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華族会館の内装

華族(かぞく)は、1869年明治2年)から1947年昭和22年)まで存在した近代日本貴族階級である。江戸時代公家諸侯を統合する形で誕生し、その後、1884年(明治17年)に華族令が制定され、華族の当主が公爵侯爵伯爵子爵男爵の5階級の爵位を受けた。当初は旧公家・諸侯が中心であったが、明治維新の功臣や臣籍降下した皇族、日清戦争・日露戦争で戦功のあった軍人、その他功績を残した者なども叙爵され、約1,000家が華族となった。

公家に由来する華族を公家華族江戸時代藩主に由来する華族を大名華族(諸侯華族)、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族皇親華族、と区別することがある。

名称[編集]

華族という名称が採用された経緯ははっきりとしない。華族制度の策定にあたった伊藤博文は「公卿」、広沢真臣・大久保利通・副島種臣は「貴族」、岩倉具視は「勲家」「名族」「公族」「卿家」などの案を持っていた。討議の結果「貴族」と「名族」が候補に残ったが、決定したのは「華族」だった[1]。なお華族とは、もともと摂家に次ぐ第2位の家格である清華家の別称であり、「花族」と記されたり「かしょく」とも読まれていた[2]

爵位制度創設前[編集]

華族の誕生[編集]

1869年7月25日明治2年6月17日)、行政官達543号「公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム」により、従来の公卿・諸侯の名称を廃し、これらの家を華族としてまとめることが定められた[3]。公家137家・諸侯270家[注 1]が「華族」となったが、この中には「新公卿・諸侯」、すなわち大政奉還後に公卿となった5家[注 2]、同じく諸侯となった16家[注 3]が含まれていた。華族令制定まで華族に等級はなかったが、本人一代限りの華族である終身華族と、子孫も華族となる永世華族に分かれていた[7]

その後も、公卿・諸侯に準じながら事情により遅れた家や本人の勲功などにより華族となる家が続いた。その他、奈良興福寺門跡院家だった公家の子弟が還俗して建てた26家(奈良華族[8]伊勢神宮出雲大社など由緒ある神社の神主14家(神職華族)[注 4]浄土真宗関係の6家(僧侶華族)が華族となった[9]。また、大久保利通の功により大久保家が、木戸孝允の功により木戸家が[注 5]広沢真臣の功により広沢家が[注 6]、それぞれ明治天皇の特旨によって華族になったが、華族令以前に華族に列した元勲の家系はこの3家のみである[10][注 7]。さらに南北朝時代南朝方の忠臣だった新田義貞菊池武光名和長年の功により新田家[注 8]菊池家[注 9]名和家[注 10](忠臣華族)も天皇の特旨により1883年(明治16年)に華族となっている[11]

華族制度の整備[編集]

11月20日、旧諸侯の華族は原則東京に住居することが定められた。ただし地方官や外交官として赴任するものはこの限りでなかった。また同月には旧公家の華族の禄制が定められ、また華族はすべて地方官の貫属とする旨が布告された。

1871年(明治4年)には皇族華族取扱規則が定められ、華族は四民の上に立ってその模範となることが求められた。また諸侯華族は2月20日にすべて東京府の貫属となった。7月14日には廃藩置県が行われ、知藩事としての地位も失った。

1874年(明治7年)には華族の団結と交友のため華族会館が創立された。1877年(明治10年)には華族の子弟教育のために学習院が開校された。同年華族銀行とよばれた第十五国立銀行も設立された。これら華族制度の整備を主導したのは自らも公家華族である右大臣岩倉具視だった。

1876年(明治9年)全華族の融和と団結を目的とした宗族制度が発足し、華族は武家と公家の区別無く系図上の血縁ごとに76の「類」として分類された。同じ類の華族は宗族会を作り、先祖の祭祀などで交流を持つようになった。1878年(明治11年)にはこれをまとめた『華族類別録』が刊行されている。

