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{{政治家
{{政治家
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|画像 = John Major 1996.jpg
| 画像 = John Major at the Hist Inaugural.jpg
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|国略称 = {{UK}}
| 国略称 = {{UK}}
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| 子女 = 2人
|出身校 = {{仮リンク|ラトリッシュ・スクール|en|Rutlish School}}
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|所属政党 = [[保守党_(イギリス)|保守党]]
| 所属政党 = [[保守党_(イギリス)|保守党]]
|称号・勲章 =[[ガーター勲章]]勲爵士(KG)、{{仮リンク|コンパニオン・オブ・オナー勲章|en|Order of the Companions of Honour}}コンパニオン(CH)[[枢密院_(イギリス)|枢密顧問官]](PC)[[旭日大綬章]]
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| 配偶者 = {{仮リンク|ノーマ・メージャー|label=ノーマ・ジョンソン|en|Norma Major}}<ref name="thepeerage" />
|ウェブサイト =http://www.johnmajor.co.uk/index.html
| ウェブサイト = http://www.johnmajor.co.uk/index.html
|サイトタイトル =The Rt Hon Sir John Major KG CH
| サイトタイトル = The Rt Hon Sir John Major KG CH
|国旗 = イギリス
|職名 = [[イギリスの首相|首相]]
| 国旗 = イギリス
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<!-- ↓省略可↓ -->
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'''[[サー]]・ジョン・メージャー'''({{lang-en-short|Sir John Major, {{Post-nominals|post-noms= [[ガーター勲章|KG]], [[コンパニオン・オブ・オナー勲章|CH]]}}}}、[[1943年]][[3月29日]] - )は、[[イギリス]]の[[政治家]]。
'''ジョン・メージャー'''({{lang-en-short|John Major}}、[[1943年]][[3月29日]] - )は、[[イギリス]]の[[政治家]]。


==概要==
[[保守党_(イギリス)|保守党]]に所属し、[[マーガレット・サッチャー]]内閣で[[財務大臣_(イギリス)|財務大臣]]や[[外務・英連邦大臣]]を務めた後、[[1990年]]のサッチャーの辞任で代わって[[イギリスの首相|首相]](在職[[1990年]][[11月28日]] - [[1997年]][[5月2日]])に就任した。[[1992年]]の[[1992年イギリス総選挙|総選挙]]に辛勝して長期政権の基盤を築き、6年半に渡って首相を務めた。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との協調を維持しつつ、[[ヨーロッパ]]との関係改善に努め、[[マーストリヒト条約]]の締結と[[欧州連合]](EU)発足に大きな功績を果たした。しかし中間色の政策が多かったため、「理念なき政治家」との批判が高まり、また相次ぐ政治家のスキャンダルなどで徐々に人気が下降し、[[1997年]]の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で[[トニー・ブレア]]率いる[[労働党_(イギリス)|労働党]]に大敗を喫して退陣に追い込まれた。
[[保守党_(イギリス)|保守党]]に所属し、[[マーガレット・サッチャー]]内閣で[[財務大臣_(イギリス)|財務大臣]]や[[外務・英連邦大臣]]を務めた後、[[1990年]]のサッチャーの辞任で代わって[[イギリスの首相]](在職[[1990年]][[11月28日]] - [[1997年]][[5月2日]])に就任した。[[1992年]]の[[1992年イギリス総選挙|総選挙]]に辛勝して長期政権の基盤を築き、6年半に渡って首相を務めた。

[[アメリカ合衆国]]との協調を維持しつつ[[ヨーロッパ]]との関係改善に努め、[[マーストリヒト条約]]の締結と[[欧州連合]](EU)発足に大きな功績を果たした。

しかし中間色の政策が多かったため、「理念無き政治家」との批判が高まり、また相次ぐ政治家のスキャンダルなどで徐々に人気が下降し、[[1997年イギリス総選挙]]で[[トニー・ブレア]]率いる[[労働党_(イギリス)|労働党]]に大敗を喫して退陣に追い込まれた。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
=== 生い立ち ===
=== 生い立ち ===
[[1943年]][[3月29日]][[イングランド]][[サリー州]]・{{仮リンク|カーショールトン|en|Carshalton}}・{{仮リンク|聖ヘラー病院|en|St Helier Hospital}}で生まれた<ref name="英政府">{{cite web|url=https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/john-major |title=Past Prime Ministers Sir John Major|work=[https://www.gov.uk/ Welcome to GOV.UK]|publisher=[[イギリス政府]] |language=英語 |accessdate=2014-10-19}}</ref>。父は俳優・庭園装飾物職人{{仮リンク|トム・メージャー・ベル|label=ブラハム・トマス・ベル|en|Tom Major-Ball}}、母はその妻グウェンドリン・ミニー(旧姓コーツ)<ref>{{cite web|url=http://www.sole.org.uk/johnmajor.htm |title=Ex Prime Minister Sir John Major and his Sewell Ancestors|work= [http://www.sole.org.uk/ The Sole Society]|publisher=Sole.org.uk |date= |accessdate=2014-10-19}}</ref><ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://www.thepeerage.com/p18326.htm#i183254|title=Rt. Hon. Sir John Major|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2014-10-19}}</ref>。
[[1943年]][[3月29日]][[イングランド]][[サリー州]]・{{仮リンク|カーショールトン|en|Carshalton}}・{{仮リンク|聖ヘラー病院|en|St Helier Hospital}}でた<ref name="英政府">{{cite web|url=https://www.gov.uk/government/history/past-prime-ministers/john-major |title=Past Prime Ministers Sir John Major|work=[https://www.gov.uk/ Welcome to GOV.UK]|publisher=[[イギリス政府]] |language=英語 |accessdate=2014-10-19}}</ref>。父は俳優・庭園装飾物職人{{仮リンク|トム・メージャー・ベル|label=エイブラハム・トマス・ベル|en|Tom Major-Ball}}、母はグウェンドリン・ミニー(旧姓コーツ)<ref>{{cite web|url=http://www.sole.org.uk/johnmajor.htm |title=Ex Prime Minister Sir John Major and his Sewell Ancestors|work= [http://www.sole.org.uk/ The Sole Society]|publisher=Sole.org.uk |date= |accessdate=2014-10-19}}</ref><ref name="thepeerage">{{Cite web|last=Lundy|first=Darryl|url=http://www.thepeerage.com/p18326.htm#i183254|title=Rt. Hon. Sir John Major|work=thepeerage.com|language=英語|accessdate=2014-10-19}}</ref>である


[[ランベス・ロンドン特別区]][[ブリクストン]]で育つ。[[グラマー・スクール]]の{{仮リンク|ラトリッシュ・スクール|en|Rutlish School}}に入学したが<ref name="thepeerage" />、16歳で学校を退大学には進学していない<ref name="英政府" />。
[[ランベス・ロンドン特別区]][[ブリクストン]]で育つ。[[グラマー・スクール]]の{{仮リンク|ラトリッシュ・スクール|en|Rutlish School}}に入学したが<ref name="thepeerage" />、16歳で学校を退し大学には進学していない<ref name="英政府" />。


=== ビジネス経歴 ===
=== ビジネス経歴 ===
電力会社保険会社での勤務を経て、1965年に[[スタンダード・チャータード銀行]]に入ると外国為替部門で頭角を現し、営業部長や会長秘書などに昇進した。
電力会社及び保険会社での勤務を経て、1965年に[[スタンダード・チャータード銀行]]に入社すると外国為替部門で頭角を現し、営業部長や会長秘書に昇進した。


