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「フェルナンド・セギノール」の版間の差分

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{{by|2006年}}は前半戦に極度の不振に陥り、一時は[[稲葉篤紀]]に4番の座を譲ることもあった。本塁打・打点は前年より少なく物足りなかったが、優勝争いを繰り広げていた9月に4割・8本塁打と盛り返し優勝に貢献した。[[2006年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で[[日本一]]になった際には歓喜の輪に入りながら人目をはばからず号泣していた(輪の中で同じく泣いていた[[新庄剛志]]と慰め合っていた)。[[アジアシリーズ]]は[[#パスポート失効事件|下述]]の通り出場していない。オフには日本ハム球団が2006年シーズンの契約に契約終了後の優先交渉権を盛り込んでおらず、セギノールの[[代理人]]とは契約終了前の[[11月]]中には一切連絡が取れない状態だったため、12月1日に日本ハムの支配下を一旦離れ[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]]([[自由契約]])となった。日本ハム側はそれ以後も残留に向けた交渉を行い、他球団からのオファーも無く、{{by|2007年}}に入ってから金銭及び契約年数で双方の歩み寄りがあり、再契約を結んだ。
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{{by|2007年}}はシーズン通して不振で調子が上がらず打率.249・本塁打21本と低調な成績に終わった。[[2007年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では打率.333を記録、2本塁打を放つも、2億6,800万円と言う高年俸もネックとなり来季の契約更改は行わない方針を球団が掲げ、この年限りで退団となった。その後[[オリックス・バファローズ]]や[[横浜DeNAベイスターズ|横浜ベイスターズ]]が興味を示したが、獲得には至らなかった。
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=== ロッキーズ傘下時代 ===
=== ロッキーズ傘下時代 ===

2020年8月9日 (日) 07:29時点における版

フェルナンド・セギノール
Fernando Seguignol
オリックス時代
(2010年7月4日、阪神甲子園球場にて)
基本情報
国籍 パナマの旗 パナマ
出身地 ボカス・デル・トーロ県
生年月日 (1975-01-19) 1975年1月19日(49歳)
身長
体重
6' 4" =約193 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 一塁手
プロ入り 1993年
初出場 MLB / 1998年9月5日
NPB / 2002年3月30日
最終出場 MLB / 2003年9月28日
NPB / 2010年7月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

フェルナンド・アルフレド・セギノール・ガルシアFernando Alfredo Seguignol Garcia , 1975年1月19日 - )は、パナマ出身の元プロ野球選手内野手)。右投両打。

経歴

ヤンキース傘下・エクスポズ時代

ヤンキース3Aエクスポズなどでプレーし、1998年から2001年まで4年間でメジャー通算172試合出場・打率.251・17本塁打の成績を残していた[1]。2001年12月21日にオリックス・ブルーウェーブが獲得を発表した[1]

オリックス時代

日本プロ野球(NPB)1年目の2002年一塁手または指名打者として出場し、2002年5月5日の大阪近鉄バファローズ戦と翌5月6日の千葉ロッテマリーンズ戦で2試合連続左右両打席本塁打を記録、更にこの年の7月26日にもシーズン3度目の左右打席本塁打を達成(ともに日本プロ野球史上初)。8月26日までに打率.204・23本塁打の成績を残していたが同日に不調のため出場選手登録を抹消され[2]、そのまま一軍復帰はならず同年9月21日には球団から戦力外通告を受け、1年で解雇となった[3]

ヤンキース復帰

2003年はヤンキース傘下の3Aコロンバスに所属して打率.341・28本塁打・87打点の成績を残し[4]、首位打者・本塁打王の2冠王を獲得したほか[5]、メジャー再昇格も果たして松井秀喜のチームメイトとして5試合に出場した[4]

北海道日本ハムファイターズの小嶋武士オーナー代行は2003年12月10日までに新外国人としてセギノールをライアン・ループ投手とともに獲得する方針を決め、同月12日以降のウインターミーティングで2人との契約交渉に乗り出した[6]

日本ハム時代

2004年2月5日に北海道日本ハムファイターズへの入団が発表され、2年ぶりの日本球界復帰となった[5][4]。当時の契約内容は1年契約で推定契約金2,000万円・推定年俸7,000万円+出来高で背番号は5[4]

