「浪速 (防護巡洋艦)」の版間の差分
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2021年9月18日 (土) 07:18時点における版
浪速 | |
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基本情報 | |
建造所 | アームストロング社ロー・ウォーカー造船所(Low Walker yard)[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 二等巡洋艦[2](防護巡洋艦[3]) |
母港 | 横須賀[4] |
艦歴 | |
発注 | 1884年3月22日製造契約[5] |
起工 | 1884年3月22日[6]、または3月27日[3] |
進水 | 1885年3月10日[7]、または3月18日[8][6][3] |
竣工 |
1885年12月1日[3] または1886年2月15日[9] |
最期 | 1912年7月18日擱座沈没[6] |
除籍 | 1912年8月5日[10] |
その後 |
1912年8月22日売却訓令[11] 1913年6月5日船体引渡[12] |
要目 | |
排水量 |
3,650英トン[6] または3,700英トン[13] あるいは3,759英トン[14] 1894年6月時:3,709英トン[15] |
垂線間長 | 300 ft 0 in (91.44 m)[16] |
最大幅 |
46 ft 2 in (14.07 m)[16] または46 ft 0 in (14.02 m)[14] |
吃水 |
18 ft 7 in (5.66 m)[14] または平均:20 ft 3 in (6.17 m)[16] |
ボイラー | 低円缶 片面3基、両面3基[17][18] |
主機 | 横置2段2気筒レシプロ 2基[17][19] |
推進 | 2軸[14][19] |
出力 |
7,600馬力[14] または7,604ihp[19] 公試:4,496馬力[13] |
速力 |
18.5ノット[14]、または18ノット[6] 公試:17.1ノット[13] |
燃料 |
石炭:800トン[18] 1904年:石炭813トン[20][13] |
乗員 | 1886年1月定員:393名[21] |
兵装 |
克式 35口径26cm単装砲2基(後に安式40口径もしくは45口径15.2cm単装速射砲2基に換装) 克式35口径15cm単装砲6基(後に安式40口径15.2cm単装速射砲6基に換装) オチキス 43口径4.7cm単装機砲6基 25mm4連装ノルデンフェルト砲10基40門 11mm10連装ノルデンフェルト砲4基40門 35.6cm水上魚雷発射管単装4門 |
装甲 |
水平:平坦部51mm 傾斜部76mm[要出典] 甲板:3in(76.2mm) - 2in(50.8mm)[22] 砲盾:1.5in(38.1mm)[22] 司令塔:1.5in(38.1mm)[22] |
その他 | 船材:鋼[14] |
浪速(なにわ/なには)は[23][24]、日本海軍の防護巡洋艦(二等巡洋艦)[14][2]。 浪速型の1番艦。日本海軍にとって、最初の防護巡洋艦(鋼鉄製艦)である[25]。 艦名は大阪(摂津国)の古称「浪速」にちなんで名づけられた[14]。 日清戦争時、東郷平八郎艦長(当時、大佐)の指揮下で活躍した[14]。
艦歴
建造
1884年(明治17年)3月22日、イギリス、ニューカッスルのアームストロング社のロー・ウォーカー造船所で「浪速」は起工[14]。3月27日、日本海軍はイギリスで建造中の軍艦2隻を、「浪速」および「高千穂」と命名する[23]。 1885年(明治18年)3月10日[7]もしくは3月18日[14]、山階宮(のちの東伏見宮依仁親王)臨席のもとで本艦は進水[7]。5月26日、2隻(浪速、高千穂)は二等艦と定められる[26]。 1886年(明治19年)2月15日、竣工[9]。
1886年
「浪速」は回航委員長井上良馨大佐の指揮下で日本に回航[25]。 同年6月26日、品川に到着した[9]。 11月29日、明治天皇および皇后(昭憲皇太后)は横浜港で「浪速」に乗艦、横須賀港に行幸する[27][28]。 帰路の天皇・皇后は「高千穂」に乗艦し、横須賀から横浜に戻った[28]。
1887年
