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「ギヨーム・アポリネール」の版間の差分

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{{Infobox 作家
[[File:Guillaume Apollinaire, 1902, Cologne.jpg|thumb|200px|ギヨーム・アポリネール]]
| name = ギヨーム・アポリネール<br>Guillaume Apollinaire
'''ギヨーム・アポリネール'''('''Guillaume Apollinaire''', [[1880年]][[8月26日]] - [[1918年]][[11月9日]]<ref>{{Cite web |url = https://kotobank.jp/word/アポリネール-27064 |title = ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説 |publisher = コトバンク |accessdate = 2018-06-06 }}</ref>)は、[[イタリア]]出身の[[ポーランド]]人の[[詩人]]、[[小説家]]、美術批評家。本名ヴィルヘルム・アポリナリス・ドゥ・コストロヴィツキ(Wilhelm (Albert Vladimir) Apollinaris de Kostrowitzky, {{lang-pl|Wilhelm Albert Włodzimierz Apollinaris de [[:en:Wąż coat of arms|Wąż]]-Kostrowicki}}<ref>[[:pl:Kategoria:Wężowie]], [[:pl:Kostrowiec]]</ref>)。
| image = Guillaume Apollinaire foto.jpg
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| caption = 第一次大戦で負傷したギヨーム・アポリネール(1916年)
| pseudonym =
| birth_name = Guglielmo Alberto Wladimiro Alessandro Apollinare de Kostrowitzky
| birth_date = {{生年月日と年齢|1880|08|26|no}}
| birth_place = {{ITA1861}}、[[ローマ]]
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1880|08|26|1918|11|09}}
| death_place = {{FRA}}、[[パリ]]
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| occupation = [[詩人]]、[[小説家]]、美術・文芸評論家
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| ethnicity =
| genre = [[詩]]、[[小説]]、[[演劇]]、美術評論、[[文芸評論]]、[[ジャーナリズム]]
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| movement = [[象徴主義]]、[[キュビスム]]、[[オルフィスム]]、[[シュルレアリスム]]
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| notable_works = 『アルコール』<br>『動物詩集』<br>『腐ってゆく魔術師』<br>『虐殺された詩人』<br>『異端教祖株式会社』<br>『若きドン・ジュアンの冒険』<br>『キュビスムの画家たち(美の省察)』<br>『カリグラム』
| influences = [[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]]、[[シャルル・ペロー]]、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]、[[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ|ラ・フォンテーヌ]]、[[ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン]]、[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、{{仮リンク|セバスティアン・フォール|fr|Sébastien Faure|label=}}、[[マルキ・ド・サド]]、[[エミール・ゾラ]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]、[[ステファヌ・マラルメ]]
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|module={{Listen|embed=yes|filename=Le pont Mirabeau Apollinaire.ogg|title=ギヨーム・アポリネールの肉声|type=speech|description= アポリネール自身の朗読による「[[ミラボー橋 (詩)|ミラボー橋]]」(1913年) |date= }}}}
'''ギヨーム・アポリネール'''(Guillaume Apollinaire、[[1880年]][[8月26日]] - [[1918年]][[11月9日]])は、[[フランス]]の[[詩人]]、[[小説家]]、[[美術評論家|美術]]・[[文芸評論]]家。代表作に「[[ミラボー橋 (詩)|ミラボー橋]]」を含む自由律の詩集『{{ill2|アルコール (詩)|en|Alcools|label =アルコール}}』、[[パブロ・ピカソ|ピカソ]]、[[ジョルジュ・ブラック|ブラック]]、[[マリー・ローランサン|ローランサン]]らの「新しい画家たち」を絶賛した評論『{{ill2|キュビスムの画家たち|en|The Cubist Painters, Aesthetic Meditations}}』、[[シュルレアリスム]]の[[演劇]]『ティレジアスの乳房』([[フランシス・プーランク]]の[[オペラ]]の原作)と小説『虐殺された詩人』、{{仮リンク|ジャンフランコ・ミンゴッツィ|fr|Gianfranco Mingozzi}}監督によって映画化された[[性愛文学|性愛小説]]『[[若きドン・ジュアンの冒険]]』などがある。処女詩集『動物詩集』の副題にある「オルフェ」から[[オルフィスム]]の概念が生まれたほか、シュルレアリスム、[[カリグラム]]もアポリネールの造語である。


== 生涯 ==
[[印象派]]批判主義「[[キュビスム]]」の先導者の1人。主な作品に「[[ミラボー橋 (詩)|ミラボー橋]]」がある。
=== 背景 ===
ギヨーム・アポリネールは1880年8月26日、グリエルモ・アルベルト・ヴラディミロ・アレッサンドロ・アポリナーレ・デ・コストロヴィツキ(Guglielmo Alberto Wladimiro Alessandro Apollinare de Kostrowitzky)<ref name=":0">{{Cite web|title=Guillaume Apollinaire site officiel: Biographie: Chronologie|url=http://www.wiu.edu/Apollinaire/Biographie.htm|website=www.wiu.edu|accessdate=2019-12-21|publisher=Western Illinois University|language=fr|author=Catherine Moore, Laurence Campa, Mark Moore}}</ref> として[[ローマ]]([[イタリア王国]])に生まれた。フランスに[[帰化]]した後の本名はヴィルヘルム・アポリナリス・ドゥ・コストロヴィツキ(Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky)である<ref>{{Cite web|title=Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky dit Guillaume Apollinaire|url=https://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Wilhelm_Apollinaris_de_Kostrowitzky_dit_Guillaume_Apollinaire/105814|website=www.larousse.fr|accessdate=2019-12-21|language=fr|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref><ref>[[堀田郷弘]]は本名をWilhelm-Albert-Vladimir-Alexandre Apollinaris de Kostrowitzkyとし(「[http://libir.josai.ac.jp/il/meta_pub/G0000284repository_JOS-KJ00000110798 アポリネールの恋の詩と真実]」)、[[窪田般彌]]は「ギヨーム・アルベール・ウラジミール・アレクサンドル・アポリネール・コストロウィツキー」と表記している(「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%AB-27064 アポリネール]」)。</ref>。母アンジェリック(またはアンジェリカ)・ドゥ・コストロヴィツキ(出生名:アンジェリック=アレクサンドリーヌ・コストロヴィッカ)は、[[ロシア帝国]]下の[[リトアニア]]出身で[[イタリア]]に亡命した[[ポーランド]][[貴族]]([[シュラフタ]])の娘であった<ref name=":3">{{Cite journal|和書|author=堀田郷弘|month=2|year=1987|title=アポリネールの恋の詩と真実|url=http://libir.josai.ac.jp/il/meta_pub/G0000284repository_JOS-KJ00000110798|journal=城西人文研究|volume=14|page=|pages=252-221|publisher=[[城西大学]]経済学会}}</ref><ref name=":1">{{Cite web|和書|title=アポリネール|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%AB-27064|website=コトバンク|accessdate=2019-12-21|language=ja|publisher=|author=窪田般彌|work=小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』}}</ref>。父は不明だが、[[シチリア王国]]の退役将校フランチェスコ(・コンスタンチーノ・カミロ)・フルジー・ダスペルモンと推定される<ref name=":1" /><ref name=":2">{{Cite book|title=Apollinaire: 1880-1918|date=|year=1997|publisher=Jean-Claude Lattès|author=André Parinaud|language=fr|chapter=Chapitre I - Fils de son père}}</ref>。1882年に弟アルベール(アルベルト・エウジェーニオ・ジョヴァンニ)が生まれた。同じく父親不明であり、母に認知されたのは1888年である<ref name=":2" />。


1887年に母方の祖父ミシェルが死去すると一時[[ボローニャ]]へ移り住み、1888年に[[モナコ]]に定住した<ref name=":0" /><ref name=":2" />。ギヨームはモナコのコレージュ・サン=シャルル(1896年閉校)、次いで[[カンヌ]]のコレージュ・スタニスラスに通い、[[ニース]]の[[リセ]]に入学した。優秀な学生で、[[フランス語]]と[[算数]]の一等賞のほか、名誉二等賞、優秀二等賞などを受けた<ref name=":2" />。同窓生に後に活動を共にする{{仮リンク|ルネ・ダリーズ|fr|René Dalize|label=}}、アポリネールに関する[[回想録]]を著したアンジュ・トゥーサン=リュカ<ref>{{Cite web|title=Ange Toussaint-Luca (1879-1932)|url=https://data.bnf.fr/fr/13008932/ange_toussaint-luca/|website=data.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref> がいる。トゥーサン=リュカとは学生時代に[[同人誌]]を刊行し、ギヨーム・マカーブル(「マカーブル」は「死」の意)の筆名で詩を発表した。1894年に[[ドレフュス事件]]が起こると、ドレフュス支持を明言した<ref name=":0" />。
"[[シュルレアリスム]]"という語は彼の作品から生まれた。


== 生涯 ==
=== 読書三昧 ===
1897年、[[バカロレア (フランス)|バカロレア]]の[[筆記]]試験には合格したが、[[口頭]]試験で失敗。モナコの母のもとに帰った。[[図書館]]に通って専門書、[[医学]]雑誌、[[言語学]]、[[中世文学]]、[[文法]]書、[[紀行]]など様々な分野の書物を読んだ。文学では[[シャルル・ペロー]]、[[ジャン・ラシーヌ|ラシーヌ]]、[[ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ|ラ・フォンテーヌ]]から[[ジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモン]]、[[オノレ・ド・バルザック|バルザック]]、さらには[[無政府主義]]への関心から{{仮リンク|セバスティアン・フォール|fr|Sébastien Faure|label=}}、社会的な関心から[[エミール・ゾラ]]、[[レフ・トルストイ|トルストイ]]などを読み耽り、特に[[ステファヌ・マラルメ|マラルメ]]から大きな影響を受けた。また、トゥーサン=リュカ宛の手紙には、[[ジョヴァンニ・ボッカッチョ]]の『[[デカメロン]]』の[[翻訳]]を試みていると書いている<ref name=":2" />。
[[ローマ]]にて出生。母は[[ナヴァフルダク]]近郊出身の[[シュラフタ]](szlachta: ポーランドの貴族)。父の素性は不明であるが、アポリネールの幼少期に姿を消したスイス系イタリア人貴族、フランチェスコ・フルージ(Francesco Flugi d'Aspermont)であるとみられる。


母アンジェリックが1897年に11歳年下のジュール・ヴェイユと結婚し、1899年、アポリネール19歳のときにモナコを去って[[エクス=レ=バン]]([[オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏]]、[[サヴォワ県]])、次いで[[リヨン]]に移り住み、最後に[[パリ]]に居を定めた。アポリネールは相変わらず図書館(特に[[マザラン図書館]])に通い、セーヌ河畔の{{仮リンク|ブキニスト|fr|Bouquinistes de Paris|label=}}巡りをして読書に没頭した<ref name=":0" />。
19歳のとき、[[パリ]]に赴く。市内の[[モンパルナス]]には[[パブロ・ピカソ]]、[[マルク・シャガール]]、[[マルセル・デュシャン]]ら錚々たる芸術家が集ったが、中でも彼は、特に人気のある部類に属していた。1911年、キュビズムを奉ずる一派「[[ピュトー・グループ]]」に参加。同年9月7日、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の名画『[[モナ・リザ]]』盗難事件の犯人として逮捕されるが、1週間で釈放された<ref>{{Cite book|和書 |author = [[布施英利]] |year = 2015 |title = パリの美術館で美を学ぶ ルーブルから南仏まで |publisher = [[光文社]] |page = 244 |isbn = 978-4-334-03837-3}}</ref>(『モナ・リザ』は2年後の1913年12月に発見された)。


=== スタヴロ事件 ===
[[Image:Guillaume Apollinaire Calligramme.JPG|thumb|200px|『カリグラム』]]
1899年の夏に一家は[[ベルギー]]の[[スパ (ベルギー)|スパ]]に滞在したが、母が賭け事の借金で姿をくらまし、弟アルベールと二人、{{仮リンク|スタヴロ|fr|Stavelot|label=}}の宿に置き去りにされた。このときに、アポリネールの詩に「マレイ」という名前で登場するカフェの娘マリア・デュボワに出会ったこと、[[ワロン語|ワロン方言]]に親しんだこと、そして弟と一緒に[[アルデンヌ]]地方を散策したことは実り豊かな体験となり、後に『スタヴロ詩篇』で語られることになる。だが、まもなく持参金が尽きて母に手紙を書き送ったが、母から送られたのはパリへ帰るための現金だけであったため、兄弟は宿代を払わずに夜逃げをし、森を抜けて次の駅からパリ行きの汽車に乗った<ref name=":0" /><ref name=":3" />。このときアポリネールが滞在した宿は彼の詩に因んで「愛されない男(恋を失った男)」と名付けられている<ref>{{Cite web|和書|title=ワロン地方:スタヴロ|url=http://www.belgium-travel.jp/destination/sites/wallon/stavelot.htm|website=www.belgium-travel.jp|accessdate=2019-12-21|publisher=ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル|language=ja |archiveurl= https://web.archive.org/web/20031219082917/http://www.belgium-travel.jp/destination/sites/wallon/stavelot.htm |archivedate=2003-12-19 |url-status=dead|url-status-date=2022-01-10 }}</ref>。
[[Image:Apollinaire Rouveyre 1914.webm|thumb|200px|Apollinaire (left) and André Rouveyre,(1914年撮影。]]詩人としては、詩集『腐ってゆく魔術師』(''L'enchanteur pourrissant'', 1909年)や『アルコール』(''Alcools'', 1913年)で、名声を確立した。これらは[[象徴主義]]の影響を受けている。また、随筆『キュビストの画家たち』(''Les Peintres cubistes'', 1913年)は、多くの前衛画家の存在と価値とを世に知らしめた。死の直後に公刊された『カリグラム』(''Calligrammes'', 1918年)では、文字で絵を描くという斬新な手法で高い評価を得た。


=== 窮乏の生活 ===
『アルコール』は、句読点を一切用いない独特の文体で知られる。また、同書に収められた『ミラボー橋』(''Le pont Mirabeau'')は、画家[[マリー・ローランサン]]との恋とその終焉を綴り、[[シャンソン]]の曲として歌われるようになった。
パリでの生活は窮乏を極めた。1900年2月19日から4月24日までH・デスナールの筆名で『{{仮リンク|ル・マタン|fr|Le Matin (France)|label=}}』紙に小説『何をすべきか』を連載。これは弁護士アンリ・エスナールの[[ゴーストライター]]として、小説家ウジェーヌ・ガイエ<ref>{{Cite web|title=Eugène Gaillet (1845-1910)|url=https://data.bnf.fr/fr/12865014/eugene_gaillet/|website=data.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref> と共同で執筆したものであり、19世紀末に起こった殺人事件を織り込んだ[[推理小説]]風または[[空想科学小説]]風の作品である。通俗的[[新聞小説]]だが、その型破りな作風にはすでに後の『異端教祖株式会社』の萌芽が伺われる<ref>{{Cite web|title=Guillaume Apollinaire, Henry Desnar et Eugène Gaillet, Que faire?, roman-feuilleton du Matin|url=https://www.fabula.org/actualites/guillaume-apollinaire-henry-desnar-et-eugene-gaillet-que-faire-roman-feuilleton-du-matin_52692.php|website=fabula.org|accessdate=2019-12-21|language=fr-FR|first=|last=|publisher=Fabula|author=Mélodie Simard-Houde}}</ref><ref>{{Cite web|title=Sommaire : Que faire ? Roman-feuilleton de G. Apollinaire, H. Desnar et E. Gaillet paru dans Le Matin en 1900|url=http://www.medias19.org/index.php?id=5089|website=medias19.org|accessdate=2019-12-21|language=fr|publisher=}}</ref>。だが、原稿料が支払われなかったため、次に、ガイエが主宰する[[モンマルトル]]の[[風刺]]週刊新聞『タバラン』([[魔術師 (タロット)|魔術師]]、奇術師、縁日芝居の俳優{{仮リンク|タバラン|fr|Tabarin|label=}}(1584-1626)に因む紙名)に寄稿した。しかし、ガイエもまた広告掲載料でかろうじて印刷・製本代をまかなっていたため、原稿料はほとんど支払われなかった<ref name=":4">{{Cite book|title=Apollinaire en son temps|date=1995-04-12|year=|publisher=Presses Sorbonne Nouvelle|author=Jacqueline Gojard|editor=Michel Décaudin|chapter=Sources et ressources de Guillaume Apollinaire et de quelques-uns de ses contemporains|pages=11-36}}</ref>。
{{wikisource|fr:Le Pont Mirabeau|『ミラボー橋』}}


この頃、アポリネールは[[ポルトガル系ユダヤ人]]の友人フェルディナン・モリナの妹ランダ・モリナ・ダ・シルヴァと出会い、毎日のように「ランダへの愛の誓いのことば」、綴り字LINDAを行頭に読みこんだ五行詩などなどの熱烈な愛の詩を書き送った。これらの書簡詩は後に「ランダ詩篇」としてまとめられることになる。とはいえ、ランダはアポリネールの愛に応えることはなく、結婚の申し込みもあっさり拒絶した<ref name=":3" /><ref>{{Cite web|title=Apollinaire expert dans « La Grâce et le maintien français »|url=https://www.lessoireesdeparis.com/2018/03/01/apollinaire-expert-dans-la-grace-et-le-maintien-francais/|accessdate=2019-12-21|language=fr-FR|publisher=Les Soirées de Paris}}</ref>。
小説の分野では、[[同性愛]]や[[サディズム]]、殺人に関する描写をふんだんに盛り込んだ『一万一千本の鞭』(''Les Onze Mille Verges'', 1907年)を上梓。しかし直ちに[[発禁]]処分を受け、以後フランスでは1970年まで公刊されなかった。


