コンテンツにスキップ

「鵜来型海防艦」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Cewbot (会話 | 投稿記録)
m Bot作業依頼: 攻撃 (軍事)の改名にともなうリンク修正処理 - log
23行目: 23行目:
'''鵜来型海防艦'''(うくるがたかいぼうかん)は、[[大日本帝国海軍]]が[[太平洋戦争]]において運用した[[海防艦]]。主に[[護送船団|船団護衛]]に用いられた。海軍省が定めた艦艇類別等級では[[御蔵型海防艦|御蔵型]]に含まれるが、基本計画番号はE20bと異なる。計画時は乙型に区分されたが、[[丙型海防艦]]・[[丁型海防艦]]の建造決定後は区分が甲型に変更された。[[1944年]]([[昭和]]19年)から[[1945年]](昭和20年)にかけて同型艦20隻が就役している。<br >[[戦後]]、[[ネームシップ]]以下4隻が従来の艦名に丸を付けた定点観測船を経て、[[1954年]]から[[海上保安庁]]の[[おじか型巡視船 (初代)|おじか型巡視船]]として再就役した。
'''鵜来型海防艦'''(うくるがたかいぼうかん)は、[[大日本帝国海軍]]が[[太平洋戦争]]において運用した[[海防艦]]。主に[[護送船団|船団護衛]]に用いられた。海軍省が定めた艦艇類別等級では[[御蔵型海防艦|御蔵型]]に含まれるが、基本計画番号はE20bと異なる。計画時は乙型に区分されたが、[[丙型海防艦]]・[[丁型海防艦]]の建造決定後は区分が甲型に変更された。[[1944年]]([[昭和]]19年)から[[1945年]](昭和20年)にかけて同型艦20隻が就役している。<br >[[戦後]]、[[ネームシップ]]以下4隻が従来の艦名に丸を付けた定点観測船を経て、[[1954年]]から[[海上保安庁]]の[[おじか型巡視船 (初代)|おじか型巡視船]]として再就役した。
== 概要 ==
== 概要 ==
日本海軍は、[[択捉型海防艦]]以降、[[対潜戦|対潜]]・[[対空砲|対空]]性能および[[大量生産|量産]]性を重視した海防艦を建造しようとしていたが、[[御蔵型海防艦]]は、[[戦時設計|戦時急造]]を要する護衛艦としてはまだ[[工数]]が多く量産性に欠けるものであった。そのため、各所の構造を大幅に簡易化し、曲線部分を平面化した設計を行ったものが、本型である。大胆な簡略設計により、御蔵型と外形寸法や武装はほぼ同じであるものの、工数は約5万7千から約3万へと大幅に減少し、平均建造期間も9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。本型のうち、[[日立造船]]に割り当てられた艦に対しては[[日振型海防艦]]として建造することになったため、日振型とほぼ同型の艦となっている。日振型との差異は、単艦式大型掃海具を装備せず、三式[[爆雷]]投射機を片舷8基(計16基)搭載し、投下軌条2基と合わせて対潜[[攻撃 (戦術論)|攻撃]]能力が大幅に向上していることにある。総合的にみて、日本海軍が大戦中に建造した海防艦のうち、生産性、攻撃力など、もっともバランスのとれた艦であり、就役した海防艦中、喪失率の低かった艦級でもある。
日本海軍は、[[択捉型海防艦]]以降、[[対潜戦|対潜]]・[[対空砲|対空]]性能および[[大量生産|量産]]性を重視した海防艦を建造しようとしていたが、[[御蔵型海防艦]]は、[[戦時設計|戦時急造]]を要する護衛艦としてはまだ[[工数]]が多く量産性に欠けるものであった。そのため、各所の構造を大幅に簡易化し、曲線部分を平面化した設計を行ったものが、本型である。大胆な簡略設計により、御蔵型と外形寸法や武装はほぼ同じであるものの、工数は約5万7千から約3万へと大幅に減少し、平均建造期間も9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。本型のうち、[[日立造船]]に割り当てられた艦に対しては[[日振型海防艦]]として建造することになったため、日振型とほぼ同型の艦となっている。日振型との差異は、単艦式大型掃海具を装備せず、三式[[爆雷]]投射機を片舷8基(計16基)搭載し、投下軌条2基と合わせて対潜[[攻撃 (軍事)|攻撃]]能力が大幅に向上していることにある。総合的にみて、日本海軍が大戦中に建造した海防艦のうち、生産性、攻撃力など、もっともバランスのとれた艦であり、就役した海防艦中、喪失率の低かった艦級でもある。


