ノート:中曽根康弘
この記事は過去に削除依頼の審議対象になりました。新しく依頼を提出する場合、以下を参考にしてください。
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著作権侵害_2003年12月
[編集]12:22 2003年12月16日の版は http://www.jimin.jp/jimin/jimin/ayumi/dai11.html を転載しています。--Michey.M 03:26 2003年12月16日 (UTC)
- 削除依頼に出ていた版を外部ページと比べてみました。内政、外交、党内の事情などに渡って中曽根康弘の業績などを記した文章で、長大なので、最後の15段落程度をとって、ウィキペディアの編集ボックス内にペーストした時に各行の最後の文字が一致するかどうかを見ました。(結果、一致しました。)念のため、行の途中の文字列も拾ってみて、投稿されたものと、外部ページからコピー&ペーストして来たもので同じになるかどうか見てみましたが、同じでした。
- これだけの長さのものが偶然一致することもないでしょうし、特定の立場に立てば必ずこういう表現になってしまわざるをえないというような、特定の立場と切り離し難く結びついた表現のようにも思えません。そこで、削除が適当だろうと思いました。
- 既に何人もの方が編集、執筆に携わっている記事なので、問題のある特定の版だけを削除するようにBrionさんに依頼するのがよいかも知れないと思いました。--Tomos 06:35 2003年12月18日 (UTC)
異論などもないようなので、とりあえず特定の版の削除を依頼しておきました。--Tomos 05:00 2004年1月5日 (UTC)
田中角栄のページ同様、特定の版を削除して、投稿できるようにしてもらいたい。--以上の署名のないコメントは、222.149.211.35(会話/Whois)さんが 2004-12-18 08:58:34 (UTC) に投稿したものです。
保護期間中のメモ書き
[編集]--以上の署名のないコメントは、220.107.11.220(会話/Whois)さんが 2005-04-16 14:12:01 (UTC) に投稿したものです。
内容の整理依頼
[編集]どなたか、内容を整理していただきたい。--222.145.103.78 2005年7月9日 (土) 00:11 (UTC)
質問_従一位について
[編集]中曽根氏はいつ従一位に叙位されたのでしょうか。よくネットで従一位としている記述を見受けますが、いつ叙位したのかという記述を見た事がありません。現行制度で生存中でも従一位をもらえるのでしょうか。--代言人 2005年12月31日 (土) 03:36 (UTC)
- いえ、もらえませぬ。叙位は亡くなってからはじめて行われるもので、死去後、一ヶ月以内に手続きがとられるものです。叙勲で受けた大勲位から換算して、なくなられた後の位階が従一位となるであろうという憶測が、中曽根従一位説の要因であろうと思います。確かに、在職期間や実績を考慮すれば、従一位もおかしくありません。ですが、叙位基準は曖昧な部分もあり、発令されなければ、それも根拠のない話です。ただ、中曽根氏は戦前に位階を受けておられます。この位階は帳消しになっていないため、生きております。よって、現在は位階が従六位、勲等は大勲位というのが正確なところだろうと思います。--Suifu 2006年3月5日 (日) 05:20 (UTC)
「名誉法学博士」授与者は
[編集]「名誉法学博士」との事ですが、この学位はどこから受けたものですか? 記述願いたく。--202.208.156.173 2007年3月28日 (水) 08:29 (UTC)
著作権侵害_2007年9月
[編集]「そうした状況の中、中曽根は敢然と発言する」の後ろの中曽根の発言は、中曽根の著書(自省録)等からの無断引用ですよね? --210.232.247.41 2007年9月2日 (日) 11:24 (UTC)
- 海軍のところの脚注で、参考資料として『自省録-歴史法廷の被告として-』をあげてたのですが、うっかりしておりました。210.232.247.41さんの指摘も含め、その他にも参考にした部分がありますので、参考文献の項目に『自省録-歴史法廷の被告として-』を加えさせていただきます --Crimson black 2007年9月2日 (日) 19:23 (UTC)
