 尼崎事件の現場(現:兵庫県尼崎市昭和通二丁目6番地)
Fは屋上にYを誘導してから殺害するつもりだったが、屋上は扉が施錠されており入れなかかったため「踊り場でYを殺害しよう」と考え、Yに「指紋が付着したものを落とせばそこから足がつく。持っているものを全部出して指紋を拭き取れ」と命じてYに所持品の腕時計・サングラスなどを取り出させ、手袋をはめて指紋を拭き取るYに小田原少年院などで過ごした日々の思い出話をした[書籍 91]。しかしYが指紋を拭き取り終わった直後、Fは豹変して「お前のような度胸のないやつをこのまま生かしておいたら俺の身が危ないから消えてもらう」と言いつつ[書籍 91]、以前から持ち歩いていたくり小刀2本を両手に1本ずつ握った上で殺意を持って右手のくり小刀でYの胸を突き刺した[書籍 3]。そのくり小刀は刃先が曲がったが、Fはもう1本の左手のくり小刀をYに突き付けて動きを封じつつ、刃先の曲がったくり小刀を右足で伸ばして再び襲い掛かった[書籍 3]。Yは特に凶器・武器となるものを持っておらず、なすすべもなく「既に4人を刺し殺しており手慣れて度胸もついている」Fに胸・腹などを突き刺されつつも階段を駆け下りて逃げようとしたが、Fは3・4階間の踊り場で高い位置からYに飛び掛かって押し倒し、両手のくり小刀でYの背中を滅多刺しにした上、最後はとどめとして右の背中・左脇腹を深く突き立て[書籍 3]、結果的に共犯少年Yを「29か所におよぶ右側頸部刺切創などの傷害」により失血死させて殺害した(第3の殺人)[裁判 1]。
Yを殺害後、Fはマンション屋上に通じる踊り場に駆け上ってくり小刀を入れてあった紙袋を拾い、再び1回まで駈け下りると犯行に使用した手袋を中に収めた[書籍 3]。これは「紙袋に指紋が付着していたためにどうしても回収する必要があったため」の行動だったが、マンション出口から道路に出たFは「周囲を注意深く観察する余裕」がなく、マンション最寄り駅の阪神尼崎駅まで徒歩移動して同駅でタクシーを拾って逃走した[書籍 3]。目の前の尼崎駅に発着していた阪神電車に乗車せず客待ちのタクシーで移動した理由は「返り血を浴びているから電車に乗ると怪しまれる」という理由であり、その後は新大阪駅まで移動した上で「山陽新幹線で再び福岡に逃走しよう」と目論むがタクシー運転手から「もう博多行きは終電が出た」と知らされたためにやむを得ず京都方面まで向かうが、座席シートに返り血が付着してしまったためにタクシーを京都市内で乗り捨て、同市内で別のタクシーを拾って愛知県名古屋市内まで移動した[書籍 92]。
21時45分になって現場マンション4階住民が踊り場にて右脇腹・背中などを刺され血まみれになり、くり小刀2本が刺さった状態でうつ伏せで倒れ死亡している少年Yを発見して兵庫県警に110番通報し、これを受けて捜査を開始した県警尼崎中央署は翌日(1982年6月6日)午前2時に捜査本部を設置した[書籍 3]。尼崎中央署捜査本部による事件直後の調べによれば遺体の特徴は「20歳 - 25歳で身長170cm - 175cmの男性だがマンションの住民ではない」というもので、22時ごろにはマンション1階の駐車場で住民男性が「衣服に血液が付着した不審な男(30歳前後で身長約170cm)が階段を駆け下りて自転車で北に逃げた」と証言したため、尼崎中央署はその男の身柄を追うため隣接各署に緊急手配した[新聞 5]。また当時の『朝日新聞』大阪朝刊は「事件直前に1階にいた住民によれば階上から女性の『110番通報して』という悲鳴が聞こえ、直後に不審な男2人組が自転車に相乗りして逃走したということだ。事件現場の状況から『被害者男性は2人の男に追われて5階付近の階段で刺され、降りる途中に力尽きた』と推測できる」と報道した[新聞 43]。
尼崎中央署は司法解剖の結果が判明する前に指紋照会から判明した犯罪歴を基に被害者少年Yの身元を洗い出し[書籍 93]、同日中に被害者の身元を「東京都江東区森下三丁目在住、元ゲームセンター店員の19歳少年Y」と発表したが[新聞 13]、少年Yは尼崎市と全く接点がなかったために捜査は難航した[書籍 93]。しかしYの身元が判明したことを受け兵庫県警が捜査員を東京に派遣して交友関係などを調べ上げたところ被疑者Fと被害者少年Yの交友関係が判明した上、以下の事実に注目した藤沢署捜査本部は尼崎中央署捜査本部に連絡した[書籍 93]。
- 首都圏の新聞各紙で数少ないY事件を取り上げた『東京新聞』1982年6月7日夕刊記事に掲載されていた「滅多刺し」の手口が母娘殺害事件に酷似している点[書籍 93]
- 被害者Yは尼崎に土地勘こそなかったものの、母娘殺害事件以前に被疑者Fは「若い男」とともに行動していたことから「被害者Yは被疑者Fと行動を共にしていた」と考えれば合点がいく点[書籍 93]
- 実際に暴走族仲間が藤沢署捜査本部に対し「事件直前の1982年5月下旬に平塚市内で被疑者Fと一緒にいた」と証言した点[新聞 27]
1982年6月10日、藤沢署・尼崎中央署の双方の捜査本部に加えて警察庁の幹部が集結して1回目の合同捜査会議を開き「兵庫県警はY事件の起訴捜査に全力を挙げる」「神奈川県警は被疑者Yの身柄確保を最重点に捜査する」ことが取り決められた[書籍 93]。
Yを殺害した翌日(1982年6月6日)、Fは国鉄名古屋駅西口のサウナで仮眠した上で日没までは同駅周辺で過ごし、付近の洋品店にて着替えのスポーツウェア上下・ランニングシャツ・靴下などを購入し、返り血を浴びていた衣服はコインランドリーで洗濯した上で2か所に分散して廃棄した[書籍 92]。Fは名古屋駅から20時25分発の静岡駅行き普通列車(静岡駅23時42分着)に乗車し、終点・静岡駅待合室で声をかけてきた男を頼って徒歩約20分の静岡県静岡市西島(現:静岡市駿河区西島)の養豚業者宅へ宿泊した[書籍 92]。翌日(1982年6月7日)、Fは所持金が3万円程度まで減少していたことから仕事先を探すために静岡市内を回ったが仕事が見つからなかったため、東京に出ることを決め東海道新幹線・山手線を乗り継いで静岡駅から池袋駅まで移動した[書籍 92]。なおFは同日、静岡駅で購入した新聞に「尼崎市内のマンションで男性が刺殺された」(=Y事件のニュース)という記事が掲載されていることを確認したが、この時点では身元は判明していなかった[書籍 92]。池袋駅に到着したFはかつて新潟少年院で同じ寮にいた仲間を頼り借金をしようとしたが、その母親から「不在だ」と告げられた上に借金もできなかったため[書籍 94]、池袋駅西口のゲームセンターで一夜を過ごしたのちに翌8日早朝、池袋駅西口公園のベンチで声をかけてきた手配師について行き[書籍 92]、1歳年下の従弟の名前を偽名として用いた上で[書籍 94]同日からは国鉄大宮駅から北東へ徒歩40分ほどで陸上自衛隊大宮駐屯地にもほど近い埼玉県大宮市三橋町(現:埼玉県さいたま市大宮区三橋)の建設工事現場宿舎に偽名で住み込み、昼間は群馬県前橋市内の建設現場で働くようになった[書籍 95]。
Fは後述のように逮捕されるまで飯場内を整然と片付け「いつでも退去できる状態」にしていたほか、その間にも知人らと頻繁に電話などで連絡を取っていたが、その内容の中には「東北地方方面に行くから金を貸してほしい」といったものもあったため、捜査本部は逮捕後に「東北方面へ逃亡を企てた可能性がある」と推測して家宅捜索・知人からの事情聴取を行った[新聞 44]。
捜査
一方で捜査本部は前述の元少年院仲間から「金を無心された」と通報を受けたために被疑者Fが池袋にいたことを把握し、Fの身柄を追跡するべく神奈川県警で東京都心に最も近い川崎警察署に前線基地を設置して都内に追跡班を派遣した[書籍 95]。聞き込み捜査の結果、Fはこの元少年院仲間とは別の元少年院仲間[書籍 95](大宮市内在住)[新聞 37]に対し「埼玉県内にいる」と告げていたことが判明したため、Fの身柄確保に全力を尽くしていた神奈川県警は特別捜査班を埼玉県内に投入して浦和市・大宮市・川越市などを捜索し[書籍 95]、Fの潜伏先を割り出すこととなった[新聞 37]。
また捜査本部は事件当初「母娘は鋭利な刃物で刺し殺された」という事実を発表した一方で「事件現場に凶器は残されていなかった」と発表したが、『読売新聞』(読売新聞社)が1982年5月29日までに調べたところ「B・C両被害者の遺体にはそれぞれ包丁が突き立てられた状態で遺留されていた」事実が判明した[新聞 45]。
Fは「X殺害事件の口止めを図ろうとした別件脅迫事件」が判明したことから1982年6月14日にはその脅迫容疑で通常逮捕された[裁判 3]。母娘殺害事件から18日目の1982年6月14日昼前、神奈川県警捜査一課員・機動捜査隊員の2人組は被疑者Fが潜伏していた宿舎と同じ道路沿い(約300メートルの距離)にあった埼玉県大宮市櫛引町の菓子店に聞き込みに行った結果[書籍 95]、店の主婦から「数日前からほぼ毎日のように客として買い物に来ている」と証言を得たことから同店で張り込みした[書籍 96]。同日15時35分、当日は雨で仕事が休みだったことからFは同点に菓子パンを買いに来たが、そこで待ち伏せていた捜査員2人に取り押さえられた[書籍 96]。Fが潜伏していた宿舎には「Fが自宅で購読していたものと同じ新聞」の「事件を報道した記事切り抜き」が置いてあったが、所持金はわずか3,000円だった[書籍 96]。
被疑者Fは逮捕には素直に応じ[新聞 37]、藤沢署の捜査本部にその報告がなされた上で直接の逮捕容疑が「厚木市内に住む元少年院仲間一家に対する脅迫」容疑であったために身柄を捜査本部により厚木警察署(脅迫事件を捜査していた所轄署)へ連行された[書籍 97]。逮捕直後に被疑者Fの身柄を厚木署へ移送したことに関して遠藤は「この時点で脅迫の事実はどの報道機関にも把握されておらず、報道陣は被疑者逮捕に備えて藤沢署に集中していたため厚木署は手薄だった。厚木署への移送は初めから被疑者Fを大勢の報道陣の前にさらさなくて済むメリットがあった」と評価した[書籍 97]。被疑者Fは同日18時に厚木署に到着して脅迫容疑に関する弁解録取書を取られた後で隣接の伊勢原警察署へ移送されてポリグラフ検査を受けたが、遠藤はこの移送の背景を「伊勢原署管内(伊勢原市)に支局・通信部を持つ報道機関は当時皆無だったため、駐在記者が署の近くに何人も住んでいる厚木署に比べれば『報道陣に感づかれる可能性が最も少ない警察署』といえる」と解説した[書籍 97]。
被疑者Fは逮捕翌日(1982年6月15日)から本項目名事件およびX・Y両名殺害事件の被疑者として取り調べを受け始めたものの殺人・別件容疑の脅迫ともに全面否認し、追及するような質問を受けると薄笑いを浮かべつつ「そんなことは知らない」などと供述するなどしたほか[新聞 7]、逮捕2日後の1982年6月16日にはポリグラフ検査を拒否するなどして抵抗したが[裁判 3]、結局ポリグラフ検査を実施した際にA母娘殺害事件に関して「被害者A一家の家族構成」「事件現場周辺の地理」などに関する質問をされると強い動揺反応を示した[新聞 27]。
被疑者Fは1982年6月16日午前に最初の逮捕容疑・脅迫容疑で横浜地方検察庁に送検され[新聞 44][新聞 46]、留置先の厚木警察署から伊勢原警察署を経て横浜地検に身柄を送られた[新聞 44]。この脅迫事件に関してもFは「知らない」と容疑を否認し続けていたが[裁判 3]、捜査本部はこの脅迫容疑の裏付け・本件殺人事件の追及を進めていた[新聞 46]。Fの体には当時右手・足など二十数か所の傷跡があり、その多くは「暴走族などとの喧嘩の際にできたもの」と推測された一方で左手内側には「比較的新しい刃物で切り裂いた傷」があったため、捜査本部は「文化包丁・くり小刀などで親子3人を襲撃した際にもみあったり手が滑ったりするなどして左手に傷を負った」と推測した上でこの傷を「犯行立証に結び付く有力な物的証拠」として追及した[新聞 44]。
なお当初は被疑者Fによる別件逮捕の容疑事実は詳細には発表されていなかったためにX・Y殺害事件に関しても言及されていなかったが、新聞各紙のスクープ合戦の結果X・Y事件との関連も報道される形となった[書籍 98]。
- 最初にY事件との関連を報道したのは『毎日新聞』1982年6月17日大阪夕刊で、別の全国紙は前日(6月16日)の合同取材により被疑者FとY事件の関係性を把握してはいたが大阪支局に問い合わせても「大阪府内には該当事件はない」というものだったため、『毎日新聞』に先を越される格好となった。
- 『読売新聞』1982年6月17日東京夕刊では「藤沢事件直後に友人に電話をした被疑者FがX事件に関して口封じと思われる脅迫電話をしていた。また尼崎市内で殺害されたYは1980年春に久里浜少年院へ収容された際に知り合った被疑者Fと少年院出所後も交際し続けていた」という形でX・Y事件と被疑者Fの関係が初めて報道されたほか[新聞 47]、1982年6月23日東京朝刊でも藤沢・Y両事件に加えて別件逮捕容疑である脅迫容疑と絡めた上で「X事件に関して被疑者Fが嫌疑を持たれている」と言及された[新聞 36]。
- 地元紙『神奈川新聞』1982年6月18日朝刊は被害者Yと被疑者Fの接点・被疑者Fが逃亡中に電話でX事件をめぐり厚木市内の元少年院仲間を執拗に脅迫した点などを報道した[新聞 39]。
- 『中日新聞』1982年6月18日朝刊では藤沢事件・Y事件に加えてX事件に関しても「被害者がFの友人で手口も前述2件と酷似している」点から「X事件もFによる犯行である疑いがある」と報道された[新聞 42]。
またY事件を捜査していた兵庫県警察は1982年6月20日、鑑識課の係員を神奈川県警に派遣して被疑者Fの足跡・Y事件現場に残された足跡の対照を実施させ、1982年6月22日にその結果を記載した捜査復命書を作成させた上で兵庫県警本部に報告させた[裁判 3]。それに先立ち1982年6月17日までの捜査の結果、Y事件に関しても被疑者Fの犯行である嫌疑が強まったことから兵庫県警は捜査員8人を神奈川県警に派遣して裏付け捜査を開始した一方[新聞 42]、『毎日新聞』(毎日新聞社)が1982年6月17日朝刊にて「被疑者F(当時は匿名報道)がY殺害事件にも関与している疑いが新たに浮上した」とスクープ記事を掲載した[書籍 98]。そして1982年6月21日までに藤沢署捜査本部が「被疑者Fは事件3年前の1979年に仕事で尼崎市内に1週間滞在していた」事実を断定したことで「なぜ共犯・被害者Yが全く土地勘のなかった尼崎市内で殺害されていたのか?」という謎が氷解し「FがYを連れて関西方面へ逃走し、口封じのために殺害した」と解明される格好となった[新聞 22]。
