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島津忠親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
島津 忠親
時代 戦国時代
生誕 永正9年(1512年
死没 元亀2年6月12日1571年7月4日
改名 北郷忠親→島津忠親→泰心斎(法号)
別名 次郎左衛門(通称)、尾張守、豊後守
戒名 天香寺殿齢岡永寿居士
墓所 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地
氏族 北郷氏→島津豊州家
父母 父:北郷忠相、母:島津忠廉の娘
養父:島津忠広
兄弟 忠親、女(伊東祐充室)、忠孝、女、久厦
正室:禰寝尊重の娘
北郷時久、久通、島津朝久
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島津 忠親(しまづ ただちか)は、戦国時代日向薩摩武将北郷氏9代当主、豊州家5代当主。

生涯

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永正9年(1512年)、日向都城の領主・北郷忠相の長男として誕生。

天文15年(1546年)、豊州家島津忠広の養子・島津賀久が夭逝したことから、忠親は北郷氏を長男・北郷時久に継がせ、自らは養子として豊州家に入った。同18年(1549年)、養父の隠居により家督を継ぐ。

豊州家は代々日向伊東氏の侵攻に悩まされており、忠親も度々攻勢をしのいできた。しかし次第に伊東氏の圧力は増大。永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主・島津貴久の次男で、猛将の誉れ高い義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。同5年(1562年)、貴久の命で義弘が飫肥城を去ると伊東義祐が飫肥城を攻撃。忠親は義祐と和解し一旦は城を明け渡すが、数ヵ月後には夜襲をかけ城を奪還した。しかし永禄11年(1568年)、義祐は2万の大軍をもって再び侵攻し、途中島津宗家の援軍を撃退しつつ飫肥城を包囲した。島津宗家は飫肥を放棄することを決定し、兵糧攻めにあっていた忠親は城を脱出、飫肥城は陥落した。

飫肥城落城後、庄内(都城)に移り、元亀2年(1571年)に同地で病死した。享年68。

参考文献

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