米澤菊二
米澤 菊二(よねざわ きくじ、1894年(明治27年)3月19日[1] - 1983年(昭和58年)11月9日[2])は、日本の外交官。駐ポルトガル公使。
経歴
[編集]石川県能美郡(現・能美市)出身[1]。1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等試験行政科に合格した[3]。農商務省に入省し、福岡鉱務署に鉱務監督官として勤務[3]。のち外務省に転じ、事務官・条約局第三課勤務、イギリス大使館三等書記官、同二等書記官、安東領事、満州国大使館一等書記官、外務書記官・大臣官房電信課長、カルカッタ(現在のコルカタ)総領事、外務省調査部長を歴任[3]。1939年(昭和14年)、駐ポルトガル公使に就任し、1941年(昭和16年)に退官した[3]。
退官後は、日本交易協会専務理事、東亜研究所理事を務めた[4]。
エピソード
[編集]第二次世界大戦中、在ポルトガル日本公使館の館長を務めていた際に、EUの父クーデンホーフ=カレルギー伯の亡命を手助けし、クーデンホーフ=カレルギー伯から自著『Totaler Staat – Totaler Mensch』(1937年)の英語版『The Totalitarian State against Man』を贈呈されたエピソードが知られる[5]。この贈呈本は戦後鳩山一郎による翻訳、翻訳者鳩山による友愛の提唱、鳩山の孫鳩山由紀夫・鳩山邦夫らによる民主党の結成、由紀夫の東アジア共同体提唱へとつながる。
パン・ヨーロッパ運動指導者クーデンホーフ=カレルギー伯はナチス・ドイツ総統アドルフ・ヒトラーを公然と批判し、伯はまたユダヤ差別反対論者でもある。彼のパン・ヨーロッパ運動は潰され[6]、彼はヨーロッパ脱出を試みるが、リスボンで何かと彼を手助けをしたのが米沢館長であった[5]。1940年8月にクーデンホーフ=カレルギー伯は米国亡命に成功し、日本は1940年9月に日独伊三国同盟を締結した。
栄典
[編集]- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
著書
[編集]- 東亜研究所, 米澤菊二『印度國民會議派ノ内部情勢ニ就テ』東亞研究所〈資料 / 東亞研究所 [編] (外乙)第18號B〉、1939年。 NCID BB06357344 。
- 『大東亜戦争と印度の地位』国防経済協会 1942年(講演)
- 『日葡交通の起原』葡萄牙叢書 第二輯 1942年10月(遡及奥付の編者: 米澤菊二)
- 井野碩哉(述)、米澤菊二(述)『大東亞戰爭と農林政策. 獨立の關頭に立つ印度』 1942年 東洋經濟新報社出版部(經濟倶樂部講演 ; 昭和17年 第26輯)
- 『大東亞戰爭と印度の地位 : 米澤菊二講演』國防經濟協會、1942年6月
- 『日満議定書調印記録』 1969年11月 (霞関会編『霞関会会報』pp. 15-16)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第13版(上)』人事興信所、1941年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版(上)』人事興信所、1943年。
- 外務省外交史料館日本外交史辞典編纂委員会『新版 日本外交史辞典』山川出版社、1992年。
- 戸澤, 英典, “鳩山一郎氏の足跡を追う”, 2005年「日・EU市民交流年」に向けて - リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーが生み出した「人と人との交流」- (『友愛』2004年9月10日号より転載) (東北大学大学院法学研究科・法学部教授 戸澤英典研究室『RCK通信』)
- 機関紙『友愛』第471号, 一般財団法人 日本友愛協会, (2004年9月10日)
- * 倉田稔「『グローバル資本主義の物語』について」『商学討究』第51巻第1号、小樽商科大学、2000年7月、173-194頁、ISSN 04748638、NAID 110000231957。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 日印会商を顧みて (上・下) : 日印会商帝国代表カルカッタ総領事 米沢菊二 (大阪朝日新聞 1937.5.18-1937.5.19 (昭和12)) 通商条約 0a-055 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 通商条約(0a-055)
- 新聞記事文庫 国際貿易(0d-042) 産業経済新聞 1943.9.16(昭和18) 貿易業の再整備業者の要望も勘案 交易協会専務理事米沢菊二氏 来阪談 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 国際貿易(0d-042)
- 籠谷直人「日中戦争前の日本の経済外交 ―第二次「日印会商」(1936~37年)を事例に―」『人文学報』第77号、京都大学人文科学研究所、1996年1月、99-140頁、doi:10.14989/48470、ISSN 04490274、NAID 110000238797。