その後、1982年6月22日に兵庫県警捜査本部(尼崎中央署所在)は以下の理由から被疑者FをY事件の犯人と断定して「神奈川県内の事件が解決次第、殺人の逮捕状を請求して被疑者Fの身柄を兵庫県警に移す」方針を固めた[新聞 48]。
- 犯行直後に事件現場付近で被疑者Fの姿が目撃されており、その目撃証言によれば「被疑者Fの衣服には血痕が付着していた」こと[新聞 48]
- 殺害された被害者Yの右脇腹・背中に刺さっていた2本のくり小刀などに被疑者Fの指紋が付着していたこと[新聞 48]
これに加えて神奈川県警・藤沢署捜査本部も兵庫県警と連絡を取りつつ、藤沢事件と併せて被疑者Fを引き続き追及し[新聞 50]、同日中に藤沢事件に関しても尼崎事件(Y事件)と同様に被疑者Fの犯行である事実がほぼ断定される形となったが、この時点では既に状況証拠こそ十分だったものの決定的な物的証拠が不足していたため「いつでも母娘3人に対する殺人容疑で再逮捕できるように」逮捕状請求の準備をしつつ、拘置期限が切れる1982年6月25日にはさらに10日間の拘置延長を申請する方針を固めた[新聞 36]。なお当時、被疑者Fの家族は「息子が被害者Yとともに自宅を出た際には体に傷はなかった」と証言していたが[新聞 36]、前述のように被疑者Fは藤沢事件の犯行時に負傷して母親から手当てを受けていた 被疑者Fの身柄は逮捕後、24日に母娘3人殺害事件を全面自供するまで神奈川県警察本部総合留置場(横浜市)内に留置されていたが[新聞 8]、被疑者Fは一連の事件に対する取り調べの最中も一貫して容疑を否認し続け、X・Y両事件の核心を追及されても「殺されたところを見たわけじゃないが『死んだ』とは聞いた」「Yが殺されたことは大宮から自宅に電話した時に母親から初めて教えられたから驚いた」などと「計算しつくされたような答え」を返し続けたほか、落ち着きがなく大あくびを繰り返すなどの態度を取り続け[書籍 99]、以下のように無関係な事柄に饒舌になり「身勝手な言い分」を繰り返し述べた[書籍 100]。
- 「(大型バイクの走行音を聞いて)いつ聞いてもいい音だ。乗りたくなる」[書籍 100]
- 「女の子を紹介してほしい」[書籍 100]
- 「腹が減ったから何か食わせてほしい。上寿司・天丼・刺身定食・すき焼きが食べたい」[書籍 100]
被疑者Fが取り続けたこれらの態度を遠藤允は「まるで『自供さえしなければ絶対に大丈夫だ』と思い込んでいるようだ」と評した[書籍 100]。
被疑者Fはその後も取り調べ中に「ニヤニヤしながら鼻歌を歌う」などの態度を取り続けていたが[新聞 51]、逮捕から10日後の1982年6月23日夜になって現場にあった血痕・手の傷などを追及されると沈黙してうつむくようになり、ついには取調官たちからの説諭の言葉に折れるような形で容疑を認めた[書籍 101]。その後、被疑者Fは翌日(1982年6月24日)になって[新聞 1][新聞 51][新聞 52]具体的な自供を開始したため、「容疑が固まった」と断定した神奈川県警捜査本部(藤沢署)は翌朝午前8時5分に被害者A・B・Cの母娘3人に対する殺人容疑で被疑者Fを再逮捕し[書籍 102]、逮捕後にFの身柄を神奈川県警本部から藤沢署に移送した[新聞 53][新聞 8]。
- この「全面自供」が母娘殺害事件から約4週間(約1か月)ぶりに[新聞 1]2府県3市にまたがる3件5人の広域連続殺人事件を一挙に解決に向かわせたが[新聞 54]、そのきっかけは『朝日新聞』などの報道によれば同日朝に取調官が「家庭的な愛情に恵まれなかった」被疑者Fの生い立ちを考えて[新聞 51]「お前の親兄弟はとうの昔にお前を見捨てている。頼れるのは俺たち取調官だけだ」と述べたことだった[新聞 51][雑誌 1]。その一方で控訴審判決は「被告人Fが捜査段階で自供したきっかけは犯行を知っていた母親の『正直に自白しなさい』という言葉だった」と認定したが、当時の捜査員は『神奈川新聞』の取材に対し「被告人Fは母親の供述内容を聞いて『母親も殺しておくべきだった』とうなだれた」と証言した[新聞 16]。
- 被疑者Fは同日に母娘殺害事件のほかX・Y両少年殺害事件に関しても一部自供を開始しており[新聞 1][新聞 51]、母娘殺害事件の経緯に関して「犯行は自分1人でやった。現場には徒歩で向かった」と述べた上で[新聞 51]その動機を「被害者少女Aと交際したかったのに一家全員からバカにされたから」と述べて大筋で犯行を認めたが、本事件は「交際を拒否されて馬鹿にされた」だけでは動機が解明できず[新聞 1]、犯行前後の行動・犯行方法など細部に関する自供が曖昧だったため捜査本部はそれらの点をさらに詳しく追及した[新聞 55]。
- また警察庁は同日付で一連の連続殺人事件3件を「広域重要指定112号事件」に指定し[新聞 1][新聞 2]、関係する神奈川・兵庫両県警本部の協力体制を強化する方針を打ち出した[新聞 54]。警察庁により広域重要指定事件に指定されたのは1980年2月・3月に発生した富山・長野連続女性誘拐殺人事件(111号事件)以来だった[新聞 56]。
同日10時半過ぎになって被疑者Fの身柄は再び県警本部総合留置場に移送され[新聞 53]、同日21時に捜査本部は記者会見で被疑者Fの実名を公表した上で「被疑者Fが本件犯行を自供した。また本件含め3件は『広域重要指定112号事件』に指定された」と発表した[書籍 102]。地元紙『神奈川新聞』および[新聞 1]『朝日新聞』『中日新聞』は[新聞 51][新聞 8]前述の別件逮捕後も被疑者Fに関して「逮捕容疑が別件逮捕であったため」[新聞 1]「殺人事件との関係が明確でなかったため」として匿名で報道していたが、いずれも本件殺人容疑で逮捕されたことを報道した1982年6月25日朝刊からそれぞれ前述の旨の説明を「おことわり」として添えた上で実名報道に切り替えた[新聞 51][新聞 8]。
なおこの時点では以下のような情報から「尼崎市内でYが殺害された際やFが知人に脅迫電話を掛けた際、女性がFと同行していた」とする情報があり、捜査本部は「これらの女性は同一人物で、事件当時にFと同行していた『この女性』もYと同様に口封じ目的で殺害された可能性が高い」と推測して足取り・行方を追ったが[新聞 57]、前述の殺人容疑による再逮捕の時点でもその女性の存在は確認できず[新聞 52]、結局は立件されなかった。
- Yが尼崎市内のマンションで刺殺された際、現場から若い女性の声で「やめて」と2度叫び声が聞こえた[新聞 57]。
- その後東京都内に戻ったFが厚木市内の友人宅に脅迫電話をした際、女性の声でも脅すような言葉が聞こえた[新聞 57]。
また起訴された殺人3件とは別に「1981年12月10日に兵庫県西宮市内で31歳の女性とその5歳の長男が惨殺された事件」に関しても以下のような点から被疑者Fの関与が疑われたが[新聞 58]、結局は立件されなかった。
- 「傷口の深さ・形状が小型の刃物と推測され、Fの用いたくり小刀(刃渡り13cm・幅3cm)による傷と似ている点」[新聞 58]
- 「藤沢・尼崎両事件と同様に遺体の頸動脈が切られている点」[新聞 58]
- 「現場に残された足跡の長さが25cmで、被疑者Fの足のサイズ24.5cmとほぼ一致する点」[新聞 58]
- 「被害者の死亡推定時刻・目撃証言から推測すると『短時間で複数人が殺害された点』が似ていること」[新聞 58]
- 「被疑者Fが1980年に尼崎市内の建設現場で働いており、阪神間(尼崎市・西宮市など)へ土地勘があることが推測される点」[新聞 58]
1982年6月25日朝以降、捜査本部は殺人容疑で再逮捕した被疑者Fの本格的な取り調べを開始し、X・Y両事件に関しても追及を開始した[新聞 55]。被疑者Fは同日になって以下のように母娘殺害事件の手口・状況などに関して具体的な自供を開始するとともにX・Y事件に関しても具体的な供述を開始した[新聞 41]。
- X事件 - 「覚醒剤売買に関するトラブルから殺害に発展した」と供述したが、現場にはX以外の足跡が2人以上あったことから捜査本部はこの時点では「共犯者がいる疑いが強い」と推測した[新聞 41]。
- 本項目名事件 - 「1982年5月中旬に新宿で偶然出会った元少年院仲間のYにA一家殺害計画を持ち掛け、2人でA宅に押し入って自分1人で親子3人を刺殺した。Yは直接手を下すことはなかった」[新聞 41]
- Y事件 - 「事件後に尼崎市内まで逃走したが、Yから強く自首を勧められて言い争いになった。Yが『俺1人でも自首する』と言い出したため『このままでは自分のこともしゃべられてしまう』と考え、尼崎中央署近くまで来た時にマンションの階段踊り場に誘導して刺殺した」[新聞 41]
捜査本部は1982年6月26日午前11時、被疑者Fの身柄を横浜地検に送検した[新聞 59]。この時までに被疑者Fは母娘殺害事件に関して「事件前に約20日間にわたり犯行計画を練り上げた。逃走資金を確保するために事前にひったくりをして約70万年を集めた」「一家を皆殺しにするためY事件の被害者少年Yにも刃物を持たせて押し入った」などと犯行の全容を自供しており、捜査本部は被害者Yに関して「共犯の疑いが強まったため被疑者死亡のまま書類送検する」ことを検討した[新聞 60]。
1982年6月26日 - 9月9日までの長期にわたって横浜地検の検察官から取り調べを受けた際、被疑者Fは一連の連続殺人事件に関して詳細に供述した[裁判 3]。それまでの経緯は以下の通り[裁判 3]。
- 脅迫容疑で別件逮捕された当初は神奈川県警本部の捜査員2人が直接の取り調べを担当し、捜査本部の設置された藤沢署の署員1人が雑用・連絡係を務めて被告人Fを取り調べたが、Fは殺人事件に関する取り調べに対して否認したばかりか、「アリバイ」と主張する行動に関してその裏を取ると「まったくのでたらめ」というような状況があったために追及すると「壁に頭を打ち付ける・立ち上がるなど相当な動揺を示した」[裁判 3]。
- 取り調べ途中では電線マンの歌を歌ったり大声を出したりする振る舞いをしたが、結局は自白に至らなかったため「現在の捜査員では性格が合わない」と判断した県警上層部が1982年6月22日から新たな取り調べ担当者として「県警本部から別の捜査員2人」「これら担当者の調整役としてまた別の捜査員1人」の計3人を応援として加えた[裁判 3]。
- 1982年6月23日午後、Y事件を捜査していた兵庫県警察から「Y事件の現場に残された足跡が被告人Fの靴の足跡と一致する」と情報提供がなされ、従来からの捜査員2人がそれをFにぶつけるとFはショックを受けた様子を示した上、同日の夕方にはFの実母が「Fは本項目名事件の当夜に傷を負って帰ってきた。手当てをしてやった際に『母親と娘2人を殺して帰ってきた』と述べていた」と証言したことが報告され、その情報をもとに捜査員らがFを説得したところ、Fは同日中に犯行を認めるに至った[裁判 3]。
- また被疑者Fは取り調べに対し友人などかなりの数の電話番号などを正確に記憶していたため、横浜地検の検察官が「それだけの記憶力を良い方向に使えば殺人を犯さなくて済んだだろう」と諭すと逮捕されてから3回目の涙を流した[新聞 61]。
『新潮45』2006年10月号記事(新潮社・記者:上條昌史)は本事件の捜査の経緯に関して「取調当初の被疑者Fはなかなか自供しなかったが、いったん供述が始まればその内容は秘密の暴露を含んだ『動機・犯行状況・逃走経路などが具体的で裏付けが取れる』内容だったため、当時の捜査関係者は『こうした事件では珍しいほど、ほぼ完璧に近い捜査ができたのではないかと思う』と証言した」と報道した[雑誌 1]。
1982年7月6日、被疑者Fを取り調べていた横浜地検は横浜地検に拘置延長を申請してさらに10日間の拘置許可を得た[新聞 62]。また捜査本部・横浜地検は1982年7月10日、Y事件で被疑者Fに殺害された被害者少年Yを母娘殺害事件の共犯と断定して近く殺人容疑で被疑者死亡のまま書類送検する方針を固めた[新聞 63]。
後述の起訴を控えて藤沢署捜査本部は1982年7月14日午前9時から被害者A宅に被疑者Fを同行して約2時間の現場検証を行い、母娘殺害事件の裏付け捜査を完了した[新聞 64]。『読売新聞』1982年7月15日東京朝刊の報道によれば当時の被疑者Fの態度は「3件5件の大量殺人を犯したとは思えないほど平然とした表情」で、被害者に扮した捜査員を相手に犯行の模様を再現して終始淡々と犯人を演じていた[新聞 64]。
横浜地検は1982年7月16日にA・B・Cの母娘3人を殺害した藤沢市の事件における殺人罪で被疑者Fを横浜地方裁判所に起訴したほか[新聞 65][新聞 66][新聞 9][書籍 103]、藤沢署捜査本部も同日までに尼崎市内で殺害された少年Yを「母娘殺害事件の共犯」と断定し[新聞 9]、近く被疑者死亡のまま横浜地検へ書類送検する方針を固めた。横浜地検は同日、記者会見で「全力を挙げて事件を解明し、県警との協力により完璧に近い裏付けが取れた。被告人Fの責任能力にも問題はない」と談話を発表した[新聞 67]。これにより「包丁を買い揃えて自宅で一家4人の殺害を練習するなど極めて計画的」かつ「被害者にとどめを刺し、刃物で遺体の背中をつついて生死を確認する」など「21歳の若者による犯行としては類を見ない残忍な凶悪犯罪」である母娘殺害事件の全容が解明される形となったが[新聞 9]、横浜地検はその後も「本事件は現代の病根の1つの表れ」として被告人Fの生育家庭・少年院など社会的環境の解明に努めつつ[新聞 67][新聞 9]、捜査本部とともに残るX・Y両事件を含めた連続殺人の全容解明を急いだ[新聞 66]。なお最初の逮捕容疑だった脅迫容疑に関しては1982年7月5日付で処分保留となった[書籍 104]。
1982年8月20日に尼崎事件の実況見分がY殺害現場で行われたが、この際に被告人Fは得意げにVサインを見せつけ、近畿地方の新聞で取り上げられた[書籍 105]。公判時もたびたび見られたこの「Vサインを見せつける」という言動について事件当時に捜査を担当していた神奈川県警幹部は第一審判決後に『読売新聞』東京本社横浜支局の取材に対し「Vサインは『目的を達成した』という意味のようだ。被告人Fは取り調べで被害者の悪口ばかりを言っていたが、これは『被害者は殺されても仕方がない』と自己を正当化し続けるための言動だ」と振り返った[新聞 68]。