[[艦政本部]]4部の[[遠山光一]][[海軍中佐|海軍技術中佐]](後の[[日本鋼管]]副社長)指揮の下、当初、[[日本鋼管]]、[[浦賀船渠]]が中心となって建造にあたった。のちに日本鋼管が[[丙型海防艦]]の増産対応に移ったため、残りの建造計画は、[[三井造船]]と[[佐世保海軍工廠]]が担当した。ネームシップの鵜来は、遠山中佐と[[魚住順治]][[海軍少佐]](艦政本部5部員、後に[[海上自衛隊]][[海将]]、日本鋼管顧問)、日本鋼管鶴見造船所技師の[[石井利雄]][[海軍中尉]]が、艦政本部の[[設計図]]をもとに量産化に向けて一層の工数削減を試みながら、艦の性能を低下させないよう苦心して建造された。日本初の[[ブロック工法]]により建造された艦艇であり、現代の[[造船]]手法の先駆的な功績を残した艦といえる。本艦級の[[プロトタイプ]]は、艦政本部と日本鋼管の[[技師]]たちがとくに力を入れて建造にあたり、日本鋼管で建造された鵜来以下4隻は、奇跡的に大戦を生き抜いている(うち二番艦沖縄1隻のみ大破[[着底]]ののち、[[終戦]]後[[解体]])。
[[艦政本部]]4部の[[遠山光一]][[海軍中佐|海軍技術中佐]](後の[[日本鋼管]]副社長)指揮の下、当初、[[日本鋼管]]、[[浦賀船渠]]が中心となって建造にあたった。のちに日本鋼管が[[丙型海防艦]]の増産対応に移ったため、残りの建造計画は、[[三井造船]]と[[佐世保海軍工廠]]が担当した。ネームシップの鵜来は、遠山中佐と[[魚住順治]][[海軍少佐]](艦政本部5部員、後に[[海上自衛隊]][[海将]]、日本鋼管顧問)、日本鋼管鶴見造船所技師の[[石井利雄]][[海軍中尉]]が、艦政本部の[[設計図]]をもとに量産化に向けて一層の工数削減を試みながら、艦の性能を低下させないよう苦心して建造された。日本初の[[ブロック工法]]により建造された艦艇であり、現代の[[造船]]手法の先駆的な功績を残した艦といえる。本艦級の[[プロトタイプ]]は、艦政本部と日本鋼管の[[技師]]たちがとくに力を入れて建造にあたり、日本鋼管で建造された鵜来以下4隻は、奇跡的に大戦を生き抜いている(うち二番艦沖縄1隻のみ大破[[着底]]ののち、[[終戦]]後[[解体]])。

2023年2月28日 (火) 20:22時点における版

鵜来型海防艦
宇久
基本情報
艦種 海防艦
命名基準 島名
同型艦 20隻
前級 日振型海防艦
次級 丙型海防艦
要目
排水量 基準:940t
全長 78.8m
最大幅 9.1m
吃水 3.06m
機関方式 22号10型ディーゼルエンジン2基2軸
4,200馬力
速力 最大 19.5ノット
航続距離 16ノットで5,000海里
燃料 重油
乗員 150名
兵装 45口径12センチ高角砲 連装1基・単装1基[1]
25mm連装機銃三連装5基・単装5~8基[1]
三式爆雷投射機16基[1]
爆雷投下軌条1式[1]
爆雷120個[1]
レーダー 一三号電波探信義1組[1]
二二号電波探信義1組[1]
電波探知機1組[1]
ソナー 九三式水中聴音機1組[1]
三式探信儀二型2組[1]
テンプレートを表示

鵜来型海防艦(うくるがたかいぼうかん)は、大日本帝国海軍太平洋戦争において運用した海防艦。主に船団護衛に用いられた。海軍省が定めた艦艇類別等級では御蔵型に含まれるが、基本計画番号はE20bと異なる。計画時は乙型に区分されたが、丙型海防艦丁型海防艦の建造決定後は区分が甲型に変更された。1944年昭和19年)から1945年(昭和20年)にかけて同型艦20隻が就役している。
戦後ネームシップ以下4隻が従来の艦名に丸を付けた定点観測船を経て、1954年から海上保安庁おじか型巡視船として再就役した。