=== 政界に進出 ===
=== 政界に進出 ===
彼は若い頃から[[保守党_(イギリス)|保守党]]青年活動に参加しており、21歳の時には{{仮リンク|ランベス・ロンドン特別区議会|en|Lambeth London Borough Council}}選挙で当選を果たした。同地方議会において彼は住宅供給委員会の議長を務めた<ref name="英政府" />。
若い頃から[[保守党_(イギリス)|保守党]]青年活動に参加しており、21歳の時には{{仮リンク|ランベス・ロンドン特別区議会|en|Lambeth London Borough Council}}選挙で当選を果たした。同議会において彼は住宅供給委員会の議長を務めた<ref name="英政府" />。


度の落選を経て、[[1979年]]に{{仮リンク|ハンティンドンシャー選挙区|en|Huntingdonshire (UK Parliament constituency)}}から保守党候補として立候補し、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選した<ref name="thepeerage" /><ref name="英政府" />。[[1983年]]に同選挙が廃止されると新設された{{仮リンク|ハンティンドン選挙区|en|Huntingdon (UK Parliament constituency)}}から選出されるようになった<ref name="thepeerage" />。
2度の落選を経て、[[1979年]]に{{仮リンク|ハンティンドンシャー選挙区|en|Huntingdonshire (UK Parliament constituency)}}から保守党候補として立候補し、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員に初当選した<ref name="thepeerage" /><ref name="英政府" />。[[1983年]]に同選挙が廃止されると新設された{{仮リンク|ハンティンドン選挙区|en|Huntingdon (UK Parliament constituency)}}から選出されるようになった<ref name="thepeerage" />。


=== サッチャー内閣の閣僚として ===
=== サッチャー内閣の閣僚として ===
[[1985年]][[マーガレット・サッチャー]]内閣の内閣改造の際保健社会保障省関連の役職に就いた<ref name="小川(2005)114">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.114</ref>。ついで[[1987年]]に{{仮リンク|財務首席政務次官 (イギリス)|label=財務首席政務次官|en|Chief Secretary to the Treasury}}として初入閣。閣内では予算削減継続の管理能力を高く評価された<ref name="英政府" />。
[[1985年]]に行われた[[マーガレット・サッチャー]]内閣の改造の際保健社会保障省関連の役職に就いた<ref name="小川(2005)114">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.114</ref>。ついで[[1987年]]に{{仮リンク|財務首席政務次官 (イギリス)|label=財務首席政務次官|en|Chief Secretary to the Treasury}}として初入閣。閣内では予算削減継続の管理能力を高く評価された<ref name="英政府" />。


[[1989年]]7月、サッチャーと対立した[[ジェフリー・ハウ]]外相の辞職伴い、代わって[[外務英連邦大臣]]に就任した<ref name="小川(2005)250">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.250</ref>。
[[1989年]]7月、サッチャーと対立して解任された[[ジェフリー・ハウ]]に代わり、[[外務英連邦大臣]]に就任した<ref name="小川(2005)250">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.250</ref>。


ところが外就任から3カ月後の同年10月に[[ナイジェル・ローソン]]財がサッチャーの経済問題アドバイザー[[アラン・ウォルターズ]]と対立して辞職したため、代わって[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に転任することになった<ref name="小川(2005)250">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.250</ref>。サッチャーはメージャーを財務大臣に任るにたって「ナイジェルほど経済に精通していないが、少なくとも過去の政策の失敗に囚われて身動きできなくなるようなことはない。彼は心理的には、政策の失敗から引き起こされた結果にはるかに容易に対応できたはずだから」と彼のことを評している<ref name="小川(2005)251">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.251</ref>。
ところが[[務・英連邦大臣]]の就任から3カ月後の同年10月に[[ナイジェル・ローソン]]財務大臣がサッチャーの経済問題アドバイザーである[[アラン・ウォルターズ]]と対立して辞職したため、代わって[[財務大臣 (イギリス)|財務大臣]]に転任することになった<ref name="小川(2005)250">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.250</ref>。サッチャーはメージャーを財務大臣に任命するにたって「ナイジェルほど経済に精通していないが、少なくとも過去の政策の失敗に囚われて身動きできなくなるようなことはない。彼は、政策の失敗から引き起こされた結果にはるかに容易に対応でき」と彼のことを評している<ref name="小川(2005)251">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.251</ref>。


メージャーが財務大臣になった頃の[[景気]]は悪く、経常収支が大幅赤字で[[インフレーション|インフレ]]が急速に進行し、金利が上昇していた。メージャーはサッチャーに[[欧州為替相場メカニズム]](ERM)加盟を進言し、消極的だった彼女を説得して実現にこぎつけた<ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.251-252</ref>。
メージャーが財務大臣になった頃の[[景気]]は極めて悪く、経常収支が大幅赤字で[[インフレーション|インフレ]]が急速に進行し、金利が上昇していた。メージャーはサッチャーに[[欧州為替相場メカニズム]](ERM)加盟を進言し、消極的だった彼女を説得して実現にこぎつけた<ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.251-252</ref>。


=== 首相として ===
=== 首相として ===
[[File:John Major-1.JPEG|250px|thumb|1996年5月24日、[[ボスニア]][[サラエボ]]を訪問したメージャー首相。[[和平履行部隊]]として派遣された[[連合緊急対応軍団]]司令官{{仮リンク|マイケル・ウォーカー_(ウォーカー男爵)|label=マイケル・ウォーカー|en|Michael Walker, Baron Walker of Aldringham}}中将とともに。]]
[[File:John Major-1.JPEG|250px|thumb|[[ボスニア]][[サラエボ]]を訪問したメージャー首相。[[和平履行部隊]]として派遣された[[連合緊急対応軍団]]司令官{{仮リンク|マイケル・ウォーカー_(ウォーカー男爵)|label=マイケル・ウォーカー|en|Michael Walker, Baron Walker of Aldringham}}中将とに。(1996年5月24日)]]
[[1990年]]秋に行われた保守党所属庶民院議員による保守党党首選挙においてサッチャーは多数を得たが当選には足りず、第二回党首選挙が行われることになった。党内の支持を広げられそうにないと判断したサッチャーは、第党首選挙への立候補を断念した。第二回党首選挙にはメージャー、[[マイケル・ヘーゼルタイン]]元国防相、[[ダグラス・ハード]]外相らが出馬したが、それぞれ185票131票56票という結果になった。メージャーも当選票には達していなかったが、ヘーゼルタインとハードが退したため、メージャーが保守党党首・首相に就任することになった<ref name="小川(2005)253">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.253</ref>。当時メージャーは47歳であり、短期間で首相に上り詰めたことから「[[シンデレラ・ストーリー|シンデレラ・ボーイ]]」と呼ばれた<ref name="村岡(1991)438">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.438</ref>。
[[1990年]]秋に行われた保守党党首選挙においてサッチャーは204票を得たが当選には4票足りず、再び投票が行われることになった。党内の支持を広げられそうにないと判断したサッチャーは、第2回選挙への立候補を断念した。これを受けてメージャーは党首選への出馬を表明。第2回選挙にはメージャーの他第1回選挙でサッチャーと対立した[[マイケル・ヘーゼルタイン]]元国防相、[[ダグラス・ハード]][[務・英連邦大臣]]が出馬したが、それぞれ185票131票56票という結果になった。メージャーも当選票には達していなかったが、ヘーゼルタインとハードがメージャーを支持して撤退したため、メージャーが保守党党首・首相に就任することが確定した<ref name="小川(2005)253">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.253</ref><ref name="村岡(1991)438">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.438</ref>。


[[1992年]]4月の[[1992年イギリス総選挙|庶民院選挙]]に事前の予想を覆す形で辛勝したことで長期政権の基盤を築き、[[1997年]]5月の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党に敗れるまで[[政権]]を担当することになった<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref><ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240/249</ref>。
[[1992年]]4月の[[1992年イギリス総選挙|庶民院選挙]]に事前の予想を覆す形で辛勝したことで長期政権の基盤を築き、[[1997年]]5月の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党に敗れるまで[[政権]]を担当することになった<ref name="村岡(1991)439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.439</ref><ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240/249</ref>。