神奈川県警捜査本部は1982年9月7日に被疑者・被告人Fを伴ってX事件に関する現場検証を行い、同日にはX事件に関する殺人容疑で被疑者・被告人Fを横浜地検に追送検した[新聞 40][新聞 69]。この時点では余罪のひったくり・脅迫電話などにおいて未解明の部分こそ残っていたが、これにより一連の連続殺人事件に関する警察の捜査はほぼ完了した[新聞 40]。
横浜地検は1982年9月10日に被告人Fを「横浜市内のキャベツ畑殺人事件(X殺害)」・「兵庫県尼崎市内のマンション殺人事件(Y殺害)」の2件に関していずれも殺人罪で横浜地裁に追起訴し[新聞 61][新聞 70][新聞 71]、一連の連続殺人事件に関する捜査が完了した[新聞 61]。被告人Fはこの時点までにひったくり8件・事務所荒らし・友人への脅迫電話事件などを自供していたため[新聞 71]、横浜地検はそれらの余罪に関しても裏付け捜査をした上で早期に一括で追起訴する方針を固めた[新聞 61]。
神奈川県警捜査本部は1982年9月28日、既に3件5人の殺人罪で横浜地検から横浜地裁に起訴されていた被告人Fを余罪10件の窃盗容疑で横浜地検に追送検した[新聞 23][新聞 24]。
「暴力的取り調べ」の有無
なお被告人Fは第一審第2回公判・第44回公判(特に第44回公判)にて弁護人の所論と同様に「別件逮捕された直後から取り調べを行った警察官らから『A一家はお前が殺したのだろう。白状しろ』『X・Yもお前が殺しただろう』などと平手打ちなどの暴行を受け、ポリグラフ検査を拒否すると膝蹴りなどの暴行を受けた。特に取り調べ捜査員が増員されてからは『本格的な拷問』を受けるようになり、顔を平手打ちされては『キョウカンゴウメイで訴える』などと言っても無視して顔を叩かれ、壁に頭を打ち付けるなどの暴行を受け、果ては体を抑えられてタオルで首を絞められるなど激しい暴行を受けた。食事に唾液をかけられるなどしてろくに食事も摂れない状況に耐え切れず自白した」などと「暴力的な取り調べを受けた」と主張したが、第一審・控訴審判決では以下のように「被告人Fの供述のみから『暴力的な取り調べがあったことが明らかだと認定する』ことは困難だというべきだ」と事実認定された[裁判 3]。
- 被告人Fが当該公判で主張した「取り調べを担当して警察官の顔ぶれ」には「やや首をかしげざるを得ない誤り」があり「内容的に客観的事実に相違する点がある」ばかりか、仮にそのような行為をされたのならば「勾留裁判官をはじめ直後に取り調べをした検察官・第一審審理の際や鑑定人に対して訴える機会」が数多くあったにも拘らず全くその点を訴えていないことから「一過性の訴えに過ぎない」時点で「まず根本的な疑問を持たざるを得ない」ものである[裁判 3]。
- またその述べる内容も「具体性に富む」という反面で「強調するためだろうか『同じパターンの訴え』が目に付く」上に「『キョウカンゴウメイ』など意味不明な言葉」「『取り調べ警察官が食事に唾をかけた』などの信じ難い内容」を含むものである[裁判 3]。また被告人は第一審の第7,8回公判で「拘置所職員に関してオーバーな訴えをした」事実があり、それを勘案すると被告人Fの主張は信用性が薄い[裁判 3]。
- 被告人Fは少年時代から窃盗など非行を繰り返して警察に検挙され、2度にわたって少年院に収容された前歴があった上、かねてから六法全書を読んだり、元少年院仲間のYから知識を得たり、刑事もののテレビ番組などに関心を持ったりしていたことから「黙秘権があること」「警察官の暴力的な取り調べは許されないこと」を知っていた[裁判 3]。そのため「殺人事件に関する追及をかわす目的」で取り調べ中に歌を歌うなど敢えて「挑発的態度に出ていた」可能性がある[裁判 3]。
- 前述のような被告人Fの態度は捜査官にとって「被告人Fに対する反抗の嫌疑を強める」ものとして働き、被告人Fへの厳しい追及につながったことは想像に難くないが、その一方で「被告人Fのようなタイプの被疑者には暴行・脅迫など暴力的な取り調べは有効ではない」ことは捜査員もよく心得ていたことが窺える上に当時は「被告人Fへの取り調べ以外の捜査[注釈 1]も相当程度進展していた」状態であり、その中で「自白を無理に、しかも被告人Fが主張するような『警察官が総出で暴行などを加えて無理矢理にでも獲得しなければならない』ような切羽詰まった状況にあったか」は甚だ疑問である[裁判 3]。
- 以上に挙げた点から捜査官が反論したように「アリバイを追及して供述の矛盾を突き、状況証拠を突き付けるなどして厳しく追及したこと」は当然である[裁判 3]。また「被告人Fの心情に訴える取り調べ」も行われたと思われるが、結局は「Y事件現場に残された足跡」という「言いぬけしがたい証拠」に加え、「『A一家殺害直後にその犯行を打ち明けるほどの信頼・愛情を抱いていた』母親から『正直に話せ』という言葉を伝え聞いたことから自白するに至った」ということが真相に近いと思われる[裁判 3]。だからこそ「6月23日に上申書を作成して以降は素直に取り調べに応じ、6月25日付をはじめとして計8通の調書が作成され、並行して検察官の取り調べに対し本件の検察官調書が作成された」ものと認められる[裁判 3]。
- なお自白の経緯に関しては「新聞報道とやや齟齬する点」が認められるが、新聞報道自体各紙により違いがある上に「捜査中の事件の微妙な問題のある事柄」に関しては「どの程度まで正確に報道されているか」は疑問である[裁判 3]。また自白を始めた翌日に被告人Fは取調室で貧血などにより倒れているようだが、それは「前述のように警察を散々挑発して追及を逃れようとしていたにも拘らず自白に追い込まれたショック」と「それまでの心身の疲労」が出たとみることも可能であり(その後には精神障害をり患している)、上記の判断を左右する事情とはならないものと思料される[裁判 3]。
- 検察官の供述調書などの内容を見るとその内容は「犯人にしか語れない具体性に富み、裏付けも十分で信用性に全く問題がない」ことが認められる上、その中には「自白の動機」「偽らざる心境を述べたもの」などが存在することから「被告人Fの供述・自白が拷問・強制によらないこと」を示す証拠の1つと思われる[裁判 3]。
- 以上を総合勘案すると被告人Fの第一審公判における供述が「正常な精神状態」におけるものだったとしても「暴力的な取り調べなどしていない」と一致して訴える警察官の供述を排斥するには足りず、まして「信用性のある検察化の供述調書など」における「『自白の任意性』には全く問題はない」と判断できる[裁判 3]。
また弁護人は「検察官の供述調書などは別件逮捕・勾留を利用した取り調べの結果なされた自白をもとに得られたものであるため証拠能力はない」と主張したが、第一審・控訴人は「脅迫事件自体が逮捕・勾留を必要とするものである上、その事件に関する調べがなされていることも被告人が1982年6月21日に勾留裁判官に対して質問調書上で述べたことからも明らかだ。そして本件連続殺人事件は原因・動機と関連するものであり、その間になされた自白が基となって供述調書などが作成されたとしても『別件逮捕・勾留を利用して得られた不当なもの』とは言えない」と事実認定した[裁判 3]。
刑事裁判
第一審・横浜地裁
初公判
被告人Fは3件5人の殺人罪・被害総額約321万円の窃盗罪10件で横浜地検から横浜地裁に起訴された[裁判 1]。初公判期日は当初1982年9月20日に予定されていたが、X・Y両事件の追起訴前に弁護人の申請により1982年10月12日に変更された[新聞 61]。後述の初公判を前に『読売新聞』1982年10月11日東京朝刊は「被告人Fは鼻歌交じりで犯行を全面否認していた当初のふてぶてしい態度から一転し、最近はやや落ち着いて凶行を反省しているという」と報道していた[新聞 72]。
1982年10月12日10時より[書籍 106]横浜地方裁判所刑事第2部(小川陽一裁判長)で初公判が開かれた[新聞 73][新聞 74][新聞 75][書籍 107]。同日の一般傍聴席数はわずか34枚だった一方で傍聴券を求めて100人近くの希望者が行列を作り「事件への高い関心」を窺わせた[書籍 108]。一方で被告人Fは勾留先・県警総合留置所から横浜地裁まで移送される際、護送車を取り囲んだ報道陣のカメラに向かって笑顔で窓越しにVサインを送った[新聞 73][書籍 108]。
裁判長を担当した小川は当時・横浜地裁刑事部総括裁判官で右陪席裁判官は判事補・志田洋、左陪席裁判官は判事補・松本清隆が担当した[書籍 109]。通常の刑事事件では検察官は公判立会検事が1人出席するのみだが、この初公判では公判立会検事・鮫島清志に加えて被告人Fの取り調べを担当した捜査検事2人が同席していたことから、初公判を傍聴した遠藤允は3人の検察官が出席した様子を「検察の(事件に対する並々ならぬ)決意を示すようだった」と表現した[書籍 110]。被告人Fは捜査中に私選弁護人を「必要ない」と主張して選任しなかったため、国選弁護人として横浜弁護士会所属の弁護士・本田敏幸が被告人Fの弁護人を担当した[書籍 111]。
- 裁判長から被告人Fへの人定質問・検察官の起訴状朗読を経て被告人Fへの罪状認否が行われ[書籍 112]、被告人Fは小川裁判長から「黙秘権がある」旨を告げられると「はあい」と「事の重大さを微塵も感じさせない間延びした返事」を返した上で[書籍 113]、「『言いたくないことは言わなくてもよい』という法律があるので何も言いません」と述べて黙秘権を行使した[新聞 74][書籍 113]。遠藤允によれば「事件発生時から取材を続けていた新聞記者には『被告人Fは自供後に被害者親子3人の冥福を祈るため留置所で手を合わせていた』という情報が入っているなどしていた」ことから大方では「罪状認否で起訴事実を認めるだろう」と予想させていたため、この「黙秘権行使」は意外なものであり傍聴席がざわついた[書籍 113]。
- なお弁護人・本田敏幸弁護士は「起訴状3通のうち母娘殺害事件以外の余罪に関しては今回は意見を保留し、次回公判で罪状認否を行う」と前置きした上で母娘殺害事件の罪状認否にて[書籍 111]「被疑者Fは母娘殺害事件に関して逮捕される以前、その殺人容疑ではなく別件の脅迫容疑で逮捕された上で取り調べを受けた。別件逮捕中の自白の強要による自供には証拠能力がない」と述べて無罪を主張した[新聞 73][新聞 74]。さらに弁護人は横浜地裁に対し「起訴状には『予断を抱かせる犯行動機・経過など』が記載されている」と[新聞 73][新聞 75]刑事訴訟法違反を主張して[新聞 74]公訴棄却を求めたが[新聞 74][新聞 75]、本田はその理由に関して「弁護人の冒頭陳述で明らかにする」と述べただけで[書籍 114]、これに対し小川裁判長は「検察の起訴状は余事記載に該当しない」として弁護人側の訴えを却下した[新聞 75][書籍 114]。
- その後検察官が弁護人の都合を受けて「藤沢事件に限定した上で」約40分間にわたり被告人Fの生い立ち・犯行の経緯・一家の状況などに関して陳述を行い、以下のような事実とともに「凶悪事件を決意するに至った異常性格ぶり」を明らかにした[新聞 73]。
- しかし冒頭陳述書朗読中に被告人Fは「被告人席の長椅子にふんぞり返るように座って両足を投げ出す」「頭を上下に振る・首を左右に回す・あくびをする」などしており、遠藤はこれらの態度を「とても真面目には見えない。冒頭陳述に対し『そんなものは聞きたくもない』という態度だった」と表現した[書籍 105]。冒頭陳述が終わった直後、再び手錠をかけられて腰縄を回された被告人Fは右手を左手で支えながら突き立てて傍聴人・法廷外のカメラマンにVサインを見せつけた[書籍 105]。法廷内で2度にわたり傍聴席へ向かってVサインを見せつけた被告人Fの「ふてぶてしい態度」には傍聴席から怒りの声が漏れたほか[新聞 73]、この「初公判で笑顔のVサインを見せる被告人」の姿は「極めて異例なもの」としてテレビのニュース番組・翌日に新聞朝刊で取り上げられた[書籍 105]。
- 初公判で検察官は証拠220点を提示したが、弁護人が法廷にて取り調べることに同意したのはわずか21点で、いずれも「被告人Fの犯行そのものとは無関係のもの」ばかりだった[書籍 115]。捜査段階における被告人Fの供述調書など「犯行と結びつく証拠」がいずれも不同意となったため、検察側は「証拠と同等の価値を有する証言」を引き出すべく証人尋問で犯行の立証へ務めた[書籍 115]。
- なお初公判翌日には「検察側の冒頭陳述要旨」が新聞各紙に掲載されたが、冒頭陳述全文・報道用の要旨ともに「被告人Fの経歴・性格など」は「自供前後に新聞で報道された内容とそこまで変わらず、たいして踏み込んだ内容ではなかった」ため、遠藤は「内容に物足りなさを感じた傍聴人・新聞読者は多い。起訴に当たって横浜地検がわざわざ談話を発表してまで指摘した『現代の病根の表れ』などに関しては言及されていなかった」と評価した[書籍 116]。
被告人Fの身柄は初公判後[書籍 117]、それまでの神奈川県警察本部総合留置場から[書籍 110]横浜刑務所横浜拘置支所(横浜市港南区港南)に移送された[書籍 117]。
証拠調べ
被告人Fの不規則発言など
第2回公判は1982年11月30日に開かれ、X・Y両事件に関する検察官の冒頭陳述[新聞 76]・被告人Fの罪状認否が行われた[書籍 117]。
- 冒頭陳述に先立ち[新聞 76]弁護人・本田は両事件の自白調書に関して「被告人Fを別件の脅迫容疑で逮捕・勾留している間に作成したものであり、別件逮捕が違法である以上自白調書に証拠能力はない」として母娘殺害事件と同様に無罪を主張した上で、初公判では述べなかった「被告人Fが強制的・拷問的な取り調べを受けたため、その調書には任意性もない」旨を主張した[書籍 118]。
- その後行われた冒頭陳述において検察官はX・Y両事件および一連の連続殺人に前後して行われた窃盗事件などに関して犯行の模様を明らかにし、その上で「被告人Fは『裏切り者は消せ』の論理で凶悪な犯行を繰り返した」と冷酷さを強調しつつ各事件に関して「陰湿で計画的・残忍な手口が共通する」と詳細に陳述した[新聞 76]。この時、被告人Fは同日の入廷直後から落ち着いたようなそぶりをしていたものの、検察官の言及が殺害状況に及ぶと笑い出すなどした[書籍 118]。
- なお同日の公判を傍聴したのは19人(傍聴券全27枚)で、遠藤允はこの件に関して「事件が起きるたびに示される強い関心は、思いもよらぬ特異な事件が次々と発生するたびに移りやすい。この公判では(初公判のように)テレビ局が傍聴人を取材することはなかった」と表現した[書籍 118]。
