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「加藤正夫」の版間の差分

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高校卒業。
高校卒業。
[[1967年]]、20歳7ヶ月(四段)で[[本因坊]]リーグ入り(当時最年少記録)。一次予選(現在の予選Cに相当)からの勝ち抜きでリーグ入りしたのは、この時の加藤と[[名人 (囲碁)|名人]]リーグでの[[三村智保]]のみ。また入段から3年5ヶ月でのリーグ入りは史上最短記録。
[[1967年]]、20歳7ヶ月(四段)で[[本因坊]]リーグ入り(当時最年少記録)。一次予選(現在の予選Cに相当)からの勝ち抜きでリーグ入りしたのは、この時の加藤と[[名人 (囲碁)|名人]]リーグでの[[三村智保]]のみ。また入段から3年5ヶ月でのリーグ入りは史上最短記録。
[[慶應義塾大学]](通信教育課程)中退。
[[大学]]中退。


[[1969年]]、本因坊リーグを5勝2敗で勝ち抜いて[[林海峰]]本因坊への挑戦権を獲得。22歳での挑戦は当時最年少で、また五段での挑戦は初めてのことで注目を集めたが、2-4で敗れる。この後、各種棋戦で挑戦者あるいはトーナメント決勝まで進むが、タイトル戦で8連敗。「挑戦王」「万年二位」「常敗将軍」と呼ばれるトンネルの時代が続く。また「[[藤沢秀行]]に続く、ポカの多い棋士」と呼ばれた<ref>江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.232</ref>。
[[1969年]]、本因坊リーグを5勝2敗で勝ち抜いて[[林海峰]]本因坊への挑戦権を獲得。22歳での挑戦は当時最年少で、また五段での挑戦は初めてのことで注目を集めたが、2-4で敗れる。この後、各種棋戦で挑戦者あるいはトーナメント決勝まで進むが、タイトル戦で8連敗。「挑戦王」「万年二位」「常敗将軍」と呼ばれるトンネルの時代が続く。また「[[藤沢秀行]]に続く、ポカの多い棋士」と呼ばれた<ref>江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.232</ref>。

2020年9月7日 (月) 20:08時点における版

 加藤正夫  名誉王座
名前 加藤正夫
生年月日 (1947-03-15) 1947年3月15日
没年月日 (2004-12-30) 2004年12月30日(57歳没)
プロ入り年 1964年
出身地 福岡県
所属 日本棋院東京本院
師匠 木谷實
名誉称号 名誉王座
概要
タイトル獲得合計 47
通算成績 1254勝663敗2持碁1無勝負
七大タイトル
棋聖 挑戦者 (1978・88・91・93)
名人 2期 (1986-87)
本因坊 4期 (1977-79・2002)
王座 11期 (1979-80・82-89・93)
天元 4期 (1978-81)
碁聖 3期 (1976-77・87)
十段 7期 (1976-79・83・87・97)
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加藤 正夫(かとう まさお、1947年3月15日 - 2004年12月30日)は日本囲碁棋士は「劔正」。名誉王座。

同じ木谷實門下の石田芳夫武宮正樹とともに「木谷三羽烏」「黄金トリオ」と呼ばれ、名人2期、本因坊4期、王座11期など数々のタイトルを獲得。七大タイトル獲得数歴代4位。棋道賞最優秀棋士賞を7度受賞(歴代2位タイ記録)。

若い頃は力ずくで大石を仕留める豪腕から「殺し屋」のニックネームがあった(なお、加藤の前に大平修三が「殺し屋」とあだ名されていた[1])が、棋風とは裏腹に穏和で面倒見の良い人柄で人望が厚かった。2004年には日本棋院理事長に就任、日本棋院の改革に取り組むが、2004年暮れに脳梗塞に倒れ、死去した。享年57。門下に大森泰志岡田伸一郎鈴木伊佐男梅沢由香里小山栄美[2]

妻は書家の加藤石泉[3]。妻の両親もそれぞれ書家である佐々木泰南佐々木月花であり、佐々木泰南は木谷道場に書の指導に来ていた[4]

2005年2月8日、その功績により旭日小綬章追贈。

経歴

1947年、福岡県朝倉郡朝倉町(現朝倉市)にて誕生。1952年、5歳の時に福岡市中央区六本松に転居。1階は店舗で、2階で碁会所を父がはじめる。

1956年、9歳のころに碁を覚える。この頃岡光雄(後にプロ)・上月武志(第1回学生本因坊)・廣畑富雄(九州学生選手権、後に九州大学教授)らの手ほどきを受け上達する。1959年、12歳で木谷實に入門。兄弟弟子たちと切磋琢磨し、徹底的に戦う棋風を身につける。 地元の中学校卒業。 1964年、17歳で入段。同年、二段に昇段。 高校卒業。 1967年、20歳7ヶ月(四段)で本因坊リーグ入り(当時最年少記録)。一次予選(現在の予選Cに相当)からの勝ち抜きでリーグ入りしたのは、この時の加藤と名人リーグでの三村智保のみ。また入段から3年5ヶ月でのリーグ入りは史上最短記録。 大学中退。

