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2021年5月20日 (木) 09:31時点における版

のざわ なち
野沢 那智
プロフィール
本名 野沢 那智[注 1]
(のざわ やすとも
性別 男性
出生地 日本の旗 日本東京府(現:東京都[1]
死没地 日本の旗 日本・東京都
生年月日 (1938-01-13) 1938年1月13日
没年月日 (2010-10-30) 2010年10月30日(72歳没)
血液型 AB型[1]
職業 声優ラジオパーソナリティ俳優演出家実業家
事務所 オフィスPAC
配偶者 あり
著名な家族 父:陸直次郎作家
妻:成瀬麗子 (女優)
長男:野沢聡(俳優・声優)
姪:野沢直子タレント
大姪:真珠・野沢オークレアー格闘家
公称サイズ([2]時点)
身長 / 体重 167 cm / 52 kg
声優活動
活動期間 1960年代 - 2010年
ジャンル 吹き替えアニメラジオナレーションゲーム
デビュー作狼少年ケン』(アニメのデビュー作)
俳優活動
活動期間 1950年代 - 2010年
ジャンル テレビドラマ舞台
声優テンプレート | プロジェクト | カテゴリ

野沢 那智(のざわ なち、1938年1月13日[1][2] - 2010年10月30日[1])は、日本声優ラジオパーソナリティ俳優演出家実業家

東京府(現:東京都)出身[1]オフィスPAC元代表。父は作家陸直次郎、妻は女優の成瀬麗子、長男は俳優の野沢聡、姪はタレント野沢直子、大姪(直子の娘)は格闘家真珠・野沢オークレアー

本名の表記は同じ[注 1]だが、読みは「のざわ やすとも」である[3]

人物

数多の洋画吹き替えアニメ作品で声の出演、またラジオDJナレーションなどを手がける。舞台プロデュース、舞台演出でも活躍。

芸名の由来は公私ともに本来の読みである「やすとも」と呼ばれたことがなく、結果的に誤った読み方の「なち」がそのまま定着したことによる。

生涯

舞台美術家から舞台演出家への転向、役者の道へ

中学生の頃、家の近くにあった「明治座」という芝居劇場へ毎日のように通う。ただし見ていたのは役者ではなく舞台装置で、明治座から帰るとみかん箱を舞台に見立てたミニチュアを作って遊んでいた。最初から役者をやりたかったわけではなく、将来は舞台美術家になりたいと思っていた[4]

國學院大學政経学部に進学後、大学3年生の頃からプロ劇団に出入りするようになり、大道具などの仕事を手伝わせてもらうようになる。ところが、その劇団の舞台美術家から「お前が下手だな。思いつきはいいんだけど。向いてないよ。やめろ」と言われてしまう[4]。野沢はそれでも芝居関係の仕事がやりたかったため、今度は舞台演出家を目指すようになる[4]

大学を中退し、劇団七曜会に演出家研修生として入団。だが、主催の高城淳一に会った途端、「演出家希望?とりあえず役者やれ!」と言われ、いきなり舞台に出ることになる。それから3年ほど、七曜会で役者を続けることになった[4]。なお、七曜会時代の先輩には肝付兼太青野武らがいる。

また、当時誕生したばかりだった洋画の吹き替えアルバイトをこなすようになった。俳優間では「(吹き替えの仕事は)俳優として、自分のオリジナリティを捨てている」と見下されていたが、野沢は「当時はテレビドラマ生放送だから、ドラマの仕事が来ると稽古やリハーサルで一週間は拘束される。でも、それじゃ舞台のための稽古ができない。吹き替えは一定期間で終わるから、時間的に効率のいいアルバイトだった。役者を目指しているからには、稽古時間が欲しいじゃないですか。それに、一応セリフを喋る仕事だから、まったく関係ない業種のアルバイトより、吹き替えのほうが勉強になりますからね。僕は演技のデッサンとして面白いなと思ったし、実際に収入もなかった」という理由で積極的にやったという[4]

劇団七曜会を退団後、野沢は役者仲間を集めて「劇団城」を立ち上げた。初めて演出を担当するが、難しい演目ばかりやっていたため、客は入ってこなかった。そのため、金はかかるとたちまち運営に行き詰ってしまい、劇団は分裂。製作の責任者であった野沢は3年間で370万円(現在の価値で2000万円ほど)もの借金を抱え込んでしまった。その後はアパートを引き払い、友人の家を転々とし、15円のコッペパンで「今日は食べたぞ!」と満足していたほどの赤貧生活だった。当時の生活について野沢は「少しも辛くなかったのは、芝居が好きっていうのもあるけど、日本中が貧乏だったからでしょうね」と振り返っている[4]

アテレコ(声優業)の本格開始

借金返済の見通しも立たず困り果てたある日、野沢が銀座の街を歩いていると、劇団七曜会にいた頃の先輩である八奈見乗児と道端で偶然出くわした。そこで野沢は「何か仕事が無いですか?」と聞いたら、「お前、アテレコやれ。事務所は紹介するから」と八奈見に言われるが、野沢は最初、冗談だと思ってまともに取り合わなかった。しかし一週間後また偶然八奈見と出くわすと「もう事務所に連絡入れたぞ」と言われ、四谷にあるプロダクションに連れていかれるが、そこは裏通りにある魚屋の2階で、階段も狭く「俳優の事務所っつったって汚ねぇんだな。何ていうプロダクションなんだろう」とよく見てみると「東京俳優生活協同組合[5]だったという。このような経緯から事務所の熱心な売り込みもあって、野沢は本格的に声の仕事を始めた。

テレビ普及が本格化した高度経済成長時代のテレビドラマ黎明期に、人手不足からテレビの仕事に手伝いで呼ばれ参加したところ、その仕事は演出などのスタッフではなく演じる方=俳優の端役(性犯罪者役)であった。「こんなの親に見せられない」と困惑した野沢が、「人目に触れず出来る仕事はないか」と職を探しながらも「そんなコソドロみたいな仕事はない」と返され、渋々いくつかの映像出演や舞台出演を重ねた後、次に引き込まれていったもう1つの人手不足の現場がアフレコの世界であった。野沢によれば「アテレコで若い男の役といえば野沢那智」という感じで、次々と仕事が回ってきて、1日3本こなしたこともあったと言う[4]

1年半アフレコの仕事をこなし、借金が半分になったため、そろそろ役者を辞めようと思い始めた。その時、「最後にこのオーディションに行くだけ行ってきてよ。ほとんどキャストは決まっているので、落ちるから大丈夫」と言われて紹介されたのが『0011ナポレオン・ソロ』であった。気楽にオーディションを受けたが、既にイリヤ・クリヤキン(デヴィッド・マッカラム)役は愛川欽也に決まっていたのが、何故か配役が野沢に変更された[4]。野沢が知人から聞いたところによれば、ディレクターが野沢の出演している番組を偶然見て「誰だ?この女みたいな芝居する奴は」と注目し、配役を決定したという。そして『0011ナポレオン・ソロ』が視聴率40%くらいを取る大当たりになったため、役者をやめるわけにはいかなくなったとのこと[4]

このような経緯で劇団の借金を返済するため声優業を開始して、次第に人気を獲得していった野沢だが、最終的には自分の劇団を復活させ演出家としても活動する。また数多くの吹き替えやアニメに多く出演したり、バラエティ番組などでナレーションを担当した。

