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実子がない普請役の1500石の旗本[[小出英永]]の両養子として[[嘉永]]5年([[1852年]])[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]に[[小出氏|小出家]]の家督を相続、同年に小普請入り、翌嘉永6年([[1853年]])[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]に[[小姓組]]に移った。[[昌平坂学問所]]に学び、[[講武所]]の銃隊調練の教導資格を獲得、[[文久]]元年([[1861年]])[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]に[[使番]]、[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]に[[目付]]に登用され、翌文久2年([[1862年]])[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]に[[遠国奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行]]に任命される。箱館奉行時代、箱館奉行所の[[五稜郭]]内移転や[[アイヌ人骨盗骨事件]]で[[イギリス]]との談判が幕府に評価され、[[慶応]]2年([[1866年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]に[[外国奉行]]も兼任、10月に[[樺太]]国境画定交渉の遺露使節団の代表正使として[[ロシア帝国|ロシア]]へ派遣された。副使は後に最後の北町奉行となる[[石川利政]]であり、箱館に残った相役の[[杉浦梅潭|杉浦誠]]は最後の箱館奉行となる。
実子がない普請役の1500石の旗本[[小出英永]]の両養子として[[嘉永]]5年([[1852年]])[[7月25日 (旧暦)|7月25日]]に[[小出氏|小出家]]の家督を相続、同年に小普請入り、翌嘉永6年([[1853年]])[[5月6日 (旧暦)|5月6日]]に[[小姓組]]に移った。[[昌平坂学問所]]に学び、[[講武所]]の銃隊調練の教導資格を獲得、[[文久]]元年([[1861年]])[[10月1日 (旧暦)|10月1日]]に[[使番]]、[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]に[[目付]]に登用され、翌文久2年([[1862年]])[[9月7日 (旧暦)|9月7日]]に[[遠国奉行#箱館奉行・松前奉行|箱館奉行]]に任命される。箱館奉行時代、箱館奉行所の[[五稜郭]]内移転や[[アイヌ人骨盗骨事件]]で[[イギリス]]との談判が幕府に評価され、[[慶応]]2年([[1866年]])[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]に[[外国奉行]]も兼任、10月に[[樺太]]国境画定交渉の遺露使節団の代表正使として[[ロシア帝国|ロシア]]へ派遣された。副使は後に最後の北町奉行となる[[石川利政]]であり、箱館に残った相役の[[杉浦梅潭|杉浦誠]]は最後の箱館奉行となる。


ロシア留学生を伴なった使節一行は10月12日にフランス客船で横浜を出発、[[マルセイユ]]経由で12月12日に[[サンクトペテルブルク]]到着。ロシア皇帝[[アレクサンドル2世]]に謁見後、ロシア全権の外務省アジア局長{{仮リンク|ピョートル・ストレモウホフ|ru|Стремоухов, Пётр Николаевич}}と慶応3年([[1867年]])1月2日から2月7日まで8回の交渉を行う<ref>滞在費が不足し、途中からホテルを出て、留学生らと同様の下宿住まいとなった。</ref>が不調に終わり、[[日露間樺太島仮規則]]に調印した。この条約は両国民の混住状態を認めるもので、かえってロシアの南下を招くものであった<ref>田口(1995)p34-39</ref>。ただこの交渉の際、樺太・千島の交換が俎上に上がったことは特筆される。なお途中、[[プロイセン王国|プロイセン]]の首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]や[[フランス第二帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン3世]]と謁見し、[[パリ万国博覧会 (1867年)|第2回パリ万国博覧会]]に参加している。この時使節団に随行した人物に[[山川浩]]などがいる<ref name=kitaguni71>北国(2009)p71</ref>。
ロシア留学生を伴なった使節一行は10月12日にフランス客船で横浜を出発、[[マルセイユ]]経由で12月12日に[[サンクトペテルブルク]]到着。ロシア皇帝[[アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)|アレクサンドル2世]]に謁見後、ロシア全権の外務省アジア局長{{仮リンク|ピョートル・ストレモウホフ|ru|Стремоухов, Пётр Николаевич}}と慶応3年([[1867年]])1月2日から2月7日まで8回の交渉を行う<ref>滞在費が不足し、途中からホテルを出て、留学生らと同様の下宿住まいとなった。</ref>が不調に終わり、[[日露間樺太島仮規則]]に調印した。この条約は両国民の混住状態を認めるもので、かえってロシアの南下を招くものであった<ref>田口(1995)p34-39</ref>。ただこの交渉の際、樺太・千島の交換が俎上に上がったことは特筆される。なお途中、[[プロイセン王国|プロイセン]]の首相[[オットー・フォン・ビスマルク]]や[[フランス第二帝政|フランス]]皇帝[[ナポレオン3世]]と謁見し、[[パリ万国博覧会 (1867年)|第2回パリ万国博覧会]]に参加している。この時使節団に随行した人物に[[山川浩]]などがいる<ref name=kitaguni71>北国(2009)p71</ref>。