相変わらず窮乏を強いられていたアポリネールは、新聞の求人欄で見つけた株式取引所の書記に採用されたが、給料の不払いが続いて失職<ref name=":4" />。生活費を得るために好色本専門の書店からの依頼で性愛小説『ミルリーまたは安価な小さい穴』を偽名で書き上げたが、刊行されなかった。原稿が現存しないため、事情は不明である<ref>{{Cite web|title="Les Onze Mille Verges" d'Apollinaire, pire que Sade ?|url=https://www.franceculture.fr/litterature/les-onze-milles-verges-dapollinaire-pire-que-sade|website=France Culture|date=2018-11-09|accessdate=2019-12-21|language=fr}}</ref>。取引所の同僚の母親の紹介で、[[ドイツ系]][[ノルマンディー]]貴族ミロー子爵夫人の娘ガブリエルのフランス語の[[家庭教師]]の職を得、ミロー家に同行してライン河畔のノイ・グリュック、そしてホンネフの別荘に滞在した。このとき、モナコのコレージュの同窓生であったジャン・セーヴの紹介で文芸誌『ラ・グランド・フランス』に寄稿。ヴィルヘルム・コストロヴィツキの筆名で3篇の詩『月のもの』、『婚礼』、『都会と心』を発表した<ref name=":3" /><ref name=":5">{{Cite journal|author=Lugan Mikaël|month=|year=2016/1|title=''Le Festin d’Ésope'' Première revue / première œuvre de Guillaume Apollinaire|url=https://www.cairn.info/revue-la-revue-des-revues-2016-1-page-6.htm|journal=La Revue des revues|volume=|issue=55|page=|pages=6-15|language=fr}}</ref>。
匿名で出版した『[[若きドン・ジュアンの冒険]]』(''Les exploits d'un jeune Don Juan'')では、姉や叔母、妊娠中の女など、様々な女性と関係する主人公ロジェの奔放な性生活を綴り、ベストセラーとなった。同書は1987年に映画化されている。また、短編集『異端教祖株式会社』(''L'hérésiaque Et Cie'')では、[[語呂合わせ]]の技法を縦横に駆使した幻想的な世界を展開した。
[[ファイル:Guillaume Apollinaire, 1902, Cologne.jpg|サムネイル|219x219ピクセル|アポリネール(1902年、ケルンにて)]]
さらに、同じくガブリエルの英語の家庭教師となった英国人女性アンニー・プレイデンに出会い、再び熱烈な手紙を書き送った。翌1902年にミロー家がライン地方の領地に引き上げることになったときにも、アンニーとともに一家に同行し、[[ケルン]]、[[ハノーファー]]、[[ベルリン]]、[[ドレスデン]]、[[ミュンヘン]]などドイツ各地を旅し、一人で[[プラハ]]や[[ウィーン]]も訪れた。このときに[[ルーカス・クラナッハ]]、[[ハンス・ホルバイン]]ら[[ルネサンス]]期のドイツの[[画家]]はもちろん、[[アルフレッド・シスレー]]、[[カミーユ・ピサロ]]らの[[印象派]]の画家、[[彫刻家]][[オーギュスト・ロダン]]の作品に出会ったことは、かれが芸術評論を書くきっかけとなっている<ref name=":6">{{Cite web|title=Guillaume Apollinaire et ses peintres|url=https://www.monde-diplomatique.fr/2014/12/CAMPA/51021|website=Le Monde diplomatique|date=2014-12-01|accessdate=2019-12-21|language=fr|publisher=|author=Laurence Campa}}</ref>。一方、アンニーもまたアポリネールの愛を拒み、1903年に英国に帰国。アポリネールは追いかけて渡英し、結婚を申し込んだが、今回もまた断られた。こうした経験から生まれたのが後に詩集『アルコール』に収められる「恋を失った男の歌」(あるいは「愛されない男の歌」)である。ただし、ランダ、アンニー、そしてこの後に出会うマリー・ローランサンほかの女性たちが愛の詩に歌われるときに、「愛の女神、詩の女神、芸術の女神として愛する」女性として描かれるのと同様に<ref name=":3" />、「恋を失った男の歌」でもアポリネール独自の神話化作用が働いている<ref>{{Cite journal|和書|author=森田郁子|year=|date=1982-01-25|title=アポリネール『婚約』の分析|url=https://doi.org/10.14989/137651|journal=仏文研究|volume=11|page=|pages=294-309|publisher=[[京都大学]]フランス語学フランス文学研究室}}</ref>。


=== 前衛芸術・文学活動 ===
批評家としては、[[マルキ・ド・サド]]の自由主義的思想を激賞し、モーリス・エーヌ(Maurice Heine)と共に、サドの再評価とサド文学の復興に尽力した。また[[ジョルジョ・デ・キリコ]]を絶賛し、評論『キュビスムの画家たち』を発表して[[パブロ・ピカソ]]をはじめとする[[キュビスム]]の画風の革新性を論じるなど、[[20世紀]]の新たな芸術の評価の確立に大きな役割を果たした。


==== 『イソップの饗宴』誌創刊 ====
[[第一次世界大戦]]に従軍するが、[[1916年]]に負傷。翌[[1917年]]、[[戯曲]]『ティレシアスの乳房』(''Les Mamelles de Tirésias'')が上演された。
1902年の秋頃から、芸術・文学雑誌『ユーロペーアン(欧州人)』や『{{仮リンク|ラ・ルヴュ・ブランシュ|fr|La Revue blanche|label=}}』に寄稿し始めた。特に「白い(白紙の)評論」を意味する『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌は、1889年に[[リエージュ]](ベルギー)で創刊され、1891年10月にパリに拠点を移してからは無政府主義的傾向の[[前衛芸術]]・音楽・文学雑誌として知られ、[[アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック|ロートレック]]や[[ピエール・ボナール]]の表紙画によって好評を博していた。1903年には早くも終刊になったが、ステファヌ・マラルメ、[[アンドレ・ジッド]]、[[シャルル・ペギー]]、[[マルセル・プルースト]]、[[アルフレッド・ジャリ]]、[[ポール・クローデル]]、[[ポール・ヴェルレーヌ]]、[[クロード・ドビュッシー]]らが寄稿しており<ref>{{Cite journal|last=Caron|first=Jean-Claude|date=2011-11-13|title=La Revue blanche. 1871, enquête sur la Commune, introduction et notes de Jean Baronnet, Paris, Les Éditions de l’Amateur, 2011, 205 p. {{ISBN2|978-2-85917-514-6}}. 17 euros.|url=http://journals.openedition.org/rh19/4185|journal=Revue d'histoire du XIXe siècle. Société d'histoire de la révolution de 1848 et des révolutions du XIXe siècle|issue=43|pages=169|language=fr|issn=1265-1354}}</ref><ref>{{Cite web|title=La Revue blanche (Paris. 1891) - 13 années disponibles - Gallica|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb344304470/date|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Gallica - Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref><ref>{{Cite news|title="La Revue blanche" : tout l'esprit d'une époque|url=https://www.lemonde.fr/livres/article/2007/12/06/la-revue-blanche-tout-l-esprit-d-une-epoque_986376_3260.html|date=2007-12-06|accessdate=2019-12-21|language=fr|newspaper=Le Monde|author=Claire Paulhan}}</ref>、アポリネールは同誌の1902年5月号に初めて芸術評論を掲載した。ベルリンの[[ペルガモン博物館]]内に復元・展示されている[[ゼウス]]の大祭壇に関する記事である<ref name=":6" />。


1903年4月18日、現在のパリ5区の{{仮リンク|サン=ミシェル広場|fr|Place Saint-Michel (Paris)|label=}}にあったカフェ「{{仮リンク|カヴォー・デュ・ソレイユ・ドール|fr|Caveau du Soleil d'or|label=}}(キャバレー黄金の太陽)」の地下で、1889年4月に{{仮リンク|レオン・デシャン|fr|Léon Deschamps|label=}}によって創刊された芸術・文学雑誌『{{仮リンク|ラ・プリュム|fr|La Plume|label=}}(筆)』の夜会が行われた。ピアノ伴奏による詩の朗読会で、アポリネールはここでアルフレッド・ジャリ、そして兵役を終えたばかりの{{仮リンク|アンドレ・サルモン|fr|André Salmon|label=}}らと出会った<ref name=":5" /><ref name=":7">{{Cite book|title=Apollinaire: 1880-1918|date=|year=1997|publisher=Jean-Claude Lattès|chapter=Chapitre III - Le Festin d’Ésope, Dieu, le diable et les anges|author=André Parinaud|language=fr}}</ref><ref name=":8">{{Cite journal|和書|author=伊勢晃|year=|date=2008-12-25|title=アポリネールと文学批評(1) ― 雑誌 ''Le Festin d'Esope'' を中心に|url=https://hdl.handle.net/10236/10346|journal=年報・フランス研究|volume=|issue=42|page=|pages=1-11|publisher=[[関西学院大学]]文学部・文学研究科|issn=09109757}}</ref>。この出会いを機に、アポリネールは文学雑誌『イソップの饗宴』を創刊。ジャリ、サルモンのほか、トゥーサン=リュカ、{{仮リンク|ジョン=アントワーヌ・ノー|fr|John-Antoine Nau|label=}}、{{仮リンク|ジャン・ド・グールモン|fr|Jean de Gourmont (écrivain)|label=}}、{{仮リンク|ジャン・ロワイエール|fr|Jean Royère (écrivain)|label=}}らが参加した<ref name=":9">{{Cite web|title=Le Festin d’Ésope (1903-1904)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?pg=898|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2019-12-21|publisher=|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Le Festin d’Ésope. Première revue / première œuvre de Guillaume Apollinaire|url=https://www.entrevues.org/rdr-extrait/festin-desope-premiere-revue-premiere-oeuvre-de-guillaume-apollinaire/|website=Ent’revues|accessdate=2019-12-21|language=fr-FR|publisher=}}</ref>。創刊号には、この雑誌が文学作品や批評を掲載すること、およびいかなる流派にも属さないことが明確に記されており、アポリネールの「エスプリ・ヌーヴォー(新しい精神)」を反映するものであることがわかる<ref name=":8" />。実際、同誌には毎回「今月の書評」を掲載するほか、創刊号には1910年発表の処女短編集『異端教祖株式会社』に収められる「ク・ヴロヴ?」、第5号から第9号(1904年8月の最終号)までは1909年発表の代表作『腐ってゆく魔術師』が掲載されている<ref name=":9" />。さらにこれを機に、1904年、{{仮リンク|アルフレッド・ヴァレット|fr|Alfred Vallette|label=}}、ジャリ、グールモン、ギリシャ出身の象徴主義の詩人[[ジャン・モレアス]]、小説『にんじん』を著した[[ジュール・ルナール]]、象徴主義の詩人[[サン=ポル=ルー]]や[[アルベール・オーリエ]]らによって象徴主義の雑誌として1890年に再刊された『[[メルキュール・ド・フランス]]』誌に初めて随筆を掲載した。
1918年、全世界で大流行していた[[スペインかぜ|スペイン風邪]]で病死した。38歳。[[ペール・ラシェーズ墓地]]に埋葬された。


==== 新しい精神 - キュビスム、性愛文学 ====
==脚注==
1904年、母アンジェリックがパリ郊外[[イヴリーヌ県]]の[[ル・ヴェジネ]]に居を定め、アポリネールはまだ自活できるだけの経済力がなかったため、ル・ヴェジネとパリを行き来していた。当時、同じイヴリーヌ県の[[シャトゥー]]出身の画家[[アンドレ・ドラン]]と[[モーリス・ド・ヴラマンク]]は1900年から同地で共同の[[アトリエ]]を構えていた。アポリネールは二人にセーヌ河畔で偶然出会い、以後、交友を深めることになった。さらに、1905年には当時まだ貧しかった画家らが住んでいた木造家屋「[[洗濯船]](バトー・ラヴォワール)」で[[パブロ・ピカソ]]に会い、彼を介してここに住む詩人・画家の[[マックス・ジャコブ]]らと親しくなった。『ラ・プリュム』誌の1905年5月号には「若者たち ― 画家ピカソ」と題する記事が掲載された<ref>{{Cite web|title=Apollinaire et la presse|url=https://gallica.bnf.fr/blog/19032018/apollinaire-et-la-presse?mode=desktop|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Le blog de Gallica, Bibliothèque nationale de France|author=Laurent Arzel}}</ref>。キュビスムの発端となる『[[アビニヨンの娘たち]]』が描かれる直前のことであり、主に『サルタンバンクの家族』などの「バラ色の時代」の作品を扱ったものである<ref name=":6" />。
{{reflist}}

同年末頃から、同じく「洗濯船」に居住し、18歳で[[象徴主義]]演劇の劇団「芸術座(芸術劇場)」を立ち上げた{{仮リンク|ポール・フォール|fr|Paul Fort|label=}}主宰の雑誌『韻文詩と散文詩』に寄稿し始め、象徴主義の詩「自由詩」、「冒涜」やアンドレ・サルモン論を発表している<ref>{{Cite web|title=Vers et Prose (1905-1914) (1ère série)|url=https://www.revues-litteraires.com/articles.php?lng=fr&pg=2051|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2019-12-21|publisher=|language=fr}}</ref>。この活動を通じて、特にジャン・モレアス、[[アンリ・マティス|マティス]]、ピカソの芸術論『線の理論』(1905年)で知られる亡命ユダヤ系ポーランド人の美術批評家{{仮リンク|メシスラス・ゴルベール|fr|Mécislas Golberg|label=}}<ref>{{Cite journal|和書|author=吉川貴子|year=2015|title=吉川貴子、メシスラス・ゴルベール『線の倫理』における芸術理論に関する一考察 ― アンリ・マティス、パブロ・ピカソの芸術理論的支柱としての役割を中心に|url=https://doi.org/10.20631/bigaku.66.2_141|journal=[[美学 (学術雑誌)|美学]]|volume=66|issue=2|page=141|publisher=[[美学会]]}}</ref> と頻繁に行き来するようになった。

再び性愛小説に取り組み、1907年に『一万一千本の鞭』を発表した。これも当初は作者名が「G. A.」とイニシャルで示され<ref>{{Cite web|url=https://www.lamartine.fr/livre/9782370710550-les-onze-mille-verges-guillaume-apollinaire/|title=Les onze mille verges|accessdate=2019-12-22|publisher=Lamartine|language=fr}}</ref>、これがアポリネールの作品であることを知っていたのは友人だけであった。本書は発禁処分を受け、アポリネール作として再刊されたのは1970年のことである<ref>{{Cite web|title=LES ONZE MILLE VERGES - Maison de la Poésie|url=https://www.theatreonline.com/Spectacle/Les-Onze-Mille-Verges/36483|website=www.theatreonline.com|accessdate=2019-12-21|publisher=|language=fr}}</ref>。

『ラ・プリュム』誌のへの寄稿を通じて交友も活動の場も広げたことで、他の雑誌や新聞に美術や文学に関する記事を発表する機会が増えた。その一つが、前衛詩人・文芸評論家の友人{{仮リンク|ルイ・ド・ゴンザグ=フリック|fr|Louis de Gonzague-Frick|label=}}を介して知り合ったジャン・ロワイエールが主宰する象徴主義の雑誌『{{仮リンク|ラ・ファランジュ|fr|La Phalange|label=}}』である<ref name=":0" /><ref name=":7" />。この雑誌は1906年7月から1914年5月まで刊行されたが<ref>{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientbookline/service/reference.asp?output=PORTAL&INSTANCE=INCIPIO&DOCBASE=CGPP&DOCID=0473891|title=La Phalange (REVUE) : revue mensuelle de littérature et d'art / dir. Jean Royère|accessdate=2019-12-22|publisher=Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref>、この寄稿において特に重要なのは、アポリネールが1908年1月号の同誌において絶賛したロワイエールの『ナルシスの裸の妹』の作品論としてアポリネール自身の[[ナルキッソス|ナルシス]]論を提示していること、そして『ラ・プリュム』誌に掲載された、ナルシス神話に基づく『腐ってゆく魔術師』の最終章として翌2月号にロワイエールの影響下に書かれた「オニロクリティック」が掲載されたことである<ref>{{Cite journal|和書|author=佐藤文郎|year=|date=1997-03-15|title=『腐ってゆく魔術師』とナルシスの問題|url=https://doi.org/10.15083/00036286|journal=仏語仏文学研究|volume=15|page=|pages=141-154|publisher=[[東京大学]]仏語仏文学研究会|issn=09190473}}</ref>。また、この時期にはマティス、[[ジョルジュ・ブラック]]、[[ロベール・ドローネー]]に出会い、[[フォーヴィスム]]の画家に関する評論や、{{仮リンク|ヴィクロツ=エミール・ミシュレ|fr|Victor-Émile Michelet|label=}}、{{仮リンク|ポール=ナポレオン・ポワナール|fr|Paul-Napoléon Roinard|label=}}との共著『象徴主義の詩 ― [[アンデパンダン展]] (1908) における詩人たちの午後』における「新ファランジュ」論<ref>{{Cite book|edition=édition originale|title=La Poésie symboliste|url=https://www.andrebreton.fr/fr/work/56600100545351|date=|first=Guillaume|last=Apollinaire|first2=Victor-Émile|last2=Michelet|first3=P.-N.|last3=Roinard|year=1908|publisher=L'Edition}}</ref> など芸術・文学評論を次々と発表した。また、1909年に1814年の[[マルキ・ド・サド]]の没後初めて作品集を編纂し、70ページ以上の紹介文と注釈を書き<ref>{{Cite web|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k1049472x/f7.image|title=L'Œuvre du Marquis de Sade|accessdate=2019-12-22|publisher=Gallica - Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref>、後の(主にシュルレアリストらによる)サド再評価につながった。

==== ローランサン -「ミラボー橋」 ====
[[ファイル:La muse inspirant le poète.jpg|サムネイル|アンリ・ルソー作《詩人に霊感を与えるミューズ》(1909年、バーゼル市立美術館蔵)]]
マリー・ローランサンと出会ったのは、1907年5月、『アヴィニョンの娘たち』を発表したピカソの個展が開かれていた{{仮リンク|クロヴィス・サゴ|fr|Clovis Sagot|label=}}画廊においてであった<ref name=":3" />。当時まだ{{仮リンク|アカデミー・ド・ラ・パレット|fr|Académie de la Palette|label=アカデミー・アンペール}}の画学生であったローランサンもまた、「洗濯船」に出入りするピカソらの前衛画家らと交友を深めていた。翌1908年にピカソが[[アンリ・ルソー]]の『女性の肖像』([[ピカソ美術館 (パリ)|ピカソ美術館]]蔵)古物商で偶然見つけ、わずか5フランで購入したのを機に、「洗濯船」のピカソのアトリエでルソーを励まし称える夜会を開催した。当時の前衛芸術家らの流儀で面白半分に行ったこの夜会には、アポリネール、ローランサンのほか、マックス・ジャコブら「洗濯船」の芸術家を中心とするモンマルトルのボヘミアンたちが多数参加し、ルソーの生涯においても「洗濯船」の歴史においても重要な出来事となった<ref>{{Cite web|title=Un dimanche en 1908 Une soirée avec le Douanier Rousseau|url=https://www.lesechos.fr/2008/04/un-dimanche-en-1908-une-soiree-avec-le-douanier-rousseau-485526|website=Les Echos|date=2008-04-04|accessdate=2019-12-21|language=fr|publisher=|author=Judith Benhamou-Huet}}</ref><ref>{{Cite news|title=Henri Rousseau, décidément moderne|url=https://www.lemonde.fr/culture/article/2010/03/01/henri-rousseau-decidement-moderne_1312219_3246.html|date=2010-03-01|accessdate=2019-12-21|language=fr|newspaper=Le Monde|author=Harry Bellet}}</ref>。

ローランサンとの恋愛関係は5年ほど続いたが、アポリネールは彼女の作品を絶賛する記事を発表して画家としての成功を助け、出会ってから2年後の1909年には彼女が住むパリ郊外の{{仮リンク|オートゥイユ (フランス)|fr|Quartier d'Auteuil|label=オートゥイユ}}(現[[16区 (パリ)|パリ16区]])にアパートに移り住んだ。アンリ・ルソーが二人を描いた《詩人に霊感を与えるミューズ》([[バーゼル市立美術館]]蔵)を発表したのも1909年のことである<ref>{{Cite web|title=La muse inspirant le poète par le Douanier Rousseau|url=https://www.musee-orsay.fr/fr/outils-transversaux/galerie-video/expositions/voir-ecouter/la-muse-inspirant-le-poete-par-le-douanier-rousseau.html|website=www.musee-orsay.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Musée d'Orsay|language=fr|author=Claire Bernardi|year=2016}}</ref>。オートゥイユを去るのは1912年8月、モナ・リザ盗難事件後のことだが、ローランサンとの関係は、「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ / われらの恋が流れる」で始まる[[堀口大學]]の名訳「ミラボー橋」<ref name=":10">{{Cite book|和書|title=フランス詩集|date=|year=1986|publisher=白鳳社|editor=[[浅野晃]]|page=136}}</ref> をはじめとする多くの優れた詩を生み出すことになった。

