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松坂大輔のエージェント業務を手がけるため、そして今後の日本からメジャーへ渡る選手からの依頼を請ける為に東京にも事務所を構えて活動している。
松坂大輔のエージェント業務を手がけるため、そして今後の日本からメジャーへ渡る選手からの依頼を請ける為に東京にも事務所を構えて活動している。


2009年4月9日に交通事故で亡くなった[[ロサンゼルス・エンゼルス (MLB)|ロサンゼルス・エンゼルス]]の[[ニック・エイデンハート]]の代理人でもあり、記者会見では大粒の涙を流した。
2009年4月9日に交通事故で亡くなった[[ロサンゼルス・エンゼルス]]の[[ニック・エイデンハート]]の代理人でもあり、記者会見では大粒の涙を流した。


== 契約における業績 ==
== 契約における業績 ==

2021年9月11日 (土) 23:30時点における版

スコット・ボラス
生誕 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州サクラメント
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 弁護士スポーツ・エージェント
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スコット・ボラス(Scott Boras、1952年11月2日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント出身のスポーツ・エージェント。主に、メジャーリーグを中心に手がけ、多くの高額契約を締結してきた事で知られる。

経歴

ボラスはシカゴ・カブス、およびセントルイス・カージナルス傘下のマイナーリーグチームで主に二塁手三塁手としてプレーしていた経験がある。1976年にはフロリダ・ステートリーグのオールスターにも選ばれたが、結局メジャーリーグには昇格できず(AA以下)、4年の現役生活の後、膝の悪化を理由に引退(3度に渡って手術を受けている)。マイナー通算成績は371試合出場、打率.288、5本塁打、79打点。パシフィック大学マックジョージ法科大学院にカブスの援助で進学し、医学訴訟を専攻。工業薬理学の博士号も取得。その後医療過誤に特化したシカゴ法律事務所に勤め、かつての同僚がメジャーリーグに昇格する際に代理人を依頼してきた事を契機にスポーツ・エージェントとしてのキャリアをスタートさせる。最初の巨額契約となったのは元同僚のビル・コーディルが1985年にトロント・ブルージェイズと結んだ750万ドルの5年契約だった[1](コーディルはその後3年で肩部関節炎のために31歳で引退)。

現在

ボラスはスコット・ボラス・コーポレーションを運営しており、元メジャーリーガーを雇い、アジアラテンアメリカへスカウトとして派遣している。彼のオフィスは3階建てで、10のサテライト・ラジオ受信機、32のテレビ受信機、43の机、50のコンピューターと70の薄型テレビが置かれており、キッチン、洗濯室、ジム、シャワー、5つのテレビラウンジと15フィートの人工の滝と火口が口を開け、バーベキューもできる。フロリダのネープルスにも別室を2つのスイートルームをレンタルしている。従業員数は大体45人で、職種は会計弁護士から選手のケアを行う個人トレーナー、スポーツ心理学者(この分野での権威、ハービー・ドーフマン)まで幅広い。ボラスはとにかく情報を重視しており、各選手毎にデータをまとめたファイルを作っている。中でもアレックス・ロドリゲスの移籍の話が出た際には80ページに渡る資料をまとめあげた(特にこの資料はMLB史上に残る巨額契約を支えた歴史的価値があるものとして野球殿堂に寄贈されている)。またシーズン中は30分に一度はクライアントの成績をオンタイムで受け取っており[2]、従業員の中には毎日スポーツの試合を全て観てその結果をボラスに伝えるだけの役割のものまでいる[3]

クライアントには多くの有名メジャーリーガーがおり、アレックス・ロドリゲスノマー・ガルシアパーラグレッグ・マダックスらが含まれる。契約代行に際してボラスは締結した年俸の5%の手数料を取っている[4]。高額な請求を出す事で既に有名となっているボラスは自身の名前が選手のマーケティングで表面上に出るのを避けるために別会社、インパクト・マーケティングを設立している。 松坂大輔のエージェント業務を手がけるため、そして今後の日本からメジャーへ渡る選手からの依頼を請ける為に東京にも事務所を構えて活動している。

2009年4月9日に交通事故で亡くなったロサンゼルス・エンゼルスニック・エイデンハートの代理人でもあり、記者会見では大粒の涙を流した。

契約における業績

最初に手がけた依頼人の内の一人、1983年MLBドラフト全体1位指名のティム・ベルチャーは、ボラスのアドバイスに従い、ミネソタ・ツインズが出した前年の全体1位指名のショーン・ダンストンと同額の10万ドルを1965年リック・マンデイからあまり額が上がっていないことを理由に拒否。15万ドルのボーナス契約を要求した。この事がきっかけとなり1990年代以降ドラフトで数百万ドルのボーナス契約を要求する事が慣例となった。