1969年、本因坊リーグを5勝2敗で勝ち抜いて林海峰本因坊への挑戦権を獲得。22歳での挑戦は当時最年少で、また五段での挑戦は初めてのことで注目を集めたが、2-4で敗れる。この後、各種棋戦で挑戦者あるいはトーナメント決勝まで進むが、タイトル戦で8連敗。「挑戦王」「万年二位」「常敗将軍」と呼ばれるトンネルの時代が続く。また「藤沢秀行に続く、ポカの多い棋士」と呼ばれた[5]

1976年 (29歳) 第1期碁聖戦で兄弟子大竹英雄を降して初タイトルを獲得。また、林海峰から十段位を奪取、以後4連覇。

1977年 (30歳) 武宮正樹を4-1で破って第32期本因坊位を奪取し加藤劔正を名乗る。以後3連覇。書家・佐々木泰南の四女・泉と結婚[6]

1978年棋聖戦で藤沢秀行に挑戦するが3-4で惜敗。一方で第4期天元戦では決勝で藤沢秀行を破って優勝し、以後4連覇。

1979年、各タイトルを防衛するとともに王座鶴聖のタイトルを手にし、本因坊・十段・天元を含めた五冠王に輝く。

1981年趙治勲名人に挑戦。

1982年橋本昌二から王座を奪取し、以後8連覇。

1983年趙治勲から十段位を奪取。勝った3局は全て半目勝ちで、「殺し屋加藤」から「ヨセの加藤」へとモデルチェンジに成功したといわれた。

1986年小林光一名人をから名人位を奪取。

1987年、40歳で名人、十段、王座、碁聖の四冠を達成。賞金ランキング1位

1988年、小林光一棋聖に挑戦。

1990年羽根泰正に敗れ王座を失う。これにより、1976年の十段位獲得以来続けてきた七大タイトル連続保持の記録が途絶える。しかしその後も1993年に藤沢秀行から王座を奪取、1995年に趙治勲本因坊に挑戦、1997年依田紀基から十段位を奪取し趙治勲本因坊にも挑戦するなど活躍を続けた。

2002年には王銘琬を破って55歳3か月で23年ぶりに本因坊位に復位、史上最年長の本因坊となった。

2002年に日本棋院副理事長、2004年に理事長となり制度の改革などに取り組んだが、2004年12月30日に脳梗塞により死去。生涯通算記録は1254勝663敗2持碁1無勝負。

記録

  • 史上初の七大タイトル1つを11期獲得
  • 史上初の七大タイトル1つを10期獲得
  • 史上初の七大タイトル中6タイトルで2期以上獲得
  • 史上初の名誉王座獲得
  • 史上初の王座位11期獲得
  • 史上初の王座位10期獲得
  • 史上初の王座位9期獲得
  • 史上初の王座位8期獲得
  • 史上初の王座位8連覇
  • 史上初の王座位7連覇
  • 史上初の王座位6連覇
  • 史上初の王座位5連覇
  • 史上初の王座位4連覇
  • 史上初の天元位4期獲得
  • 史上初の天元位3期獲得
  • 史上初の天元位2期獲得
  • 史上初の十段位7期獲得
  • 史上初の十段位4連覇
  • 史上初の碁聖位2連覇
  • 史上初の碁聖位2期獲得
  • 史上初の碁聖位獲得
  • 史上6人目の名人位2期獲得
  • 史上5人目の名人位2連覇
  • 史上7人目の本因坊4期獲得
  • 史上6人目の本因坊3期獲得
  • 史上7人目の本因坊2期獲得
  • 史上6人目の本因坊3連覇
  • 史上7人目の本因坊2連覇
  • 史上2人目の王座位7期獲得
  • 史上2人目の王座位6期獲得
  • 史上2人目の王座位5期獲得
  • 史上2人目の王座位4期獲得
  • 史上2人目の十段位3連覇
  • 史上2人目の十段位2連覇

主な戦績

色付きは現在在位。

他の棋士との比較は、囲碁のタイトル在位者一覧 を参照。

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 名誉称号資格
棋聖 七番勝負
1-3月
4
名人 七番勝負
9-11月
86、87 4 2期 2
本因坊 七番勝負
5-7月
77~79、2002 9 4期 3
王座 五番勝負
10-12月
79、80、82~89、93 14 11期
(歴代1位)
8
(歴代1位)
名誉王座
天元 五番勝負
10-12月
78~81 5 4期
(歴代4位タイ)
4
(歴代2位)
碁聖 五番勝負
6-8月
76、77、87 7 3期 2
十段 五番勝負
3-4月
76~79、83、87、97 11 7期
(歴代1位)
4
(歴代1位タイ)
登場回数合計54、獲得合計31期=歴代4位