1878年1月10日、岩倉は華族会館の組織として華族部長局を置き、華族の統制に当たらせた。しかし公家である岩倉の主導による統制に武家華族が不満を持ち、部長局の廃止を求めた。1882年(明治15年)、華族部長局は廃され、華族の統制は宮内省直轄の組織である華族局が取り扱うこととなった。

岩倉は政治的には伊藤と協力関係にあったが、伊藤や木戸が構想した将来の議会上院形成のために華族を増員すること、具体的には維新の功労者を華族に加えることには強い拒否反応を示した。岩倉はそもそも華族が政治に参加することに反対だった。しかし1881年(明治14年)に国会開設の詔が出されると、岩倉もようやく伊藤の方針に同意した。岩倉の死後は、伊藤を中心に設置された制度取調局で華族制度の整備が進められた。

爵位制度[編集]

爵位制度の検討[編集]

華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。1869年5月の版籍奉還決議の上奏には、華族を「公」「卿」「太夫」「士」の4つに分け、公と卿は上下の2段階、太夫と士は上中下の3段階という計9等級に分ける案が盛り込まれていた。その後、1871年(明治4年)9月に正院左院へ下問した案では「上公」「公」「亜公」「上卿」「卿」の5等級に分かれており、これを受けた左院は10月に、「公」「卿」「士」の3等級に分ける案を提出した。1876年(明治9年)には法制局が「公」「伯」「士」の3等級案を提出し、西南戦争以前は3等級案が主流となっていた[12]

1878年(明治11年)2月4日、法制局大書記官尾崎三良と少書記官桜井能堅から伊藤博文に対し、「公」「侯」「伯」「子」「男」の5等級案が提出された。これは五経の一つである『礼記』の王制篇に「王者之制禄爵 公侯伯子男 凡五等」とあるのにならったものである[13]

なお、公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵の英語表記は、それぞれイギリスprince[注 11]marquessearlviscountbaronに相当するものとされた。

爵位制度の発足[編集]

1884年(明治17年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された[注 12]

爵位の基準は、1884年5月7日に賞勲局総裁柳原前光から太政大臣三条実美に提出された「爵制備考」として提出されたものが元になっており、実際の叙爵もおおむねこの基準に沿って行われている。公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元対馬藩宗家以外は江戸時代の家格(国主伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」のみが選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。

また華族令発布と同時期に、それまで華族ではなかった伊藤博文らが勲功により受爵した。これら華族令以降に華族となった家は、以前から華族であった家(旧華族)に対して、「新華族」と呼ばれた[7]

叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。なお華族令により、従前あった終身華族はすべて永世華族となった[7]

爵位制度の概要[編集]

爵位は華族となった家の戸主、しかも男性のみが襲位した。土地の所有権を示すヨーロッパの爵位や中国の爵位と異なり、この爵位は家に対して与えられるものであり、複数の爵を一人の個人が所有することや、華族で別の爵位を名乗るような事態は存在しなかった。陞爵(爵位の昇進)によって爵位が変化した家もあるが、爵位の格下げは一例も無い[注 13]

爵位の上下により、叙位や宮中席次などでは差別待遇が設けられた。たとえば功績を加算しない場合公爵は64歳で従一位になるが、男爵が従一位になるのは96歳である。公爵は宮中席次第16位であるが、男爵は第36位である。また、公爵・侯爵は貴族院議員に無条件で就任できたが、伯爵以下は同じ爵位を持つ者の互選で選出された。

叙爵基準と最初の叙爵[編集]

