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「北斎漫画」の版間の差分

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{{otheruseslist|葛飾北斎の画集|[[矢代静一]]の戯曲|北齋漫畫 (戯曲)|[[新藤兼人]]監督による戯曲の映画化作品|北斎漫画 (映画)}}
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{{Infobox artwork
[[Image:Manga Hokusai.jpg|right|150px]]
| image_file = File:MET LC-JIB111 a k a 004.jpg
『'''北斎漫画'''』(ほくさいまんが)は、[[葛飾北斎]]による[[絵手本]]である。全十五編。半紙本{{Refnest|group=注釈|縦七寸五分、横五寸二分(約22.5×15.5センチメートル)。{{Cite web|和書|url=https://www.clasicoshoten.com/bin_shokei.html|title=古書クラシコ書店 和本の書型|accessdate=2020-03-20}}}}。第十二編のみ[[墨摺絵|墨摺]]だが、それ以外は墨と薄い朱が用いられる。英語圏では「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれる<ref>{{Cite web|title=Transmitting the Spirit, Revealing the Form of Things: Hokusai Sketchbooks, volume 3 (Denshin kaishu: Hokusai manga, sanpen)|url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/57681?searchField=All&amp;sortBy=Relevance&amp;showOnly=openAccess&amp;ft=hokusai%e3%80%80manga&amp;offset=0&amp;rpp=20&amp;pos=4 |accessdate=2020-02-29|ref=harv}}</ref>。
| painting_alignment = right
| image_size = 300px
| title = 北斎漫画
| artist = [[葛飾北斎]]
| year = {{Start date|1814}} - {{End date|1878}}
| type = [[刊本|版本]]<ref name="edotokyo_hokusaimanga">{{cite web|title=北斎漫画 初編|url=https://www.edohakuarchives.jp/detail-43.html|access-date=2023-12-27|website=江戸東京博物館デジタルアーカイブス|author=[[東京都江戸東京博物館|江戸東京博物館]]|publisher=[[東京都歴史文化財団]]}}</ref>、全十五編
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}}
『'''北斎漫画'''』(ほくさいまんが)は[[江戸時代]]後期の[[浮世絵師]]、[[葛飾北斎]]による[[画集]]である<ref name="kotobank_hokusaimanga">{{kotobank|北斎漫画}}</ref>。[[文化 (元号)|文化]]11年([[1814年]])から北斎没後の[[明治]]11年([[1878年]])まで、全十五編{{efn|日本人最初の北斎研究家と言える[[飯島虚心]]は、北斎没後に編集・版行された『漫画』十四・十五編は、正規なものと認めていない{{Sfn|飯島(鈴木校注版)|1999|pp=128-129、246-247}}}}が断続的に刊行された<ref name="kotobank_hokusaimanga"/>。人物、動植物、風俗、職業、市井の人々、建築物、生活用具、名所、名勝、天候、故事、説話、歴史上の人物、妖怪、幽霊など4,000点{{efn|絵図の数え方により揺らぎ有り。例えば[[尾崎周道]]は3,191点としている{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。}}を超える様々な主題の図版が[[絵手本]]の用途で収録され、総頁数は970を数える{{Sfn|北斎漫画1|2010|p=6}}。『[[富嶽三十六景|冨嶽三十六景]]』とともに北斎の代表作のひとつに挙げられ<ref name="kotobank_hokusai">{{kotobank|葛飾北斎}}</ref>、欧州を中心とした日本国外でも『ホクサイ・スケッチ』の名で親しまれており、多くの芸術家に影響を与えた{{Sfn|榎本|2005|pp=42-43}}。


== 概要 ==
== 構成 ==
『北斎漫画』は文化11年(1814年)に当初1冊完結の[[絵手本]]として刊行されたが、その後[[版元]]を変えて全十編の構想で追加刊行された{{Sfn|北斎漫画1|2010|p=5}}。その後も人気は衰えず断続的に追加され、北斎没後29年目の明治11年(1878年)の十五編を以て完結となった{{Sfn|北斎漫画1|2010|p=6}}。各編の最初には序文として[[石川雅望]]や[[大田南畝]]らが讃を寄せている。名古屋の版元では江戸のように厳密に奥付を付ける文化が根付いていなかったことなどもあって一部奥付が無く、刊行年が不明な編も存在している{{Sfn|永田|1976|p=15}}。なお、下表に示す丁数は序文も含んだものとなる。
初編の序文によると、1812年(文化9年)秋頃、[[名古屋]]在住の[[門人]]、[[牧墨僊]]宅に逗留し、300点余りの下絵を描いた{{Refnest|group=注釈|「今秋翁たまたま西遊して我府下に留り月光亭墨杣と一見相得て驩(かん:喜び)はなはたし頃亭中に於て品物三百餘図をうつす(略)文化壬申陽月(陰暦十月) 尾府下」{{Sfn|永田|2009|pp=7-8}}}}。1814年(文化11年)に、名古屋の[[版元]]、[[永楽屋東四郎]]から初編が刊行された{{Sfn|津田|2008|p=445}}{{Sfn|内藤|2017|p=20}}。各地の門人や私淑する者の指南書で絵手本、職人の発想源として企画し、版行されたと考えられている{{Sfn|津田|2008|p=445}}。だが、庶民から武士まで広い層に好評で、[[江戸時代]]のベストセラーとなった<ref>[https://archive.li/OhWdo 広島県立美術館「浦上コレクション、北斎漫画-驚異の眼・驚異の筆-」2020.12.10-2021.01.31]2020年12月10日閲覧</ref>。