TBSラジオの深夜ラジオ番組『パックインミュージック』でパーソナリティとして白石冬美とコンビを組み、文化放送など局を移しても2人で「那智チャコ」の愛称でラジオ番組のパーソナリティ・コンビを務めた。

1963年に、劇団薔薇座を設立し、プロデュース演出を担当。ストレートプレイミュージカルの上演に力を注いだ。1988年、劇団薔薇座の第21回公演ミュージカル『スイート・チャリティ』で文化庁芸術祭賞を受賞している。

晩年・死後

2003年オフィスPACを設立し、付属養成所のパフォーミング・アート・センターにおいて声優や舞台俳優を目指す人材を育成。設立当初は代表取締役として在籍し、声優としては賢プロダクションに所属を続けていたが、2008年5月頃に賢プロダクションを退所し、事実上オフィスPACへ移籍した。一時は青二プロダクションにも所属していた[6]

2008年第2回声優アワード功労賞を受賞。

2008年、『コブラ』がOVAとして復活。テレビアニメ『スペースコブラ』でコブラを演じた野沢が再びコブラ役に起用された。野沢本人も声優アワードにまつわるインタビューなどにおいて「今年はコブラだ!」と気合と意気込みをアピールしている。

2009年、この頃から次第に体調を崩し始め、仕事のセーブに拍車がかかる。

2010年、7月頃までは指導にあたっていたが、夏に精密検査を受けた結果肺癌を患っていたことが判明し、8月から入院。抗がん剤などで治療生活を送るも、容態は一向に回復せず、10月26日に都内の別の病院へ転院。この頃には、もう会話することすらできなくなっていたという。妻や長男、親族、自身が代表を務める養成所の生徒たちに囲まれながら、10月30日午後3時36分、肺癌のため死去[7]。72歳没。

2011年2月14日にお別れの会が行われ、俳優仲間の山寺宏一羽佐間道夫をはじめとした580人が参列した[8]。祭壇には野沢が愛用していた物や舞台演出した台本、息子の贈り物などが飾られた[8][9]。弔辞を読んだのは野沢とTBSラジオで15年間(在京3局でのべ25年間)コンビを組んだ白石冬美で「どこも痛くなくなった今、空の上から見守ってください」と別れを惜しんだ[8]

2011年3月5日に行われた、第五回声優アワードで特別功労賞が贈られた[10]。声優アワードの生前、没後双方での受賞は初となる。

スター・ツアーズ』のC-3POの声は、野沢の没後も生前に収録した音声が使用されていたが、2012年のリニューアルに伴い岩崎ひろしに交替した。

特色

声種はバリトン

主に青年役を担当しているが、時に中年・老人役も演じる。声質からアニメやゲーム作品においては、『キングダムハーツ Re:チェインオブメモリーズ』(ヴィクセン)や『ルパン三世 ルパン暗殺指令』(ジョン・クローズ)のような悪役を演じるイメージが強いが、『チキチキマシン猛レース』(ナレーター〈実況〉)のような熱血漢、洋画吹替ではアラン・ドロンジュリアーノ・ジェンマロバート・レッドフォードジェームズ・ディーンなどの二枚目役、また雰囲気を変えた三枚目もこなす。本人によれば「狂人が得意分野」とのことで、「キレるのはそう難しくないんです」と語ったこともある[11]。『悟空の大冒険』で担当した三蔵法師がいわゆる「おかま」になったのはアドリブからである。

アル・パチーノクリストファー・ウォーケンダスティン・ホフマンデニス・ホッパー(『スピード』)といった狂気がかった役の吹き替えが多いが、本人はジェラール・フィリップトム・ハンクス全出演作を吹替えるという夢を持っていた。前者はナレーションを担当した『星の王子さま(CD-ROM版)』で一部実現したが後者は一本も担当したことがなかった。笑いの要素が好きで演技にも感動させられると語っていた。

担当俳優について

アラン・ドロン

1969年頃、アラン・ドロンの吹き替えを初めて担当。数人いるドロン担当声優のひとりとなる。『日曜洋画劇場』で主にドロンを担当していた堀勝之祐などと比べ、ドロン担当として野沢は比較的後発の存在だったが、やがて1970年代後半頃から、ほぼ全局で野沢がドロンの吹替を担当するようになり、茶の間にも「アラン・ドロンの吹替といえば野沢那智」のイメージが浸透していった。野沢に先んじてドロンを多く吹き替えた堀も野沢が担当した作品を観た際には「僕は彼の演技にのれないことが多々あったが、野沢さんの場合はぴったり合っている」と評している[12]

ドロンを担当するようになった経緯ついて、野沢本人は後に「『太陽がいっぱい』で堀勝之祐がドロン、自身がモーリス・ロネを吹き替え放送したところ、しばらくして春日正伸の提案で配役を逆にして録り直し放送した。これで初めてドロンを吹き替え、その後多く吹き替えるようになった」と述べている[13]。ただし、野沢がロネを吹き替えた音源はなく、とり・みきの調査では野沢が初めてドロンを担当したのが『黒いチューリップ』となっているため、真相は不明である。

野沢がドロン担当声優として有名なため、演劇・映画の関係者や評論家、役者たちのコラムや寄稿において「アラン・ドロンから連絡を貰った」「稽古場でアラン・ドロンがソバを食べていた」など、冗談でアラン・ドロン扱いされることも多い。東映制作の特撮テレビドラマ作品『仮面ライダークウガ』(2000年)の第37話では劇中で「アラン・ドロンの声をやっていた人物」として野沢の名前が登場する。また、野沢はドロンがダリダとデュエットし、ヒットしたシングル『あまい囁き(Parole Parole)』の日本語版にも参加している。

アラン・ドロン自身の声は、野沢が演じるものより低い声である。ディレクターも交えて(冗談まじりに)ドロンに似せた低音で演じてみた時、その声で日本語を話すと重くなりすぎ、泥臭く聞こえてドロンの外見のイメージと合わないことがわかった。そこで「ドロンの顔つきや体つきからイメージされる、甘さのある柔らかい雰囲気で」との方向性で声のトーンを決めていったという。「アラン・ドロン自身のような低音でフランス語を話してると響きが良いんですけど、その声で日本語を話すと聞こえ方が違う」と、日本語とフランス語の聴感の違いも感じさせる回答を野沢は述べている。また、ドロンの顔と体のイメージから、演技としても大芝居を避けて「さらりと、さざ波のような感じで声を出そう」という演技方針を固めていったが、「さざ波って言っても難しいんです」とも述べて、二枚目を吹き替える難しさを振り返った[14]

野沢は「二枚目という端正な魅力を生かすには、汚い日本語では絶対に成立しない。正確にいうと、アラン・ドロンを演じているわけじゃない。彼が映画の中で役を通して表現したかったことを、日本語で表現している」とインタビューで話している[15]

役作りについては「3日前からドロンになれてないと収録できない」と話しており、ドロンが演じた多くの役のような孤独で人間関係には器用でない役を吹き替える際は、当日できるだけ収録本番まで人に会わないように現場に入り、挨拶もほとんどしないという。いわば担当する人物の人間関係そのままに振る舞うという行動で「孤独な役をやるんなら、世間話してると物語に入れないんです」と話している。野沢によると、オードリー・ヘプバーンの吹替で知られる池田昌子も同様の役作りをしており、特に野沢と池田が会話の少ない役で共演する時は、本番以外ではほとんど会話しないという[14]