==== 外交 ====
==== 外交 ====
イギリスの外交観は[[親米]]か親欧かというつの路線があるが、サッチャー前首相は前者であり、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[ロナルド・レーガン]]と親密な関係を築きつつ、[[欧州共同体]](EC)に対しては強硬姿勢で臨んだ<ref name="佐々木(2005)238">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.238</ref>。それに対してメージャーは首相就任直後の演説で「欧州共同体(EC)の中のイギリスについての私の目的は、簡単に述べることができる。私は我が国が本来の位置に就くことを望んでいる。それはヨーロッパの中心部である。そこでパートナーたちとともに未来を築き上げていくのだ」と述べたため、親欧路線転換するのかと注目された<ref name="佐々木(2005)238" />。
イギリスの外交観は[[親米]]か親欧かという2つの路線があるが、メージャー任の首相・サッチャーは前者であり、アメリカの[[ロナルド・レーガン|レーガン]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]と親密な関係を築きつつ、[[欧州共同体]](EC)に対しては強硬姿勢で臨んだ<ref name="佐々木(2005)238">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.238</ref>。それに対してメージャーは首相就任直後の演説で「欧州共同体(EC)の中のイギリスについての私の目的は、簡単に述べることができる。私は我が国が本来の位置に就くことを望んでいる。それはヨーロッパの中心部である。そこでパートナーたちとともに未来を築き上げていくのだ」と述べ、親欧路線への転換を示唆した<ref name="佐々木(2005)238" />。


方メージャーは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との関係を外交上の最優先事項とするイギリス外交の基本方針は維持すべきと考えており、「(アメリカかヨーロッパか)何故選ぶ必要があるのか。わが国の[[国益]]はアメリカ・[[ヨーロッパ]]というつの大きなブロックにほぼ均等に分かたれている中で何故こうした選択をわざわざしなければならないのか。私に言わせればそれは狂気の沙汰である」と論じて極端な二者択一を迫る者を批判した<ref name="佐々木(2005)238" />。
メージャーは[[アメリカ合衆国]]との関係を外交上の最優先事項とするイギリス外交の基本方針は維持すべきと考えており、「(アメリカかヨーロッパか)何故選ぶ必要があるのか。わが国の[[国益]]はアメリカ・ヨーロッパという2つの大きなブロックにほぼ均等に分かたれている中で何故こうした選択をわざわざしなければならないのか。私に言わせればそれは狂気の沙汰である」と論じて極端な二者択一を迫る者を批判した<ref name="佐々木(2005)238" />。


===== 対ヨーロッパ外交 =====
===== 対ヨーロッパ外交 =====
メージャーはサッチャーよりはヨーロッパ寄りだが、それでもイギリスがヨーロッパに吸収されて消滅する恐れがある動きには抵抗した<ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.271-272</ref>。
メージャーはサッチャーよりはヨーロッパ寄りだが、それでもイギリスがヨーロッパに吸収されて消滅する恐れがある動きには抵抗した<ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.271-272</ref>。


[[1991年]]12月[[オランダ]]の[[マーストリヒト]]でEC理事会が開かれ、[[マーストリヒト条約]]が締結された。メージャーも基本的にその内容に賛成したものの、通貨条項(通貨の統一)と社会条項(社会政策の共通化)についてイギリスを対象外(Opt-out)とすることを明記するよう要求し、外交交渉の末にそれを条文に盛り込むことに成功した。またECの連邦化につながる表現を入れないことも要求し、それついても成功した<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.239-240</ref><ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.253-254</ref>。
[[1991年]]12月[[オランダ]]の[[マーストリヒト]]でEC理事会が開かれ、[[マーストリヒト条約]]が締結された。メージャーも基本的にその内容に賛成したものの、通貨条項(通貨の統一)と社会条項(社会政策の共通化)についてイギリスを対象外(Opt-out)とすることを明記するよう要求し、交渉の末にそれを条文に盛り込むことに成功した。またECの連邦化にがる表現を入れないことにも成功した<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.239-240</ref><ref>[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.253-254</ref>。


マーストリヒト条約批准をめぐっては国内でも意見が分かれていたが(特に与党保守党内)、[[1992年]]5月の庶民院第読会は、[[労働党_(イギリス)|労働党]]棄権、[[自由党_(イギリス)|自由党]]賛成で可決された。ところがこの直後に[[デンマーク議会]]においてマーストリヒト条約批准が否決され、また[[1992年]]9月に「[[ポンド危機|ブラック・ウェンズデイ]]」事件{{#tag:ref|投機筋のポンドへの攻勢が強まり、[[イギリス政府]]はERMの束縛のために利子率の引き上げを行うも効果がなかったため、同年9月16日にERMからポンドを脱退させた事件<ref name="佐々木(2005)240">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240</ref><ref name="小川(2005)254">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.254</ref>。|group=注釈}}があったことで条約反対派が勢いを増し、その結果、デンマークでの国民投票の結果が出るまでイギリスも条約批准を延期することを余儀なくされた。しかし最終的には[[1993年]][[5月18日]]のデンマーク国民投票でデンマークのマーストリヒト条約批准が決まったので、メージャーにとってもそれが追い風となり、同年5月30日に46人の保守党議員の造反に合いながらも何とかマーストリヒト条約の庶民院第三読会通過を達成することができた<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240-241</ref>{{#tag:ref|しかし僅差での通過であり、この直後に政府が出したマーストリヒト条約の社会条項のオプトアウトを確認する動議は8票差で否決されている。また労働党が提出した社会条項オプトアウトを無効とする修正動議は賛否同数で庶民院議長裁定によってかろうじて否決されるという事態となった。そのためメージャーは議会での求心力を回復すべく、自らの政権への信任投票を実施して政権信任を得ている(保守党造反組は解散総選挙になって保守党が敗れることを恐れていたため、メージャー政権に信任票を投じた)<ref name="佐々木(2005)241">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.241</ref>。|group=注釈}}。
マーストリヒト条約批准をめぐっては国内でも意見が分かれていたが(特に与党保守党内)、[[1992年]]5月の庶民院第2読会は、[[労働党_(イギリス)|労働党]]棄権、[[自由党_(イギリス)|自由党]]賛成で可決された。ところがこの直後に[[デンマーク議会]]においてマーストリヒト条約批准が否決され、また[[1992年]]9月に「[[ポンド危機|ブラック・ウェンズデイ]]」事件{{#tag:ref|投機筋のポンドへの攻勢が強まり、[[イギリス政府]]はERMの束縛のために利子率の引き上げを行うも効果がなかったため、同年9月16日にERMからポンドを脱退させた事件<ref name="佐々木(2005)240">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240</ref><ref name="小川(2005)254">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.254</ref>。|group=注釈}}があったことで条約反対派が勢いを増し、その結果、デンマークでの国民投票の結果が出るまでイギリスも条約批准を延期することを余儀なくされた。しかし最終的には[[1993年]][[5月18日]]のデンマーク国民投票でデンマークのマーストリヒト条約批准が決まったので、メージャーにとってもそれが追い風となり、同年5月30日に46人の保守党議員の造反に合いながらも何とかマーストリヒト条約の庶民院第三読会通過を達成することができた<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.240-241</ref>{{#tag:ref|しかし僅差での通過であり、この直後に政府が出したマーストリヒト条約の社会条項のオプトアウトを確認する動議は8票差で否決されている。また労働党が提出した社会条項オプトアウトを無効とする修正動議は賛否同数で庶民院議長裁定によってかろうじて否決されるという事態となった。そのためメージャーは議会での求心力を回復すべく、自らへの信任投票を実施して信任を得ている(保守党造反組は解散総選挙になって保守党が敗れることを恐れていたため、メージャーに信任票を投じた)<ref name="佐々木(2005)241">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.241</ref>。|group=注釈}}。