1887年(明治20年)1月25日[29]、 明治天皇および皇后一行は京都行幸のため横浜港より「浪速」(御召艦)に乗艦[30][31]。 1月27日正午過ぎ、天皇・皇后は神戸港で「浪速」を離れ、京都に向かった[32]。 2月23日、天皇・皇后は武豊港(愛知県)で乗艦、2月24日午前6時30分に横浜港に到着した[33]。 翌月には英照皇太后の御召艦としても使用された[34]。
1888年
1888年(明治21年)10月15日、横須賀造船所で国産巡洋艦「高雄」が進水するにあたり明治天皇・皇后が出席予定だったが、天皇は出席を断念[35][36]。 皇后は横浜港で御召艦「浪速」に乗艦、横須賀港(横須賀鎮守府)に移動して高雄命名式・進水式に参加する[37]。進水式終了後、再び「浪速」で横浜港に戻った[37]。
1890年
1890年(明治31年)8月23日、本艦は横須賀鎮守府所管の第一種と定められた[38]。
1893年 - 1894年
1893年から翌年にかけて、ハワイ革命勃発による邦人保護のため、二回にわたりホノルルに派遣された。
日清戦争
日清戦争では、豊島沖海戦、黄海海戦、大連・旅順・威海衛・澎湖島攻略作戦等に参加[14]。1894年(明治27年)7月25日の豊島沖海戦の際に、清国兵約1200名を輸送中のイギリス船籍汽船「高陞号」(英国商船旗を掲揚)と遭遇し、東郷平八郎大佐(浪速艦長)は国際法上の手続きを経た後に同船を撃沈した(高陞号事件)[14]。
1897年
1897年(明治30年)4月から9月にかけて、ハワイ移民上陸拒否事件への対処のためホノルルに派遣された。
1898年
1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[39]。 該当する9隻(浪速、高千穂、厳島、松島、橋立、吉野、高砂、笠置、千歳)が二等巡洋艦に類別された[40][2]。
マニラ派遣
同年5月から8月にかけて、米西戦争により邦人保護のためマニラに派遣。
北清事変
北清事変では1900年より翌年にかけて、北清沿岸警備に従事した。
日露戦争
日露戦争に際しては、第四戦隊(司令官瓜生外吉少将)の旗艦として仁川沖海戦・蔚山沖海戦、日本海海戦等に参加[14]。 日本海海戦では被弾し損傷を受けた。
1909年
1909年(明治42年)、浪速は推進軸の腐食が進み[41]、以降の全力運転が制限された[42]。
1910年 - 1911年
1910年(明治43年)10月21日に内報が発せられ、来年4月上旬から警備、測量のために千島列島、カムチャッカ半島、オホーツク海方面に派遣、という内容だった[43]。 浪速はその準備のために修理の他に測深儀、測程儀などを装備した[44]。 他に片岡湾に無線電信所を建設するために、適当な場所の選定することも任務に加えられた[45]。 1911年(明治44年)4月15日に横須賀軍港を出港[46]、 大湊[47]、 函館[48]、 室蘭[49]、 根室[50]、 色丹島[51]、 択捉島(紗那湾)[52]、 その他の千島列島の島を巡り[53] 占守島片岡湾に5月29日入港した[54]。
1912年
1912年(明治45年)横須賀鎮守府警備艦兼測量艦だった浪速は、北海道・樺太やカムチャッカ半島などでの警備、情報収集、漁業保護、オットセイの密漁取り締まりなどの任務が与えられ[4]、 横須賀を5月1日出港[55]、 横須賀帰港は9月10日の予定だった[56]。
最期
同年6月26日午前11時頃、北千島へ測量器材を輸送中に、得撫島沖で座礁して衝角部分が脱落する[57]。 乗組員は夜間になると陸上に避難した[57]。 工作艦「関東」、巡洋艦「厳島」、スループ「武蔵」、救難船「栗林丸」の応援により離礁に務めたが成功せず、悪天候により7月18日に沈没した[57]。 同年8月5日、除籍[10]、 艦艇類別等級表からも削除された[58][59]。 8月22日に残骸売却の訓令が出され[11]、 翌1913年(大正2年)6月25日買受人に引渡された[12]
後日、横須賀工廠長坂本一中将を判士長とする軍法会議が開かれ、本田(当時浪速艦長)は罰金700円、浪速航海長は罰金400円の判決を受ける[57]。 本田は少将進級後、予備役に編入された[57]。
艦長
※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。
- 回航委員長
- 伊東祐亨 大佐:1885年4月23日 - 11月20日
- 艦長
- 伊東祐亨 大佐:1885年11月20日 - 1886年6月17日
