勧修寺婧子
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(勧修寺ただ子から転送)
勧修寺 婧子 | |
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続柄 | 光格天皇典侍、仁孝天皇生母 |
称号 | 東京極院 |
身位 | 典侍、従三位、准三宮・女院(追贈) |
出生 |
安永9年11月6日(1780年12月1日) |
死去 |
天保14年3月21日(1843年4月20日)(享年64) |
配偶者 | 光格天皇 |
子女 | 仁孝天皇、皇女(多祉宮)、皇女(娍宮) |
父親 | 勧修寺経逸あるいは池田仲庸 |
母親 | 池田数計子あるいは家女房 |
勧修寺 婧子(かじゅうじ ただこ、安永9年11月6日(1780年12月1日) - 天保14年3月21日(1843年4月20日))は、光格天皇の典侍で、仁孝天皇の生母。
生涯
[編集]幼名は操(みさお)、別名に冬子。号に、新典侍(しん てんじ)、宰相典侍(さいしょう てんじ)、権中納言典侍(ごんちゅうなごん てんじ)、三位局(さんみの つぼね)など。寛政4年10月24日(1792年)、光格天皇の後宮に入り、典侍となった。天保13年12月1日、従三位。
死後の天保15年2月13日、准三后・女院を追贈、院号は東京極院(ひがし きょうごく いん)。
来歴
[編集]- 安永9年(1780年)、権大納言勧修寺経逸の娘[1][2]として誕生。母は池田数計子(池田仲庸の娘)あるいは家女房[3][4][5]。
- 寛政4年(1792年)、典侍として御所にあがり光格天皇に仕える。
- 寛政12年(1800年)、皇子出生(のちの仁孝天皇)。
- 天保13年(1842年)、従三位に叙位。
- 天保14年(1843年)、薨去。墓所は泉涌寺別院の雲龍院(京都市東山区)。
- 弘化2年(1845年)、准三后・女院(東京極院)を追贈。
注釈
[編集]- ^ 一部の史料では経逸の養女(池田仲庸の娘)と記されている。
- ^ 『御系譜』などの史料に、婧子の母について「摂津守松平仲庸女」(池田仲庸の娘)と記されている。
- ^ 『光格天皇実録』巻八に、藤原婧子について「母ハ松平仲庸ノ女ナリ」と記されている。その出典として、「續三宮傳」(「母松平攝津守仲庸女」と記載)、「椒庭譜料」(「母、摂津守松平仲庸女」と記載)、「勸修寺系圖」(「母仲庸女」と記載)が挙げられている。
- ^ 東京大学史料編纂所所蔵『勧修寺家譜』36頁には「母家女房」と記されており、他の史料と異なる。ただし、元の家譜は1864年の禁門の変で失われており、これは明治8年に勧修寺顕允により差し出されたものである。
- ^ 『御系譜』などの史料に、婧子の母について「摂津守松平仲庸女」(池田仲庸の娘)と記されている。
関連項目
[編集]仁孝天皇の系譜 |
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参考文献
[編集]- 藤井讓治/監修・解説『天皇皇族実録 130 光格天皇実録』(ゆまに書房、2006.10)
- 東京大学史料編纂所所蔵『光格天皇実録 巻八』p.2472-2473
- 東京大学史料編纂所所蔵『勧修寺家譜』
- 芳賀登 他 監修 『日本女性人名辞典』 日本図書センター、1998年、p. 864