マーストリヒト条約は[[1993年]]11月に発効され、これに基づいてECは[[欧州連合]](EU)に改組された<ref name="佐々木(2005)241-242">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.241-242</ref>。
マーストリヒト条約は[[1993年]]11月に発効され、これに基づいてECは[[欧州連合]](EU)に改組された<ref name="佐々木(2005)241-242">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.241-242</ref>。
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===== 対アメリカ外交 =====
===== 対アメリカ外交 =====
[[File:Arcbushmaj.jpg|250px|thumb|[[1992年]][[6月7日]]、アメリカの[[キャンプ・デービッド]]で記者会見するメージャー首相(左)と[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領(右)。]]
[[File:President George H. W. Bush and Prime Minister John Major.jpg|250px|thumb|アメリカの[[キャンプ・デービッド]]で記者会見するイギリスのメージャー首相(左)とアメリカの[[ジョージ・H・W・ブッシュ]]大統領(右)。([[1992年]][[6月7日]])]]
アメリカとの関係では、サッチャー政権から引き続いて[[湾岸戦争]]に協力した<ref name="村岡(1991)439" />。湾岸戦争の戦友である[[共和党_(アメリカ)|共和党]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]とは親密な関係を保ったが、[[1992年]]11月の[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙|アメリカ大統領選挙]]の際にメージャーが公然とブッシュを応援したことがきっかけとなり、[[1993年]]1月に[[民主党_(アメリカ)|民主党]][[ビル・クリントン]]が大統領に就任すると英米の齟齬が増えた<ref name="佐々木(2005)246">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.246</ref>。
アメリカとの関係では、サッチャー政権から引き続いて[[湾岸戦争]]に協力した<ref name="村岡(1991)439" />。湾岸戦争の戦友である[[共和党_(アメリカ合衆国)|共和党]][[ジョージ・H・W・ブッシュ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]とは親密な関係を保ったが、[[1992年アメリカ合衆国大統領選挙]]の際にメージャーが公然とブッシュを支持したことがきっかけとなり、[[1993年]]1月に[[民主党 (アメリカ合衆国)|民主党]][[ビル・クリントン]]が大統領に就任すると英米の齟齬が増えた<ref name="佐々木(2005)246">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.246</ref>。


[[ボスニア紛争]]をめぐってはクリントンが明確な反[[セルビア]]の立場を取ったのに対してメージャーは対協力を基本としながらも反セルビアの立場を明確にしようとしなかった<ref name="佐々木(2005)246" />。また[[キューバ]]に投資している会社に法的措置を求めるクリントンに対してメージャーは協力しようとしなかった<ref name="佐々木(2005)246" />。[[北アイルランド問題]]をめぐっては[[アイルランド人]]移民が多いアメリカは親アイルランド的態度をとってイギリスを苛立たせた<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.246-247</ref>。
[[ボスニア紛争]]をめぐってはクリントンが明確な反[[セルビア]]の立場を取ったのに対してメージャーは対アメリカ協力を基本としながらも反セルビアの立場を明確にしようとしなかった<ref name="佐々木(2005)246" />。また[[キューバ]]に投資している会社に法的措置を求めるクリントンに対してメージャーは協力しようとしなかった<ref name="佐々木(2005)246" />。[[北アイルランド問題]]をめぐっては[[アイルランド人]]移民が多いアメリカは親アイルランド的態度をとってイギリスを苛立たせた<ref>[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.246-247</ref>。


このような小さな対立を内在しつつも、アメリカとの関係が重要事項であるというイギリス外交の基本方針は維持した。[[1993年]]6月と[[1996年]]にクリントン政権が行ったイラク空爆についても、の国が批判的にみることが多かった中、メージャーは明確にアメリカ支持を表明した<ref name="佐々木(2005)247">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.247</ref>。
このような対立を内在しつつも、前述の通りアメリカとの関係が重要事項であるというイギリス外交の基本方針は維持した。[[1993年]]と[[1996年]]にクリントン政権が行ったイラク空爆についても、ほとんどの国が批判的に見ていた中、メージャーは明確にアメリカ支持を表明した<ref name="佐々木(2005)247">[[#佐々木(2005)|佐々木、木畑(2005)]] p.247</ref>。
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==== 内政 ====
==== 内政 ====
サッチャーの構造改革を引き継ぎ、公共施設の建設や運営を民間に委ねる政策を打ち出した<ref name="村岡(1991)438">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.438</ref>。この政策に基づき1992年にプライベート・ファイナンス・イニシアティブ([[PFI]])と呼ばれる政策手法を実施した。現在ではこの政策方法は英国のみには留まらず、米国や日本といった世界の国々で構造改革の手法として実施されている。
サッチャーの構造改革を引き継ぎ、公共施設の建設や運営を民間に委ねる政策を打ち出した<ref name="村岡(1991)438">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.438</ref>。この政策に基づき1992年にプライベート・ファイナンス・イニシアティブ([[PFI]])と呼ばれる政策手法を実施した。現在ではこの政策方法は英国のみには留まらず、米国や日本といった世界の国々で構造改革の手法として実施されている。


他方サッチャー政権期に制定されたが、「[[人頭税]]」との批判が高まっていた{{仮リンク|コミュニティ・チャージ (イギリス)|label=コミュニティ・チャージ|en|Community Charge}}は就任早々に廃止した<ref name="村岡(1991)437,439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.437/439</ref><ref name="小川(2005)232">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.232</ref>。
他方サッチャー政権期に制定されたが、「[[人頭税]]」との批判が高まっていた{{仮リンク|コミュニティ・チャージ (イギリス)|label=コミュニティ・チャージ|en|Community Charge}}は就任早々に廃止した<ref name="村岡(1991)437,439">[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.437/439</ref><ref name="小川(2005)232">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.232</ref>。


==== 退陣 ====
==== 退陣 ====
メージャーは内政においても外交においても、[[右翼]]路線か[[左翼]]路線か、サッチャー政権の方針継承するのかしないのか明確でない政治家であり、ため両陣営から「理念き政治家」と看做されて人気を落としていった<ref name="村岡(1991)439" />。
メージャーは内政においても外交においても、あまりはっきりとした立場取らない政治家であり、野党や与党内反対派から「理念き政治家」と看做されて人気を落としていった<ref name="村岡(1991)439" />。


また[[1993年]]から[[1994年]]に相次いだ政治家の金銭・セックススキャンダルで[[政権]]への信頼が失墜した。さらに[[1996年]]に一時停戦状態だった[[アイルランド共和軍]](IRA)が反テロを再開したことや、同年に「[[狂牛病]]」問題が発生したことも政権支持率を一層低迷させた<ref name="村岡(1991)439" />。
また[[1993年]]から[[1994年]]に相次いだ保守党内の金銭・性的スキャンダルで[[政権]]への信頼が失墜した。さらに[[1996年]]に一時停戦状態だった[[アイルランド共和軍]](IRA)が反イギリステロを再開したことや、「[[狂牛病]]」問題が発生したことも政権支持率を一層低迷させた<ref name="村岡(1991)439" />。


一方労働党は1994年7月に41歳の[[トニー・ブレア]]を党首に立てた。ブレアは党の[[労働組合]]優位体質を改革して一党員一票制度を確立し、党規約も改正して国有化方針を破棄した。こうした労働党に新風を吹き込む改革で人気を高めていった<ref name="村岡(1991)439" /><ref name="小川(2005)254">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.254</ref>。
一方、最大野党・労働党は1994年7月に41歳の[[トニー・ブレア]]を党首に立てた。ブレアは党の[[労働組合]]優位体質を改革して一党員一票制度を確立し、党規約も改正して国有化方針を破棄した。こうした労働党に新風を吹き込む改革で人気を高めていった<ref name="村岡(1991)439" /><ref name="小川(2005)254">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.254</ref>。