値段については庶民的な[[蕎麦]]が1杯16文程度だった時代において、大判錦絵が約20文前後であり、『北斎漫画』のような半紙本はそれよりもやや高額であったとみられている{{Sfn|永田|2010|p=329}}。
当初、一巻完結の予定だったが、好評だったため、版元を変更しながら版行が続き、1878年(明治11年)、第十五編で完結した{{Refnest|group=注釈|日本人最初の北斎研究家と言える[[飯島虚心]]は、北斎没後に編集・版行された『漫画』十四・十五編は、正規なものと認めていない{{Sfn|鈴木|1999|pp=128-129、246-247}}}}。
[[File:Hokusai Manga 03.jpg|thumb|250px|踊りの描写。『北斎漫画』三編]]
{|class="wikitable" style="font-size:100%;"
|-
!編
!初摺り刊行年
!丁数{{efn|和装本の単位で、表裏の2ページで1丁とする<ref>{{kotobank|丁}}</ref>。}}
!序文
!奥付
!主となる版元
!出典
|-
|初編||文化11年(1814年)||27||[[半洲散人]]||有り||[[永楽屋東四郎|永楽屋]]||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=246}}
|-
|二編||文化12年(1815年)||30||[[石川雅望|六樹園主人]]||有り||[[角丸屋甚助|角丸屋]]||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=249}}
|-
|三編||文化12年(1815年)||29||[[大田南畝|蜀山人]]||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=255}}
|-
|四編||文化13年(1816年)||29||[[小枝繁|綘山漁翁]]||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=259}}
|-
|五編||文化13年(1816年)||30||[[石川雅望|六樹園]]||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=262}}
|-
|六編||文化14年(1817年)||30||[[文宝亭文宝|食山人]]||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=266}}
|-
|七編||文化14年(1817年)||33||[[式亭三馬]]||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=266}}
|-
|八編||文政元年(1818年)||33||[[小枝繁|綘山]]||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=274}}
|-
|九編||文政2年(1819年)||33||六樹園||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=278}}
|-
|十編||文政2年(1819年)||33||栟櫚台老人||有り||角丸屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=282}}
|-
|十一編||不明||30||[[柳亭種彦]]||無し||永楽屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=286}}
|-
|十二編||天保5年(1834年)||29||[[芍薬亭長根|芍薬亭]]||有り||永楽屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=291}}
|-
|十三編||嘉永2年(1849年){{efn|『北斎漫画3』{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=295}}では刊行年不明とされているため、永田の『『北斎漫画』の研究 』の記述に倣う{{Sfn|永田|1976|p=24}}。}}||29||山禽外史小笠||無し||永楽屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=295}}
|-
|十四編||不明||29||百信翁||無し||永楽屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=299}}
|-
|十五編||明治11年(1878年)||29||[[片野東四郎]]||有り||永楽屋||{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=303}}
|-
|}
[[File:HOKUSAI manga-IV.jpg|thumb|250px|浮腹巻図。『北斎漫画』四編]]
初編から三編までは北斎の手控帳や絵日記などからの抜粋と見られ、人物や山川草木魚虫などさまざまな形態描写が中心となっている{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。なお、二編から十編については、刊行に際して次のような広告が打ち出されていたことが明らかとなっており、四編以降はある程度のテーマをもたせた内容としてシリーズを構成していたことが分かっている{{Sfn|永田|2000|pp=77-78}}。
{|class="wikitable" style="font-size:90%;"
|-
!編
!広告文
|-
|二編・三編||興に乗じ心にまかせてさまざまの図を写す篇を続て全部に充こと速也
|-
|四編||草筆を加へ席上の臨本にしからしむることを要とす
|-
|五編||花表堂塔迦檻月卿雲客舘斉房舎を委くうつしてなをつきざるハ編々にもらすことなし
|-
|六編||剣法鎗法弓馬炮術等稽古のかたちをうつしてつまびらか也尤武徳の尊きを表せる一書と云べし
|-
|七編||国々名勝の地風雨霜雪のけいしよくをうつす
|-
|八編||前編に洩たるを補ひ且錦繍養蚕の業をゑがく
|-
|九編||和漢の武者および貞婦烈女のたぐひを戴す
|-
|十編||神仏並に貴僧高僧幻術外風流の人物等をしるす
|-
|}
四編は歴史上の人物や花鳥風景が中心となっているが、中でも潜水夫など水の中に入って活動する人々を模写した浮腹巻図は[[エドガー・ドガ]]が構図を参考としたと見られる作品が残されていることで知られている{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。五編は鳥居や鐘楼、屋根といった建造物を中心に仏具や人物などの絵図が収められている{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。六編は弓、馬、槍、砲などの武具や柔術、空手などの武術を中心として構成されている{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。七編では諸国の名所や風景などが一枚絵で描かれている{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。八編では人相や身体の諸態の絵図の他、養蚕機器や建築機器などの機材、奇岩風景画などが描かれている{{Sfn|尾崎|1968|p=102}}。九編は和漢の人物、情婦などの美人を中心に構成されている{{Sfn|尾崎|1968|p=102}}。十編は怪談、亡霊、仙人などの非実在物を中心として構成されている{{Sfn|尾崎|1968|p=103}}。十一編から十五編には自然の風景画や庶民の生活を切り取った風景画などを中心として様々な絵図が盛り込まれている{{Sfn|尾崎|1968|p=104}}。


== 成立史 ==
「漫画」とは、初編序にて「事物をとりとめもなく気の向くまま漫(そぞ)ろに描いた画」と北斎自身が述べている{{Sfn|津田|2008|p=445}}。
=== 背景 ===
[[File:MET 2013 720 a s a 01.jpg|thumb|250px|『伝神開手 北斎漫画 全』と記された『北斎漫画』初編の初版本。]]
それまで使用していた宗理の号を門人に譲り渡して葛飾北斎を名乗った北斎は、40代後半に入ってますます円熟味を増していき、江戸の流行に合わせて文化初年ごろより[[読本]]挿絵制作に傾注し、[[曲亭馬琴]]らとともに数多くの作品を刊行していた{{Sfn|永田|2017|pp=65-66}}。こうした仕事がひと段落した文化9年(1812年)ごろ、北斎は関西方面へと旅に出たとされている{{Sfn|永田|1976|p=3}}。旅行の帰路で名古屋の門人{{efn|牧墨僊は北斎の門人とされるが、その時期がいつだったかについては[[井上和雄 (浮世絵研究者)|井上和雄]]らによる文化9年の逗留によって初めて入門したとする説と、[[相見香雨]]らによる逗留前より門人であったとする説などで見解が分かれており、確定していない{{Sfn|永田|1976|p=5}}。}}[[牧墨僊]]宅{{efn|現代の[[名古屋市]][[中区 (名古屋市)|中区]][[栄 (名古屋市)|栄]]にあたる{{Sfn|永田|2000|p=73}}。}}に逗留し、その間に三百余図の版下絵を描き上げた{{Sfn|永田|1976|p=3}}。墨僊宅への立ち寄りは偶然ではなく、事前に請われてのものではないかと推察されている{{Sfn|磯崎|2021|p=90}}。こうした通説の根拠は『北斎漫画』初編、[[半洲散人]]{{efn|儒学者[[細井平洲]]に師事した尾張の藩士で、[[牧墨僊]]と深い親交があったとされる{{Sfn|永田|1976|p=7}}。}}の序文によるもので{{Sfn|永田|1976|p=3}}、そこには次のように書かれている。
{{Quotation|(前略)北斎翁の書におけるは、世の知る所也、今秋翁たまたま西遊して我府下に留り、月光亭墨仙と一見相得て驩はなはだし、頃、亭中に於て品物三百餘図をうつす。(後略)|『北斎漫画』初編序文より{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=246}}。}}
また、北斎が文化10年(1813年)に年頭の挨拶と滞在中の礼を綴った墨僊宛ての書簡が残されていることから、墨僊宅に滞在した期間は文化9年の秋から年内にかけてのおよそ半年間であったとされている{{Sfn|永田|1976|p=4}}。こうして残された版下絵が名古屋の[[版元]]、[[永楽屋東四郎]](東壁堂)の目に留まり、文化11年(1814年)の『北斎漫画』初編刊行へと繋がった{{Sfn|永田|2010|p=325}}。本書の企画は、北斎の師である[[勝川春章]]の友人であった[[北尾政美|鍬形蕙斎]]の『諸職画鑑』、『略画式』等から着想を得たと言われている{{Sfn|内藤|2017|p=25}}{{Sfn|練馬区立石神井公園ふるさと文化館|2020}}。また、林守篤『画筌』や、清朝の画譜『芥子園画伝』からの影響も指摘されている{{Sfn|内藤|2017|p=25}}。一方で北斎研究者の[[永田生慈]]は『北斎漫画』刊行に至った主たる動機として、「門人の増加に伴い、都度肉筆の絵手本を与える不便さの解消したかった」「全国に散在した多くの門人・私淑者に葛飾派の画様式を普及させようと企図した」「絵師に限らず各分野の職人が北斎の挿絵を下図として活用していたことから、その図案集として刊行した」という三点を挙げている{{Sfn|永田|2000|p=72}}。