慶応3年5月に日本へ帰国、[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]には[[小栗忠順]]の配下として[[勘定奉行]]、金銀座取締役を経て[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]に[[留守居]]となり、[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]の[[大政奉還]]を迎える。[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]に[[町奉行|江戸北町奉行]]となるも翌慶応4年([[1868年]])[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]に辞職、石川利政が後任の北町奉行となった。その後、新政府の山陰道鎮撫総督・[[西園寺公望]]から[[京都府]][[久美浜町|久美浜]]方面の鎮撫を命じられて警備にあたる<ref name=kitaguni71/>。
慶応3年5月に日本へ帰国、[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]には[[小栗忠順]]の配下として[[勘定奉行]]、金銀座取締役を経て[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]に[[留守居]]となり、[[11月9日 (旧暦)|11月9日]]の[[大政奉還]]を迎える。[[12月27日 (旧暦)|12月27日]]に[[町奉行|江戸北町奉行]]となるも翌慶応4年([[1868年]])[[2月16日 (旧暦)|2月16日]]に辞職、石川利政が後任の北町奉行となった。その後、新政府の山陰道鎮撫総督・[[西園寺公望]]から[[京都府]][[久美浜町|久美浜]]方面の鎮撫を命じられて警備にあたる<ref name=kitaguni71/>。

2021年6月13日 (日) 08:51時点における版

小出 秀実(こいで ほずみ、天保5年(1834年) - 明治2年6月22日1869年7月30日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本小出英永の夫婦養子。実父は土岐頼旨、実母は土岐頼量の娘。兄弟に土岐頼礼。官位は従五位下美濃守大和守。また左衛門尉、修理とも称した。別名に(みのる)。生年は天保2年(1831年[1]ともされる。江戸生まれ江戸育ち。

生涯

実子がない普請役の1500石の旗本小出英永の両養子として嘉永5年(1852年7月25日小出家の家督を相続、同年に小普請入り、翌嘉永6年(1853年5月6日小姓組に移った。昌平坂学問所に学び、講武所の銃隊調練の教導資格を獲得、文久元年(1861年10月1日使番12月7日目付に登用され、翌文久2年(1862年9月7日箱館奉行に任命される。箱館奉行時代、箱館奉行所の五稜郭内移転やアイヌ人骨盗骨事件イギリスとの談判が幕府に評価され、慶応2年(1866年8月26日外国奉行も兼任、10月に樺太国境画定交渉の遺露使節団の代表正使としてロシアへ派遣された。副使は後に最後の北町奉行となる石川利政であり、箱館に残った相役の杉浦誠は最後の箱館奉行となる。

ロシア留学生を伴なった使節一行は10月12日にフランス客船で横浜を出発、マルセイユ経由で12月12日にサンクトペテルブルク到着。ロシア皇帝アレクサンドル2世に謁見後、ロシア全権の外務省アジア局長ピョートル・ストレモウホフロシア語版と慶応3年(1867年)1月2日から2月7日まで8回の交渉を行う[2]が不調に終わり、日露間樺太島仮規則に調印した。この条約は両国民の混住状態を認めるもので、かえってロシアの南下を招くものであった[3]。ただこの交渉の際、樺太・千島の交換が俎上に上がったことは特筆される。なお途中、プロイセンの首相オットー・フォン・ビスマルクフランス皇帝ナポレオン3世と謁見し、第2回パリ万国博覧会に参加している。この時使節団に随行した人物に山川浩などがいる[4]

慶応3年5月に日本へ帰国、7月27日には小栗忠順の配下として勘定奉行、金銀座取締役を経て10月23日留守居となり、11月9日大政奉還を迎える。12月27日江戸北町奉行となるも翌慶応4年(1868年2月16日に辞職、石川利政が後任の北町奉行となった。その後、新政府の山陰道鎮撫総督・西園寺公望から京都府久美浜方面の鎮撫を命じられて警備にあたる[4]

脚注

  1. ^ 『徳川幕臣人名辞典』より
  2. ^ 滞在費が不足し、途中からホテルを出て、留学生らと同様の下宿住まいとなった。
  3. ^ 田口(1995)p34-39
  4. ^ a b 北国(2009)p71

参考文献

  • 「和田山町の歴史 第2号」和田山町
  • 田口英爾『最後の箱館奉行の日記』新潮社、1995年。ISBN 4-10-600475-5 
  • 北国諒星『幕末維新えぞ地異聞』北海道出版企画センター、2009年。ISBN 978-4-8328-0910-9 
  • 竹内誠深井雅海編『徳川幕臣人名辞典』東京堂出版、2010年。
  • 小川恭一編『寛政譜以降旗本家百科事典 』 東洋書林 1997-1998年