その結果、[[1997年]]5月の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党が254議席の大差つけ保守党に圧勝した<ref name="村岡(1991)439" />。保守党は165議席しか取れず、この数字は保守党の長い歴史の中でも[[アーサー・バルフォア]]党首時代の[[1906年]]以来の惨敗であった<ref name="小川(2005)255">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.255</ref>。これを受けてメージャー内閣はただちに総辞職した。サッチャー首相以来18年に及んだ保守党長期政権は終わりを告げ、代わってブレア労働党政権が発足することとなった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.440</ref>。
その結果、[[1997年]]5月の[[1997年イギリス総選挙|総選挙]]で労働党は結党以来最多となる418議席を獲得し歴史的な圧勝を果たした<ref name="村岡(1991)439" />。保守党は165議席しか取れず、この数字は保守党の長い歴史の中でも[[アーサー・バルフォア]]党首時代の[[1906年]]に次ぐ惨敗であった<ref name="小川(2005)255">[[#小川(2005)|小川(2005)]] p.255</ref>。これを受けてメージャー内閣はただちに総辞職した。18年に及んだ保守党政権は終わりを告げ、代わってブレア労働党政権が発足することとなった<ref>[[#村岡(1991)|村岡、木畑(1991)]] p.440</ref>。


=== その後 ===
=== その後 ===
[[File:John Major Chatham House Prize 2010.jpg|250px|thumb|[[2010年]][[11月9日]]、[[王立国際問題研究所]]で演説するサー・ジョン・メージャー。]]
[[File:John Major Chatham House Prize 2010.jpg|250px|thumb|[[王立国際問題研究所]]で演説するサー・ジョン・メージャー。([[2010年]][[11月9日]])]]
メージャー自身1997年に保守党党首を[[ウィリアム・ヘイグ]]に譲ったが、2001年の総選挙で引退するまで庶民院議員にとどまった。2002年には首相時代に女性議員{{仮リンク|エドウィナ・カリー|en|Edwina Currie}}と4年間に渡って不倫関係にあったことが判明。実直なイメージがあっただけに、このような話が退陣後に暴露されたことは、英国民やメディアを騒がせた<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/2286008.stm |title=Major and Currie had four-year affair |publisher=BBC News |language=英語|date=2002-09-28 |accessdate=2014-10-19}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,801852,00.html |title=The Major-Currie affair ? what the papers say |work=The Guardian|language=英語 |location=London |date= 2002-09-30|accessdate=2014-10-19}}</ref>。
メージャーは総選挙惨敗後、保守党党首を[[ウィリアム・ヘイグ]]に譲ったが、庶民院議員には2001年の総選挙で引退するまでとどまった。2002年には首相時代に同僚議員{{仮リンク|エドウィナ・カリー|en|Edwina Currie}}と4年間に渡って不倫関係にあったことが判明。真面目で清廉潔白なイメージがあっただけに、このような話が退陣後に暴露されたことはメディアや国民を騒がせた<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/2286008.stm |title=Major and Currie had four-year affair |publisher=BBC News |language=英語|date=2002-09-28 |accessdate=2014-10-19}}</ref><ref>{{cite news|url=http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,801852,00.html |title=The Major-Currie affair ? what the papers say |work=The Guardian|language=英語 |location=London |date= 2002-09-30|accessdate=2014-10-19}}</ref>。


[[2005年]][[4月23日]]に女王[[エリザベス2世]]より[[ガーター勲章|ガーター騎士団]]ナイト(KG)に叙せられ、「[[サー]]」の称号を得た。これは閣僚からの助言によるものではなく、女王の好意によりメージャーに贈られたものであった。これについてメージャーは「私はとても興奮し、嬉しく、光栄に思いました」と述べている<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4475235.stm |title=Former PM Major becomes Sir John |language=英語|publisher=BBC News |date=2005-04-22 |accessdate=2014-10-19}}</ref>。
[[2005年]][[4月23日]]に女王[[エリザベス2世]]より[[ガーター勲章|ガーター騎士団]]ナイト(KG)に叙せられ、「[[サー]]」の称号を得た。これは閣僚からの助言によるものではなく、女王の好意によりメージャーに贈られたものであった。これについてメージャーは「私はとても興奮し、嬉しく、光栄に思いました」と述べている<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4475235.stm |title=Former PM Major becomes Sir John |language=英語|publisher=BBC News |date=2005-04-22 |accessdate=2014-10-19}}</ref>。


一方、[[一代貴族]]については受けるつもりがいことを明言している<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/962335.stm |title=Major to turn down peerage |publisher=BBC News|language=英語 |date=2006-08-15 |accessdate=2014-10-19}}</ref>。
その一方、[[一代貴族]]については受けるつもりがいことを明言している<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/962335.stm |title=Major to turn down peerage |publisher=BBC News|language=英語 |date=2006-08-15 |accessdate=2014-10-19}}</ref>。