[[File:Hokusaimanga vol1 okuzuke.jpg|thumb|200px|『北斎漫画』初編奥付。「北斎改葛飾戴斗」の名が確認できる。]]
本書の企画は、師である[[勝川春章]]の友人であった[[北尾政美|鍬形蕙斎]]の『諸職画鑑(しょしょくえかがみ)』(1794年・寛政6年)『略画式』(1795-99年・寛政7-11年)等から着想を得たと言われている{{Sfn|内藤|2017|p=25}}{{Sfn|練馬区立石神井公園ふるさと文化館|2020}}。『[[武江年表]]・寛政年間記事』には、「北斎はとかく人の真似をなす、何でも己が始めたることなしといへり、是れは略画式を蕙斎が著して後、北斎漫画をかき」{{Sfn|朝倉|1912|p=173}}と記されている。また、林守篤『画筌(がせん)』(1721年・享保6年)や、清朝の画譜『芥子園画伝(かいしえんがでん)』(17世紀)からの影響も指摘されている{{Sfn|内藤|2017|p=25}}。
=== 初編刊行 ===
文化11年(1814年)1月、序文を含めて全二十七丁、約252図を収めた『北斎漫画』初編が永楽屋より刊行された{{Sfn|永田|1976|p=7}}。北斎の描いた版下絵は門人の[[葛飾北雲|東南西北雲]]らによって出版用にサイズなどの手直しがなされた{{Sfn|磯崎|2021|p=88}}。本書は当初、一冊本として刊行されたと見られており、初版本とされる薄い紅色で書かれた表題には『伝神開手 北斎漫画 全』と記されていた{{Sfn|永田|1976|p=8}}。なお、この表題は二編以降が刊行されたタイミングで「初版」の文字が入った版へと摺り直しが行われている{{Sfn|永田|2000|p=74}}。


現代の[[漫画]]と異なり「筆のおもむくままに描く」という意味を指す「漫画」という成語は{{Sfn|永田|2010|p=321}}、半洲散人の序文「如夫題するに、漫画を以てせるは、翁のみづからいへるなり。」{{Sfn|北斎漫画3|2011|p=246}}より、北斎が命名した成語であるとされる向きもあるが、江戸風俗の研究を行っていた漫画家[[宮尾しげを]]は、[[山東京伝]]が「家の前を往来する人々の姿を漫画する」と表現しているとしてこの説を否定している{{Sfn|永田|1976|p=8}}。美術史家の[[磯崎康彦]]は、[[鳥羽絵]]や墨僊の『墨僊叢画』などを意識して「漫画」という表題を付けたのではないかと推察している{{Sfn|磯崎|2021|p=88}}。永田は宮尾を支持しつつも、「漫画」という言葉を一般に浸透させ、ポピュラーなものにしたのは間違いなく北斎の功績であると指摘している{{Sfn|永田|1976|p=8}}。
一枚摺の浮世絵は安いものと巷間言われるが、半紙本は決して安いものではなかった。北斎研究家の[[永田生慈]]が、版元であった名古屋の永楽屋東四郎に値段を尋ねたところ、「当時(幕末から明治初期)の出版物は猛烈に高くて、普通の人が簡単に本を買いましょうという値段ではなかった。」と証言している{{Sfn|永田|1990|p=146}}。


[[File:Hokusaimanga vol3 title.jpg|thumb|200px|「漫画三編」と表題をあしらった絵。『北斎漫画』三編]]
[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]が1832年に[[オランダ]]で発刊した『Japonica』に『漫画』が紹介されており、それ以前からオランダには、北斎による、日本人男女の一生を描いた巻子が伝わっている{{Sfn|永田|1990|p=150}}。
=== 続編刊行 ===
初編の『北斎漫画』を見た江戸の版元[[角丸屋甚助]](衆星閣)は、「北斎の絵手本が1冊だけとは勿体ない」としてシリーズ化を提案し、二編から十編までは相合版{{efn|複数の版元が共同で出版するシステムで、主体となる版元が資本を出し、版権を持つ{{Sfn|永田|2010|p=326}}。二編以降は角丸屋と永楽屋で共同出版した{{Sfn|磯崎|2021|p=88}}。}}として角丸屋が主体となり刊行する運びとなった{{Sfn|永田|2010|p=325}}。ただし、角丸屋が主体へと切り替わったタイミングで十編までの構想が完了していたかどうかは疑問が残る資料も遺存しており、明らかとなっていない{{Sfn|永田|2000|p=77}}。続編の話を貰い受けた北斎は全十編としてその構成を考えてこの仕事に取組み、年に2冊ほどのペースで文化12年(1814年)から文政2年(1819年)までの期間で十編までの『北斎漫画』刊行を行った{{Sfn|永田|2010|pp=326-327}}。全十編刊行後も『北斎漫画』の人気は衰えることがなく、十一編の序文で[[柳亭種彦]]が「再び筆を下して漏れたるを拾ひて」と記した通り二十編までの続編刊行が計画されていた{{Sfn|尾崎|1968|p=101}}。しかしこの構想は版元角丸屋の経営状況悪化に伴い実現することはなく、『北斎漫画』の[[木版|版木]]は永楽屋へと売却された{{Sfn|永田|2010|p=327}}。


その後の経緯は明らかとなっていないが、天保5年(1834年)までに十一編と十二編が、北斎没年の嘉永2年(1849年)に十三編が、没後の明治11年(1878年)までに十四編、十五編が刊行された{{Sfn|永田|1976|p=24}}{{efn|十一編と十四編の刊行年は不明{{Sfn|永田|1976|p=24}}。}}。十一編は版元などの記載が無いが二十八丁表に東の字、裏に楽の字が見えることなどから永楽屋によるものと見られている{{Sfn|永田|1976|p=24}}。刊行年は諸説あるが永田や美術史家の[[楢崎宗重]]は、遺存している北斎書簡の記述などから文政6年(1823年)以降に刊行されたのではないかと推察している{{Sfn|永田|1976|p=25}}。十二編は序文の記載などから天保5年刊行とされており、版元は永楽屋と角丸屋の両方の版が遺存しているため、不明確である{{Sfn|永田|1976|p=26}}。永田は永楽屋が版木を有し、送られてきた本に角丸屋が奥付を付けて販売したのではないかと推論しており、同様の関係が十一編にもあったのではないかと指摘している{{Sfn|永田|1976|p=26}}。また、十三編も序文から北斎没年の嘉永2年に永楽屋から刊行されたと見られている{{Sfn|永田|1976|p=27}}。十二編から15年の歳月がかかった理由については判っていないが、嘉永元年から2年にかけて永楽屋から北斎の刊行物が集中的に発売されており、十三編もその一連の刊行物の中のひとつであったとされている{{Sfn|永田|1976|p=29}}。残りの十四編、十五編は一般的に明治期に入ってからの刊行と見られ{{efn|永田は十四編の明治刊行説は否定的な立場を取っており、紙質が幕末期のものであるなどのいくつかの根拠より明治以前ではないかと指摘している{{Sfn|永田|1976|p=30}}。}}、北斎の作品だけでなく[[沼田月斎]]や[[織田杏斎]]らの図案が含まれている{{Sfn|永田|1976|p=29}}。また、『北斎画譜』や『伝心画鏡』などからの転載も見られる{{Sfn|永田|1976|p=29}}。ただしこれは『葛飾北斎伝』にて[[飯島虚心]]が織田杏斎から聞き取った話として掲載したものが典拠とされており、事実かどうかの確定はしていない{{Sfn|永田|1976|p=30}}。
1856年に[[フェリックス・ブラックモン|ブラックモン]]が、日本からの輸入陶磁器の緩衝材に『漫画』を発見したという「逸話」は、現在では疑問視されている{{Sfn|永田|1990|p=152}}{{Sfn|津田|2008|p=445}}。


==脚注==
== 影響 ==
『北斎漫画』の刊行部数の記録は無いため、どの程度売れたのかは分かっていないが、絵手本として職工が買い求めただけでなく、観賞用として広く庶民に支持されたと見られる{{Sfn|永田|2010|p=328}}。二編以降がすぐさま制作されたことからも、その人気の程が窺える{{Sfn|永田|1976|p=11}}。角丸屋から永楽屋に版木が売却された際には使い物にならないほど摩耗していたようで、版木の彫り直しも行われている{{Sfn|永田|2010|p=327}}。また、これにあやかって『北斎漫画』の内容等を剽窃した『北斎画譜』という刊行年不明、作者不明の偽本が[[河内屋太助]](文金堂)から刊行されている{{Sfn|永田|1976|p=11}}。
{{脚注ヘルプ}}