開幕直後の打率は4割を大きく越え、4月の月間MVPを受賞。打率.305、本塁打44本、打点108で福岡ダイエーホークス松中信彦と同数で本塁打王を獲得し、ベストナイン指名打者部門)にも選ばれた。

2005年は前半戦はいまひとつ調子が上がらず、7月までには16本しか本塁打を打てなかったが、後半戦になると調子を上げ、8・9月だけで15本と本塁打を量産した。前年110三振を記録したが、さらに30個以上多い141三振を喫した。チーム全体でも1151三振を喫し、チーム三振数のプロ野球記録を作る一因となった。

2006年は前半戦に極度の不振に陥り、一時は稲葉篤紀に4番の座を譲ることもあった。本塁打・打点は前年より少なく物足りなかったが、優勝争いを繰り広げていた9月に4割・8本塁打と盛り返し優勝に貢献した。日本シリーズ日本一になった際には歓喜の輪に入りながら人目をはばからず号泣していた(輪の中で同じく泣いていた新庄剛志と慰め合っていた)。アジアシリーズ下述の通り出場していない。オフには日本ハム球団が2006年シーズンの契約に契約終了後の優先交渉権を盛り込んでおらず、セギノールの代理人とは契約終了前の11月中には一切連絡が取れない状態だったため、12月1日に日本ハムの支配下を一旦離れフリーエージェント自由契約)となった。日本ハム側はそれ以後も残留に向けた交渉を行い、他球団からのオファーも無く、2007年に入ってから金銭及び契約年数で双方の歩み寄りがあり、再契約を結んだ。

2007年はシーズン通して不振で調子が上がらず打率.249・本塁打21本と低調な成績に終わった。日本シリーズでは敗退したチーム内で打率.333、2本塁打を放つなど湿った打線の中で気を吐いたもののフロントからは評価されず、2億6,800万円と言う高年俸もネックとなりリーグ連覇に貢献したものの来季の契約更改は行わない方針を球団が掲げ、この年限りで退団となった。その後オリックス・バファローズ横浜ベイスターズが興味を示したが、獲得には至らなかった。

ロッキーズ傘下時代

2008年3月コロラド・ロッキーズとマイナー契約を結ぶも、開幕直前に戦力外通告される。

メキシコ・DETタイガース傘下時代

その後、メキシカンリーグを経て、デトロイト・タイガース傘下の3A・トレドでプレー。

楽天時代

同年7月東北楽天ゴールデンイーグルスと契約。背番号は日本ハム時代と同じ5。楽天の背番号5は2006年9月にエリック・バレントが解雇されて以来、球団と野村克也監督の方針で空き番となっていたため、入団決定と同時に背番号5を貰うことができた。8月にチームに合流してからは、持ち前のパワーを遺憾なく発揮。(打撃のインパクトの瞬間「ハウッ」と雄叫びを上げながら本塁打を打ったことも)9月には月間MVPパ・リーグ打者部門)に輝いた。最終的にはわずか39試合の出場ながら、打率.324・本塁打13本・打点40点の好成績を収めた。12月、球団から2009年シーズンの契約が合意に達したことが発表され、同年も楽天でプレーすることが決まった。

2009年は開幕戦に4番ファーストでスタメン出場。開幕1打席目でダルビッシュ有から両リーグ一番乗りとなる第1号2ランを放ったが、打率が.165と2割にも満たないなど極度の不振が続き、5月24日に一軍登録を抹消された。その後、7月4日に一軍登録されてからは復調し、最終的には打率.253、14本塁打、54打点の成績を残したが、結局、シーズン終了を以って自由契約となり退団。

アトランティックリーグ時代

2010年からは米国のプロ野球独立リーグアトランティックリーグニューアーク・ベアーズでプレーしていた。

オリックス復帰

2010年6月3日にオリックス・バファローズと契約。2002年以来、8シーズンぶりに古巣への復帰(ただし球団は合併している)となった[7]。交流戦後の6月18日に一軍登録され、絶好調だった北川博敏に代わり試合に出ていたが、わずか6試合の出場で、打率.130、0本塁打1打点と調整不足を露呈し、6月26日に登録抹消。7月16日に再昇格したが、またも結果は残せず、7月29日に再度登録抹消。その後、一軍に再登録されることはなく、11月11日に自由契約となった。結局オリックスでは2002年同様活躍できず、2002年をさらに下回る結果に終わった。