EU離脱をめぐる議論においてはEU残留派であり、EU離脱の是非を問う国民投票の再実施を主張している。2018年12月11日にはEU離脱手続きは当面停止する必要があると主張するとともに、EU離脱は英国の国際的な影響力の低下につながると警告した<ref>{{cite news|url=https://jp.reuters.com/article/brexit-uk-major-idJPKBN1OA22U|title=英、EU離脱通知を直ちに撤回する必要=メージャー元首相|publisher=ロイター|date=2018-12-12 |accessdate=2019-5-12}}</ref>。
[[EU離脱]]をめぐる議論においてはEU残留派であり、EU離脱の是非を問う国民投票の再実施を主張している。2018年12月にはEU離脱手続きの即時停止を訴えるとともに、EU離脱はイギリスの国際的な影響力の低下につながると主張した<ref>{{cite news|url=https://jp.reuters.com/article/brexit-uk-major-idJPKBN1OA22U|title=英、EU離脱通知を直ちに撤回する必要=メージャー元首相|publisher=ロイター|date=2018-12-12 |accessdate=2019-5-12}}</ref>。
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== 栄典 ==
== 栄典 ==
[[File:John Major in Garter procession.jpg|180px|thumb|[[2006年]][[6月19日]]、[[ガーター勲章#ガーターセレモニー|ガーター・セレモニー]]で{{仮リンク|聖ジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|label=聖ジョージ礼拝堂|en|St George's Chapel, Windsor Castle}}まで行進するガーター騎士団員サー・ジョン・メージャー。]]
[[File:John Major in Garter procession.jpg|180px|thumb|[[2006年]][[6月19日]]、[[ガーター勲章#ガーターセレモニー(叙任)|ガーター・セレモニー]]で[[聖ジョージ礼拝堂 (ウィンザー城)|聖ジョージ礼拝堂]]まで行進するガーター騎士団員サー・ジョン・メージャー。]]
*[[1987年]] - [[枢密院_(イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage" />
*[[1987年]] - [[枢密院_(イギリス)|枢密顧問官]](PC)<ref name="thepeerage" />
*[[1999年]] - {{仮リンク|コンパニオン・オブ・オナー勲章|en|Order of the Companions of Honour}}コンパニオン(CH)<ref name="thepeerage" /><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/12/98/new_year_honours/245096.stm |title=Major leads honours list for peace |publisher=BBC News |language=英語 |date=1998-12-31 |accessdate=2014-10-19}}</ref>
*[[1999年]] - [[コンパニオン・オブ・オナー勲章]]コンパニオン(CH)<ref name="thepeerage" /><ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/12/98/new_year_honours/245096.stm |title=Major leads honours list for peace |publisher=BBC News |language=英語 |date=1998-12-31 |accessdate=2014-10-19}}</ref>
*[[2005年]][[4月23日]] - [[ガーター勲章]]勲爵士(KG)<ref name="英王室">{{Cite web |url=http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Honours/OrderoftheGarter/MembersoftheOrderoftheGarter.aspx|title=Members of the Order of the Garter|author= [[イギリス王室]]|accessdate=2014-10-19|work= [http://www.royal.gov.uk/Home.aspx The official website of the British Monarchy]|language= 英語 }}</ref>
*[[2005年]][[4月23日]] - [[ガーター勲章]]勲爵士(KG)<ref name="英王室">{{Cite web |url=http://www.royal.gov.uk/MonarchUK/Honours/OrderoftheGarter/MembersoftheOrderoftheGarter.aspx|title=Members of the Order of the Garter|author= [[イギリス王室]]|accessdate=2014-10-19|work= [http://www.royal.gov.uk/Home.aspx The official website of the British Monarchy]|language= 英語 }}</ref>
*[[2012年]](平成24年)[[5月8日]] - [[旭日大綬章]]([[勲章_(日本)|日本勲章]])<ref>{{cite news|url=http://www.uk.emb-japan.go.jp/en/webmagazine/2012/aug/major.html|title=Japanese Government honours The Rt. Hon Sir John Major|publisher=在イギリス日本大使館|language=英語|accessdate=2014-10-19}}</ref>
*[[2012年]](平成24年)[[5月8日]] - [[旭日大綬章]]([[勲章_(日本)|日本勲章]])<ref>{{cite news|url=https://www.uk.emb-japan.go.jp/en/webmagazine/2012/aug/major.html|title=Japanese Government honours The Rt. Hon Sir John Major|publisher=在イギリス日本大使館|language=英語|accessdate=2014-10-19}}</ref>
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[小川晃一]]|date=2005年(平成17年)|title=サッチャー主義|publisher=[[木鐸社]]|isbn=978-4833223690|ref=小川(2005)}}
*{{Cite book|和書|author=小川晃一|authorlink=小川晃一|date=2005年(平成17年)|title=サッチャー主義|publisher=[[木鐸社]]|isbn=978-4833223690|ref=小川(2005)}}
*{{Cite book|和書|author=[[佐々木雄太]](編)、[[木畑洋一]](編)|date=2005年(平成17年)|title=イギリス外交史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641122536|ref=佐々木(2005)}}
*{{Cite book|和書|editor1-first=雄太|editor1-last=佐々木佐々木雄太|editor1-link=佐々木雄太|editor2-first=洋一|editor2-last=木畑|editor2-link=木畑洋一|date=2005年(平成17年)|title=イギリス外交史|publisher=[[有斐閣]]|isbn=978-4641122536|ref=佐々木(2005)}}
*{{Cite book|和書|author= |translator=|editor=[[村岡健次_(歴史学者)|村岡健次]]、[[木畑洋一]]編|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|author=|translator=|editor1-first=健次|editor1-last=村岡|editor1-link=村岡健次_(歴史学者)|editor2-first=洋一|editor2-last=木畑|editor2-link=木畑洋一|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史〈3〉近現代|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社]]|isbn=978-4634460300|ref=村岡(1991)}}
*{{Cite book|和書|date=2001年(平成13年)|title=世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000|editor=[[秦郁彦]]編|publisher=[[東京大学出版会]]|isbn=978-4130301220|ref=秦(2001)}}
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ジョン・メージャー
John Major
生年月日 (1943-03-29) 1943年3月29日(81歳)
出生地 イギリスの旗 イギリス
イングランドの旗 イングランド
サリー州カーショールトン英語版聖ヘラー病院英語版
出身校 ラトリッシュ・スクール英語版
所属政党 保守党
称号 ガーター勲章勲爵士(KG)
コンパニオン・オブ・オナー勲章コンパニオン(CH)
枢密顧問官(PC)
旭日大綬章
配偶者 ノーマ・ジョンソン英語版[1]
子女 2人
公式サイト The Rt Hon Sir John Major KG CH

在任期間 1990年11月28日 - 1997年5月2日[2]
国王 エリザベス2世

内閣 サッチャー内閣
在任期間 1989年7月24日 - 1989年10月26日[2]
国王
首相
エリザベス2世
マーガレット・サッチャー

イギリスの旗 イギリス
第65代財務大臣
内閣 サッチャー内閣
在任期間 1989年10月26日 - 1990年11月28日[3]
国王
首相
エリザベス2世
マーガレット・サッチャー

選挙区 ハンティンドンシャー選挙区英語版
ハンティンドン選挙区英語版
在任期間 1979年5月3日 - 1983年6月9日
1983年6月9日 - 2001年6月7日[4]
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ジョン・メージャー: John Major1943年3月29日 - )は、イギリス政治家

概要

[編集]

保守党に所属し、マーガレット・サッチャー内閣で財務大臣外務・英連邦大臣を務めた後、1990年のサッチャーの辞任で代わってイギリスの首相(在職1990年11月28日 - 1997年5月2日)に就任した。1992年総選挙に辛勝して長期政権の基盤を築き、6年半に渡って首相を務めた。

アメリカ合衆国との協調を維持しつつヨーロッパとの関係改善に努め、マーストリヒト条約の締結と欧州連合(EU)発足に大きな功績を果たした。

しかし中間色の政策が多かったため、「理念無き政治家」との批判が高まり、また相次ぐ政治家のスキャンダルなどで徐々に人気が下降し、1997年イギリス総選挙トニー・ブレア率いる労働党に大敗を喫して退陣に追い込まれた。

経歴

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生い立ち

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1943年3月29日イングランドサリー州カーショールトン英語版聖ヘラー病院英語版で誕生した[5]。父は俳優・庭園装飾物職人エイブラハム・トマス・ベル英語版、母はグウェンドリン・ミニー(旧姓コーツ)[6][1]である。

ランベス・ロンドン特別区ブリクストンで育つ。グラマー・スクールラトリッシュ・スクール英語版に入学したが[1]、16歳で学校を中退し大学には進学していない[5]

ビジネス経歴

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電力会社及び保険会社での勤務を経て、1965年にスタンダード・チャータード銀行に入社すると外国為替部門で頭角を現し、営業部長や会長秘書に昇進した。

政界に進出

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若い頃から保守党青年活動に参加しており、21歳の時にはランベス・ロンドン特別区議会英語版選挙で当選を果たした。同議会において彼は住宅供給委員会の議長を務めた[5]

2度の落選を経て、1979年ハンティンドンシャー選挙区英語版から保守党候補として立候補し、庶民院議員に初当選した[1][5]1983年に同選挙が廃止されると新設されたハンティンドン選挙区英語版から選出されるようになった[1]

サッチャー内閣の閣僚として

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1985年に行われたマーガレット・サッチャー内閣の改造の際、保健社会保障省関連の役職に就いた[7]。ついで1987年財務首席政務次官英語版として初入閣。閣内では予算削減継続の管理能力を高く評価された[5]

1989年7月、サッチャーと対立して解任されたジェフリー・ハウに代わり、外務・英連邦大臣に就任した[8]

ところが外務・英連邦大臣の就任から3カ月後の同年10月にナイジェル・ローソン財務大臣がサッチャーの経済問題アドバイザーであるアラン・ウォルターズと対立して辞職したため、代わって財務大臣に転任することになった[8]。サッチャーはメージャーを財務大臣に任命するに当たって「ナイジェルほど経済に精通していないが、少なくとも過去の政策の失敗に囚われて身動きできなくなるようなことはない。彼は、政策の失敗から引き起こされた結果にはるかに容易に対応できる」と彼のことを評価している[9]