またオランダ商館医のドイツ人[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト]]によって西欧に持ち込まれ、日本国外にも広く影響を与えた{{Sfn|永田|2010|p=330}}。なかでも[[ジャポニスム]]として広く受容されたフランスの[[印象派]]芸術家たちには多大なる影響を及ぼし、[[エドガー・ドガ]]や[[メアリー・カサット]]ら、多くの芸術家が『北斎漫画』から着想を得た作品を残している<ref name="nikkeibp_2017">{{cite web|title=世界の画家の手本になった『北斎漫画』|url=https://business.nikkei.com/atcl/report/15/061000001/110100052/|date=2017-11-04|access-date=2024-01-03|website=日経ビジネス|author=小川敦生|publisher=Nikkei Business Publications|url-status=live|archive-date=2023-03-21|archive-url=https://web.archive.org/web/20230321181650/https://business.nikkei.com/atcl/report/15/061000001/110100052/}}</ref>。
===注釈===
{|
{{Reflist|group=注釈}}
|[[File:Hokusaimanga vol1 nesoberuotoko.jpg|thumb|200px|{{center|『北斎漫画』初編<br/>寝そべる男}}]]
|[[File:Cassat - Blue Armchair NGA.jpg|thumb|200px|{{center|[[メアリー・カサット|カサット]]の『青い肘掛け椅子に座る少女』(1878年)}}]]
|}
こうした欧州の作品との対比は国内外で話題を呼び、例えば日本において[[国立西洋美術館]]で2017年に開催された「北斎とジャポニスム」展では、各国の芸術家の作品と北斎の作品が並べて展示され、世界における『北斎漫画』の影響と受容が再確認された<ref name="nikkeibp_2017"/>。なお、{{仮リンク|レオンス・ベネディット|en|Léonce Bénédite}}の論文『動物画家 フェリックス・ブラックモン』に掲載された{{Sfn|鈴木|2020|p=242}}「1856年に[[フェリックス・ブラックモン|ブラックモン]]が、日本からの輸入陶磁器の緩衝材に『北斎漫画』を発見した」という逸話は広く認知されているが、複数の研究者からその正確性について疑問視されている{{Sfn|永田|1990|p=152}}{{Sfn|津田|2008|p=445}}。


===出典===
== 評価 ==
{{Double image stack|right|Album di schizzi di Hokusai, 1814-78, 01.jpg|Hokusai, Tiger in the Snow.jpg|200|{{center|上『北斎漫画』十三編の虎図<br/>下1849年の肉筆画『雪中虎図』}}}}
{{Reflist}}
広く庶民に支持され、『北斎漫画』は大きな人気を博したが、活動当時から近代に至るまでの日本国内における北斎自身の評価は高くなく、あくまで「[[浮世絵師]]」としての認知であった{{Sfn|永田|2011b|p=316}}。当時の日本において「[[画家|絵師]]」とは[[狩野派]]や[[長谷川等伯|長谷川派]]といった[[御用絵師]]を指し、版元の依頼を受けて作画する浮世絵師は「卑しい絵描き」と言われ、数段格下の評価がなされていた{{Sfn|永田|2011b|p=316}}。また、浮世絵師としても抜きんでた評価はされておらず、[[鈴木春信]]、[[鳥居清長]]、[[喜多川歌麿]]、[[東洲斎写楽]]、[[歌川広重]]らと肩を並べる「代表的な浮世絵師のひとり」といった位置付けであった{{Sfn|永田|2011b|p=317}}。しかしながら、こうした国内評価は海外での北斎評の高さが認知されるに従って徐々に覆りつつある{{Sfn|永田|2017|pp=9-11}}。


『北斎漫画』自体の評価として永田は、画集や画譜と違って様々なものが混在しているという点にこそ本作品の重要性があるとしており、葛飾北斎という画業人生半ばの総決算であると同時に晩年に向けて飛躍するための助走だったと総括している{{Sfn|永田|2011b|pp=317-318}}。美術家の[[横尾忠則]]は、北斎は人が描いた絵や自分が過去に描いた絵を真似るということに重きを置いた創作活動を行っているとし、模倣の天才だったと評している{{Sfn|横尾|2011|p=322}}。『北斎漫画』の中には過去の作品や以降に発表される作品のモチーフが何度も出てきており、過去と未来を反復させながら自身の画業の発展を続けたとしている{{Sfn|横尾|2011|p=325}}。漫画家の[[しりあがり寿]]は『北斎漫画』の「漫画」が現代の[[漫画]]と異なる意味であることを認識しつつも、『北斎漫画』に登場するキャラクターは、デフォルメや省略するところはしているなど漫画的な記号化も働かせており、北斎のテクニックがふんだんに発揮された作品であると評している{{Sfn|しりあがり|2011|p=342}}。『北斎漫画』を42年間に渡って1400冊以上蒐集した[[浦上満]]は、『北斎漫画』がどのように広まり、受け継がれてきたかといった出版文化史そのものを伝える比類なき作品であるとしている{{Sfn|浦上|2011|p=333}}。
==参考文献==
===一次史料===
* {{Cite book|和書|last=斎藤|first=月岑|authorlink=斎藤|title=武江年表正編|publisher=青藜閣・河内屋喜兵衛ほか書林|date=1849年 - 1850年|id=全8冊|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|last=朝倉|first=無聲補|title=増訂武江年表|publisher=[[国書刊行会|國書刊行會]]|year=1912|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|date=1893-09|last=飯島|first=虚心|authorlink=飯島虚心|title=葛飾北齏傳|publisher=蓬樞閣||id=上下巻}}
**{{Cite book|和書|date=1999-08|last=鈴木||first=重三校注|authorlink=鈴木重三|title=葛飾北斎伝|publisher=岩波書店|series=[[岩波文庫]]}}