アトランティックリーグ復帰

2011年は、アトランティックリーグランカスター・バーンストーマーズでプレーした。

引退後

2011年12月、読売ジャイアンツの駐米スカウトに就任[8]。2016年2月からシカゴ・カブスの国際スカウトを務める[9]。2019年からマイアミ・マーリンズ国際スカウト部長を務める。

2016年6月28日の日本ハム対埼玉西武ライオンズ戦の始球式に、稲村亜美の対戦相手として登場し、稲村の投じた102km/hの直球をセンター前に弾き返した[10]

エピソード

  • 2007年6月19日の広島戦で両打席本塁打を達成したときのバットのモデルはスポーツ用品メーカーではなく、モントリオールの家具メーカーが気まぐれで作ったものだった。素材は硬いメープルで「折れないのがなにより」と1本のバットでシーズンを乗り切ったこともあった[11]
  • 2019年5月23日に古巣日本ハムに所属する杉谷拳士が両打席本塁打を達成した際、「セギノール以来ですよね。これから『スギノール』と呼んでください」とアピールしたことがある[12]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1998 MON 16 46 42 6 11 4 0 2 21 3 0 0 0 1 3 0 0 15 1 .262 .304 .500 .804
1999 35 119 105 14 27 9 0 5 51 10 0 0 0 2 5 1 7 33 1 .257 .328 .486 .813
2000 76 175 162 22 45 8 0 10 83 22 0 1 0 1 9 0 3 46 5 .278 .326 .512 .838
2001 46 54 50 0 7 2 0 0 9 5 0 0 0 1 2 1 1 17 4 .140 .185 .180 .365
2002 オリックス 89 326 280 39 57 8 0 23 134 47 1 0 0 0 40 4 6 104 5 .204 .316 .479 .795
2003 NYY 5 8 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1 0 0 3 0 .143 .250 .143 .393
2004 日本ハム 125 530 443 86 135 24 0 44 291 108 0 1 0 3 70 8 14 110 15 .305 .413 .657 1.070
2005 133 544 489 72 141 20 0 31 254 86 1 1 0 1 45 5 9 141 12 .288 .358 .519 .878
2006 132 540 485 60 143 37 0 26 258 77 0 0 0 6 40 3 9 119 13 .294 .356 .532 .888
2007 134 546 470 50 117 21 0 21 201 68 0 0 0 2 65 11 9 130 14 .249 .350 .428 .777
2008 楽天 39 157 136 24 44 7 0 13 90 40 0 0 0 1 14 1 6 40 5 .324 .408 .662 1.069
2009 104 361 316 37 80 18 0 14 140 54 1 0 0 1 39 2 5 83 8 .253 .343 .443 .787
2010 オリックス 11 38 37 1 7 3 0 0 10 3 0 0 0 0 0 0 1 11 0 .189 .211 .270 .481
MLB:5年 178 402 366 42 91 23 0 17 165 40 0 1 0 5 20 2 11 114 11 .249 .303 .451 .754
NPB:8年 767 3042 2656 369 724 138 0 172 1378 483 3 2 0 14 313 34 59 738 72 .273 .360 .519 .879
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績



一塁(1B) 左翼(LF) 右翼(RF)




































1998 MON 7 44 5 0 3 1.000 8 20 0 0 0 1.000 1 1 0 0 0 1.000
1999 23 172 11 2 20 .989 6 10 0 0 0 1.000 3 1 0 0 0 1.000
2000 30 144 11 2 16 .987 16 9 0 2 0 .818 14 8 1 1 0 .900
2001 7 20 3 2 3 .920 7 7 1 0 0 1.000 7 1 0 0 0 1.000
2002 オリックス 42 324 21 2 23 .994 - -
2003 NYY 3 9 3 0 0 1.000 - -
2004 日本ハム 76 603 39 6 59 .991 - -
2005 41 333 26 4 39 .989 - -
2006 18 142 10 0 16 1.000 - -
2007 39 300 16 2 32 .994 - -
2008 楽天 28 198 12 0 10 1.000 - -
2009 87 666 43 4 68 .994 - -
MLB 70 389 33 6 42 .986 37 46 1 2 0 .959 25 11 1 1 0 .923
NPB 331 2566 167 18 247 .993 - -

