丸岡莞爾
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丸岡 莞爾(まるおか かんじ、1836年7月11日(天保7年5月28日) - 1898年(明治31年)3月6日)は、幕末の土佐藩士、明治期の官僚、歌人。官選県知事。位階は正四位。旧姓は吉村。字は山公。通称は三太。諱は長俊。号は建山、掬月、蒼雨など。
経歴
[編集]土佐藩士・吉村三助長秋と磯子(村山氏)の長男として生まれる。祖父は吉村内作信俊といった。後に丸岡家を継ぐ[1]。鹿持雅澄から国学を学んだ。坂本龍馬とも交際した。
明治3年4月(1870年5月)、土佐藩大従事となり、さらに権大属を務める。明治4年3月(1871年4-5月)、大阪府に転じ権大属に就任し、大属、権典事を歴任。
明治4年11月4日(1871年12月15日)、左院に転じ、中議生となり、大議生、四等議官を歴任。1874年9月、海軍省五等出仕に就任した。
1875年、式部権助に就任。以後、兼一等掌典、式部助、式部権頭を歴任。1883年、内務省に転じ内務大書記官となる。以後、兼造神宮奉行、内務省社寺局長、兼造神宮支庁副使などを歴任した。
1888年9月、沖縄県知事に就任。皇民化教育を推進。1892年7月、高知県知事へ転任。同年11月に同知事を退任した。
年譜
[編集]- 1870年(明治3年4月)5月 - 土佐藩大従事
- 1871年(明治4年3月)4-5月 - 大阪府権大属
- 1871年(明治4年11月4日)12月15日 - 左院中議生
- 1872年(明治5年)- 左院四等議官[1]・兼教部省六等出仕[要出典]
- 1874年(明治7年)9月 - 海軍省五等出仕[2]、さらに海軍省権大書記官を務めた[要出典]。
- 1876年(明治9年)5月 - 式部寮に転属。式部助[3][注釈 1]。
- 1877年11月頃 - 権助(ごんのすけ)に降格[4]。
- 1878年(明治11年)1月 - 権助兼一等掌典職[5][注釈 1]
- 1880年(明治13年)6月 - 天皇の甲州方面への行幸に随行[6][注釈 2]。
- 7月21日 - 楠木正成に対する贈正一位の勅使となる。時に、式部助兼一等掌典従五位。(湊川神社史)
- 1881年(明治14年)- 3月に来日するハワイ王カラカウアの接待役にくわわる[7][8][注釈 3][注釈 4]。
- 9月16日 - 上司である式部頭(かみ)坊城俊政が死没。その後、その職位は欠員。
- 1882年(明治15年)4月か5月 - 権頭に昇任[9][注釈 5]。
- 9月 - 鍋島直大が式部頭に就任し、上司となる。
- 1883年(明治16年)- 内務大書記官[1]
- 1884年(明治17年)- 兼造神宮奉行[1]
- 1887年(明治20年)- 内務省社寺局長兼造神宮支庁副使[1]
- 1888年(明治21年)9月 - 沖縄県知事
- 1892年(明治25年)7月 - 高知県知事
- 11月 - 高知県知事退任
- 1898年(明治31年)3月6日 - 卒去。享年63。墓所は青山霊園。
栄典・授章・授賞
[編集]- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]- 妻 喜久は同藩士の下田度義の長女。大正7年3月20日没。享年71。
- 長男の丸岡桂は歌人・能楽書林創業者、孫の丸岡明は作家。
- 妹 吉村まき(吉村は莞爾の旧姓)は、武市半平太の甥、島村衛吉に嫁いだ。
- 妹 西山千賀 その息子西山麓という人物についても含めて、一族のことは安岡章太郎『鏡川』に書かれているが、作家の安岡も一族とは縁戚である[13]。
著作
[編集]- 歌集『蒼雨余滴』。丸岡桂『長恨 丸岡桂全集』(観世流改訂本刊行會、1921年)に所収。
参考文献
[編集]- 安岡, 章太郎『鏡川』新潮社、2000年、41頁。ISBN 4-103-21910-6 。 ISBN 978-4-103-21910-1
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 歴代知事編纂会『日本の歴代知事』 3巻、1号、東京堂出版、1982年、396・525頁頁。ASIN B000J7L0TO 。
- 『新編日本の歴代知事』、1991年。