- 午前11時10分に「次回公判で3事件の実況見分調書を書いた尼崎中央署・戸塚署員ら警察官3人を証人尋問する」と決めた上で小川裁判長が閉廷を告げたが、その際に被告人Fが突然「裁判長、言いたいことがあります」と発言した[書籍 118]。小川がいったん席を離れるも[新聞 76]特に何も指示を出さず[書籍 119]席に戻った[新聞 76]ことから被告人Fは「発言を許可された」と判断した上で「自分の敵は6人の拷問警官だ。警官たちは自分をうそ発見器(ポリグラフ)にかけて言いたくないことを言わせたり、殴る・蹴る・タオルで首を絞める・壁に頭をぶつける・頬を本でたたくなどの拷問を加えた。基本的人権を蹂躙するような取り調べを受けたので彼ら6人を告訴する」などと演説した[書籍 119]。これに対し小川は「この場で告訴しても仕方がないから弁護士とよく相談しなさい」と諭すと[書籍 119]被告人Fは「刑事を徹底的に摘発してやる」と吐き捨てて退廷した[新聞 76]。
- 被告人Fは初公判で「はい」と返事したり住所・氏名などの単語を答える程度の発言しかしなかった一方、同公判にて自分の言葉で上記のような不規則発言をしたことから、遠藤はこれを「直接耳にした傍聴人は『被告人Fの話し方に幼稚さが残っている』という印象を強く感じた。その感じ方は被害者少女Aの父親Dが被告人Fと初めて会話を交わしたとの第一印象、および少女Aの学校に被告人Fが電話した時の事務職員の印象と全く同じだ」と表現した[書籍 119]。その上で遠藤は取り調べ開始から自供までの経緯に関して「被告人Fの言う通り『拷問が行われた』という事実があったとすれば、被告人Fの性格からして『一貫して犯行を否認し続けたに違いない』と推測できる」と推測した[書籍 119]。
第3回公判は1982年12月23日に開かれ、検察側証人として神奈川県警鑑識課員・尼崎中央署員がそれぞれ実況見分調書に関して証言した[書籍 4]。被告人Fは検察官・鮫島から「凶器の包丁・くり小刀」「事件現場のカラー写真」などの証拠を示されても特に表情を変えず「これに見覚えがあるか」と質問されても「黙秘します」としか答えなかった[書籍 4]。
第4回公判は1983年(昭和58年)1月13日に開かれ、同公判から法廷がそれまでの602号法廷から601号法廷に変更された[書籍 4]。遠藤は同日の公判を「被害者遺族の男性D(A・B姉妹の父親でCの夫)が証言台に立つため多数の傍聴人が訪れる」と予想したが結局は同日も空席が残り、冒頭でX事件の実況見分調書に関して当時の戸塚署員が証言を行った[書籍 120]。その後、男性Dが検察側証人として証言台に座り休憩を挟んで「自らの経歴・長女A誕生までの夫婦の悩み・殺害された妻子3人の性格・事件発生当日の行動など・被告人Fが自宅にやってきた1981年12月以降の出来事」を証言した[書籍 120]。
1983年2月3日の第5回公判でも引き続き遺族男性Dの証人尋問が行われ、「事件に至るまでの事実問題」に触れる尋問が行われた[書籍 120]。いったんは被害者から事実に関する証言が引き出されたが、終了後に鮫島検事が「証人の被害者感情を補充尋問したい」と申し出て小川裁判長から許可を得た上で「被告人Fに対し、被害者遺族としてどう思うか」と質問した[書籍 121]。男性が言葉に詰まっている様子だったため加えて裁判長が「なんでも素直に言ってほしい」と促すと男性Dはハンカチで涙をぬぐいながら「妻子と同じように殺してやりたいと思う」と答えたが、証言台の後ろ約3メートルの被告人席に座っていた被告人Fが天井を向いて「冗談じゃねえ、俺はやっちゃいねえよ」と絶叫し、小川裁判長から一喝されても無視して男性の背中をにらみつつ「俺はやっていない。取り調べは拷問だ」と叫んだために小川裁判長から退廷を命じられ、横浜拘置支所の刑務官4人に法廷外へ連れ出された[書籍 121]。続いて鮫島検事が調書の記載内容に基づいて男性に「検察官が取った調書に『被告人Fを3発だけ殴らせてほしい』と申し出たことが記載されている点」に関して質問すると男性は「『被告人Fをこの手で殺すことができないのはわかっているが、それができないならせめて自分の手で3人分・3発殴りたい』という意味だ。その程度なら許されてもいいはずだと思う」と説明し、傍聴席からもすすり泣く声が聞こえた[書籍 121]。鮫島検事の主尋問が終了したのちに弁護人・本田が断りを入れた上で長女Aの人となりに関して尋問をしようとしたが、小川裁判長が「検察官と同じ質問をしても無意味だろう」と諭したことに対し本田は「審問方法にまで言及したことに抵抗するかのように」小川裁判長に対し「それは違う。真実を発見するためには必要な尋問だ』と反論したが、結局小川裁判長から許可が下りなかったために質問を変えたため、反対尋問では新しい事実は出なかった[書籍 121]。
1983年3月7日に第6回公判が開かれ、以下の3人に対する証人尋問が行われた[書籍 122]。
同日の法廷で被告人Fはまず藤沢署員が証言する直前に「裁判長、発言したいことがあります」と言いつつ右手を挙げたが、前回の不規則発言を受けてか小川裁判長は「黙りなさい!」と一喝した[書籍 122]。それに対し被告人Fは「『証言を黙って聞いているのは面倒だ』と言いたげな態度」で「どうしても言いたいことがある』と続けるが、小川は「もう一度発言すると退廷させます。証人が一生懸命に証言しているのを邪魔することになる」と諭した[書籍 123]。その後も発言を求め「聞いてくれないなら退廷で結構だ」「話を聞いてくれないなら裁判を受けない」などと発言する被告人Fと退廷命令こそ出さないものの「静かにしなさい」と諭す小川裁判長のやり取りが続いた後、弁護人・本田が被告人Fに「(裁判所は)手続きに従ってやっているのだから」と説得して場を収めた[書籍 123]。その後、学校事務職員の証言が終わったところで本田は小川に「ちょうど区切りですから被告人Fから「何が言いたいのか』聞いてやってもらえませんか」と提案したが、小川は「今日は証人の話を聞く日だから、言いたいことがあるなら上申書を書いて提出するべきだ」として認めなかった[書籍 123]。その後少女Aの担任教諭が証言を開始しても被告人Fは発言をやめず「発言させてほしい。ダメなら退廷で結構だ」と発言したが、ここで小川が退廷命令を出したために刑務官らに連れ出されて「もう2度と出廷しない」と捨て台詞を残しつつ退廷した[書籍 123]。被告人不在となった法廷で被害者少女Aの担任は「Aは人を疑うことを知らない性格で、逆恨みで殺されたとしか思えない。『自分を大事にすることは相手の立場に立って理解することだ』と教えたことが仇になってしまった。これから『見知らぬ人に声をかけられた時の対応』などをどうやって教えていけばいいのか悩み苦しんでいる」と述べた[書籍 123]。
1983年3月31日に第7回公判が開かれ、藤沢事件直後に被告人F・共犯者Yを乗車させたタクシー運転手ら3人の証人尋問が行われたが、冒頭で本田が小川に「5分程度で結構だから被告人Fの言い分を聞いてほしい」と求めた[書籍 124]。これを受けて小川は陪席裁判官2人と協議した上で発言を許可したが、その前に前回公判にて「上申書を提出すれば読む」と述べたにも拘らず被告人Fが上申書を提出しなかった理由を尋問した[書籍 124]。これに対し被告人Fは「刑務官に読まれると困るからだ」と述べ、小川が「法廷で発言しても横に入る刑務官に聞かれているじゃないか」と呆れつつも発言を簡潔に述べるよう促したため、被告人Fは「拘置所内で腹痛に悩まされても寝かせてもらえず、担当の刑務官から毛布を引き剥がされたり、腕を捻って痣を作られるなどの暴行を受けた。自分の身分を保証してほしい」と述べた[書籍 124]。これに対し小川は「それは裁判所からはどうこう言えないから弁護人と相談しなさい」と苦笑いしつつ諭したが、傍聴席からは「人を殺しておいて『身分を保証してほしい』なんて自分勝手すぎる」などの声が漏れた[書籍 124]。結局、被告人Fは「言いたいことが言えた」という満足感からか前回までのような不規則発言はせず、16時30分まで続いた公判にて3人の証言を最後までおとなしく聞いていたが、前回及び前々回で退廷させられたために見送られていた証拠物採用において「凶器の包丁・くり小刀」「切断された電話線」「被害者少女Aの日記帳」などに関して1つずつ「黙秘します」と述べた[書籍 124]。
1983年5月17日の第9回公判にて被告人Fは「弁護人(本田)を解任したい」と述べた[書籍 124]。これに対し小川は「弁護人は記録を丹念に読んでちゃんと弁護活動をしているじゃないか」と諭したが、被告人Fは「本田先生は能力がない」などと述べて聞く耳を持たなかったため、小川は「君はそのうち『裁判官も能力がないからやめろ』とか言い出すんじゃないのか?」と諭した[書籍 124]。しかし結局藤沢事件から1年が経過した次回第10回公判(1983年6月2日)でも本田は解任されず、伸びきっていた髪を散髪して出廷した被告人Fは不規則発言などをせず神妙に公判に臨んだ[書籍 124]。
- 遠藤允はこの「弁護人解任宣言」をした被告人Fの真意を「公判が思い通りにならないことが忌々しくて仕方ないからだろう」と推測した上で、小川の反応については「それまでの心理で被告人Fの内面をある程度見抜いたようだ」と表現した[書籍 124]。続く第11回公判(1983年7月21日)では神奈川県警鑑識課員らが証人として出廷し、母娘殺害事件の現場から採取された指紋・足跡などの鑑定について証言した[書籍 124]。
1983年7月21日に開かれた第11回公判では神奈川県警の鑑識課員らが証人として出廷し、藤沢事件現場から採取された指紋・足跡などの鑑定経過に関して証言した[書籍 125]。同日、横浜地裁は「次回公判で被告人Fの母親を証人尋問する」と決めて夏休みに入ったが、この時点までに被告人Fは黙秘・弁護人は無罪主張をした上で犯行に結び付く証拠のほとんども弁護人が採用に不同意としたため、検察官は被告人Fの犯行を立証するべく多数の証人を召喚することとなった[書籍 126]。遠藤允はそれまでの公判を総括して「被告人Fの犯罪は『起訴状記載の犯罪事実の有無を認定する』だけでは不十分で『現代の病根がなぜ被告人Fによって現れたのか』を明らかにしなけばならない。この事件で衝撃を受けた多くの人々もそれを強く願っているに違いないが、冒頭陳述でも明らかにされなかった『現代の病根』は公判で鮮明に浮き出てくるとは思えない」と述べた[書籍 126]。
1983年9月13日に開かれた第12回公判では被告人Fの実母が証人として出廷することが予定されていたため、横浜地裁前には久々にテレビ局の中継車が来るなど注目されていたが、被告人Fの実母はネフローゼの持病を抱えていたことに加えて前夜から吐き気を催し、医師の診察を受けたところ「1週間の安静加療が必要」と診断されたため、開廷前の午前9時過ぎに検察官・高橋寛に「本日は出廷できない」と断りの電話を入れた[書籍 127]。小川裁判長は弁護人・本田にも被告人Fの実母の健康状態を尋ねたが、本田も「証人(被告人Fの実母)は自分と面接する際も常に具合が悪そうで、途中で横たわって休むこともある。しかし『公判に出頭しない』とまでは言っていないので次回には必ず出廷するはずだ」と回答したため、同日の公判は10分足らずで閉廷した[書籍 127]。
初公判から丸1年となる1983年10月11日に第13回公判が開かれ、改めて被告人Fの実母が証人として出廷した[書籍 128]。被告人Fの実母は事件直後の検察官による取り調べに対しては詳細に回答しており、同日の公判でも息子の交友関係などに関しては特に躊躇なく証言したが、事件の核心に触れる質問である「藤沢事件当夜の息子の行動」に関して「被告人は事件当夜自宅に帰ってきたのか?手にけがをしていたのか?」などと質問されると証言拒絶権を行使して証言を拒否した上、検察官調書の内容についても「記憶にない」と繰り返した[書籍 128]。検察官は「思うような証言が得られない」と質問を打ち切ったが、肝心の事実関係が不明瞭なままだったために小川裁判長が改めてほとんど同様の質問をすると被告人Fの実母は一転して「息子は事件当夜自宅に帰ってきた。右手親指腹・左手首の怪我には薬を塗ったが大した怪我ではなかった」などと明確に回答した[書籍 128]。その後検察官の質問が再開されると被告人Fの実母はそれまでと一転して証言拒絶権を行使しなかったが、事件当時の検事調書の内容に関して「事件直前の調べに対し『帰宅した息子が被害者A母娘の殺害を告白したため自首を勧めたが聞き入れられなかった』と述べたことに間違いはないか」と再度質問されると「殺人の告白・自首を勧めた事実共にない」と調書内容を否定した一方で「夫と心中しようとしたが娘(被告人Fの妹)が『やめて』と言ったので思いとどまった」と証言した[書籍 128]。
1983年10月31日に開かれた第14回公判では被告人Fの実父が証人として出廷し、事件当時の様子に関しては以下のように「妻(被告人Fの実母)とあまり変わらない証言」をした[書籍 129]。
- 「藤沢事件当夜は事件発生時刻の20時ごろ・被告人Fが帰宅した時間ともに寝入っており、事件当時のことは何も知らない。事件直後の事情聴取で検察官に対し『自分たちが息子に自首を勧めた』と証言したが、あの証言は検察官から『Fが“両親から自首を勧められた”と言っているし、狭い家で帰宅したことに気づかないはずがないだろう』と繰り返し言われたからそう答えただけだ」[書籍 129]。
- 「事件翌日に捜査員が自宅を訪れたことや新聞報道などで事件を『息子の犯行だ』と悟り、『大変なことになった』と思い夫婦で心中しようとしたが娘から反対されて思い留まった」[書籍 129]。
- 「息子は幼少期からなぜか電球が好きでこだわりが強かったほか、足は「普通の速さ」と思っていたが小学校5年生の時にマラソン大会で優勝したことがあった。中学入学後に新聞配達のアルバイトを始めたので「何か買いたいものでもあるのか?」と思ったが何が欲しかったのかまではわからない」[書籍 131]
- 「息子が家にいると常に家庭内が不穏な状態になり、少年院入院時には平穏を取り戻していたが、息子の性格は少年院を退院する度に悪化していった。自分たちにも『なぜ手が付けられない正確に育ったのか?』という原因は思い当たらず、息子自身の生まれつきの性格としか思えない。息子が成長するとと思に親子喧嘩の際も自分が圧倒されるようになり、家族が危険な状態に陥っていった」[書籍 132]。
- 「自分は息子が真犯人でないことを願ってはいるが、息子に対し親としての愛情は感じていない」[書籍 133]。