- 磯辺包義 大佐:1886年6月23日 - 1888年4月26日
- 松村正命 大佐:1888年4月26日 - 1889年5月15日
- 角田秀松 大佐:1889年5月15日 - 1891年6月17日
- 新井有貫 大佐:1891年6月17日 - 12月14日
- 東郷平八郎 大佐:1891年12月14日 - 1894年4月23日
- 東郷平八郎 大佐:1894年6月8日 - 1895年2月16日
- 片岡七郎 大佐:1895年2月16日 - 12月27日
- 黒岡帯刀 大佐:1895年12月27日 - 1897年12月27日
- 鹿野勇之進 大佐:1897年12月27日 - 1898年1月22日
- 遠藤喜太郎 大佐:1898年1月22日 - 3月1日
- 橋元正明 大佐:1898年3月1日 - 5月23日
- 三須宗太郎 大佐:1898年5月23日 - 12月3日
- 永峰光孚 大佐:1898年12月3日 -
- 斎藤孝至 大佐:1900年9月25日 - 12月6日
- 安原金次 大佐:1900年12月6日 - 1901年7月6日
- 吉松茂太郎 大佐:1901年7月6日 - 9月10日
- 野元綱明 大佐:1901年9月10日 - 1902年10月6日
- 伊地知季珍 大佐:1902年10月6日 - 1903年9月26日
- 和田賢助 大佐:1903年10月15日 - 1905年6月14日
- 広瀬勝比古 大佐:1905年6月14日 - 8月31日
- 仙頭武央 大佐:1905年8月31日 - 12月12日
- 牛田従三郎 大佐:1905年12月12日 - 12月29日
- 上泉徳弥 大佐:1905年12月29日 - 1906年12月24日
- 久保田彦七 大佐:1906年12月24日 - 1908年8月28日
- 上村翁輔 大佐:1908年8月28日 - 11月20日
- 西垣富太 大佐:1909年4月1日 - 1910年12月1日
- 原静吾 大佐:1910年12月1日 - 1911年12月1日
- 本田親民 大佐:1911年12月1日 - 1912年7月31日
脚注
出典
- ^ #日本の戦艦(上)2001p.19
- ^ a b c #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|巡洋艦|二等|浪速 高千穂 嚴島 松島 橋立 吉野 高砂 笠置 千歳』
- ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.26
- ^ a b #M45(T1)公文備考38/派遣命令及訓令事項画像19-34、明治45年4月29日官房機密第250号『軍艦浪速派遣ニ関スル件』
- ^ #公文備考別輯高千穂/艦体(1)画像5
- ^ a b c d e #艦船名考(1928)pp.52-53
- ^ a b c #元帥伊東祐亨コマ53(原本78頁)『是より先き英國アームストロング會社に於て製造せられつゝあつた浪速艦は、本年三月に至り艦體竣工したるを以て、同月十日午後進水式を擧行した。それに關する英國新聞紙の記事を左に抜萃する。』
- ^ #明治の海軍物語コマ171(原本325頁)『(艦名)浪速|(艦質)鋼|(噸數)三,七〇九|(速力)一八、〇|(乗員)三五二|(進水年月日)一八、三、一八|(製造所)英國』
- ^ a b c #元帥伊東祐亨コマ54-55(原本80-82頁)『斯くして皇國海軍の一大勢力たる浪速艦は、其の堂々たる雄姿を海上に浮かべたのであるが、同年十一月十九日伊東委員長は勲三等に叙せられ、翌二十日は改めて浪速艦長に補せられた。是に於て益々艤装等に力を盡し、翌明治十九年二月十八日に至り次の電報を海軍大臣に發した。「本月十五日浪速艦を受取り乗員を乗組ましめたり」而して同艦は三月二十四日、日本に向つてタイン河を抜錨した。然るに河口を出ると共に故障を生じたので、已むを得ず再び河内に引返して修理を加へ、更に同月二十八日を以てで出發し、次の如く行動した。|三月二十九日 ドースン假泊翌日出發/同三十日 スピツトヘツド假泊翌日出發/四月一日 プリマース外港に投錨十一日出發/同十九日 地中海マルタ島箸五月二日出發/五月六日 ポートサイド箸九日運河に入る/同十一日 運河を出でスエス箸十三日出發/同十九日 アデン箸二十二日出發/六月二日 コロンボ箸/同十一日 新嘉坡箸 斯くて六月二十六日を以て無事品海に箸し、伊東艦長は同艦囘航の任務を完了した。』