1976年〜1990年まで14年6ヶ月にわたってタイトルを保持し、これは日本囲碁界最長記録。七大タイトルのうち、棋聖を除くすべてのタイトルを獲得した。 生涯戦績1254勝663敗2持碁1無勝負(勝数史上4位)。

囲碁七大タイトル獲得記録
順位 獲得回数 棋士名
1位 62期 二十六世本因坊文裕*
2位 42期 趙治勲名誉二冠*
3位 35期 小林光一名誉三冠*
4位 31期 加藤正夫名誉王座
5位 24期 張栩九段*
6位タイ 21期 二十三世本因坊栄寿 | 林海峰名誉天元*
8位 17期 大竹英雄名誉碁聖
9位タイ 14期 藤沢秀行名誉棋聖| 山下敬吾九段*
*は現役棋士
2024年12月6日時点
タイトル獲得数ランキング
順位 獲得回数 棋士名
1位 77期 二十六世本因坊文裕*
2位 76期 趙治勲名誉二冠*
3位 64期 二十三世本因坊栄寿
4位 60期 小林光一名誉三冠*
5位 48期 大竹英雄名誉碁聖
6位 47期 加藤正夫名誉王座
7位 41期 張栩九段*
8位 36期 依田紀基九段*
9位 35期 林海峰名誉天元*
10位 28期 一力遼九段*
*は現役棋士
2024年12月6日時点[7]

その他

  • 1970年の本因坊リーグで、大家・高川秀格の大石を一直線に取りかけに行き、93手で撲殺。高川を「この石が取られるかねえ」と嘆かせ、ここに「殺し屋」のニックネームが定着した。下図、白の高川が△にツケてサバキに行ったところを黒1から猛然と攻め立て、白の抵抗を粉砕して勝利した。


  • 橋本宇太郎との公式戦で、加藤は形勢を悪くしながらも投げずに打ったところ、橋本に失着が生じ逆転勝ちとなった。感想戦で「早く投げなくてすみません」という若い加藤に、橋本は「ええのや、ええのや」と明るく答えたという。加藤は後年「橋本宇太郎先生のように、70を過ぎても一線で打ちたい」と語っていた。
  • 本因坊在位時の雅号「劔正」は、同郷の参議院議員で後援会長であった剱木亨弘の一字と、自らの名前の「正」を合わせたものである。
  • 趙治勲は来日直後、林海峰に五子局で勝利してのち、木谷道場で兄弟子の加藤に、星目どころか風鈴まで打ち込まれ、悔し涙を流した体験を持つ。加藤没後に放送されたNHKの特別番組では、同様の体験をした小林光一とともにこのことを回顧しつつ、手を緩めずに鍛えてくれた加藤への感謝の言葉を述べた。
  • 2004年の天元戦における、結城聡との対局が絶局となった(加藤の中国流の布石で、結城に勝利)。年少のころ加藤の棋風に影響を受けた結城は、対局後「私は、(加藤に)負けて強くなった」と加藤の人柄と実力に敬意を表した。

棋院改革

2002年7月からは日本棋院副理事長に就任。多忙な日本棋院の理事職に加藤のような一流棋士が就任したことは周りを驚かせた。その背景には1994年から赤字を続ける日本棋院の体質、また若い世代の囲碁離れに対する危機感があったといわれる。連日の激務の中、棋士との二足のわらじを続け、本因坊を奪取した事は大いに称揚された。

2004年6月、利光松男前理事長の退任を受けて理事長に就任。財政赤字の改善、大手合の廃止、予選・昇段制度の改革などに取り組んだが、12月7日脳梗塞で入院、同月30日の午後0時33分に57歳で死去した。共に改革に当たり、加藤の後を継いで理事長代行に就任した工藤紀夫はその死を「殉職でした」と表現している。その生涯は有水泰道著『精魂の譜』(誠文堂新光社刊)に詳しい。

打碁集

  • 『現代花形棋士名局選〈4〉加藤正夫』日本棋院 1976年
  • 『加藤正夫(上)(下)』(現代囲碁大系39,40)講談社 1980年
  • 『加藤正夫 (現代囲碁名勝負シリーズ)』講談社 1986年
  • 『加藤正夫 名局細解』(全六巻)誠文堂新光社 1988年
  • 『名局細解 加藤正夫』誠文堂新光社 2004年
  • 『怒涛の譜―加藤正夫精局集』日本棋院 2005年

