下川口町 (豊田市)
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下川口町 | |
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川口城址 | |
下川口町の位置 | |
北緯35度11分3.9秒 東経137度16分8.0秒 / 北緯35.184417度 東経137.268889度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 愛知県 |
市町村 | 豊田市 |
地区 | 藤岡地区 |
町名制定 | 2005年(平成17年)4月1日 |
面積 | |
• 合計 | 2.551 km2 |
人口 | |
• 合計 | 100人 |
• 密度 | 39人/km2 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
470-0422[2] |
市外局番 | 0565(豊田MA)[3] |
ナンバープレート | 豊田 |
地理
[編集]豊田市の北西部に位置し、藤岡地区(旧西加茂郡藤岡町の町域にほぼ相当する)に属する。 矢作川右岸に位置する。町域南東部は矢作川に接し、併走する愛知県道11号豊田明智線沿いに民家が点在する。同県道は北部において愛知県道33号瀬戸設楽線と重複しているが、集落の中心地である下川口交差点で分岐し、愛知県道33号は加茂橋を渡り対岸の足助地区月原町へと続いていく。矢作川沿いをのぞけば、町域のほとんどが深い山林に覆われており、町域西部では矢作川支流であり大沢池を擁する大沢川が流れ、同川に沿うように林道大沢線が御作町へと通じている。また町域最北部では一部愛知県道33号が通じており、豊田市清掃センター藤岡プラント及び民間工場が立地している。
歴史
[編集]沿革
[編集]- 江戸期- 寛永期の『三河国村々高附』においては「加茂郡下川口村」、天保期の郷帳においても「加茂郡下川口村」という表記が見受けられる[4]。
- 1635年(寛永12年)当時- 挙母藩領であった[5]。
- 1664年(寛文4年)- 幕府領となる[6]。
- 1698年(元禄11年)- 旗本石川総昌の知行地となる[6]。
- 1871年(明治4年)- 大区小区制施行により、第4大区第3小区に所属する[4]。
- 1878年(明治11年)- 郡区町村編制法施行により、加茂郡が西加茂郡と東加茂郡に分割される。これに伴い、下川口村の所属が加茂郡から西加茂郡に変更される[6]。
- 1884年(明治17年)7月- 戸長役場設置に伴い、下川口村、押沢村(おしざわむら)、上川口村(かみかわぐちむら)、富田村(とみだむら)、西枝下村(にししだれむら)、西広瀬村(にしひろせむら)、藤沢村(ふじさわむら)、松嶺村(まつみねむら)、御作村(みつくりむら)の9村が同組に組み込まれる[7]。
- 1889年(明治22年)10月1日- 市制・町村制施行に伴い、下川口村、押沢村、上川口村、富田村、西枝下村、西広瀬村、藤沢村、松嶺村、御作村の9村が合併して西加茂郡富貴下村(ふきしもむら)が誕生し[8]、下川口村は富貴下村大字下川口に継承される[6]。
- 1906年(明治39年)4月1日- 富貴下村の内3大字、高岡村、藤河村が合併して藤岡村が誕生し[9]、富貴下村大字下川口は藤岡村大字下川口に継承される[6]。
- 1978年(昭和53年)4月1日- 藤岡村の町制施行に伴い[9]、住所表示が藤岡町大字下川口に変更される[6]。
- 2005年(平成17年)4月1日- 藤岡町の豊田市への編入に伴い、住所表示が豊田市下川口町に変更される。
世帯数と人口
[編集]2019年(令和元年)7月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
下川口町 | 35世帯 | 100人 |
人口の変遷
[編集]国勢調査による人口の推移
2005年(平成17年) | 123人 | [10] | |
2010年(平成22年) | 112人 | [11] | |
2015年(平成27年) | 115人 | [12] |
学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[13]。
番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|
全域 | 豊田市立御作小学校 | 豊田市立藤岡中学校 |
寺社
[編集]- 栄行寺(えいぎょうじ) -真宗大谷派の寺院。山号は黒焼山。慶長期に市場城城主鱸(すずき)越中守重愛により天台宗寺院として開山したという。1666年(寛文6年)、浄土真宗に改宗。江戸後期から明治にかけては寺子屋を開いていた[6]。
- 天神社 - 1582年(天正10年)の創建といわれる[6]。境内にあるイチョウは創建当時から存在するとされ、現在は豊田市指定天然記念物。
文化財
[編集]指定文化財
[編集]天然記念物
[編集]- 下川口のイチョウ[14]
その他の文化財
[編集]集落跡
[編集]城館跡
[編集]- 川口城跡 - 中世の城跡[15]。大沢川下流域近く、矢作川に張り出した城ケ峰と呼ばれる丘陵にある。本丸跡が残り、西側山麓には居城跡と考えられる水田がある[5]。室町時代の城主は水野丈兼正春次といわれ、1575年(天正3年)には武田勝頼軍の急襲により落城したという。
その他
[編集]日本郵便
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c “豊田市の人口 2019年7月1日現在人口 詳細データ - 町別面積・人口・世帯数”. 豊田市 (2019年7月11日). 2019年7月15日閲覧。
- ^ a b “下川口町の郵便番号”. 日本郵便. 2019年7月15日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ a b 『日本歴史地名体系』23:1165ページ
- ^ a b 『日本歴史地名体系』23:848ページ
- ^ a b c d e f g h 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:657ページ
- ^ 『豊田加茂の地名』:8ページ
- ^ 『角川日本地名大辞典 23 愛知県』:1159ページ
- ^ a b 『豊田加茂7市町村の合併の記録』:20ページ
- ^ “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年3月23日閲覧。
- ^ “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年3月23日閲覧。
- ^ “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年3月23日閲覧。
- ^ “2019年度豊田市立小中学校区一覧表” (PDF). 豊田市 (2019年6月26日). 2019年7月15日閲覧。
- ^ 指定・登録文化財一覧(豊田市ウェブサイト、2012年1月23日閲覧)
- ^ a b 埋蔵文化財一覧(豊田市ウェブサイト、2012年1月23日閲覧)
- ^ “郵便番号簿 2018年度版” (PDF). 日本郵便. 2019年6月10日閲覧。
参考文献
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年3月8日。ISBN 4-04-001230-5。
- 有限会社平凡社地方資料センター 編『日本歴史地名体系第23巻 愛知県の地名』平凡社、1981年。ISBN 4-582-49023-9。
- 『豊田加茂7市町村の合併の記録』、豊田市、2005年。
- 深津重貞 「豊田加茂の地名」、1991年。