「伊予国分寺」の版間の差分
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2021年6月20日 (日) 02:02時点における版
伊予国分寺 | |
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満開の桜 | |
所在地 | 愛媛県今治市国分4-1-33 |
位置 | 北緯34度1分34.2秒 東経133度1分31.6秒 / 北緯34.026167度 東経133.025444度座標: 北緯34度1分34.2秒 東経133度1分31.6秒 / 北緯34.026167度 東経133.025444度 |
山号 | 金光山 |
宗派 | 真言律宗 |
本尊 | 薬師瑠璃光如来 |
創建年 | 天平勝宝8年(756年)以前 |
開基 | (伝)行基 |
正式名 | 金光山 最勝院 国分寺 |
別称 | 国分寺 |
札所等 | 四国八十八箇所59番、伊予府中十三石仏霊場7番薬師如来 |
文化財 | 伊予国分寺塔跡(国の史跡) |
法人番号 | 6500005005038 |
伊予国分寺(いよこくぶんじ)は、愛媛県今治市国分に位置する真言律宗の寺院。金光山(こんごうざん)、最勝院(さいしょういん)と号す。本尊は薬師瑠璃光如来(薬師如来)。四国八十八箇所霊場の第五十九番札所。札所寺院としては、単に「国分寺」と称するのが通例である。
本尊真言:おん ころころ せんだりまとうぎ そわか
ご詠歌:守護のため建ててあがむる国分寺 いよいよめぐむ薬師なりけり
歴史
天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔によって建立された諸国国分寺の一つである。国分寺は『金光明最勝王経』による国家鎮護の寺であり、当寺もそれから山号・院号がつけられている。寺伝では聖武天皇の勅願により行基が開創し、第三世・智法律師のとき、空海(弘法大師)が逗留し五大明王の画像を、その後、真如は法華経を奉納したとされる。
史実としては、具体的な創建年は定かでないが、『続日本紀』には天平勝宝8年(756年)、伊予国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、この頃には完成していたものと思われる。
興亡を繰り返し、天慶2年(939年)の藤原住友の乱、元暦元年(1184年)の源平合戦、貞治3年(1364年)の細川頼之による兵火などで焼失、また、天正12年(1584年)長宗我部元親の侵攻の際に焼き討ちにあって荒廃したが、そのたびに再興される。焼失を免れた多くの古文書によって律令制衰退後に国分寺の多くが荒廃していく中で同寺が伊予における仏教信仰の中心地として曲がりなりにも維持されてきたことが明らかになっている。
現在の境内は伊予国府のあった所とされ、かつての境内は東へやや離れた位置にあったとされる。寺の東方100メートルほどのところに塔の礎石が残されており、かつての国分寺東塔跡と認められている。
境内
- 本堂:寛政元年(1789年)に再建されたもの。
- 大師堂
- 金毘羅堂:本堂と大師堂の間に棟つづきである
- 弁財天祠
- 握手修行大師像
- 七福神石仏
- 薬師如来の薬壺
- 書院:奈良時代から平安時代初期にかけての寺宝や文化財、旧国分寺からの出土品を保存している。
- 鐘楼
数段の石段を上ると右に鐘楼があり、正面の石柱門(両脇に1本づつ桜の木があったが向かって右側が老木にて伐採された)を入ると境内である。すぐ左に手水場(薬壺から水が出る)があり、右には薬師如来の薬壺、握手修行大師像があり、正面に本堂が建つ。本堂の右側に大師堂があり、左に書院、納経所がある。
- 宿坊:なし
- 駐車場:20台。大型3台。普通車で200円。
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平地と境内の段差
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本堂
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大師堂
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伊予府中十三石仏霊場
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弁財天
文化財
- 国の史跡
- 伊予国分寺塔跡:境内の東方にある。大正10 (1921) 3.3指定。管理団体は今治市(大正11.5.23)。
- 県指定有形文化財
- 紙本金地著色柳橋図:1双、昭和40.3.29指定
- 国分寺文書:3巻、昭和32.12.14指定
- 今治市指定天然記念物
- とうつばき:昭和45.3.30指定
- 今治市指定有形文化財
- 十二天画像 12幅: 昭和40.12.22指定
- 随求菩薩画像 1幅: 昭和40.12.22指定
- 弘法大師画像 1幅: 昭和40.12.22指定
- 不動明王画像 1幅: 昭和40.12.22指定
- 両界曼荼羅図 2幅: 昭和40.12.22指定
- 普賢菩薩画像 1幅: 昭和40.12.22指定
- 十六羅漢画像 1幅: 昭和40.12.22指定
- 十三仏画像 1幅: 昭和40.12.22指定
- 後西天皇宸筆 1巻: 昭和39.2.29指定
- 大般若経 402巻:昭和40.12.22指定
- 綸旨院宣奉書等通直判物 1巻: 昭和39.2.29指定
- 霊乗上人言上状附綸旨庁宣等案 1巻: 昭和39.2.29指定
- 坪付 1巻: 昭和61.4.2指定
- (参照事項)県指定史跡
- 伊予国分尼寺塔跡:国分寺より南へ約2km、国分尼寺の後継寺院と云える法華寺の近くにある。伝承では天平勝宝5 (753) 年建立、昭和31.11.3指定
交通案内
- 鉄道
- バス
- せとうちバス 桜井団地循環もしくは唐子台循環「国分寺」下車 (0.2km)
- 道路
前後の札所
近辺
- 脇屋刑部卿源義助公神廟 北緯34度1分37.03秒 東経133度1分40.15秒
石塔八尺御影石。当寺壱町東にありと四国遍礼霊場記(1689年寂本)にも紹介されている。 南北朝時代(1342年)劣勢になった南朝は回復を図るべく新田義貞の弟義助を南軍の総大師として伊予に派遣したが病により当地にて38歳で逝去し、南軍も世田城にて全滅し南朝は滅びることとなった。現在の義助公廟は1669年(寛文9年)に再建されたもの[1]。
次の札所間の番外霊場
- 日切大師:日切山大性院弘福寺で本尊不動明王。行基が開基し、空海が巡錫のおり当地で日切の請願を立てたと云われる。北緯33度56分56.49秒 東経133度3分26.63秒
- 臼井御来迎(うすいごらいごう):空海が老婆の願いにより臼の中に加持し水を湧かせた霊跡で、一心に拝めば、その七色の輝きの中に諸仏の来迎が拝めると云われている。北緯33度57分26.13秒 東経133度3分28.75秒
- 道安寺:臼井御来迎の本坊で高野山真言宗。647年(大化3年)孝徳天皇の勅願所として恵顕上人が開基し、聖徳太子作と云われる薬師如来が本尊[2]。空海が当寺に逗留中に臼井御来迎を掘られたと云われている。北緯33度57分30.24秒 東経133度3分26.29秒
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日切大師
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臼井御来迎
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道安寺
参考文献
- 四国八十八箇所霊場会 編 『先達教典』 2006年
- 宮崎建樹 著 『四国遍路ひとり歩き同行二人』地図編 へんろみち保存協力会 2007年(第8版)
- 国指定文化財等データベース
脚注
関連項目
外部リンク
- 第59番札所 金光山 最勝院 国分寺(四国八十八ヶ所霊場会公式)