1909年には『メルキュール・ド・フランス』誌に「恋を失った男の歌」などの代表作を発表するほか、1月から11月まで『レ・マルジュ(欄外)』誌にルイーズ・ラランヌという女性名で「女流文学論」などの評論や詩を発表した。これは、[[シドニー=ガブリエル・コレット|コレット]]のような女性作家が登場し、1904年には女性向け雑誌『{{仮リンク|ラ・ヴィー・ウールーズ|fr|La Vie heureuse (revue)|label=}}(幸せな人生)』の寄稿者らが[[フェミナ賞]]を創設するなど、文学界における「女流文学」の台頭を受けてのこととされる。ルイーズ・ラランヌことアポリネールは、コレットについて「魅力的であるには違いないが、あまりに独立心が強すぎる」と評しており、奔放な私生活に言及している可能性もあるが、概ね好意的に評価している<ref>{{Cite journal|和書|author=伊勢晃|year=|date=2012-12-25|title=アポリネールの女流文学批評(1)― ルイーズ・ラランヌと雑誌 ''Les Marges''|url=https://hdl.handle.net/10236/11756|journal=年報・フランス研究|volume=|issue=46|page=|pages=21-32|publisher=関西学院大学文学部・文学研究科|issn=09109757}}</ref>。

11月には小説『腐ってゆく魔術師』がアンドレ・ドランの挿絵(版画)入りで刊行された。翌1910年には短編集『異端教祖株式会社』を発表。[[ゴンクール賞]]候補作になった(同年の受賞作は{{仮リンク|ルイ・ペルゴー|fr|Louis Pergaud|label=}}の短編集『キツネからカササギまで』)<ref name=":1" /><ref>''Je dis tout,'' n° 9, 15 décembre 1910 et ''Nouvelles de la République des Lettres,'' n° 3, novembre-décembre 1910 «De Roupnel à Pergaud» (Pierre-Marcel Adéma, Pierre Caizergues, Michel Décaudin et Victor Martin-Schmets, « Le Dossier de presse de L'Hérésiarque et Cie », ''Que Vlo-Ve?'' Série 1 No 8 pages 3-22, DRESAT).</ref>。さらに1911年3月には処女詩集『動物詩集』が[[ラウル・デュフィ]]の挿絵(版画)入りで発表された。この詩集に収められた詩はすべて動物を描いたものであり、その多くが[[フランシス・プーランク]]によって作曲され、アルバム名もそのまま『動物詩集』として発表されている<ref>{{Cite web|和書|title=フランシス・プーランク : 動物詩集 FP 15 (声楽とピアノ)|url=http://ml.naxos.jp/opus/215665|website=NML ナクソス・ミュージック・ライブラリー|accessdate=2019-12-21|language=ja}}</ref>。

=== モナ・リザ盗難事件 ===
[[ファイル:Mona Lisa Found, La Joconde est Retrouvée, Le Petit Parisien, Numéro 13559, 13 December 1913.jpg|サムネイル|《モナ・リザ》が見つかったことを報じる1913年12月13日付『ル・プティ・パリジャン』紙]]
1911年8月21日に[[ルーヴル美術館]]から[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]の《[[モナ・リザ]]》が盗まれたとき、アポリネールは共犯の疑いで[[サンテ刑務所]]に収容された。これについては、アポリネール(または彼を含む前衛画家や詩人)が、一種の挑発として《モナ・リザ》(またはルーヴル)を「燃やしてしまえ」と言い放ったこととしばしば関連付けられるが<ref>{{Cite news|title=Garder "La Joconde"|url=https://www.lemonde.fr/idees/article/2005/04/06/garder-la-joconde_635915_3232.html|date=2005-04-06|accessdate=2019-12-21|language=fr|newspaper=Le Monde}}</ref><ref>{{Cite web|title=Un vol, et « la Joconde » devint un mythe|url=http://www.leparisien.fr/paris-75/un-vol-et-la-joconde-devint-un-mythe-11-09-2005-2006280317.php|website=leparisien.fr|date=2005-09-10|accessdate=2019-12-21|language=fr-FR|publisher=}}</ref>、彼はこうした発言のために窃盗容疑をかけられたわけではない。当時彼の[[秘書]](または雑用係)をしていたベルギー生まれのジェリ・ピエレがルーヴル美術館から古代の小彫像を盗み出した事件との関連で逮捕されたのである。ピエレはすでに数年前にルーヴルから盗んだ彫像2点をピカソに売りつけ、姿をくらましていた。パリに戻ったときにアポリネールの秘書として雇われたが、1911年5月に再びルーヴルから彫像を盗み出した。住み込みの秘書であったため、盗品はアポリネールのアパートに置かれていた。この3か月後にモナ・リザ盗難事件が起こったのである。犯人逮捕のために[[国境]]を封鎖するほどの大事件となり、ピエレの窃盗に気づいていたアポリネールは不安にかられた。ピエレに返却するよう勧めたが、彼はこれに応じるどころか、むしろ買い手を探してほしいと言うばかりであった。アポリネールはピカソに相談した。買い取った彫像が盗品であることを知らなかった彼は愕然とし、[[セーヌ川]]に投げ捨てようという話にすらなったが、それもためらわれ、当時、アポリネールが寄稿していた『パリ・ジュルナル』紙に頼んで、匿名で盗品を返してもらうことになった。『パリ・ジュルナル』紙はこれを引き受けたが、警察の目に留まり、アポリネールは家宅捜査を受けて逮捕・投獄され、ピカソも召喚された<ref name="#1">{{Cite book|title=Apollinaire: 1880-1918|date=|year=1997|publisher=Jean-Claude Lattès|author=André Parinaud|language=fr|chapter=Chapitre VII - La Grande rupture de la modernité}}</ref><ref name="Série 2 1987, pages 8-11">« Géry Pieret au bord du Pacifique BOHN », ''Que Vlo-Ve?'' Série 2, No 22, avril-juin 1987, pages 8-11, DRESAT - NOTE CONJOINTE de Christine Jacquet et Michel Décaudin.</ref>。

アポリネールの逮捕に対して、釈放を求める署名運動が起きた。署名を主導したのはアンドレ・ビイ(Andre Bie)や{{仮リンク|ルネ・ダリーズ|fr|René Dalize}}で、他に[[オクターヴ・ミルボー]]、{{仮リンク|アンドレ・サルモン|fr|André Salmon}}、[[アンリ・バルビュス]]らがアポリネールを擁護した。しかしアポリネールに反感を持つ者も多く、形勢は五分五分となった<ref>[[種村季弘]]『詐欺師の楽園』河出書房新社〈河出文庫〉、1990年、pp.102-103。</ref>。結局は、すでにパリからベルギーへ逃亡したピエレが[[予審]][[判事]]宛にアポリネールの無罪を証明する手紙を送ったため、1週間後に釈放されることになったが、アポリネールもピカソも外国人であったために、新聞に[[ゼノフォビア]]的な記事を書き立てられ、大きな精神的痛手を負うことになった(真犯人[[ビンセンツォ・ペルージャ]]が逮捕され、《モナ・リザ》がルーヴル美術館に返却されたのは2年後のことである)<ref name="Série 2 1987, pages 8-11"/><ref name="#1"/>。「ラ・サンテ刑務所にて(獄中歌)」は、このとき、文字通り、獄中で書かれた詩である。また、この事件が起こったときには、ローランサンの心も離れていたとされる<ref name=":3" /><ref>彼女は1914年6月にドイツ人画家オットー・フォン・ヴェッチェン男爵と結婚してパリを離れることになる。</ref>

=== 『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌 ===
こうしたアポリネールを励まし支援するために、彼の古くからの友人である{{仮リンク|アンドレ・ビリー|fr|André Billy|label=}}、ルネ・ダリーズ、アンドレ・サルモン、アンドレ・チュデスク<ref>{{Cite web|title=André Tudesq (1883-1925)|url=https://data.bnf.fr/fr/12781070/andre_tudesq/|website=data.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref> が新しい活動の場として1912年2月、月刊美術・文学雑誌『[[レ・ソワレ・ドゥ・パリ]]』を創刊した<ref>{{Cite web|和書|title=『レ・ソワレ・ド・パリ』 - 現代美術用語辞典ver.2.0|url=https://artscape.jp/artword/index.php/%E3%80%8E%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%AF%E3%83%AC%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AA%E3%80%8F|website=artscape.jp|accessdate=2019-12-21|language=ja|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|title=Les Soirées de Paris (1912-1914)|url=http://www.revues-litteraires.com/articles.php?pg=1883|website=www.revues-litteraires.com|accessdate=2019-12-21|publisher=|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://bibliothequekandinsky.centrepompidou.fr/clientbookline/service/reference.asp?output=PORTAL&INSTANCE=INCIPIO&DOCBASE=CGPP&DOCID=0468280|title=Les Soirées de Paris (REVUE) / rédacteurs Guillaume Apollinaire, André Billy, René Dalize, André Salmon, André Tudesq|accessdate=2019-12-22|publisher=Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou|language=fr}}</ref><ref>{{Cite web|title=Les Soirées de Paris : recueil mensuel - 3 années disponibles - Gallica|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32870652c/date|website=gallica.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Gallica, Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref>。経済的な理由により、1913年6月の第17号でいったん終刊となり、同年11月にアポリネールが編集長となって再刊された。このため、第17号までを第一シリーズ、これ以後、第一次大戦が勃発した1914年の8月の最終号までを第二シリーズとしている。第一シリーズの寄稿者は{{仮リンク|ジャック・ディソール|fr|Jacques Dyssord|label=}}、{{仮リンク|フランシス・カルコ|fr|Francis Carco|label=}}、[[ジャン・ポーラン]]らを含む多彩な顔ぶれだが、第二シリーズはむしろ芸術評論誌として重要な役割を担うことになり、アポリネールが後に「カリグラム」と名付ける「絵画詩」を同誌に発表することになるのも、このような文脈においてである<ref>{{Cite journal|和書|author=伊勢晃|year=|date=2010-12-20|title=アポリネールと文学批評(3) ― 雑誌 ''Les Soirées de Paris'' を中心に|url=https://hdl.handle.net/10236/11729|journal=年報・フランス研究|volume=|issue=44|page=|pages=1-13|publisher=関西学院大学文学部・文学研究科|issn=09109757}}</ref>。また、本誌掲載の「ミラボー橋」、「地帯」、「クロチルド」、「アンニー」、「狩の角笛」、「マリー」などは1913年刊行の代表作『アルコール』に収められ、美術評論は『キュビスムの画家たち』として同じく1913年に刊行されることになる。詩集の書名は、当初は『蒸留酒』する予定であったが、最終的にはより奇抜な『アルコール』とした<ref name=":0" />。

=== 詩集『アルコール』 ===
[[ファイル:Guillaume Apollinaire, Les Peintres Cubistes, 1913.jpg|サムネイル|248x248ピクセル|『キュビスムの画家たち』の表紙]]
詩集『アルコール』には過去15年にわたって書かれた詩が収められているが、編纂時に伝統的な詩法に反して句読点をすべて削除した自由律を用いた。これについて詩人は、「本当の句読点」とは「詩句の持つリズムと区切り」であり、「他のものは必要がない」からであると説明している<ref name=":10" /><ref name=":11">{{Cite web|和書|url=https://www.akita-u.ac.jp/eduhuman/academic/pdf/p2018_02.pdf|title=フランス文学 アポリネール研究|accessdate=2019-12-22|publisher=[[秋田大学]]|author=辻野稔哉|language=ja}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|author=中川信吾|year=|date=1971-03-10|title=アポリネールの詩的冒険 ― 「月曜日 クリスティーヌ街」その他|url=https://hdl.handle.net/10959/2330|journal=研究年報|volume=|issue=17|page=|pages=115-144|publisher=[[学習院大学]]文学部|issn=04331117}}</ref>。[[浅野晃]]は、アポリネールは「『アルコール』を出すに及んでまったく独自の詩人となった」とし、さらに[[金子光晴]]の言葉を引用して、「フランスの詩はアポリネールでまったく違ってしまった」と評している<ref>浅野晃「解説」、浅野晃編『フランス詩集』白鳳社、1986年、200頁。</ref>。また、[[窪田般彌]]は、1913年刊行の2冊の画期的な書物『アルコール』と『キュビスムの画家たち』によって、アポリネールは「時代のパイオニア」となったと表現している<ref name=":1" />。

=== 美術評論『キュビスムの画家たち』 ===
『キュビスムの画家たち』は、「新しい画家たち」としてピカソ、ブラック、ローランサン、[[ジャン・メッツァンジェ]]、[[アルベール・グレーズ]]、[[フアン・グリス]]、[[フェルナン・レジェ]]、[[フランシス・ピカビア]]、[[マルセル・デュシャン]]を紹介している<ref>[[斎藤正二]]訳『キュビスムの画家たち』緑地社、1957年。</ref>。アポリネールは本書によって美術史上の革新運動の主導者・指導者として位置付けられることになるが、同時にまた、副題「美の省察」が示すように、本書はキュビスムの画家論・作品論にとどまらず、アポリネール自身の芸術論・詩論でもある<ref>{{Cite journal|和書|author=中川信吾|year=|date=1974-03-10|title=アポリネールの美術批評 ―『キュビスムの画家たち』を中心に|url=https://hdl.handle.net/10959/2350|journal=研究年報|volume=|issue=20|page=|pages=289-322|publisher=学習院大学文学部|issn=04331117}}</ref>。

だが、一方で、このような独自の芸術論・詩論に基づいてキュビスムをあまりにも強く支持したために、翌1914年、1910年5月以降担当していた『{{仮リンク|ラントランジジャン|fr|L'Intransigeant|label=}}(非妥協者)』の芸術欄が廃止されることになった<ref name=":0" />。サルモンの仲介で参加した同紙は、当時、パリで最も販売部数の多い夕刊紙であり、アンドレ・ビリー、[[アラン=フルニエ]]、マックス・ジャコブらも寄稿していた。いわば、美術評論家としての地位を確立することになった重要な活動の場だったのである<ref>{{Cite journal|和書|author=中川信吾|year=|date=1979-03-20|title=1912年のアポリネール(その1 ― 1月~6月) ―「窓」注釈の試み(II)|url=https://hdl.handle.net/10959/2375|journal=研究年報|volume=|issue=25|page=|pages=115-139|publisher=学習院大学文学部|issn=04331117}}</ref>。

さらに同じ1913年に発表した冊子『未来派の反伝統 ― 宣言・総括』<ref>{{Cite web|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k70494p|title=L'antitradition futuriste, manifeste-synthèse / (Signé : Guillaume Apollinaire)|accessdate=2019-12-22|publisher=Gallica, Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref> は、イタリア未来派に対するアポリネールの擁護か批判か、解釈が分かれているが、少なくとも評論家アポリネールは、未来派をキュビスムに対立する運動として位置づけており、一方で個人的には[[フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティ]]や[[ウンベルト・ボッチョーニ]]を評価していたと考えられる<ref>{{Cite journal|和書|author=伊勢晃|year=|date=2002-12-25|title=アポリネールと未来派 ― L'Antitradition futuristeをめぐって|url=https://hdl.handle.net/10236/9590|journal=年報・フランス研究|volume=|issue=36|page=|pages=15-28|publisher=関西学院大学文学部・文学研究科|issn=09109757}}</ref>。

=== カリグラム ===
[[Image:Guillaume Apollinaire Calligramme.JPG|thumb|242x242px|エッフェル塔を描いたカリグラム -「二等牽引砲兵」|代替文=]]
図形詩とも呼ばれる「[[カリグラム]]」は、詩行を並べてある[[図形]]や絵を表わす方法であり、すでに[[古代ギリシア]]時代から存在したが<ref>{{Cite web|和書|title=カリグラム|url=https://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0-47402|website=コトバンク|accessdate=2019-12-21|language=ja|publisher=}}</ref>、文字を美しく書く(描く)[[カリグラフィー]]([[書道]]を含む)と[[表意文字]]を意味するイデオグラムを組み合わせた[[かばん語]]として「カリグラム」という言葉を生み出したのはアポリネールであり<ref name=":11" />、彼はこのような表現によって「芸術、音楽、絵画、文学の統合」への一歩を踏み出したとされる<ref>{{Cite web|title=CALLIGRAMME|url=http://www.universalis.fr/encyclopedie/calligramme/|website=Encyclopædia Universalis|accessdate=2019-12-21|language=fr-FR|publisher=|author=Bernard Holtzmann}}</ref>。最初のカリグラム詩は、『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌第25号に掲載された「手紙・大洋 ([[s:fr:Calligrammes/Lettre-Océan|Lettre-Océan]])」であり、最も頻繁に引用されるのは、没後の1918年に出版される『{{ill2|カリグラム(詩)|en|Calligrammes|label =カリグラム}}』所収の詩「二等牽引砲兵」に含まれる5つのカリグラム、特に文字で[[エッフェル塔]]を描いたものである。このエッフェル塔は « Salut monde dont je suis la langue éloquente que sa bouche ô Paris tire et tirera toujours aux allemands » という文章によって構成されている。これはエッフェル塔が世界に語りかけるという想定で、「こんにちは、世界よ。私はその(世界の)雄弁な舌だ。その口であるパリは(おお、パリよ)現在もそして未来も、ドイツ人らに対して舌を出している(侮蔑している)のだ」(試訳)という意味であり、第一次大戦中に書かれたこのカリグラムは、エッフェル塔をフランスの力の象徴として表現していると解釈される<ref>« Dossier de presse Calligrammes » ''Que Vlo-Ve?'' Série 2, No 13, janvier-mars 1985, pages 10-25, DRESAT.</ref>。

=== 第一次大戦 - 兵役志願、負傷 ===
[[Image:Apollinaire Rouveyre 1914.webm|thumb|200px|アポリネール(左)とルーヴェール(1914年7月撮影)]]1914年7月、文芸新聞『{{仮リンク|コメディア|fr|Comœdia (journal)|label=}}』からの依頼で、画家・[[風刺漫画]]家の{{仮リンク|アンドレ・ルーヴェール|fr|André Rouveyre|label=}}とともに[[カルヴァドス県]][[ドーヴィル]]の夏の音楽・芸術の祭典を取材することになった。だが、[[第一次大戦]]の勃発により7月31日に総動員令が発せられたため、急遽、パリに戻った。現在目にすることのできるアポリネールの動画は、このとき、ポワソニエール大通りのある店舗で実験的に撮影されたものである<ref>{{Cite web|title=Guillaume Apollinaire en escapade à Deauville|url=https://www.ouest-france.fr/normandie/deauville-14800/centenaire-14-18-guillaume-apollinaire-en-escapade-deauville-2735136|website=Ouest-France.fr|date=2014-07-31|accessdate=2019-12-21|language=fr|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|title=APOLLINAIRE|url=https://www.indeauville.fr/apollinaire|website=inDeauville - Tourisme, Evénements, City Guide - Site officiel du territoire Deauville|date=2015-09-08|accessdate=2019-12-21|language=fr}}</ref>。
総動員令が発せられたとはいえ、アポリネールのような外国人は対象外であり、志願したとしても許可が下りるのは難しかったが、にもかかわらず、彼は8月10日、帰化申請と併せて兵役に志願した<ref name=":0" />。9月に戦争の脅威が迫るパリを離れて南仏[[ニース]]に向かった。許可が下りるのを待つ間に、{{仮リンク|ルイーズ・ド・コリニー=シャティヨン|fr|Louise de Coligny-Châtillon|label=}}(通称「ルー」)に出会った。かつてジュヌヴィエーヴ=マルグリット=マリー=ルイーズ・ド・ピヨー・ド・コリニー=シャティヨン伯爵夫人を名乗った女性だが、2年前に離婚し、当時は[[サン=ジャン=カップ=フェラ]]の従姉のもとに身を寄せていた。アポリネールは彼女宛に1914年9月28日から1916年1月18日までの間に220通の手紙を書いている<ref name=":3" />。また、ルー宛の手紙に書かれた詩は没後『ルー詩篇』として刊行されることになる。