野沢にとっては、収録の際のマイクに対する立ち方も役作りのひとつになっており、ドロンの吹替の時は大抵左端のマイクを使い、隣の相手役にも敢えて向き合わずに収録するという。その位置は「人と関わらない立ち位置」だといい、「いわば壁を作ってる感じで…相手役の台詞は聞きますが、相手役は見ないし、体も寄せてません。見ながらやると関わってしまうので…」という状態で演技することが多い。作品映像を見ながら演技する吹替現場において「その位置だと、映像がいちばん遠くなるので合理的じゃないです。でも、そういう他人と関わらない位置でやらないと、やり辛い」と孤独な役を吹き替える際の野沢流の“作法”を明かしている[14]

ドロン若き日の代表作『太陽がいっぱい』について、野沢は作品自体、またドロンの演技についても高く評価している。この作品はテレビ放映の機会も多く、テレビ放映用に現在まで少なくとも5ヴァージョンの吹替が製作され、そのうち野沢は3度ドロンを吹き替えている。2008年にこの映画のスペシャル・エディションDVDが製作され、音声特典として“野沢ドロン”の吹替収録が決定、野沢は収録の候補になった1972年収録版と1984年収録版を久々に見直した。1972年版について野沢は「出だしのころの台詞なんて、気恥ずかしい出来です」と当時30代だった自分の演技の未熟さを評し、十年以上を経た84年版での演技のほうが納得できると振り返ったが、72年版で共演のモーリス・ロネを担当した堀勝之祐の芝居の見事さや、同版での自分の演技についても「“一攫千金を狙う貧乏な青年”の雰囲気は、下手なりに出ていたのかなあ」と感じた点を含めて、「サスペンスの雰囲気も出ていて、作品全体としては72年版の方が出来が良い」と最終的に72年版のDVDへの収録に同意したという[14]

2007年、テレビ東京にて『太陽がいっぱい』を“野沢ドロン”で改めて収録・放映する企画が決まり、局側から打診を受けた野沢は「(オリジナルの製作当時20代だった)あの頃のドロンに見合った声と気持ちで演じるのはもう無理」と70歳を翌年に控えた自分の年齢などから断ったが、「今電話でお聞きしてる声なら大丈夫、気持ちもやってみたらきっといけます、また新しくこの作品を作りましょう」と局側から口説かれ、収録に応じたと2008年6月のインタビューで語った[14]。インタビュー当時野沢は自身3度めの『太陽がいっぱい』の仕上がりをまだ見ておらず「見るのが怖い」と明かしていたが、映画は08年7月に放映されている。

幼い頃父を亡くしたという経験がドロンと野沢には共通しており、野沢が生い立ちに言及した際は「共通点があるから、彼の作品を理解しやすいのかもしれない」と振り返っていた[14]

ドロンが日本で本国フランス以上ともいえる人気を博した理由についても野沢なりの分析を述べている。「(ドロンの映画には)泣かせ方というのか、物語に日本的情緒があって、彼は“信義や友情を大事にする熱い男”という役をずっと演じていた」と、当時の日本人に訴えかける男性像だったことを人気の要因として挙げた。また「彼の顔立ちも、本当に外国人という感じじゃなくて、日本人にもいそうな顔立ちだった」ことも観客には親近感があったのでは、と述べている[14]。加えて1980年代のインタビューでは、「最近はアラン・ドロンが映画を撮っても、日本の劇場ではやらないです。お客が入らないらしくてね、今のお客さんとちょっとズレちゃった」とドロンの人気の衰えについても言及し、やや野沢自身の寂しさや長くつきあっているドロンへの愛着を感じさせる回答を残している[13]

以上のように苦労もありながらも、ドロンの作品に多く共感できることや、30年にもわたって関わり続けてきたことなどから「どれだけの人数を吹き替えてきたかわからないけど、アラン・ドロンが一番やりやすいです」と野沢は答えている[14]

担当したドロン作品の中で印象に残っている作品として、冒険活劇としての面白さから『黒いチューリップ』、『アラン・ドロンのゾロ』の2作、また作品の出来栄えに感銘を受けたとして『地下室のメロディ』を挙げ、また「演じていて面白かった」と『ブーメランのように』を、また『高校教師』も印象に残る作品として選んでいる[14]

アル・パチーノ

ドロンと並んで、アル・パチーノの吹替も日本人に一番馴染み深いフィックスとしてファンから高い支持を得ている野沢の持ち役の一つである[16]。パチーノの演技力について野沢は「僕が考える演技の枠を飛び越えてる存在」と語って感嘆していた[14]。パチーノの出世作・代表作となった『ゴッドファーザーシリーズ』でのマイケル・コルレオーネ役は3部作すべてを担当、3作目では長いブランクを経て放送局が日本テレビの『水曜ロードショー』からフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』へと変わっても野沢版(日本テレビ版)のキャストが踏襲された[16]上、ソフト版にも同キャストが採用されている。野沢は全シリーズに渡って演じている唯一の人物であるが、1・2作目の市販ソフトに関してはそれまで山路和弘[注 2](DVD版)や森川智之(Blu-ray版)など野沢版とは異なるキャストによる新録版のみの収録に留まっており配役が統一されず、3作目を除くと野沢版のソフトでの鑑賞が不可能となっていた。本シリーズの野沢版はザ・シネマで現代にあわせてHD化・ワイド化(ノートリミングのビスタサイズ)が行われた上で放映された[16]のち、『ゴッドファーザー 吹替完全版 ブルーレイBOX [初回限定盤]』に当時の吹替台本を復刻・縮刷したものを付録として付属した上で全3作を収録したものを発売する予定であったが、中止となる[17]。その後、2017年7月21日にNBCユニバーサル・エンターテイメントジャパンより発売された『ゴッドファーザー45周年記念ブルーレイBOX TV吹替初収録特別版』で初めて1作目の野沢版がソフトに収録されることとなった[18]。なお2作目は現状、野沢版はソフト未収録のままである。

『ゴッドファーザー』で担当した際、パチーノの緻密な表現に接したことを「彼のひとつひとつの演技すべてにはっきりした解釈を要求されて、「お前に演れるか?」と挑まれた思いだった。俳優として、人間としての洞察力まで試された経験」と画面の中のパチーノとの真剣勝負を振り返り、パチーノの演技水準が高いこともあって「芝居が読み取れなくて本当に大変。難しいんだけど、あの芝居に触れられたのはすごい刺激」と語っており、当3部作を「映画の面白さ、演じることの楽しさを一番経験した仕事」として[19]、キャリアの中で一際思い入れの深い仕事に挙げている[11][20]

