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聖徳太子虚構説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
聖徳太子二王子像』。聖徳太子を描いた最古の肖像画。

聖徳太子虚構説(しょうとくたいしきょこうせつ)は、聖徳太子の事績の大半は『日本書紀』の編纂を通じて、当時の為政者たちによって捏造されたとする説。人間・聖徳太子(厩戸王)が実在しなかったという意味ではなく、聖徳太子の聖人化(太子信仰)は政治的な意図をもって捏造されたとする説である。大山誠一が1999年に提唱して以来、賛否両論が続いている。

研究史

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近代における実証的研究には久米邦武の『上宮太子実録』[1]がある。

また、十七条憲法を太子作ではないとする説は江戸後期の考証学狩谷棭斎らに始まり、津田左右吉は十七条憲法を太子作ではないと主張した[2]。第二次世界大戦後、井上光貞坂本太郎関晃らは津田説に反論している[3][注釈 1]。一方、森博達は十七条憲法を『日本書紀』編纂時の創作としている[4]

高野勉の『聖徳太子暗殺論』(1985年)は、聖徳太子と厩戸皇子は別人であり、蘇我馬子の子・善徳が真の聖徳太子であり、後に中大兄皇子に暗殺された事実を隠蔽するために作った架空の人物が蘇我入鹿であると主張している。また石渡信一郎は『聖徳太子はいなかった—古代日本史の謎を解く』(1992年)を出版し、谷沢永一は『聖徳太子はいなかった』(2004年)を著している。近年は歴史学者の大山誠一らが主張している(後述)。

大山誠一による聖徳太子虚構説

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1999年大山誠一『「聖徳太子」の誕生』(吉川弘文館)が刊行された[5]。大山は「厩戸王の事蹟と言われるもののうち冠位十二階と遣隋使の2つ以外は全くの虚構」と主張。さらにこれら2つにしても『隋書』に記載されてはいるが、その『隋書』には推古天皇も厩戸王も登場しないと大山は考えた。そうすると推古天皇の皇太子・厩戸王(聖徳太子)は文献批判上では何も残らなくなり[注釈 2][注釈 3]、痕跡は斑鳩宮と斑鳩寺の遺構のみということになる。また、聖徳太子についての史料を『日本書紀』の「十七条憲法」と法隆寺の「法隆寺薬師像光背銘文法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳、三経義疏」の二系統に分類し、全て厩戸皇子よりかなり後の時代に作成されたとする。

大山は、飛鳥時代に斑鳩宮に住み斑鳩寺も建てたであろう有力王族、厩戸王の存在の可能性は否定しない。しかし、推古天皇の皇太子として、知られる数々の業績を上げた聖徳太子は、『日本書紀』編纂当時の実力者であった、藤原不比等らの創作であり、架空の存在であるとする。以降、『聖徳太子の真実』(平凡社、2003年)や『天孫降臨の夢』(NHK出版、2009年)など多数の研究を発表している[6]

大山説の概要「有力な王族厩戸王は実在した。信仰の対象とされてきた聖徳太子の実在を示す史料は皆無であり、聖徳太子は架空の人物である。『日本書紀』(養老4年、720年成立)に最初に聖徳太子の人物像が登場する。その人物像の形成に関係したのは藤原不比等長屋王、僧の道慈らであるとされ、十七条憲法は『日本書紀』編纂の際に創作されたとする。藤原不比等の死亡、長屋王の変の後、光明皇后らは『三経義疏』、法隆寺薬師像光背銘文、法隆寺釈迦三尊像光背銘文、天寿国繡帳の銘文等の法隆寺系史料と救世観音を本尊とする夢殿、法隆寺を舞台とする聖徳太子信仰を創出した。」[7][注釈 4]

大山説は雑誌『東アジアの古代文化』102号で特集が組まれ、102号、103号、104号、106号誌上での論争は『聖徳太子の実像と幻像』(大和書房、 2001年) にまとめられている。石田尚豊は公開講演『聖徳太子は実在するか』の中で、聖徳太子虚構説とマスコミの関係に言及している[5]。『日本書紀』などの聖徳太子像には何らかの誇張が含まれるという点では、多くの研究者の意見は一致しているが、聖徳太子像に潤色・脚色があるということから「非実在」を主張する大山説には批判的な意見が数多くある。三浦佑之など大山説に賛同を表明する研究者もいる[注釈 5]