- ^ a b #達大正元年8月p.2『達第二號 横須賀鎮守府在籍 軍艦 浪速 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正元年八月五日 海軍大臣男爵 斎藤實』
- ^ a b #M45(T1)公文備考33/売却払下(3)画像23-24、官房第265号『大正元年八月二十二日 海軍大臣 横鎮司令長官アテ 旧軍艦浪速売却處分ノ件 旧軍艦浪速現状ノ儘売却處分方取計スヘシ 但艦内ニ残留スル兵器ヲ引揚タルトキハ買受人ヲシテ其府ニ納付セシムヘシ 右訓令ス(終)』
- ^ a b #T2公文備考22/亡失、売却及撤去、処分(3)画像23、横鎮第1327号『廃船舟売却處分ノ件 沈没廃舩(旧軍艦浪速)壱隻 前記売却大正二年六月二十五日買受人ニ引渡済 右報告ス(終)』
- ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)下巻p.279、戦役従軍艦艇及其の最近高力運転成績。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o #幕末以降帝国軍艦写真と史実第30コマ(原本33頁)『浪速(なには) 艦種巡洋艦 二檣(スクーナー) 艦名考浪華又は難波に同じ、浪速は摂津國大阪より尼ケ崎邊までの地方を總稱したる古名なり、神武天皇の御世、皇舟師此海を過ぎし折、奔潮に出會ひ其流るること太だ急なるを見て、浪速の國又浪華の國とも名け給ひたるに起因せるものなりと傳ふ、今ま難波と讀むは轉訛なりと云ふ。
艦歴明治19年2月英國に於て竣工、同年6月品川灣に來着す。此艦は此時代に於ける世界優秀艦の一と稱せらる、當時「ロンドン・タイムス」紙は之に關して長文の記事を掲げたり。其の要に曰く、浪速は目下海上に浮泛せる諸國軍艦中、速力最も速く、備砲最も強勢、且つ防護最も完全なる巡洋艦なり。其の大砲及び砲架、水壓器、電燈、水雷等亦た最も新しき發明の兵器を以て艤装せられたるものなり。今後日本海及び支那海に於いて戰爭ある時は、日本海軍は該艦を使用して偉勲を建つべきことは昔日の比にあらざるべし云々と、次に記する所の高千穂亦同時に建造せられたるものにして姉妹艦なり。明治27・8年戰役に從軍(艦長大佐東郷平八郎):同27年7月豊島沖海戰に参加、敵陸軍を搭載せる英國商船高陞號を撃沈す。同8月威海衛砲撃に、同9月黄海海戰に、同11月大連港及旅順港占領に参加、同28年2月威海衛總攻撃及同占領に從事、同3月澎湖島攻略に從事、同31年3月巡洋艦二等に列す、同37・8年戰役從軍(第四戰隊):同37年2月9日仁川沖海戰に参加(第二艦隊司令官少将瓜生外吉旗艦)、同8月蔚山沖海戰に参加(艦長大佐和田賢助)。同5月日本海々戰に参加(第四戰隊旗艦、中将瓜生外吉乗艦、艦長同前)、同45年7月18日北海道に於て警備兼測量任務中擱坐沈没す。
―要目― 長300呎/幅46呎/喫水18呎7吋/排水量3,759噸/機關 横置二聯成汽機2臺、雙螺旋、圓罐/馬力7,600/速力18.5/乗組人員385/船材 鋼(防禦甲板31粍)/兵装 26拇克砲2/15栂克砲6/6听ノルデン砲2/備砲14/發射管(水上)4/起工 明治17-3-22/進水 同18-3-18/竣工 同19-2/建造所 英國エルスウィック安社』 - ^ #海軍軍備沿革p.48
- ^ a b c #日本の戦艦(上)2001p.106
- ^ a b #帝国海軍機関史(1975)別冊表4、自明治元年至明治二十七年 主機械罐制式発達一覧表
- ^ a b #日本の戦艦(下)2001p.42
- ^ a b c #日本の戦艦(下)2001p.48
- ^ #帝国海軍機関史(1975)下巻p.263、戦役中艦艇石炭搭載成績表
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.171-172、明治19年1月21日(丙2)畝傍外七艦定員
- ^ a b c #日本の戦艦(上)2001p.216
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ197番『◎軍艦浪速及高千穂命名ノ件 明治十七年三月二十七日(丙五九)今般英國ヘ新造注文セル二隻ノ軍艦ヲ
浪 速 及ヒ高千穂 ト命名ス 此旨爲心得相達候事』 - ^ #軍艦帖コマ33『なには』
- ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実第237コマ(原本82頁)『一、最初の鋼鐡製艦「浪速」「高千穂」起工―明治十七年(一八八四)英國にて起工、「浪速」は明治十九年二月竣工、本邦人のみにて回航、同年6月品川に來着す、回航委員長井上馨大佐、高速巡洋艦の嚆矢なり』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49番『◎浪速艦及高千穂艦等級ノ件 明治十八年五月二十六日(丙二六)明治二十三年八月達三〇四號消滅浪速艦及高千穂艦々位二等ト相定ム此旨相達候事』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本86頁)『明治一九-一一-二六|浪速、高千穂兩艦及び長浦|浪速|横濱御乗艦』
- ^ a b 明治19年11月29日官報第1025号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ1-2『○長浦行幸行啓次第 去ル二十六日ハ曩ニ仰出タサレシ通 皇后宮御同列ニテ午前七時三十分御出門相州長浦ヘ行幸午後六時過還幸在ラセラレタリ(略)午前十時十分浪速艦ニ乗御直ニ御發艦(略)午後二時五十分高千穂艦御乗艦直ニ御發艦鎮守府司令長官以下奉送艦船長等海上供奉其他敬禮式等總ヘテ御上陸ノ時ノ如シ 航海中高千穂艦長以下下士官以上ニ拝謁被仰付艦内御巡覧 午後四時二十分横濱御箸艦直ニ御上陸船長等海上供奉各艦敬禮式等御乗艦ノ時ノ如シ/午後四時五十分横濱御用邸御出門 常備小艦隊司令官以下奉送臨幸ノ時ノ如シ 午後五時横濱御發車』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本86頁)『明治二〇-一-二五|京都行幸啓(兩陛下)|浪速』
- ^ #追加行幸行啓(3)pp.23-25『京都行幸御休泊割』
- ^ 明治20年1月26日官報第1069号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○宮廷録事』(浪速艦を速波艦と誤記)
- ^ 明治20年1月27日官報第1070号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○神戸港御箸 聖上皇后宮ハ御機嫌克昨二十六日午後十二時三十分神戸港ニ御安着同日午後二時ノ汽車ニテ京都ヘ成ラセラル』
- ^ 明治20年2月25日官報第1094号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○宮廷録事○還幸』
- ^ 明治20年3月14日官報第1108号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○皇太后宮還御』
- ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実第239コマ(原本86頁)『明治二一-一〇-一五|横須賀行幸啓(兩陛下)|浪速|{高雄進水式 横濱御乗艦』
- ^ 明治21年10月15日官報第1590号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○行啓仰出 今十五日横須賀ニ於テ高雄艦命名式ニ付キ行幸行啓ノ旨去ル九日仰出タサレシカ聖上ニハ御不例ニテ行幸アラセラレス 皇后宮ノミ行啓アラセラルヽ旨一昨十三日更ニ仰出タサレタリ』
- ^ a b 明治21年10月18日官報第1592号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○行啓御模様 皇后宮去ル十五日横須賀行啓ノ記事大要左ノ如シ 午前七時三十分御出門同八時十五分新橋ヨリ別仕立汽車乗御北白川二品宮御息所供奉同九時横濱御用邸箸御九時三十分御用邸波止場ヨリ端船ニ乗御海軍大臣並ニ供奉宮内高等官及女官等御陪乗富士山、淺間、比叡、清輝、摩耶ノ諸艦長小水雷艇ニ分乗シテ御召端船ヲ前後夾衛シ港内碇泊ノ内外外國軍艦ハ皆満艦飾ヲナシ皇禮砲ヲ施行ス九時三十分横濱御發艦金剛、大和ノ二艦及水雷艇ハ横須賀ニ向ヒ護衛航行ス而シテ御召艦通過ノ際内外外國軍艦ハ登桁式ヲ施行ス艦中ニ於テ浪速艦長ニ謁ヲ賜フ十一時頃横須賀御着此時軍港近岸ニ於テ烟火戯ヲ御覽ニ供ス海軍大臣、鎮守府司令長官御先遣造船所廰ニ御休憩鎮守府司令長官以下ヘ謁ヲ賜フ(英國東洋艦隊水師提督及艦長ヘ臨期賜謁)鎮守府司令長官高雄艦建造ノ明細表及寫眞圖ヲ上リ且ツ命名式準備ノ旨ヲ奏上シ尋テ式場ヘ臨御午後零時三十分命名進水式畢リテ横須賀鎮守府ヘ臨御御晝餐同二時三十分御發艦艦中ニ於テ乗組将校ニ謁ヲ賜ヒ同四時過横濱御着艦アラセラレル(以下略)』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ49番『◎軍艦種別ノ件 