パチーノの吹替を担当した当初は「どうだ、俺うまいだろう」と得意になって演じていたと振り返っているが、後に野沢はニューヨークブロードウェイでアル・パチーノ本人の出演する『アメリカン・バッファロー』の舞台を鑑賞する。その際、野沢はパチーノの凄まじいマシンガントークと肺活量に脱帽し、「あんたどこで息吸うの?ってくらい。あれ観ちゃうといけないね。巨人ですよ、まさに天才、ほんとに。狂気の如き演技。」とパチーノの技術を高く評価したと同時に、完全に圧倒されたと述べた。その後「この人と同じ芝居なんかやれない、俺には。どうしたもんだろってすごく悩むようになっちゃった。」と葛藤していたものの、それが面白いと感じるようになり、「彼がやっている芝居を日本語でそのまま再現できたら、役者としても面白いし意味もあるんだろうなぁ」と語り、その頃から真面目に、一生懸命に芝居をやるようになり、それからは「一作一作が闘い」もしくは「その人の演技との真剣勝負」という意識でアフレコに挑んでいたとのこと[19][21]

男性的で先頭に立つ役柄も多いパチーノの吹替の際は堂々たる雰囲気を心がけ「真ん中のマイクの前に立って、周りを睨みまわすぐらいの気持ちでやらないと、雰囲気が出ない」という[14]

パチーノと同様に演技派俳優として名高いダスティン・ホフマンの吹替も数多く経験、ホフマンを吹替える時も「周りを見ながら演じられる位置」に立って収録すると野沢は語っている[14]。また洋画劇場時代には上記二名と同様にオフ・ブロードウェイで初舞台を踏み、演技派として高い評価を受けているジェームズ・ウッズも持ち役にしており、ウッズの吹替に関しては「彼は普通のセリフの合間に変なブレスを入れて来るのでアテづらい」と難色を示していた[22]。パチーノやホフマンなどの吹替の際は「疲れるけど、大声を出しても大丈夫」[14]もしくは「声がどう出ようが平気な感じがある」[11]とも話して、彼らの芝居を把握したうえであれば思い切った表現を用いても違和感がないと述べており、ドロンなど正統派の二枚目を吹き替える場合との違いを明かしている。

同業者間でも誰もが「アル・パチーノといえば野沢那智」と認識しており、上述の通り『ゴッドファーザー』を2001年の新録で担当した山路和弘は「さぁ、どうしようかな。僕は野沢那智さんみたいにはできないから」と苦悩があったことを明かしており[23]、『ゴッドファーザー テレビ完全版』で一度だけパチーノを吹替えた山寺宏一は、風の噂で山寺が一回演ったことを野沢が耳にしたと聞き、後にとある現場で野沢と共演した際に恐縮していたが「お前なら許す」と言われ、本当に涙が出るほど嬉しかったといい、「頑張れよ」などの激励された時の言葉を一生忘れられない言葉として回想し、「まだまだ全然追いつけませんが、少しでも那智さんに近づけるように僕もがんばっていきたいと思います」と野沢が亡くなった際にコメントを残した[24]。また『フェイク』で野沢のパチーノと共演するジョニー・デップを吹替えた平田広明も、年老いたパチーノを吹替える野沢の芝居を見て「これはやはり一緒に録らないと、那智さんの「圧」が直接ないとできないだろう」と確信し、感銘を受けたと述べた。2000年代前後にテレビ東京の『木曜洋画劇場』で旧作を放映する「20世紀名作シネマ」の枠内での新録版『スケアクロウ』(本作は野沢がパチーノを吹き替えた版は存在しない)において平田はパチーノを吹替えており、その際には「アル・パチーノをやったというよりも那智さんをやらせてもらった、みたいなイメージでとても嬉しかった」と感激したといい、これらのエピソードを踏まえた上で、「まだ新人の頃から一人前の役者として扱っていただいてすごく嬉しかったです。すごい自信になりますよね。大御所に名前を呼び捨てにされるというのはとっても嬉しいですね。『平田、芝居やってんのか』って。まだまだ教えてもらいたいことが沢山あったんですけどね」と悔やみつつ、野沢を偲んだ[25]

2017年からオンデマンド配信されているNetflixのテレビドラマシリーズ『マインドハンター』の第1話では劇中においてパチーノの代表作である『狼たちの午後』が上映される場面が存在する。この日本語吹替版では野沢がパチーノを吹替えたフジテレビ版の吹替音声(1979年「ゴールデン洋画劇場」で初放映)が使用されている。

ジュリアーノ・ジェンマ

キャリア初期にはマカロニ・ウェスタンで活躍したトップスターである二枚目俳優ジュリアーノ・ジェンマも吹替の持ち役にしており、同じく西部劇に数多く声を当てた納谷悟朗山田康雄小林清志大塚周夫らと共に映画番組でのマカロニ・ウェスタンの放映を支えた吹替役者の一人となった。先述の通り晩年には「アラン・ドロンが一番やりやすい」としていた野沢だが、当初はドロンの熱狂的ファンからの「なんで日本語にしたんだ」といった理不尽なクレームの電話[注 3]に悩まされ、逆にドロンはやりづらかったと言い、それと対照的に一番やりやすいと告白していた俳優がジェンマであった[12]

野沢はジェンマが“モンゴメリー・ウッド”の芸名で活動していた時代の『夕陽の用心棒』、それから芸名を本名のジュリアーノ・ジェンマへと変えた後の『荒野の1ドル銀貨』『南から来た用心棒』『星空の用心棒』『怒りの荒野』といったジェンマの出世作・代表作を立て続けに吹替えており、『特攻大戦線』『バスタード』『タイタンの逆襲』などの非ウェスタン作品も担当。ジェンマの日本語版の声優として瞬く間に定着した。

野沢は1970年代にジェンマが『ゴールデンボーイ・危機また危機』(1973)のプロモーション[注 4]を兼ねて来日した際にNETで対面しており、翌年のインタビューでは「ジェンマは去年の来日の際、NETで会いましたが、彼こそカントリー・ボーイって感じで嬉しかったねえ。本当に楽しそうな人ですね。彼の吹替えが一番やりやすいなあ。このままの声でやれるし、芝居のタッチも強く、セリフのメリハリが効きますから」と証言しており、ジェンマへの強い思い入れが伺える[12]

なお、野沢が吹替えを担当したジェンマの出演作のほとんどはインディーズ系作品であり、権利元も独立系配給会社であったことから、その権利の移行の際に吹替原版が引き継がれずに消失したり、放送局毎に松橋登(野沢に次いでジェンマの声を多く担当、主に日本テレビの映画番組で起用されていた)や柴田てる彦 (『星空の用心棒』TBS版で担当、権利元に保管されているバージョンである)など、野沢以外の声優による吹替が新規に制作され、リピートにはそちらの新録版が使用されることが増えていったために複数のバージョンの中で比較的制作年の古い野沢が吹き替えたものは年々放送される機会が減りつつあった。近年ではマカロニ・ウェスタン作品のソフト化にあたって過去のテレビ版吹替を収録する際には、ファンの声に応えて[26]ジェンマ=野沢那智のバージョンの吹替版が捜索された上でセルソフトに収録される機会が多くなっている(主な例としては『荒野の1ドル銀貨』『続・荒野の1ドル銀貨』『さいはての用心棒』『怒りの荒野』『特攻大戦線』など)。