メージャーが財務大臣になった頃の景気は極めて悪く、経常収支が大幅赤字でインフレが急速に進行し、金利が上昇していた。メージャーはサッチャーに欧州為替相場メカニズム(ERM)加盟を進言し、消極的だった彼女を説得して実現にこぎつけた[10]

首相として

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ボスニアサラエボを訪問したメージャー首相。和平履行部隊として派遣された連合緊急対応軍団司令官マイケル・ウォーカー英語版中将と共に。(1996年5月24日)

1990年秋に行われた保守党党首選挙において、サッチャーは204票を得たが当選には4票足りず、再び投票が行われることになった。党内の支持を広げられそうにないと判断したサッチャーは、第2回選挙への立候補を断念した。これを受けてメージャーは党首選への出馬を表明。第2回選挙にはメージャーの他、第1回選挙でサッチャーと対立したマイケル・ヘーゼルタイン元国防相、ダグラス・ハード外務・英連邦大臣が出馬したが、それぞれ185票・131票・56票という結果になった。メージャーも当選票には達していなかったが、ヘーゼルタインとハードがメージャーを支持して撤退したため、メージャーが保守党党首・首相に就任することが確定した[11][12]

1992年4月の庶民院選挙に事前の予想を覆す形で辛勝したことで長期政権の基盤を築き、1997年5月の総選挙で労働党に敗れるまで政権を担当することになった[13][14]

外交

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イギリスの外交観は親米か親欧かという2つの路線があるが、メージャーの前任の首相・サッチャーは前者であり、アメリカのレーガン大統領と親密な関係を築きつつ、欧州共同体(EC)に対しては強硬姿勢で臨んだ[15]。それに対して、メージャーは首相就任直後の演説で「欧州共同体(EC)の中のイギリスについての私の目的は、簡単に述べることができる。私は我が国が本来の位置に就くことを望んでいる。それはヨーロッパの中心部である。そこでパートナーたちとともに未来を築き上げていくのだ」と述べ、親欧路線への転換を示唆した[15]

一方、メージャーはアメリカ合衆国との関係を外交上の最優先事項とするイギリス外交の基本方針は維持すべきと考えており、「(アメリカかヨーロッパか)何故選ぶ必要があるのか。わが国の国益はアメリカ・ヨーロッパという2つの大きなブロックにほぼ均等に分かたれている中で何故こうした選択をわざわざしなければならないのか。私に言わせればそれは狂気の沙汰である」と論じて極端な二者択一を迫る者を批判した[15]

対ヨーロッパ外交
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メージャーはサッチャーよりはヨーロッパ寄りだが、それでもイギリスがヨーロッパに吸収されて消滅する恐れがある動きには抵抗した[16]

1991年12月にオランダマーストリヒトでEC理事会が開かれ、マーストリヒト条約が締結された。メージャーも基本的にその内容に賛成したものの、通貨条項(通貨の統一)と社会条項(社会政策の共通化)についてイギリスを対象外(Opt-out)とすることを明記するよう要求し、交渉の末にそれを条文に盛り込むことに成功した。またECの連邦化に繋がる表現を入れないことにも成功した[17][18]

マーストリヒト条約批准をめぐっては国内でも意見が分かれていたが(特に与党保守党内)、1992年5月の庶民院第2読会は、労働党棄権、自由党賛成で可決された。ところがこの直後にデンマーク議会においてマーストリヒト条約批准が否決され、また1992年9月に「ブラック・ウェンズデイ」事件[注釈 1]があったことで条約反対派が勢いを増し、その結果、デンマークでの国民投票の結果が出るまでイギリスも条約批准を延期することを余儀なくされた。しかし最終的には1993年5月18日のデンマーク国民投票でデンマークのマーストリヒト条約批准が決まったので、メージャーにとってもそれが追い風となり、同年5月30日に46人の保守党議員の造反に合いながらも何とかマーストリヒト条約の庶民院第三読会通過を達成することができた[21][注釈 2]

マーストリヒト条約は1993年11月に発効され、これに基づいてECは欧州連合(EU)に改組された[23]

しかしこの後も保守党内では欧州統合派と反対派の争いがくすぶり続けた。メージャーは通貨統合に参加しないことを求める党内反対派の動きを牽制しながらも、1995年マドリードでのEU首脳会議では通貨統合を急ぐべきではないとの見解を示した[24]

対アメリカ外交
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アメリカのキャンプ・デービッドで記者会見するイギリスのメージャー首相(左)とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領(右)。(1992年6月7日

アメリカとの関係では、サッチャー政権から引き続いて湾岸戦争に協力した[13]。湾岸戦争の戦友である共和党ジョージ・H・W・ブッシュ大統領とは親密な関係を保ったが、1992年アメリカ合衆国大統領選挙の際にメージャーが公然とブッシュを支持したことがきっかけとなり、1993年1月に民主党ビル・クリントンが大統領に就任すると英米間の齟齬が増えた[25]

ボスニア紛争をめぐってはクリントンが明確な反セルビアの立場を取ったのに対して、メージャーは対アメリカ協力を基本としながらも反セルビアの立場を明確にしようとしなかった[25]。またキューバに投資している会社に法的措置を求めるクリントンに対して、メージャーは協力しようとしなかった[25]北アイルランド問題をめぐっては、アイルランド人移民が多いアメリカは親アイルランド的態度をとってイギリスを苛立たせた[26]

このような対立を内在しつつも、前述の通りアメリカとの関係が重要事項であるというイギリス外交の基本方針は維持した。1993年1996年にクリントン政権が行ったイラク空爆についても、ほとんどの国が批判的に見ていた中、メージャーは明確にアメリカ支持を表明した[27]

内政

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サッチャーの構造改革を引き継ぎ、公共施設の建設や運営を民間に委ねる政策を打ち出した[12]。この政策に基づき1992年にプライベート・ファイナンス・イニシアティブ(PFI)と呼ばれる政策手法を実施した。現在ではこの政策方法は英国のみには留まらず、米国や日本といった世界の国々で構造改革の手法として実施されている。

他方サッチャー政権末期に制定されたが、「人頭税」との批判が高まっていたコミュニティ・チャージ英語版は就任早々に廃止した[28][29]

退陣

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メージャーは内政においても外交においても、あまりはっきりとした立場を取らない政治家であり、野党や与党内の反対派から「理念無き政治家」と看做されて人気を落としていった[13]

また1993年から1994年に相次いだ保守党内の金銭・性的スキャンダルで政権への信頼が失墜した。さらに1996年に一時停戦状態だったアイルランド共和軍(IRA)が反イギリステロを再開したことや、「狂牛病」問題が発生したことも政権支持率を一層低迷させた[13]

一方、最大野党・労働党は1994年7月に41歳のトニー・ブレアを党首に立てた。ブレアは党内の労働組合優位体質を改革して一党員一票制度を確立し、党規約も改正して国有化方針を破棄した。こうした労働党に新風を吹き込む改革で人気を高めていった[13][20]

その結果、1997年5月の総選挙で労働党は結党以来最多となる418議席を獲得して歴史的な圧勝を果たした[13]。保守党は165議席しか取れず、この数字は保守党の長い歴史の中でもアーサー・バルフォア党首時代の1906年に次ぐ惨敗であった[30]。これを受けてメージャー内閣はただちに総辞職した。18年に及んだ保守党政権は終わりを告げ、代わってブレア労働党政権が発足することとなった[31]

その後

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王立国際問題研究所で演説するサー・ジョン・メージャー。(2010年11月9日

メージャーは総選挙惨敗後、保守党党首をウィリアム・ヘイグに譲ったが、庶民院議員には2001年の総選挙で引退するまでとどまった。2002年には首相時代に同僚議員エドウィナ・カリー英語版と4年間に渡って不倫関係にあったことが判明。真面目で清廉潔白なイメージがあっただけに、このような話が退陣後に暴露されたことはメディアや国民を騒がせた[32][33]