1991年のドラフトでニューヨーク・ヤンキース1巡目、全体1位で指名された高校生左腕のブリエン・テイラーはボラスのアドバイスに従い「契約しなければ進学する」と発言し、ボラスは120万ドルの契約金を要求した。これに対して当時職務停止処分を受けていたヤンキースのオーナージョージ・スタインブレナーがメディアを使って金額度外視で契約するように球団に圧力をかけたこともあり、進学予定の短大が始まる前日に当初の設定金額を上回る155万ドルのボーナス契約を結んだ。
この金額は前年の全米1位指名選手で高校生遊撃手であるチッパー・ジョーンズのボーナスの5倍を大きく上回り(ジョーンズの契約金は27.5万ドル)、テイラーは史上初の契約金が100万ドルを超えた新人選手となった。
テイラーは怪我もあってメジャーに一度も昇格することなく2000年に現役を引退したが、ボラスは「テイラーは今でも私が見た中で最高の高校生投手である」とテイラー引退後の2006年に語っている [5]

1996年6月のMLBドラフトではマット・ホワイトトラビス・リージョン・パターソンボビー・シーエイの1巡目指名4選手が実はフリーエージェントの権利を取れるという規則上の抜け穴を見つけ出し、ホワイトはタンパベイ・デビルレイズと新人選手としては史上最高額となる1020万ドル、シーエイは同じくデビルレイズと300万ドルの契約を結んだ[6]

1997年にはニューヨーク・メッツが1巡目(全体6位)指名予定だったリック・アンキールを代理人がボラスであった事から見送っている(アンキールはその後2巡目(全体72位)でセントルイス・カージナルスに指名された)。

もう一人のクライアント、J.D.ドリューは当初指名を予定していたチームと契約できず、ボラスは次の候補としてフィラデルフィア・フィリーズに目をつけた。ボラスはチームに対して1,100万ドルの要求をしたがこれは結局蹴られ(フィリーズの提案は300万ドル)、ドリューは独立リーグで1年間のプレーを余儀なくされた。次のシーズン、ボラスは独立リーグでの経験からドリューがフリーエージェントであると主張したが認められず、ドラフトにてセントルイス・カージナルスと800万ドルの契約を結んでいる。

2004年にはドリューの弟であるスティーブン・ドリュージェレッド・ウィーバーがクライアントとなったが、ドラフトでの契約でもめて2005年へ持ち越しになる寸前まで締結できなかったため、この年はプロとしてのキャリアをスタートできなかった。

ドラフトではないものの、2006年ポスティングシステムによる松坂大輔ボストン・レッドソックスへの入団交渉においても、同チームオーナーであるヘンリーの自家用機で交渉が行われていたが、交渉期限10分前になってもチーム側提示額とボラス側の要求額には開きがあり(6年5500万ドルを要求していた)交渉期限3分前で松坂自身から「金額よりも入団が先」とボラスにストップをかけギリギリで交渉成立となった。

2007年は松坂の契約を交渉の引き合いに出し、ワシントン・ナショナルズからドラフト指名されたスティーブン・ストラスバーグの入団交渉で総額5000万ドルという史上最高の金額を要求した[7]

周囲からの批判

ボラスはよくクライアントが望む以上の額の契約を結ぶという事でチームの出費高騰を懸念するファンの間で非難を呼んでいる。特にシアトルのファンの間では金でアレックス・ロドリゲスをテキサスへ持ち去った男として評判が悪い。また高額契約のみに執着しているため、勝てるチーム・家族のそばに住むといった金額に表れない要素はおろそかにされる事が多い。ニューヨーク・デイリーのコラムニスト、ビル・マッデンはボラス批判の急先鋒で、デビルレイズで2003年には145試合に出ていたトラビス・リーが2004年には高額提示をして移籍したヤンキースで試合にすら出られない状態になっていると指摘する[8]

また、依頼人であったマット・ハリントンのように、契約金120万ドルを拒否してより好条件での契約提示を待って独立リーグでプレーさせているうちに価値が暴落し、契約金ゼロでマイナー契約するに至った例も存在する。

巨額契約

主なクライアント

MLB現役選手

海外選手

引退選手

人物

2人の息子も野球選手であり、長男シェーンが2008年のMLBドラフトでカージナルスから35巡目で指名された(入団せず南カリフォルニア大学に進学)。また、次男トレントもMLBドラフトミルウォーキー・ブルワーズから30巡目で指名された。

脚注

外部リンク