12月4日に兵役志願の許可が下り、12月6日にニームの野戦砲兵第38連隊に入隊した。年末に休暇を取ってルーに会いに[[マルセイユ]]に行ったが、ルーにとっては戯れの恋にすぎないことをアポリネールは感じ取っていた<ref name=":3" />。1915年1月2日、休暇から戻る車中で、[[アルジェリア]]人([[オラン]]在住)の女性{{仮リンク|マドレーヌ・パジェス|fr|Madeleine Pagès|label=}}に出会った。これ以後、ルーに対してと同様に、マドレーヌ宛に200通余りの手紙を送り、後に『マドレーヌへの秘めごとの詩篇』(1949年、代表的な性愛の詩として知られる「きみのからだの九つの扉」を含む)および『思い出のように優しく』(1952年)と題して刊行されることになる。アポリネールはマドレーヌの母親に結婚を許可され、1915年末の数日の休暇を婚約者としてオランのマドレーヌの家で過ごすことになった<ref name=":0" /><ref name=":3" />。
[[ファイル:Guillaume et Jacqueline Apollinaire 1918.jpg|左|サムネイル|240x240ピクセル|アポリネールと妻ジャクリーヌ(1918年、[[フランス国立図書館]]蔵)]]
この間、1915年11月18日に、アポリネール自身の希望により[[マルヌ県]]{{仮リンク|タユール|fr|Tahure|label=}}の第96歩兵連隊に配属された。1916年3月9日に帰化申請が許可された。だが、この直後の3月17日、最前線の[[塹壕]]で流れ弾を受けた。[[弾丸]]はヘルメットを貫通して右の[[こめかみ]]に食い込んだ。[[野戦病院]]で応急手術を受けた後パリに移送され、3月28日にヴァル・ド・グラース病院に入院したが、友人セルジュ・フェラが勤務していたイタリア病院に転院することになった。さらに、この外傷により[[血腫]]が生じ、5月にヴァル・ド・グラース陸軍病院別館で[[開頭術|開頭]]による血腫除去術が行われた<ref name=":12">{{Cite book|title=Apollinaire: 1880-1918|date=|year=1997|publisher=Jean-Claude Lattès|chapter=Chapitre X - J’ai tant de choses à faire|author=André Parinaud|language=fr}}</ref>。多くの友人が見舞いに来た。その一人が、かつて[[モンパルナス]]で会った女性、アポリネールが「きれいな赤毛の女」と呼んだジャクリーヌ・コルブ<ref>{{Cite web|title=Jacqueline Apollinaire (18..-1967)|url=https://data.bnf.fr/fr/14805934/jacqueline_apollinaire/|website=data.bnf.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Bibliothèque nationale de France|language=fr}}</ref> であった。ジャクリーヌは献身的に看病した。1916年5月17日、{{仮リンク|クロワ・ド・ゲール勲章|fr|Croix de guerre 1914-1918 (France)|label=}}を受けた。

=== シュルレアリスムの先駆 ===
1917年に入ってようやく文学活動を再開し、[[アンドレ・ブルトン]]や[[フィリップ・スーポー]]、[[ピエール・ルヴェルディ]]ら後のシュルレアリストとの交流が始まった。同年3月にはルヴェルディ、マックス・ジャコブとともに前衛芸術・文学雑誌『南北』を創刊。パリの2つの前衛芸術家・文学者の活動拠点モンマルトル(パリ北部)と[[モンパルナス]](パリ南部)をつなぐ[[地下鉄]]が開通したことに因んで命名され、この2つの拠点をつなぐことを意図したものであった<ref>{{Cite web|title=Pierre Reverdy et ''Nord-Sud''|url=https://www.entrevues.org/surlesrevues/pierre-reverdy-et-nord-sud/|website=Ent’revues|accessdate=2019-12-12|language=fr-FR|publisher=|date=2007-04-01|author=Henri Béhar|work=Histoires littéraires}}</ref>。

1917年から翌年にかけて、アポリネールは≪[[メルキュール・ド・フランス]]≫誌の消息欄に、[[ユリアヌス]]や[[ガイウス・プリニウス・セクンドゥス|プリニウス]]が書いている荒唐無稽な話を取り上げて、王にさせられた犬の名前を引用した。それによれば、紀元230年頃に、とある君主が復讐のためにスエニングという名前の犬をノルウェー王に推挙したということである。<ref>{{Cite book|和書|title=ユリシーズの涙|year=2000|publisher=みすず書房|pages=48}}</ref>
[[ファイル:Guillaume Apollinaire (Père Lachaise).jpg|サムネイル|267x267ピクセル|アポリネールと妻ジャクリーヌの墓(ペール・ラシェーズ墓地)]]
1917年5月18日、[[シャトレ座]]で[[ジャン・コクトー]]の[[台本]]、[[エリック・サティ]]の音楽、ピカソの[[舞台芸術]]、[[レオニード・マシーン]]の[[振付師|振付]]による前衛[[バレエ]]『[[パラード (バレエ)|パラード]]』の初演が行われた。このプログラムを書いたアポリネールは、ここで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた。ただし、厳密にはハイフンの入った形容詞 sur-réaliste として使用し、翌1918年刊行・上演の自作『ティレジアスの乳房』の序文で surréalisme と表記した<ref name=":1" />。『ティレジアスの乳房』は文字通り、シュルレアリスム演劇の先駆となった<ref>{{Cite web|和書|title=《ティレジアスの乳房》|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%81%AE%E4%B9%B3%E6%88%BF%E3%80%8B-1372021|website=コトバンク|accessdate=2019-12-21|language=ja|publisher=}}</ref>。

1918年4月にメルキュール・ド・フランス出版社から『カリグラム』(副題:平和と戦争の詩篇 1913-1916)刊行。5月2日にサン=トマ=ダカン教会でジャクリーヌと結婚。立会人はピカソと美術商[[アンブロワーズ・ヴォラール]]であった。ジャン・コクトーは祝いにエジプトの小彫像を贈り、アポリネールはこれに対して感謝の詩を贈っている<ref name=":12" />。だが、同年11月9日、わずか半年の結婚生活の後、[[スペイン風邪]]により38歳で死去。軍人障害年金及び戦争の犠牲者に関する法典<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.nivr.jeed.or.jp/download/shiryou/shiryou42_02.pdf|title=第II部 障害者雇用施策の現状|accessdate=2019-12-22|publisher=独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構 [[障害者職業総合センター]]研究部門|language=ja}}</ref> ([[:fr:Code des pensions militaires d'invalidité et des victimes de guerre|Code des pensions militaires d'invalidité et des victimes de guerre]]) により、戸籍に「フランスのために死す」と記された<ref>{{Cite web|title=Guillaume KOSTROWITZKY alias dit Appolinaire - Mort pour la France le 09-11-1918 (Paris 7e arrondissement, 75 - Paris (ex Seine))|url=https://www.memoiredeshommes.sga.defense.gouv.fr/fr/arkotheque/visionneuse/visionneuse.php?arko=YToxMDp7czoxMDoidHlwZV9mb25kcyI7czoxMzoic3BlY2lmX2NsaWVudCI7czoxMDoic3BlY2lmX2ZjdCI7czoyMzoiQXJrTURIVmlzaW9ubmV1c2VJbWFnZXMiO3M6MTg6InNwZWNpZl9uYXZfcGFyX2xvdCI7czoyMjoiQXJrTURITmF2aWdhdGlvblBhckxvdCI7czoxMzoibWRoX2ZvbmRzX2NsZSI7czoxOiIxIjtzOjQ6InJlZjIiO2k6MTQ4NTM1MTtzOjEyOiJpZF9hcmtfZmljaGUiO2k6MTQ4NTM1MTtzOjk6InB5cmFtaWRhbCI7YjowO3M6MTI6ImltYWdlX2RlcGFydCI7aTowO3M6MTY6InZpc2lvbm5ldXNlX2h0bWwiO2I6MTtzOjIxOiJ2aXNpb25uZXVzZV9odG1sX21vZGUiO3M6NDoicHJvZCI7fQ==#uielem_move=0,0&uielem_rotate=F&uielem_islocked=0&uielem_zoom=43|website=www.memoiredeshommes.sga.defense.gouv.fr|accessdate=2019-12-21|publisher=Visionneuse - Mémoire des Hommes}}</ref>。

1967年に死去したジャクリーヌとともに、[[ペール・ラシェーズ墓地]]に眠る。

== 作品 ==

=== 著書 ===

==== 詩集 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題
!原題
!書誌情報
|-
|『動物詩集 又はオルフェさまの供揃い』
|''Le Bestiaire ou Cortège d'Orphée''
|Deplanche, 1911 - ラウル・デュフィによる版画
|-
|『アルコール』
|''Alcools''
|Mercure de France, 1913 - 過去15年間に書かれた詩を編纂
|-
|『そして私も画家』
|''Et moi aussi je suis peintre''
|「抒情的・彩色カリグラム集」として1914年印刷・製本。第一次大戦勃発により刊行を見合わせ、『カリグラム』に所収。
|-
|『恋に命を (Vitam impendere amori)』
|''Vitam impendere amori''
|Mercure de France, 1917 - アンドレ・ルーヴェールによる挿絵
|-
|『カリグラム ― 平和と戦争の詩篇 1913-1916』
|''Calligrammes, poèmes de la paix et de la guerre 1913-1916''
|Mercure de France, 1918
|-
|『…がある』(遺稿詩集)
|''Il y a...''
|Albert Messein, 1925 - 「スタヴロ詩篇」を含む
|-
|『わが愛の影』
|''Ombre de mon amour''
|Cailler, 1947 - ルー(ルイーズ・ド・コリニー=シャティヨン)宛の詩
|-
|『マドレーヌへの秘めごとの詩篇』
|''Poèmes secrets à Madeleine''
|海賊版、1949 - 「きみのからだの九つの扉」を含む
|-
|『わびしい監視兵』
|''Le Guetteur mélancolique''
|Gallimard, 1952 - 未発表の詩篇
|-
|『ルー詩篇』
|''Poèmes à Lou''
|Cailler, 1955
|-
|『ソルド ― ギヨーム・アポリネールの未発表の詩篇』
|''Soldes: poèmes inédits de Guillaume Apollinaire''
|Fata Morgana « Bibliothèque artistique et littéraire », 1985 - {{仮リンク|ピエール・ケゼルグ|fr|Pierre Caizergues}}の序文、マックス・ジャコブによる肖像、アポリネールによる挿絵
|-
|戦争詩篇
|''Poèmes en guerre''
|Les Presses du Réel, 2018 - 1914年から1918年までの間に書かれた詩を編纂
|}

==== 小説・短編集 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題
!原題
!書誌情報
|-
|『ミルリーまたは安価な小さい穴』
|''Mirely ou le Petit Trou pas cher''
|1900 - 偽名で執筆した性愛小説、原稿は現存しない。
|-
|『何をすべきか』
|''Que faire ?''
|1900 - ゴーストライターとして『ル・マタン』紙に連載した小説
|-
|『一万一千本の鞭』
|''Les Onze Mille Verges''
|1907 - 匿名 (G.A.) で発表した性愛小説、発禁処分、1970年再刊
|-
|『腐ってゆく魔術師』
|''L'Enchanteur pourrissant''
|Kahnweiler, 1909 - アンドレ・ロランによる版画
|-
|『異端教祖株式会社』
|''L'Hérésiarque et Cie''
|Stock, 1910 - 短編集
|-
|『若きドン・ジュアンの冒険』
|''Les Exploits d'un jeune Don Juan''
|1911 - 匿名で発表した性愛小説、1987年、{{仮リンク|ジャンフランコ・ミンゴッツィ|fr|Gianfranco Mingozzi}}監督により映画化(邦題『蒼い衝動』)
|-
|『ボルジア家のローマ』
|''La Rome des Borgia''
|Bibliothèque des Curieux, 1914 - 性愛小説または歴史小説、後にルネ・ダリーズとの共著として再刊
|-
|『バビロンの終末』
|''La Fin de Babylone''
|Bibliothèque des Curieux, 1914 - 性愛小説または歴史小説
|-
|『3人のドン・ジュアン』
|''Les Trois Don Juan''
|Bibliothèque des Curieux, 1915 - 性愛小説または歴史小説
|-
|『虐殺された詩人』
|''Le Poète assassiné''
|Bibliothèque des Curieux, 1916 - 小説のシュルレアリスム
|-
|『坐る女』
|''La Femme assise''
|Gallimard, 1920 - 未完の小説
|-
|『ピン』
|''Les Épingles''
|Les Cahiers Libres, 1928 - 短編集
|-
|「整形外科」「甲状腺の治療」- 共著『身体と精神』
|''Le Corps et l’Esprit (Inventeurs, médecins & savants fous)''
|Bibliogs, Collection Sérendipité, 2016 - 2作品は1918年発表
|}

==== 評論 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題
!原題
!書誌情報
|-
|「新ファランジュ」- 共著『象徴主義の詩 ― アンデパンダン展 (1908) における詩人たちの午後』
|« La Phalange nouvelle », ''La Poésie Symboliste. L'après-midi des poètes au Salon des Artistes Indépendants (1908)''
|L'Edition, 1909
|-
|『マルキ・ド・サドの作品』
|''L'Œuvre du Marquis de Sade''
|Bibliothèque des Curieux, 1909 - 編纂・紹介文と注釈
|-
|『イタリア劇』
|''Le Théâtre italien''
|Louis Michaud, « Encyclopédie littéraire illustrée », 1910
|-
|『歴史的事件 ― フランス大世紀の年代記』
|''Pages d'histoire, Chronique des grands siècles de France''
|Les Arts Graphiques, 1912
|-
|『キュビスムの画家たち ― 美の省察』
|''Les Peintres cubistes. Méditations esthétiques''
|Eugène Figuière & Cie, 1913 ; Hermann, 1965
|-
|『未来派の反伝統 ― 宣言・総括』
|''L'Antitradition futuriste, manifeste-synthèse''
|1913 - 冊子
|-
|『国立図書館の地獄』
|''L'Enfer de la Bibliothèque nationale''
|Mercure de France, 1913 - {{仮リンク|フェルナン・フルーレ|fr|Fernand Fleuret}}、{{仮リンク|ルイ・ペルソー|fr|Louis Perceau}}との共著
|-
|『ロシア・バレエ「パラード」のプログラム、新精神』
|''Programme des Ballets russes « Parade » et l’esprit nouveau''
|Rouart Lerolle, 1917 - 共著
|-
|『両岸の散歩者』
|''Le Flâneur des deux rives''
|Éditions de la Sirène, 1918 - 新聞・雑誌掲載のコラム
|-
|『新精神と詩人たち』
|''L'Esprit nouveau et les poètes''
|Mercure de France 1918
|}

==== 演劇 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題
!原題
!書誌情報
|-
|『ティレジアスの乳房』
|''Les Mamelles de Tirésias''
|1917 - シュルレアリスムの演劇
|-
|『時の色 ― 韻文による三幕劇』
|''Couleur du temps''
|1918
|-
|『カザノヴァ ― パロディ風喜劇』
|''Casanova, Comédie parodique''
|Gallimard, 1952
|}

==== 書簡集 ====
{| class="wikitable" style="font-size:smaller"
!邦題
!原題
!書誌情報
|-
|『代母への手紙 1915-1918』
|''Lettres à sa marraine 1915-1918''
|Pour les fils du Roi, 1948
|-
|『思い出のように優しく ― マドレーヌ・パジェスへの手紙』
|''Tendre comme le souvenir, lettres à Madeleine Pagès''
|Gallimard, 1952 ; (増補改訂版) 2005
|-
|『ギヨーム・アポリネール ― 弟、母との書簡集』
|''Guillaume Apollinaire : correspondance avec son frère et sa mère''
|José Corti, 1987
|-
|『芸術家との書簡集』
|''Correspondance avec les artistes''
|Gallimard, 2009
|-
|『全書簡集』(全5巻)
|''Correspondance générale''
|Honoré Champion, 2015
|}

=== 日本語訳 ===
アポリネールの詩は主に[[堀口大學]]訳として知られる。[[窪田般彌]]はアポリネールのほとんどの作品を翻訳している。また、[[鈴木豊 (フランス文学者)|鈴木豊]]も主に散文作品を訳しているが、性愛文学作品『若きドン・ジュアンの冒険』と『一万一千の鞭』の翻訳は須賀慣の名義で発表している。全集は1959年に[[紀伊國屋書店]]から刊行され、1979年に[[青土社]]から『アポリネール全集』全4巻が刊行された。

'''動物詩集'''
* 堀口大學訳『動物詩集 ― オルフェさまのお供の衆』[[第一書房]]、1925年、改題『動物詩集 又はオルフェさまの供揃い』[[求龍堂]]、1978年
* 窪田般彌訳『アポリネール動物詩集』[[評論社]](児童図書館・絵本の部屋)絵:[[山本容子]]、1991年

'''腐ってゆく魔術師'''
* 窪田般彌訳『腐ってゆく魔術師』青銅社、1978年(アンドレ・ドラン挿絵)、[[沖積舎]]、2014年

'''虐殺された詩人'''
* 窪田般彌訳『虐殺された詩人』[[白水社]]、1975年
* 鈴木豊訳『虐殺された詩人』[[講談社文庫]]、1977年; [[講談社文芸文庫]]、2000年{{small|(虐殺された詩人 / 月の王 / ジョヴァンニ・モローニ / ご寵愛を受けた女 / 影が消えた / 死後の婚約者 / 青い目 / 神さまとして崇められた不具者 / 聖女アドラータ / おしゃべり回想 / 男女混成賭博クラブでの出会い / 現代魔術の小処方箋 / 鷲狩り / アーサー、過ぎし日の王、来るべき日の王 / 友メリタルト / 仮面の砲兵伍長の事件、すなわち復活した詩人)}}
* 窪田般彌訳「仮面の砲兵伍長奇談すなわち蘇生した詩人 ― アンドレ・デュポンの思い出に」「影の散歩」窪田般彌、[[滝田文彦]]共編『フランス幻想文学傑作選 3 (世紀末の夢と綺想)』白水社、1983年所収([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001615425-00 目次・書誌情報])

'''異端教祖株式会社'''(本書所収作品を含む)
* 窪田般彌訳『異端教祖株式会社』白水社([[白水Uブックス]])1989年; 晶文社、1972年{{small|(プラーグで行き逢った男 / 涜聖 / ラテン系のユダヤ人 / 異端教祖 / 教皇無謬 / 神罰三つの物語 / 魔術師シモン / オトゥミカ / ケ・ヴロ・ヴェ? / ヒルデスハイムの薔薇 あるいは東方三博士の財宝 / ピエモンテ人の巡礼 / オノレ・シュブラックの失踪 / アムステルダムの船員 / 徳高い一家庭と負篭と膀胱結石の話 / 詩人のナプキン / 贋救世主アンフィオン ― ドルムザン男爵の冒険物語)}}
* 鈴木豊訳『異端教祖株式会社』[[講談社]](講談社文庫)1974年{{small|(窪田般彌訳のほか、ガイド / 傑作映画 / ロマネスクな葉巻 / レブラ / コックス=シティ / 遠隔操作)}}
* 祖父江登訳『偽救世主ランフイヨン ― 或はドルムザム男爵の冒険』紅玉堂書店、1930年
* [[辰野隆]]、[[鈴木信太郎 (フランス文学者)|鈴木信太郎]]、[[堀辰雄]]共訳『贋救世主アンフィオン ― 一名ドルムザン男爵の冒険物語』野田書房、1936年([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238065 目次・書誌情報])、沖積舎、2005年
* [[川口篤]]訳『オノレ・シユブラツクの喪失・アムステルダムの水兵』白水社(仏蘭西語入門叢書 第3篇)1934年
* 堀辰雄訳『アムステルダムの水夫』[[山本書店]](山本文庫18)1936年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001863257-00 目次・書誌情報])
* 窪田般彌訳『ヒルデスハイムの薔薇 他十五篇 』[[角川書店]]、1961年

