関盛吉
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 十兵衛、勝蔵、政盛 |
官位 | 主馬首 |
主君 | 柴田勝豊→蒲生氏郷→秀行→関一政→土井利勝 |
藩 | 伊勢亀山藩→美濃多良藩→伯耆黒坂藩→下総古河藩 |
氏族 | 平姓関氏 |
父母 | 父:関盛信、母:不詳 |
兄弟 | 盛忠、一政、盛吉、一利、氏俊 |
妻 | 森本氏 |
子 | 氏盛、大河内重綱正室 |
関 盛吉(せき もりよし)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。
生涯
[編集]生年は不明だが、伊勢国の国人領主・関盛信の子として生まれたとされる。
織田信長の天下統一事業の進むなか、初めに柴田勝豊(柴田勝家の養子)に1,000石で仕え、天正7年(1579年)には加賀一向一揆と戦った[1]。
豊臣秀吉が信長の事業を引き継ぐと、これに従ってその配下の蒲生氏郷に仕え、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけての九州平定で功を挙げた[1]。
のちに氏郷が会津へ転封された際にも氏郷に従い、猪苗代城の城代となって7,000石を領した[1]。氏郷の死後はその子・秀行に仕えたが、秀行が宇都宮12万石へ減封されると、兄・一政の配下となった[1]。
しかし、一政が元和4年(1618年)に改易されると土井利勝の食客となったという[1]。
系譜
[編集]子の氏盛は一政の養嗣子となって関家を継ぎ、近江蒲生郡に5,000石の領地を得て旗本となった。子孫は中山陣屋に拠った。
また、氏盛の娘は大河内重綱の正室となって大河内信久を産み、血を伝えている(盛吉 - 氏盛 - 娘 - 信久 - 信相 - 久豊 - 豊貫 - 久雄 - 久徴 - 久信 - 久道 - 久成 - )。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。