著作

  • 『察元・烈元・因淑』(日本囲碁大系)筑摩書房
  • 『加藤囲碁道場』(全三巻)日本棋院 1982年
  • 『加藤正夫の闘いの極意 (NHK囲碁シリーズ) 』1993年

ほか多数

年表

  • タイトル戦の欄の氏名は対戦相手。うち、色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。色付きは名誉称号獲得。青色は挑戦者または失冠。黄色はリーグ成績。
  • 棋道賞は、 : 最優秀棋士賞、 優 : 優秀棋士賞、 特別 : 特別賞、
    率 : 勝率一位賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞、 連 : 連勝賞、
    国際 : 国際賞、 新人 : 新人賞、 哉 : 秀哉賞
  • 賞金&対局料は、年度区切りではなく1月 - 12月の集計。単位は万円。色付きの年は全棋士中1位。
棋聖 十段 本因坊 碁聖 名人 王座 天元 棋道賞 賞金
対局料
備考
棋聖戦
1-3月
十段戦
3-4月
本因坊戦
5-7月
碁聖戦
6-8月
名人戦
9-11月
王座戦
10-12月
天元戦
10-12月
プロ入りは
1964年
1967年 新人
1968年 技能
1969年 林海峰
xoxxox
敢闘
1970年 技能
1971年
1972年
1973年
1974年
1975年
1976年 林海峰
3-2
大竹英雄
3-2
リーグ
入り
初代王座
1977年 坂田栄男
3-0
武宮正樹
4-1
武宮正樹
3-0
4位 三冠
1978年
藤沢秀行
3-4
|| style="background-color:#ffcccc" | 林海峰
3-1|| style="background-color:#ffcccc" | 石田芳夫
4-3|| style="background-color:#c1ffff" |大竹英雄
1-3|| style="background-color:#ffffbc" |プレーオフ || || style="background-color:#ffcccc"| 藤沢秀行
3-1|| align="left" |
三冠
1979年 橋本昌二
3-1
林海峰
4-1
2位 石田芳夫
2-0
四冠達成
片岡聡
3-0
史上初の四冠
1980年 大竹英雄
0-3
四冠終了
武宮正樹1-4 プレーオフ 石田芳夫
2-0
山部俊郎
3-0
1981年 大竹英雄
1-3
趙治勲
xxxx
橋本昌二
1-2
小林光一
3-2
1982年 陥落 5位 橋本昌二
2-0
片岡聡
2-3
1983年 趙治勲
3-2
3位 大竹英雄
2-0
1984年 小林光一
2-3
大竹英雄
1-3
6位 山城宏
3-0
5位
1985年 3位 小林光一
3-0
4位
1986年 小林光一
oooo
林海峰
3-1
名誉王座
2位 名誉称号獲得
1987年 小林光一
3-1
趙治勲
3-1
四冠達成②
林海峰
oooo
趙治勲
3-1
1位 史上初の2度目の四冠[8]
1988年 小林光一xoxxx 趙治勲
2-3
四冠終了
小林光一
0-3
小林光一
oxxxx
武宮正樹
3-0
3位
1989年 6位 羽根泰正
3-1
6位
1990年 陥落 羽根泰正
2-3
7位
1991年 小林光一
oxxoxox
4位
1992年 5位
1993年 小林光一
ooxoxxx
6位 藤沢秀行
3-0
勝 連 対 3位
1994年 3位 趙治勲
2-3
5位
1995年 趙治勲
xoxxx
4位 3位
1996年 3位 6位
1997年 依田紀基
oxxoo
趙治勲xxxx 6位 2位
1998年 彦坂直人
oxxox
2位 4位
1999年 5位 9位
2000年 6位 9位
2001年 6位 7位
2002年 王銘琬
xxoooo
陥落 5位
2003年 張栩
oxoxxx
8位

脚注

  1. ^ 三堀将『楽しい囲碁心理学』(日本棋院)P.150
  2. ^ “碁盤はさんだ師匠、怖かった「何度泣いたか」 故加藤正夫名誉王座しのぶ集い”. 朝日新聞. (2016年11月17日). https://www.asahi.com/articles/DA3S12663249.html 2020年7月12日閲覧。 
  3. ^ http://yukarigo.at.webry.info/201407/article_1.html
  4. ^ 江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.228
  5. ^ 江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.232
  6. ^ 江崎誠致『昭和の碁』(立風書房)1993年版、P.239
  7. ^ 公式戦のみ。女流棋戦・地方棋戦(王冠戦関西棋院第一位決定戦など)は除く。
  8. ^ 現在でも他には井山裕太のみ達成

外部リンク

記録
先代
坂田栄男
七大タイトル最多獲得
1986年 - 1996年
次代
趙治勲