遠藤允は被告人Fの両親による一連の証言を総括して「夫婦が心中を考えるほど思い詰めていたことなどから考えると、両親は藤沢事件の詳細まではともかく息子が重大犯罪を犯したことはわかっていたはずだろう。初期の取り調べ段階における供述・法廷にて宣誓した上での証言のどちらが正しいかまではわからないが、被告人Fが藤沢事件後に逃走したことで『藤沢事件は息子の犯行だ』と確信したはずだ」と評した[書籍 130]。
逮捕から2年近くが経過した1984年(昭和59年)4月26日に開かれた第20回公判で陪席裁判官の交代に伴い公判手続きの更新が行われ、検察官が改めて起訴状に基づく公訴事実の要旨を述べた[書籍 133]。被告人Fにもそれに対する陳述機会が与えられたが、被告人Fは新たに以下のような陳述を行った[書籍 133]。
- 「初公判閉廷直後にVサインをしたのは同じ留置場に入っていた暴力団組員から「法廷でVサインをしろ」と脅されたためだが、あのような言動を取ったことは大変申し訳なく思う」[書籍 133]
- 「被害者5人を殺害した真犯人は茅ヶ崎市内在住の人物で、いずれの事件も数人の人間から目撃されているほか、自分も事件現場でその人物を目撃していた」[書籍 133]
- 「これまでこのことを伏せていたのは留置場で前述の暴力団組員にその事実を話したところ、事件目撃者の1人が組員と親戚だったためにその組員から『俺の親戚の名前を聞き出したらただでは済ませない。地下室で拷問してやる』と脅されたためだ」[書籍 133]。
- 「自分は完全に無実だから一刻も早く釈放してほしい。弁護人・本田弁護士は加藤が所属している暴力団の組長と親戚であり、本田もまた「弁護人を解任したら承知しない」と自分を脅しているので裁判所から弁護人解任を命じてほしい」[書籍 134]
遠藤允はこれらの一連の発言を総括して「当時の被告人Fはこのような常識の枠を超える夢想発言をしていたが、もしかすると拘禁症状(ノイローゼ)を発症していたのかもしれない。弁護人の解任要求は第9回公判でもあったが、今回は『暴力団幹部と親戚だから』という事実無根の理由が付くなど、陳述そのものが支離滅裂だった」と評した[書籍 135]。さらに1984年7月24日に開かれた第23回公判にて被告人Fは「被害者一家のことは自分は知らない。真犯人は前述の茅ヶ崎の人間で、真実を喋ればあいつに殺されるから黙っていた」と陳述した[書籍 135]。
1984年秋までに藤沢事件に関する審理が終了し、X・Y両事件の審理に移行すると翌1985年(昭和60年)4月25日に開かれた第31回公判で裁判長が小川陽一から和田保に交代した[書籍 135]。同日の公判でも改めて公判手続きの更新が行われたが、陳述にて被告人Fは改めて「茅ヶ崎の人物の犯行だ」と発言した[書籍 135]。このように被告人Fが支離滅裂な発言をするようにはなったが公判そのものは順調に進行し、1985年秋には殺人3件のほかに起訴されていた窃盗(ひったくり)に関する審理へ移行した[書籍 135]。このころまでに捜査段階で明かされた事実は殺人・窃盗ともに細部を除き大筋で検察官調書そのままの証言が続き、被告人Fの犯行が裏付けられていった[書籍 136]。
黙秘・否認から自白へ
初公判でこそ被告人F・弁護人ともに無罪を主張したが、公判途中からは一転して起訴事実を認め、弁護人は情状酌量を求める方針に転換した[雑誌 1]。1986年(昭和61年)3月25日に開かれた第41回公判にて閉廷直前、被告人Fが「裁判長、言いたいことがあります」と述べた[書籍 2]。それまでに何度も同じような状況で被告人Fが不規則発言をしたために法廷にいた関係者は「またか」とうんざりしたが、被告人Fはその直後にそれまでの無罪主張と異なり「自分は5人の殺人・10件の窃盗で起訴されているが、それらはすべて事実だ。それまで本当のことを言わず迷惑をかけて申し訳ない」と述べ、自ら起訴事実を全面的に認めた上でそれまでの黙秘・否認を謝罪する発言をした[書籍 2]。
- それまで一貫して起訴事実を否認していた被告人Fが弁護人にさえ事前に何の相談もすることなくこの期に及んで一転して起訴事実を認めたため、弁護人・本田はその言葉を初めて法廷で聞かされるとともに大きく驚かされる格好となった[書籍 2]。
- 結局、被告人Fは供述を一転させた理由を最後まで明かさなかったが、本田は当時の被告人Fの心理状況を「審理がほぼ尽くされ、検察側により被告人Fの犯行は大筋で立証された。被告人Fは『もう否認しても無駄だ』と思ったのだろう」と推測した[書籍 2]。
- 一方でこの証言は「この裁判で最も劇的な供述」ではあったが、当時の公判は傍聴人がほとんどおらず新聞記者も傍聴していない状態だったために翌日の新聞朝刊で報道されることはなく、結果的に「被告人Fが犯行を認めた」事実が最初に報道されるのは次回第42回公判(1986年5月13日)の翌日・1986年5月14日まで待たねばならなかった[書籍 2]。
1986年5月13日に第42回公判が開かれ[書籍 2]、担当裁判官の交代による更新手続き(通算3回目)の中で行われた被告人陳述にて被告人Fは以下のように証言した[書籍 137]
- 前回と同様に「起訴事実はすべて事実であり間違いない。被害者5人は全員自分が殺害したし、単独犯で2件・共犯Xとともに8件の窃盗を犯したことは事実だ」と述べた上で[書籍 137]、和田裁判長から「それまでの黙秘・否認・『別人がやった』という発言はいずれも撤回するか?」と問われると「はい」と答えた[新聞 77][書籍 137]。
- その上でそれまで黙秘・事実と異なる陳述などをしてきた理由を「『黙秘・否認を続ければ裁判を長期化させられる』と考えたためだが、今年3月ごろからは『やはりあんな悪いことはせず真面目に生活していればよかった』と後悔・反省するようになった」と述べた[書籍 137]。
- 同日の公判では捜査段階における自白調書などが検察官から証拠申請されたが、弁護人は「状況が変わったため被告人Fと十分打ち合わせをした上で認否する」として認否を留保した[新聞 77]。また弁護人・本田は捜査段階で自ら検察官に犯行を自白していたにも拘らず公判で黙秘・否認を繰り返し、ここで再び供述を翻した真意がわからず、被告人Fと横浜拘置支所で面会したところ「被告人Fの言動は正気ではない。拘禁性ノイローゼどころか精神障害を起こしている可能性すらある」と思うようになった[書籍 137]。
- 同日の公判の模様を『神奈川新聞』1986年5月14日朝刊は「被告人Fは初公判から一貫して黙秘・全面否認を繰り返してきたが前回公判で初めて犯行を認める発言をし、この日の公判で正式に認めた」と報道したほか[新聞 77]、『読売新聞』1986年5月14日東京朝刊は「第42回公判にて被告人Fはそれまで犯行を一貫して否認していたがその主張を一転させ、起訴事実をすべて認めた」と報道した[新聞 78]。
1986年6月16日に第43回公判が開かれ、弁護人は以下の理由から横浜地裁に精神鑑定実施を申請した[新聞 79]。
- 「被告人Fは第41回公判直前の1986年3月10日午前9時ごろ、拘置先・横浜拘置支所で独房の窓ガラスに自ら頭を打ち付け、割れたガラスの破片で喉を突き刺そうとしたところを刑務官に発見された。その後、被告人Fは保護室に移されても窓ガラスを割って自殺を図ろうとしたが制止され、頭に全治1週間の怪我をした。それ以降、被告人Fは横浜拘置支所内で構成新薬投与・抗ヒスタミン剤注射などの治療を受けている」[書籍 138]
- 「被告人Fは第41回公判を境に起訴事実を全面的に認めたが、最近の接見の際には『うるさい音がして眠れない』『電波が飛んでいる』などとと訴えたり、異常な言動が見られるなど精神的な機能障害が進行していることが認められる。仮に精神疾患があれば自白は無効だ」[新聞 79]
これを受けて和田裁判長は被告人質問を行ったが、これに対し被告人Fは弁護人との面会で「うるさい音がして眠れない」「電波が飛んでいる」などと話したことについては語らなかったが「黙秘・否認で裁判を引き延ばそうとしていたが、日が経つにつれて自分の犯行を後悔するようになったので認めた。1日でも早く罪を償いたい」と述べた[新聞 79]。和田裁判長は陪席裁判官2人と合議した結果[書籍 138]、被告人質問の結果を受けて和田裁判長は弁護人の精神鑑定申請を以下のように却下した[新聞 79]。
- 「被告人Fは自分が現在置かれている立場・問われている責任を理解した上で証言を翻しており、防御能力は備わっているため精神鑑定は必要ない」[新聞 79]
- 「拘置支所内における注射も『一過性の拘禁症状を治療するため』という報告があることから弁護人の主張には理由がない」[書籍 138]
- 遠藤允はこの注射・薬剤投与に関して「被告人Fは薬剤の作用により精神的に安定を得たことで、本心から反省しているか否かはさておき犯行を認めたのだろう」と推測した[書籍 139]。
弁護人はこの却下決定に不服を唱え異議申し立てをしたが、和田裁判長は「公判手続きを停止せねばならないほど重大な精神的欠陥は認められない」と退けた[新聞 79]。
その後の公判は証拠調べが淡々と進むようになったが、前述の全面的な自白の際には神妙に反省の意を示した被告人Fが被告人質問にて再び身勝手な発言を再開するようになり[書籍 139]、裁判所側に「早く判決を出してほしい」とも要求するようになった[書籍 140]。
- 被害者少女Aとの関係に関して「聞くに堪えない言葉を連呼」した[書籍 139]。
- 1987年(昭和6年)6月18日の第53回公判で被告人Fが突然、後に判決公判の際にも名前を挙げた暴力団幹部の実名[書籍 139](『毎日新聞』報道によれば広域暴力団・稲川会総裁の稲川聖城)[新聞 30]を挙げ、証人の証言内容をメモしていたキャンパスノートを読み上げつつ「週刊誌を読んで知ったことをきっかけに稲川さんを尊敬するようになり、稲川さんの子供になりたいと思った。裁判長は自分のこの願いを稲川さんに伝えてほしい」と述べ、和田裁判長が「裁判所はそのような反社会的勢力の幹部と連絡はとれない」と諭しても聞き入れなかった[書籍 139]。
- 捜査を担当していた神奈川県警幹部は『読売新聞』東京本社横浜支局の取材に対しこの被告人Fの言動に関して「暴力団の最高幹部と関係があるというハッタリ、もしくは見栄だろう」と推測したほか、弁護人・本田は「『その最高幹部が自分を助けてくれる、助けてほしい』という訴えだろう」と推測した[新聞 68]
- 1987年8月31日に開かれた第55回公判では和田裁判長が被告人Fに対し「君は『早く判決を出してほしい』と言うが、本件は死刑判決もあり得ることをよく考えた上で発言しているのか?」と質問すると、被告人Fはあっさり「はい、そうです」と回答した[書籍 140]。
遠藤はこの背景を「被告人Fは長期化した後半に嫌気が差したのだろう」と推測した上で[書籍 139]、判決を催促するようになった背景に関しては「被告人Fは『死刑』の意味も、5人を殺害した罪の重さも本当に理解しているとは思えない。そもそも殺人という『普通の人間にとって極めて重大なこと』も被告人Fにとっては自らに科される可能性の高い死刑と同じく『日常の出来事』だったのかもしれない」と推測した[書籍 140]。
事実審理は1987年10月27日の第56回公判まで続いたが[書籍 140]、被告人Fが公判で捜査段階における自供を一転させて全面否認を繰り返し、弁護人も「調書に任意性がない」と主張して調書の証拠採用に同意しなかったため、検察側は関係者100人以上に証言を求めた[新聞 15]。そのため公判は最初の殺人容疑における起訴(1982年7月) - 論告求刑公判(1987年11月)まで5年4か月と長期化することとなった[新聞 15]。第56回公判にて弁護人は被告人質問終了後に改めて精神鑑定を申請した上で被告人Fの母親を情状証人として申請したが、いずれも被告人F自身が拒否した[新聞 80]。
死刑求刑・結審
横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)で[新聞 25]1987年(昭和62年)11月26日13時から第57回公判(論告求刑公判)が開かれ[書籍 140]、横浜地検は被告人Fに死刑を求刑した[新聞 15][新聞 81][新聞 82][新聞 83][新聞 25]。立会検察官は加藤元章・猪俣尚人の2人で[書籍 140]、論告要旨は以下の通り。
- 母娘殺害事件の犯行現場はまさに血の海と化し、残虐性も極まり、まさに鬼畜の業と断ぜざるを得ない[新聞 15]。
- 被害者Yを尼崎市内で殺害した動機は口封じであり身勝手極まる理由だ[新聞 15]。被害者Xを横浜市内で殺害した動機も窃盗の発覚を恐れたためで、自己保身のために他人を犠牲にして省みない冷酷非情さが表れている[新聞 15]。
- 極刑を求める強烈な被害者遺族の処罰感情は量刑選択に当たり十分に加味されるべきである上、被告人Fの自己中心的・凶暴な犯罪的性格は根深く固定化されており教育的処遇に期待を寄せて矯正を図ることはもはや困難だ[新聞 15]。
- 最高裁が1983年に示した「永山基準」と照らして考慮しても被告人Fは犯行当時既に成年しており、殺害された被害者数も5人に上ることから「犯罪史上稀に見る凶悪・重大な事犯」であり「罪状はただただ極悪というほかない」本件において死刑を回避することは許されない[新聞 15]。
1988年(昭和63年)1月14日午前10時から横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)で[新聞 84]第58回公判が開かれ[新聞 85]、弁護人による最終弁論が行われて結審した[新聞 84][新聞 85]。最終弁論で弁護人は以下のように訴えて無罪を主張した上で死刑廃止論者の立場から「仮に有罪としても無期懲役が相当だ」と訴えた[新聞 85]。
- 被告人Fは脅迫罪で別件逮捕されたにも拘らず取り調べは母娘3人に対する殺人容疑に終始し、未明まで長時間にわたり暴行を交えた取り調べが行われたことから「早く楽になりたい」と自白した[新聞 85]。このような取り調べ方法は刑事手続き上違法である上[新聞 84]、殺人の自白も強制・拷問によるもので任意性・証拠能力はない[新聞 85]。
- 被告人Fは第41回公判以降、5人を殺害した一連の犯行を認め深く反省している[新聞 85]。極悪非道な犯行ではあるが母娘殺害事件の場合は家族ぐるみで被告人Fを馬鹿にするなど、被害者側にも犯行の引き金となった原因がある[新聞 85]。