デヴィッド・マッカラム

デヴィッド・マッカラムは高めの声で演じ、吹き替え草創期における低音のイメージを覆した俳優である。

俳協に移籍後、演出をやろうと考えていたため63年に劇団薔薇座も設立したことを機に「アテレコはもう辞めよう」と思い切って事務所に相談した際に「いいよ。でも最後に一つだけ、これ愛川欽也さんに決まってるんだけど、一応このオーディションだけ行ってきて」と『0011ナポレオン・ソロ』でマッカラムの演じるイリヤ・クリヤキン役をオファーされた。スタジオに入るとミキサールームにいた音響監督の男性が30秒ほど野沢を見つめた後、「よし、お前でやろう! 決めた!」と言い放ち「えっ、僕は辞めようと…」と言いたかったものの、俳協の代表で来たため辞めるわけにはいかず「とりあえずしゃべってみろ」ということになる[19]

野沢は「アテレコの声をいかにつくるか。見合いをするようなもので、僕は直感に頼ります」と語り、当時アテレコで主流だった低音ではなく、高く、はずむようなテンポの声を選択したという[21]。当時、外国人は低音が売りの役者が多かったために、本人曰く「低音ブーム」と呼ばれていたと語っている。しかし、そこで野沢はマッカラムの顔を見た瞬間、「この人は低音じゃできないよな。若くてひょろひょろしてるし」と思い、どうしたらこれを吹き替えられるか考えたところ、低音の役者と比較的高めの声でとっさに思いついた「あわわ〜」という頭のてっぺんから出るような声で台詞を発した。すると音響監督には「よし、それで行こう。それで決まり」とこの声が認められて決まったが、「おい、毎週この(高め)声でねぇよ俺」と漏らすほど苦労していたとのこと。結局、辞めるわけにもいかなくなり、ドラマは5年ほど続いたが、本作のマッカラムの吹替えは野沢のアテレコ(吹き替え)人生における最大の転機となり、その後、洋画、アニメの仕事が次々舞い込んだ[21]

ブルース・ウィリス

ブルース・ウィリスを吹替がやりやすい担当俳優の一人として挙げている。

ウィリスの代表作『ダイ・ハード』(「日曜洋画劇場」で1990年初放映)の吹替においては、オファーが来た際、「こんな太い首してる男を俺がどうやったらいいんだ」と困惑したものの、「野沢さんならこのブルース・ウィリスの気持ちがわかる」と説得され[19]、参考としてアフレコ前に先に流通していたソフト版の樋浦勉の吹替を視聴し、研究してから収録に臨んだが、息子の野沢聡によると野沢は樋浦の演技を見て「俺にはこういう市井の労働者っぽいの出せない」と漏らしていたという[27]。野沢の演技のほとんどがアドリブであり、細身ながらアクションを演じていたところ、酸欠を起こし、酸素ボンベ常用で演技したという。本作は野沢にとって印象的な仕事になり、野沢はいまだに台本を保存していると語った[11]。この台本は、後に「吹替の帝王」レーベルで発売された『ダイ・ハード』に特典として縮小版が付録として付属した。本作でのウィリス演じる刑事ジョン・マクレーンは「人間臭くてユーモアを忘れないところが良い」[20]と野沢のお気に入りのキャラクターのひとりで、野沢が亡くなるまでに製作されたシリーズ4作で吹き替えを担当。野沢に先んじてマクレーンを担当した樋浦も、野沢のバージョンを高く評価している[28]

死去後2013年に公開された5作目では、弟子に当たる中村秀利が野沢の後任として新たにマクレーンを担当し、その息子役には実子である聡が起用された。

クリント・イーストウッド(代役)

山田康雄の没後、山田が吹替を担当していたクリント・イーストウッドを幾つかの作品で引き継いでいる。

イーストウッド作品で最初に吹き替えたのは『ザ・シークレット・サービス』(1996年「日曜洋画劇場」で初放映)。この作品の依頼の際、山田に似せて演技してほしいとスタッフから促され引き受けたものの、自分の芝居ができないことに悩み、結局録音は、山田に似せた演技と、“野沢イーストウッド”がそれぞれ含まれる仕上がりになった模様で、野沢は「半端な出来」と仕上がりを評し、この作品に関してやや後悔も感じられる回答を述べた[11]。また、「結局演出の希望通りにすると、ヤスベエ(山田)の芝居を姑息に真似する結果になっちゃうし、意識しないように心がけてもやはり当人の芸を見てきてしまっただけに苦しい。それにイーストウッドの芝居はその感覚がつかみ難い」と難色を示している。ただ、その後もイーストウッドの吹替には関わっていた。

仕事に対する姿勢

野沢は声の基礎トレーニングを受けたことがない。困ると思って考えたのが、クラシック音楽を口で歌うことであった。トランペットならトランペットの音、チェロが鳴ったらチェロの音など、全部を口真似して一曲丸ごと歌うという。発音だけでなく、発声のトレーニングもでき、音を真似するために、口はどう開け、舌はどう使うかを考えるという。喉が苦しくなったら、それは発声が悪いとのこと[14]。雑誌『レコード芸術』でのインタビューで、トレーニングに用いたクラシック音楽のレコードコレクションを披露し「これだけレコード買ってなかったら、今頃はプールつきの家に住んでられたんですが」と茶目っ気あるコメントを残したこともある。また同じインタビューで本業が「舞台演出家」として紹介されており、彼の舞台への愛着も垣間見られる。

体の大きなマッチョ体形の男を初めて演じる際、「どうやってこの声を出したらいいんだ」と真剣に悩んだことがあった。そこで考えたのが、収録の前日にウイスキーを飲むことであった。すると声がしゃがれて野太くなるが、3時間も喋っていると、嗄れすぎてカサカサになるという[15]

野沢は、他人に「声優」と呼ばれることに難色を示さなかった[29]が、吹替を長く牽引してきた多くの名優たちと同様に「声優である前に俳優である」との考えから、声優という言葉はあまり使わないようにしていた。声優を目指す若人には「自分の体で表現できる心をとらえられる役者になれ」と言っており、その結果、声の仕事が主になってもいいとのこと[15]。インタビューなどにおいて、声優になれない声優志望者に対して「そういう人たちには俳優になろうという気がない(声優とは俳優の仕事の一部だということを理解していない)からだ」と苦言を呈したことがある。

スピード』(テレビ朝日版)で野沢が演じる悪役のデニス・ホッパーと敵対する主演のキアヌ・リーブスを吹替えた宮本充は、「怒ったところを見たことがないというぐらい、陽気で優しい方でした。反面、御自身の仕事に関してはストイックな方なんだろうな。という印象です」と語り、「ダンディで、周りにすごく気を遣う方でした。いつもお洒落な服を着ていらして、アラン・ドロンのイメージがぴったり一致しました。常にセリフの練習をしていて、本番前にディレクターから『野沢さん、静かにしてください』と言われてました(笑)」と共演した当時の野沢について回想している[30]

エピソード

待遇面について

かつては声優業のギャランティが法外に安く、デヴィッド・マッカラムの来日に合わせたイベントに際してテレビ局のハイヤーで移動中、追っかけのファンがタクシーで後を追ってくる様子を見て「俺はギャラ3700円のスターだ」と腹立たしくなったという。あまりにも安いギャランティに腹を立て、収録が終わったページを次々に破り捨てたこともあると語っている。だが、野沢いわく大先輩の俳優もやっていた行為で単に真似していただけという。