'''若きドン・ジュアンの冒険'''
* 硲陽一郎訳『若きドン・ジュアンの冒険』学芸書林、1971年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001270999-00 書誌情報])
* 福富操訳『ドン・ジュアン手柄話』出帆社、1975年
* [[鈴木豊 (フランス文学者)|須賀慣]]訳『若きドン・ジュアンの冒険』角川書店、1975年; [[富士見ロマン文庫]]、1983年; グーテンベルク21([[Amazon Kindle|Kindle]]版)、2015年
* 窪田般彌訳『若きドン・ジュアンの手柄ばなし』[[河出書房新社]]([[河出文庫]])1997年

'''一万一千本の鞭'''
* 学芸書林編集部訳『壱万壱千鞭譚』学芸書林、1972年
* 須賀慣訳『一万一千本の鞭 ― 太守の色道遍歴』[[二見書房]]、1972年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001288666-00 書誌情報])
* 須賀慣訳『一万一千本の鞭』角川書店、1974年; Kindle版、2002年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001310727-00 書誌情報])[[富士見ロマン文庫]]、1983年
* [[飯島耕一]]訳『一万一千の鞭』河出書房新社(河出文庫)1997年

'''キュビスムの画家たち(美の省察)'''
* [[斎藤正二]]訳『キュビスムの画家たち』緑地社、1957年{{small|(美の省察 / 新しい画家たち / ピカソ / ジョルジュ・ブラック / ジャン・メザンジェール / アルベール・グレエズ / マドモワゼル・マリ・ローランサン / ジュアン・グリ / フェルナン・レジェ / フランシス・ピカビア / マルセル・デュシャン)}}
* 江原順、[[小海永二]]共訳『立体派の画家たち ― 美学的省察』昭森社(今日の芸術叢書2)1957年

'''その他'''
* 根岸達夫『愛の神秘』浪速書房、1969年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001288966-00 書誌情報])
* [[安堂信也]]訳「ティレシアスの乳房」『現代世界演劇1 ― 近代の反自然主義 (1)』白水社、1970年所収
* 堀口大學訳『アポリネール遺稿詩篇』昭森社、1972年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001271013-00 書誌情報])
* 窪田般彌訳『詩の朗読会 フランス編』河出書房新社(河出文庫)2003年
* 大橋尚泰訳「二等牽引砲兵」『フランス人の第一次世界大戦 - 戦時下の手紙は語る』、えにし書房、2018年所収

'''詩集、短編集、全集'''
* 堀口大學訳『アポリネエル詩抄』第一書房、1928年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I001799083-00 目次・書誌情報])
* 堀口大學訳『アポリネール詩集』[[創元社]](世界現代詩叢書 第7)1953年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000364108-00 目次・書誌情報])
* 堀口大學訳『アポリネール詩集』[[新潮文庫]]、1954年、1969年、2007年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000700817-00 目次・書誌情報])
* 飯島耕一訳『アポリネール詩集』[[彌生書房]](世界の詩45)1967年{{small|(詩集『アルコール』より / 地帯 / ミラボー橋 / 恋を失った男の歌 / いぬサフラン / アンニー / クロチルド / 行列 / マリジビル / 旅行者 / マリー / 白い雪 / アンドレ・サルモンの結婚式で読まれた詩 / わかれ / 門 / ランダー街の移民 / ローズモンド / ライン河の夜 / ローレライ / 婚約 / 一九〇九年 / ラ・サンテ監獄で / 狩の角笛 / 詩集『カリグラム』より / 窓 / 月曜日クリスチーヌ街 / 演習 / 恋の歌 / 美しい赤毛の女 / その他の詩 / 映画に行くまえ / 一篇の詩 / 税関吏の思い出 / (おまえのことを……) / ルウの花飾り / 四十雀 / きみが頽廃について語ったので… / きみのからだの九つの扉 / 第二の秘詩 / マドレーヌ一人に / 第四の秘詩 / 塹壕)}}([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000281952-00 目次・書誌情報])
* 窪田般彌訳『アポリネール詩集』[[ほるぷ出版]]、1982年
* 窪田般彌訳『アポリネール傑作短篇集』[[福武書店]](福武文庫)1987年
* 窪田般彌訳『アポリネール詩集』[[小沢書店]](双書・20世紀の詩人1)1992年
* 鈴木信太郎、[[渡辺一民]]編『'''アポリネール全集'''』紀伊國屋書店、1959年{{small|(鈴木信太郎、川口篤、[[佐藤朔]]、[[室井庸一]]、渡辺一民訳「異端教祖株式会社」、渡辺一民訳「キュービスムの画家たち」、[[福永武彦]]、[[村松剛]]、[[菅野昭正]]、渡辺一民訳「アルコール」、鈴木信太郎、山川篤、佐藤朔、菅野昭正、[[渡辺明正]]、渡辺一民、室井庸一訳「虐殺された詩人」、佐藤朔、[[窪田啓作]]、菅野昭正、飯島耕一、渡辺一民訳「カリグラム」、渡辺一民訳「波浪」、渡辺一民訳「軍旗」、佐藤朔訳「カーズ・ダルモン」、窪田啓作、渡辺一民訳「発射光」、飯島耕一訳「月の色の砲弾」、菅野昭正訳「星がたに傷ついた頭」、[[若林真]]「新精神と詩人たち」、[[清水徹]]訳「新しい詩人たち」、鈴木信太郎、渡辺一民訳「腐ってゆく魔術師」、[[白井浩司]]、[[阿部良雄]]訳「美術論集」、[[金子博]]訳「作家論集」)([https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1696632 目次・書誌情報])}}
* 『'''アポリネール全集'''』(全4巻)青土社、1979年
** 第1巻:堀口大學訳「動物詩集 ― またはオルフェ様の供揃え」/ 飯島耕一、[[入沢康夫]]、窪田般彌訳「アルコール」/ 飯島耕一訳「カリグラム ― 平和と戦争の詩 (1913-1916)」/ 堀口大學訳「遺稿詩篇」
** 第2巻:窪田般彌訳「腐ってゆく魔術師」、「異端教祖株式会社」、「虐殺された詩人」、「拾遺コント集」
** 第3巻:[[宇佐美斉]]訳「坐る女 ― 現代の風俗と驚異の物語(フランスおよびアメリカ年代記)」/ 飯島耕一訳「一万一千の鞭(抄)」/ 窪田般彌訳「若きドン・ジュアンの手柄咄」/ 安東信也訳「ティレシアスの乳房 ― シュルレアリスム演劇」/ 釜山健訳「時の色 ― 韻文による三幕劇」/ 窪田般彌訳「カザノヴァ ― パロディ風喜劇」
** 第4巻:{{仮リンク|ミシェル・デコーダン|fr|Michel Décaudin}}編、[[堀田郷弘]]訳「ルーへの手紙」、「友人たちへの手紙」

'''作品を含む研究書'''
* [[河上徹太郎]]『アポリネールの恋文』垂水書房、1965年
* 飯島耕一『アポリネール』[[美術出版社]](美術選書)1966年([https://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000358010-00 目次・書誌情報])
* ピエール・マルセル・アデマ著、鈴木豊訳『虐殺された詩人 アポリネール』講談社、1977年
* ジョルジュ・ヴェルニュ著、吉田軍治訳『アポリネールの情熱的生涯』牧神社、1977年
* 『[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]]・特集アポリネール』(青土社、1979年1月){{small|(訳詩のほか、滝田文彦「アポリネールの今日的意義」、[[湯浅博雄]]「アポリネールの現代性」、宇佐美斉「夢みられた自伝」、堀田郷弘「ルーへの手紙」、[[河盛好蔵]]「ミラボー橋界隈」、佐藤朔「アポリネールのシャンソン」、{{仮リンク|ジャン・モレ|fr|Jean Mollet}}、ジャン・コクトー、アントワーヌ・フォンガロのアポリネール論、飯島耕一、[[鈴木志郎康]]の対談「現代詩から見たアポリネール」)}}
* 堀田郷弘『アポリネールの恋の詩と真実』高文堂出版社(人間活性化双書)1988年

== 影響 ==
アポリネールの詩は、フランシス・プーランク(声楽曲『動物詩集』、歌劇『ティレジアスの乳房』など)、[[ドミートリイ・ショスタコーヴィチ]](『[[交響曲第14番 (ショスタコーヴィチ)|交響曲第14番]]』第3楽章から第8楽章)、[[ボフスラフ・マルティヌー]]、{{仮リンク|ジャック・ルゲルネイ|fr|Jacques Leguerney}}、[[モーリス・ジョベール]]、[[イヴ・ナット]]、[[アルテュール・オネゲル]]、[[ルネ・レイボヴィッツ]]、{{仮リンク|イザベル・アブルケル|fr|Isabelle Aboulker}}、[[レノックス・バークリー]]、{{仮リンク|ギィ・サクル|fr|Guy Sacre}}、[[カイヤ・サーリアホ]]、{{仮リンク|クシシュトフ・バツレフスキ|pl|Krzysztof Baculewski}}、{{仮リンク|ラファウ・アウグスティン|pl|Rafał Augustyn (kompozytor)}}、[[ジャン・アプシル]]、{{仮リンク|ルカーシュ・フルニーク|cs|Lukáš Hurník}}、{{仮リンク|リオネル・ドーネ|fr|Lionel Daunais}}、[[レオ・フェレ]]、{{仮リンク|イェンス=ペーター・オステンドルフ|de|Jens-Peter Ostendorf}}、{{仮リンク|アリアンナ・サヴァール|fr|Arianna Savall}}、{{仮リンク|ウィル・トッド|en|Will Todd}}、{{仮リンク|ハワード・スケンプトン|en|Howard Skempton}}、[[アール・キム]]など多くの作曲家が曲を付けている。最も多くの曲を発表しているのはプーランクであり、また、レオ・フェレをはじめとして複数の作曲家が「ミラボー橋」を声楽曲として発表している<ref>{{Cite web|和書|title=ギヨーム・アポリネール|url=http://ml.naxos.jp/composer/23712|website=NML ナクソス・ミュージック・ライブラリー|accessdate=2019-12-22|language=ja}}</ref>。

アポリネールの肖像として、上述のアンリ・ルソー作《詩人に霊感を与えるミューズ》([[油彩]]、1909年、バーゼル市立美術館蔵)のほか、[[ジョルジュ・デ・キリコ]]《ギヨーム・アポリネールの(予兆的)肖像》油彩、1914年、[[国立近代美術館 (フランス)|国立近代美術館]]蔵)<ref>{{Cite web|title=Portrait (prémonitoire) de Guillaume Apollinaire|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cazbyy/rG9zK4/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2019-12-22|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref> が有名だが、「予兆的」という言葉は、この2年後にアポリネールが第一次大戦で弾丸を受けたこめかみに傷があるからであり、後に題名に追加されたものである<ref>{{Cite web|title=Giorgio De Chirico en 1965 : «Personne n'a jamais rien compris à ma peinture»|url=https://www.lefigaro.fr/histoire/archives/2018/11/19/26010-20181119ARTFIG00253-giorgio-de-chirico-en-1965-personne-n-a-jamais-rien-compris-a-ma-peinture.php|website=Le Figaro.fr|date=2018-11-19|accessdate=2019-12-22|language=fr|first=Marie-Aude|last=Bonniel}}</ref>。また、マリー・ローランサンも《アポリネールと彼の友人たち》(油彩、1909年、国立近代美術館蔵)などにアポリネールを描いている。このほか、パブロ・ピカソ《二分された頭像(アポリネールの肖像)》(木炭画、1908年、ピカソ美術館蔵)、マルク・シャガール《アポリネールへのオマージュ》(油彩、1913年、ファン・アベ美術館)、マルク・シャガール《アポリネールの肖像》([[水彩]]、1913-1914年、国立近代美術館蔵)<ref>{{Cite web|title=Portrait d'Apollinaire|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cpG47b/rGdxKE/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2019-12-22|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref>、[[ルイ・マルクーシ]]《監獄のアポリネール》版画、1911年、{{仮リンク|パリ市歴史図書館|fr|Bibliothèque historique de la ville de Paris}})、ロベール・ドローネー《ギヨーム・アポリネールの肖像》([[グアッシュ]]、1911-1912年、国立近代美術館蔵)<ref>{{Cite web|title=Portrait de Guillaume Apollinaire|url=https://www.centrepompidou.fr/id/cX4589d/fr|website=www.centrepompidou.fr|accessdate=2019-12-22|language=fr|publisher=Centre Pompidou}}</ref> マルセル・デュシャン《アポリネールの肖像(パイプをふかす横顔》(クレヨン画、1912年、個人蔵)など、アポリネールの肖像や彼の作品を題材にした絵画が多数制作され、2016年には[[オランジュリー美術館]]で「アポリネール、詩人のまなざし」と題する展覧会が開催された<ref>{{Cite web|url=https://www.musee-orangerie.fr/sites/default/files/atoms/files/dp_apollinaire.pdf|title=Apollinaire Le regard du poète|accessdate=2019-12-22|publisher=Musée de l’Orangerie|language=fr}}</ref>。

== 脚注 ==
{{reflist|30em}}

== 参考資料 ==
* Jacqueline Gojard (1995), « Sources et ressources de Guillaume Apollinaire et de quelques-uns de ses contemporains », Michel Décaudin (éd.), ''Apollinaire en son temps'', pp. 11-36, Presses Sorbonne Nouvelle.
* Catherine Moore, Laurence Campa et Mark Moore, [http://www.wiu.edu/Apollinaire/Biographie.htm Biographie - Le site officiel Guillaume Apollinaire], Western Illinois University.
* [[堀田郷弘]]「[http://libir.josai.ac.jp/il/meta_pub/G0000284repository_JOS-KJ00000110798 アポリネールの恋の詩と真実]」『城西人文研究』第14巻、1987年2月、[[城西大学]]経済学会、252-221頁。
* [[窪田般彌]]「[https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%AB-27064 アポリネール]」小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』[[コトバンク]]。
* [[須賀慣]]「解説」『若きドン・ジュアンの冒険』グーテンベルク21、2015年。
* Laurence Campa (2014), « [https://www.monde-diplomatique.fr/2014/12/CAMPA/51021 Guillaume Apollinaire et ses peintres »], ''Le Monde diplomatique''.
* Lugan Mikaël, « [https://www.cairn.info/revue-la-revue-des-revues-2016-1-page-6.htm ''Le Festin d’Ésope'' Première revue / première œuvre de Guillaume Apollinaire] », ''La Revue des revues'', 2016/1 (N° 55), pp. 6-15.
* 伊勢晃「アポリネールと未来派 ― L'Antitradition futuristeをめぐって」『年報・フランス研究』第36号、2002年12月25日、関西学院大学文学部・文学研究科、15-28頁。
* 伊勢晃「[[hdl:10236/10346|アポリネールと文学批評(1) ― 雑誌 ''Le Festin d'Esope'' を中心に]]」『年報・フランス研究』第42号、2008年12月25日、[[関西学院大学]]文学部・文学研究科、1-11頁。
* 伊勢晃「[[hdl:10236/11729|アポリネールと文学批評(3) ― 雑誌 ''Les Soirées de Paris'' を中心に]]」『年報・フランス研究』第44号、2010年12月25日、関西学院大学文学部・文学研究科、1-13頁。
* 伊勢晃「[[hdl:10236/11756|アポリネールの女流文学批評(1) ― ルイーズ・ラランヌと雑誌 ''Les Marges'']]」『年報・フランス研究』第46号、2012年12月25日、関西学院大学文学部・文学研究科、21-32頁。
* 佐藤文郎「[[doi:10.15083/00036286|『腐ってゆく魔術師』とナルシスの問題]]」『仏語仏文学研究』第15巻、1997年3月15日、[[東京大学]]仏語仏文学研究会、141-154頁。
* 中川信吾「[[hdl:10959/2330|アポリネールの詩的冒険 ― 「月曜日 クリスティーヌ街」その他]]」『研究年報』第17号、1971年3月10日、学習院大学文学部、115-144頁。
* 中川信吾「[[hdl:10959/2350|アポリネールの美術批評 ―『キュビスムの画家たち』を中心に]]」『研究年報』第20号、1974年3月10日、学習院大学文学部、289-322頁。
* 中川信吾「1912年のアポリネール(その1 ― 1月~6月) ―「窓」注釈の試み(II)」『研究年報』第25号、1979年3月20日、学習院大学文学部、115-139頁。
* [[浅野晃]]「ギヨーム・アポリネール」および「解説」、浅野晃編『フランス詩集』白鳳社、1986年。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[オルフィスム]]
* [[ミラボー橋 (詩)]]
* [[若きドン・ジュアンの冒険]]
* [[レ・ソワレ・ドゥ・パリ]]
* [[レ・ソワレ・ドゥ・パリ]]
* [[キュビスム]]
* 「[[ミラボー橋 (詩)]]」
* [[シュルレアリスム]]
* [[オルフィスム]]
* [[マリー・ローランサン]]
* [[マルセル・デュシャン]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commonscat}}
{{wikisource|fr:Guillaume Apollinaire|フランス語のギヨーム・アポリネールの作品}}
{{commons|Category:Guillaume Apollinaire}}
{{Wikisourcelang|fr|Auteur:Guillaume Apollinaire}}
{{Wikiquotelang|fr|Guillaume Apollinaire}}
* [http://www.wiu.edu/Apollinaire/ Official site]
* [http://www.wiu.edu/Apollinaire/ Official site] - Western Illinois University
<!--* {{gutenberg author|id=Guillaume_Apollinaire|name=Guillaume Apollinaire}}-->
** ''[http://www.wiu.edu/Apollinaire/Archives_Que_Vlo_Ve/Archives_Que_Vlo_Ve.html Que Vlo-Ve?]'' - DRESATによるアポリネールとその時代に関する資料・学術論文
* [http://www.ubu.com/historical/app/app.html Apollinaire at ubuweb] (includes examples of his work)
* {{Kotobank|ギョーム&#x20;アポリネール}}
* [http://www.pitbook.com/textes/htm/exploits_don_juan.htm ''The Exploits of a Young Don Juan'' an e-book (in French)]
* {{Kotobank|ギヨーム&#x20;アポリネール}}
<!--* {{imdb title|id=0092995|title=Les exploits d'un jeune Don Juan}}-->
* {{青空文庫著作者|2135|アポリネール ギヨーム}}
* [https://www.project-archive.org/0/095.html ギヨーム・アポリネール「美の省察(第一章)」(1913年)] - ARCHIVE
* [https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb344304470/date ''La Revue blanche'' (Paris. 1891)] - Gallica, Bibliothèque nationale de France
* ''[https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb38888015g/date La Plume]'' - Gallica, Bibliothèque nationale de France
* ''[https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32838947q/date La Phalange]'' - Gallica, Bibliothèque nationale de France
* ''[https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/cb32870652c/date Les Soirées de Paris]'' - Gallica, Bibliothèque nationale de France
* [http://www.revues-litteraires.com/articles.php?pg=898 ''Le Festin d’Ésope'' (1903-1904)] - revues-litteraires.com.