爵位 叙爵基準
特記事項
公爵 親王諸王より臣位に列せらるる者[注 14]、旧摂家、徳川宗家、国家に偉功ある者。
「国家に偉功ある者」として公家では三条家三条実美の功)、岩倉家岩倉具視の功)、武家では島津家宗家薩摩藩島津忠義の功)、玉里島津家(薩摩国父島津久光の功)、毛利家長州藩毛利敬親の功)が公爵となった。
侯爵 旧清華家、徳川旧三家、旧大藩知事(=現米15万石以上)、旧琉球藩王、国家に勲功ある者。
「国家に勲功ある者」として、木戸家木戸孝允の功)、大久保家大久保利通の功)が侯爵となった。また公家の中山家中山忠能の「勲功により特に」侯爵が授けられたが、中山忠能が明治天皇外祖父だったことが考慮されたものとみられている[14]
伯爵 大納言まで宣任の例多き旧堂上[注 15]、徳川旧三卿、旧中藩知事(=現米5万石以上)、国家に勲功ある者。
公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった[16]。また武家の対馬藩は数千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった[17]平戸藩松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であり、明治天皇外戚に当たることが考慮されたものとみられる[18]

その他、西本願寺東本願寺門主の両大谷家、「国家に勲功ある者」として、伊藤博文黒田清隆井上馨西郷従道山県有朋大山巌などが伯爵となった。

子爵 一新前家を起したる旧堂上、旧小藩知事(=現米5万石未満および一新前旧諸侯たりし者)、国家に勲功ある者。
男爵 一新後華族に列せられたる者、国家に勲功ある者。
先に華族となった神職家14家、浄土真宗系の世襲門跡家4家[注 16]も男爵となった。

地下家で最も家格が高い局務家の押小路家と官務家の壬生家の2家は、堂上家に準じて男爵を与えられた。他の地下家はすべて士族として扱われた。

琉球王家の尚氏の分家だった伊江家今帰仁家の2家も男爵となった。


  • 子爵
    • 公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家武家からは維新前に諸侯だった大名家が子爵相当となった。
    • 分家した家は、本家が高い爵位を持っている場合は特例として子爵に叙せられた。近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家)、松平慶民家(侯爵福井松平家の分家)の3家。
  • 男爵
    • 明治維新後に華族となった家(附家老家、奈良華族など)が男爵相当となった。

叙爵・陛爵運動[編集]

華族の分家は平民になると定められていたが、子息が平民になることを避けたい華族が叙爵運動を行った。

危篤華族

陛爵運動の例[編集]

越前松平家である。同家は

有爵者数の推移[編集]

臣籍降下や華族の分家への叙爵、日清戦争日露戦争の戦功による軍人への叙爵(主に男爵)などにより、華族は増加した。総計1,011家が華族となったが、爵位返上や のため

公爵 侯爵 伯爵 子爵 男爵 合計
1884年(明治17年) 11 24 76 324 74 509
1895年(明治28年) 11 34 85 361 152 643
1902年(明治35年) 12 35 90 362 290 789
1907年(明治40年) 15 36 100 376 376 903
1916年(大正5年) 17 37 100 380 398 933
1926年(昭和元年) 19 39 105 381 408 952
1935年(昭和10年) 19 40 108 376 407 950
1945年(昭和20年) 19 40 110 361 394 924
1947年(昭和22年) 17 38 105 351 378 889

華族の身分[編集]

狭義と広義


爵位を有するのは家督を有する男子であり、女子が家督を継いだ場合は叙爵されなかったが、華族としては認められ、後に家督を継ぐ男子を立てた場合に襲爵が許された[注 17] 。しかし女戸主は明治40年の華族令改正で廃止され、男当主の存在が必須となった。また男系相続が原則であると規定されている[21]。また有爵者は原則として隠居を禁じられていたが、1907年(明治40年)の改正により民法と同様の隠居が可能になった[22]