また、岡田英弘、宮脇淳子は大山説とは異なる視点から聖徳太子虚構説を論じている[8]

大山説への反論

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仁藤敦史国立歴史民俗博物館研究部教授)は、『日本書紀』や法隆寺系以外の史料からも初期の太子信仰が確認され、法隆寺系史料のみを完全に否定することは無理があると批判している[注釈 6]。また「推古朝の有力な王子たる厩戸王(子)の存在を否定しないにもかかわらず、後世の「聖徳太子」と峻別し、史実と伝説との連続性を否定する点も問題」としている[9]

遠山美都男は「『日本書紀』の聖徳太子像に多くの粉飾が加えられていることは、大山氏以前に多くの研究者がすでに指摘ずみ」としたうえで、「大山説の問題点は、実在の人物である厩戸皇子が王位継承資格もなく、内政・外交に関与したこともない、たんなる蘇我氏の血を引く王族に過ぎなかった、と見なしていることである。斑鳩宮に住み、壬生部を支配下におく彼が、王位継承資格も政治的発言権もない、マイナーな王族であったとは到底考えがたい。」「『日本書紀』の聖徳太子はたしかに架空の人物だったかもしれないが、大山氏の考えとは大きく異なり、やはり厩戸皇子は実在の、しかも有力な王族だった」と批判している[10]

ほか、和田萃[注釈 7]や、曽根正人[11][注釈 8]らの批判がある。

平林章仁は、日本書紀はそもそも舎人親王が監督した正式な朝廷編纂の国史書であり、個人の意図で大幅に内容が変えられるものでないとして、日本書紀は虚構説の資料にはならないと指摘している。

倉本一宏は「『聖徳太子』はいた」として、聖徳太子虚構説を「『聖徳太子』というのは、あとからできた敬称ですが、厩戸王という人はいたわけです。有力な王族であったことは確かですし、推古天皇、蘇我馬子とともに政を行っていたことは間違いない。ただし、その業績が伝説化された部分はあると思います」として、法隆寺は南都七大寺で唯一王権とほとんど関係なく、創建者の厩戸一族も滅んでいるという後ろ楯不在の寺であるため、存在意義のために聖徳太子伝説が必要であり、そこで作られたのが法隆寺系縁起であり、これらの史料がたまたま『日本書紀』に採用され、聖徳太子伝説を作ったのは法隆寺である旨指摘している[12]

聖徳太子虚構説に対する反論としては、直木孝次郎「厩戸王の政治的地位について」、上田正昭「歴史からみた太子像の虚実」(『聖徳太子の実像と幻像』所収)(2001年)、森田悌『推古朝と聖徳太子』(2005年)、などがある。また石井公成は、「大山説は想像ばかりで論証になっていない」とし[13]、新資料の発見とコンピュータ分析によって、「憲法十七条」や三経義疏は聖徳太子の作と見てよいと論じている[14]

虚構説の論点と歴史的資料

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天寿国繡帳

聖徳太子の存在を傍証する資料は、『日本書紀(巻22推古紀)』および「十七条憲法]、『古事記』[注釈 9]、『三経義疏』、『上宮聖徳法王帝説』、天寿国繡帳(天寿国曼荼羅繡帳)、法隆寺薬師如来像および釈迦三尊像光背銘文、同三尊像台座内墨書、道後湯岡碑銘文法起寺塔露盤銘、『播磨国風土記』、『上宮記』などの歴史的資料がある。これらのなかには厩戸皇子よりかなり後の時代、もしくは『日本書紀』成立以降に制作されたと考えられるものもあり、現在、決着してはいない。

『日本書紀』における聖徳太子像

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大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味および用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある[誰?]。森博達は文武天皇朝(697年-707年)に文章博士山田史御方がβ群の述作を開始したとする[15]

『勝鬘経義疏』

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  • 勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』について藤枝晃は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので[16]、大山はこれが筆写されたものとしている[17]
  • 『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。
  • 安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから海外で作られたとする説も否定している。
  • 王勇 (歴史学者)は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする[18]。また花山信勝は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している[19]