- 被告人Fは「甘やかされて育った家庭環境」「身体が小さいことで友人にいじめられ続けた情状面」から矯正の余地がある[新聞 85]。
- 検察側が前回論告求刑公判で言及した永山事件は無差別的な強盗殺人であり、本事件とは社会的影響が大きく異なる[新聞 85]。
被告人Fは論告求刑公判の際は神妙にしていたが、最終弁論公判の最終陳述では「犯行の直前に被害者Aへナイフを見せつけたところ、Aが『歯の治療中に自分を殺す』という計画を立てていたことを白状した」と述べるなど「被害者5人とも自分を殺そうとしていたから先に殺した」と弁明した上で「刑を軽くしてください」と述べた[新聞 85]。そして閉廷直後には和田裁判長に「ちょっと言いたいことがあります」と述べた上で暴力団幹部の実名を連呼し、満席の傍聴席を向いてVサインを見せつけるなど「身勝手な言動」を繰り返した上に大声で「判決の日を早くしてください」と叫び、和田裁判長からたしなめられた[新聞 85]。
なお同時期には犯行当時少年だった永山則夫による連続4人射殺事件の量刑をめぐって死刑存廃問題が大きな波紋を呼んでいたため、横浜地裁に限らず各裁判所とも死刑事件の審理を一時中断していたが、1987年3月18日に東京高裁が永山被告人に差し戻し控訴審で死刑判決を言い渡して以降は死刑判決が相次ぐ形となり、1988年1月 - 3月の間(被告人Fに死刑が言い渡されるまで)に3件の死刑判決が出ていた[新聞 30]。
死刑判決
1988年3月10日午前10時から判決公判が開かれ[新聞 86][新聞 30]、横浜地裁刑事第2部(和田保裁判長)は横浜地検の求刑通り被告人Fに死刑判決を言い渡した[新聞 87][新聞 18][新聞 88][新聞 30]。
- 死刑判決の場合は主文宣告を最後まで後回しにした上で判決理由から朗読する場合が多いが、和田裁判長は開廷直後に死刑事件では異例となる冒頭主文宣告を行った[新聞 87][書籍 141][注釈 2]。
- 公判で弁護人が主な争点として挙げた「脅迫容疑による別件逮捕の違法性」に関して、横浜地裁は「別件脅迫事件と母娘殺害事件(本件)は事実として一連の関係にあった上、もっぱら本件殺人事件の取り調べを行ったことは認められないため違法とは言えない。拷問的取り調べがあった事実も認められない」として弁護人の違法主張を退け、被告人Fの自白調書に関して証拠能力を認めた[新聞 87]。
- また同じく弁護人が主張していた「死刑制度違憲論」に関しても「絞首刑は日本国憲法第36条が規定する『残虐な刑罰』には該当せず違憲ではない。死刑適用は最高裁判例が示した『永山基準』に照らして慎重に行われるべきだが、犯罪の結果の重大性などを考慮すれば死刑選択も許される」と退けた[新聞 87]。
- そして量刑理由に関しては以下のように死刑を選択した理由を挙げた[新聞 87]。
- 一連の犯行に関する情状においては母娘殺害事件に多くを割いた上で「被告人Fは最初のX事件で嫌疑をかけられながらも証拠不十分で釈放となったことから完全犯罪に自信を持ち、一家皆殺しの計画を立てた。特に2件目の母娘殺害事件は平和な社会において稀にみる凶悪・残虐な犯行である上、自己の非を棚に上げた身勝手・短絡的な動機に酌量の余地はない。その死屍累々・鬼哭啾啾というべき惨状をもたらした残虐さには戦慄を覚える」と非難した[新聞 87]。
- 最後に被告人Fに関して「犯罪能力は人並み以上で精神的能力の欠如は認められず、生命軽視の人格態度はこの上ない非難に値する。(連続射殺事件で死刑判決を受け当時上告中だった)永山則夫と比較しても勝るとも劣らない」と異例の見解を述べた[新聞 87]。
- 和田裁判長は主文宣告後に約1時間におよぶ判決理由朗読を淡々と続けたが[新聞 86]、本事件で殺害された母娘3人と1人残された遺族の男性の一家4人に言及して「幸せな家庭を突然奪われた無念さは計り知れない」と述べた瞬間に思わず涙声になり[新聞 86][新聞 30][書籍 142]、判決理由朗読後には「我々はこの事件を『永山より酷い』と判断した。君は5人の人々を刃物で惨殺しておきながら全く反省していない。被害者の痛み・苦しみに思いを馳せれば君自身の命でその罪を償ってもらう以外にない」と説諭した上で控訴手続きを説明しつつ「死刑判決だから最高裁まで判断を仰いだほうがいいかもしれない」と諭した[新聞 86]。
- しかし被告人Fは判決理由朗読中も辺りをキョロキョロ見渡すなどしており[新聞 86][書籍 142]、判決朗読後には「言いたいことがある」と立ち上がりノートを広げると[新聞 86]、突然暴力団幹部の実名[新聞 86](『毎日新聞』報道によれば広域暴力団・稲川会総裁の稲川聖城)[新聞 30]を連呼しつつ[新聞 86]「稲川さん万歳」などと発言し[書籍 142]、さらに薄笑いを浮かべながら傍聴席に向き直ると[書籍 142]傍聴席に向かって2,3回両手でVサインをした[新聞 30]。その態度に激怒した和田は被告人Fに「そんなことをしているから『反省していない』と思われるんだ」と非難して退廷を命じ[新聞 86]、被告人Fは手錠をかけられ刑務官たちに退廷されられた[新聞 86]。被告人Fによる「Vサイン」は初公判以来何度も現れてはいたが、遠藤允は「この日は被告人F自身の生命が絶たれる死刑判決を受けた直後だったため、法廷内には異様な空気が漂った」と述べている[書籍 142]。
被告人Fの国選弁護人・本田敏幸弁護士は「被告人F本人が拒絶しても弁護人の立場として控訴する。控訴審でも引き続き弁護活動を続け、精神鑑定を申請する」と表明した上で[新聞 89]同日中に東京高等裁判所へ控訴した[新聞 89][新聞 87][新聞 90]。
死刑判決を受けて『読売新聞』(読売新聞社)には本事件に関する以下のような要旨の投書が寄せられ、1988年3月15日東京朝刊の投書欄[気流]に掲載された[新聞 10]。
- 事件後に被告人Fの母親がテレビの取材を受けていた際に「派手ないでたちと異様な話しぶり」をしていたことに違和感を覚えるとともに「被告人Fはこの母親にどのように育てられたのか?」と興味を覚えて公判を傍聴した[新聞 10]。
- その結果「人間形成に最も大事な幼児期」に家族の温かさ・善悪を教えられることのないまま成人した被告人Fに哀れみさえ感じた[新聞 10]。
- 判決の際に裁判長が被害者遺族の悲嘆に思いを馳せて涙しながら判決文を読み上げていた一方、その涙の意味も理解できずにVサインをしてみせた被告人Fをつくづく「気の毒な人間だ」と思った[新聞 10]。
- 被告人Fからはまだ被害者遺族に対する謝罪すら聞かれないが自分は「彼が人間として目覚め本当に心から改心せぬ限りこの事件は解決したことにはならない」と思う[新聞 10]。
また『朝日新聞』(朝日新聞社)にも以下のような要旨の投書が寄せられ、1988年3月23日東京朝刊の投書欄に掲載された[新聞 91]。
- 「被告人Fの犯行は死刑も免れぬ『冷酷非情極まる情状酌量の余地なき犯行』であり、Fは反省どころか開き直りの態度さえ見せている。その『反社会的性格』の改善は困難とされるし罪は許しがたいが、自分は以下のように考えているし人間として『加害者もまた哀れだ』と思う」[新聞 91]
控訴審・東京高裁
控訴取り下げ・異議申し立て
死刑判決を不服として東京高等裁判所に控訴した被告人Fだったが、同高裁第11刑事部で1989年(平成元年)7月10日に開かれた控訴審初公判、および1989年9月11日に開かれた控訴審第2回公判では「もう助からないから控訴をやめたい(死刑判決が覆る見込みがないから控訴を取り下げたい)」という趣旨の発言をした[裁判 4]。これに対し裁判長は「重要な事項なので(控訴を取り下げる場合は)弁護人とよく相談してから決めるように」と説諭したが、当時の被告人Fは収監先・東京拘置所の職員や接見のために同拘置所を訪れた弁護人に対してもしばしば「控訴を取り下げたい」という趣旨の発言をしていた[裁判 4]。また被告人Fは法廷で「裁判官がタレントに似ている」などと発言していた[新聞 92]。
弁護人はその度に被告人Fを説得して控訴取り下げを思い留まらせつつ、東京拘置所職員にも「被告人Fの『控訴取り下げ』要求を取り上げないでほしい」などと依頼するなどしていたが、被告人Fは1991年(平成3年)4月10日の第11回公判で、東京高裁が「弁護人がかねてから請求していた被告人Fの犯行時及び現在の精神状態に関する精神鑑定」を採用した際に「その精神鑑定を拒否する。要求が容れられないなら控訴を取り下げる」などと発言した上、それから8日後の1991年4月18日には東京拘置所で控訴取下に必要な手続・書類の交付を強く求めた[裁判 4]。
この事実を東京拘置所から連絡された弁護人・岡崎敬は1991年4月23日に被告人Fと接見して[裁判 4]控訴を取り下げないように説得した上で[新聞 92]被告人Fを制止したが[新聞 93]、被告人Fは説得に応じることなく[新聞 92]弁護人との接見・拘置所職員による事情聴取などの手続を経て「控訴取下書」用紙の交付を受け、所要事項を記入して同日付の控訴取下書を作成した上で東京拘置所長に提出した[裁判 4]。
これにより公判は第11回目まで開かれた時点で中断する格好となったが[新聞 94]、これを受けて弁護団は以下のような理由から「控訴取り下げの効力には疑義がある」と表明した[新聞 92]。
- 被告人Fは「控訴取り下げ」の意味を理解しておらず「控訴を取り下げれば死刑判決が確定する」とは思っていなかった[新聞 92]。被告人Fに対してはそれまで裁判所による精神鑑定が行われておらず、被告人Fはその精神鑑定を回避する目的で控訴を取り下げた[新聞 94]。
- 被告人Fは深刻な拘禁症状(ノイローゼ)を発症しており弁護団ともまともな意思疎通ができない状態にある一方[新聞 94]、控訴取り下げ書提出後、被告人Fは1991年10月 - 11月にかけて実母宛の手紙で一転して控訴取り下げを撤回する意思表示をしている[新聞 92]。
1991年5月10日、被告人Fは東京高裁から審尋を受けて控訴取下書提出の動機・経緯などの真意を質問された際に「裁判所・訴訟関係人の質問」に対してはあまり多くを語らなかったが、「1991年4月23日付の控訴取下書は自ら作成したものだ」と認めた上でそれを作成した動機は「世界で一番強い人に『生きているのがつまらなくなる』魔法をかけられているので毎日がとても苦しい。『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思ったからだ」と供述した[裁判 4]。
これを受けて東京高裁は被告人Fのその供述に鑑みて「被告人Fの現在の精神状態、特に被告人Fが控訴取下書を提出した時点で『控訴取り下げなどの行為が訴訟上持つ意味を理解して行為する能力』(=訴訟能力)があったか否か」を含めて大学医学部名誉教授の医師に精神鑑定を命じた[裁判 4]。その鑑定人は関係記録を検討して1991年6月10日 - 1991年8月20日までの約2か月間に6回にわたり被告人Fに面接して精神鑑定作業を進めたが、被告人Fはその間も鑑定人の再三に亘る説得を聞き入れず身体的・精神的諸検査を拒否したため、鑑定人はやむを得ず「被告人Fとの面接結果」を中心に鑑定を行い、1991年9月13日付で東京高裁に精神鑑定書を提出した[裁判 4]。
東京高裁は「死刑判決に対する控訴の取り下げ」という「訴訟法上重大な効果を伴うもの」である本件に関して「その効力の有無を慎重に検討する」目的で1991年11月18日に鑑定人に対する証人尋問を行い、「被告人Fの精神状態の把握」「被告人Fの訴訟能力の有無」に関する疑問点の解消に努めた[裁判 4]。その結果、1992年(平成4年)1月31日付で[裁判 4][新聞 94]東京高裁第11刑事部(小泉祐康裁判長)は以下のように「控訴取り下げは被告人F自身の『死への願望』というやや特殊な動機だが、被告人本人の真意であるため取り下げは有効である」という決定を出した[新聞 94][新聞 92][新聞 93]。
- 被告人F自身が控訴審初公判で「もう助からないから控訴を取り下げたい」と発言したり、取り下げ書提出後に東京高裁の質問に対し「『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思った」と回答した[新聞 92]。
- 精神鑑定結果で「被告人Fの精神は拘禁反応の状態にはあるが、『控訴取り下げの意味を理解する能力』は多少の問題はあるにしても完全に失われているわけではない」とされており、弁護団の「取り下げは被告人Fの一時の気紛れ・気の迷いによるもの」という主張は当てはまらない[新聞 92]。
- 控訴取り下げ撤回の意思を表明してもいったん終了した訴訟状態は復活させることはできない[新聞 94][新聞 92]。
この決定により控訴審は「控訴取り下げ時点に遡って終了し、そのまま第一審・死刑判決が確定」することになったが、被告人Fの弁護団は同日夜に「控訴取り下げは精神的に不安定な状況で行われており、本人に訴訟能力がないため無効だ」などとして東京高裁決定に対する異議を申し立てた[新聞 94][新聞 92]。
1992年6月11日までに東京高裁第12刑事部(横田安弘裁判長)は「『被告人Fが控訴取り下げの意味を理解した上で取り下げを行ったかどうか』を改めて精査する必要がある」として聖マリアンナ医学研究所顧問・逸見武光を鑑定人に指定した上で[新聞 95]被告人Fに対し2度目の精神鑑定を行うことを決定し[新聞 96]、1993年(平成5年)4月の鑑定人尋問で鑑定人・逸見は東京高裁に「どちらかと聞かれれば訴訟能力はないと言わざるを得ない」と証言した[新聞 97]。これを受けて1993年8月9日までに東京高裁第12刑事部(小田健司裁判長)は上智大学文学部教授(心理学)・福島章に依頼して被告人Fに対し、極めて異例となる再々鑑定(3度目の精神鑑定)を行うことを決定した[新聞 97]。
東京高裁第12刑事部(円井義弘裁判長)は1994年(平成6年)11月30日付で[裁判 5][新聞 98]「被告人Fは控訴を取り下げた時点で拘禁反応状態(ノイローゼ)にはあったが、取り下げの意味は理解しており訴訟能力の欠如は認められず、控訴取り下げは有効なものだ」と認定して弁護人からなされた「訴訟終了決定」への異議申し立てを棄却する決定をした[新聞 98][新聞 99]。
審理再開
最高裁判所判例 | |
---|---|
事件名 | 訴訟終了宣言決定に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件 |
事件番号 | 平成6年(し)第173号 |