[[File:Hokusaimanga vol8 kyouga katsushika huri.jpg|thumb|200px|『北斎漫画』八編。肥満の男女を描く。]]
===二次資料===
日本国外においては日本よりも早い段階から高く評価されており、フランスの美術評論家[[フィリップ・ビュルティ]]は、1866年の『工業美術の傑作』において『北斎漫画』に言及し「優雅さにおいては[[アントワーヌ・ヴァトー|ヴァトー]]に、エネルギーにおいては[[オノレ・ドーミエ|ドーミエ]]に、奇想においては[[フランシスコ・デ・ゴヤ|ゴヤ]]に、動態においては[[ウジェーヌ・ドラクロワ|ドラクロワ]]に比肩し、テーマの豊かさと鮮やかな筆さばきで北斎に匹敵する画家は[[ピーテル・パウル・ルーベンス|ルーベンス]]だけだ」と絶賛した{{Sfn|稲賀|2000|p=122}}。また、北斎の独創的な表現力と多様性を高く評価したフランスの美術史家の{{仮リンク|ルイ・ゴンス|en|Louis Gonse}}は、1883年『日本美術(''L’art Japonais'')』の中で肥満の男女を描いた『北斎漫画』八編について言及し、ドーミエの描いた『水泳学校の喜劇(''comique de ecole natation'')』との写実的な滑稽さの描写について対比させている{{Sfn|鈴木|2020|p=250}}。その他[[ジャポニスム]]の先駆者となった[[エドモン・ド・ゴンクール]]は1896年に『北斎』という浮世絵研究書を上梓し『北斎漫画』についても多くのページを割いて言及しているが、国文学者の[[鈴木淳 (国文学者)|鈴木淳]]は、ゴンクールの著作自体が、『北斎漫画』から受けた衝撃をそのまま執筆の原動力に変えたのではないかと指摘している{{Sfn|鈴木|2020|p=273}}。
* {{Cite book|和書|last=永田|first=生慈監修|title=北斎美術館4 名所絵|publisher=[[集英社]] |year=1990|ref=harv}}
** {{Cite book|和書l|author1=根本進|authorlink1=根本進|author2=永田生慈対談|title=近代漫画のルーツは北斎|year=1990|pages=141-148|ref=harv}}
** {{Cite book|和書|last=永田|first=生慈|title=西欧に影響を与えた北斎作品|year=1990|pages=149-154|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=津田|first=卓子|title=浮世絵大辞典|page=445|chapter=北斎漫画|publisher=[[東京堂出版]] |year=2008|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=永田|first=生慈|title=北斎旅行考|pages=4-14|year=2009|publisher=財団法人[[北斎館]] 北斎研究所|journal=研究紀要|issue=2|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=高杉|first=志緒|year=2010|editor=浅野秀剛監修|editor-link=浅野秀剛|title=北斎決定版|series=[[太陽 (平凡社)|別冊太陽174]]|chapter=北斎の浮世絵指南・絵手本|publisher=[[平凡社]]|pages=164-176|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=浦上|first=満|date=2017-10|title=北斎漫画入門||publisher=[[文藝春秋]]|series=[[文春文庫]]1145|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|last=内藤|first=正人|title=北斎漫画AtoZ|pages=16-47|year=2017|publisher=[[新潮社]]|journal=[[芸術新潮]]-特集:画狂モンスター北斎 漫画と肉筆画|issue=68(11)|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=馬渕|first=明子監修|authorlink=馬渕明子|coauthors=[[国立西洋美術館]]ほか編|title=北斎とジャポニスム: Hokusaiが西洋に与えた衝撃|publisher=[[読売新聞東京本社]]|year=2017|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|last=練馬区立石神井公園ふるさと文化館|first=編|authorlink=練馬区立石神井公園ふるさと文化館|title=あれもこれも大江戸漫画づくし|year=2020|ref=harv}}


== 外部ンク ==
== ギャラ ==
<gallery mode="nolines" widths="250" heights="250">
{{Commons&cat|Hokusai manga}}
File:MET LC-JIB111 a k a 004 crd.jpg|初編、[[武内宿禰]]や[[郭子儀]]、[[浦島太郎]]など、物語、歴史上の人物
* [https://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=40070806 北斎漫画] - [[近代デジタルライブラリー]]
File:MET LC-JIB111 a k a 006.jpg|初編、[[住職]]の様子を捉えた絵図
* [http://www.uragami.co.jp/index.html 株式会社浦上蒼穹堂。-代表の浦上満は『北斎漫画』約1500冊を収集。]
File:MET LC-JIB111 a k a 005.jpg|初編、遊ぶ児童や[[関羽]]や[[諸葛亮]]などが見える
</gallery>
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File:Lutteurs de sûmo Hokusai Manga.jpg|三編、[[相撲]]の様子を捉えた絵図
File:AN00980478 001 l.jpg|三編、[[風神]]と[[雷神]]
File:Hokusai Manga 05.jpg|八編、ひとびとの表情
</gallery>
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File:Hokusai Magic.jpg|十編、故事成語などを視覚化した絵図
File:Hokusai Kakurezato.jpg|十編、ねずみの[[隠れ里]]
File:Mihashiratorii.jpg|十一編、[[三柱鳥居]]
</gallery>
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File:A strange Japanese scene of people with odd features Wellcome V0046622.jpg|十二編、幽霊や怪物絵図
File:Cascades Hokusai.jpg|十三編、滝図
File:MET JIB83 004 crd.jpg|十五編、風景画
</gallery>


== 北斎漫画をモチーフとした作品 ==
* 『[[北齋漫畫 (戯曲)|北齋漫畫]]』 - 1973年に発表された[[劇作家]]・[[矢代静一]]の作品<ref>“[https://natalie.mu/stage/news/323316 横山裕が葛飾北斎役に挑む主演舞台「北齋漫畫」上演決定、演出は宮田慶子]”. ''[[ナタリー (ニュースサイト)|ステージナタリー]]''. ナターシャ. (2019年3月11日) 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>。
* 『[[北斎漫画 (映画)|北斎漫画]]』 - 戯曲『北齋漫畫』を原作とする1981年に公開された日本映画<ref>“[https://hominis.media/category/actor/post11210/ 緒形拳、田中裕子、西田敏行がユーモラスな演技を見せる映画「北斎漫画」]”. ''ホミニス''. [[スカパーJSAT]]. (2023年9月22日) 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref><ref>“[https://www.allcinema.net/cinema/87399 映画 北斎漫画 (1981)について]”. ''[[allcinema]]''. スティングレイ. 2023年9月30日(UTC)閲覧。</ref>。

== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注釈}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
=== 書籍 ===
* {{Citation|和書|last=尾崎|first=周道|authorlink=尾崎周道|year=1968 |title=北斎 ある画狂人の生涯 |publisher=日本経済新聞社 |asin=B000JA4YTO|url=https://dl.ndl.go.jp/pid/2517559|ref={{SfnRef|尾崎|1968}}}}
* {{Citation|和書|last=永田|first=生慈|authorlink=永田生慈|title=北斎美術館4 名所絵|publisher=[[集英社]] |year=1990|ref=harv}}
* {{Citation|和書|last=飯島|first=虚心|editor-last=鈴木|editor-first=重三|year=1999 |title=葛飾北斎伝 |publisher=岩波文庫 |isbn=4-00-335621-7|ref={{SfnRef|飯島(鈴木校注版)|1999}}}}
* {{Citation|和書|last=榎本|first=早苗 |authorlink=榎本早苗 |year=2005 |others=永田生慈監修 |title=アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたい葛飾北斎 生涯と作品 |publisher=東京美術 |isbn=4-8087-0785-3 |ref={{SfnRef|榎本|2005}}}}
* {{Citation|和書|last=津田|first=卓子|authorlink=津田卓子|title=浮世絵大辞典|page=445|chapter=北斎漫画|publisher=[[東京堂出版]] |year=2008|ref={{SfnRef|津田|2008}}}}
* {{Citation|和書|editor-last=和田|editor-first=京子 |editor-link=和田京子 (編集者) |year=2010 |title=北斎漫画 |volume=1 |publisher=青幻舎 |isbn=978-4-86152-280-2 |ref={{SfnRef|北斎漫画1|2010}}}}
** {{Citation|和書|last=永田|first=生慈 |year=2010 |chapter=『北斎漫画』誕生の巻 |title=北斎漫画 |volume=1 |publisher=青幻舎 |pages=321-334 |ref={{SfnRef|永田|2010}}}}
** {{Citation|和書|last=会田|first=誠 |authorlink=会田誠 |year=2010 |chapter=超越する自我 |title=北斎漫画 |volume=1 |publisher=青幻舎 |pages=341-348 |ref={{SfnRef|会田|2010}}}}
* {{Citation|和書|editor-last=和田|editor-first=京子 |year=2011 |title=北斎漫画 |volume=2 |publisher=青幻舎 |isbn=978-4-86152-287-1 |ref={{SfnRef|北斎漫画2|2011}}}}
** {{Citation|和書|last=永田|first=生慈 |year=2011 |chapter=『北斎漫画』博物学の巻 |title=北斎漫画 |volume=2 |publisher=青幻舎 |pages=329-337 |ref={{SfnRef|永田|2011a}}}}
** {{Citation|和書|last=しりあがり|first=寿 |authorlink=しりあがり寿 |year=2011 |chapter=漫画の目で眺める浮き世 |title=北斎漫画 |volume=2 |publisher=青幻舎 |pages=339-347 |ref={{SfnRef|しりあがり|2011}}}}
* {{Citation|和書|editor-last=和田|editor-first=京子 |year=2011 |title=北斎漫画 |volume=3 |publisher=青幻舎 |isbn=978-4-86152-288-8 |ref={{SfnRef|北斎漫画3|2011}}}}
** {{Citation|和書|last=永田|first=生慈 |year=2011 |chapter=『北斎漫画』革新の巻 |title=北斎漫画 |volume=3 |publisher=青幻舎 |pages=311-318 |ref={{SfnRef|永田|2011b}}}}
** {{Citation|和書|last=横尾|first=忠則 |authorlink=横尾忠則 |year=2011 |chapter=未完の傑作、未完の生涯 |title=北斎漫画 |volume=3 |publisher=青幻舎 |pages=319-330 |ref={{SfnRef|横尾|2011}}}}
** {{Citation|和書|last=浦上|first=満 |authorlink=浦上満 |year=2011 |chapter=旅する北斎漫画 |title=北斎漫画 |volume=3 |publisher=青幻舎 |pages=333-341 |ref={{SfnRef|浦上|2011}}}}
* {{Citation|和書|last=内藤|first=正人|title=北斎漫画AtoZ|pages=16-47|year=2017|publisher=[[新潮社]]|journal=[[芸術新潮]]-特集:画狂モンスター北斎 漫画と肉筆画|issue=68(11)|ref=harv}}
* {{Citation|和書|last=永田|first=生慈|year=2017 |title=葛飾北斎の本懐 |publisher=KADOKAWA |isbn=978-4-04-103845-1|ref={{SfnRef|永田|2017}}}}
* {{Citation|和書|last=練馬区立石神井公園ふるさと文化館|first=編|authorlink=練馬区立石神井公園ふるさと文化館|title=あれもこれも大江戸漫画づくし|year=2020|ref=harv}}