概要

日本海軍は、択捉型海防艦以降、対潜対空性能および量産性を重視した海防艦を建造しようとしていたが、御蔵型海防艦は、戦時急造を要する護衛艦としてはまだ工数が多く量産性に欠けるものであった。そのため、各所の構造を大幅に簡易化し、曲線部分を平面化した設計を行ったものが、本型である。大胆な簡略設計により、御蔵型と外形寸法や武装はほぼ同じであるものの、工数は約5万7千から約3万へと大幅に減少し、平均建造期間も9ヶ月から4ヶ月へと短縮された。本型のうち、日立造船に割り当てられた艦に対しては日振型海防艦として建造することになったため、日振型とほぼ同型の艦となっている。日振型との差異は、単艦式大型掃海具を装備せず、三式爆雷投射機を片舷8基(計16基)搭載し、投下軌条2基と合わせて対潜攻撃能力が大幅に向上していることにある。総合的にみて、日本海軍が大戦中に建造した海防艦のうち、生産性、攻撃力など、もっともバランスのとれた艦であり、就役した海防艦中、喪失率の低かった艦級でもある。

艦政本部4部の遠山光一海軍技術中佐(後の日本鋼管副社長)指揮の下、当初、日本鋼管浦賀船渠が中心となって建造にあたった。のちに日本鋼管が丙型海防艦の増産対応に移ったため、残りの建造計画は、三井造船佐世保海軍工廠が担当した。ネームシップの鵜来は、遠山中佐と魚住順治海軍少佐(艦政本部5部員、後に海上自衛隊海将、日本鋼管顧問)、日本鋼管鶴見造船所技師の石井利雄海軍中尉が、艦政本部の設計図をもとに量産化に向けて一層の工数削減を試みながら、艦の性能を低下させないよう苦心して建造された。日本初のブロック工法により建造された艦艇であり、現代の造船手法の先駆的な功績を残した艦といえる。本艦級のプロトタイプは、艦政本部と日本鋼管の技師たちがとくに力を入れて建造にあたり、日本鋼管で建造された鵜来以下4隻は、奇跡的に大戦を生き抜いている(うち二番艦沖縄1隻のみ大破着底ののち、終戦解体)。

甲板12センチ高角砲の単装砲塔を備え、後部甲板に防盾なしの12センチ連装高角砲を備えている。

予算・建造

マル急計画で第310号艦型(択捉型)として建造予定だった艦のうち、1942年2月14日の海防艦乙型(基本計画番号E20)の設計完了により未起工艦16隻が海防艦乙型(仮称艦名第322号艦型)[2]として建造が決定されたが、1943年7月5日、未起工艦で設計変更が間に合った8隻は基本計画番号E20bに従って建造されることになった。このうち日立造船割り当て分3隻を除く5隻が本型として建造されることになった。

ミッドウェー海戦後の改⑤計画で34隻が計画され、うち日立造船割り当て分19隻を除く15隻が本型として建造されることになったが、うち7隻は戦局悪化のため全て建造取り止めとなった他、2隻は終戦に伴い建造中止となった。

