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2020年8月20日 (木) 00:52時点における版
沙州(さしゅう)は、中国にかつて存在した州。五胡十六国時代から元初にかけて、現在の甘粛省敦煌市一帯に設置された。
概要
前涼の張駿のとき、敦煌郡・晋昌郡・高昌郡・西域都護・戊己校尉・玉門大護軍の3郡3営を管轄する沙州が立てられた[1]。
400年、西涼の李暠が沙州刺史を自称した。401年、後秦の姚興が涼州を攻撃すると、沮渠蒙遜が姚興に遣使し、姚興は沮渠蒙遜を沙州刺史に任じた[2]。吐谷渾の阿豺や慕璝は南朝宋の冊封を受けて、沙州刺史に任じられた[3]。
619年(武徳2年)、唐により隋の敦煌郡に瓜州が置かれた。622年(武徳5年)、瓜州は西沙州と改められた。633年(貞観7年)、西沙州は沙州と改められた。742年(天宝元年)、沙州は敦煌郡と改称された。758年(乾元元年)、敦煌郡は沙州と改称された。沙州は敦煌・寿昌の2県を管轄した[4]。安史の乱の後、吐蕃が沙州を含む河西回廊一帯を占領した。晩唐には沙州の張議潮が河西11州を奪って唐に帰順し、唐の帰義軍節度使となった。帰義軍節度使張承奉のとき、西漢白衣天子を称して西漢金山国を建国した。
五代の後梁のころ、張氏の帰義軍節度使が断絶し、沙州長史の曹議金が州人に推されて台頭した。曹議金は後唐により沙州刺史・帰義軍節度使に任じられた。曹氏帰義軍8代の曹賢順のころ、帰義軍は西夏に滅ぼされ、沙州も西夏の統治下に入った。
1280年(至元17年)、元により沙州は沙州路総管府に昇格した[5]。
その他の沙州
南朝梁のとき、沙州が置かれた。東魏のとき、沙州は建寧郡・斉安郡の2郡2県を管轄した。州治は白沙関城に置かれた[7]。
621年(武徳4年)、唐により利州の景谷県が分離されて沙州が置かれた。627年(貞観元年)、この沙州は廃止された[8]。