=== 論文 ===
* {{Citation|和書|last=コロミエッツ|first=, アーラ |authorlink=アーラ・コロミエッツ |year=1965 |chapter=私の北斎漫画の研究 |chapterurl=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/10/0/10_125/_article/-char/ja/ |title=浮世絵芸術 |volume=10 |publisher=国際浮世絵学会 |pages=21-24 |ref={{SfnRef|コロミエッツ|1965}}}}
* {{Citation|和書|last=永田|first=生慈 |year=1976 |chapter=『北斎漫画』の研究 |chapterurl=https://www.jstage.jst.go.jp/article/ukiyoeart/47/0/47_468/_article/-char/ja/ |title=浮世絵芸術 |volume=47 |publisher=国際浮世絵学会 |pages=3-32 |ref={{SfnRef|永田|1976}}}}
* {{Citation|和書|last=稲賀|first=繁美 |authorlink=稲賀繁美 |year=2000 |chapter=北斎とジヤボニズム |chapterurl=https://inagashigemi.jpn.org/uploads/pdf/00art-forum21no2.pdf |title=美術フォーラム21 |volume=2 |publisher=醍醐書房編集部 |pages=122-129 |ref={{SfnRef|稲賀|2000}}}}
* {{Citation|和書|last=永田|first=生慈 |year=2000 |chapter=『北斎漫画』の出版に関する考察 |chapterurl=https://dl.ndl.go.jp/pid/11199673/1/38 |title=立正史学 |volume=87 |publisher=立正大学史学会 |pages=75-84 |ref={{SfnRef|永田|2000}}}}
* {{Citation|和書|last=鈴木|first=淳 |authorlink=鈴木淳 (国文学者) |year=2020 |chapter=エドモン・ド・ゴンクール著『北斎』余説 |chapterurl=https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/records/4089 |title=国文学研究資料館紀要 文学研究篇 |volume=46 |publisher=国文学研究資料館 |pages=203-301 |ref={{SfnRef|鈴木|2020}}}}
* {{Citation|和書|last=磯崎|first=康彦 |authorlink=磯崎康彦 |year=2021 |chapter=『北斎漫画』の上木 |chapterurl=http://hdl.handle.net/10270/5408 |title=福島大学人間発達文化学類論集 |volume=33 |publisher=福島大学人間発達文化学類 |pages=90-75 |ref={{SfnRef|磯崎|2021}}}}

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2024年1月27日 (土) 22:43時点における版

『北斎漫画』
作者葛飾北斎
製作年1814年 (1814) - 1878年 (1878)
種類版本[1]、全十五編
寸法22.8 cm × 15.9 cm (9.0 in × 6.3 in)[1]

北斎漫画』(ほくさいまんが)は江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎による画集である[2]文化11年(1814年)から北斎没後の明治11年(1878年)まで、全十五編[注釈 1]が断続的に刊行された[2]。人物、動植物、風俗、職業、市井の人々、建築物、生活用具、名所、名勝、天候、故事、説話、歴史上の人物、妖怪、幽霊など4,000点[注釈 2]を超える様々な主題の図版が絵手本の用途で収録され、総頁数は970を数える[5]。『冨嶽三十六景』とともに北斎の代表作のひとつに挙げられ[6]、欧州を中心とした日本国外でも『ホクサイ・スケッチ』の名で親しまれており、多くの芸術家に影響を与えた[7]

構成

『北斎漫画』は文化11年(1814年)に当初1冊完結の絵手本として刊行されたが、その後版元を変えて全十編の構想で追加刊行された[8]。その後も人気は衰えず断続的に追加され、北斎没後29年目の明治11年(1878年)の十五編を以て完結となった[5]。各編の最初には序文として石川雅望大田南畝らが讃を寄せている。名古屋の版元では江戸のように厳密に奥付を付ける文化が根付いていなかったことなどもあって一部奥付が無く、刊行年が不明な編も存在している[9]。なお、下表に示す丁数は序文も含んだものとなる。

値段については庶民的な蕎麦が1杯16文程度だった時代において、大判錦絵が約20文前後であり、『北斎漫画』のような半紙本はそれよりもやや高額であったとみられている[10]

踊りの描写。『北斎漫画』三編
初摺り刊行年 丁数[注釈 3] 序文 奥付 主となる版元 出典
初編 文化11年(1814年) 27 半洲散人 有り 永楽屋 [12]
二編 文化12年(1815年) 30 六樹園主人 有り 角丸屋 [13]
三編 文化12年(1815年) 29 蜀山人 有り 角丸屋 [14]
四編 文化13年(1816年) 29 綘山漁翁 有り 角丸屋 [15]
五編 文化13年(1816年) 30 六樹園 有り 角丸屋 [16]
六編 文化14年(1817年) 30 食山人 有り 角丸屋 [17]
七編 文化14年(1817年) 33 式亭三馬 有り 角丸屋 [17]
八編 文政元年(1818年) 33 綘山 有り 角丸屋 [18]
九編 文政2年(1819年) 33 六樹園 有り 角丸屋 [19]
十編 文政2年(1819年) 33 栟櫚台老人 有り 角丸屋 [20]
十一編 不明 30 柳亭種彦 無し 永楽屋 [21]
十二編 天保5年(1834年) 29 芍薬亭 有り 永楽屋 [22]
十三編 嘉永2年(1849年)[注釈 4] 29 山禽外史小笠 無し 永楽屋 [23]
十四編 不明 29 百信翁 無し 永楽屋 [25]
十五編 明治11年(1878年) 29 片野東四郎 有り 永楽屋 [26]
浮腹巻図。『北斎漫画』四編

初編から三編までは北斎の手控帳や絵日記などからの抜粋と見られ、人物や山川草木魚虫などさまざまな形態描写が中心となっている[4]。なお、二編から十編については、刊行に際して次のような広告が打ち出されていたことが明らかとなっており、四編以降はある程度のテーマをもたせた内容としてシリーズを構成していたことが分かっている[27]