華族令では華族とされる者は有爵者のみであるとしていたが、皇室典範にある皇族は、皇族および華族のみと結婚できるという規定と矛盾するという指摘があった[23]。このため貴族院では華族の範囲を有爵者の家族にまで広げるという議決が行われたが、帝室制度調査局による修正により、結局有爵者のみが華族であり、その家族は有爵者の余録によって「族称としての華族」を名乗るという扱いとなった[24]。また1907年(明治40年)の華族令改正より、なお、華族とされる者は家督を有する者及び同じ戸籍にある者を指し、たとえ華族の家庭に生まれても平民との婚姻等により分籍した者は、平民の扱いを受けた。また、当主の庶子も華族となったが、はたとえ当主の母親であっても華族とはならなかった[注 18]。養子を取ることも認められていたが、男系6親等以内が原則であり、華族の身分を持つことが条件とされていた。

華族の特権[編集]

宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている[25]

  1. 爵の世襲(華族令第9条)
  2. 家範[注 19]の制定(華族令第8条)
  3. 叙位[注 20]叙位条例華族叙位内則
  4. 爵服の着用許可(宮内省
  5. 世襲財産の設定(華族世襲財産法
  6. 貴族院の構成(大日本帝国憲法貴族院令
  7. 特権審議(貴族院令第8条)
  8. 貴族院令改正の審議(貴族院令第13条)
  9. 皇族王公族との通婚(旧皇室典範皇室親族令
  10. 皇族服喪の対象(皇室服喪令
  11. 学習院への入学(華族就学規則
  12. 宮中席次の保有(宮中席次令皇室儀制令
  13. 堂上華族保護資金(旧堂上華族保護資金令

家計[編集]

武家華族と公家華族の格差 爵位返上


1886年に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、1915年(大正5年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。

教育[編集]

学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の定員は帝国大学のそれと大差なかったため、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。

貴族院議員[編集]

華族は貴族院議員となる資格を有した。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。

また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。

なお衆議院議員選挙法により、華族の当主は衆議院議員の選挙権・被選挙権がなかったが、男爵だった高橋是清のように隠居して爵位を子息に譲った上で衆議院に立候補した例がある。

皇族・王公族との関係[編集]

同年定められた旧皇室典範皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者[注 21]に限定された。

また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。

華族の統制[編集]

華族は宮内大臣宮内省宗秩寮の監督下に置かれ、皇室の藩屏としての品位を保持することが求められた。また華族子弟には相応の教育を受けさせることが定められた。

自身や一族の私生活に不祥事があれば、宗秩寮審議会にかけられ、場合によっては爵位剥奪・除族・華族礼遇停止といった厳しい処分を受けた。

華族制度への批判[編集]

華族制度は成立当初、一君万民の概念に背き、天皇臣民の間を隔てる存在であり、華族は無為徒食の徒であるとして華族制度の存在に反対するものもいた。島地黙雷小野梓が華士族の特権反対を主張したほか、朝野新聞の投稿欄では華族批判について激しい論戦が繰り広げられた。また、朝野新聞は1880年明治13年)と翌年に華族批判の論説を掲載している[26]。政府内でも井上毅は当初爵位制度に反対していたが、自由民権運動の勢力拡大に対抗し、華族を政府の支持基盤とするため主張を変更している[27]

また板垣退助も華族制度は四民平等に反するという主張を持っており、1887年(明治20年)に伯爵に叙された際も2度にわたって辞退した。しかし天皇の意志に背くことは出来ずに爵位を受けたが、この時には華族制度を疑問視する意見書を提出している。また、1907年(明治40年)には全華族に対して華族の世襲を禁止するという意見書を配り、谷干城と激しい論争になった。死の直後には「華族一代論」を出版し、遺言により孫・守正の襲爵を認めなかったため、板垣伯爵家は廃絶した[28]

部落解放運動家の松本治一郎広田内閣の時に衆議院議員として「不当にたてまつられる華族の存在こそは部落民が不当にさげすまれる原因であり華族制度を廃止すべきと思うがどうか」と質問している。

華族の実際[編集]

財政[編集]

華族は皇室の藩屏として期待されたが、奈良華族をはじめとする中級以下の旧公家などには、経済基盤が貧弱だったため生活に困窮する者があらわれた。華族としての体面を保つために、多大な出費を要したためである。政府は何度も華族財政を救済する施策をとったが、華族の身分を返上する家が跡を絶たなかった。