タイトル

NPB

表彰

NPB
MiLB

記録

NPB初記録
NPB節目の記録
両打席本塁打に関する記録
  • 左右打席本塁打通算9度 ※プロ野球最多記録
  日付 対戦球団 球場 打席 相手投手 打席 相手投手
1 2002年5月5日 近鉄7回戦 グリーンスタジアム神戸 3回 小池秀郎 6回 門倉健
2 2002年5月6日 ロッテ7回戦 グリーンスタジアム神戸 1回 小野晋吾 3回 川井貴志
3 2002年7月26日 近鉄16回戦 大阪ドーム 2回 前川勝彦 6回 宮本大輔
4 2004年5月21日 近鉄6回戦 東京ドーム 1回 川尻哲郎 3回 高木康成
5 2004年6月29日 ロッテ16回戦 札幌ドーム 2回 内竜也 4回 高木晃次
6 2006年9月9日 オリックス19回戦 京セラドーム大阪 1回 中山慎也 2回 萩原淳
7 2007年6月19日 広島3回戦 広島市民球場 3回、6回 ジャレッド・フェルナンデス 7回 横山竜士
8 2008年8月30日 ロッテ19回戦 Kスタ宮城 5回 成瀬善久 9回 荻野忠寛
9 2009年8月18日 日本ハム16回戦 旭川スタルヒン 2回 八木智哉 8回 谷元圭介
  • 2試合連続左右打席本塁打:2002年5月5日・6日(上記参照) ※プロ野球史上初
  • 左右打席3打席連続本塁打:2007年6月19日(上記参照)。巨人ロイ・ホワイト1980年6月12日に達成して以来2人目。
  • スイッチヒッターのシーズン最多本塁打:44本塁打(2004年) ※従来記録は1990年西武オレステス・デストラーデの42本塁打
13球団からの本塁打に関する記録
2004年限りで消滅した近鉄を含む13球団からの本塁打は初

背番号

  • 33 (1998年)
  • 19 (1999年 - 2001年)
  • 55 (2002年)
  • 48 (2003年)
  • 5 (2004年 - 2009年)
  • 59 (2010年)

登場曲

脚注

  1. ^ a b 読売新聞』2001年12月22日東京朝刊スポーツA面21頁「オリックスがエクスポズのセギノール内野手を獲得/プロ野球」
  2. ^ 『読売新聞』2002年8月27日大阪朝刊スポーツA面25頁「オリックス・セギノールが不調のため二軍落ち/プロ野球」
  3. ^ 『読売新聞』2002年9月22日大阪朝刊スポーツB面18頁「オリックス・セギノール内野手に戦力外通告/プロ野球」
  4. ^ a b c d 『東京新聞』2004年2月6日朝刊第二運動スポーツ面20頁「日ハム セギノール獲得」
  5. ^ a b 『読売新聞』2004年2月6日大阪朝刊スポーツA面27頁「日本ハムがセギノールを獲得/プロ野球」
  6. ^ 『中日新聞』2003年12月11日朝刊第二運動スポーツ面22頁「セギノールを日ハム獲得へ」
  7. ^ フェルナンド・セギノール選手 獲得のお知らせ”. オリックス・バファローズ (2010年6月3日). 2011年12月22日閲覧。
  8. ^ 元日本ハムのセギノール氏が国際スカウト就任”. 読売ジャイアンツ (2011年12月22日). 2011年12月22日閲覧。
  9. ^ カブスは4人で大谷に熱視線 元ハム・セギノール氏「ダルのよう」”. スポニチ・アネックス (2016年2月10日). 2016年2月13日閲覧。
  10. ^ 稲村亜美102キロ神投球!セギノール氏と真剣勝負 日刊スポーツ、2016年10月27日閲覧。
  11. ^ “【6月19日】2007年(平19) さすがセギノール 球界初の記録は“試供品”で決めた。”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社). (2008年6月14日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/professional_bbd0806/kiji/K20080614Z00002290.html 2020年8月4日閲覧。 
  12. ^ ““スギノール”の活躍で脚光 19人しか達成していない「両打席本塁打」”. ベースボールキング (フロムワン). (2019年5月25日). https://baseballking.jp/ns/189796 2020年8月4日閲覧。 

関連項目

外部リンク