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吉田義人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉田 義人
生年月日 (1969-02-16) 1969年2月16日(55歳)
出身地 日本の旗 秋田県男鹿市
大学 明治大学
ラグビーユニオンでの経歴
ポジション ウィング
アマチュア経歴
チーム 出場 (得点)
1984-1987
1987-1991
秋田工業高校
明治大学
()
シニア経歴
チーム 出場 (得点)
1991-1999
2000
2001-2002
2003
伊勢丹
USコロミエ
三洋電機
福岡サニックスボムズ
()
代表
チーム 出場 (得点)
 日本 30
更新日:  2015年7月
7人制代表
チーム 大会
 日本
コーチ歴
チーム
2004-2008
2009-2013
2014-
横河武蔵野
明治大学
サムライセブン

吉田義人(よしだ よしひと、1969年2月16日 - )は、日本の元ラグビー選手、ラグビー指導者。

プロフィール

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経歴

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小学3年生からラグビーを始め、男鹿東中時代に東日本中学生大会優勝。秋田工業高校では1年時からレギュラーとなり(名門チームの歴史においては、野球部と掛け持ちしていた落合博満にもできなかった偉業)全国制覇。高校3年夏には高校日本代表としてニュージーランドに遠征。高校ニュージーランド代表とも対戦した。

早くから各大学のスカウトが目に留め、本人の将来が体育教師志望という事もあり日体大に進学が決まりかけていたが、明治大学のセレクター(明治大学ラグビー部選手選抜委員)が日体大側を拝み倒して明大進学が決まった[5]北島忠治監督は吉田を明治のラグビー練習場・八幡山グラウンドで一目見て「これは将来の日本を背負う逸材だ」と見抜いた。正式入学前の練習試合に明治の一員として早くも出場。

1987年明治大学に入学。明大ラグビー部では1年からレギュラーで活躍。伝説となった1987年の雪の早明戦に出場し、雪かき跡のぬかるんだ地面を駆け抜け、一時は同点となるトライを挙げている。

1988年には19歳で日本代表に選出され、オックスフォード大学戦で代表デビュー。

1989年の対スコットランドXV戦(秩父宮)では相手陣を一気に駆け抜ける圧巻のトライを挙げるなど歴史的勝利に貢献。

1990年明大4年時には主将となる。この年の早明戦では引分けで早大と共に両校優勝となる悲哀を味わった。その直後、しばらくは治療に専念する予定であったが第27回大学選手権1回戦で過去3年間で明大が2回負けている大阪体育大学と戦うことが決まったので出ないわけにはいかず、強行出場。準決勝では京都産業大学のフォワードに苦しんだが、後半に突き放して勝利、決勝で早稲田大と対戦。互いにマークが厳しくボールを持たせたい選手に回せない試合展開であったが、後半26分に逆転トライを決め、明大を2年ぶり8回目の大学日本一に導く。才能のあまり練習をなまけていたチームを目覚めさせ、学生最強集団へと復活させた。吉田が主将になってからは大きくて走れないフロントローにも妥協を許さずすべてのポジションの選手に同じ練習を課したという。一方で「4年生は神様」と言われていた明大を理不尽な上下関係のないチームに作り替えるなどの改革も行った[6]

1990年代の明治黄金時代は吉田の奮闘によるものが大きく、吉田を明治史上最高のキャプテンと評価する声が多い[7][8]

1991年伊勢丹に入社。同企業のラグビー部に入部[5]。同年イングランドで開催された第2回W杯に出場。ジンバブエ戦では2トライを挙げるなど日本代表のW杯初勝利に貢献した。

1992年ニュージーランドラグビー協会100周年記念試合でニュージーランド代表(オールブラックス)とテストマッチで対戦する世界選抜に選出。トライを挙げる。当時、日本代表はまだニュージーランド代表と正式なテストマッチで対戦したことがなかったため、ニュージーランド代表とテストマッチで対戦した史上初の日本人となる。

1996年イングランドラグビー協会125周年記念試合に出場。

2000年に伊勢丹を退社し[5]、フランスのUSコロミエに日本人プロラグビー選手として入団する[2][1]。欧州はすでに1995年からラグビーユニオンがプロ化に移行していたが[3]日本ラグビーフットボール協会が日本国内選手とプロ契約を始めるのは、翌2001年からだった[4]

2004年3月28日オール早明戦(秩父宮)で引退。

引退後、2004年から2008年まで横河武蔵野アトラスターズヘッドコーチ、ディレクターを務めた[1]

2009年4月に明治大学ラグビー部監督に就任、2013年まで務めた[1]

2014年、7人制専門クラブチーム「サムライセブン」を設立した[1]

私生活では、2008年7月にシンガー・ソング・ライター大西亜里と結婚。2009年4月には、第一子となる男児が誕生している。

プレースタイル

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俊足に加え多少のタックルなら振り切る足腰の強さ、ステップやスワーブの巧みさ、トライに対する執着心の強さから、日本史上屈指のトライゲッターとされる。また、果敢なタックルも随所で見せているが、あまりにも攻撃時のイメージが強いためもあって防御面の評価はそれほど聞かれていない状況である。 サイズ的には非常に小柄であるが、スピード、プレーのキレ、大事な場面でトライを取り切るインパクトから、日本が世界に誇るウイングとして語り継がれている。

年表

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メディア出演等

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脚注

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  1. ^ a b c d e f ヒストリー”. 吉田義人|オフィシャルサイト. 2023年4月2日閲覧。
  2. ^ a b 低迷する組織を常に「最強組織」へと導いてきた男の爽快マネジメント | CEO社長情報”. www.ceo-vnetj.com. 2023年4月2日閲覧。
  3. ^ a b worldrugby.org. “Inside the meeting that took rugby professional | ワールドラグビー”. www.world.rugby. 2023年4月2日閲覧。
  4. ^ a b 年代史 平成12年(2000)度”. JRFU. 2023年4月2日閲覧。
  5. ^ a b c 伊勢丹をやめたら負け犬になる──元日本代表・吉田義人が天国と地獄のラグビー人生を語る(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)”. Yahoo!ニュース. 2023年8月27日閲覧。
  6. ^ ベースボールマガジン社『ラグビー 戦後70年史』p132-133
  7. ^ 聞く耳は持たず、ただ引っ張るのみ…吉田義人が「明治史上最高の主将」になるまで【同期“幻のキャプテン”の告白】(藤島大)”. Number Web - ナンバー. 2023年4月2日閲覧。
  8. ^ 「練習通りにやれ」-吉田義人”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2012年12月14日). 2023年4月2日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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