一方、大名華族は一般に裕福であり、旧家臣との人脈も財産を守る上で役立った。それでも明治末期以降は相伝の家宝が「売り立て」(入札)の形で売却されることも多くなり、大名華族の財政も次第に悪化しつつあった。

華族銀行として機能していた十五銀行金融恐慌の最中、昭和2年(1927年)4月21日に破綻した際には、多くの華族が財産を失い、途方に暮れた。

スキャンダル[編集]

華族女性の生活様式は当時の女性の模範とされ、『婦人画報』などの女性雑誌は華族子女や夫人のグラビア写真を掲載した[29]。一方で華族の私生活も一般の興味の対象となり、数々の華族の醜聞が新聞や雑誌を賑わせた。著名な事件として以下が挙げられる。

進路[編集]

制度発足当初は貴族院議員として、また軍人・官僚として、率先して国家に貢献することも期待された。

貴族院議員として政治に参画しようとする場合、公侯爵と伯爵以下とでは、条件やインセンティブに大きな違いがあった。公侯爵議員の場合、無条件で終身議員になれる上、その名誉で議長・副議長ポストにも優先的に就任できた。ただ無報酬のため、中には醍醐忠順のように腰弁当徒歩で登院したり、嵯峨公勝のように登院に不熱心な議員も存在した[30]。伯子男爵の場合、7年ごとに互選があったが、衆議院議員と同額の報酬もあり、家計の助けとなった。中には水野直のように、各家の生活上の面倒を請け負いながら、選挙の調整を図る人物も登場した[31]

陸軍士官学校には明治10年代、華族子弟のための特別な予科が設けられた。しかし希望者が少ない上、虚弱体質などで適性割合が低く、じきに廃止された。有名な華族軍人としては、陸軍では前田利為町尻量基、海軍では醍醐忠重小笠原長生らがいる。

進路として最も適性があったと思われる国家機関は、宮内省である。特に旧堂上華族は、皇室(朝廷)との縁や、代々伝わる技芸を活かせた。歴代天皇も彼らとの縁を重んじ、逆に離れていくことを拒んだ。他官庁の高級官僚になった例としては木戸幸一(商工省)や岡部長景(外務省)、広幡忠隆(逓信省)らがいるが、立身出世主義の風潮が強い官界では、もともと恵まれた生活環境にある華族官僚への目は冷やかだったという。実際に3人とも、ある程度のキャリアを経て、宮内省へ転じている。

学問の道に進む華族も多かった。高等教育が約束されていた上、その後も学究を続けるだけの安定した経済的基盤に恵まれていたためで、独自に研究所を開く者も少なくなかった。徳川林政史研究所を開いた徳川義親(植物学)、「蜂須賀線」で知られる蜂須賀正氏(鳥類学)、D・H・ローレンスを研究した岩倉具栄(英文学)らが代表例である。大山柏は父・の遺命で陸軍に入ったが、その気風になじめず考古学者に転身した。

珍しい進路に進んだ例としては、演劇の土方与志(本名・久敬、伯爵)があげられる。土方はソ連での反体制的言動により、爵位剥奪となった。

革新華族[編集]

昭和に入ると、華族の中にも社会改造に興味を持ち、活溌な政治活動を行う華族が増加した。こうした華族は革新華族あるいは新進華族と呼ばれ、戦前昭和の政界における一潮流となった。近衛文麿有馬頼寧・木戸幸一・原田熊雄樺山愛輔徳川義親などが知られる。

華族制度の廃止[編集]