広告文
二編・三編 興に乗じ心にまかせてさまざまの図を写す篇を続て全部に充こと速也
四編 草筆を加へ席上の臨本にしからしむることを要とす
五編 花表堂塔迦檻月卿雲客舘斉房舎を委くうつしてなをつきざるハ編々にもらすことなし
六編 剣法鎗法弓馬炮術等稽古のかたちをうつしてつまびらか也尤武徳の尊きを表せる一書と云べし
七編 国々名勝の地風雨霜雪のけいしよくをうつす
八編 前編に洩たるを補ひ且錦繍養蚕の業をゑがく
九編 和漢の武者および貞婦烈女のたぐひを戴す
十編 神仏並に貴僧高僧幻術外風流の人物等をしるす

四編は歴史上の人物や花鳥風景が中心となっているが、中でも潜水夫など水の中に入って活動する人々を模写した浮腹巻図はエドガー・ドガが構図を参考としたと見られる作品が残されていることで知られている[4]。五編は鳥居や鐘楼、屋根といった建造物を中心に仏具や人物などの絵図が収められている[4]。六編は弓、馬、槍、砲などの武具や柔術、空手などの武術を中心として構成されている[4]。七編では諸国の名所や風景などが一枚絵で描かれている[4]。八編では人相や身体の諸態の絵図の他、養蚕機器や建築機器などの機材、奇岩風景画などが描かれている[28]。九編は和漢の人物、情婦などの美人を中心に構成されている[28]。十編は怪談、亡霊、仙人などの非実在物を中心として構成されている[29]。十一編から十五編には自然の風景画や庶民の生活を切り取った風景画などを中心として様々な絵図が盛り込まれている[30]

成立史

背景

『伝神開手 北斎漫画 全』と記された『北斎漫画』初編の初版本。

それまで使用していた宗理の号を門人に譲り渡して葛飾北斎を名乗った北斎は、40代後半に入ってますます円熟味を増していき、江戸の流行に合わせて文化初年ごろより読本挿絵制作に傾注し、曲亭馬琴らとともに数多くの作品を刊行していた[31]。こうした仕事がひと段落した文化9年(1812年)ごろ、北斎は関西方面へと旅に出たとされている[32]。旅行の帰路で名古屋の門人[注釈 5]牧墨僊[注釈 6]に逗留し、その間に三百余図の版下絵を描き上げた[32]。墨僊宅への立ち寄りは偶然ではなく、事前に請われてのものではないかと推察されている[35]。こうした通説の根拠は『北斎漫画』初編、半洲散人[注釈 7]の序文によるもので[32]、そこには次のように書かれている。

(前略)北斎翁の書におけるは、世の知る所也、今秋翁たまたま西遊して我府下に留り、月光亭墨仙と一見相得て驩はなはだし、頃、亭中に於て品物三百餘図をうつす。(後略) — 『北斎漫画』初編序文より[12]

また、北斎が文化10年(1813年)に年頭の挨拶と滞在中の礼を綴った墨僊宛ての書簡が残されていることから、墨僊宅に滞在した期間は文化9年の秋から年内にかけてのおよそ半年間であったとされている[37]。こうして残された版下絵が名古屋の版元永楽屋東四郎(東壁堂)の目に留まり、文化11年(1814年)の『北斎漫画』初編刊行へと繋がった[38]。本書の企画は、北斎の師である勝川春章の友人であった鍬形蕙斎の『諸職画鑑』、『略画式』等から着想を得たと言われている[39][40]。また、林守篤『画筌』や、清朝の画譜『芥子園画伝』からの影響も指摘されている[39]。一方で北斎研究者の永田生慈は『北斎漫画』刊行に至った主たる動機として、「門人の増加に伴い、都度肉筆の絵手本を与える不便さの解消したかった」「全国に散在した多くの門人・私淑者に葛飾派の画様式を普及させようと企図した」「絵師に限らず各分野の職人が北斎の挿絵を下図として活用していたことから、その図案集として刊行した」という三点を挙げている[41]

『北斎漫画』初編奥付。「北斎改葛飾戴斗」の名が確認できる。

初編刊行

文化11年(1814年)1月、序文を含めて全二十七丁、約252図を収めた『北斎漫画』初編が永楽屋より刊行された[36]。北斎の描いた版下絵は門人の東南西北雲らによって出版用にサイズなどの手直しがなされた[42]。本書は当初、一冊本として刊行されたと見られており、初版本とされる薄い紅色で書かれた表題には『伝神開手 北斎漫画 全』と記されていた[43]。なお、この表題は二編以降が刊行されたタイミングで「初版」の文字が入った版へと摺り直しが行われている[44]

現代の漫画と異なり「筆のおもむくままに描く」という意味を指す「漫画」という成語は[45]、半洲散人の序文「如夫題するに、漫画を以てせるは、翁のみづからいへるなり。」[12]より、北斎が命名した成語であるとされる向きもあるが、江戸風俗の研究を行っていた漫画家宮尾しげをは、山東京伝が「家の前を往来する人々の姿を漫画する」と表現しているとしてこの説を否定している[43]。美術史家の磯崎康彦は、鳥羽絵や墨僊の『墨僊叢画』などを意識して「漫画」という表題を付けたのではないかと推察している[42]。永田は宮尾を支持しつつも、「漫画」という言葉を一般に浸透させ、ポピュラーなものにしたのは間違いなく北斎の功績であると指摘している[43]

「漫画三編」と表題をあしらった絵。『北斎漫画』三編

続編刊行

初編の『北斎漫画』を見た江戸の版元角丸屋甚助(衆星閣)は、「北斎の絵手本が1冊だけとは勿体ない」としてシリーズ化を提案し、二編から十編までは相合版[注釈 8]として角丸屋が主体となり刊行する運びとなった[38]。ただし、角丸屋が主体へと切り替わったタイミングで十編までの構想が完了していたかどうかは疑問が残る資料も遺存しており、明らかとなっていない[47]。続編の話を貰い受けた北斎は全十編としてその構成を考えてこの仕事に取組み、年に2冊ほどのペースで文化12年(1814年)から文政2年(1819年)までの期間で十編までの『北斎漫画』刊行を行った[48]。全十編刊行後も『北斎漫画』の人気は衰えることがなく、十一編の序文で柳亭種彦が「再び筆を下して漏れたるを拾ひて」と記した通り二十編までの続編刊行が計画されていた[4]。しかしこの構想は版元角丸屋の経営状況悪化に伴い実現することはなく、『北斎漫画』の版木は永楽屋へと売却された[49]

その後の経緯は明らかとなっていないが、天保5年(1834年)までに十一編と十二編が、北斎没年の嘉永2年(1849年)に十三編が、没後の明治11年(1878年)までに十四編、十五編が刊行された[24][注釈 9]。十一編は版元などの記載が無いが二十八丁表に東の字、裏に楽の字が見えることなどから永楽屋によるものと見られている[24]。刊行年は諸説あるが永田や美術史家の楢崎宗重は、遺存している北斎書簡の記述などから文政6年(1823年)以降に刊行されたのではないかと推察している[50]。十二編は序文の記載などから天保5年刊行とされており、版元は永楽屋と角丸屋の両方の版が遺存しているため、不明確である[51]。永田は永楽屋が版木を有し、送られてきた本に角丸屋が奥付を付けて販売したのではないかと推論しており、同様の関係が十一編にもあったのではないかと指摘している[51]。また、十三編も序文から北斎没年の嘉永2年に永楽屋から刊行されたと見られている[52]。十二編から15年の歳月がかかった理由については判っていないが、嘉永元年から2年にかけて永楽屋から北斎の刊行物が集中的に発売されており、十三編もその一連の刊行物の中のひとつであったとされている[53]。残りの十四編、十五編は一般的に明治期に入ってからの刊行と見られ[注釈 10]、北斎の作品だけでなく沼田月斎織田杏斎らの図案が含まれている[53]。また、『北斎画譜』や『伝心画鏡』などからの転載も見られる[53]。ただしこれは『葛飾北斎伝』にて飯島虚心が織田杏斎から聞き取った話として掲載したものが典拠とされており、事実かどうかの確定はしていない[54]