1995年(平成7年)6月28日 | |
判例集 | 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号785頁、『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第265号873頁、『裁判所時報』第1149号6頁、『判例時報』第1534号139頁、『判例タイムズ』第880号131頁、裁判所ウェブサイト掲載判例 |
裁判要旨 | |
死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として控訴を取り下げたなどの判示の事実関係の下においては、被告人の控訴取下げは、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものであって、無効である。 | |
第二小法廷 | |
裁判長 | 大西勝也 |
陪席裁判官 | 中島敏次郎・根岸重治・河合伸一 |
意見 | |
多数意見 | 全員一致 |
反対意見 | なし |
参照法条 | |
刑事訴訟法359条・411条1号 |
しかし弁護人が同決定を不服として最高裁に特別抗告した結果[新聞 99][新聞 100]、最高裁判所第二小法廷(大西勝也裁判長)は1995年(平成7年)6月28日付で[裁判 6]弁護人の特別抗告を認容して「控訴取り下げは有効」とした東京高裁決定を取り消した上で「控訴取り下げは無効であり、東京高裁は控訴審の公判を再開すべきである」と命じる決定を出した[新聞 100][新聞 101]。決定理由で同小法廷は「死刑判決に対する上訴取り下げは死刑を確定させる重大な法律効果を伴うものである」と指摘した上で、東京高裁が行った尋問の際に被告人Fが「無罪になって自由の身になりたいから控訴取り下げを撤回する」などと意思表示をしていたことから「被告人Fは無罪を希望していた」と認定した[新聞 101]。その上で「被告人Fは死刑判決を不服として控訴したにも拘らず、控訴を取り下げた当時は死刑判決の衝撃などにより『もう助かる見込みがない』と思い詰めており、その精神的苦痛から逃れるために控訴を取り下げたことが明らかである。そのため『自己防御能力が著しく制限されていた』と断定できる」と指摘した上で[新聞 100]「今回のように『判決に不服があるにも拘らず死刑宣告の衝撃などで精神障害を生じ、その苦痛から逃れるために上訴を取り下げた場合』は取り下げは無効とするのが相当である」との判断を示した[新聞 101]。
最高裁決定後に東京医科歯科大学教授・山上晧による精神鑑定が行われた後[新聞 102]、1998年(平成10年)6月22日に東京高裁(荒木友雄裁判長)で約7年ぶりに控訴審公判が再開された[新聞 103][新聞 102][新聞 104]。同日の公判では以下のような結果を示した精神鑑定書が証拠採用された一方[新聞 103][新聞 102][新聞 104]、弁護人は「被告人Fは『控訴取り下げを行う能力がない』と認定されており、裁判を続ける訴訟能力もない」などと主張して公判手続き停止を申し立てた[新聞 103][新聞 102][新聞 104]。
- 「被告人Fは異常性格だが、犯行当時は特に病的な精神状態ではなかった」[新聞 103][新聞 102]
- 「現在は被告人Fの判断能力が弱まっている可能性はあるが著しいものではない」[新聞 103][新聞 104]
1999年(平成11年)10月29日に東京高裁(荒木友雄裁判長)で控訴審第19回公判が開かれ、弁護人・検察官の双方が最終弁論を行って結審した[新聞 105][新聞 106]。
控訴棄却判決
2000年(平成12年)1月24日に控訴審判決公判が開かれ、東京高裁第11刑事部(荒木友雄裁判長)は第一審・死刑判決を支持して被告人F・弁護人側の控訴を棄却する判決を言い渡した[新聞 107][新聞 108][新聞 11][新聞 16][新聞 19][新聞 109][新聞 110]。
- 東京高裁は「起訴後の被告人Fの言動に異常な点が見られる点は『拘禁の影響によるもの』と認められる」と判断した一方で[新聞 107][新聞 19]、事件当時の刑事責任能力に関しては弁護人側の心神喪失・心神耗弱とする主張を退け「犯行経緯・動機は十分に了解可能で犯行時の意識も清明だった」ことを指摘し[新聞 107]、「完全犯罪を意図して周到・緻密な準備の上で行われた高度な計画性に基づく犯行で、死刑になり得ることも十分に理解していた」として「責任能力が認められる」と事実認定した[新聞 19]。
- また「脅迫罪で別件逮捕したことによる取り調べ・自白強要など違法な訴訟手続きが行われた」とする弁護人側の控訴趣意書主張に関しては「本件殺人のみならず別件の取り調べも行われている。そもそも別件・脅迫事件は本件・殺人事件と原因・動機が関連しているため違法とは言えない」と判断して退けた[新聞 107]。
- そして「量刑不当」と主張した弁護人側の控訴趣意書論旨を「被告人Fは公判で否認から自白に転じ、いったんは控訴を取り下げるなど精神的成長・改善矯正の兆しが認められなくはないが、5人の人命を奪った罪の重さを鑑みれば死刑を選択した第一審の量刑はやむを得ず、弁護人側の『重すぎて不当』という主張は当てはまらない」として退けた[新聞 107]。
- 被告人Fは判決言い渡しの間も落ち着かない様子だった一方、判決後に接見室で弁護人・岡崎敬弁護士と接見した際には[新聞 11]「控訴審はこれで終わりか?」と質問し、『読売新聞』の報道によれば判決の結論を「第一審と同じ死刑だ」と教えられると指で丸を作り「わかった」という様子を見せた[新聞 19]。一方で『神奈川新聞』報道部記者・佐藤奇平は同紙2000年1月25日朝刊記事にて「被告人Fは接見時に岡崎から『判決の意味は分かっているか?第一審と同じ死刑だ』と返答されても理解しかねる様子で、何も答えなかった」と述べ、判決宣告当時の被告人Fの様子を以下のように形容した[新聞 11]。
- 「犯行当時短かった頭髪が伸びて長めのおかっぱに変わっていたが、年齢に比して幼さの残る顔つきで、それ以上に立ち振る舞いが月日の積み重ねを感じさせた。第一審で国選弁護人を務めた本田が語っていた『世間が評するほどの悪人には見えない。素直で純粋なところがあった』という事件当時の面影はなかった。逮捕から約18年にわたる拘禁生活の辛さ・怯え続けた『死刑』の影が被告人Fを変えてしまったのだろうか?」[新聞 11]
- 「弁護人・岡崎によれば被告人Fは事件の話になると耳を一切貸さないらしい。終始落ち着きなく傍聴席を見渡す被告人Fの姿からは、その心に『突然の凶行に遭い、無防備のままに恐怖・苦痛のうちに非業の最期を遂げた被害者母娘3人の無念さは察するに余りある』という判決文が響いているようには感じられなかった」[新聞 16]
- 「被告人Fは判決理由で控訴棄却の理由が説明されてもまるで他人事のように聞き流していたようだったが、荒木裁判長が被害者の名前・事件内容に触れると当時を思い出したためか落ち着きを失い、退廷直前には弁護人・岡崎に『すぐに(接見に)来て』と叫んだ。本田は今も被告人Fに対し『いつか自分の犯した罪に気付き、真人間になってもらいたい』と願っているが、今回も心からの贖罪の言葉は聞けなかった」[新聞 11]
- 「被告人Fは拘置所で事件の話にほとんど耳を貸さなかったそうだが、2度目の死刑判決言い渡しの意味を受け止められているのだろうか?」[新聞 11]
- また控訴審判決を受けて被害者少女Bと明治中学校で同級生だった藤沢市在住の女性は『神奈川新聞』の取材に対し「身近な友人が被害者で、ましてや思春期に起きたから『とてつもない大事件』だった。(前年に発生した)桶川ストーカー殺人事件など類似事件が起きる度にあの事件を思い出してしまう」と回答した[新聞 16]。
- 控訴審判決公判で裁判長を担当した荒木は死刑執行後の2008年3月に『毎日新聞』(毎日新聞社)の取材を受けて同判決を述懐し「全力で審理した上で『死刑以外にあり得ない』と確信した。判決を読み直しても付け加えたり変えたりするべき部分は見当たらない」と断言した[新聞 111]。
被告人Fの弁護人は控訴審判決を不服として2000年2月4日付で最高裁判所へ上告した[新聞 112][新聞 113]。
上告審・最高裁第三小法廷
最高裁判所は2003年(平成15年)12月17日までに被告人Fの上告審口頭弁論公判開廷期日を「2004年3月23日」に指定して関係者に通知した[新聞 114][新聞 115]。最高裁はこのほか警察庁広域重要指定118号事件で死刑判決を受けた被告人3人に対しても「2004年4月22日に上告審口頭弁論公判を開廷する」と関係者に通知した[新聞 114][新聞 115]。
2004年(平成16年)3月23日に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)で上告審口頭弁論公判が開かれた[新聞 116][新聞 117]。
- 弁護人側は「被告人Fは長期間の拘禁により精神障害が生じている影響で[新聞 116]刑罰の意味さえ理解できておらず、死刑執行は意味をなさない」と主張して死刑判決破棄を求めた[新聞 117]。
- 一方で検察側は「被告人Fが刑罰を理解できない証拠はなく、極悪非道の重大犯罪である本事件は死刑が相当だ」と主張し[新聞 116]、死刑判決支持・被告人側上告棄却を求めた[新聞 116][新聞 117]。
最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は2004年6月8日までに被告人Fの上告審判決公判開廷期日を「2004年6月15日」に指定して関係者に通知した[新聞 118][新聞 119]。弁護人は上告審判決前日の2004年6月14日に被告人Fと東京拘置所で接見したが、被告人Fは「翌日に上告審判決が言い渡されること」は理解していた一方で弁護人に対し「『無罪判決なら釈放ですか?』と聞くなど『状況を正確に把握できていない』様子」で、弁護団側によれば「言動が異常で意識が裁判に向いていない状態」だった[新聞 120]。第一審の証人尋問で法廷にて「被告人Fを妻子と同じように殺してやりたい。せめて3人分(3発)だけ殴らせてほしい」と証言した被害者遺族の父親D(被害者少女A・B姉妹、女性Cの夫)は同日に『読売新聞』(読売新聞社)から取材を受け「明日が上告審判決とは知らなかった。事件のことはもう思い出したくないが、死刑を望む気持ちは変わらない」と述べた[新聞 20]。
2004年6月15日に上告審判決公判が開かれ、最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)は第一審・控訴審の死刑判決を支持して被告人F・弁護人の上告を棄却する判決を言い渡したため、被告人Fの死刑が確定することとなった[新聞 121][新聞 20][新聞 122][新聞 14][新聞 123]。
被告人Fは上告審判決から10日間の判決訂正申し立て期限内(2004年6月24日まで)に最高裁第三小法廷(濱田邦夫裁判長)へ判決訂正を申し立てなかったため、2004年6月25日付で正式に死刑判決が確定した[新聞 21]。
死刑執行
2007年(平成19年)12月7日午前、法務省(法務大臣:鳩山邦夫)の発した死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑囚F(47歳没)の死刑が執行された[新聞 124][新聞 17][新聞 125][新聞 126]。
- 法務省は長らく死刑執行の事実を公表せず、矯正統計年報にて前年の死刑執行件数を掲載していただけだったが、1998年に当時の法務大臣・中村正三郎が「死刑執行の公表方法を検討すること」を法務省刑事局に指示して同年11月の死刑執行(泰州くん誘拐殺人事件・名古屋保険金殺人事件の各死刑囚ら3人)からは死刑執行の事実・人数の発表を開始していた[新聞 124]。しかし氏名に関しては「死刑囚の遺族らに不利益を与える」という理由でそれまで引き続き公表を見送っていたが[新聞 124]、鳩山は法務大臣に就任してから初となる今回の死刑執行にあたり同日に執行された別の死刑囚2人(うち1人は東京拘置所、もう1人は大阪拘置所)を含めて「死刑囚の氏名・犯罪事実の概要・執行場所」を初めて法務省として公表した[新聞 124][新聞 17][新聞 125][新聞 126]。
- 国会会期中の死刑執行は極めて異例なものであり[新聞 17]、2007年4月27日に前法務大臣・長勢甚遠の指揮により行われた3人に対する死刑執行以来だった[新聞 124]。鳩山は同日に行われた衆議院法務委員会でこの死刑執行にあたって死刑囚の氏名などを公表した理由を「死刑という非常に重い刑罰が『法に基づいて適正に粛々と行われているかどうか』は被害者あるいは国民が知り理解する必要がある」と説明した[新聞 17][新聞 125][新聞 126]。
- またこの死刑執行により同年内の死刑執行は計9人となり、1976年以来では当時最多となった[新聞 124](現在の最多記録は2008年・2018年の各15人)。
脚注
注釈
出典
刑事裁判の判決文・決定文
新聞報道記事(※見出しに死刑囚の実名が含まれる場合はその箇所を死刑囚の姓イニシャル「F」で表記している)
- ^ a b c d e f g h i 『神奈川新聞』1982年6月25日朝刊B版1面「藤沢の母娘惨殺 F、犯行を全面自供 4週間ぶり解決 連続殺人『戸塚』『尼崎』も自供」
- ^ a b c 『朝日新聞』1982年6月25日東京朝刊第14版第一社会面23面「母娘3人殺し自供 逮捕のF、他の2件も供述開始 一気に広域殺人の様相」
- ^ a b c d e f g h i 『中日新聞』1981年10月6日夕刊E版第二社会面6面「横浜で若い男性 畑で刺殺される」
- ^ a b c d e f g h i j 『神奈川新聞』1982年5月28日朝刊C版第一社会面15面「母娘3人惨殺される 藤沢市辻堂の新興住宅地 夕食中襲い次々と 長女(高2)追い回した男か」
- ^ a b c 『毎日新聞』1982年6月6日東京朝刊第14版第一社会面23面「尼崎 マンションで若い男刺殺される」
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『神奈川新聞』1981年10月7日朝刊C版第一社会面15面「戸塚区の畑地 けんか?メッタ刺し 無職青年、死体で」