現職首相の自身の選挙
[編集]回 | 年 | 現職首相 | 選挙区 | 順位 | 対立候補 |
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14 | 1920年 | 原敬 | 岩手1区(1) | 1位 | |
17 | 1930年 | 濱口雄幸 | 高知1区(3) | 2位 | 富田幸次郎 |
18 | 1932年 | 犬養毅 | 岡山2区(5) | 2位 | 小谷節夫 |
23 | 1947年 | 吉田茂 | 高知(5) | 1位 | 林譲治 |
24 | 1949年 | 吉田茂 | 高知(5) | 1位 | 林譲治 |
25 | 1952年 | 吉田茂 | 高知(5) | 1位 | 林譲治 |
26 | 1953年 | 吉田茂 | 高知(5) | 1位 | 林譲治 |
27 | 1955年 | 鳩山一郎 | 東京1区(4) | 1位 | 安藤正純 |
28 | 1958年 | 岸信介 | 山口2区(5) | 1位 | 佐藤栄作 |
29 | 1960年 | 池田勇人 | 広島2区(4) | 1位 | 中川俊思 |
30 | 1963年 | 池田勇人 | 広島2区(4) | 1位 | 谷川和穂 |
31 | 1967年 | 佐藤栄作 | 山口2区(5) | 1位 | 小沢太郎 |
32 | 1969年 | 佐藤栄作 | 山口2区(5) | 1位 | 岸信介 |
33 | 1972年 | 田中角栄 | 新潟3区(5) | 1位 | 小林進 |
34 | 1976年 | 三木武夫 | 徳島(5) | 1位 | 後藤田正晴 |
35 | 1979年 | 大平正芳 | 香川2区(3) | 1位 | 加藤常太郎 |
36 | 1980年 | 不在 | - | ||
37 | 1983年 | 中曽根康弘 | 群馬3区(4) | 2位 | 福田赳夫 |
38 | 1986年 | 中曽根康弘 | 群馬3区(4) | 2位 | 福田赳夫 |
39 | 1990年 | 海部俊樹 | 愛知3区(3) | 1位 | 佐藤観樹 |
40 | 1993年 | 宮沢喜一 | 広島3区(5) | 1位 | 亀井静香 |
41 | 1996年 | 橋本龍太郎 | 岡山4区(1) | 1位 | 加藤六月 |
42 | 2000年 | 森喜朗 | 石川2区(1) | 1位 | 一川保夫 |
43 | 2003年 | 小泉純一郎 | 神奈川11区(1) | 1位 | 沢木優輔 |
44 | 2005年 | 小泉純一郎 | 神奈川11区(1) | 1位 | 斎藤勁 |
45 | 2009年 | 麻生太郎 | 福岡8区(1) | 1位 | 山本剛正 |
- 現職首相で1位にならなかったのは、戦後では中曽根だけ・・・。--経済準学士 2008年10月17日 (金) 09:58 (UTC)
記事名と導入部の漢字表記の不一致
[編集]記事名では「曽」が使われていますが、導入部では「曾」となっています。「曽」も「曾」もJIS X0208にある文字なので、どちらも記事名に使える字です。ご本人が使っていた方に統一できませんか? --アルビレオ 2010年4月30日 (金) 09:17 (UTC)
- 第1次中曽根内閣でも「曽」が使われています。「曾」が使われていた根拠はあるのでしょうか? なお、現時点(2010/5/25)では「曽」が新常用漢字になる見込みですが、どちらも人名漢字です。--アルビレオ 2010年5月22日 (土) 02:09 (UTC)
- 引用や中曽根氏の先祖の人名以外は基本的に「曽」に統一しました。--アルビレオ 2010年5月28日 (金) 21:29 (UTC)
- 一部「曾」になっていましたが、記事名にあわせました。なお、内閣については官邸のWebサイトでも「曽」です。もし「曾」にしたいのであれば、改名提案して合意を取ってください。--アルビレオ 2010年6月10日 (木) 13:48 (UTC)
- 引用や中曽根氏の先祖の人名以外は基本的に「曽」に統一しました。--アルビレオ 2010年5月28日 (金) 21:29 (UTC)
海軍時代の経歴について
[編集]「中曽根はその後も主計科士官として従軍し1944年10月の「捷一号作戦」(いわゆる「レイテ沖海戦」)には戦艦「長門」乗組みの主計士官として参加し、戦闘記録の作成に当たっている。」