第二次世界大戦後、GHQは華族制度の早急な廃止を考えておらず、当初の憲法草案では「この憲法施行の際現に華族その他の地位にある者については、その地位は、その生存中に限り、これを認める。但し、将来華族その他の貴族たることにより、いかなる政治的権力も有しない。」(第97条)と、存命の華族一代の間はその栄爵を認めることとしていた[32]。昭和天皇は旧堂上華族だけでも存続させたい意向で[33]、自ら男爵でもあった幣原喜重郎もこの条項に強いこだわりを見せた。しかし、衆議院で即時廃止に修正して可決、貴族院も衆議院で可決された原案通りでこれを可決した。

そして1947年(昭和22年)4月には旧堂上華族保護賜金の原資が旧公卿華族に分け与えられ、同年5月3日、日本国憲法の施行により、華族制度は廃止された。

1945年(昭和20年)終戦時に華族は924家あり[34]小田部雄次の推計によると、創設から廃止までの間に存在した華族の総数は、1011家であった。廃止後、華族会館は霞会館(総務省所管の特例社団法人)と名称を変更しつつも存続し、現在も旧華族の親睦の中心となっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 諸侯のうち広島新田藩浅野家は廃藩後に華族となることを辞退した。
  2. ^ 松崎家松崎万長家)・玉松家玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家北小路俊昌家)・若王子家聖護院院家若王子住職家)。なお松崎家、北小路家は財政貧窮から後に爵位返上[4]
  3. ^ 徳川宗家、徳川御三卿のうち2家(一橋徳川家田安徳川家)、徳川御三家附家老5家(成瀬家竹腰家尾張徳川家)、安藤家水野家紀伊徳川家)、中山家水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩吉川家、石高見直しを認められ所領1万石以上となった交代寄合6家(山名家池田家山崎家平野家本堂家生駒家)、同じく所領1万石以上となった高家だった大沢家。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され士族に編入、当主および重臣が禁固刑となった[5] 。なお、徳川御三卿の清水徳川家は当主不在であり、翌年華族に列せられた[6]
  4. ^ 北島家千家家出雲大社)、到津家宮成家宇佐神宮)、河辺家松木家伊勢神宮)、津守家住吉大社)、阿蘇家阿蘇神社)、紀家日前神宮・國懸神宮)、高千穂家英彦山神社)、小野家日御碕神社)、金子家物部神社)、西高辻家太宰府天満宮
  5. ^ 大久保家と木戸家は明治11年(1878年)5月23日に華族に列した。いずれも後に侯爵。
  6. ^ 広沢家は明治12年(1879年)12月27日に華族に列した。後に伯爵。
  7. ^ 後に西郷隆盛の功により西郷家も華族(侯爵)になっているが、西南戦争の影響で大幅に遅れた。
  8. ^ 明治維新まで岩松氏を名乗り交代寄合であった[11]
  9. ^ 明治維新まで米良氏を名乗り交代寄合であった[11]
  10. ^ 子孫が柳河藩に仕えていた[11]
  11. ^ イギリスにおけるprinceは王族に与えられる爵位であるため、近衛文麿公爵が英米の文献において皇族と勘違いされる例もあった。イギリスの爵位で公爵と日本語訳されるのは、通常はdukeである。
  12. ^ ただし、全ての華族が同時に叙爵されたわけではなく、戸主が女性であった家や終身華族・門跡華族・戸主が実刑を受けていた芝亭家などは叙爵が遅れた。
  13. ^ 清水徳川家は徳川篤守が伯爵となったが家計破綻のため爵位を返上、後に子の徳川好敏が当人の功績により男爵を受爵している
  14. ^ 実際には臣籍降下で公爵となった者はいない。
  15. ^ 中納言を一旦辞すことなく直に大納言に任じられることを「直任」といい、一旦中納言を辞した後に改めて大納言に任じられることよりも格上とみなされた。「宣任の例が多い」とは、この直任の例が過去に1度でもあることを指した[15]
  16. ^ 渋谷家佛光寺)、華園家興正寺)、常磐井家専修寺)、木辺家錦織寺)。ただしいずれの門跡も当時は皇族や摂家から養子に入った者であった。
  17. ^ 例として、旧姫路藩主酒井家は華族令発布時には酒井文子が当主であったため叙爵されず、1887年(明治20年)に酒井忠興が8歳で家督を継いだ後に伯爵となった[19][20]
  18. ^ 皇族も同様で、大正天皇の実母である柳原愛子は皇族ではない。
  19. ^ 華族の一族内に限って通用する法規
  20. ^ 有爵者、もしくは有爵者の嫡子が20歳になると従五位に叙せられる。
  21. ^ ただし実際にはほとんどが「有爵者(当主)の子女」だった。大正天皇第二皇子の雍仁親王(秩父宮)松平恒雄長女の節子(勢津子妃)と結婚した際には、恒雄が無爵だったことが大きな話題となった(会津松平家の当主は恒雄の兄の松平容大子爵)。