明治二十三年八月二十三日(達三〇四) 横須賀鎮守府所管軍艦浪速、扶桑、高雄、武藏、八重山、橋立、筑波、愛宕、天城ヲ第一種ト定メラレ水雷艇小高、第一水雷艇、第二水雷艇、第三水雷艇、第四水雷艇ヲ第二種ト定メラレ軍艦龍驤、迅鯨、淺間、干珠ヲ第三種ト定メラレ呉鎮守府所管軍艦金剛、比叡、大和、筑紫、摩耶、赤城、嚴島、千代田、天龍、鳳翔ヲ第一種ト定メラレ軍艦館山、石川ヲ第三種ト定メラレ佐世保鎮守府所管軍艦高千穂、葛城、磐城、松島、千鳥、大島、秋津洲、日進、海門、鳥海ヲ第一種ト定メラレ軍艦春日、満珠ヲ第三種ト定メラル』
- ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級 明治三十一年三月二十一日(達三五)軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム(別紙)』
- ^ #M42公文備考18/試験検査(1)画像39、明治42年6月23日横鎮機密第366号の2
- ^ #M42公文備考18/試験検査(1)画像34-35、明治42年7月9日官房第2460号
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(1)画像4
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(1)画像4-5
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(1)画像5
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(2)画像29
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(2)画像40
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(2)画像43
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海派遣2(2)画像57
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海警備巡航報告2(1)画像2
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海警備巡航報告2(1)画像12
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海警備巡航報告2(1)画像21
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海警備巡航報告2(1)画像22、床丹湾。同画像26、新知島新知湾。同画像30、捨子古丹島乙女湾。
- ^ #M44公文備考38/軍艦浪速北海警備巡航報告2(1)画像34-35
- ^ #M45(T1)公文備考38/巡航諸報告1(2)画像2、軍艦浪速北海警備巡航報告第1回
- ^ #M45(T1)公文備考38/巡航日割及航路予定画像11
- ^ a b c d e #小柳資料下384-385頁(浪速乗組)
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56番『大正元年八月五日(達三)艦艇類別等級別表中「浪速」ヲ削ル』
- ^ #達大正元年8月p.2『達第三號 艦艇類別等級別表中「浪速」ヲ削ル 大正元年八月五日 海軍大臣男爵 斎藤實』
参考文献
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- 財団法人水交会「元海軍中将 戸塚道太郎」『帝国海軍提督達の遺稿 下 小柳資料 敗戦後十余年海軍の中枢が語った大東亜戦争への想い』水交会、2010年4月。
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- 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
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