2005年4月23日に女王のエリザベス2世よりガーター騎士団ナイト(KG)に叙せられ、「サー」の称号を得た。これは閣僚からの助言によるものではなく、女王の好意によりメージャーに贈られたものであった。これについてメージャーは「私はとても興奮し、嬉しく、光栄に思いました」と述べている[34]

その一方で、一代貴族については受けるつもりが無いことを明言している[35]

EU離脱をめぐる議論においてはEU残留派であり、EU離脱の是非を問う国民投票の再実施を主張している。2018年12月にはEU離脱手続きの即時停止を訴えるとともに、EU離脱はイギリスの国際的な影響力の低下につながると主張した[36]

逸話

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  • メージャーが党首選挙に出た際には、彼が当選するとはマスコミは考えず報道もほとんど行われなかった。ところが、ブックメーカーにおける党首選挙の勝者予想において彼が有力候補者とほぼ横並びの第3位の賭け率設定が行われ、世間を驚かせた。メージャーの当選後、ある人がブックメーカーの担当者になぜ、誰も注目していなかった彼に注目したのか尋ねた。すると、担当者は「金が懸っていれば、他人より真剣に考えるものさ」と答えたと言う[37]

栄典

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2006年6月19日ガーター・セレモニー聖ジョージ礼拝堂まで行進するガーター騎士団員サー・ジョン・メージャー。

脚注

[編集]

注釈

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  1. ^ 投機筋のポンドへの攻勢が強まり、イギリス政府はERMの束縛のために利子率の引き上げを行うも効果がなかったため、同年9月16日にERMからポンドを脱退させた事件[19][20]
  2. ^ しかし僅差での通過であり、この直後に政府が出したマーストリヒト条約の社会条項のオプトアウトを確認する動議は8票差で否決されている。また労働党が提出した社会条項オプトアウトを無効とする修正動議は賛否同数で庶民院議長裁定によってかろうじて否決されるという事態となった。そのためメージャーは議会での求心力を回復すべく、自らへの信任投票を実施して信任を得ている(保守党造反組は解散総選挙になって保守党が敗れることを恐れていたため、メージャーに信任票を投じた)[22]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g Lundy, Darryl. “Rt. Hon. Sir John Major” (英語). thepeerage.com. 2014年10月19日閲覧。
  2. ^ a b 秦(2001) p.515
  3. ^ 秦(2001) p.516
  4. ^ UK Parliament. “Mr John Major” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年10月19日閲覧。
  5. ^ a b c d e Past Prime Ministers Sir John Major” (英語). Welcome to GOV.UK. イギリス政府. 2014年10月19日閲覧。
  6. ^ Ex Prime Minister Sir John Major and his Sewell Ancestors”. The Sole Society. Sole.org.uk. 2014年10月19日閲覧。
  7. ^ 小川(2005) p.114
  8. ^ a b 小川(2005) p.250
  9. ^ 小川(2005) p.251
  10. ^ 小川(2005) p.251-252
  11. ^ 小川(2005) p.253
  12. ^ a b 村岡、木畑(1991) p.438
  13. ^ a b c d e f 村岡、木畑(1991) p.439
  14. ^ 佐々木、木畑(2005) p.240/249
  15. ^ a b c 佐々木、木畑(2005) p.238
  16. ^ 小川(2005) p.271-272
  17. ^ 佐々木、木畑(2005) p.239-240
  18. ^ 小川(2005) p.253-254
  19. ^ 佐々木、木畑(2005) p.240
  20. ^ a b 小川(2005) p.254
  21. ^ 佐々木、木畑(2005) p.240-241
  22. ^ 佐々木、木畑(2005) p.241
  23. ^ 佐々木、木畑(2005) p.241-242
  24. ^ 佐々木、木畑(2005) p.242
  25. ^ a b c 佐々木、木畑(2005) p.246
  26. ^ 佐々木、木畑(2005) p.246-247
  27. ^ 佐々木、木畑(2005) p.247
  28. ^ 村岡、木畑(1991) p.437/439
  29. ^ 小川(2005) p.232
  30. ^ 小川(2005) p.255
  31. ^ 村岡、木畑(1991) p.440
  32. ^ “Major and Currie had four-year affair” (英語). BBC News. (2002年9月28日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/2286008.stm 2014年10月19日閲覧。 
  33. ^ “The Major-Currie affair ? what the papers say” (英語). The Guardian (London). (2002年9月30日). http://www.guardian.co.uk/uk_news/story/0,,801852,00.html 2014年10月19日閲覧。 
  34. ^ “Former PM Major becomes Sir John” (英語). BBC News. (2005年4月22日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4475235.stm 2014年10月19日閲覧。 
  35. ^ “Major to turn down peerage” (英語). BBC News. (2006年8月15日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk_politics/962335.stm 2014年10月19日閲覧。 
  36. ^ “英、EU離脱通知を直ちに撤回する必要=メージャー元首相”. ロイター. (2018年12月12日). https://jp.reuters.com/article/brexit-uk-major-idJPKBN1OA22U 2019年5月12日閲覧。 
  37. ^ 本村凌二「ギャンブル」(『歴史学事典 2 からだとくらし』(弘文堂、1994年) ISBN 978-4-335-21032-7
  38. ^ “Major leads honours list for peace” (英語). BBC News. (1998年12月31日). http://news.bbc.co.uk/1/hi/special_report/1998/12/98/new_year_honours/245096.stm 2014年10月19日閲覧。 
  39. ^ イギリス王室. “Members of the Order of the Garter” (英語). The official website of the British Monarchy. 2014年10月19日閲覧。
  40. ^ “Japanese Government honours The Rt. Hon Sir John Major” (英語). 在イギリス日本大使館. https://www.uk.emb-japan.go.jp/en/webmagazine/2012/aug/major.html 2014年10月19日閲覧。 

参考文献

[編集]
  • 小川晃一『サッチャー主義』木鐸社、2005年(平成17年)。ISBN 978-4833223690 
  • 佐々木佐々木雄太, 雄太木畑, 洋一 編『イギリス外交史』有斐閣、2005年(平成17年)。ISBN 978-4641122536 
  • 村岡, 健次木畑, 洋一 編『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年(平成3年)。ISBN 978-4634460300 
  • 秦郁彦 編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年(平成13年)。ISBN 978-4130301220 

外部リンク

[編集]
公職
先代
ジョン・マクレガー英語版
イギリスの旗 財務首席政務次官英語版
1987年 - 1989年
次代
ノーマン・ラモント
先代
ジェフリー・ハウ
イギリスの旗 外務・英連邦大臣
第9代:1989年7月24日 - 1989年10月26日
次代
ダグラス・ハード
先代
ナイジェル・ローソン
イギリスの旗 財務大臣
第65代:1989年10月26日 - 1990年11月28日
次代
ノーマン・ラモント
先代
マーガレット・サッチャー
イギリスの旗 首相
第72代:1990年11月28日 - 1997年5月2日
次代
トニー・ブレア
先代
トニー・ブレア
イギリスの旗 影の首相
1997年
次代
ウィリアム・ヘイグ
先代
ロビン・クック
イギリスの旗 影の外務大臣
1997年
次代
マイケル・ハワード
議会
先代
デイヴィッド・レントン英語版
ハンティンドンシャー選挙区英語版選出庶民院議員
1979年 - 1983年
次代
選挙区廃止
先代
新設
ハンティンドン選挙区英語版選出庶民院議員
1983年 - 2001年
次代
ジョナサン・ジャンゴリー英語版
党職
先代
マーガレット・サッチャー
保守党党首
第16代:1990年11月27日 - 1997年6月19日
次代
ウィリアム・ヘイグ
外交職
先代
ジョージ・H・W・ブッシュ
G7議長
1991年
次代
ヘルムート・コール