出典[編集]

  1. ^ 小田部雄次 2006, p. 15.
  2. ^ 浅見雅男 2015, p. 14.
  3. ^ 小田部雄次 2006, p. 13.
  4. ^ 浅見雅男 2015, pp. 29–33.
  5. ^ 浅見雅男 2015, pp. 39–45.
  6. ^ 浅見雅男 2015, p. 46-48.
  7. ^ a b c 小田部雄次 2006, p. 39.
  8. ^ 浅見雅男 2015, p. 62-66.
  9. ^ 浅見雅男 2015, p. 66-67.
  10. ^ 浅見雅男 2015, p. 69-71.
  11. ^ a b c d 浅見雅男 2015, pp. 67–68.
  12. ^ 小田部雄次 2006, p. 20.
  13. ^ 小田部雄次 2006, p. 21.
  14. ^ 浅見雅男 2015, pp. 109–121.
  15. ^ 浅見雅男 2015, p. 132.
  16. ^ 浅見雅男 2015, pp. 134–136.
  17. ^ 浅見雅男 2015, pp. 146–147.
  18. ^ 浅見雅男 2015, pp. 138–145.
  19. ^ 浅見雅男 2015, p. 60.
  20. ^ 華族歴史大事典, p. 368.
  21. ^ 小林和幸 2013, pp. 75–76.
  22. ^ 小林和幸 2013, pp. 66.
  23. ^ 小林和幸 2013, pp. 67–78.
  24. ^ 小林和幸 2013, pp. 76.
  25. ^ 酒巻芳男『華族制度の研究』(霞会館)
  26. ^ 小田部雄次 2006, pp. 103–104.
  27. ^ 小田部雄次 2006, pp. 107–110.
  28. ^ 小田部雄次 2006, pp. 110–116.
  29. ^ 小田部雄次 2006, pp. 151–155.
  30. ^ 浅見雅男『華族誕生』
  31. ^ 内藤一成『貴族院』(同成社)
  32. ^ 小田部雄次 2006, p. 201.
  33. ^ 浅見雅男 2015, p. 308.
  34. ^ 浅見雅男 2015, p. 20.

参考文献[編集]

  • 浅見雅男『華族たちの近代』。 
  • 浅見雅男『華族誕生-名誉と体面の明治』講談社〈講談社学術文庫〉、2015年(原著1994年)。ISBN 978-4-06-292275-3 
  • 小田部雄次『華族-近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書〉、2006年。ISBN 978-4-12-101836-2{{ISBN2}}のパラメータエラー: 無効なISBNです。 
  • 小田部雄次『皇族-天皇家の近現代史』中央公論新社〈中公新書〉、2009年。ISBN 978-4-12-102011-6 
  • 歴史読本編集部 編『華族歴史大事典』新人物往来社〈別冊歴史読本〉、2007年。ISBN 978-4-404-03370-3 
  • 小林和幸第一三帝国議会貴族院諮詢の「華族令」改正問題について(小名康之教授・松尾精文教授退任記念号)」(pdf)『青山史学』第31巻、青山学院大学、2013年、63-78頁、NAID 120005433833 

主な関連書籍[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]