『上宮聖徳法王帝説』の系譜

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『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている[20]

天寿国繡帳

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『天寿国曼荼羅繍帳』の男性
天寿国繡帳』の男子。袴の上から着用している巻スカートが褶。

天寿国繡帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繡帳の銘文に現れる干支が日本では持統天皇4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている[21]義江明子は1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする[22]石田尚豊は技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

服飾史では、高田倭男は天寿国繍帳に刺繍された男子は丸襟、左衽(さじん)、筒袖、細紐の帯、褶(ひらみ)の服装をしており、女子も上着の裾から褶が見え、その下にロングスカート状の裳(も)を着用していると指摘する[23]。制作時期は太子没後間もないころとする[23]

左衽は右の衽(おくみ)を左の衽の上に重ねる着方で、日本では古来左衽であったが中国では右衽で、左衽は夷狄の着方とされた。日本では719年養老3年)2月に左衽から右衽に改められた(『続日本紀』)[24]。褶は上衣の裾の下からのぞく襞(ひだ)のある丈の短い巻スカートである。中国の褶は丈の短い上衣のことで、日本とは意味が異なる[25]。天武11年(682年)3月28日の詔において、「親王以下、百寮諸人、今より已後(いご)、位冠及び襅(まえも)、褶、脛裳(はぎもも)著(き)ること莫(な)かれ」と、親王以下百官の褶着用が禁止された[26]。これらは天武朝以来の服制を唐風に改革する風潮のもとに行われた。

武田佐知子・津田大輔は、天寿国繍帳の服装は左衽、褶であるとし、高松塚古墳壁画より古い風俗とする[27]。また襟や袖に付けた別色の縁取りは北周の品色衣を思わせるとする[28]。高田は別色の縁取りは朝鮮半島で襈(せん)と呼ばれていたものではないかと指摘する[23]

増田美子は高松塚古墳壁画に描かれた男女の上衣の裾には一様に襴(らん)と見られる布を足した線が引かれているが、天寿国繍帳にはないと指摘する[29]。襴は唐の服飾の特徴で、太宗年間(626年649年)に登場する[30]。日本では、天武13年(684年)4月の詔において、会集の日には襴衣の着用を義務付けた[31]

また、持統4年(689年)4月の詔で[32]、「上下通じて綺帯と白袴を用い」と、身分の上下とも綺麗な帯と白袴を着用することになり高松塚古墳壁画の男子は白袴を穿いているが[33]、天寿国繍帳の男子は裾が別色の色袴を穿いている。

このように天寿国繍帳の服装は推古朝、遅くとも唐風改革の始まる天武朝より前の服装を表しており、服飾史では制作時期もその頃をするのが通説となっている。

法隆寺釈迦三尊像光背銘文

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法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする[34]。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする[35]

法隆寺の依頼で実際に光背銘文を現地調査した東野治之は、銘文が刻まれた面は平滑であり光背の制作段階から文字を刻むスペースとして用意されたことは明らかだとして、「銘文の内容より下る時期の刻入とする論が否定されることはまちがいない」として追刻説を否定する[36]。また、調査に同行した奈良文化財研究所(当時)の渡辺晃宏も同意見であった[36]。したがって、福山が疑問視した光背銘文にある「法興元丗一年」(621年)、「上宮法皇」、「司馬鞍首止利佛師造」といった文言は釈迦像造立当時に刻まれたものである。

この調査は寺史編纂に伴うもので、光背裏面全体を撮影するため、複数のライトによる照明がなされるなど、それまでなかった好条件のもとで行われた[37]。追刻説はこうした好条件のもとでの調査に基づかない説であり、実見しなければ東野等が得たような知見は得られなかったであろうとする[37]

道後湯岡碑銘文

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道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)についてはこれまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年[注釈 10])。

大山は、道後湯岡碑銘文[38][注釈 11]における法興6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号(逸年号私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している[17]

また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264年-1275年)ごろ)と『釈日本紀』(文永11年-正安3年ごろ(1274年-1301年ごろ))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている[39]