と記述がありますが、「JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C13072101800、自昭和19年10月 至昭和19年12月 海軍辞令公報(防衛省防衛研究所)11月(1)」http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C13072101800 の25頁によれば、昭和19年11月1日付で、高雄海軍施設部部員である中曽根康弘海軍主計大尉に対して、横須賀鎮守府附・海軍省兵備局派遣勤務員の辞令が発令されているので、同年10月末のレイテ沖海戦時に長門乗組だった可能性はまずありません。--以上の署名のないコメントは、Kawaviva(会話・投稿記録)さんが 2014年7月8日 (火) 21:18 に投稿したものです(たわわちゃん(会話)による付記)。
2017年6月の編集について
[編集]2017年6月3日(土)08:15(UTC)の版にて、新自由クラブの事や「闇将軍」云々、等が加筆されました。しかし、単純に無出典です。そもそも、中曽根氏の個人に直接係わることなのか、と疑問が湧きます。その後、2017年6月3日(土)12:41(UTC)の版で 変な人ではないさんにより「戻し」とされ、まもなく編集合戦となりました。Santonhanさんへ。この一文は、本当に必要なのでしょうか。だとすれば、まずは出典をお願いいたします。--Ashtray (talk) 2017年6月12日 (月) 11:47 (UTC)
- 出典がつけられなかったため、差し戻しました。--変な人ではない(会話) 2017年7月22日 (土) 13:02 (UTC)
「真実は墓場まで持っていく」発言について
[編集]日航ジャンボ機墜落事故で中曽根が上記のような発言をしたという
噂が以前からささやかれており、このページにも記載されました。(要出典付きでしたが)
後にこの発言は国鉄分割民営化の際のものだとして削除されました。
記事に記載されているAERA(1996年12月30日号)を読みましたが、
確かに中曽根のインタビューはありましたが、「真実は墓場まで持っていく」という発言はありませんでした。
結局この発言は本当にあったものなのでしょうか?
ソースをご存知の方がいたらご教示ください。--2001:268:C0CD:FFB0:C467:333C:51A3:DADA 2019年8月3日 (土) 11:48 (UTC)
- このような記事がありました。「中曽根元首相「真実は墓場まで持っていく」発言は本当にあったのか?」(Yahoo!)。『AERA』(1996年12月30日号)に上記の発言は無かったそうです。私は所持しておりませんのでコメントのみで失礼いたしますが、削除した方が良いかもしれません…。確認できる方がいればお願いします。--Type20(会話) 2019年11月30日 (土) 08:24 (UTC)
湾岸危機での中東交渉について
[編集]1990年にイラクで行われた中東交渉について
- 過去の版では「中東特使」となっています(ただし出典なし)。これについて逝去時のニュースには「政府特使」としているものがあります(101歳大往生・中曽根元首相の“闘魂”猪木氏とイラク人質解放に尽力 exciteニュース(東京スポーツ)2019年11月30日)
- 一方で平成3年版外交青書には「第3に、政府は、自国民の保護をすべてに優先させるべきであり、人質はある意味で国益や国の政策の犠牲になったとする意見や、政府は特使を派遣するなど、人質を救出するための努力を行わなかったという批判がある。」とあります(平成3年版外交青書 外務省)
- 2021年12月に当時の会談記録が公開された際のニュースで
- 毎日新聞では「フセイン氏と旧知だった中曽根氏は招待を受ける形で「私人」の立場で訪問。」とあります(中曽根元首相、イラク人質解放へ老練交渉 外交文書公開 毎日新聞2021年12月22日)
- 時事通信では「日本政府は関与しないとの形で自民党代表団とともにイラク入りした中曽根氏は、」とあります(中曽根氏、「米、カッとなると見境なし」 湾岸危機でフセイン氏に武力回避要請―外交文書 時事通信2021年12月22日)
確認をお願いします。--Ezemh(会話) 2021年12月23日 (木) 07:33 (UTC)