1944年(昭和19年)のマル戦計画で21隻が計画されたが、うち12隻は戦局悪化のため全て建造取り止めとなった。

同型艦

  • 鵜来(うくる) - 「第332号艦」、1944年(昭和19年)6月5日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。ネームシップ。連合艦隊泊地演習に利用していた高知県宿毛湾鵜来島の名から命名された。日本海で行動中に終戦を迎える。掃海艦、1947年(昭和22年)11月1日より定点気象観測船任務の後、1954年(昭和29年)1月1日付で海上保安庁に所管替えとなり[3]巡視船さつまとなる。1965年(昭和40年)解役。
  • 沖縄(おきなわ) - 「第335号艦」、1944年(昭和19年)8月16日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。1945年(昭和20年)6月19日、富山湾沖にて僚艦4隻と共にアメリカ潜水艦「ボーンフィッシュ」を撃沈。7月30日、舞鶴にて空襲を受け大破着底。後に解体。
  • 奄美(あまみ) - 「第336号艦」、1945年(昭和20年)4月8日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。終戦時残存。復員輸送任務の後、イギリス賠償艦として引渡し。
  • 粟国(あぐに) - 「第337号艦」、1944年(昭和12年)12月2日竣工(日本鋼管鶴見造船所)。釜山にて終戦。
  • 新南(しんなん) - 「第338号艦」、1944年(昭和19年)10月21日竣工(浦賀船渠)。佐世保にて終戦を迎えた。掃海艦、磁気掃海隊の母艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船つがるとなる。1966年(昭和41年)8月3日解役。その後、深田サルベージに売却され、1967~1971年春までインドネシアの石油開発公団が被曳倉庫兼宿泊船として使用。要務終了帰国後、1971年(昭和46年)秋に江田島の深田サルベージ作業場において解体された[4]
  • 屋久(やく) - 「第5251号艦」、1944年(昭和19年)10月23日竣工(浦賀船渠)。1945年(昭和20年)2月23日、南号作戦でヒ88H船団護衛中、米潜水艦ハンマーヘッド雷撃により沈没した。
  • 竹生(ちくぶ) - 「第5253号艦」、1944年(昭和19年)12月31日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船あつみとなる。1962年(昭和37年)解役。
  • 神津(こうづ) - 「第5255号艦」、1945年(昭和20年)2月7日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。ソ連へ賠償艦として引渡し。1969年除籍解体。
  • 保高(ほたか) - 「第5256号艦」、1945年(昭和20年)3月30日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。アメリカへ賠償艦として引渡し。1948年(昭和23年)、日本にて解体。
  • 伊唐(いから) - 「第5258号艦」、1945年(昭和20年)3月24日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、解体。船体は秋田県秋田港防波堤となるが、1975年(昭和50年)、港の外港展開とともに取り除かれた。
  • 生野(いきの[5]) - 「第5260号艦」、1945年(昭和20年)7月17日竣工(浦賀船渠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、ソ連へ賠償艦として引渡し。
  • 稲木(いなぎ) - 「第4701号艦」、1944年(昭和19年)12月16日竣工(三井玉野造船所)。1945年(昭和20年)8月9日、八戸にて空襲を受けて沈没した。
  • 羽節(はぶし) - 「第4702号艦」、1945年(昭和20年)1月10日竣工(三井玉野造船所)。終戦時残存。復員輸送任務の後、アメリカへ賠償艦として引渡し。
  • 男鹿(をじか[6]) - 「第4703号艦」、1945年(昭和20年)2月21日竣工(三井玉野造船所)。1945年(昭和20年)5月2日、潜水艦の雷撃により沈没した。
  • 金輪(かなわ) - 「第4704号艦」、1945年(昭和20年)3月15日竣工(三井玉野造船所)。終戦時残存。復員輸送任務の後、イギリスへ賠償艦として引渡し、1947年(昭和22年)解体。
  • 宇久(うく) - 「第4705号艦」、1944年(昭和19年)12月30日竣工(佐世保海軍工廠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、アメリカへ賠償艦として引渡し、1947年(昭和22年)解体。
  • 高根(たかね) - 「第4707号艦」、1945年(昭和20年)4月26日竣工(三井玉野造船所)。終戦時残存。その後、1947年(昭和22年)解体。
  • 久賀(くが) - 「第4709号艦」、1945年(昭和20年)1月25日竣工(佐世保海軍工廠)。舞鶴にて終戦。その後、1948年(昭和23年)解体。
  • 志賀(しが) - 「第4711号艦」、1945年(昭和20年)3月20日竣工(佐世保海軍工廠)。終戦時残存。掃海艦、定点気象観測船任務の後、海上保安庁巡視船こじまとなる。海上保安大学校練習船として運用された後に、1965年(昭和40年)岸壁係留された状態で千葉市の海洋公民館となり、周囲が埋め立てられてからも公民館施設として利用されたが、1998年平成10年)解体。
  • 伊王(いおう) - 「第4712号艦」、1945年(昭和20年)3月24日竣工(佐世保海軍工廠)。終戦時残存。復員輸送任務の後、1948年(昭和23年)解体。
未成艦(建造中止)
  • 蔚美(うるみ) - 「第5261号艦」、1945年(昭和20年)5月26日進水(浦賀船渠)。同年8月17日工事中止、工程90 %。その後解体。
  • 室津(むろつ) - 「第5263号艦」、1945年(昭和20年)6月15日進水(浦賀船渠)。同年8月17日工事中止、工程92 %。1948年6月から10月に解体。
建造取りやめ
改⑤計画艦については七発、鹿久居等日振型11隻も併せて表示する[7]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 北の巡視船78頁。
  2. ^ のちに建造予定を繰り上げて第320号艦を第1艦とした。
  3. ^ 新南、竹生、志賀、生名も同日移管。
  4. ^ 写真集北の巡視船79頁。
  5. ^ 昭和20年1月8日付 達第5号。いくのではない。
  6. ^ 昭和19年10月5日付 達第341号。おしかではない。
  7. ^ 『日立造船百年史』、p. 215。

参考文献

関連項目