東野治之は、銘文には伊予を「夷与(いよ)」と記しているが、「イ」に「夷」を当てる表記はきわめて珍しく、通常の万葉仮名では使用されないと指摘する。ほかの例としては、『元興寺縁起』に引く「元興寺丈六光銘」(飛鳥大仏の銘文とみられる)にある「夷波礼瀆辺宮(いわれいけべのみや)」が唯一の例である。したがって、銘文は7世紀の用字を伝えるものであり、法隆寺釈迦三尊光背銘にある法興年号と年立てが合致することも合わせ、碑を推古朝の作と判断してよいとする[40]

また、東野は銘文の内容が温泉の効用や神仙境的な立地を述べただけで聖徳太子に関係づけておらず、太子礼讃を意図した捏造ならば関係づけるはずだとして捏造説に疑問を呈している[41]

法起寺塔露盤銘

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慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁元年(1238年)ごろに顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。

ただし、大橋一章の研究(2003年)の研究では、嘉禄三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている[42]

また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている[43]。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している[44]

『播磨国風土記』の記述

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播磨国風土記』(713年-717年ごろの成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、または)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら[45]、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年ごろ)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

教育における扱い

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一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・皇国史観の行き過ぎという批判がある[注釈 12][注釈 13][注釈 14]。2013年(平成25年)3月27日付『朝日新聞[46]によれば、清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から、歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた(本項「#虚構説」も参照)。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」についてそもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)

なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された[47]

脚注

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注釈

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  1. ^ 関晃は偽作説の根拠はあまり有力とはいえない」とする。『世界大百科事典第二版』平凡社[要ページ番号]
  2. ^ 高森明勅國學院大學講師)は「大山氏の方法論の致命的な欠陥は、「日本書紀以前に確実な史料がなければ、日本書紀に描かれた人物であっても虚構だ」、と言っていること」と述べている(「歴史教科書10の争点」レポート 高森明勅「日本の国柄をつくった聖徳太子」[要ページ番号] )。
  3. ^ 安本美典は次のように述べている。「失敗をくり返してきた19世紀的文献批判学に対して、海外では、すでに多くの再批判がおこなわれ、たとえば、『数理哲学の歴史』の著者のG・マルチンは、「自分自身に対して無批判な批判」と鋭く論評してる。しかし、日本では、いまもなお、津田左右吉流の擬古派的な主張をする学者が少なくない。擬古派的な考え方は、くりかえし、事実によって粉砕されてきたが、日本では、第二次世界大戦中の『古事記』『日本書紀』をそのまま信ずべしとする教育に対する反動から、擬古的な考えがいまだに強く、結果的に世界の趨勢からいちじるしくたちおくれた議論が、あいかわらず強調される傾向が続いている。「聖徳太子は実在しなかった」「大化の改新は偽りである」など、擬古派の立場でさまざまな本が出版される背景には、日本のこのような事情があるのである。」(邪馬台国の会 講演会記録第249回聖徳太子は実在した (2006.9.24[要ページ番号]))
  4. ^ また、用明、崇峻、推古の王朝とされる時期には蘇我馬子の王権が存在したとする仮説(蘇我王権説)を提示している
  5. ^ 三浦佑之(立正大学教授)は大山の聖徳太子論に賛成している[1]
  6. ^ 「奈良時代の前半には上宮太子を「聖徳」と称するのは死後に与えるとする理解があり、さらに、慶雲3(706)年以前に「聖徳皇」と呼ばれていたとする金石文もある。加えて『古事記』には没後の名前と考えられる「豊聡耳」の称号、および「王」号ではなく後に即位した王子にのみ与えられる「命」表記を含む「上宮の厩戸豊聡耳命」の記載があり、遅くとも『日本書紀』成立以前の天武朝までには偉人化が開始されていた」と指摘した[要出典]
  7. ^ 和田は、聖徳太子が日本書紀の編纂段階で理想化されたことは多くの人が認めており、厩戸王と(脚色が加わった)聖徳太子を分けて考えるべきとする指摘は重要としながらも、そのことが「聖徳太子虚構説」や「蘇我王権説」につながるわけではないとする。『日本経済新聞』2004年1月10日
  8. ^ 「後世に造形され、肥大化した聖徳太子がいなかったという点では大山説に反対しない。厩戸王の実像をどう考えるかでは見解が違う。歴史物語の研究によれば、全くのゼロから記事がつくられた例がない。素材となった記録・記事が何であるかは今後の課題だが、皆無とは考えにくい」とする(毎日新聞東京夕刊2007年6月4日)。
  9. ^ 用明天皇の子として名前(上宮之厩戸豊聰耳命)が記されている。
  10. ^ 「碑文の古きものは、伊豫道後温泉の碑、山城宇治橋の碑、船首王の墓誌等がその最なるもの」「道後温泉碑 推古天皇の四年に建てたもので碑は今日亡びてない。文は『續日本紀』に引く所にして、もと『伊豫風土記』に載せてあつた」。牧野謙次郎 述/三浦叶 筆記『日本漢學史』(世界堂書店、 1938年[要ページ番号]
  11. ^ 「法王大王」は聖徳太子を指す。万葉集巻三239 柿本人麻呂の詠める「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而…」のように大王は皇子に使用される例がある。山部赤人が伊豫温泉(道後温泉)を訪れて詠んだ歌(『万葉集』巻三 322)について、道後湯岡碑銘文または伊予国風土記の内容を踏まえたものとする説がある[要出典]
  12. ^ 小林よしのりは自身の著書『天皇論』にて「聖徳太子」という諡号をカッコ括りの記述にするのは皇室を蔑ろにするものと批判している(120頁にて)
  13. ^ 「厩戸王」は大山説でも使用されているが、史料には見られない。日本書紀は「厩戸皇子」。日本書籍の教科書を執筆した吉村武彦は「皇子を表記するに当たっては生存中の名前を使うのが一般的。『聖徳太子の時代』という表現にも違和感があり、『蘇我氏と厩戸皇子が政治をおこなう』と表記した」とする(2004年/平成16年1月10日日本経済新聞)。
  14. ^ ただし、歴史記述の際に、君主や皇族について、没後に定められた諡や追号を使用するのはよくあることである。「推古天皇」「後白河天皇」「武帝」など。また、平安時代以降は後白河天皇を後白河院と院号で呼ぶのが一般的であったし、長慶天皇仲恭天皇のように同時代には即位自体が公認されず、没後数百年を経て政治的に追認された例もある。また、当時の正式名称ではない呼称を、後日の区別のために用いる例もあり、中国の王朝名の「前漢」「後漢」「蜀漢」「南漢」はみな国号は「漢」である