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2024年8月3日 (土) 11:37時点における最新版

ギヨーム・アポリネール
Guillaume Apollinaire
第一次大戦で負傷したギヨーム・アポリネール(1916年)
誕生 Guglielmo Alberto Wladimiro Alessandro Apollinare de Kostrowitzky
(1880-08-26) 1880年8月26日
イタリア王国の旗 イタリア王国ローマ
死没 (1918-11-09) 1918年11月9日(38歳没)
フランスの旗 フランスパリ
墓地 ペール・ラシェーズ墓地
職業 詩人小説家、美術・文芸評論家
言語 フランス語
ジャンル 小説演劇、美術評論、文芸評論ジャーナリズム
文学活動 象徴主義キュビスムオルフィスムシュルレアリスム
代表作 『アルコール』
『動物詩集』
『腐ってゆく魔術師』
『虐殺された詩人』
『異端教祖株式会社』
『若きドン・ジュアンの冒険』
『キュビスムの画家たち(美の省察)』
『カリグラム』
署名
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ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire、1880年8月26日 - 1918年11月9日)は、フランス詩人小説家美術文芸評論家。代表作に「ミラボー橋」を含む自由律の詩集『アルコール英語版』、ピカソブラックローランサンらの「新しい画家たち」を絶賛した評論『キュビスムの画家たち英語版』、シュルレアリスム演劇『ティレジアスの乳房』(フランシス・プーランクオペラの原作)と小説『虐殺された詩人』、ジャンフランコ・ミンゴッツィフランス語版監督によって映画化された性愛小説若きドン・ジュアンの冒険』などがある。処女詩集『動物詩集』の副題にある「オルフェ」からオルフィスムの概念が生まれたほか、シュルレアリスム、カリグラムもアポリネールの造語である。

生涯

[編集]

背景

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ギヨーム・アポリネールは1880年8月26日、グリエルモ・アルベルト・ヴラディミロ・アレッサンドロ・アポリナーレ・デ・コストロヴィツキ(Guglielmo Alberto Wladimiro Alessandro Apollinare de Kostrowitzky)[1] としてローマイタリア王国)に生まれた。フランスに帰化した後の本名はヴィルヘルム・アポリナリス・ドゥ・コストロヴィツキ(Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky)である[2][3]。母アンジェリック(またはアンジェリカ)・ドゥ・コストロヴィツキ(出生名:アンジェリック=アレクサンドリーヌ・コストロヴィッカ)は、ロシア帝国下のリトアニア出身でイタリアに亡命したポーランド貴族シュラフタ)の娘であった[4][5]。父は不明だが、シチリア王国の退役将校フランチェスコ(・コンスタンチーノ・カミロ)・フルジー・ダスペルモンと推定される[5][6]。1882年に弟アルベール(アルベルト・エウジェーニオ・ジョヴァンニ)が生まれた。同じく父親不明であり、母に認知されたのは1888年である[6]

1887年に母方の祖父ミシェルが死去すると一時ボローニャへ移り住み、1888年にモナコに定住した[1][6]。ギヨームはモナコのコレージュ・サン=シャルル(1896年閉校)、次いでカンヌのコレージュ・スタニスラスに通い、ニースリセに入学した。優秀な学生で、フランス語算数の一等賞のほか、名誉二等賞、優秀二等賞などを受けた[6]。同窓生に後に活動を共にするルネ・ダリーズフランス語版、アポリネールに関する回想録を著したアンジュ・トゥーサン=リュカ[7] がいる。トゥーサン=リュカとは学生時代に同人誌を刊行し、ギヨーム・マカーブル(「マカーブル」は「死」の意)の筆名で詩を発表した。1894年にドレフュス事件が起こると、ドレフュス支持を明言した[1]

読書三昧

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1897年、バカロレア筆記試験には合格したが、口頭試験で失敗。モナコの母のもとに帰った。図書館に通って専門書、医学雑誌、言語学中世文学文法書、紀行など様々な分野の書物を読んだ。文学ではシャルル・ペローラシーヌラ・フォンテーヌからジャンヌ=マリー・ルプランス・ド・ボーモンバルザック、さらには無政府主義への関心からセバスティアン・フォールフランス語版、社会的な関心からエミール・ゾラトルストイなどを読み耽り、特にマラルメから大きな影響を受けた。また、トゥーサン=リュカ宛の手紙には、ジョヴァンニ・ボッカッチョの『デカメロン』の翻訳を試みていると書いている[6]

母アンジェリックが1897年に11歳年下のジュール・ヴェイユと結婚し、1899年、アポリネール19歳のときにモナコを去ってエクス=レ=バンオーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏サヴォワ県)、次いでリヨンに移り住み、最後にパリに居を定めた。アポリネールは相変わらず図書館(特にマザラン図書館)に通い、セーヌ河畔のブキニストフランス語版巡りをして読書に没頭した[1]

スタヴロ事件

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1899年の夏に一家はベルギースパに滞在したが、母が賭け事の借金で姿をくらまし、弟アルベールと二人、スタヴロフランス語版の宿に置き去りにされた。このときに、アポリネールの詩に「マレイ」という名前で登場するカフェの娘マリア・デュボワに出会ったこと、ワロン方言に親しんだこと、そして弟と一緒にアルデンヌ地方を散策したことは実り豊かな体験となり、後に『スタヴロ詩篇』で語られることになる。だが、まもなく持参金が尽きて母に手紙を書き送ったが、母から送られたのはパリへ帰るための現金だけであったため、兄弟は宿代を払わずに夜逃げをし、森を抜けて次の駅からパリ行きの汽車に乗った[1][4]。このときアポリネールが滞在した宿は彼の詩に因んで「愛されない男(恋を失った男)」と名付けられている[8]

窮乏の生活

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パリでの生活は窮乏を極めた。1900年2月19日から4月24日までH・デスナールの筆名で『ル・マタンフランス語版』紙に小説『何をすべきか』を連載。これは弁護士アンリ・エスナールのゴーストライターとして、小説家ウジェーヌ・ガイエ[9] と共同で執筆したものであり、19世紀末に起こった殺人事件を織り込んだ推理小説風または空想科学小説風の作品である。通俗的新聞小説だが、その型破りな作風にはすでに後の『異端教祖株式会社』の萌芽が伺われる[10][11]。だが、原稿料が支払われなかったため、次に、ガイエが主宰するモンマルトル風刺週刊新聞『タバラン』(魔術師、奇術師、縁日芝居の俳優タバランフランス語版(1584-1626)に因む紙名)に寄稿した。しかし、ガイエもまた広告掲載料でかろうじて印刷・製本代をまかなっていたため、原稿料はほとんど支払われなかった[12]

この頃、アポリネールはポルトガル系ユダヤ人の友人フェルディナン・モリナの妹ランダ・モリナ・ダ・シルヴァと出会い、毎日のように「ランダへの愛の誓いのことば」、綴り字LINDAを行頭に読みこんだ五行詩などなどの熱烈な愛の詩を書き送った。これらの書簡詩は後に「ランダ詩篇」としてまとめられることになる。とはいえ、ランダはアポリネールの愛に応えることはなく、結婚の申し込みもあっさり拒絶した[4][13]

相変わらず窮乏を強いられていたアポリネールは、新聞の求人欄で見つけた株式取引所の書記に採用されたが、給料の不払いが続いて失職[12]。生活費を得るために好色本専門の書店からの依頼で性愛小説『ミルリーまたは安価な小さい穴』を偽名で書き上げたが、刊行されなかった。原稿が現存しないため、事情は不明である[14]。取引所の同僚の母親の紹介で、ドイツ系ノルマンディー貴族ミロー子爵夫人の娘ガブリエルのフランス語の家庭教師の職を得、ミロー家に同行してライン河畔のノイ・グリュック、そしてホンネフの別荘に滞在した。このとき、モナコのコレージュの同窓生であったジャン・セーヴの紹介で文芸誌『ラ・グランド・フランス』に寄稿。ヴィルヘルム・コストロヴィツキの筆名で3篇の詩『月のもの』、『婚礼』、『都会と心』を発表した[4][15]

アポリネール(1902年、ケルンにて)

さらに、同じくガブリエルの英語の家庭教師となった英国人女性アンニー・プレイデンに出会い、再び熱烈な手紙を書き送った。翌1902年にミロー家がライン地方の領地に引き上げることになったときにも、アンニーとともに一家に同行し、ケルンハノーファーベルリンドレスデンミュンヘンなどドイツ各地を旅し、一人でプラハウィーンも訪れた。このときにルーカス・クラナッハハンス・ホルバインルネサンス期のドイツの画家はもちろん、アルフレッド・シスレーカミーユ・ピサロらの印象派の画家、彫刻家オーギュスト・ロダンの作品に出会ったことは、かれが芸術評論を書くきっかけとなっている[16]。一方、アンニーもまたアポリネールの愛を拒み、1903年に英国に帰国。アポリネールは追いかけて渡英し、結婚を申し込んだが、今回もまた断られた。こうした経験から生まれたのが後に詩集『アルコール』に収められる「恋を失った男の歌」(あるいは「愛されない男の歌」)である。ただし、ランダ、アンニー、そしてこの後に出会うマリー・ローランサンほかの女性たちが愛の詩に歌われるときに、「愛の女神、詩の女神、芸術の女神として愛する」女性として描かれるのと同様に[4]、「恋を失った男の歌」でもアポリネール独自の神話化作用が働いている[17]

前衛芸術・文学活動

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『イソップの饗宴』誌創刊

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1902年の秋頃から、芸術・文学雑誌『ユーロペーアン(欧州人)』や『ラ・ルヴュ・ブランシュフランス語版』に寄稿し始めた。特に「白い(白紙の)評論」を意味する『ラ・ルヴュ・ブランシュ』誌は、1889年にリエージュ(ベルギー)で創刊され、1891年10月にパリに拠点を移してからは無政府主義的傾向の前衛芸術・音楽・文学雑誌として知られ、ロートレックピエール・ボナールの表紙画によって好評を博していた。1903年には早くも終刊になったが、ステファヌ・マラルメ、アンドレ・ジッドシャルル・ペギーマルセル・プルーストアルフレッド・ジャリポール・クローデルポール・ヴェルレーヌクロード・ドビュッシーらが寄稿しており[18][19][20]、アポリネールは同誌の1902年5月号に初めて芸術評論を掲載した。ベルリンのペルガモン博物館内に復元・展示されているゼウスの大祭壇に関する記事である[16]

1903年4月18日、現在のパリ5区のサン=ミシェル広場フランス語版にあったカフェ「カヴォー・デュ・ソレイユ・ドールフランス語版(キャバレー黄金の太陽)」の地下で、1889年4月にレオン・デシャンフランス語版によって創刊された芸術・文学雑誌『ラ・プリュムフランス語版(筆)』の夜会が行われた。ピアノ伴奏による詩の朗読会で、アポリネールはここでアルフレッド・ジャリ、そして兵役を終えたばかりのアンドレ・サルモンフランス語版らと出会った[15][21][22]。この出会いを機に、アポリネールは文学雑誌『イソップの饗宴』を創刊。ジャリ、サルモンのほか、トゥーサン=リュカ、ジョン=アントワーヌ・ノーフランス語版ジャン・ド・グールモンフランス語版ジャン・ロワイエールフランス語版らが参加した[23][24]。創刊号には、この雑誌が文学作品や批評を掲載すること、およびいかなる流派にも属さないことが明確に記されており、アポリネールの「エスプリ・ヌーヴォー(新しい精神)」を反映するものであることがわかる[22]。実際、同誌には毎回「今月の書評」を掲載するほか、創刊号には1910年発表の処女短編集『異端教祖株式会社』に収められる「ク・ヴロヴ?」、第5号から第9号(1904年8月の最終号)までは1909年発表の代表作『腐ってゆく魔術師』が掲載されている[23]。さらにこれを機に、1904年、アルフレッド・ヴァレットフランス語版、ジャリ、グールモン、ギリシャ出身の象徴主義の詩人ジャン・モレアス、小説『にんじん』を著したジュール・ルナール、象徴主義の詩人サン=ポル=ルーアルベール・オーリエらによって象徴主義の雑誌として1890年に再刊された『メルキュール・ド・フランス』誌に初めて随筆を掲載した。

新しい精神 - キュビスム、性愛文学

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1904年、母アンジェリックがパリ郊外イヴリーヌ県ル・ヴェジネに居を定め、アポリネールはまだ自活できるだけの経済力がなかったため、ル・ヴェジネとパリを行き来していた。当時、同じイヴリーヌ県のシャトゥー出身の画家アンドレ・ドランモーリス・ド・ヴラマンクは1900年から同地で共同のアトリエを構えていた。アポリネールは二人にセーヌ河畔で偶然出会い、以後、交友を深めることになった。さらに、1905年には当時まだ貧しかった画家らが住んでいた木造家屋「洗濯船(バトー・ラヴォワール)」でパブロ・ピカソに会い、彼を介してここに住む詩人・画家のマックス・ジャコブらと親しくなった。『ラ・プリュム』誌の1905年5月号には「若者たち ― 画家ピカソ」と題する記事が掲載された[25]。キュビスムの発端となる『アビニヨンの娘たち』が描かれる直前のことであり、主に『サルタンバンクの家族』などの「バラ色の時代」の作品を扱ったものである[16]

同年末頃から、同じく「洗濯船」に居住し、18歳で象徴主義演劇の劇団「芸術座(芸術劇場)」を立ち上げたポール・フォールフランス語版主宰の雑誌『韻文詩と散文詩』に寄稿し始め、象徴主義の詩「自由詩」、「冒涜」やアンドレ・サルモン論を発表している[26]。この活動を通じて、特にジャン・モレアス、マティス、ピカソの芸術論『線の理論』(1905年)で知られる亡命ユダヤ系ポーランド人の美術批評家メシスラス・ゴルベールフランス語版[27] と頻繁に行き来するようになった。

再び性愛小説に取り組み、1907年に『一万一千本の鞭』を発表した。これも当初は作者名が「G. A.」とイニシャルで示され[28]、これがアポリネールの作品であることを知っていたのは友人だけであった。本書は発禁処分を受け、アポリネール作として再刊されたのは1970年のことである[29]

『ラ・プリュム』誌のへの寄稿を通じて交友も活動の場も広げたことで、他の雑誌や新聞に美術や文学に関する記事を発表する機会が増えた。その一つが、前衛詩人・文芸評論家の友人ルイ・ド・ゴンザグ=フリックフランス語版を介して知り合ったジャン・ロワイエールが主宰する象徴主義の雑誌『ラ・ファランジュフランス語版』である[1][21]。この雑誌は1906年7月から1914年5月まで刊行されたが[30]、この寄稿において特に重要なのは、アポリネールが1908年1月号の同誌において絶賛したロワイエールの『ナルシスの裸の妹』の作品論としてアポリネール自身のナルシス論を提示していること、そして『ラ・プリュム』誌に掲載された、ナルシス神話に基づく『腐ってゆく魔術師』の最終章として翌2月号にロワイエールの影響下に書かれた「オニロクリティック」が掲載されたことである[31]。また、この時期にはマティス、ジョルジュ・ブラックロベール・ドローネーに出会い、フォーヴィスムの画家に関する評論や、ヴィクロツ=エミール・ミシュレフランス語版ポール=ナポレオン・ポワナールフランス語版との共著『象徴主義の詩 ― アンデパンダン展 (1908) における詩人たちの午後』における「新ファランジュ」論[32] など芸術・文学評論を次々と発表した。また、1909年に1814年のマルキ・ド・サドの没後初めて作品集を編纂し、70ページ以上の紹介文と注釈を書き[33]、後の(主にシュルレアリストらによる)サド再評価につながった。

ローランサン -「ミラボー橋」

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アンリ・ルソー作《詩人に霊感を与えるミューズ》(1909年、バーゼル市立美術館蔵)

マリー・ローランサンと出会ったのは、1907年5月、『アヴィニョンの娘たち』を発表したピカソの個展が開かれていたクロヴィス・サゴフランス語版画廊においてであった[4]。当時まだアカデミー・アンペールフランス語版の画学生であったローランサンもまた、「洗濯船」に出入りするピカソらの前衛画家らと交友を深めていた。翌1908年にピカソがアンリ・ルソーの『女性の肖像』(ピカソ美術館蔵)古物商で偶然見つけ、わずか5フランで購入したのを機に、「洗濯船」のピカソのアトリエでルソーを励まし称える夜会を開催した。当時の前衛芸術家らの流儀で面白半分に行ったこの夜会には、アポリネール、ローランサンのほか、マックス・ジャコブら「洗濯船」の芸術家を中心とするモンマルトルのボヘミアンたちが多数参加し、ルソーの生涯においても「洗濯船」の歴史においても重要な出来事となった[34][35]

ローランサンとの恋愛関係は5年ほど続いたが、アポリネールは彼女の作品を絶賛する記事を発表して画家としての成功を助け、出会ってから2年後の1909年には彼女が住むパリ郊外のオートゥイユフランス語版(現パリ16区)にアパートに移り住んだ。アンリ・ルソーが二人を描いた《詩人に霊感を与えるミューズ》(バーゼル市立美術館蔵)を発表したのも1909年のことである[36]。オートゥイユを去るのは1912年8月、モナ・リザ盗難事件後のことだが、ローランサンとの関係は、「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ / われらの恋が流れる」で始まる堀口大學の名訳「ミラボー橋」[37] をはじめとする多くの優れた詩を生み出すことになった。

1909年には『メルキュール・ド・フランス』誌に「恋を失った男の歌」などの代表作を発表するほか、1月から11月まで『レ・マルジュ(欄外)』誌にルイーズ・ラランヌという女性名で「女流文学論」などの評論や詩を発表した。これは、コレットのような女性作家が登場し、1904年には女性向け雑誌『ラ・ヴィー・ウールーズフランス語版(幸せな人生)』の寄稿者らがフェミナ賞を創設するなど、文学界における「女流文学」の台頭を受けてのこととされる。ルイーズ・ラランヌことアポリネールは、コレットについて「魅力的であるには違いないが、あまりに独立心が強すぎる」と評しており、奔放な私生活に言及している可能性もあるが、概ね好意的に評価している[38]

11月には小説『腐ってゆく魔術師』がアンドレ・ドランの挿絵(版画)入りで刊行された。翌1910年には短編集『異端教祖株式会社』を発表。ゴンクール賞候補作になった(同年の受賞作はルイ・ペルゴーフランス語版の短編集『キツネからカササギまで』)[5][39]。さらに1911年3月には処女詩集『動物詩集』がラウル・デュフィの挿絵(版画)入りで発表された。この詩集に収められた詩はすべて動物を描いたものであり、その多くがフランシス・プーランクによって作曲され、アルバム名もそのまま『動物詩集』として発表されている[40]

モナ・リザ盗難事件

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《モナ・リザ》が見つかったことを報じる1913年12月13日付『ル・プティ・パリジャン』紙