賢プロや劇団関係のゲストなどのイベントや舞台で、よく「ギャラの安さに怒りを覚え、日本一高い役者になってやると決意し、見事なった結果、仕事がなくなりました」と自らのギャランティのトップ水準を自虐的に語り笑いを誘うことがある。

山寺宏一の豪邸を見た野沢は「俺もギャラを片っ端から飲んでなければ山寺くらいの家が持てた」と発言している。

出演作品との関わり

スター・ウォーズ・シリーズ』のC-3PO役は、英米の声優らが「野沢が適任」と語るほど特徴あるはまり役だった。日本語版製作にあたって、テレビ版とビデオ版とではキャストが代わることが多いが、このキャラクターはいずれも野沢が吹き替えている。関連イベントのプロモーションの音声も彼が手がけている。日本における『スター・ウォーズ』のイベントで野沢はC-3PO役のアンソニー・ダニエルズと対面したが、ダニエルズは通訳を無視して延々と自分の話を続けたため、野沢は「変な奴だった」と語っている。

後年、『スター・ウォーズ』新三部作が製作された際は担当声優が岩崎ひろしへと変更された。本国側のFOX・ルーカスフィルム担当者は旧作製作当時を知らない若手社員に交代しており、吹替版製作を役者の実力や芝居のフィットよりも、声質の近さを最優先事項とした。日本FOXおよび音声製作会社側は当初配役変更に猛反対し、日本における旧作公開の歴史や「野沢C-3PO」の知名度を説明したが、これが逆に本国側を硬化させることになったとされる。野沢本人も本件はショックであったらしく、インタビューなどにおいて外国映画日本語吹替版の質の低下を憂いている[31]。ただし、現在DVD、ブルーレイに収録されている旧三部作最新版では再び野沢の声に戻っている。

ベルサイユのばら』では、フェルゼン役に決まった直後に病気で倒れて入院し、初登場から数話だけ堀勝之祐が代役を務めた。初登場が代役というのは、きわめて異例である。また『Dr.スランプ アラレちゃん』のDr.マシリト役や『ガラスの仮面』の速水真澄役など、途中で変更になる場合もあった(後任はそれぞれマシリト:野田圭一、速水真澄:森功至)。『HELLSING』のアンデルセン神父役も、OVAで作り直された際には若本規夫に変更された。

ルパン三世 パイロットフィルム』においては、野沢がルパン三世を演じていた。一連のテレビアニメシリーズが開始する時期にも野沢はルパン役を希望していた[要出典]がスケジュールの都合上から出演ができなくなり、結果としてルパン役は山田康雄が抜擢された。野沢は後に、「おれがルパンやっていたらこんなロングランにならなかったと思う。潰れただろうね。ヤスベエでホント良かったよね」と語っている。また、山田とは口調が似ることがあったため、『スペースコブラ』でコブラ役のオファーが来たときは「似せないように演技しよう」と心掛けた。

ディズニー・チャンネルで放送された子供向け番組『ノック! ノック! ようこそベアーハウス』(原題:Bear in the Big Blue House)のベアー役は、実の息子である野沢聡(歌唱部分を担当)との二人一役であり且つ、唯一のアテレコにおける共演作となった。

パックインミュージック

白石冬美とともにパーソナリティを務めた「パックインミュージック」は、「ナチチャコ(ナッチャコ)パック」「金パ(金曜パックインミュージック)」などの愛称で親しまれ、1967年の放送開始以来15年間続いた人気番組であったが、放送開始当初の契約は「3ヶ月」であった[14]

野沢の第一回放送での第一声は、コールランプを非常サインと勘違いした「故障ですか、故障ですか」の大騒ぎ。NGを以てのスタートとなった。その酷過ぎる放送内容で自己嫌悪に陥った野沢は、とても3ヶ月も続かないと思いながら、TBSの前に来るラーメン屋台で泥酔して帰宅したという話がある。

その頃の野沢は、吹き替えも収録スタジオでもみんなの雑談に入れなかったくらいの恥ずかしがり屋で、自分でも何をしゃべったのか覚えていない、気がついたらCMになっていて、自分が無口だということを初めて知ったという[14]

DJに不馴れな最初期はCM中もサインに気付かず話し続けるなどNGを連発したが、番組自体は野沢の独特の言い回しなどから徐々に人気となる。初期は野沢が迷走的に話し続ける内容で作り手も苦しい状況だったが、リスナーに対して話題を求めるという当時としては画期的なシステムを編み出し、これによって番組は爆発的な人気を得る。また、番組に投書されるハガキの内容も独特なものが寄せられ話題を呼んだ。猥談から食事、趣味、思想と話題が多岐にわたり、「手紙に手紙が繋がっていく」(白石談)という状況も生み、15年間という異例のロングランとなった。

番組内で白石とのデュエット曲「テレホン・ラブ」と「青山レイニーナイト」をリリースした。

野沢は徹底した平和主義者であり、戦争・紛争、武力、暴力またはそれに関わる組織を嫌う。反戦活動をする作家や芸術家芸能人らとも交流があり、それが番組の話題にもなった。そうした野沢の姿勢・発言から、一部からは「若者に有害な左翼放送である」とクレームが来たこともあるらしいが、投稿の内容にはあまり深くは立ち入りしない方針であった。過去に自殺をほのめかす投稿があり、それに対して行動を起こしたことで幻滅する結果を経験したからとのこと。

熱狂的なファンも多く、番組終了決定の際にはファンがTBSへ抗議のデモをかけるほどだったという。「人気は未だ上り坂で決して低迷はしておらず、局内の人事の都合で打ち切られた」と主張するファンも居たとされる。こういった声がある一方で、番組の初代ディレクターで番組終了決定時にはラジオ編成部で番組編成を担当していた熊沢敦は、「(パックインミュージック終了に至ったのは)比較的年齢の高いヤング層のラジオ離れがあり、他局と同じことをしていたのでは今後ジリ貧になる恐れがあったため、あえて終了という決断をした」[32]と、番組終了の経緯を説明している。

劇団薔薇座

劇団薔薇座には数多くの俳優・声優が在籍した。その後のメンバーの活躍分野は多岐に渡り、安崎求のようにミュージカル分野で活躍する者から、岸野幸正の様に自らの劇団を持ち舞台で活躍する者、玄田哲章高島雅羅のように洋画・アニメーションで売れていった者、菅谷勇のようにナレーションを得意分野とする者、戸田恵子のようなマルチタレントに位置する者など、多様な人材が育った。他には、有本欽隆石塚運昇いまむらのりお江森浩子椎橋重志賀克也鈴置洋孝鈴木清信竹村拓津久井教生鉄炮塚葉子田中完富本牧子豊田真治中村秀利難波圭一筈見純など。