出典

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  3. ^ 井上光貞『飛鳥の朝廷』(講談社学術文庫、 1974年[要ページ番号])、坂本太郎『聖徳太子』(吉川弘文館、 1979年[要ページ番号]
  4. ^ 森博達『日本書紀の謎を解く—述作者は誰か』(中公新書、 1999年[要ページ番号]
  5. ^ a b 公開講演『聖徳太子は実在するか』(2009年9月27日時点のアーカイブ
  6. ^ ほか『聖徳太子と日本人』(風媒社、2001年)。大山誠一「聖徳太子」研究の再検討(上・下)(『弘前大学國史研究』100、1996年3月、10月)
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  9. ^ 仁藤敦史 「聖徳太子は実在したのか」『中学校 歴史のしおり』(帝国書院、 2005年9月)[要ページ番号]
  10. ^ 遠山美都男『天皇と日本の起源』(講談社、 2003年)[要ページ番号])および遠山美都男『聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか』(2000年[要ページ番号]
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  12. ^ 文藝春秋』2013年11月号、pp.256-257
  13. ^ 石井公成 2012, p. 111.
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  32. ^ ウィキソース出典 舎人親王卷第三十」(中国語)『日本書紀』。ウィキソースより閲覧。 
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  39. ^ 荊木美行『風土記逸文の文献学的研究』(皇學館出版部、 2002年[要ページ番号]
  40. ^ 上田 & 千田 2008, pp. 137–138.
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  42. ^ 大橋一章「法起寺の発願と造営」『早稲田大学大学院文学研究科紀要』49巻(2003年)pp.91-701, NCID AA11910228, 早稲田大学大学院文学研究科
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  46. ^ “聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述”. 朝日新聞. (2013年3月27日). オリジナルの2013年3月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130327130342/http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html 2015年8月31日閲覧。 
  47. ^ 「聖徳太子」復活を検討 次期指導要領で文科省”. 日本経済新聞 (2017年3月20日). 2017年3月22日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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