1911年8月21日にルーヴル美術館からレオナルド・ダ・ヴィンチの《モナ・リザ》が盗まれたとき、アポリネールは共犯の疑いでサンテ刑務所に収容された。これについては、アポリネール(または彼を含む前衛画家や詩人)が、一種の挑発として《モナ・リザ》(またはルーヴル)を「燃やしてしまえ」と言い放ったこととしばしば関連付けられるが[41][42]、彼はこうした発言のために窃盗容疑をかけられたわけではない。当時彼の秘書(または雑用係)をしていたベルギー生まれのジェリ・ピエレがルーヴル美術館から古代の小彫像を盗み出した事件との関連で逮捕されたのである。ピエレはすでに数年前にルーヴルから盗んだ彫像2点をピカソに売りつけ、姿をくらましていた。パリに戻ったときにアポリネールの秘書として雇われたが、1911年5月に再びルーヴルから彫像を盗み出した。住み込みの秘書であったため、盗品はアポリネールのアパートに置かれていた。この3か月後にモナ・リザ盗難事件が起こったのである。犯人逮捕のために国境を封鎖するほどの大事件となり、ピエレの窃盗に気づいていたアポリネールは不安にかられた。ピエレに返却するよう勧めたが、彼はこれに応じるどころか、むしろ買い手を探してほしいと言うばかりであった。アポリネールはピカソに相談した。買い取った彫像が盗品であることを知らなかった彼は愕然とし、セーヌ川に投げ捨てようという話にすらなったが、それもためらわれ、当時、アポリネールが寄稿していた『パリ・ジュルナル』紙に頼んで、匿名で盗品を返してもらうことになった。『パリ・ジュルナル』紙はこれを引き受けたが、警察の目に留まり、アポリネールは家宅捜査を受けて逮捕・投獄され、ピカソも召喚された[43][44]

アポリネールの逮捕に対して、釈放を求める署名運動が起きた。署名を主導したのはアンドレ・ビイ(Andre Bie)やルネ・ダリーズフランス語版で、他にオクターヴ・ミルボーアンドレ・サルモンフランス語版アンリ・バルビュスらがアポリネールを擁護した。しかしアポリネールに反感を持つ者も多く、形勢は五分五分となった[45]。結局は、すでにパリからベルギーへ逃亡したピエレが予審判事宛にアポリネールの無罪を証明する手紙を送ったため、1週間後に釈放されることになったが、アポリネールもピカソも外国人であったために、新聞にゼノフォビア的な記事を書き立てられ、大きな精神的痛手を負うことになった(真犯人ビンセンツォ・ペルージャが逮捕され、《モナ・リザ》がルーヴル美術館に返却されたのは2年後のことである)[44][43]。「ラ・サンテ刑務所にて(獄中歌)」は、このとき、文字通り、獄中で書かれた詩である。また、この事件が起こったときには、ローランサンの心も離れていたとされる[4][46]

『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌

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こうしたアポリネールを励まし支援するために、彼の古くからの友人であるアンドレ・ビリーフランス語版、ルネ・ダリーズ、アンドレ・サルモン、アンドレ・チュデスク[47] が新しい活動の場として1912年2月、月刊美術・文学雑誌『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』を創刊した[48][49][50][51]。経済的な理由により、1913年6月の第17号でいったん終刊となり、同年11月にアポリネールが編集長となって再刊された。このため、第17号までを第一シリーズ、これ以後、第一次大戦が勃発した1914年の8月の最終号までを第二シリーズとしている。第一シリーズの寄稿者はジャック・ディソールフランス語版フランシス・カルコフランス語版ジャン・ポーランらを含む多彩な顔ぶれだが、第二シリーズはむしろ芸術評論誌として重要な役割を担うことになり、アポリネールが後に「カリグラム」と名付ける「絵画詩」を同誌に発表することになるのも、このような文脈においてである[52]。また、本誌掲載の「ミラボー橋」、「地帯」、「クロチルド」、「アンニー」、「狩の角笛」、「マリー」などは1913年刊行の代表作『アルコール』に収められ、美術評論は『キュビスムの画家たち』として同じく1913年に刊行されることになる。詩集の書名は、当初は『蒸留酒』する予定であったが、最終的にはより奇抜な『アルコール』とした[1]

詩集『アルコール』

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『キュビスムの画家たち』の表紙

詩集『アルコール』には過去15年にわたって書かれた詩が収められているが、編纂時に伝統的な詩法に反して句読点をすべて削除した自由律を用いた。これについて詩人は、「本当の句読点」とは「詩句の持つリズムと区切り」であり、「他のものは必要がない」からであると説明している[37][53][54]浅野晃は、アポリネールは「『アルコール』を出すに及んでまったく独自の詩人となった」とし、さらに金子光晴の言葉を引用して、「フランスの詩はアポリネールでまったく違ってしまった」と評している[55]。また、窪田般彌は、1913年刊行の2冊の画期的な書物『アルコール』と『キュビスムの画家たち』によって、アポリネールは「時代のパイオニア」となったと表現している[5]

美術評論『キュビスムの画家たち』

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『キュビスムの画家たち』は、「新しい画家たち」としてピカソ、ブラック、ローランサン、ジャン・メッツァンジェアルベール・グレーズフアン・グリスフェルナン・レジェフランシス・ピカビアマルセル・デュシャンを紹介している[56]。アポリネールは本書によって美術史上の革新運動の主導者・指導者として位置付けられることになるが、同時にまた、副題「美の省察」が示すように、本書はキュビスムの画家論・作品論にとどまらず、アポリネール自身の芸術論・詩論でもある[57]

だが、一方で、このような独自の芸術論・詩論に基づいてキュビスムをあまりにも強く支持したために、翌1914年、1910年5月以降担当していた『ラントランジジャンフランス語版(非妥協者)』の芸術欄が廃止されることになった[1]。サルモンの仲介で参加した同紙は、当時、パリで最も販売部数の多い夕刊紙であり、アンドレ・ビリー、アラン=フルニエ、マックス・ジャコブらも寄稿していた。いわば、美術評論家としての地位を確立することになった重要な活動の場だったのである[58]

さらに同じ1913年に発表した冊子『未来派の反伝統 ― 宣言・総括』[59] は、イタリア未来派に対するアポリネールの擁護か批判か、解釈が分かれているが、少なくとも評論家アポリネールは、未来派をキュビスムに対立する運動として位置づけており、一方で個人的にはフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティウンベルト・ボッチョーニを評価していたと考えられる[60]

カリグラム

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エッフェル塔を描いたカリグラム -「二等牽引砲兵」

図形詩とも呼ばれる「カリグラム」は、詩行を並べてある図形や絵を表わす方法であり、すでに古代ギリシア時代から存在したが[61]、文字を美しく書く(描く)カリグラフィー書道を含む)と表意文字を意味するイデオグラムを組み合わせたかばん語として「カリグラム」という言葉を生み出したのはアポリネールであり[53]、彼はこのような表現によって「芸術、音楽、絵画、文学の統合」への一歩を踏み出したとされる[62]。最初のカリグラム詩は、『レ・ソワレ・ドゥ・パリ』誌第25号に掲載された「手紙・大洋 (Lettre-Océan)」であり、最も頻繁に引用されるのは、没後の1918年に出版される『カリグラム英語版』所収の詩「二等牽引砲兵」に含まれる5つのカリグラム、特に文字でエッフェル塔を描いたものである。このエッフェル塔は « Salut monde dont je suis la langue éloquente que sa bouche ô Paris tire et tirera toujours aux allemands » という文章によって構成されている。これはエッフェル塔が世界に語りかけるという想定で、「こんにちは、世界よ。私はその(世界の)雄弁な舌だ。その口であるパリは(おお、パリよ)現在もそして未来も、ドイツ人らに対して舌を出している(侮蔑している)のだ」(試訳)という意味であり、第一次大戦中に書かれたこのカリグラムは、エッフェル塔をフランスの力の象徴として表現していると解釈される[63]

第一次大戦 - 兵役志願、負傷

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アポリネール(左)とルーヴェール(1914年7月撮影)

1914年7月、文芸新聞『コメディアフランス語版』からの依頼で、画家・風刺漫画家のアンドレ・ルーヴェールフランス語版とともにカルヴァドス県ドーヴィルの夏の音楽・芸術の祭典を取材することになった。だが、第一次大戦の勃発により7月31日に総動員令が発せられたため、急遽、パリに戻った。現在目にすることのできるアポリネールの動画は、このとき、ポワソニエール大通りのある店舗で実験的に撮影されたものである[64][65]

総動員令が発せられたとはいえ、アポリネールのような外国人は対象外であり、志願したとしても許可が下りるのは難しかったが、にもかかわらず、彼は8月10日、帰化申請と併せて兵役に志願した[1]。9月に戦争の脅威が迫るパリを離れて南仏ニースに向かった。許可が下りるのを待つ間に、ルイーズ・ド・コリニー=シャティヨンフランス語版(通称「ルー」)に出会った。かつてジュヌヴィエーヴ=マルグリット=マリー=ルイーズ・ド・ピヨー・ド・コリニー=シャティヨン伯爵夫人を名乗った女性だが、2年前に離婚し、当時はサン=ジャン=カップ=フェラの従姉のもとに身を寄せていた。アポリネールは彼女宛に1914年9月28日から1916年1月18日までの間に220通の手紙を書いている[4]。また、ルー宛の手紙に書かれた詩は没後『ルー詩篇』として刊行されることになる。

12月4日に兵役志願の許可が下り、12月6日にニームの野戦砲兵第38連隊に入隊した。年末に休暇を取ってルーに会いにマルセイユに行ったが、ルーにとっては戯れの恋にすぎないことをアポリネールは感じ取っていた[4]。1915年1月2日、休暇から戻る車中で、アルジェリア人(オラン在住)の女性マドレーヌ・パジェスフランス語版に出会った。これ以後、ルーに対してと同様に、マドレーヌ宛に200通余りの手紙を送り、後に『マドレーヌへの秘めごとの詩篇』(1949年、代表的な性愛の詩として知られる「きみのからだの九つの扉」を含む)および『思い出のように優しく』(1952年)と題して刊行されることになる。アポリネールはマドレーヌの母親に結婚を許可され、1915年末の数日の休暇を婚約者としてオランのマドレーヌの家で過ごすことになった[1][4]

アポリネールと妻ジャクリーヌ(1918年、フランス国立図書館蔵)

この間、1915年11月18日に、アポリネール自身の希望によりマルヌ県タユールフランス語版の第96歩兵連隊に配属された。1916年3月9日に帰化申請が許可された。だが、この直後の3月17日、最前線の塹壕で流れ弾を受けた。弾丸はヘルメットを貫通して右のこめかみに食い込んだ。野戦病院で応急手術を受けた後パリに移送され、3月28日にヴァル・ド・グラース病院に入院したが、友人セルジュ・フェラが勤務していたイタリア病院に転院することになった。さらに、この外傷により血腫が生じ、5月にヴァル・ド・グラース陸軍病院別館で開頭による血腫除去術が行われた[66]。多くの友人が見舞いに来た。その一人が、かつてモンパルナスで会った女性、アポリネールが「きれいな赤毛の女」と呼んだジャクリーヌ・コルブ[67] であった。ジャクリーヌは献身的に看病した。1916年5月17日、クロワ・ド・ゲール勲章フランス語版を受けた。

シュルレアリスムの先駆

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1917年に入ってようやく文学活動を再開し、アンドレ・ブルトンフィリップ・スーポーピエール・ルヴェルディら後のシュルレアリストとの交流が始まった。同年3月にはルヴェルディ、マックス・ジャコブとともに前衛芸術・文学雑誌『南北』を創刊。パリの2つの前衛芸術家・文学者の活動拠点モンマルトル(パリ北部)とモンパルナス(パリ南部)をつなぐ地下鉄が開通したことに因んで命名され、この2つの拠点をつなぐことを意図したものであった[68]

1917年から翌年にかけて、アポリネールは≪メルキュール・ド・フランス≫誌の消息欄に、ユリアヌスプリニウスが書いている荒唐無稽な話を取り上げて、王にさせられた犬の名前を引用した。それによれば、紀元230年頃に、とある君主が復讐のためにスエニングという名前の犬をノルウェー王に推挙したということである。[69]

アポリネールと妻ジャクリーヌの墓(ペール・ラシェーズ墓地)

1917年5月18日、シャトレ座ジャン・コクトー台本エリック・サティの音楽、ピカソの舞台芸術レオニード・マシーン振付による前衛バレエパラード』の初演が行われた。このプログラムを書いたアポリネールは、ここで初めて「シュルレアリスム」という言葉を用いた。ただし、厳密にはハイフンの入った形容詞 sur-réaliste として使用し、翌1918年刊行・上演の自作『ティレジアスの乳房』の序文で surréalisme と表記した[5]。『ティレジアスの乳房』は文字通り、シュルレアリスム演劇の先駆となった[70]

1918年4月にメルキュール・ド・フランス出版社から『カリグラム』(副題:平和と戦争の詩篇 1913-1916)刊行。5月2日にサン=トマ=ダカン教会でジャクリーヌと結婚。立会人はピカソと美術商アンブロワーズ・ヴォラールであった。ジャン・コクトーは祝いにエジプトの小彫像を贈り、アポリネールはこれに対して感謝の詩を贈っている[66]。だが、同年11月9日、わずか半年の結婚生活の後、スペイン風邪により38歳で死去。軍人障害年金及び戦争の犠牲者に関する法典[71] (Code des pensions militaires d'invalidité et des victimes de guerre) により、戸籍に「フランスのために死す」と記された[72]

1967年に死去したジャクリーヌとともに、ペール・ラシェーズ墓地に眠る。

作品

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著書

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詩集

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邦題 原題 書誌情報
『動物詩集 又はオルフェさまの供揃い』 Le Bestiaire ou Cortège d'Orphée Deplanche, 1911 - ラウル・デュフィによる版画
『アルコール』 Alcools Mercure de France, 1913 - 過去15年間に書かれた詩を編纂
『そして私も画家』 Et moi aussi je suis peintre 「抒情的・彩色カリグラム集」として1914年印刷・製本。第一次大戦勃発により刊行を見合わせ、『カリグラム』に所収。
『恋に命を (Vitam impendere amori)』 Vitam impendere amori Mercure de France, 1917 - アンドレ・ルーヴェールによる挿絵
『カリグラム ― 平和と戦争の詩篇 1913-1916』 Calligrammes, poèmes de la paix et de la guerre 1913-1916 Mercure de France, 1918
『…がある』(遺稿詩集) Il y a... Albert Messein, 1925 - 「スタヴロ詩篇」を含む
『わが愛の影』 Ombre de mon amour Cailler, 1947 - ルー(ルイーズ・ド・コリニー=シャティヨン)宛の詩
『マドレーヌへの秘めごとの詩篇』 Poèmes secrets à Madeleine 海賊版、1949 - 「きみのからだの九つの扉」を含む
『わびしい監視兵』 Le Guetteur mélancolique Gallimard, 1952 - 未発表の詩篇
『ルー詩篇』 Poèmes à Lou Cailler, 1955
『ソルド ― ギヨーム・アポリネールの未発表の詩篇』 Soldes: poèmes inédits de Guillaume Apollinaire Fata Morgana « Bibliothèque artistique et littéraire », 1985 - ピエール・ケゼルグフランス語版の序文、マックス・ジャコブによる肖像、アポリネールによる挿絵
戦争詩篇 Poèmes en guerre Les Presses du Réel, 2018 - 1914年から1918年までの間に書かれた詩を編纂

小説・短編集

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邦題 原題 書誌情報
『ミルリーまたは安価な小さい穴』 Mirely ou le Petit Trou pas cher 1900 - 偽名で執筆した性愛小説、原稿は現存しない。
『何をすべきか』 Que faire ? 1900 - ゴーストライターとして『ル・マタン』紙に連載した小説
『一万一千本の鞭』 Les Onze Mille Verges 1907 - 匿名 (G.A.) で発表した性愛小説、発禁処分、1970年再刊
『腐ってゆく魔術師』 L'Enchanteur pourrissant Kahnweiler, 1909 - アンドレ・ロランによる版画
『異端教祖株式会社』 L'Hérésiarque et Cie Stock, 1910 - 短編集
『若きドン・ジュアンの冒険』 Les Exploits d'un jeune Don Juan 1911 - 匿名で発表した性愛小説、1987年、ジャンフランコ・ミンゴッツィフランス語版監督により映画化(邦題『蒼い衝動』)
『ボルジア家のローマ』 La Rome des Borgia Bibliothèque des Curieux, 1914 - 性愛小説または歴史小説、後にルネ・ダリーズとの共著として再刊
『バビロンの終末』 La Fin de Babylone Bibliothèque des Curieux, 1914 - 性愛小説または歴史小説
『3人のドン・ジュアン』 Les Trois Don Juan Bibliothèque des Curieux, 1915 - 性愛小説または歴史小説
『虐殺された詩人』 Le Poète assassiné Bibliothèque des Curieux, 1916 - 小説のシュルレアリスム
『坐る女』 La Femme assise Gallimard, 1920 - 未完の小説
『ピン』 Les Épingles Les Cahiers Libres, 1928 - 短編集
「整形外科」「甲状腺の治療」- 共著『身体と精神』 Le Corps et l’Esprit (Inventeurs, médecins & savants fous) Bibliogs, Collection Sérendipité, 2016 - 2作品は1918年発表

評論

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邦題 原題 書誌情報
「新ファランジュ」- 共著『象徴主義の詩 ― アンデパンダン展 (1908) における詩人たちの午後』 « La Phalange nouvelle », La Poésie Symboliste. L'après-midi des poètes au Salon des Artistes Indépendants (1908) L'Edition, 1909
『マルキ・ド・サドの作品』 L'Œuvre du Marquis de Sade Bibliothèque des Curieux, 1909 - 編纂・紹介文と注釈
『イタリア劇』 Le Théâtre italien Louis Michaud, « Encyclopédie littéraire illustrée », 1910
『歴史的事件 ― フランス大世紀の年代記』 Pages d'histoire, Chronique des grands siècles de France Les Arts Graphiques, 1912
『キュビスムの画家たち ― 美の省察』 Les Peintres cubistes. Méditations esthétiques Eugène Figuière & Cie, 1913 ; Hermann, 1965
『未来派の反伝統 ― 宣言・総括』 L'Antitradition futuriste, manifeste-synthèse 1913 - 冊子
『国立図書館の地獄』 L'Enfer de la Bibliothèque nationale Mercure de France, 1913 - フェルナン・フルーレフランス語版ルイ・ペルソーフランス語版との共著
『ロシア・バレエ「パラード」のプログラム、新精神』 Programme des Ballets russes « Parade » et l’esprit nouveau Rouart Lerolle, 1917 - 共著
『両岸の散歩者』 Le Flâneur des deux rives Éditions de la Sirène, 1918 - 新聞・雑誌掲載のコラム
『新精神と詩人たち』 L'Esprit nouveau et les poètes Mercure de France 1918

演劇

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邦題 原題 書誌情報
『ティレジアスの乳房』 Les Mamelles de Tirésias 1917 - シュルレアリスムの演劇
『時の色 ― 韻文による三幕劇』 Couleur du temps 1918
『カザノヴァ ― パロディ風喜劇』 Casanova, Comédie parodique Gallimard, 1952

書簡集

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邦題 原題 書誌情報
『代母への手紙 1915-1918』 Lettres à sa marraine 1915-1918 Pour les fils du Roi, 1948
『思い出のように優しく ― マドレーヌ・パジェスへの手紙』 Tendre comme le souvenir, lettres à Madeleine Pagès Gallimard, 1952 ; (増補改訂版) 2005
『ギヨーム・アポリネール ― 弟、母との書簡集』 Guillaume Apollinaire : correspondance avec son frère et sa mère José Corti, 1987
『芸術家との書簡集』 Correspondance avec les artistes Gallimard, 2009
『全書簡集』(全5巻) Correspondance générale Honoré Champion, 2015

日本語訳

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アポリネールの詩は主に堀口大學訳として知られる。窪田般彌はアポリネールのほとんどの作品を翻訳している。また、鈴木豊も主に散文作品を訳しているが、性愛文学作品『若きドン・ジュアンの冒険』と『一万一千の鞭』の翻訳は須賀慣の名義で発表している。全集は1959年に紀伊國屋書店から刊行され、1979年に青土社から『アポリネール全集』全4巻が刊行された。

