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2020年3月23日 (月) 14:43時点における版
高麗橋 | |
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基本情報 | |
国 | 日本 |
所在地 | 大阪市中央区(高麗橋-東高麗橋) |
交差物件 | 東横堀川 |
建設 | 1929年(昭和4年) |
構造諸元 | |
形式 | アーチ橋 |
関連項目 | |
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式 |
高麗橋(こうらいばし)は、大阪府大阪市中央区の東横堀川に架かる橋。または、同橋西詰以西の町名。
橋梁
大坂城築城に際して、西惣構堀として東横堀川が開削され、その際に架橋されたと言われており、慶長9年8月銘の擬宝珠が発掘されている。橋名の由来には、東詰付近に難波高麗館(なにわのこまのむろつみ)が置かれていた説と、朝鮮国使来朝のために架橋された説などがある。
明治3年(1870年)には大阪で最初の鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」などと通称された。設計は本木昌造で、資材はイギリスから輸入されたが、当時の日本の契約に対する認識不足により当初の2倍ほどの価格を完成後に追加請求され、外交上の問題にまで発展した。昭和4年(1929年)には大阪市の第一次都市計画事業の一環として鉄筋コンクリート製のアーチ橋に架け替えられた。
大坂に12あった公儀橋のひとつで、かつて高麗橋周辺は豪商の店舗が立ち並び、日本第一の商都・大坂の富が集中する、まさに大坂の心臓部であった。江戸時代から明治初期にかけ、京街道、中国街道、暗越奈良街道、紀州街道、亀岡街道などの起点が順次高麗橋に変更され、また明治政府は高麗橋東詰に里程元標を置き、西日本の道路の距離計算の起点とした。また西詰に高札場が設置されていた。しかし明治以後、東海道本線の大阪駅が梅田にできてからは商業の中心を梅田付近に奪われて往時の面影は失われ、現在の高麗橋は立ち並ぶ地味なビルの谷間に埋没した格好である。また現在は橋の真上に阪神高速1号環状線が覆いかぶさり、橋全体に暗い影を落としている。
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里程元標跡
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『写真浪花百景』より「高麗橋」。明治初期の姿を描いている。
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鉄橋時代の高麗橋
町名
高麗橋 | |
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北緯34度41分23.46秒 東経135度29分54.35秒 / 北緯34.6898500度 東経135.4984306度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 中央区 |
面積 | |
• 合計 | 0.100943256 km2 |
人口 | |
• 合計 | 968人 |
• 密度 | 9,600人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
541-0043[3] |
市外局番 | 06(大阪MA)[4] |
ナンバープレート | なにわ |
現行行政地名は高麗橋一丁目から高麗橋四丁目。
地理
船場のうち北から3番目の町で、北は今橋、南は伏見町・道修町、東は東横堀川を挟んで北浜東・東高麗橋、西は西横堀川跡の阪神高速1号環状線北行きを挟んで西区江戸堀とそれぞれ接する。
高麗橋1交差点(堺筋)には高麗橋野村ビル、三井住友銀行大阪中央支店(旧・三井銀行大阪支店)などの近代建築があり、以前には三越大阪店もあった。他には2丁目に料亭・吉兆の本店がある。
里程元標跡碑が建つ高麗橋東詰には、阪神高速1号環状線の高麗橋入口がある。
歴史
1872年(明治5年)まで、現在の3丁目と4丁目のうち丼池筋 - 御堂筋間は上人町(しょうにんまち)、御堂筋 - 御霊筋間は四軒町(しけんちょう)、御霊筋以西は大豆葉町(まめのはちょう)、西横堀川沿いは七郎右衛門町1 - 2丁目という町名だった。
江戸時代以来の高麗橋1 - 3丁目には呉服屋、両替屋、紙屋、苧麻屋などが集積していた。特筆されるのが越後屋の存在で、明治以降に三越と三井銀行、さらには三井物産(東洋棉花)となって行く。銀行は他にも、第一国立銀行大阪支店、第三十四国立銀行、第百三十国立銀行が設立され、高麗橋通は銀行街へと変貌した。
1962年(昭和37年)に埋め立てられた西横堀川には筋違橋が架橋されていた。
世帯数と人口
2019年(平成31年)3月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
高麗橋一丁目 | 484世帯 | 803人 |
高麗橋二丁目 | 121世帯 | 149人 |
高麗橋三丁目・四丁目 | 11世帯 | 16人 |
計 | 616世帯 | 968人 |
- 人口の変遷
国勢調査による人口の推移。
1995年(平成7年) | 59人 | [5] | |
2000年(平成12年) | 74人 | [6] | |
2005年(平成17年) | 90人 | [7] | |
2010年(平成22年) | 761人 | [8] | |
2015年(平成27年) | 975人 | [9] |
- 世帯数の変遷
国勢調査による世帯数の推移。
1995年(平成7年) | 21世帯 | [5] | |
2000年(平成12年) | 39世帯 | [6] | |
2005年(平成17年) | 70世帯 | [7] | |
2010年(平成22年) | 524世帯 | [8] | |
2015年(平成27年) | 630世帯 | [9] |
施設
その他
- 日本郵便
交通
鉄道
道路
バス
- 北浜二丁目
- 天神橋
出身者・ゆかりのある人物
- 加賀正太郎[11](大阪府多額納税者、資産家、加賀証券社長)
- 加賀千代子[11]
- 島定治郎(大阪府多額納税者、資産家、島貿易社長[12]、貴族院議員)
- 島徳蔵(大阪株式取引所理事長、阪神電気鉄道、日魯漁業各社長、相場師)
- 島葉那(家主)[12]
- 島秀(小児科医師)[12][13]
脚注
- ^ “大阪府大阪市中央区の町丁・字一覧”. 人口統計ラボ. 2019年10月4日閲覧。
- ^ a b “住民基本台帳人口・外国人人口”. 大阪市 (2019年7月26日). 2019年10月4日閲覧。
- ^ a b “高麗橋の郵便番号”. 日本郵便. 2019年8月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
- ^ a b 『日本紳士録 第38版』大阪オ、ヲ、カ之部78頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年10月19日閲覧。
- ^ a b c 『日本紳士録 第39版』大阪シ之部130頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年6月2日閲覧。
- ^ 『人事興信録 第11版 上』シ75頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月9日閲覧。
参考文献
- 交詢社編『日本紳士録 第38版』交詢社、1934年。
- 交詢社編『日本紳士録 第39版』交詢社、1935年。
- 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。