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滝脇宏光

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古市強哉から転送)
滝脇宏光

滝脇 宏光(瀧脇、たきわき ひろみつ、1888年明治21年〉12月13日[1] - 1964年昭和39年〉2月22日[1][2])は、大正から昭和期の鉄道官僚実業家政治家華族貴族院子爵議員。旧姓・古市[1]、旧名・強哉[3]

経歴

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帝国大学工科大学学長・古市公威の四男強哉として生まれ、子爵滝脇信鑰の養子となる[1][3]。養父の隠居に伴い、1923年(大正12年)4月30日、子爵を襲爵[1][3][4]。宏光と改名した[3]

第七高等学校造士館を経て[5]1915年(大正4年)東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業[2][3][1][5]。同年、鉄道院に入り経理局属となる[5]1916年(大正5年)11月、文官高等試験行政科試験に合格[5]。以後、鉄道院書記、同副参事兼同総裁秘書、鉄道省事務官兼同大臣秘書官、鉄道省参事官、内閣総理大臣秘書官などを歴任[2]。その他、鉄道会議幹事、電化調査委員会委員、鉄道育英会評議員などを務めた[2]

実業界では、川越瓦斯社長、伊香保ケーブル鉄道社長、親和企業取締役、親和鉱業取締役、東亜産業開発取締役、東洋資源開発取締役などを務めた[2][3]

1925年(大正14年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]1932年(昭和7年)7月9日まで在任[2]。1934年には妻が自殺し、さらに同年、債権者から破産申請の訴訟を起こされる[8]

1946年(昭和21年)6月28日、貴族院子爵議員補欠選挙で当選し[9][10]研究会に所属して活動し、1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで通算2期在任した[2]。研究会では日劇設立を企画し、金主として大川平八郎をかつぎあげた[11]

墓所は台東区蔵前西福寺

親族

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  • 実父:古市公威[12]
  • 養父:滝脇信鑰(1893年生) - 父の子爵滝脇信広を6歳で亡くし、襲爵したが、10歳で隠居させられ、宏光を養子とし家督を譲る。[12]
  • 先妻:久(ひさ、1896-1934) - 実業家・田口義三郎二女[1]東京女学館出身[12]。父の義三郎は一橋藩士の子で、東京高等商業学校卒業後、高田商会幹部を経て多くの関連会社の重役を務めた[13]。宏光との間に子を生したが、昭和9年(1934年)に宏光が宮内省に離婚願いを提出した数日後にカルモチンで服毒自殺した[8]
  • 後妻:あき(越石椎三郎五女)[1]
  • 養子:平人(南平次長男、孫、二女光の子)[1]
  • 二女:光(みつ、南平次の妻、離縁)[1]
  • 四女:ひろ子 - 高千穂交易社長・鍵谷武雄と結婚したがのち離婚[14]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『平成新修旧華族家系大成 下巻』31-32頁。
  2. ^ a b c d e f g 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』47頁。
  3. ^ a b c d e f 『人事興信録 第14版 下』タ174頁。
  4. ^ 『官報』第3223号、大正12年5月1日。
  5. ^ a b c d 『日本官僚制総合事典1868-2000』第2版、218頁。
  6. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、34頁。
  7. ^ 『官報』第3869号、大正14年7月16日。
  8. ^ a b 『明治・大正・昭和華族事件錄』千田稔、新潮社、2005、p296
  9. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、57頁。
  10. ^ 『官報』第5843号、昭和21年7月8日。
  11. ^ 『大川平八郎と私』池田新一、太平奨学会, 1983年, p163
  12. ^ a b c 滝脇宏光『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  13. ^ 田口義三郎『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
  14. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、p32

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。


日本の爵位
先代
滝脇信鑰
子爵
小島滝脇家第5代
1923年 - 1947年
次代
華族制度廃止