野沢の指導のスパルタぶりは凄まじく、当時その厳しさを知る人からは「演劇界の修羅」とまで評されていた。ダメ出しの際には「馬鹿」「死ね」などの罵声を容赦なく飛ばし、アルミ灰皿やパイプ椅子を投げつけられ、当たりそうな時に避けると「なんで避けたんだ!!」と罵られることなども日常茶飯事であったという。そのため劇団も「那智」とひっかけて「ナチ収容所」など、散々なあだ名が付けられた。玄田哲章によれば、野沢は稽古中サングラスを掛けサーベルを振り回していたこともあったという[11]。また、野沢が演出する舞台に出演した井上和彦は、ダメ出しにピーナッツを投げつけられたという。戸田恵子は「『他人に聞くな。自分で(演技をして)恥をかけ』という言葉が口癖の、厳しい信条の持ち主だった」と語っている。公演中やリハーサル中に、劇場ロビーで玄田が倒れていたなどの話もある。鈴置洋孝は「ここを経験していたから頑張れた」と語り[33]、石塚運昇も当時の感想を「ハードすぎて生活できなかった」とコメントしている。野沢がパーソナリティを務めるラジオ番組では薔薇座の紹介もされていたのだが、それを参考に入団した者は「パーソナリティ・ナッちゃん」と「演出家・野沢那智」のギャップに圧倒され、「こりゃ詐欺だ」と嘆いていた。

晩年でも野沢の演技指導に対する厳しさは健在で、パフォーミング・アート・センターにおける講義の際は、竹刀を持って指導していたという。ただし、薔薇座時代のメンバー曰く、薔薇座の座長の頃と比べて丁寧に指導していたとのこと。卒業生によると、野沢自身が実演をした際に、本人の声量の大きさでスピーカーが破損し、本人も気づかず、また生徒も指摘しなかった為に授業にならなかったことも少なくなかったという[34]

馬主として

声優業界でも数少ない馬主としても有名であり、野沢自身も競馬ファンであった。

生前の野沢は日本中央競馬会(JRA)に馬主登録をしており、シンジュサンゴという名前の競走馬を所有していた。このシンジュサンゴという名前は、姪の直子の2人の娘(長女は前述の通り格闘家として活動)の本名に由来する。

また、その直子の父(那智の実兄)も馬主であり、ユーワジェームス1987年第32回有馬記念2着。当時の社名は株式会社ユーワ)を実兄自身が創立した友和競走馬株式会社(後の株式会社ユーワ。その後株式会社ユーワライディングを経て現・株式会社東京ホースレーシング)名義で所有していた人物でもあった。ラジオ番組『野沢那智のハローモーニング』においては、毎回電話を通して実兄に競馬の話を聞いていた。なお、実兄は2006年のユーワライディングから東京ホースレーシングへの社名変更と同時に、実施された経営体制の変更によって現在は馬主業から撤退している。

代役・後任

生前の体調不良などによる代役は以下の通り。

代役 役名 概要作品 代役の初担当作品
野田圭一 Dr.マシリト Dr.スランプ アラレちゃん 第198話
森功至 速水真澄 ガラスの仮面 第19話
鈴木ヤスシ 実況ナレーター チキチキマシン猛レース 新・チキチキマシン猛レース ケンケンのフェンダー・ベンダー500
岩崎ひろし C-3PO スター・ウォーズ・シリーズ スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス
若本規夫 アンデルセン神父 HELLSING OVA版
樋浦勉[注 5] ブルース・ウィリスの吹き替え 日曜洋画劇場 ホステージ
内田直哉 コブラ COBRA THE ANIMATION テレビシリーズ版

没後の後任は以下の通り。

代役・後任 役名 概要作品 代役・後任の初担当作品
中村秀利 ジョン・マクレーン ダイ・ハードシリーズ ダイ・ハード/ラスト・デイ
マックス・シュレック バットマン リターンズ(テレビ朝日版) WOWOW版追加収録部分
井上倫宏 ハイグレ魔王 クレヨンしんちゃん アクション仮面VSハイグレ魔王 クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ カスカベ映画スターズ!
大川透 ハリー・ダン ジム・キャリーはMr.ダマー 帰ってきたMr.ダマー バカMAX!
内田夕夜 クライド・バロウ 俺たちに明日はない WOWOW版追加収録
平田広明 サニー 出逢い Netflix版追加収録
上田燿司 実況ナレーター チキチキマシン猛レース チキチキマシン猛レース!
家中宏 パイカル ルパン三世シリーズ ルパンは今も燃えているか?
千葉繁 ヴィクセン キングダム ハーツ シリーズ キングダム ハーツIII
宝条 ファイナルファンタジーVII ファイナルファンタジーVII リメイク
内田直哉 甲野三郎 EVEシリーズ EVE rebirth terror
二又一成 バームクーヘンさん それいけ!アンパンマン 第1219話
森功至 ルシフェル ドラゴンボール 魔神城のねむり姫 スーパードラゴンボールヒーローズ

出演

太字はメインキャラクター。

テレビドラマ

舞台

吹き替え

担当俳優

アラン・ドロン
アル・パチーノ
アンソニー・パーキンス
ウィレム・デフォー
クリストファー・ウォーケン
クリント・イーストウッド
ジェームズ・ウッズ
ジュリアーノ・ジェンマ
ダスティン・ホフマン
デヴィッド・マッカラム
トロイ・ドナヒュー
ビル・ナイ
ブルース・ウィリス
ロバート・デ・ニーロ
ロバート・レッドフォード

映画

ドラマ

アニメ

テレビアニメ

1963年
1964年
1965年
1967年
1968年
1969年
1972年
1978年
1979年
1980年
1981年
1982年
1984年
1992年
1993年
1994年
1996年
1998年
1999年
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年

劇場アニメ

1970年代
1980年代
1990年代
2000年代

OVA

1968年
1969年
1986年
1988年
1989年
1991年
1995年
1997年
1998年
1999年
2002年
2005年
2006年
2008年

ゲーム

1997年
1998年
1999年
  • The Lost One Last Chapter of Eve(甲野三郎)
2000年
2001年
2003年
2005年
2006年
2007年
2008年
2009年
2010年
2013年
2014年

ドラマCD

人形劇

ラジオ

ナレーション

バラエティ

CM

パチンコ・パチスロ

  • CRコブラ〜終わりなき劇闘〜(コブラ)
  • COBRA -THE SLOT-(コブラ)
  • CRコブラ THE ドラム(コブラ) ※ライブラリ出演
  • CR釣りキチ三平(鮎川魚神)
  • CR夕陽のガンマン 荒野の仕掛人(モンコ)

その他コンテンツ

音楽

レコード

演出

  • アップル・ツリー
  • オルフェ(1966年/劇団薔薇座
  • バッカス(1966年/劇団薔薇座)
  • ルノーとアルミード(1967年/劇団薔薇座)
  • ブリタニキュス(1968年/劇団薔薇座)
  • 円卓の騎士(1971年、1977年/劇団薔薇座)
  • BENT 〜ねじまげられて〜(1981年、1984年、1985年、1986年/劇団薔薇座)
  • greese グリース ロックンロール・ミュージカル(1981年、1982年/劇団薔薇座)
  • 死の罠(1981年/劇団薔薇座)
  • 旅立て女たち(1981年/劇団薔薇座)
  • ローマで起こった奇妙なできごと(1980年、1981年/劇団薔薇座)
  • 飛べ!京浜ドラキュラ (1982年/シアターアプル81プロデュース
  • かぐや姫/そんごくう(1984年/劇団目覚時計)
  • KING of HEARTS(1985年/劇団薔薇座)
  • 覗きからくり遠眼鏡 幕末群盗伝(1985年/劇団音楽座、劇団薔薇座)
  • クライムズ オブ ザ ハート(1985年/劇団薔薇座)
  • 踊れ艦隊のレディたち(1985年、1986年、1987年、1989年/劇団薔薇座)
  • 十二夜(1986年/好村俊子プロデュース〈鷹〉企画)
  • アパートの鍵貸します(1987年、1988年/劇団薔薇座)
  • 賢者の贈り物(1987年/木山事務所)
  • ステージ・ドア(1987年/劇団薔薇座)
  • スイート・チャリティー(1988年/劇団薔薇座)
  • ミスターシンデレラ(1988年/劇団薔薇座)
  • MOONLIGHT BEAUTY(1989年/創樹社)
  • おお!活動狂時代 バイオグラフガール(1989年、1990年/劇団薔薇座)
  • 暗くなるまで待って(1990劇団薔薇座)
  • チャーリーはどこだ?(1990劇団薔薇座)
  • ミスターシンデレラ(1990年/添田事務所、オフィス・ナイン、劇団薔薇座)
  • ドライビング・ミス・デイジー(1998年/劇団東演)
  • みんなで渡れば…(1999年/劇団東演)
  • 結婚したくない男と女(2000年/フォー・ユー・カンパニー)

