遠藤光徳
遠藤 光徳[1](えんどう こうとく[2]、1881年(明治14年)2月4日[3] - 1973年(昭和48年)4月24日[4])は、日本の実業家、政治家。鳥取県米子市名誉市民[1][3]。
経歴[編集]
鳥取県西伯郡外江村(現在の境港市外江町)出身[2][5]。遠藤久壽の長男[5][6][7][8]。1895年、弓ケ浜高等小学校を卒業[4]。
少年時代に米子の坂口平兵衛本店に入店[4]、店員となる[5]。忠実に奉公しているうちに坂口平兵衛に認められ、同家の大番頭に挙げられる[8]。1924年、坂口合名会社の支配人となる[1]。
1921年、米子町会議員に当選後、米子市議会議員・鳥取県議会議員などの公職をつとめ[注 1]、米子市議会議長に15年8ケ月にわたり在職する[3]。
鋳物諸工具製造業を営む[6][7]。幾多の事業に関係し[5]、米子製鋼所、大谷オフセット印刷各社長、米子電車軌道、皆生温泉土地各取締役、山陰農具監査役などをつとめる[6]。
1927年、米子商工会工業部々長(理事)に就任[4]。1929年、米子商工会議所創立委員となり、設立後常議員に当選[4]。1943年、鳥取県商工経済界評議員に就任[4]。1946年、米子商工会議所会頭に就任[4]。1951年まで会頭を2期つとめ、退任後は顧問に推挙される[4]。
鳥取県信用保証協会理事長[4]、鳥取県商工会議所連合会会長、中国地方商工会議所連合会副会長などをつとめる[1]。1973年、92歳で亡くなる[1]。正六位勲四等瑞宝章を追贈される[1]。
人物[編集]
遠藤はいわゆる「丁稚上りの成功者」である[8]。上水道の敷設、市制の施行、市庁舎の建設、米子飛行場の設置、教育、交通、商工業の伸展に多くの功績がある[3]。1955年に藍綬褒章を、1964年に勲五等旭日双光章を受章する[3]。
趣味は書画[5]、読書[6]。宗教は仏教[6]。住所は米子市西倉吉町[2][5][8]。
家族・親族[編集]
- 遠藤家
- 親戚
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ a b c d e f 『境港市史 上』86 - 87頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c 『鳥取県大鑑』222 - 223頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月14日閲覧。
- ^ a b c d e f 『米子市四十周年史』9頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『米子経済九十年の歩み』243 - 244頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月14日閲覧。
- ^ a b c d e f g 『鳥取県人名鑑 昭和5年版』117頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第12版 上』エ31頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』鳥取2頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月13日閲覧。
- ^ a b c d 『鳥取県名士百伝』44 - 45頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月13日閲覧。
- ^ 『桜蔭会史』大正五年卒業者863頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月16日閲覧。
参考文献[編集]
- 鳥取新報社編『鳥取県人名鑑 昭和5年版』鳥取新報社、1930年。
- 『鳥取県名士百伝』新鳥取社、1937年。
- 桜蔭会編『桜蔭会史』桜蔭会、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第12版 上』人事興信所、1940年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 『鳥取県大鑑』山陰日日新聞社、1958年。
- 『米子市四十周年史』米子市、1968年。
- 米子商工会議所編『米子経済九十年の歩み』米子商工会議所、1981年。
- 『境港市史 上』境港市、1986年。