- ^ a b c d e f g h i 『読売新聞』1982年6月16日東京朝刊第14版第一社会面23面「母娘3人殺し参考人逮捕 つきまとった男、別件で 血液型、掌紋が一致 まず脅迫を追及 犯行否認」
- ^ a b c d e f g h i j k 『中日新聞』1982年6月25日朝刊第12版第一社会面23面「藤沢 母娘3人殺しを自供 別件逮捕の元工員」【藤沢】
- ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1982年7月17日東京朝刊第14版第一社会面23面「母娘殺しF起訴 類を見ない残忍さ 包丁買い殺害練習 『現代の病根』まざまざ」
- ^ a b c d e f 『読売新聞』1988年3月15日東京朝刊第12版発言・投書欄8面「[気流]人間性欠いた被告が哀れ」(神奈川県横浜市在住・42歳塾教師女性からの投書)
- ^ a b c d e f g 『神奈川新聞』2000年1月25日朝刊B版第一社会面23面「F被告控訴審 一審死刑判決を支持 しょく罪の言葉なく 最後まで落ち着かず 棄却理由聞き流す?」(報道部記者:佐藤奇平)
- ^ a b c d e f 『朝日新聞』1981年10月6日東京夕刊第3版第一社会面15面「畑に男性の刺殺体 戸塚 周辺に争った形跡」
- ^ a b c 『朝日新聞』1982年6月7日大阪朝刊第14版第一社会面23面「尼崎の刺殺 被害者は元店員」
- ^ a b 『東京新聞』2004年6月15日夕刊第一社会面11面「5人殺害 F被告の死刑確定へ 最高裁が上告棄却 『執拗かつ残虐な犯行』」
- ^ a b c d e f g h i 『神奈川新聞』1987年11月27日朝刊B版第一社会面23面「F被告に死刑求刑 母娘ら5人殺害『まさに鬼畜の業』 自己中心的、矯正困難と検察」
- ^ a b c d e f g 『神奈川新聞』2000年1月25日朝刊B版第一社会面23面「F被告控訴審 一審死刑判決を支持 当時の同級生、今も傷癒えず 命の大切さ考える/とてつもない事件」(報道部記者:佐藤奇平)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』2007年12月7日東京夕刊1面「3人死刑、初の氏名公表 法相『国民が知る必要』 5人殺害のF死刑囚ら」
- ^ a b 『読売新聞』1988年3月10日東京夕刊第一社会面15面「神奈川・藤沢市の母娘ら5人殺し F被告に死刑判決/横浜地裁」
- ^ a b c d e 『読売新聞』2000年1月25日東京朝刊第二社会面30面「女子高生ら5人殺害のF被告、二審も死刑 異常行動『拘禁の影響』/東京高裁」
- ^ a b c 『読売新聞』2004年6月15日東京夕刊第一社会面19面「女子高生と母、妹ら5人殺害 F被告の死刑確定へ」
- ^ a b 『読売新聞』2004年6月29日東京朝刊第三社会面37面「女子高生ら5人殺害 F被告の死刑確定 判決に訂正申し立てず」
- ^ a b 『読売新聞』1982年6月22日東京朝刊第14版第一社会面23面「母娘殺しの参考人 尼崎にも土地カン 友人殺し容疑濃厚」【藤沢】
- ^ a b c d 『神奈川新聞』1982年9月29日朝刊A版第二社会面14面「F、盗みでも送検 ひったくりや事務所荒らし」
- ^ a b 『読売新聞』1982年9月29日東京朝刊第14版第二社会面22面「『F』窃盗で追送検」【横浜】
- ^ a b c 『毎日新聞』1987年11月27日東京朝刊第二社会面26面「8か月間に5人殺人のF被告に死刑求刑」
- ^ a b c 『神奈川新聞』1981年10月7日朝刊B版第一社会面15面「交友関係など洗う 戸塚区の刺殺事件」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年6月17日東京朝刊第14版第一社会面223面「母娘惨殺の重要参考人、ポリグラフに強い動揺 尼崎刺殺被害者に新証言『藤沢現場で見た』」【藤沢】
- ^ a b c d e f g h 『中日新聞』1982年5月28日朝刊第12版第一社会面23面「藤沢 母娘3人惨殺さる 夕食中、メッタ刺し」【藤沢】
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『神奈川新聞』1982年7月17日朝刊A版第二社会面16面「F 凶行繰り返し練習 自首勧めた両親も脅す」
- ^ a b c d e f g h i 『毎日新聞』1988年3月10日東京夕刊第一社会面13面「死刑判決 神奈川の母娘3人など5人殺害のF被告に横浜地裁」
- ^ a b 『神奈川新聞』1982年6月26日朝刊B版第一社会面17面「母娘惨殺のF 一家皆殺し狙う 犯行後関西など転々?殺されたYさん、玄関先まで同行」
- ^ a b c d e f 『神奈川新聞』1982年6月29日朝刊B版第二社会面14面「母娘殺しF供述 『Yさんは見張り役』 事前に打ち合わせも」
- ^ a b c d e f g h 『神奈川新聞』1982年5月29日朝刊B版第一社会面19面「辻堂の母娘惨殺 カギ握るバイクの少年 長女に交際を迫る 母親『おねえちゃん』と絶命」
- ^ a b c 『読売新聞』1982年5月28日東京夕刊第4版第一社会面15面「交友関係洗う母娘3人惨殺事件 恨みの線、濃厚に 近くの歩道、血痕50メートル」
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- ^ 遠藤允 (1988, pp. 166–167)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, p. 167)
- ^ 遠藤允 (1988, pp. 167–168)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, p. 169)
- ^ a b c 遠藤允 (1988, p. 170)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1988, p. 171)
- ^ a b c d e f 遠藤允 (1988, p. 172)
- ^ 遠藤允 (1988, p. 188)
- ^ a b c d e 遠藤允 (1988, p. 193)
その他
- ^ a b “所在不明株主の株式売却に関する異議申述の公告” (PDF). 東邦ガス. p. 36 (2012年11月1日). 2019年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年1月4日閲覧。
参考文献
刑事裁判の判決文・決定文
- 横浜地方裁判所刑事第2部判決 1988年(昭和63年)3月10日 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28175496(判決文本文は未収録)、昭和57年(わ)第1271号・昭和57年(わ)第1684号・昭和57年(わ)第1857号、『殺人,窃盗被告事件』。
- 判決内容:死刑(求刑・同、被告人側控訴)
- 裁判官:和田保(裁判長)
- 東京高等裁判所第11刑事部決定 1992年(平成4年)1月31日 『高等裁判所刑事判例集』第45巻1号20頁、『判例タイムズ』第783号276頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、昭和63年(う)第622号、『殺人,窃盗被告事件』「死刑判決を受けた被告人の控訴取下げが有効とされた事例」、“被告人の控訴取下げ当時、訴訟能力に欠けるところがなく、その動機が第一審の死刑判決の重圧による精神的苦痛から逃避するため、死刑になって早く楽になりたいということにあり、真意に出たものと認められる本件事情(判文参照)の下においては、右取下げは、有効である。”。
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:27921242
- 第一審で死刑の判決を受けて控訴した被告人の控訴取り下げが訴訟能力の瑕疵及び錯誤がなく有効であると認められた事例。
- 東京高等裁判所第12刑事部決定 1994年(平成6年)11月30日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号797頁、平成4年(け)第1号、『訴訟終了宣言決定に対する異議申立事件』。
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:24006453
- 決定内容:弁護人側の異議申立棄却(原決定支持・弁護人側は特別抗告)
- 裁判官:円井義弘(裁判長)
- 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
- 最高裁判所第二小法廷決定 1995年(平成7年)6月28日 『最高裁判所刑事判例集』(刑集)第49巻6号785頁、『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第265号873頁、『裁判所時報』第1149号6頁、『判例時報』第1534号139頁、『判例タイムズ』第880号131頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、平成6年(し)第173号、『訴訟終了宣言決定に対する異議申立て棄却決定に対する特別抗告事件』「死刑判決の言渡しを受けた被告人の控訴取下げが無効とされた事例」、“死刑判決の言渡しを受けた被告人が、その判決に不服があるのに、死刑判決の衝撃及び公判審理の重圧に伴う精神的苦痛によって精神障害を生じ、その影響下において、苦痛から逃れることを目的として控訴を取り下げたなどの判示の事実関係の下においては、被告人の控訴取下げは、自己の権利を守る能力を著しく制限されていたものであって、無効である。”。
- 東京高等裁判所第11刑事部判決 2000年(平成12年)1月24日 『判例タイムズ』第1055号294頁、『高等裁判所刑事裁判速報集』(平成12年)号53頁、昭和63年(う)第622号、『殺人、窃盗被告事件』。
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28065107
- 殺害された被害者の数が合計5名に及ぶ3件の殺人等の事案において、完全責任能力が肯定され、一審の死刑判決が維持された事例。
- 約8か月の間になされた3件5名に対する殺人につき、死刑を言い渡した原判決の量刑が相当とされた事例。
- 判決内容:被告人・弁護人側の控訴棄却(原審の死刑判決支持・弁護人側上告)
- 裁判官:荒木友雄(裁判長)・田中亮一・林正彦
- 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
- 最高裁判所第三小法廷判決 2004年(平成16年)6月15日 『最高裁判所裁判集刑事』(集刑)第285号457頁、『判例タイムズ』第1160号109頁、裁判所ウェブサイト掲載判例、平成12年(あ)第823号、『殺人、窃盗被告事件』。
- 『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例体系 ID:28095644
- 窃盗の共犯者であった仲間を殺害し、女子高生とその母及び妹を殺害し、女子高生一家を殺害する際の共犯者であった仲間を殺害し、その他10回にわたって窃盗をした被告人に対し、原判決が維持した第一審判決の死刑の量刑が維持された事例。
- 『判例タイムズ』第1160号109頁
- 辻堂の女子高生一家3名殺害等事件-死刑の量刑が維持された事例
- 裁判所ウェブサイト掲載判例
- 死刑の量刑が維持された事例(神奈川・兵庫の5人殺害事件)
- 判決内容:被告人・弁護人側の上告棄却(原審の死刑判決支持・確定)
- 最高裁判所裁判官:濱田邦夫(裁判長)・金谷利廣・上田豊三・藤田宙靖
- 検察官:麻生興太郎
- 弁護人:岡崎敬・大西啓介(異議申立書・異議申立補充書を連名作成)
- 「辻堂の女子高生一家3名殺害等事件 死刑の量刑が維持された事例(2004年6月15日 上告審判決)」『判例タイムズ』第1160巻、判例タイムズ社、東京都千代田区麹町三丁目2番1号、2004年12月1日、109-111頁、2018年12月3日閲覧。
雑誌記事
- 上條昌史「総力特集 昭和&平成 世にも恐ろしい13の「死刑囚」事件簿 - F(死刑囚の実名)「藤沢・交際相手母娘他5人殺害」不遇な青年が殺人鬼へ」、『新潮45』25巻10号(通巻第294号/2006年10月号)、新潮社 pp. 56-58
関連書籍
※書籍名に死刑囚Fの氏名が使われている場合はその部分を本文中で使用されているイニシャル「F」に置き換える。
- 遠藤允 著、加藤博(発行人) 編『Fの家』(初版第1刷)新声社、1983年8月10日。ISBN 978-4881990582。
- 単行本。第一審途中の1983年に出版されたため、公判の模様は第11回公判までで終わっている。
- 遠藤允『Fの家 ある連続殺人事件の記録』(初版第1刷)講談社〈講談社文庫〉、1988年9月15日。ISBN 978-4061842847。
- 1988年3月の第一審判決後、上記書籍を改題した上でその後の裁判の進行などを加筆・訂正した文庫本。後述の#外部リンクにて全文をアーカイブより閲覧可能。
- 年報・死刑廃止編集委員会『オウム死刑囚からあなたへ 年報・死刑廃止2018』インパクト出版会、2018年10月25日、253頁。ISBN 978-4755402883。
関連項目
死刑判決を受けた被告人が控訴を自ら取り下げたため、弁護人が控訴取下げの無効を主張して裁判所に異議を申し立てた事件
- ピアノ騒音殺人事件 - 控訴取り下げへの異議申し立ては退けられたが死刑は未だに執行されていない。
- 奈良小1女児殺害事件・闇サイト殺人事件 - 控訴取り下げへの異議申し立てが退けられた後に死刑囚の刑が執行された。
外部リンク
- “遠藤允の書斎”. 遠藤允(本事件を題材としたノンフィクションを出版). 2001年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月8日閲覧。
- “遠藤允の書斎>作品集>Fの家(作品全文掲載。目次集)”. 遠藤允. 2001年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年2月8日閲覧。