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|選手名 = 岩下 光一
|選手名 = 岩下 光一

2021年8月3日 (火) 23:47時点における版

岩下 光一
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県
生年月日 (1940-03-04) 1940年3月4日(84歳)
身長
体重
170 cm
73 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手
プロ入り 1962年
初出場 1962年
最終出場 1971年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

岩下 光一(いわした こういち、1940年3月4日 - )は、宮崎県[1]出身の元プロ野球選手内野手)・コーチ監督解説者

経歴

大淀高校では、3年時の1957年夏の甲子園宮崎県予選を勝ち抜くが、東九州大会1回戦で鹿児島商に敗退。高校卒業後は1958年芝浦工業大学へ進学し、田部輝男監督の指導を受け[2]東都大学リーグでは主に3番・遊撃手として活躍。4年次の1961年には秋季リーグで芝工大の初優勝に貢献し、同年の最高殊勲選手に選出される。ベストナイン3回(二塁手1回、遊撃手2回)受賞のほか、石毛宏典と共に25試合連続安打の東都大学リーグ記録も保持。大学同期にはエースの石井栄三(リッカー)、4番打者の小川幸一(国鉄)がいる。

大学卒業後の1962年東映フライヤーズへ入団[1]。1年目の同年は、4月7日に行われた開幕戦の大毎戦(神宮)に安藤順三の代走で初出場を果たすと、翌8日には山本久夫に代わり遊撃手として起用されて初安打もマーク。開幕直後から同じ新人の青野修三と二遊間を組み、最終的には128試合出場で規定打席(25位、打率.257)にも到達し、球団史上初のリーグ優勝・日本一に貢献。4月24日阪急戦(西京極)で足立光宏から初のソロ本塁打を放つが、この時の試合は、1回に阪急が2点を取ると4回表には東映が3点を取り逆転、その裏には阪急が2点を取って再び逆転とシーソーゲームの様相となる[3]。東映は6回表無死に阪急先発の秋本祐作からスイッチした2番手の足立から岩下が左翼への本塁打で同点、西園寺昭夫の適時二塁打でまたまた逆転と慌ただしく、その裏から2番手の富永格郎へとスイッチし逃げ込みを図ったが、7回裏二死二塁から杉山光平の適時二塁打でまた追いつかれ、関口清治の適時二塁打で勝ち越された[3]。その後は阪急3番手の梶本隆夫に反撃を断たれ、5-6で惜しくも敗れシーズン3敗目を喫した[3]阪神との日本シリーズでは全7試合に先発され、10月18日の第5戦(後楽園)で延長11回に小山正明からサヨナラ2点本塁打を放つなど、28打数8安打6打点と活躍し優秀選手賞を受賞。この試合では1回表に藤本勝巳の2ラン本塁打で先制されるとその裏に吉田勝豊の3ラン本塁打で逆転、4回裏にも岩下の適時打でリードを広げたが、7回表二死満塁からの吉田義男の適時二塁打で同点[3]。阪神は7回途中から4番手の小山正明、東映は8回から3番手の土橋正幸の投げ合いで延長戦に突入。11回裏に青野が安打の後、岩下が左翼席へのサヨナラ2ラン本塁打を放ち、これで東映は2勝2敗1分と勝敗をタイへと戻した[3]。その後もレギュラーとして起用され、2年目の1963年には自己最多の147試合出場で5本塁打をマークし、5本中4本は南海・阪急から2本ずつ放ったものである。3年目の1964年には自己最高の打率.288でリーグ8位の好記録を残すが、本塁打は6月3日近鉄戦(日生)で板東里視から放った1本のみであった。1966年は故障もあって12試合の出場にとどまり、定位置を佐野嘉幸に譲る。1968年は二塁手として復帰し、4月14日の南海戦(大阪)で合田栄蔵から3年ぶりの本塁打をマーク。その後もユーティリティープレイヤーとして内野全般をこなすが、1970年には三塁手として72試合に先発出場し、5月27日のロッテ戦(東京)で村田兆治から2年ぶりの本塁打を放つ。8月9日の南海戦(大阪)では0-2で迎えた4回表無死から岩下が内野安打で出塁後、張本勲が右翼への2ラン本塁打で同点[4]。さらに6回表一死後に岩下が村上雅則から左翼へのソロ本塁打で勝ち越し、9回表にもさらに2点を追加し、投げては先発の桜井憲が2年ぶりとなる完投勝利で、5-2と逆転勝ちした[4]。コーチ補佐兼任となった1971年は初めて打率が2割を切り、5月5日の近鉄戦(日生)で鈴木啓示から放った2安打が最後の安打、同30日のロッテ戦(東京)に片岡建の代打で起用されたのが最終出場となった。同年引退[1]

引退後は東映→日拓→日本ハムで一軍内野守備コーチ(1972年 - 1973年)、二軍監督(1976年, 1979年 - 1983年)、二軍守備・走塁コーチ(1977年 - 1978年)、一軍守備・走塁コーチ(1984年)を務めた[1]。在任中は島田誠を育てたほか、二軍監督時代の1980年にはチームをイースタン・リーグ優勝に導く。退団後はテレビ埼玉ライオンズアワーヒットナイター」解説者(1985年)を経て、張本勲の要請で1986年ピングレ・イーグルスのコーチに就任[1]。帰国後はダイエーのスカウト[1] [2]を経て、クラブチーム「全府中野球倶楽部」技術顧問(2006年[5]国士舘大学コーチ(2007年 - 2013年)も務めた。岩崎優に「打者の目を見ていれば何を狙っているかわかるだろ」とアドバイスし、その言葉がきっかけで、岩崎は打者を観察するようになったほか、苦しいときの支えとなった[6]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1962 東映 128 472 432 46 111 18 2 4 145 37 13 4 10 3 25 0 2 41 8 .257 .301 .336 .636
1963 147 583 525 57 133 18 4 5 174 37 16 3 21 4 33 0 0 34 3 .253 .297 .331 .629
1964 127 492 455 39 131 23 3 1 163 39 14 6 10 6 20 2 1 37 13 .288 .319 .358 .678
1965 122 341 307 29 72 9 0 3 90 13 6 3 8 2 24 0 0 21 5 .235 .290 .293 .583
1966 12 22 20 0 4 0 0 0 4 0 0 0 1 0 1 0 0 2 0 .200 .238 .200 .438
1967 83 183 167 18 48 6 0 0 54 13 1 0 3 1 11 0 1 18 7 .287 .335 .323 .659
1968 114 380 334 28 80 10 0 4 102 23 2 9 15 0 29 3 2 24 5 .240 .304 .305 .609
1969 78 160 148 10 30 4 1 0 36 9 0 1 4 0 8 0 0 14 3 .203 .244 .243 .487
1970 90 279 252 28 64 8 1 3 83 14 0 3 4 1 22 0 0 26 3 .254 .314 .329 .643
1971 21 42 38 1 6 1 0 0 7 1 0 0 0 0 4 0 0 7 0 .158 .238 .184 .422
通算:10年 922 2954 2678 256 679 97 11 20 858 186 52 29 76 17 177 5 6 224 47 .254 .301 .320 .622

表彰

背番号

  • 2 (1962年 - 1971年)
  • 74 (1972年 - 1973年)
  • 70 (1976年 - 1983年)
  • 84 (1984年)

脚注

関連項目

外部リンク