影響

『北斎漫画』の刊行部数の記録は無いため、どの程度売れたのかは分かっていないが、絵手本として職工が買い求めただけでなく、観賞用として広く庶民に支持されたと見られる[55]。二編以降がすぐさま制作されたことからも、その人気の程が窺える[56]。角丸屋から永楽屋に版木が売却された際には使い物にならないほど摩耗していたようで、版木の彫り直しも行われている[49]。また、これにあやかって『北斎漫画』の内容等を剽窃した『北斎画譜』という刊行年不明、作者不明の偽本が河内屋太助(文金堂)から刊行されている[56]

またオランダ商館医のドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによって西欧に持ち込まれ、日本国外にも広く影響を与えた[57]。なかでもジャポニスムとして広く受容されたフランスの印象派芸術家たちには多大なる影響を及ぼし、エドガー・ドガメアリー・カサットら、多くの芸術家が『北斎漫画』から着想を得た作品を残している[58]

『北斎漫画』初編
寝そべる男
カサットの『青い肘掛け椅子に座る少女』(1878年)

こうした欧州の作品との対比は国内外で話題を呼び、例えば日本において国立西洋美術館で2017年に開催された「北斎とジャポニスム」展では、各国の芸術家の作品と北斎の作品が並べて展示され、世界における『北斎漫画』の影響と受容が再確認された[58]。なお、レオンス・ベネディット英語版の論文『動物画家 フェリックス・ブラックモン』に掲載された[59]「1856年にブラックモンが、日本からの輸入陶磁器の緩衝材に『北斎漫画』を発見した」という逸話は広く認知されているが、複数の研究者からその正確性について疑問視されている[60][61]

評価

 
上『北斎漫画』十三編の虎図
下1849年の肉筆画『雪中虎図』

広く庶民に支持され、『北斎漫画』は大きな人気を博したが、活動当時から近代に至るまでの日本国内における北斎自身の評価は高くなく、あくまで「浮世絵師」としての認知であった[62]。当時の日本において「絵師」とは狩野派長谷川派といった御用絵師を指し、版元の依頼を受けて作画する浮世絵師は「卑しい絵描き」と言われ、数段格下の評価がなされていた[62]。また、浮世絵師としても抜きんでた評価はされておらず、鈴木春信鳥居清長喜多川歌麿東洲斎写楽歌川広重らと肩を並べる「代表的な浮世絵師のひとり」といった位置付けであった[63]。しかしながら、こうした国内評価は海外での北斎評の高さが認知されるに従って徐々に覆りつつある[64]

『北斎漫画』自体の評価として永田は、画集や画譜と違って様々なものが混在しているという点にこそ本作品の重要性があるとしており、葛飾北斎という画業人生半ばの総決算であると同時に晩年に向けて飛躍するための助走だったと総括している[65]。美術家の横尾忠則は、北斎は人が描いた絵や自分が過去に描いた絵を真似るということに重きを置いた創作活動を行っているとし、模倣の天才だったと評している[66]。『北斎漫画』の中には過去の作品や以降に発表される作品のモチーフが何度も出てきており、過去と未来を反復させながら自身の画業の発展を続けたとしている[67]。漫画家のしりあがり寿は『北斎漫画』の「漫画」が現代の漫画と異なる意味であることを認識しつつも、『北斎漫画』に登場するキャラクターは、デフォルメや省略するところはしているなど漫画的な記号化も働かせており、北斎のテクニックがふんだんに発揮された作品であると評している[68]。『北斎漫画』を42年間に渡って1400冊以上蒐集した浦上満は、『北斎漫画』がどのように広まり、受け継がれてきたかといった出版文化史そのものを伝える比類なき作品であるとしている[69]

『北斎漫画』八編。肥満の男女を描く。

日本国外においては日本よりも早い段階から高く評価されており、フランスの美術評論家フィリップ・ビュルティは、1866年の『工業美術の傑作』において『北斎漫画』に言及し「優雅さにおいてはヴァトーに、エネルギーにおいてはドーミエに、奇想においてはゴヤに、動態においてはドラクロワに比肩し、テーマの豊かさと鮮やかな筆さばきで北斎に匹敵する画家はルーベンスだけだ」と絶賛した[70]。また、北斎の独創的な表現力と多様性を高く評価したフランスの美術史家のルイ・ゴンス英語版は、1883年『日本美術(L’art Japonais)』の中で肥満の男女を描いた『北斎漫画』八編について言及し、ドーミエの描いた『水泳学校の喜劇(comique de ecole natation)』との写実的な滑稽さの描写について対比させている[71]。その他ジャポニスムの先駆者となったエドモン・ド・ゴンクールは1896年に『北斎』という浮世絵研究書を上梓し『北斎漫画』についても多くのページを割いて言及しているが、国文学者の鈴木淳は、ゴンクールの著作自体が、『北斎漫画』から受けた衝撃をそのまま執筆の原動力に変えたのではないかと指摘している[72]

ギャラリー

北斎漫画をモチーフとした作品

脚注

注釈

  1. ^ 日本人最初の北斎研究家と言える飯島虚心は、北斎没後に編集・版行された『漫画』十四・十五編は、正規なものと認めていない[3]
  2. ^ 絵図の数え方により揺らぎ有り。例えば尾崎周道は3,191点としている[4]
  3. ^ 和装本の単位で、表裏の2ページで1丁とする[11]
  4. ^ 『北斎漫画3』[23]では刊行年不明とされているため、永田の『『北斎漫画』の研究 』の記述に倣う[24]
  5. ^ 牧墨僊は北斎の門人とされるが、その時期がいつだったかについては井上和雄らによる文化9年の逗留によって初めて入門したとする説と、相見香雨らによる逗留前より門人であったとする説などで見解が分かれており、確定していない[33]
  6. ^ 現代の名古屋市中区にあたる[34]
  7. ^ 儒学者細井平洲に師事した尾張の藩士で、牧墨僊と深い親交があったとされる[36]
  8. ^ 複数の版元が共同で出版するシステムで、主体となる版元が資本を出し、版権を持つ[46]。二編以降は角丸屋と永楽屋で共同出版した[42]
  9. ^ 十一編と十四編の刊行年は不明[24]
  10. ^ 永田は十四編の明治刊行説は否定的な立場を取っており、紙質が幕末期のものであるなどのいくつかの根拠より明治以前ではないかと指摘している[54]

出典

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参考文献

書籍

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    • 永田生慈「『北斎漫画』革新の巻」『北斎漫画』 3巻、青幻舎、2011年、311-318頁。 
    • 横尾忠則「未完の傑作、未完の生涯」『北斎漫画』 3巻、青幻舎、2011年、319-330頁。 
    • 浦上満「旅する北斎漫画」『北斎漫画』 3巻、青幻舎、2011年、333-341頁。 
  • 内藤正人「北斎漫画AtoZ」『芸術新潮-特集:画狂モンスター北斎 漫画と肉筆画』68(11)、新潮社、16-47頁、2017年。 
  • 永田生慈『葛飾北斎の本懐』KADOKAWA、2017年。ISBN 978-4-04-103845-1 
  • 練馬区立石神井公園ふるさと文化館編『あれもこれも大江戸漫画づくし』2020年。 

論文