動物詩集

  • 堀口大學訳『動物詩集 ― オルフェさまのお供の衆』第一書房、1925年、改題『動物詩集 又はオルフェさまの供揃い』求龍堂、1978年
  • 窪田般彌訳『アポリネール動物詩集』評論社(児童図書館・絵本の部屋)絵:山本容子、1991年

腐ってゆく魔術師

  • 窪田般彌訳『腐ってゆく魔術師』青銅社、1978年(アンドレ・ドラン挿絵)、沖積舎、2014年

虐殺された詩人

  • 窪田般彌訳『虐殺された詩人』白水社、1975年
  • 鈴木豊訳『虐殺された詩人』講談社文庫、1977年; 講談社文芸文庫、2000年(虐殺された詩人 / 月の王 / ジョヴァンニ・モローニ / ご寵愛を受けた女 / 影が消えた / 死後の婚約者 / 青い目 / 神さまとして崇められた不具者 / 聖女アドラータ / おしゃべり回想 / 男女混成賭博クラブでの出会い / 現代魔術の小処方箋 / 鷲狩り / アーサー、過ぎし日の王、来るべき日の王 / 友メリタルト / 仮面の砲兵伍長の事件、すなわち復活した詩人)
  • 窪田般彌訳「仮面の砲兵伍長奇談すなわち蘇生した詩人 ― アンドレ・デュポンの思い出に」「影の散歩」窪田般彌、滝田文彦共編『フランス幻想文学傑作選 3 (世紀末の夢と綺想)』白水社、1983年所収(目次・書誌情報

異端教祖株式会社(本書所収作品を含む)

  • 窪田般彌訳『異端教祖株式会社』白水社(白水Uブックス)1989年; 晶文社、1972年(プラーグで行き逢った男 / 涜聖 / ラテン系のユダヤ人 / 異端教祖 / 教皇無謬 / 神罰三つの物語 / 魔術師シモン / オトゥミカ / ケ・ヴロ・ヴェ? / ヒルデスハイムの薔薇 あるいは東方三博士の財宝 / ピエモンテ人の巡礼 / オノレ・シュブラックの失踪 / アムステルダムの船員 / 徳高い一家庭と負篭と膀胱結石の話 / 詩人のナプキン / 贋救世主アンフィオン ― ドルムザン男爵の冒険物語)
  • 鈴木豊訳『異端教祖株式会社』講談社(講談社文庫)1974年(窪田般彌訳のほか、ガイド / 傑作映画 / ロマネスクな葉巻 / レブラ / コックス=シティ / 遠隔操作)
  • 祖父江登訳『偽救世主ランフイヨン ― 或はドルムザム男爵の冒険』紅玉堂書店、1930年
  • 辰野隆鈴木信太郎堀辰雄共訳『贋救世主アンフィオン ― 一名ドルムザン男爵の冒険物語』野田書房、1936年(目次・書誌情報)、沖積舎、2005年
  • 川口篤訳『オノレ・シユブラツクの喪失・アムステルダムの水兵』白水社(仏蘭西語入門叢書 第3篇)1934年
  • 堀辰雄訳『アムステルダムの水夫』山本書店(山本文庫18)1936年(目次・書誌情報
  • 窪田般彌訳『ヒルデスハイムの薔薇 他十五篇 』角川書店、1961年

若きドン・ジュアンの冒険

  • 硲陽一郎訳『若きドン・ジュアンの冒険』学芸書林、1971年(書誌情報
  • 福富操訳『ドン・ジュアン手柄話』出帆社、1975年
  • 須賀慣訳『若きドン・ジュアンの冒険』角川書店、1975年; 富士見ロマン文庫、1983年; グーテンベルク21(Kindle版)、2015年
  • 窪田般彌訳『若きドン・ジュアンの手柄ばなし』河出書房新社河出文庫)1997年

一万一千本の鞭

  • 学芸書林編集部訳『壱万壱千鞭譚』学芸書林、1972年
  • 須賀慣訳『一万一千本の鞭 ― 太守の色道遍歴』二見書房、1972年(書誌情報
  • 須賀慣訳『一万一千本の鞭』角川書店、1974年; Kindle版、2002年(書誌情報富士見ロマン文庫、1983年
  • 飯島耕一訳『一万一千の鞭』河出書房新社(河出文庫)1997年

キュビスムの画家たち(美の省察)

  • 斎藤正二訳『キュビスムの画家たち』緑地社、1957年(美の省察 / 新しい画家たち / ピカソ / ジョルジュ・ブラック / ジャン・メザンジェール / アルベール・グレエズ / マドモワゼル・マリ・ローランサン / ジュアン・グリ / フェルナン・レジェ / フランシス・ピカビア / マルセル・デュシャン)
  • 江原順、小海永二共訳『立体派の画家たち ― 美学的省察』昭森社(今日の芸術叢書2)1957年

その他

  • 根岸達夫『愛の神秘』浪速書房、1969年(書誌情報
  • 安堂信也訳「ティレシアスの乳房」『現代世界演劇1 ― 近代の反自然主義 (1)』白水社、1970年所収
  • 堀口大學訳『アポリネール遺稿詩篇』昭森社、1972年(書誌情報
  • 窪田般彌訳『詩の朗読会 フランス編』河出書房新社(河出文庫)2003年
  • 大橋尚泰訳「二等牽引砲兵」『フランス人の第一次世界大戦 - 戦時下の手紙は語る』、えにし書房、2018年所収

詩集、短編集、全集

  • 堀口大學訳『アポリネエル詩抄』第一書房、1928年(目次・書誌情報
  • 堀口大學訳『アポリネール詩集』創元社(世界現代詩叢書 第7)1953年(目次・書誌情報
  • 堀口大學訳『アポリネール詩集』新潮文庫、1954年、1969年、2007年(目次・書誌情報
  • 飯島耕一訳『アポリネール詩集』彌生書房(世界の詩45)1967年(詩集『アルコール』より / 地帯 / ミラボー橋 / 恋を失った男の歌 / いぬサフラン / アンニー / クロチルド / 行列 / マリジビル / 旅行者 / マリー / 白い雪 / アンドレ・サルモンの結婚式で読まれた詩 / わかれ / 門 / ランダー街の移民 / ローズモンド / ライン河の夜 / ローレライ / 婚約 / 一九〇九年 / ラ・サンテ監獄で / 狩の角笛 / 詩集『カリグラム』より / 窓 / 月曜日クリスチーヌ街 / 演習 / 恋の歌 / 美しい赤毛の女 / その他の詩 / 映画に行くまえ / 一篇の詩 / 税関吏の思い出 / (おまえのことを……) / ルウの花飾り / 四十雀 / きみが頽廃について語ったので… / きみのからだの九つの扉 / 第二の秘詩 / マドレーヌ一人に / 第四の秘詩 / 塹壕)目次・書誌情報
  • 窪田般彌訳『アポリネール詩集』ほるぷ出版、1982年
  • 窪田般彌訳『アポリネール傑作短篇集』福武書店(福武文庫)1987年
  • 窪田般彌訳『アポリネール詩集』小沢書店(双書・20世紀の詩人1)1992年
  • 鈴木信太郎、渡辺一民編『アポリネール全集』紀伊國屋書店、1959年(鈴木信太郎、川口篤、佐藤朔室井庸一、渡辺一民訳「異端教祖株式会社」、渡辺一民訳「キュービスムの画家たち」、福永武彦村松剛菅野昭正、渡辺一民訳「アルコール」、鈴木信太郎、山川篤、佐藤朔、菅野昭正、渡辺明正、渡辺一民、室井庸一訳「虐殺された詩人」、佐藤朔、窪田啓作、菅野昭正、飯島耕一、渡辺一民訳「カリグラム」、渡辺一民訳「波浪」、渡辺一民訳「軍旗」、佐藤朔訳「カーズ・ダルモン」、窪田啓作、渡辺一民訳「発射光」、飯島耕一訳「月の色の砲弾」、菅野昭正訳「星がたに傷ついた頭」、若林真「新精神と詩人たち」、清水徹訳「新しい詩人たち」、鈴木信太郎、渡辺一民訳「腐ってゆく魔術師」、白井浩司阿部良雄訳「美術論集」、金子博訳「作家論集」)(目次・書誌情報
  • アポリネール全集』(全4巻)青土社、1979年
    • 第1巻:堀口大學訳「動物詩集 ― またはオルフェ様の供揃え」/ 飯島耕一、入沢康夫、窪田般彌訳「アルコール」/ 飯島耕一訳「カリグラム ― 平和と戦争の詩 (1913-1916)」/ 堀口大學訳「遺稿詩篇」
    • 第2巻:窪田般彌訳「腐ってゆく魔術師」、「異端教祖株式会社」、「虐殺された詩人」、「拾遺コント集」
    • 第3巻:宇佐美斉訳「坐る女 ― 現代の風俗と驚異の物語(フランスおよびアメリカ年代記)」/ 飯島耕一訳「一万一千の鞭(抄)」/ 窪田般彌訳「若きドン・ジュアンの手柄咄」/ 安東信也訳「ティレシアスの乳房 ― シュルレアリスム演劇」/ 釜山健訳「時の色 ― 韻文による三幕劇」/ 窪田般彌訳「カザノヴァ ― パロディ風喜劇」
    • 第4巻:ミシェル・デコーダンフランス語版編、堀田郷弘訳「ルーへの手紙」、「友人たちへの手紙」

作品を含む研究書

  • 河上徹太郎『アポリネールの恋文』垂水書房、1965年
  • 飯島耕一『アポリネール』美術出版社(美術選書)1966年(目次・書誌情報
  • ピエール・マルセル・アデマ著、鈴木豊訳『虐殺された詩人 アポリネール』講談社、1977年
  • ジョルジュ・ヴェルニュ著、吉田軍治訳『アポリネールの情熱的生涯』牧神社、1977年
  • ユリイカ・特集アポリネール』(青土社、1979年1月)(訳詩のほか、滝田文彦「アポリネールの今日的意義」、湯浅博雄「アポリネールの現代性」、宇佐美斉「夢みられた自伝」、堀田郷弘「ルーへの手紙」、河盛好蔵「ミラボー橋界隈」、佐藤朔「アポリネールのシャンソン」、ジャン・モレフランス語版、ジャン・コクトー、アントワーヌ・フォンガロのアポリネール論、飯島耕一、鈴木志郎康の対談「現代詩から見たアポリネール」)
  • 堀田郷弘『アポリネールの恋の詩と真実』高文堂出版社(人間活性化双書)1988年

影響

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アポリネールの詩は、フランシス・プーランク(声楽曲『動物詩集』、歌劇『ティレジアスの乳房』など)、ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(『交響曲第14番』第3楽章から第8楽章)、ボフスラフ・マルティヌージャック・ルゲルネイフランス語版モーリス・ジョベールイヴ・ナットアルテュール・オネゲルルネ・レイボヴィッツイザベル・アブルケルフランス語版レノックス・バークリーギィ・サクルフランス語版カイヤ・サーリアホクシシュトフ・バツレフスキポーランド語版ラファウ・アウグスティンポーランド語版ジャン・アプシルルカーシュ・フルニークチェコ語版リオネル・ドーネフランス語版レオ・フェレイェンス=ペーター・オステンドルフドイツ語版アリアンナ・サヴァールフランス語版ウィル・トッド英語版ハワード・スケンプトン英語版アール・キムなど多くの作曲家が曲を付けている。最も多くの曲を発表しているのはプーランクであり、また、レオ・フェレをはじめとして複数の作曲家が「ミラボー橋」を声楽曲として発表している[73]

アポリネールの肖像として、上述のアンリ・ルソー作《詩人に霊感を与えるミューズ》(油彩、1909年、バーゼル市立美術館蔵)のほか、ジョルジュ・デ・キリコ《ギヨーム・アポリネールの(予兆的)肖像》油彩、1914年、国立近代美術館蔵)[74] が有名だが、「予兆的」という言葉は、この2年後にアポリネールが第一次大戦で弾丸を受けたこめかみに傷があるからであり、後に題名に追加されたものである[75]。また、マリー・ローランサンも《アポリネールと彼の友人たち》(油彩、1909年、国立近代美術館蔵)などにアポリネールを描いている。このほか、パブロ・ピカソ《二分された頭像(アポリネールの肖像)》(木炭画、1908年、ピカソ美術館蔵)、マルク・シャガール《アポリネールへのオマージュ》(油彩、1913年、ファン・アベ美術館)、マルク・シャガール《アポリネールの肖像》(水彩、1913-1914年、国立近代美術館蔵)[76]ルイ・マルクーシ《監獄のアポリネール》版画、1911年、パリ市歴史図書館フランス語版)、ロベール・ドローネー《ギヨーム・アポリネールの肖像》(グアッシュ、1911-1912年、国立近代美術館蔵)[77] マルセル・デュシャン《アポリネールの肖像(パイプをふかす横顔》(クレヨン画、1912年、個人蔵)など、アポリネールの肖像や彼の作品を題材にした絵画が多数制作され、2016年にはオランジュリー美術館で「アポリネール、詩人のまなざし」と題する展覧会が開催された[78]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j Catherine Moore, Laurence Campa, Mark Moore. “Guillaume Apollinaire site officiel: Biographie: Chronologie” (フランス語). www.wiu.edu. Western Illinois University. 2019年12月21日閲覧。
  2. ^ Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky dit Guillaume Apollinaire” (フランス語). www.larousse.fr. Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne. 2019年12月21日閲覧。
  3. ^ 堀田郷弘は本名をWilhelm-Albert-Vladimir-Alexandre Apollinaris de Kostrowitzkyとし(「アポリネールの恋の詩と真実」)、窪田般彌は「ギヨーム・アルベール・ウラジミール・アレクサンドル・アポリネール・コストロウィツキー」と表記している(「アポリネール」)。
  4. ^ a b c d e f g h i j 堀田郷弘「アポリネールの恋の詩と真実」『城西人文研究』第14巻、城西大学経済学会、1987年2月、252-221頁。 
  5. ^ a b c d e 窪田般彌. “アポリネール”. コトバンク. 小学館『日本大百科全書(ニッポニカ)』. 2019年12月21日閲覧。
  6. ^ a b c d e André Parinaud (1997). “Chapitre I - Fils de son père” (フランス語). Apollinaire: 1880-1918. Jean-Claude Lattès 
  7. ^ Ange Toussaint-Luca (1879-1932)” (フランス語). data.bnf.fr. Bibliothèque nationale de France. 2019年12月21日閲覧。
  8. ^ ワロン地方:スタヴロ”. www.belgium-travel.jp. ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル. 2003年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月21日閲覧。
  9. ^ Eugène Gaillet (1845-1910)” (フランス語). data.bnf.fr. Bibliothèque nationale de France. 2019年12月21日閲覧。
  10. ^ Mélodie Simard-Houde. “Guillaume Apollinaire, Henry Desnar et Eugène Gaillet, Que faire?, roman-feuilleton du Matin” (フランス語). fabula.org. Fabula. 2019年12月21日閲覧。
  11. ^ Sommaire : Que faire ? Roman-feuilleton de G. Apollinaire, H. Desnar et E. Gaillet paru dans Le Matin en 1900” (フランス語). medias19.org. 2019年12月21日閲覧。
  12. ^ a b Jacqueline Gojard (1995-04-12). “Sources et ressources de Guillaume Apollinaire et de quelques-uns de ses contemporains”. In Michel Décaudin. Apollinaire en son temps. Presses Sorbonne Nouvelle. pp. 11-36 
  13. ^ Apollinaire expert dans « La Grâce et le maintien français »” (フランス語). Les Soirées de Paris. 2019年12月21日閲覧。
  14. ^ "Les Onze Mille Verges" d'Apollinaire, pire que Sade ?” (フランス語). France Culture (2018年11月9日). 2019年12月21日閲覧。
  15. ^ a b Lugan Mikaël (2016/1). Le Festin d’Ésope Première revue / première œuvre de Guillaume Apollinaire” (フランス語). La Revue des revues (55): 6-15. https://www.cairn.info/revue-la-revue-des-revues-2016-1-page-6.htm. 
  16. ^ a b c Laurence Campa (2014年12月1日). “Guillaume Apollinaire et ses peintres” (フランス語). Le Monde diplomatique. 2019年12月21日閲覧。
  17. ^ 森田郁子「アポリネール『婚約』の分析」『仏文研究』第11巻、京都大学フランス語学フランス文学研究室、1982年1月25日、294-309頁。 
  18. ^ Caron, Jean-Claude (2011-11-13). “La Revue blanche. 1871, enquête sur la Commune, introduction et notes de Jean Baronnet, Paris, Les Éditions de l’Amateur, 2011, 205 p. ISBN 978-2-85917-514-6. 17 euros.” (フランス語). Revue d'histoire du XIXe siècle. Société d'histoire de la révolution de 1848 et des révolutions du XIXe siècle (43): 169. ISSN 1265-1354. http://journals.openedition.org/rh19/4185. 
  19. ^ La Revue blanche (Paris. 1891) - 13 années disponibles - Gallica” (フランス語). gallica.bnf.fr. Gallica - Bibliothèque nationale de France. 2019年12月21日閲覧。
  20. ^ Claire Paulhan (2007年12月6日). “"La Revue blanche" : tout l'esprit d'une époque” (フランス語). Le Monde. https://www.lemonde.fr/livres/article/2007/12/06/la-revue-blanche-tout-l-esprit-d-une-epoque_986376_3260.html 2019年12月21日閲覧。 
  21. ^ a b André Parinaud (1997). “Chapitre III - Le Festin d’Ésope, Dieu, le diable et les anges” (フランス語). Apollinaire: 1880-1918. Jean-Claude Lattès 
  22. ^ a b 伊勢晃「アポリネールと文学批評(1) ― 雑誌 Le Festin d'Esope を中心に」『年報・フランス研究』第42号、関西学院大学文学部・文学研究科、2008年12月25日、1-11頁、ISSN 09109757 
  23. ^ a b Le Festin d’Ésope (1903-1904)” (フランス語). www.revues-litteraires.com. 2019年12月21日閲覧。
  24. ^ Le Festin d’Ésope. Première revue / première œuvre de Guillaume Apollinaire” (フランス語). Ent’revues. 2019年12月21日閲覧。
  25. ^ Laurent Arzel. “Apollinaire et la presse”. gallica.bnf.fr. Le blog de Gallica, Bibliothèque nationale de France. 2019年12月21日閲覧。
  26. ^ Vers et Prose (1905-1914) (1ère série)” (フランス語). www.revues-litteraires.com. 2019年12月21日閲覧。
  27. ^ 吉川貴子「吉川貴子、メシスラス・ゴルベール『線の倫理』における芸術理論に関する一考察 ― アンリ・マティス、パブロ・ピカソの芸術理論的支柱としての役割を中心に」『美学』第66巻第2号、美学会、2015年、141頁。 
  28. ^ Les onze mille verges” (フランス語). Lamartine. 2019年12月22日閲覧。
  29. ^ LES ONZE MILLE VERGES - Maison de la Poésie” (フランス語). www.theatreonline.com. 2019年12月21日閲覧。
  30. ^ La Phalange (REVUE) : revue mensuelle de littérature et d'art / dir. Jean Royère” (フランス語). Bibliothèque Kandinsky - Centre Pompidou. 2019年12月22日閲覧。
  31. ^ 佐藤文郎「『腐ってゆく魔術師』とナルシスの問題」『仏語仏文学研究』第15巻、東京大学仏語仏文学研究会、1997年3月15日、141-154頁、ISSN 09190473 
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参考資料

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関連項目

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外部リンク

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