- 太政官「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書 転免病死ノ部 丸岡莞爾」明治3年。国立公文書館 請求番号:本館-2A-031-09・職00148100 件名番号:077
補注
[編集]- ^ a b 『日本の歴代知事』(1982年)、525頁では「八年頃式部権助兼一等掌典に任じ、九年頃式部助に、十二年頃式部権頭に進み」とはあるが、すべて「頃」という表現をつけたところから、年代や歴任した順序を推論して間違えたようである(例えば「一等掌典」は「大掌典」から1878年(明治11年1月)に切り替わったのであるから「八年頃」はありえない)。官員録に照らすと、『官員録 明治8年11月改』(1875年)では、「海軍省」(47頁)の籍より抹消されているが、「式部寮」(85頁)にも名がみえない。その後しばらく官員録に名が見えないが、『官員録. 明治9年5月』(1876年)に「式部寮の助」として登場する。
- ^ 山岡鉄太郎(宮内大書記官)、西村捨三(内務少書記官)が先発組で公布に行き、行幸は三条実美らを含めて6月16日に東京を発し、19日に到着。甲府市 編『甲府略志』西村組出版局、第四章 行幸啓/明治天皇御巡幸、1918年、199-頁。NDLJP:1907734 。には、その旨が述べられ、四等掌典小西有勲の名はあるが、丸岡の名は見えない。
- ^ ハワイ王を国賓に迎える接伴掛は、山下草園(1942年)によれば2月26日付で、東伏見宮二品嘉彰親王、蜂須賀茂韶以下、式部助の莞爾も含めて10名が任命された。(荒俣訳注『仰天旅行記』150頁注は、莞爾の名前を挙げてないが、10名のうち蜂須賀、長崎省吾(四等掌典)、通詞をつとめた外務権大書記官石橋政方を挙げる。)
- ^ 『鏡川』(61頁)がいう2月は、まだカラカウア王が来日していないが、それに備えて2月27日のうちに接待準備班が横浜へ出張し、蜂須賀茂韶はじめ、莞爾もこれにくわわっている。(「外国貴賓ノ来朝関係雑件」、荒俣、281頁)
- ^ 『日本の歴代知事』(1982年)、525頁によれば明治12年頃式部権頭と推定しているが、ここでは官員録にもとづいた明治15年。国立図書館蔵書本では15年4月に欠ページがあり未確認。
出典
[編集]- ^ a b c d e 『日本の歴代知事』(1982年)、525頁
- ^ 『日本の歴代知事』(1982年)、525頁では「七年頃海軍省五等出仕」とあるが月までは指定されない。『掌中官員録. 明治8年』(1875年)NDLJP:993586、59頁、の時点では「海軍省五等出仕」は確認できる。
- ^ 式部寮の助:西, 隼太郎『官員録. 明治9年5月』西村組出版局、1877年、5-頁。NDLJP:779242 。
- ^ 式部寮 権助:日暮, 忠誠 (Higure, Chūsei) 編『官員録. 明治10年11月』拡隆舎、1877-1878、144頁 。 (NDLJP:779256)
- ^ 権助/兼/一等掌典:日暮, 忠誠 (Higure, Chūsei) 編『官員録. 明治11年1月』拡隆舎、1877-1878、146頁 。 (NDLJP:779258)
- ^ 安岡章太郎『鏡川』(2000年)、61頁「まづ明治十三年には天皇の甲州方面への巡幸があり、莞爾はそれに供奉してゐる。翌明治十四年(莞爾四十六歳)二月、ハワイ皇帝の来航に際し、その接待役をつとめる。」
- ^ 「外国貴賓ノ来朝関係雑件」。荒俣 編『カラカウア王のニッポン仰天旅行記』樋口あやこ、小学館、1995年。ISBN 4-093-87116-7。の巻末資料p.281-に関連部分を抜粋掲載。
- ^ 山下, 草園『日本人のハワイ』世界堂、1942年、5-頁。NDLJP:1459442 。
- ^ 権頭:彦根, 正三 (Hikone, Shōzō), ed (1880-1884). 改正官員録. 明治15年5月. 博公書院. p. 215 (NDLJP:779309)
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第2992号「叙任及辞令」1893年6月21日。
- ^ 『官報』第376号「賞勲叙任」1884年9月27日。
- ^ 安岡章太郎『鏡川』(2000年)、41頁「丸岡莞爾には、千賀の下にもう一人の妹がゐて、まきといふ。そのまきは武市半平太の甥、島村衛吉に嫁した。」