論文

脚注

注釈

  1. ^ a b 「沢」を旧字体にして野 那智と表記するケースもある。
  2. ^ 山路は本シリーズの1・2作目をはじめ『スカーフェイス』など、パチーノの担当は旧作新録が主であったが、野沢の没後はその後を継ぐ形で媒体を問わず多く担当するようになった。
  3. ^ そのようなクレームが来た際には「字幕では、年寄りは見づらいでしょう。今の方法が完璧とは思いませんが、できるだけ大勢の方に楽しんでもらいたいので吹替にしているんです。もっと深いところで楽しみたいときは、映画館へ足を運んでください」と言うことにしていたとのこと。
  4. ^ ただし、結果的に本作の初回放映権はNETでなく日本テレビが獲得することとなり、ジェンマの吹替も野沢ではなく樋浦勉が担当した。なお、日本テレビはジェンマに野沢を一度も起用していない。
  5. ^ 樋浦は以前より、ビデオソフトなどでウィリスの吹き替えを(テレビ版担当の野沢と並行する形で)数多く担当していた。
  6. ^ 後述の通り野沢はリメイク元の映画『ジャッカルの日』のジャッカルも吹き替えている。
  1. ^ a b c d e 野沢那智(のざわなち)の解説”. goo人名事典. 2020年5月24日閲覧。
  2. ^ a b 『日本タレント名鑑(2010年版)』VIPタイムズ社、2010年2月27日、297頁。ISBN 978-4-904674-01-7 
  3. ^ 『声優名鑑』、583頁、成美堂出版、1999年、ISBN 978-4415008783
  4. ^ a b c d e f g h i 野沢那智の声優道 第1回 人生何がどうなるかなんてわからない”. 2020年7月5日閲覧。
  5. ^ 『声優事典 第二版』キネマ旬報社、1996年、231頁。ISBN 4-87376-160-3 
  6. ^ 『日本タレント名鑑(1990年版)』VIPタイムズ社、1990年、198頁。 
  7. ^ 声優の野沢那智さんが死去 アラン・ドロンら吹き替え”. 日本経済新聞 (2010年10月30日). 2020年11月25日閲覧。
  8. ^ a b c 野沢那智さんお別れに声優仲間ら参列/芸能・社会”. デイリースポーツonline. 2011年2月15日閲覧。
  9. ^ 声優野沢那智さんお別れ会しめやかに…声優仲間ら出席”. 日テレNEWS24. 2011年2月14日閲覧。
  10. ^ 第五回声優アワード 受賞者発表”. 声優アワード (2011年3月5日). 2011年4月13日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 『とり・みきの映画吹替王』洋泉社・刊 より
  12. ^ a b c 阿部邦雄『声のスターのすべて TV洋画の人気者』近代映画社、1978年5月。全国書誌番号:79023322 
  13. ^ a b テレビ朝日『映画はブラウン館の指定席で―淀川長治と『日曜洋画』の20年』全国朝日放送、1986年。ISBN 4881310798 
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 野沢那智の声優道 第3回 声優になるには2〜技術と感性を兼ね備えた演技者を目指そう〜
  15. ^ a b c 野沢那智の声優道 第2回 声優になるには1〜声優の前に、俳優であれ!〜(Wayback Machineによるアーカイブ)
  16. ^ a b c The Godfather 徹 底 解 剖 | 洋画専門チャンネル ザ・シネマ
  17. ^ ゴッドファーザー 吹替完全版 ブルーレイBOX 初回限定盤 - TSUTAYA オンラインショッピング
  18. ^ 野沢那智がアル・パチーノ演じた吹替版も収録「ゴッドファーザー」BD BOX発売(2017年7月20日 20:45) - 映画ナタリー
  19. ^ a b c d ふきカエルインタビュー 【第2回】 野沢那智(2008年4月9日収録) - インタビュアー:水落幸子
  20. ^ a b 『吹替洋画劇場』三一書房・刊 より
  21. ^ a b c 野沢那智さん死去 世界の名優吹き替えた[2010年10月31日8時12分 紙面から]”. 日刊スポーツ. 2020年1月23日閲覧。
  22. ^ ダークボのツイート(2017年11月19日)
  23. ^ 吹替王国#5 声優:山路和弘(archive.todayによるアーカイブ)
  24. ^ ふきカエルインタビュー特別編 野沢那智さんを偲んで
  25. ^ ふきカエルインタビュー 平田広明×安藤瞳(2010年12月22日)
  26. ^ さいはての用心棒 4Kレストア版 - タワーレコード オンライン
  27. ^ (『『ダイ・ハード/ラスト・デイ〈日本語吹替完全版〉コレクターズ・ブルーレイBOX〔初回生産限定〕』インタビュー集より)
  28. ^ ふきカエルインタビュー 樋浦勉さん(2016年8月16日)
  29. ^ 『報道ステーション』では「声優 野沢那智」と表記されていた。
  30. ^ 吹替の帝王『スピード』インタビュー集より
  31. ^ 書籍『吹替洋画劇場』や『ライオンのごきげんよう』での野沢の発言。また「ふきカエル大作戦!」サイトのインタビューではミキシング担当者の山田太平が3PO役=野沢の起用をルーカスに直接交渉しながら実現しない内に亡くなったことも惜しんでいる。
  32. ^ パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命(伊藤友治+TBSラジオ 編 DU BOOKS、ディスクユニオン)p.487 - 489
  33. ^ 山寺宏一「第20回 鈴置洋孝」『山寺宏一のだから声優やめられない! 声優・山寺宏一と30人の声の役者たち』、主婦の友社、2000年12月1日、ISBN 4-07-229270-2、204-213頁。
  34. ^ PACの卒業生のツイートより
  35. ^ ジョゼ・ジョヴァンニ/ブーメランのように 4Kレストア版 - タワーレコード オンライン
  36. ^ 続・荒野の1ドル銀貨 スペシャル・エディション(DVD)- 通販:セブンネットショッピング
  37. ^ http://zack-pro.com/w_gaigarec.html”. 11/27/2020閲覧。
  38. ^ 関係者のツイート (2012年10月9日) - Twitter
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外部リンク